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<title>12344321のブログ</title>
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<title>日本型雇用システム</title>
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<![CDATA[ 介護労働ばかりではない。介護保険制度スタートの翌年に発足した小泉政権による「構造改革」は、給食調理員、保育士、窓口事務、図書館司書など、住民に直接対応する公務サービスが、軒並み、非正規化・民間委託化されていった。（中略）<br>代表例が、公立図書館の司書だ。二〇〇〇年代に入ったころから、公立図書館では年収一四〇万円、一五〇万円の有期雇用の非正規司書に切り変える例が相次ぎ、財政難の中で、やがては、民間会社への図書館運営の委託や指定管理者制度が広がった。ここでも介護と同様、民間経営者の下で、歯止めは最低賃金だけとなり、低賃金化が進んだ。<br>本が好きで資格を取って司書になったという都内の三〇代男性も、指定管理者制度により民間委託された図書館で、思わぬ憂き目にあった。年間二〇〇万円程度の低収入はもちろんつらかった。加えて司書の知識を生かして公的に所蔵しておく価値があると考えた図書を購入すべきだと主張したことが、「一般の人が好むベストセラーを入れて数字の上で貸出実績を上げれば、役所に評価されて再委託契約がもらえる」として一蹴された。<br>図書館の司書業務には専門性が必要だと記事に書いたところ、読者から「たかが貸し本の仕事に、高い賃金はいらない」と批判の投書を受け取って驚いたこともある。<br>竹信三恵子『家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの』（岩波新書、201４年）169～171ページより引用。<br><br><br>日本型雇用システムは変化したが、とくに重要なのは、日本型雇用システムの対象メンバーを厳選するようになったという点である。こうした方針変更の「宣言」が、一九九五年の日経連の「新時代の日本的経営」であった。<br>そこでは、雇用のポートフォリオとして、労働者を長期能力蓄積活用型（＝正社員幹部候補）、高度専門能力活用型（＝専門職種）、雇用柔軟型（＝短期非正社員）の三つのグループにわけて、組み合わせることが提案された。その後、雇用規制の改革以後、派遣労働が解禁された。正社員は比較的強い解雇規制で守られるのに対して、非正規労働者の解雇や人員調整は容易になったのである。そして、社会保険の適用外の労働時間や雇用期間にすることにより、企業の社会保険料の負担も節約できるため、非正規労働者の雇用は急速に伸びた。<br>また、高卒向けの若者雇用の場が消滅していく一方で、増加したのが大学進学者数である。<br>大卒人数は九〇年代以降の二〇年間で一．四倍程度に増加した。大企業の幹部候補生である正社員数が厳選される一方で、大学卒業者数が増えたため、就職活動は年々加熱した。そのため正社員になれなかった新卒学生の選択肢が、非正規労働者となったのである。<br>日本型雇用システムのなかでは、非正規労働者は、企業というコミュニティの「正規メンバー」とは見なされず、企業への忠誠心も期待されない。転勤や配置換えという企業に人生をコミットメントされる息苦しさがない代わりに、企業内訓練もおこなわれず、長期に雇用されても経験が評価されず、特定の企業に長く勤めたからといって賃金が上昇するわけではない。<br>日本の賃金構造は、欧米の産業横断的な職務給体系ではなく、企業とのかかわり方で賃金体系が異なる。正社員は中長期的な貢献度に応じた賃金体系になっており、外見上は同じような仕事をやっていても長期的に担う役割や期待は異なっている。<br>このように正社員は属人給、非正規労働者の賃金は、派遣労働に代表されるように外部労働市場の需給関係で決められることになる。年功給や職能給である正社員と非正規労働者のあいだには、同一労働同一賃金は期待できず、賃金と処遇の大きな格差が発生することになった。<br>駒村康平『日本の年金』（岩波新書、201４年）1８～1９ページより引用。<br>
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 18:11:13 +0900</pubDate>
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<title>働かないアリに意義がある</title>
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<![CDATA[ つまり動物は動くと必ず疲れるし、疲れを回復させるには一定期間、休息をとらなければならないのです。これは動物が筋肉で動いている限り逃れることのできない宿命です。昆虫も筋肉で動いていますから、当然この宿命からは逃れられません。昆虫も疲れるはずです。実際、ハチを無理矢理羽ばたかせて、羽ばたきの時間と筋肉中の乳酸量の関係を見ると、たくさん羽ばたかせるほど乳酸量が増えていくことがわかっています。疲れれば正確に動くことができなくなりますから、仕事の処理能力もだんだん落ちていくでしょう。<br>しかし、アリやハチで分業や反応閾値の問題を考えた研究は多いのですが、不思議なことに、動物の宿命である疲労が分業や労働パターンに与える影響を考えた研究は、いままでありませんでした。きっと機械のように動くムシたちも疲れるなど、想像できなかったのではないでしょうか。<br>私たちは個体の疲労とコロニー維持の関係に注目した実験をしました。するとそこでも反応閾値の差が、コロニーの繁栄を支えていることがわかったのです。<br>ムシも疲れるとなると、様々な仕事をこなさなければならないコロニーは、メンバーをどのように働かせるべきなのか？これはまったく新しい観点の研究テーマといえます。