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<title>Ｐのブログ</title>
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<title>反省のきっかけ～身口意とかそれらしく書いてみる</title>
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<![CDATA[ 憎しみによって批判しすぎれば、それだけ、失敗が怖くなり試行錯誤が怖くなり、努力が怖くなります。<br>批判が妥当かどうかという、善悪に関係なくそれは起こります。<br>反面教師に出来れば、恐怖はつのらないかもしれませんが、慢心の危険は高まるかも知れない。<br><br>ある一定の域までは善悪に関係なく、<br>「自らの常々考えている事」が現実化する。<br>それが心の力のキモなんだと思います。<br>憎しみによって批判しない事は、自らの成功の為でもあるのではないでしょうか。<br><br><br>本当に失敗するまで、追い込まれるまで、他人を害さない限り、周囲を気にせず何でもやってみれば良かった。<br>不満があるなら、現実の場でそれを相手にぶつけてみれば良かった。<br>それを出来ないのが、足る事を知る事や忍耐を美徳とする、宗教的性格の人間なのかも知れないですが…。<br>本当は、他人の評価に囚われていて、表面的な対立が怖かったのかも？それは、本当の足る事でも忍耐でも無いのは確かですね。<br><br>極端無くして中道無し。<br>ですが、極端かも知れない自分をさらす相手はすり替えられた相手でなく、自分を認めなかった親や自分を傷つけた本人、が望ましいはずだと思います。<br><br>生き方が違うので一緒にはやれないが、あの生き方も有りかも知れない、<br>と思わせるまで自分を貫いた事もなく、<br>他人に関係なく、自分が建設的だと信じる事を貫く人を評価した事も、また無かった様に思います。<br><br><br><br>私は、理性的というか知識的にしか反省しようとしてこなかったので、結局<br><br>「理想を描けない人の反省は、自己卑下になる」<br>というワナにはまり、<br>心を変えようと焦っても、行動さえ変えられないまま、<br>いつしか、後悔の念も忘れて同じ失敗を繰り返し、<br>気が付いた時には慢心そのものになっている自分に、<br>愕然としたりあきらめたりという事を<br>やはり繰り返してきたようです。<br><br><br>まず宗教的な知識が、反省には絶対必用なのですが、<br>次に、代案･返し技としての理想を腑に落とすには、まずはそれを具体的に言葉にして、何度も紙に書いたり見返したり、<br>自分に言い聞かせる事が、必用だったのでしょう。<br><br><br>最近、引き寄せの法則などでも、<br>失敗しないようにする、愚かでなくなる、という目標設定は本質的でない。<br>潜在意識になんら具体的な目的を与えないのみでなく、失敗を引き寄せさえする。<br>成功するように、賢くなるように目標設定するのが本質的だ、と言われてはいますね。<br><br>反省とは悩む事、自分をいじめることと理解しているのは、<br>因果律を体感していないか、苦しめば悟れると思っている一種の貪欲か、苦しまなければ自分が許せないという自我力、だったのかも知れません。<br><br><br>人間が神の子であるとするなら<br>「あれしちゃ駄目これしちゃ駄目」<br>「ここで無責任だった」<br>「あそこで人を傷付けた」<br>「傷付けた相手を許せない。自分は絶対悪くない」<br>だけでは、本質的な力は湧いてこない。<br>その上、失敗とは逆の行動や逆の思い、神の子として振る舞う勇気も湧かないならば、<br>自分が神の子だと信じられるまで、<br>自分を説得しましょうか。<br><br>その自分の説得の仕方には、宗教的(少なくとも心理学的)な知識はどうしても必用ですよね。アドラーとか。<br><br>客観的にどの様な思いと行動が間違っており、逆の思いと行動とは何なのか？<br>何が真に理想的なのか？<br><br>そして<br>愛が無いと思って、それが湧いてこないなら責任ある者になろう、感謝出来る者になろう、という、<br>自分を段階的に説得出来る知識は、どうしても必用でしょう。<br><br>(霊的で無い？タイプ、原理主義的？なタイプが、心をｺﾝﾄﾛｰﾙする理想を持ち続けられないのは、<br>適度な距離、鼻先に人参をぶら下げる距離に、具体的理想を設定出来ないから、<br>というのがひとつの理由だろうと思いました)<br><br><br>その次に<br>心を変えたければ(変えられないならば)<br>行動を変えよう。<br>行動を変えたければ(変えられないならば)、<br>自他に語りかける、言葉を変えよう。<br>という事でしょうか？<br><br>心が変えられないと言っては、反省に挫折し<br>行動を変えられないと言っては、また挫折し<br>しかし、常々、自分の意識にインプットする言葉には、無自覚だったんですね。<br>(流行りの言い方をするならば、ﾏｲﾝﾄﾞｾｯﾄの技術という事でしょうか)<br><br>やや自分の心境と解離があっても、定型化した祈りの言葉は長期的には効果がありますね。やはり暗記しておくべきなんでしょう。<br>漢訳のお経であれば、意味を理解していればこそﾏｲﾝﾄﾞｾｯﾄの効果がある、ということになりますね。<br><br>悲観的･性悪的･破壊的なことを考えてしまったら「ﾅﾝﾁｬｯﾃ」とつぶやくと良いとか、<br>「どうせ/所詮」などの言葉が出たら<br>「ﾜﾀｼﾊｱｲｻﾚﾃﾙｼ」「ｱｲﾂﾓｱｲｻﾚﾃﾙｼ」「ｼﾞﾌﾞﾝﾊﾂｲﾃﾙｼ」など、<br>心と言葉の解離を埋めつつ、楽観的･性善的･建設的な方向に導くことを、勧めている方もおられますね。<br><br><br>なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのか？と不思議な気持ちにもなりますが。<br>結局、自分の境涯がどの程度のものか分かるまで(正見？)<br>そんな単純な事にすら、本気で取り組めなかったのでしょう。(正信？)<br><br>本気で、<br>理想を描こうとしなかったから、反省出来ないんだろうというのが<br>今のところの結論ですね。<br><br><br>「自己犠牲的でもなく他人も害さない、しかも自らの可能性も限定しない、そんな理想を描かなければ」<br>などと、目標を吟味する事だけで疲れてしまうのは、<br>因果律や心の力を体感する為の、肩の力を抜いた試行錯誤 自体を、難しいものと感じさせる部分もありますね。<br><br>もし自分が無力感や恐怖心、罪の意識や恨み心にさいなまれ、溺れていると自覚したなら、<br>多少、お気楽だったり自分に都合よかったり、無責任だったりお花畑だったり、即物的だったり上っすべりだったり、したとしても<br>「自分や他人、世界を良いものと信じられる」ような<br>ﾏｲﾝﾄﾞｾｯﾄによって、早急に浮かび上がる事も必用なんでしょう。<br>(短期的には躁鬱にもなりそうですが)<br><br>別に、お題目を唱えれば救われると言いたいのではなく、<br>反省が、善意の第三者･神仏の如き良心による、失敗の分析(とその対策)であるとするなら、<br>恐怖心と渇愛(その派生である無力感･罪の意識･恨み心、貪嗔癡慢疑)<br>に囚われていたら、反省は無理でしょう。<br><br>恐怖と渇愛が、生物としては当たり前の反応だと受け入れ、それは戦うべき相手でなく、生命力･生かしめる力の別名だと、感謝出来れば良いのかも知れません。<br>そうなれば、善意の第三者召還の準備ＯＫ(笑)ということなのかも。<br>それが、認知の歪みの快復につながる様に思われます。<br><br><br>さっき急に思い出しましたが、自分に必用な考え方を必死で書籍から書き抜き、何ヵ月も練ってシンプルな言葉に纏め、<br>かなり網羅的に仕上げたメモを、親父に捨てられたことがｗｗ<br>ある種の人にとって、心理掘り下げた文が気味悪いというｗｗ<br>親不孝の代償けっこう払ってるなｗｗ<br>だからこそ、それが大切だったんだろ俺バカｗｗ<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>自らを振り返ってみるに<br>自分に対しても<br>他人に対しても<br>口にせずとも<br>いつまでも、批判ばかりしていて代案を示していませんでした。<br>代案を自ら体現すれば<br>それは、無言での批判となる。近親憎悪からも嫉妬心からも自由になる。<br>それで、先ずは充分なのでしょう。<br><br><br>自他に反省を促す積もりなら<br>いつまでも、地獄に落ちるなどと繰り返すのは無意味なんでしょう。<br><br>それは、自己卑下に落ちてしまう方を段階的に導くことが出来ず、<br>「あなたが悪いのだから反省しなさい」とのたまって<br>「これだから宗教は」<br>と反発されるのと、同種の態度 行動なのだと思います。<br><br>お勧めブログ<br><a href="http://ameblo.jp/angely/">逆境を突破させる詩集</a><br>http://m.ameba.jp/m/blogTop.do?unm=angely&amp;guid=ON
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<link>https://ameblo.jp/112153627/entry-11988775741.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Feb 2015 04:59:19 +0900</pubDate>
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<title>観察者効果と不可知論</title>
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<![CDATA[ 極微の世界では、観察する(光をあてる)こと自体が、外乱となり対象に影響を与える。これを観察者効果と言います。<br><br>それに伴って、量子力学において電子を観察する際、観察者が期待した場所に電子が現れる現象など、<br>観察者や実験者の意図が結果を左右する現象全般を、観察者効果と呼ぶ場合もあります。<br>量子力学の世界は、限りなくオカルトに近づいていますね。<br>http://www.youtube.com/watch?v=pIWuNNF1VZo&amp;sns=em<br><br><br>原子上の電子に限って言えば、波として原子軌道上全てに存在する位置もｴﾈﾙｷﾞｰも不確定なモノが、観察(光をぶつける)により収束して、粒子として位置または速度が確定する、ということらしいです。<br><br>量子の不確定性とは、おそらく、波として一定の範囲全てに存在するという意味ですね。<br>どこに存在しているかは確率的にしか表せない、とは<br>「観察者の意図」という偶然によって、粒子として収束する位置が決定される、ということだと理解してます。<br>電子も光も、波であり粒子でもあり、波調が異なるだけの同質な存在であることは、驚異的な事実ですね！<br>物質は波と、その収束した姿である粒子で成り立っている。のかも知れない(笑)<br><br>原子核も、γ線を当てて崩壊させれば、陽子や中性子となって消えます。陽子や中性子の正体は不明ですが、波の収束した姿である可能性は、高いように思います。<br>そもそも、何が振動して波となっているのか？それ自体も謎なんですが。エーテルでしょうか？(笑)<br><br><br>さてもし今回の検証に、オカルト的な意味の観察者効果が関わっているなら<br><br>それは、真理を探究する立場からｷﾘｽﾄ教のドグマを否定するように、<br>同じ立場から、唯物論のドグマを否定することが必用、ということになるかも知れません…。