私たちは、コロニーメンバーの反応閾値がみな同じで、刺激（仕事）があれば全個体がいっせいに働いてしまうシステムと、実際のアリやハチの社会のように反応閾値が個体ごとに異なっていて、働かない個体が必ず出てくるシステムの双方で、疲労のあるときとないときの労働効率を比較してみました。さらにそれぞれの状況で、コロニーの存続時間を比較するのです。こうしたことは現実のムシでは調べられないため、コンピュータのなかに仮想の人工生命をプログラムした、シミュレーションによって調べます。その結果、予想どおり、疲労の重さに関係なく全員がいっせいに働くシステムのほうが単位時間あたりに処理できる仕事量は常に大きいことが示されました。より多くの個体が動くのですから当然ですね。つまり、やはりみんながいっせいに働くほうが常に労働効率はいいのです。<br>しかし、しかしです。仕事が一定期間以上処理されない場合はコロニーが死滅する、という条件を加えて実験をすると、なんと、働かないものがいるシステムのほうが、コロニーは平均して長い時間存続することがわかったのです。（中略）<br>なぜそうなるのか？働いていたものが疲労して働けなくなると、仕事が処理されずに残るため労働刺激が大きくなり、いままで「働けなかった」個体がいる、つまり反応閾値が異なるシステムがある場合は、それらが働きだします。それらが疲れてくると、今度は休息していた個体が回復して働きだします。こうして、いつも誰かが働き続け、コロニーのなかの労働力がゼロになることがありません。一方、みながいっせいに働くシステムは、同じくらい働いて同時に全員が疲れてしまい、誰も働けなくなる時間がどうしても生じてしまいます。卵の世話などのように、短い時間であっても中断するとコロニーに致命的なダメージを与える仕事が存在する以上、誰も働けなくなる時間が生じると、コロニーは長時間は存続できなくなってしまうのです。<br>つまり誰もが必ず疲れる以上、働かないものを常に含む非効率的なシステムでこそ、長期的な存続が可能になり、長い時間を通してみたらそういうシステムが選ばれていた、ということになります。働かない働きアリは、怠けてコロニーの効率をさげる存在ではなく、それがいないとコロニーが存続できない、きわめて重要な存在だといえるのです。<br>重要なのは、ここでいう働かないアリとは、第4章で紹介するような社会の利益にただ乗りし、自分の利益だけを追求する裏切り者ではなく、「働きたいのに働けない」存在であるということです。本当は有能なのに先を越されてしまうため活躍できない。そんな不器用な人間が世界消滅の危機を救う――とはなんだかありがちなアニメのストーリーのようですが、シミュレーションはそういう結果を示しており、私たちはこれが「働かない働きアリ」が存在する理由だと考えています。<br>働かないものにも、存在意義はちゃんとあるのです。<br>長谷川英祐『働かないアリに意義がある』（メディアファクトリー新書、2011年）72～75ページより引用。<br><br><br><br>見てきたように、ムシの社会が指令系統なしにうまくいくためには、メンバーのあいだに様々な個性がなければなりません。個性があるので、必要なときに必要な数を必要な仕事に配置することが可能になっているのです。このときの「個性が必要」とは、すなわち能力の高さを求めているわけではないのが面白いところです。仕事をすぐにやるやつ、なかなかやらないやつ、性能のいいやつ、悪いやつ。優れたものだけではなく、劣ったものも混じっていることが大事なのです。<br>性能のいい、仕事をよくやる規格品の個体だけで成り立つコロニーは、確かに決まり切った仕事だけをこなしていくときには高い効率を示すでしょう。しかし、ムシの社会もいつ何が起こるかわかりません。高度な判断能力をもたず、刺激に対して単純な反応をすることしかできないムシたちが、刻々と変わる状況に対応して組織を動かすためには、様々な状況に対応可能な一種の「余力」が必要になります。その余力として存在するのが働かない働きアリだといえるでしょう。<br>ただし何度でも強調したいのは、彼らは「働きたくないから働かない」わけではない、ということです。みんな働く意欲はもっており、状況が整えば立派に働くことができます。それでもなお、全員がいっせいに働いてしまうことのないシステムを用意する。言い換えれば、規格外のメンバーをたくさん抱え込む効率の低いシステムをあえて採用していることになります。しかしそれこそが、ムシたちの用意した進化の答です。<br>翻ってヒトの社会ではどうでしょうか。企業は能力の高い人間を求め、効率のよさを追求しています。勝ち組や負け組という言葉が定着し、みな勝ち組になろうと必死です。しかし、世の中にいる人間の平均的能力というものはいつの時代もあまり変わらないのではないでしょうか。それでも組織のために最大限の能力を出せ！と尻を叩かれ続けているわけです。昨今の経済におけるグローバリズムの進行がその傾向に拍車をかけています。<br>余裕を失った組織がどのような結末に至るかは自明のことと思われます。大学という組織においても、近年は「役に立つ研究を！」というかけ声が高くなっていますし、私の研究など真っ先に事業仕分けされてしまいそうです。しかし、特定の目的に役立つ研究は本来、公立の研究機関（農業試験場など）がそのために設置されているのであり、大学の社会的役割の一つには、基礎的研究を実行し、技術に応用可能な新しい知識を見つけるというシードバンク（苗床）としての機能があったはずです。<br>例えば狂牛病（＝BSE）の病原体は、もともと神経細胞に存在するプリオンというタンパク質が変異したものだと考えられていますが、プリオン自体はそれまでなんの役に立つかわからないものだったので、ごく少数の基礎研究者がその研究を行っていたにすぎませんでした。ところが、ひとたび狂牛病が現れ、プリオンに関する応用研究が必要になったとき、その基礎研究者たちが見つけておいた知識がおおいに役に立ちました。言い換えれば、何が「役に立つのか」は事態が生じてみるまでわからないことなのです。したがって、いまはなんの役に立つかわからない様々なことを調べておくことは、人間社会全体のリスクヘッジの観点から見て意味のあることです。そういう「有用作物の候補の苗床」としての機能は大学以外に担う機関がなく、大学という組織の重要な社会的役割の一つであると、私は考えています。<br>その力を弱めることで、国家にとって長期的にどのような影響があるのか。興味深いところですが、その話は最終章にとっておきましょう。ともあれ、良きも悪しきも様々な個性が集まっていないと組織がうまく回らない、ということは覚えておいてください。<br>長谷川英祐『働かないアリに意義がある』（メディアファクトリー新書、2011年）77～78ページより引用。