<br><br>「自然現象に意図が働いているか(神はいるか)という問題は、現代科学の範囲外であるから、宗教など摩訶不思議な事からは距離を置く」<br>という立場が、不可知論の出発点であったはずなのに、<br>科学万能に酔いしれた為か、さらに踏み込んで(スリかわって)<br><br>「自然現象に意図など存在しない(神などいない)」<br>「意図によって結果が変わる現象は、科学的と認められず真理ではない」<br>という所まで来てしまいました。<br><br>もしかすると、これを否定する必用に迫られているのかも知れない。<br>あるいは、生命の成り立ちに関わる秘密に、斬り込むことになるのか…。<br><br><br>オカルト的な観察者効果は、批判的追試での再現性を邪魔しますので、<br>それが関わっているとすれば、残念ながらあと10､20年は、詐欺師呼ばわりされることになるかも知れないです。<br><br>単純な、手技や手順の問題であることを本当に祈りたいと思います。ですが、使命があるのならば、応援するしかないですね。
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<link>https://ameblo.jp/112153627/entry-11967306896.html</link>
<pubDate>Sun, 21 Dec 2014 17:50:32 +0900</pubDate>
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<title>差別即平等 平等即差別～唯物論への反論</title>
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<![CDATA[ 本当の事は、逆説的だ。<br>みんな平等にしようと、学力の低い方に合わせたゆとり教育に取り組んだら、塾に行かせてもらえる子供とそうでない子供との格差が出来て、以前より不平等になってしまった。<br><br>人間は産まれながらに平等でなきゃおかしいと、仕事能力の低い方に合わせた社会を作ったら、<br>革命に関わったとか共産党にｺﾈがあるとか巧く取り入ったとかで、正当な競争の機会を与えられないまま、新たな特権階級と平民が生まれてしまった国もある。<br><br>数学者の藤原某さんが、一昔前ﾍﾞｽﾄｾﾗｰになった著書の中で<br>「結果平等でなく機会の平等が大切、とか言ってる人がいるが噴飯ものである。東大合格者の父兄の過半数？(←失念)は東大出身者である」<br>といった主旨の事を述べておられた。<br>育つ環境と遺伝こそが、子供にとって決定的に重要なのだ、生まれた時点で既に機会の平等(ｽﾀｰﾄの平等)は失われていると。<br>(藤原氏はどちらかと言えば保守派で、階級社会を批判する気は<span style="line-height: 1.5;">無いようだ。上記著書の内容は、人間は不平等なのは当たり前だと述べているだけの様だが)</span><div><div><br>この様な考え方は<br>｢親も環境も選ぶ事の出来ないまま、偶然この世に投げ出された人間｣という、哲学なら実存主義的な前提に基づいている。<br>実存主義者にとって、<br>みな全く一律の環境を与えれば(それは本当は不可能だけれど)平等なのだろうか？<br>国民服･国民住宅･国営企業での仕事･思想統制され画一化した教育と情報？<br><br>実存主義、もっとはっきり言えば唯物論･無神論的な平等は、<br>ﾏﾙｸｽ主義社会の理想からも明らかな様に、没個性の平等を意味しており、それは却って不平等をもたらすという逆説を孕んでいる様に思われる。<br><br>人間は生まれながらにある意味で不平等である(故に個性的でもある)<br>という事実を、もう一度 日本人は受け入れるべきではないだろうか。大戦前はそうであった様に。<br><br>その上で<br>どこまで機会の平等は与えられるべきなのか？どこからが正当な競争なのか？<br>という問題に<br>政治に関わる人々を筆頭として、我々は直面している様に思える。<br><br><br>やや長くなるが、唯物論者の言う平等の根拠について考えてみよう。<br><br>そもそも<br>「平等は善であり、差別は悪である」<br>ということが、何故 自明のこととして人間に受け入れられているのだろうか？<br>この世の目に見える全ての現象で、平等が善である根拠は、簡単には思い浮かばないように思う。<br>我々が平等を尊く感じるのは、ただ良心においてのみではないだろうか？<br><br>ﾏﾙｸｽは、自らの唯物史観を補強し得る学説として、進化論を高く評価した。唯物論者は、その影響を直接間接に受けている。<br>彼らは<br>「生存競争の世界に平等は存在しないからこそ、人間は良心によって、平等な社会を実現しなければならない」<br>と言うかも知れない。<br><br>しかし進化論の論理(主にリチャードドーキンスの論理)から言えば、<br>哺乳類は、小さく弱かったから群れをつくり協力し<br>「愛や思いやり」と解釈されるような脳内の反応を、司る遺伝子を持つ個体が生き残ることで<br>社会性という「良心」を身につけたことになる。<br><br>また、社会性が弱く群れない種であっても共食いが滅多に起きないのは、<br>飽くまで、種の保存を優先する個体の子孫が生き残ったからである。<br><br>そこには、同種間の平等すら自明である根拠など存在しない。<br>ただ偶然に生じた生存競争の厳しさ(捕食者と競争者)<br>という外部環境があるだけである。<br><br>その「良心」になんら倫理的根拠はなく必然性もない。<br>なぜなら社会性という能力は、それ以外の外敵を避け競争に勝ち抜く能力<br>(例えば、昆虫や爬虫類の様に毒を体内に持つ。逆に毒のある物を食料に出来るなど)<br>を身につけた個体が偶然出現するか、<br>外部環境が変化して捕食者や競争者が減少･絶滅してしまえば、必用がなくなる程度の能力だからである。<br><br>社会性がどれ程 複雑な脳内の自律的働きに見えようとも、生存競争というｼｽﾃﾑにおいては<br>(原始哺乳類が持っていなかった)巨大な体や速い足、固い皮膚などと代替の効く程度の意味しか持たない。<br><br>それが後に、人間にとって最も重要な能力の一つになろうとも、飽くまで結果論に過ぎない。<br>繰り返すが、前提となる生存競争と食物連鎖すら偶然生じた物である。<br><br>唯物論者のいう「良心」とは、偶然の積み重ねで出来上がった、代替の効く道具の域を本来は出ない。<br>つまり極端な環境の変化が起これば、<br>種の保存に役立つ限り「愛や思いやり」に反する行動も(なん世代か要するにせよ)機械的に善と認識する。<br>その様に他律的で、価値が転倒することに迷う余地の無い「良心」<br>一貫性や必然性の無い「良心」を産み出すのが「生存競争ｼｽﾃﾑ」である。<br><br>より端的に言えば<br>善悪を問題にしない生存競争ｼｽﾃﾑと、そのﾌﾟﾛｸﾞﾗﾑ(遺伝子)の命令で、<br>我々は善悪を判断している積もりになっているだけ、ということだろう。<br>仮に良心を理性と言い換えても同じことである。<br><br><br>そんな物に基づいて、平等を至上の価値と主張する思想は、本当に理性的･良心的だと言えるだろうか？<br><br><br>唯物論者は「偶然生じた生命の尊厳」とか<br>「偶然生じた複雑高度な生命」という、根本的に矛盾を抱えた科学的思考をするので、<br>「進化は"進歩"ではなく単に多様性が広がるさまに過ぎない。自然に高低の概念などなく、地球にとって単細胞生物も人間も同じ程度の価値だ」<br>と言ったり、<br>「人間の生命は何にも増して重要だ」と主張したりして<br>人間の価値を上げたり下げたりする。<br><br><br>『唯物論者のいう良心は、偶然の積み重ねで出来上がった、代替の効く道具の域を"本来は"出ない』と述べたが、<br>「本来は」と断ったのは<br>唯物論者は、脳内の信号による機械的な反応とは信じられないような、良心(理性)の働きを自らも感じた時に、<br>科学者から突然 詩人に変貌し、文学的表現さえ用いて<br>偶然生じた"にも関わらず"道具以上の物の様に、自律的に高度な判断をする「良心(理性)の神秘」を賛美するからである。<br>我思う、故に我在りとはこの事だと言わんばかりにである。<br><br>この拙文の冒頭で、本当のことは逆説的だと述べたが<br>「逆説的なことを言えば、それは本当のことだ」と言えないのは当たり前ではないか。<br>神仏を信じる者が<br>「唯物論は道徳心を低下させる」と主張する意味が日本人に理解されないのは、この様に矛盾した理論に原因がある。<br><br>平和ぼけした日本人は<br>「偶然生じたにも関わらず、奇跡のように複雑高度な生命の尊厳。それを感じ得る良心」<br>を(NHKなどが)賛美するが、<br>旧ソ連や中国･北朝鮮では<br>「奇跡のような生命も、たかが偶然生じた有機機械」<br>と見なし、思想統制に引っ掛かかった反革分子を、壊れた機械として容赦なく粛清してきたのではなかったか。<br>生命は偶然生じたという前提に立つなら、役に立たないなら廃棄して良いという思考の方が、矛盾が無いはずである。</div><div><br><div>日本人の美点を美点として擁護するならば、日本人には、世間体を気にし、親子の情を他人にも投影する事ができる優れた性質がある。</div><div>憎む相手にも親があり子があると憎しみを和らげる事も、他人に後ろ指さされる様な、親や子を悲しませるような事はしたくないと非道を思い留まる事も出来る。</div><div><span style="line-height: 1.5;">しかし、理詰めでいけばその様な肉親や同種への情は、弱い哺乳類に社会性をもたらす事で単に生存競争で生き残る武器となっただけであり、そこに倫理的裏付けはなんら存在しないという事。</span></div><div>その様な思考を可能にする、唯物論無神論(進化論)の危険性に、優しい日本人は無頓着だ。</div><div><span style="line-height: 1.5;"><br></span></div><div><span style="line-height: 1.5;"><br></span></div><div><span style="line-height: 1.5;">生存競争を</span><br></div>『善悪の問題ではなく有りのままに観察する限り』(これが科学的態度とされる)<br>恐竜の様に巨大な体や固い皮膚などを持ち、物理的な強者として生存競争を勝ち抜くことは、<br>道具としての良心(理性)によって勝ち抜くことと、同等の価値を持つはずである。<br>厳密には、価値判断すること自体が本来 科学的では無いので、同等の現象に過ぎないはずである。<br><br>欧米人はそれを直観したからこそ、社会ﾀﾞｰｳｨﾆｽﾞﾑによって有色人社会を植民地化し、搾取したのではなかったか。<br>それが、生物学としての進化論を正しく理解していなかった結果だとしても、<br>思想としての進化論は<br>「造られたものとしての尊厳の否定」であることを、正しく読み取った結果であろう。<br><br>「偶然生じた有機機械は全て平等である」という思想と、<br>「弱肉強食は自然が認めた法則であり、人間社会にも適用される」という思想は、共に<br>造られたものとしての尊厳の否定である。極論として対立する立場でありながら、両者は表裏一体の同根なのではないか。<br><br>両者はおそらく、<br>全ての造られたものを肯定しながら、階層性を認める様な認識により統合し得る様に思われる。<br>例えば、ｽﾋﾟﾘﾁｭｱﾘｽﾞﾑの提示する<br>「鉱物すら含めた被造物たちの階層性は、段階的に創造主に近付いていく道程である」といった認識によって。