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 18:07:20 +0900</pubDate>
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<title>社会を変えるには</title>
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<![CDATA[ （前略）六〇年代の若者は、背広を着たサラリーマンになって九時から五時までの人生を歩むのがいやだ、ジーンズを着続けたい、と「自由」を叫びました。人生の自由期間はいまだけだ、就職したら、結婚したら、もう自由にはやれないという意識も、彼らを駆りたてました。<br>しかしいまでは、服装や時間については自由が広がり、そういう反抗が意味を失った領域が増えました。むしろ昔のサラリーマンのような安定した人生が羨ましい、という若者も多くなりました。<br>「女性」や「マイノリティ」を基盤にした運動も、むずかしくなってきました。（中略）一九六〇年代のアメリカの女性運動は、郊外の住宅に住んで生活に不自由はないけれど、心の空しさを抱えているという専業主婦の悩みを書いた本から、大きく広がりました。ところが八〇年代後半になると、黒人や移民の女性から、従来の運動の女性像は自分たちの実感とまったく合わない、「白人中産階級フェミニズム」だ、という批判がおきました。（中略）<br>しかし一方で、黒人であってもエリートになる人も出てきて、六〇年代の公民権運動の時代のように、「黒人」なら同じ問題を抱えているとも言えない状況になっていました。「労働者」だけではなく、もう「女性」とか「黒人」も、成立しなくなってきたのです。<br>さらに「階級」とか「女性」が成立しなくなったので、「自分が不幸なのは労働者階級であるせいだ」という意識が持てなくなってきました。そのため、たとえば「女性なのに成功している人もいる。うまくいかないのは自分のせいだ」と考え、自己責任だと思ってしまう。社会構造の問題より、世渡りがへたなせいだと、心理的な問題だと考える。だからノウハウ本や心理学の本は読むけれども、「労働者」や「女性」の運動が自分と関係があると思えない。こうした「個人化」の傾向が広まります。（中略）<br>こうなると、社会運動もむずかしくなってきます。「われわれは労働者だ」とか「われわれは女性だ」という連帯意識が成立しない。人びとが「自由」になり、「われわれ」という意識が持てなくなって、まとまりがつかない。ポスト工業化社会では、家族や政治もまとまりを失って不安定になりますが、運動のほうも同じ問題に直面するようになったのです。<br>小熊英二『社会を変えるには』（講談社現代新書、2012年）75～78ページより引用。<br><br><br>次に日本の「六八年」について述べます。このころから、日本は工業化社会の成熟段階を迎えます。そして「六八年」は、運動の基盤、運動の形態、テーマのどれも、六〇年とはかなり違っていました。<br>まず高度成長の影響で、共同体が緩んでいきました。地方では農業の機械化が進んで、村人が協力して農業をする必要がなくなります。そうなると労働力が余って、出稼ぎに出る人が多くなり、ますます地域社会が緩みます。<br>労働組合も変わってきます。炭鉱労働も、石炭から石油へというエネルギー転換から大量解雇にあり、闘争を経てつぶれていきました。日本の労働組合は企業内組合だったので、製造部門から販売部門への配置転換というような人事も受け入れていきます。そうなると職場の共同体も壊れてきて、単に同じ会社に所属しているというつながりしかなくなっていきます。（中略）<br>労働組合の役割も、政治的な主張よりも、もっぱら賃上げが目的になっていきました。一九五五年に始まった「春闘」は、六〇年代の高度成長時代に定着して、大幅な賃上げを勝ちとりました。労組にも、企業側の技術革新と利益獲得に協力し、そのなかで多くの賃金をもらうという路線が定着していきます。そうなると組合員も、賃上げ目的の春闘にはそれなりに参加するけれども、政治的なテーマについては関心が薄くなり、やがて政治的テーマのデモは組合が日当を配って参加を募るようになります。<br>お金というのは、人間関係が希薄になると、かかるようになります。関係がない相手、関係を持ちたくない相手に動いてもらわなければならないときに、お金は必要になります。日当を払わないとデモにこないというのは、組合が共同体として緩み、人びとが「自由」になってきたことを示しています。<br>小熊英二『社会を変えるには』（講談社現代新書、2012年）114～115ページより引用。<br><br><br>たとえばいまは、女であるからには二四歳で結婚して、仕事を退職して三〇歳までに子どもを二人産んで、などというふうには決まっていません。そうする人もいますが、それは選択の一つだ、とされています。「なぜ私が仕事をやめなければいけないのか」「なぜ私が家事をやるのか」「なぜ子どもを産むのか」「なぜこんな夫や子どもと一緒にいなければいけないのか」などと選択を考えるのがふつうになりつつあります。単に「選択肢が増えた」というより、「選択できることを意識するようになった」というのが大きな変化です。<br>あるいは大学生の就職活動です。かつての日本では、ゼミの先生が「君は○○株式会社に行きたまえ」と、企業からきた紹介状をゼミ生に割り振っていたものです。その企業を断ると、先生との関係が悪くなる。