<br><br><br>更に付け加えると、進化論を批判ばかりしてきたが、<br>ローマ教皇みずから認めたように、(生物学としての)進化論は神の教えと矛盾しない。<br>系統樹などの状況証拠が、いかに整然と進化の連なりを表していようと、それは生物が「自力のみで」進化し続けてきたことの証拠には、必ずしもならない。<br>「神は生物を進化するよう造った」<br>というのは詭弁でも何でもなく、状況証拠に過ぎない化石群から当然考えうる仮説の一つである。<br><br>世界は何故出来たのか？は棚上げし、どの様に出来たのか？にのみ集中するのが現代科学。<br>しかし、過程を説明出来たからと言って、宇宙と生命は理由無く偶然生まれたことを、証明したことにはならない。<br><br>進化はやはり"進歩"であり、我々が理性で感じる様に単細胞生物より人間は明らかに高度である。<br>時系列上で隣あった種の間に、明確な隔たりがあるのは、逐次 小さな創造が行われた証拠であるのかも知れない。<br>あるいは、系統樹の様に階層性を示す証拠は、宇宙の意思が自らに似せた者を生み出す準備を、計画的に実行した過程とさえ言えるかも知れない。<br><br>この様に考えることは<br>聖書など、多くの宗教に見られる創造論と矛盾しない。<br>(数日で行われたかどうかなど、象徴としての表現にこだわらない限り。<br>創世記一章と二章、創造の順番の食い違いについて。<br>二章のエデンを天国の話しだと解釈すれば、魂は天国にて人間から順に下降して造られ、<br>肉体は地上にて単細胞生物の様な動物から順に「進化的に」造られた、ということかも知れない)<br><br>未だに、原人とクロマニヨンとの中間種の化石(いわゆるﾐｯｼﾝｸﾞﾘﾝｸ)<br>は発見されておらず、その連なりは絶たれたままであるが、<br>無いことを証明するのは不可能に近いため、<br>唯物論者は、地球上のあらゆる地域のあらゆる地層を掘り返したとしても、<br>中間種は存在しないことを認めないかも知れない。<br><br><br><br>遠回りしたが格差の話しである。<br><br>現代では下らない思想に思う人が多いのかも知れないが、あえて言いたい。<br>｢人間は、自分の心根(こころね)や特質に最適な親や環境を選んで生まれてきたのだ｣<br>と考えた方が、環境の問題のみでなく能力や性格、見かけの問題も｢理性的に｣解決がつく。<br>そこから何を学びとるか試されていると解釈した方が理性的だと、私は信じて疑わない。<br><br>格差の全否定は個性･多様性の全否定である。<br>格差を肯定する人を<br>「差別主義者」と罵る人、スタート位置が不平等なレースはやる気が出ないとぼやく人は、<br>生まれ育った環境だけで人生が決まると思い込んでいるのかも知れないし、<br>他人が羨ましくて、肉親や縁ある方々が育んでくれた個性など、下らない物だと信じている人も多いように思われる。<br><br>単純に「特別なｵﾝﾘｰﾜﾝなのだから胸を張れ」と言いたい分けではない。<br>仮に人生というﾚｰｽにおいて、前進した距離を計れるのだとしよう。<br>ｽﾀｰﾄ地点は異なるが、同じく１００ｷﾛﾍﾌﾞﾝ(仮想の単位)走った人が2人いたとしたら、2人の人生の評価は少なくとも同等であろう。<br>むしろ後ろからｽﾀｰﾄした人のほうが(ハンデ戦であったので)評価は高い場合もあるかも知れない。<br><br>仮に少しの努力で一流企業の部長になれる様な、頭脳と体力と人間関係と運に恵まれた人がいたとして<br>(そんな超人が存在するとも思えないが)<br>そんな人が人生で進んだ距離は、端目からは想像もつかないほど「短距離」である場合もあるのではないか？<br>それで本当に幸せなのか？という疑問は、あって当然ではないだろうか。<br><br>我々が生まれてくる肉体も含めたあらゆる環境は、個性を生かすと言う普遍的な目的をもって、<br>実は非常に平等に与えられているのではないだろうか？<br><br>蛇足ではあるが、<br>その「神仏から見た個性」あるいは<br>「あの世から見た個性」としか表現しようの無いものは、<br>(仏性あるいは、似せて造られた痕跡と呼んでも良いかも知れない)<br>ゆとり教育が目指した表面的で甘い「個性重視」とはかけ離れて、<br>苦い経験と努力、現代人が先入観でしか見られなくなって久しい「信仰」を経てつかみ獲る物だろうことも、付け加えておきたい。<br><br><br><br><br><br><br>しかし、書き終えて読み返すと、言い切り型の文章はなかなか疲れますね。<br><br>お奨めブログ<br>http://ameblo.jp/oramorre</div></div>
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<pubDate>Mon, 17 Nov 2014 19:51:04 +0900</pubDate>
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<title>バブルとマルクスどちらが良いですか？</title>
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<![CDATA[ ドラマ「ブラックプレジデント」を見た感想から。<br><br>シナリオを書いた方が言いたいのは<br>「金持ちは、必ず何か悪い事をしているに違いない。でなければ金持ちになれるはずない」<br>というマルクス主義的な思い込みへの、疑問･反論なのでしょう。<br><br>社長自らがしている(してきた)のと同程度の努力を、社員に要求すると「ブラック社長」と言われてしまうという現実はあるかも知れない。<br>それは、エジソンの企業人としての評価にも当てはまります。<br><br><br>さて、だいぶ古い本になりましたが<br>｢７つの習慣｣のヒット以来、Win-Winて当たり前に聞くようになりました。何がWin-Winかは難しいけど…。<br><br>社会･共産主義(マルクス主義)は<br>Win‐Winを目指しているようでいて、結局<br>Lose-Loseにしかならないんだと思います。<br><br>ソ連は崩壊し、中国でさえ市場経済を導入せざるを得なかったワケですから、統制経済が成功しない事は明らかになっているのですが、<br>それでも中国は折衷案的な経済政策のまま、飢えた民衆を食わす為にか？他国の資源を求めて侵略に及ぶ始末。<br><br>翻って日本においても、<br>福祉を充実させつつ、景気も回復させる？という<br>いかにもWin-Win的発想に見える政策(しかし、中国が失敗例である折衷案)を民主も自民でさえも目指している様です。<br>ですが、真逆の政策には順序があるはずですね。中途半端な事しても結局、デフレで格差が激しくなってます。<br><br>マルクス主義組織の代表、日教組が喜んで受け入れたゆとり教育も、塾に行けるかどうかは親の収入次第という、新たな格差を生みました。<br><br>世界･社会に求められる製品･ｻｰﾋﾞｽを提供する、大学に入る。という出口は決まっています。<br>一面であっても、優れた面のある人を引きずり降ろし、<br>清貧"だけ"仲良し横並び"だけ"を重んじ、みんな仕事や勉強をしすぎず、貧乏で学力が低い状態を望むなら、苦しむのは我々です。出口は決まっているのですから。<br><br>世界には切磋琢磨する仕組みが明らかに働いていて、それは現実的にも宗教的にも正しい面があるんじゃないでしょうか？<br>人間には、調和だけでなく進歩も同じ様に必用でしょう。<br><br>バブルは不道徳な資本家のエゴが生み出した、幻影だった？<br>そういう面もあるかも知れませんが、収入的に下層に属していた人々も(自分もです)<br>｢絶対的には｣豊かだったのでは？金持ちに嫉妬さえしなければ、今より幸福だったはずです。経済的には楽だったはずです。<br>バブル期の方が、実は競争は緩やかなのでは？<br><br>バブルはWin-Loseの典型であり、パイの取り合いに破れる人々が可愛そう？<br>むしろ、デフレの今の方がパイの取り合いは激しいはずですね。<br><br>学校なら定員があるのが厳しいとこですが、経済のパイに定員は無いです。<br>一個人であっても、ｱｲﾃﾞｨｱ次第で際限なくパイを大きく出来ます。(あまり大きな事は言えませんが、理屈ではそうです)<br><br>バブル期はパイが大きくて(仕事が沢山あって)その恩恵に日本中が浴していたではないですか？<br>単純な優勝劣敗、限られたパイの取り合いという原理より上位に、<br>パイを大きく出来る(需要を発見し、仕事を創れる)人は豊かになるという原理があるはずです。<br><br>どんな需要に応えてパイを創造するべきか？<br>というのは正に宗教や倫理の領域であり、欲の発展段階を唱えたﾏｽﾞﾛｰとやらを持ち出す事も出来ますが…。<br>内容はさておき、より幸せを感じたい、進歩したいという｢欲｣を全否定しては、仕事が無くなる事ははっきりしています。<br><br>今、パイはどんどん小さくなってしまって最小になり、本当に実力のある人と無い人の差が明確化してますね。<br>それはバブルを叩いた日銀やマスコミの社会主義者達、そして社民党、民主党が図らずも望んでしまった事です。<br>資本主義は必ず崩壊するというマルクスの予言を、信者自らが成就させた面があるのではないでしょうか？<br><br>自民もこの低迷期に消費税率上げるくらいですから、基本的に社会主義化してると言えるでしょう。<br>マルクスの呪縛は今も続いてます。<br><br>何がWin-Win？<br>庶民は金持ちや地位のある人に、嫉妬しない事。責任を負っている人として敬意を示す事。<br><br>金や地位のある人は、<br>他人の金を無責任に再分配する役人に、仕方なく税金を納め任せておくのでなく<br>「マネーの虎」(死語？)として、その立場に本来付随しているはずの、社会への奉仕という義務を自ら果たす事。<br>ﾉｰﾌﾞﾚｽｵﾌﾞﾘｰｼﾞｭでしょ？<br><br>勿論、社会主義的な累進課税を廃止することが前提になります。<br>自助の精神のある資本家が、自助努力する人を助けるのが、国が豊かになっていく社会奉仕の姿でしょう。<br><br><br>バブルは本来バブルではない。<br>土地バブルは、供給が追い付けば起きなかったのではないでしょうか？<br>建築規準法も、バブルをバブルにしてしまった原因の一つでしょう。<br>日本は、小さな島国にもかかわらずＧＤＰ世界３位<br>(ﾊﾞﾌﾞﾙ崩壊以前は２位)を誇る経済大国です。<br>そんな特異な国の首都としては、東京の建物は低すぎるのではないでしょうか。<br><br>http://www.google.co.jp/gwt/x?gl=JP&amp;hl=ja-JP&amp;u=http://iwj.co.jp/wj/open/archives/124285&amp;source=s&amp;q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%AB%E3%81%AF%E9%AB%98%E5%B1%A4%E3%83%93%E3%83%AB%E3%81%8C%E5%B0%91%E3%81%AA%E3%81%84&amp;sa=X&amp;ei=fluTU_3qNoPf8AWZqYLgBQ&amp;ved=0CEwQFjAL<br><br>桝添さん、国家予算の複数年度制への移行や、東京全体の建物の高層化の提言、パクリですがまぁ実行してくれれば良いです。頑張れ。<br><br>お奨めブログ<br>http://ameblo.jp/oramorre
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<pubDate>Sun, 08 Jun 2014 04:15:42 +0900</pubDate>
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<title>仏教は唯物論ではない</title>