入っていやな会社だと思っても、やめると後輩の就職に響くからやめられない。しかも年功賃金だし、やめないほうがいい。自分で就職先を探す人も、どこも年功賃金・終身雇用で似たようなものだし、数社受けたらおしまい、という人が多かった。<br>いまは違います。学生は先生の紹介状に従わなくてもようなり、自分で情報収集をして、その会社の将来性や福利厚生を調べ、選択するようになりました。昔は紹介された一社で就職活動が終わっていたのが、複数回るようになります。<br>こうなると、人びとが自由に合理的に行動するようになったのだ、と言えそうです。しかし、自由で合理的な主体が増えたのなら、世の中の見渡しがよくなり、予測可能性が高まって未来の展望が立てやすくなるはずです。しかし、そうなっていません。<br>その理由は、相手のほうも「自由」になり、選択可能性が増大したからです。就職活動の学生をむかえた会社も、「○○先生の紹介だから採用する」といったことはしなくてよくなり、応募してきた学生を選択するようになります。そのため学生を振り落とすので、学生のほうはなかなか就職が決まらず、何十社もまわらなくてはなりません。<br>しかし、これで企業が一方的に選択する側になり、企業側の予測可能性が高まったかというと、そうでもありません。学生も選択する「自由」が増えましたから、何社も受けます。一人ひとりが何社もまわるので、大手企業にはたくさん学生が押しかけます。そのなかから苦労して採用者を選んでも、他社に行ってしまうかもしれません。雇っても三年で辞めるかもしれません。<br>三年で辞めるかもしれないとなると、昔のように、新人のうちはたいした仕事をしなくていいから仕事を覚えなさい、いまあげている給料は将来への投資だ、などということは言っていられません。それで「即戦力」としてきつい仕事をさせると、三年でやめる若者が増えます。結果として、ますます予測が不可能になり、不安定性が増していきます。<br>小熊英二『社会を変えるには』（講談社現代新書、2012年）376～378ページより引用。
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 18:04:35 +0900</pubDate>
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<title>日本の経済指標</title>
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<![CDATA[ 日本のさまざまな経済指標は、九〇年代半ばがピークです。小売販売額や出版物売上、国内新車販売台数などは一九九六年がピークでした。発行部数が世界最大のマンガ雑誌『週刊少年ジャンプ』も、一九九五年に六三五万部を記録しましたが、二〇〇八年には二七八万部となっています。（中略）<br>こうした状況は、どうして生まれたのでしょうか。財政や金融の政策から説明したり、人口動態から解き明かしたりなど、いろいろな説があります。しかしここでは、それを「工業化社会からポスト工業化社会へ」という視点から整理してみましょう。（後略）<br>小熊英二『社会を変えるには』（講談社現代新書、2012年）14～15ページより引用。<br><br><br>（ポスト工業化社会）<br>先進国では製造業が減り、情報産業や、IT技術をもとにグローバルに投資をする金融業などが盛んになります。また宅配業者やデータ入力業者など、新種の下請けの仕事がたくさん生まれます。ビジネス街で働く中核エリート社員を支えるためには、単純事務作業員やビル清掃員、コンビニや外食産業などの店員が必要です。<br>これらはマクドナルドのアルバイトに象徴される、「マックジョブ」とよばれる短期雇用労働者の職になります。一人の中核エリートを支えるのに、五人の周辺労働者が必要ともいわれ、これは海外に移転できません。逆に言うと、先進国の都市であっても、多数派は周辺労働者になり、格差が増大します。<br>働き方が変わってくると、労働組合が弱くなります。人の入れ替わりが激しく、外注や短期契約が増え、そもそも同じ職場で働いているとも限らなくなって、組織率が下がります。「労働者」といってもいろいろになって、どの層の労働者の利益を守ったらいいかむずかしくなります。従来から労働組合に組織されていた正規雇用の人たちを守ろうとすると、非正規労働者との対立もおきがちになり、労働組合は一部の人しか代表していないと思われるようになったりします。<br>また労働者といえばツナギ服、といった工業化時代の労働者階級文化が、成りたたなくなります。働き方も服装も「自由」で「多様」になっていきます。そのため、それらに支持されていた保守政党のほうも弱くなり、既存政党による政治が安定を失って、行き場を失った浮動票が増えていきます。<br>また長期安定雇用の人が減るので、福祉のための税収や積立金などが減少します。労組と労働政党も弱くなるので、福祉の切り下げがおこり、格差がますます激しくなります。正規雇用が減り、就職争いが激しくなります。低い学歴では「マックジョブ」に就くしかありませんから、大学進学率が上がります。<br>ただし、かつてのように、みんなが受験競争をするというかたちにはなりません。家庭が豊かで成績もいい層は競争が激しくなりますが、それ以外は中堅以下の学校に行っても将来が知れているので、意欲が下がって勉強しなくなる層が増えます。こうして、親の格差が子どもの世代でも再生産されることになります。（中略）<br>失業と非正規雇用は全体に増えますが、年長者の正規雇用の維持が優先されることなどのため、とくに若者でそれらが増加します。なかなか安定した収入が得られないので、親元同居が長期化して、晩婚化と少子化が進みます。<br>これらは、先進諸国でほぼ共通しておきた現象です。ただし多少のバリエーションもあります。<br>社会保障が整っている国、たとえば北欧諸国では、収入が少なくとも親元を出ても大丈夫なので、親元同居が長期化しない傾向があります。