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<![CDATA[ 釈迦在世時の既成宗教にも当然、<br>二元論(精神と肉体を別のものとする考え)<br>はあった。<br>そして、肉体の欲を全否定する苦行により、魂は解脱出来ると考えられていた。<br><br>哲学的悩みから、既成宗教に通じていたであろう釈迦が<br>(現に、バラモン教に飽き足らず当時の新興宗教の門を叩いている)<br>苦行を行ったという事は、<br>釈迦は二元論者だった(魂を信じていた)という事である。<br><br>釈尊は<br>「無常なる物は苦である」と言いながら、<br>楽を求めて努力することを我々に勧める。精進を勧める。<br>楽とは、唯物的仏教学者が言うように、苦の無い状態のみを指しているのだろうか？苦の無い状態を求めることが、釈尊の言う精進なのか？<br><br>「あらゆる物が無常であり苦であるから、全てを諦めれば苦はなくなる」<br>「苦でしかない世間のなかで、それでも努力する。(まぼろしの)楽を求め人間らしく生きるのが素晴らしい」<br>などという認識(虚無主義)は、努力して悟る必要などない様に私には思われる。それは、放っておけば誰しも一度はたどり着いてしまう程度のものであろう。<br><br>釈迦は本当に、その程度の認識を<br>「衆生に伝えるのは難しい」と感じ梵天に請われるまで弘めようとしなかったのか？それは、当時のインドの民度、哲学レベルを見誤った考えではないだろうか。<br><br>当時も今も尊崇をこめて呼ばれる<br>「仏陀」が、そんな衆生の考えに疎い、浅薄な哲学者だと本当に信じられるだろうか。<br>二元論者たる仏陀･釈尊は、 真に楽なる物、即ち常住なる物を認識することを我々に勧めているはずである。<br><br><br>｢無我｣とは執着を捨てさせる教えであるが、正しい輪廻理解に基づいた、唯物論とｶｰｽﾄ制への批判にもなっている。<br>バラモンは肉体的要素、地位なども自分自身(ｱｰﾄﾏﾝ)と見なしていた。<br>それにより輪廻に基づいて、出自に縛られるｶｰｽﾄ制が成立していた。<br><br>これを常見(同じ状態での輪廻)という。<br>常見は、肉体の特徴や地位さえも、輪廻する常住の自分と見なす。<br>あるいは、肉体の特長や地位などの生まれつきの環境は、前世の徳の正確な反映と見なす。<br><br>死ねば終りという虚無主義を断見という。<br>断見は、永続する潜在意識や仏性を否定する。<br><br>それらに対し、仏陀は<br>｢不常不断の中道｣を説いたというのが、仏教の一般的な見解である。<br>その中道の内容が解らなくなってしまったのだろうか。<br>断常の中道は過去形になりつつあり、ﾏﾙｸｽに影響された仏教者の無霊魂説が、幅を利かせているのも事実ではある。<br><br>仏陀がバラモンの言葉を用いて<br>｢それは我では無い(ｱﾝｱｰﾄﾏﾝである)｣<br>と言ったからといって、本当の自分を否定したことにはならない。<br>仏陀が結果的に否定したのは、唯物論やｶｰｽﾄ制に見られる、自分自身(ｱｰﾄﾏﾝ)の範囲である。<br><br>肉体や地位や金銭は勿論、自分の表面意識さえも<br>｢依他帰性(えたきしょう)｣<br>(自分の思いひとつだけではどうにもならず、他の影響下にある=無我)である。<br>故に執着してはならない。<br>これはｽﾄｲｯｸな哲学であり、無霊魂説ではない。<br><br>ｶｰｽﾄ制とは、ｱｰﾘｱ人が支配した土地の風土病を避ける為、又は支配層であり続ける為に設けたものだと言われる。<br>その政治的意図により真理が曲げられている事も、仏陀は批判したのであろう。<br><br><br>最古層に近い資料において、仏陀はしばしば<br>｢真のバラモン｣と呼ばれる。<br>バラモンとはﾌﾞﾗﾌﾐﾝであり、ﾌﾞﾗﾌﾏﾝを語源として神の一部である事を意味する。<br><br>｢仏陀の直説と確定出来る資料が少ないことが、昨今の資料分析で判明してきた。<br>直説と確定出来る資料のみから判断すると、釈迦は霊魂や神など信じていなかった｣<br>などと(自覚は無いかも知れないが)ﾏﾙｸｽに日和った仏教学者や仏教者は言うのだが、<br>｢真のバラモン｣が、単なる無神論哲学者や唯物的心理学者を指すことなど、あり得ない。<br><br>「慎み深く礼節を重んじ、如何なる生き物をも害さない思いを堅固に持つ者、彼はバラモンと呼ばれるに相応しい」<br>これは当然、仏陀自身の事も含んでいる。<br>仏教はバラモン教の世界観を、基本的に継承しているのである。<br><br><br>仏教の中道とは、弁証法で言えば止揚(合)である。<br>断常の中道とは、無霊魂説とｶｰｽﾄ制を両極端として否定した、止揚(合)と言える。<br><br>中道とは、極端な見解に真理は無いということであり、両極の立場は、対立する様でいて似ているということでもある。<br><br>特権階級としてのバラモンや唯物論者は、無常なる地位や肉体や金銭に、楽のみを感じていた者と考えられる。<br>真逆であるはずの両者は、何故か人生に対する態度に似たところがあらわれる。<br><br>それらに対し、<br>｢無常なる物を100%楽だと感じているのは、間違いである。それは本質的には苦である｣<br>と教えるのは、苦楽の中道、断常の中道(合)に入らせる為のｱﾝﾁﾃｰｾﾞ(反)である。<br><br>最初から中道の見解を示しても、我々は誤りに気づかない。<br>大勢の誤りを指摘する者は、最初から中道の見解を打ち出さない。<br>(故に、新宗教は成立の段階ではカルト的評価を与えられることになると思われる)<br>時代の改革者の発言は、その時代背景を考慮しなければ見誤るのではないか。<br><br><br>仏陀の無常･無我論が、初期に語られたであろう物ほど、教化の為の特異な立場からの提言であることを踏まえないと、<br>｢仏陀は無霊魂説を説いた｣とか、<br>｢仏陀は、この世の全てを無常の物として否定したのだから、政治や経済などに無関係だった｣など、<br>極端な見解を信じることになるのだと思われる。<br><br><br>仏陀は現実に自他を救うことを優先させ、神学･哲学的質問には答えなかったとされるが、<br>だからといって、<br>仏典と説話に見られる神や悪魔との対話やあの世の様子などを、<br>教えを理解する為の単なる喩え話とするのは、<br>仏陀が真のバラモンと呼ばれていた事からも、不自然である。<br><br>ﾌﾟﾗﾄﾝが輪廻について語ったエルの物語が、研究者から無視されるのと同じ構図ではないか。<br><br>仏陀教団を、バラモンの世界観を基本的には継承した教団として理解するなら、霊的な描写はそのまま信じるべきだと思われる。<br>仏典を素直に読む限り、仏陀が霊能者であり輪廻も認めていたのは明らかである。<br><br>仏教を、あの世も輪廻も認めた哲学と考えれば、無我とは<br>依他帰性=相対的な物は、自分ではないから持って還れない。<br>また、因果に基づいて、あの世と来世に持ち還る潜在意識の内容が決まる、という事だろう。<br><br>ところで仏教が、哲学的な輪廻転生の思想であるなら、単なる流行りのｽﾋﾟﾘﾁｭｱﾘｽﾞﾑとの違いは何であろうか？<br><br>表面意識は自分の思いひとつだけではどうにもならず、他の影響下にあるとされるのだが、では潜在意識はどうかと言えば、それもまた無我であると言われる。<br><br>それらを根拠として、無我とは無霊魂説だと主張される向きもあるわけだが<br>唯識においては、潜在意識が輪廻主体(要するに魂)である事を認めた上で、<br>それさえも最終的には無我であり、自らの思い一つで存在し得るモノでは無いとする。<br><br>単純な全否定ではなく、段階論になっている点は、強調してし過ぎる事は無いだろう。<br><br>現代日本の風潮に日和った仏教学者は認めないかも知れないが、かくて<br>大乗仏教においては、人間のあらゆる意識の奥の奥にあるモノこそ、<br>如来蔵･仏性であり、それのみが常住であり実体であると認めるのである。<br><br>無我とは無霊魂説などではなく、自らの内にある如来蔵、即ち<br>原初より常住の久遠実成の仏陀(真のﾊﾞﾗﾓﾝ)に対する、信仰の教えである。<br><br>結論として如来蔵思想は、ﾊﾞﾗﾓﾝ教の述べていた<br>「梵我一如」に帰した様にも見える。<br><br>しかし、その「我(ｱｰﾄﾏﾝ)」の範囲を厳密に見定め、<br>我々に内在する、原初よりの「久遠実成の仏陀(真のﾊﾞﾗﾓﾝ)」<br>を信仰し、自力にて認識する道を説いた点が、仏教とﾊﾞﾗﾓﾝ教の違い、ｽﾋﾟﾘﾁｭｱﾘｽﾞﾑとの違いという事ではないかと思われる。<br><br>梵我一如と言うが、我々の感じ信じている自分などそう簡単にﾌﾞﾗﾌﾏｰと同化出来る物ではない、という事であろう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/112153627/entry-11438045244.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Dec 2012 13:50:06 +0900</pubDate>
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<title>骨無しﾄﾞｼﾞｮｳとﾆﾜﾄﾘの国</title>
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<![CDATA[ 今から約７年前、2005年の衆院本会議で<br>「消費税を上げ、風邪から直りかけていた日本経済を肺炎にしてしまいました」と、デフレを招いた自民･橋本政権の増税政策を厳しく批判した議員がいる。<br>その認識は正しかったはずである。<br><br>1989年に３％の消費税が導入された時も、1997年に税率を５％に上げた時も、消費税そのものの税収は増えたが、全体の税収は大きく落ち込んだ。<br>消費税が上がれば買い控えが起こり、結果、消費が落ち込み法人税、所得税は減収するという、中学生にでも分かる理屈である。<br><br>今回の増税にあたり新聞社は、新聞代に消費税がかからない密約を政府に取りつけていると言われている。<br><br>仮にそうであっても、増税やむなしとのマスコミの一致した論調には、<br>｢この国はどんなﾆﾜﾄﾘどもの集団なのか？｣と思わずにはいられない。結果が出て僅か10年あまりの失敗を、この最悪の経済状態でまた繰り返そうというのである。<br><br>我々は経済発展しなくとも良いと日本人に思い込ませる、なんらかの意図でも働いているのか？と疑いたくなる。<br><br>７年前、増税政策を批判したその男を野田佳彦と言う。<br>民主党首相にして、先日遂に、党内意見をまとめ消費税増税を決定した人物、とのことである。<br>龍を批判したﾄﾞｼﾞｮｳは骨無しであった。<br><br>野党で反対するだけの立場であったから、与党首相になったとたん信念を捨ててしまったのか？<br>財務官僚に洗脳でもされたのか？我々にそれを確かめる術は無い。<br><br>しかし、個人の立場や考えがいかに変わろうとも、変わらない事がある。それは<br>｢税率ｱｯﾌﾟ、特に消費税率ｱｯﾌﾟと税収増加は違う。むしろ逆になる｣という事実である。
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<link>https://ameblo.jp/112153627/entry-11137028955.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Jan 2012 00:12:39 +0900</pubDate>
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