それにたいして、社会保障が整っていないか、あってもそれが家族単位でできている国、たとえば正規雇用の親のもとを離れたら非正規の若者は健康保険に入れないといった制度の国では、親元から出て行きません。日本や南欧諸国などでは親元同居の長期化がみられます。<br>小熊英二『社会を変えるには』（講談社現代新書、2012年）19～21ページより引用。<br><br><br>日本では、一九七五年に、女性労働力率が最低、逆に言えば専業主婦率がピークとなりました。ちょうど「団塊世代」の女性が、結婚して子どもを産んだ時期です。<br>子育てが終わると、女性たちは低賃金の非正規労働者として、製造業やサービス業で日本経済を支えました。都市部のスーパーや、地方の中小の下請工場です。日本の製造業の合理化は、こうした下請企業と、非正規労働者の負担で成立しました。<br>この時代には日本でも、スーパーのレジ打ちや配送業、ビル整備員、外食産業など、ポスト工業化社会で生まれる「マックジョブ」は生まれていました。それらを担ったのが、主婦、学生、高齢者です。大企業の単純事務労働は、未婚女性が担いました。<br>一九八〇年代半ばの時点で、未婚女性、主婦、学生、高齢者などからなる「第二次労働市場」とも呼ばれる層は、全雇用者の六〇～六五パーセントを占め、この割合は主要先進国のなかでは最高でした。いわば石油ショック後の雇用格差は、日本ではおこらなかったのではなく、周辺化され目立たなかっただけだったといえます。<br>こうした状況があったにもかかわらず、問題が露呈しなかったのは、日本社会の「中核」が、こうした「周辺」を支える社会構造が作られたからです。<br>ここでいう「中核」は、製造業を中心とした大企業と、そこで働く男性の正社員でした。大企業が安定していれば、下請けの中小企業にも恩恵がおよびます。また男性正社員の雇用と賃金が安定していれば、その妻や子どもである女性や若者が低賃金労働者でも、問題ないとみなされました。また地方や中小企業、自営業や農業には、補助金がまわり、競争からの保護や規制がかけられました。<br>こうして一九七〇年代から八〇年代にかけて、「日本型工業化社会」が築かれることになります。大企業に中小企業が、都市部に地方が、男性正社員に女性と若者と高齢者が、それぞれ依存しているかたちです。日本型といっても、文化的なものというより、当時の国際的位置や技術水準のなかでできた、社会構造のバリエーションです。<br>小熊英二『社会を変えるには』（講談社現代新書、2012年）28～30ページより引用。<br>
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 18:02:27 +0900</pubDate>
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<title>学校司書</title>
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<![CDATA[ 学校司書は自治体独自の努力で配置された。財政難の中で,法定職種でない学校司書の配置には困難も大きいが,学校図書館充実を求める市民たちが,教育委員会や学校に,あるいは市議会や理事者に学校司書の活動を紹介するなどの活動を通じて,自治体の理解を促す努力を重ねてきた。近年の統計では配置校は1万6000校に及んでいるが,こうした努力の成果である。国の法律によらず,市民自治の力で図書館が作られ発展するという欧米のモデルが,ようやく日本でも現実のものとなったという一面を見る必要がある。<br>1997年の法改正の主要な目的は,司書教諭を「当分の間,置かないことができる」と定めた附則第2項を,「政令で定める規模以下の学校」を除き,2003（平成15）年3月31日までとし,その規模は,政令により,11学級以下の学校と定められた。つまり,同日以後は,12学級以上の学校には司書教諭が置かれることにした。<br>この法改正では「学校司書」についてはまったく対象にならなかった。学校図書館関係者は学校司書法制化を求めていたが,無視されたのである。（中略）<br>（前略）1997年以後の数年間,学校司書不在の「司書教諭」論と,それにもとづく学校図書館観が流布される時期を迎えた。自治体の中には,「司書教諭が発令されたから学校司書は不要」として学校司書の配置を拒む事例さえ起った。（中略）<br>しかし現実はきびしく,多くの場合司書教諭は他の教諭同様に授業や学級担任をもちながら図書館業務を担当し,教員の多忙化や人員削減等により,司書教諭の負担減も困難になる状況で,期待された役割を果たすに至らず,学校司書との協力,ボランティアの協力,公共図書館からの支援等によってようやく支えられる事例が出てきた。中でも学校司書との協力はもっとも効果的であることが,事実をもって示された。司書教諭による司書抜きの学校図書館運営という図式は,事実上行き詰まるのである。<br>後藤暢「学校司書法制化の可能性は？」（『図書館雑誌』第106巻第12号2012年12月20日発行）822～823ページより引用。<br><br><br>現在,インターネット情報はレファレンス回答の手掛かりとして利用しているが,その情報が永続的に利用できるかということ,公的機関のホームページの情報も更新されたり,削除されたりして後日確認しようとしてもできないことがある。たまに,会員制に移行していて有料になっているようなこともある。<br>また,インターネット上の情報は確かな情報であるかとよく言われているが,その情報は必ずしも裏づけのあるものでないということである。熱心に情報発信している個人の方のホームページにはとても役に立ち参考になるものも多いが,根拠や典拠のないものが多いのも事実である。図書館のレファレンスは,個々の知識で回答するのでなく,固定された資料,主に図書を使って回答することを基本としている。やはり,図書館のレファレンスは,その所蔵資料によって回答することが基本で,そのために選書を始めとした蔵書構成がレファレンス業務の前提となっている。インターネット上のレファレンス類似サービスである“Yahoo！知恵袋”や“教えて！goo”と図書館のレファレンスの違いは,利用者の回答への満足度にあるのではなく,根拠や典拠による回答であるところにあると考えている。<br>インターネット時代に入って,レファレンス内容が,所蔵や所在確認から内容へと移行するのにつれて,職員も各種のレファレンスツールを使いこなすことが求められている。また,質問の多様さは,日本語資料では解決できず,外国語資料を使わなければならないことがままある。近代デジタルライブラリー,プロジェクト・グーテンベルクやGoogleBookなどの電子図書館プロジェクトにより,著作権の切れた資料が数多くデジタル化され公開されているので,言葉さえわかれば,所蔵資料に準じた形で使うことができる。そこまでやる必要があるか,意見の分かれるところになるではあろうが,やれることであると思っている。<br>古根村政義「調査研究に役立つ図書館を目指して――神奈川県立図書館の場合――」（『図書館雑誌』第107巻第4号2013年4月20日発行）210ページより引用。<br><br><br>学校図書館職員問題のそもそものはじまりは,「教諭をもって充てる」と規定したところにある。当初,全国学校図書館協議会や日本教職員組合は「司書」の配置を求めていたという。「第二次訪日アメリカ教育使節団報告書」でも,学校図書館には「司書」を置くと書かれている。それがどこかの時点で「司書教諭」になり,学校図書館法ではさらに上述の表現となった。そのあたりの経緯は勉強不足でよくわからないが,そこに見られるのは,学校図書館の資料を活用して教育活動をおこなうという観点からのアプローチであって,資料や情報の提供を通して教育活動を支援するという観点からのアプローチではない。<br>松井正英「「深層」から考える学校図書館職員問題」（『図書館雑誌』第107巻第4号2013年4月20日発行）234～235ページより引用。
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 18:01:23 +0900</pubDate>
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<title>アウトソーシング</title>
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<![CDATA[ アウトソーシングや臨時・非常勤職員への置き換えの理由は、おそらくただ一点、財政逼迫に伴うコスト削減である。その影響は、図書館のような労働集約型公共サービス分野においては、指定管理者や委託業者に採用された委託職員と自治体採用の臨時・非常勤職員の労働条件を低水準に押しとどめる。<br>図書館、博物館、公民館をはじめとする様々な社会教育施設は、自治法上、「公の施設」と分類され、その設置目的は「住民の福祉の増進」をめざすものと規定される。しかし、働きつづけても、独立して生活を設計することができない水準の賃金や報酬しか支払われないのであれば、「住民の福祉の増進」のために設置された「公の施設」で働く臨時・非常勤職員や委託職員は、同法の目的の外に置かれた存在となる。法の目的の外に排除された者により、法の目的の達成がめざされている。<br>将来にわたり、今のような条件でアウトソーシングや臨時・非常勤職員への置き換えを進めていったならば、働き手は定着せず、畢竟、持続性ある公共図書館サービスを展開することは不可能となってしまわないのだろうか。<br>上林陽治『非正規公務員』（日本評論社、2012年）37ページより引用。<br><br><br>図書館に勤務する非正規公務員に限らず、非正規労働者の賃金はなぜ抑制されているのだろうか。<br>一九六〇年代の高度成長期に形成された日本型雇用システムの下では新卒男性労働者が正社員として採用され、終身雇用・年功賃金制度の下、彼らが世帯の家計を支え、女性は結婚や出産とともに退職して専業主婦となり、貧弱な福祉制度の中、彼女たち専業主婦がシャドーワークとして子育て・介護を担ってきた。日本型福祉国家とは、専業主婦が家庭で福祉を担うというものだった。このような社会システムの中で既婚女性向きの働き方として生み出されたのが日本型パート労働で、その労働は、同一価値労働同一賃金の原則を離れ、家計の補助となればよい水準のものとされてきた。<br>これまで見てきたように、公立図書館の現場では、非正規公務員化や委託化・指定管理者化などにより、働き手の非正規職員化が進展し、いまや主要な担い手である。にもかかわらず、自治体に直接雇用される臨時・非常勤職員の報酬や自治体の仕事を請け負う委託業者に支払われる委託料等に算定される人件費は、同一価値労働同一賃金の原則を無視した日本型パート労働の水準なのである。<br>独立して生計を立てられない水準であれば、働き手は職場から離れていく。このままでは公立図書館サービスは持続可能なものとはならない。<br>まずは主要な働き手である臨時・非常勤職員、委託業者の働き手に支払われる賃金水準を、能力と経験年数等に応じて高めていくことが必要だろう。<br>上林陽治『非正規公務員』（日本評論社、2012年）47～48ページより引用。<br><br><br>図書館サービスは、他の公共サービスと異なり、そのサービスを受給するのに何の条件も付さない特異な分野である。福祉分野、労働分野、医療分野では、所得審査や状況調査を行い、要件や基準を充足した人だけがサービスを受給する。いわばターゲット・サービスである。しかし図書館サービスは、誰もが享受できるいわゆるユニバーサル・サービスなのであり、誰でも平等にアクセスできるから、受給・非受給間の分断もない。<br>上林陽治『非正規公務員』（日本評論社、2012年）49～50ページより引用。<br><br><br>図書館は、その担い手の大半以上が非正規公務員という現状から鑑みて、当該非正規公務員の「基幹化」を実現する必要に迫られている。しかしながら「基幹化」は、正規公務員との格差を埋める作業を伴わなければ、かえってリスクを発生させてしまう。<br>高度にパート労働の活用が進んでいるスーパーマーケットの職場では、単なるパートの戦力化の時代を経て、パート基幹化の時代に入り、さらにパートの正社員化という段階を迎えている。勤務時間が短いとか、異動が限定的とかの差異はあるが、雇用期間の定めのないパートタイム正社員制度である。（中略）<br>公務か民間かに関わらず、正規公務員・正社員と同じように、否、それ以上に働いても、非正規公務員・非正社員の給料は半分以下である。女性ならば、子どもを宿し産前産後休暇をとる場合でも、正規公務員・正社員なら多くの場合において有給で休暇を取れるが、非正規公務員・非正社員ならば、多くの場合、無給である。<br>質・量とも同じ仕事をしているのに、処遇に大幅な格差がある。このようなことを放置していたら、職場に次のようなことが起こること、必至である。<br>非正規公務員・非正社員は「やってられねーよ」となる。そして「あの（公務員）職員なによ！」となる。「やめてやらー」となる。職場が暗くなる。生産性がどんどん落ちる。市民が寄り付かなくなる。<br>上林陽治『非正規公務員』（日本評論社、2012年）241～242ページより引用。<br>
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 18:00:11 +0900</pubDate>
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<title>図書館法の制定</title>
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<![CDATA[ （前略）図書館法の制定に図書館界が力を注いだ1946～1950年に一貫するのは,法の強力な強制力による図書館の整備・振興への期待である。図書館の設置義務,国庫負担,専門職の制度化などの法定が強く期待され,それらを盛り込んだ多くの法案,要綱がつくられた。しかし最終的に制定された図書館法は,主として財政的な事情から,そのほとんどが容れられず,「理念は高いが,実の乏しい」と評される内容になり,法の制定に努めた関係者には,不満の残るものであった。<br>1950年代はその挫折を越えて,法改正に取り組んだが,法の規制力に依存する図書館振興への疑問も生まれ,1961年に日図協は法改正運動の打ち切りを確認している。『中小レポート』や『市民の図書館』を指針として図書館活動に進展がみられた1960年代後半から70年代は,図書館法の理念をサービスとして実践する時代であったが,1970年に顕在化した図書館法を社会教育法に統合するという文部省内の動きが,図書館法への関心を強く刺激した。「守るに価するもの,図書館法」という把握が1970年代に共感を集めた。（中略）<br>2008年改正の過程で,文科省と日図協との協議において合意に至らなかった内容の最たるものは,専門的職員である司書の配置にかかわる条文の手直しの是非であった。第13条の公立図書館における職員に関する規定,「公立図書館に館長並びに当該図書館を設置する地方公共団体の教育委員会が必要と認める専門的職員,事務職員及び技術職員を置く」が,「必要と認めない」自治体の判断を許容しているかの解釈の余地を与えていることから,協会としては,「館長,専門的職員並びに当該図書館を設置…を置く」と条文上は最小限の修正をすることで,司書配置を一層明確にする代案を提示したが,協会の主張としてはもっともであるが,規制緩和に逆行する内容は受け入れ難いと文科省は否定した。司書配置を国による「規制」だとする認識の不当さであるが,分権推進＝規制緩和という政治の基調と,司書の配置が事実としてあまり進んでいないこと,とりわけ近年の職員配置の劣化の現状が,その背景としてあり,国会審議においても「設置自治体のお考えになることだ」という以上の答弁を引き出し得なかった。<br>塩見昇「図書館法60年の意義と課題」（『図書館雑誌』第104巻第7号2010年7月20日発行）420～422ページより引用。<br><br><br>臨時職員は、地公法二二条二項又は五項に基づき、正式採用の特例として、緊急の場合や臨時の職に関する場合に採用できる。任用期間は六月の期間で更新回数一回、最長一年と定められている。<br>育児休業する職員の代替として採用される臨時職員は、地方公務員の育児休業等に関する法律（以下、「地公育児休業法」と略す）六条一項二号に基づくもので、任用期間は一年以内であるが、六月ごとの更新は省略されるというものである。<br>次に非常勤職員であるが、地公法三条三項三号に基づくものと地公法一七条に基づくものの二種類がある。<br>まず地公法三条三項三号に基づき任用された非常勤職員は、特別職非常勤職員といわれる。自治体に任用されている非常勤職員の多くは、この三条三項三号に基づく特別職非常勤職員であると考えられる。<br>ここでいう特別職とは、地公法三条三項三号に規定されている職を指す。その種類を例示すると、①就任について公選又は地方公共団体の議会の選挙、議決若しくは同意によることを必要とする職、②法令又は条例、地方公共団体の規則若しくは地方公共団体の機関の定める規程により設けられた委員及び委員会（審議会その他これに準ずるものを含む。）の構成員の職で臨時又は非常勤のもの、③都道府県労働委員会の委員の職で常勤のもの等で、これらと並記して同法三条三項三号に、「臨時又は非常勤の顧問、参与、調査員、嘱託員及びこれらの者に準ずる者の職」が規定され、この条文に基づき、特別職非常勤職員として任用されているといわれている。そしてこれら特別職の職にある者には、地公法は適用されない（地公法四条二項）。<br>地公法一七条に基づき採用された非常勤職員は、一般職非常勤職員といわれ、特別職と異なり原則として地公法の各条文の規定が適用となる（条件付き採用及び定年に係る各条文は非適用）。一般職非常勤職員の占める職については、行政解釈（通知通達）からは、以下の職が規定されているが、採用実態からすると、これらに限らずあらゆる職に任用されている。<br>・学校給食の調理業務に従事するパート職員（昭和五一年一二月三日　自治公一第四二号）<br>・公民館の館長以外の非常勤職員（昭和二六年三月三〇日　文部省社会教育局長、地方自治庁次長通知）<br>・一名の医師を二町で採用し、週三日ずつ両町のそれぞれの公立病院で勤務させた場合（昭和三六年七月六日　自治庁庁公発五五号）<br>任期付職員は、一年以上三～七年以内の有期任用で、特別法に基づき採用されるものである。任用根拠となる法律は、①地方公共団体の一般職の任期付研究員の採用等に関する法律（以下、「地公任期付研究員法」と略す）、②地公任期付研究員法、③地公育児休業法六条一項一号である。③の場合の任用期間は、代替される職員が取得した育児休業の請求期間を限度（地公育児休業法の定めから三年以内とする）としている。<br>②の任期付職員法による採用に関しては、三～五年の任期の常勤職員として、（a）専門的な知識・経験を有する任期付職員（同法三条二項）、（b）一定期間内に業務終了または一定期間に限り業務量増加が見込まれる場合に採用される任期付職員（同法四条）のほかに、三年～五年の任期の短時間職員として、（c）住民サービスを向上する場合等に採用される任期付短時間勤務職員（同法五条）の三種類がある。<br>地公法は、定年退職者等の再任用制度を定めている（高齢再任用制度）。同制度に基づき任用される職員の種類は二つあり、地公法二八条の四は常時勤務、地公法二八条の五は短時間勤務について定めている。両者とも任期は一年で、原則六五歳までの間、更新が可能（最長五年）となっている。<br>日々雇用職員とは、国家公務員制度において一般職非常勤職員の一つと位置付けられていたもので、二〇一〇年一〇月からは期間業務職員と名称が変更されるとともに、任期一年、公募が原則だが連続二回までは公募によらず、勤務実績に基づき同一のものを採用できるという制度に改正されたものである。従来の日々雇用職員制度では、任用予定期間内で毎日任用されているという現実離れした制度であった。（中略）<br>地方公務員に関しては、日々雇用職員も期間業務職員も地公法に定めがなく、いくつかの自治体の勤務要綱等に規定があって、かつ、実態としても日々雇用職員と称して任用されている例がある。判例上も、たとえば長野県農事試験場事件・最高裁判決（昭六二・六・一八）では、上告人の身分について「いわゆる日々雇用の非常勤職員」と認定するなど、実態を優先させた判断を行っている。<br>上林陽治『非正規公務員』（日本評論社、2012年）105～110ページより引用。<br>
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 17:58:15 +0900</pubDate>
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<title>図書館の変化</title>
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<![CDATA[ 図書館はここ三〇年で大きく変化した。暗く閉鎖的で堅苦しい場から、市民が誰でも気軽に立ち寄れて資料を借りだすことができる場への転換は、ほぼ成功したということができる。ただ、確かに行政サービスとしての「市民の図書館」の定着はうまくいったようだが、市民が図書館そのものに対して抱いているイメージは実はあまり変化していないのではないだろうか。<br>公園の一角や城跡にあるやや薄暗い静かな閲覧室で勉強する場というのが、かつて日本人が共通にもっていた図書館象であった。そこは、資料を利用するよりも、自分の知的空間と知的時間を確保するための場であった。たとえ自宅に勉強机があって自由に使えても、あえて図書館に出かけて勉強を他人と共有する方を選ぶのである。<br>そして一九七〇年代に新しい図書館のコンセプトがつくられた。これは学習スペースとしての図書館ではなく、資料を借り出して自宅で読む機会を提供する図書館である。以前はいわゆる閉架式が中心で直接利用できる資料はかなり限られていた。それに対して、新しいイメージの図書館の中心は開架スペースにおかれた資料であり、利用者は資料を自由に手にとって閲覧できる明るい空間でくつろぎ、好みの資料を家に持ち帰って例えば二週間自分だけで利用することができる。このような「資料提供」が図書館の主たる機能であると考えた図書館関係者は、ここ三〇年で学習スペースのイメージを資料利用のスペースに転換させようと努力を積み重ねてきた。<br>根本彰『理想の図書館とは何か・知の公共性をめぐって』（ミネルヴァ書房、　2012年）25～26ページより引用。<br><br><br><br>指定管理者制度導入が引き起こした論議<br><br>いつも使っている図書館がある日、夜遅くまで開館するようになったり、休館日が少なくなったり、以前より便利になっていたら……。その図書館は、指定管理者制度を導入したのかもしれない。<br>この十年間の公共図書館を語る際に、避けて通れないのがこの指定管理者制度の問題だ。二〇〇三年に施行されたこの制度は、国や自治体が管理する施設の管理、運営を民間企業やNPO法人などに代行させることができるというもので、小泉改革による公営組織の民営化の流れで創設された。（中略）武雄市図書館への批判のひとつも、CCCを指定管理者にしたことだった。<br>美術館や博物館と異なり、図書館は無料貸出が原則で収益を上げることが難しい施設だ。来館者が増えれば増えるほど、図書館の管理、運営費用も増していくため、営利団体である企業の運営に図書館はなじまない。数年の契約で指定管理者が変わる可能性があるため、専門性の高い司書や職員の人材育成にも向かない――そういう批判が根強くあるのだ。<br>議論はいまだ続いているが、財政難により図書館予算を減らしたい自治体や柔軟なサービスを展開したい公共図書館による導入は近年、じわじわと増えている。<br>猪谷千香『つながる図書館・コミュニティの核をめざす試み』（ちくま新書、2014年）173～174ページより引用。<br><br><br>日本図書館協会は1892（明治25）年,アメリカ,イギリスに続いて世界で3番目の図書館職員の専門団体としてスタートした歴史と伝統をもつ。だが現在,図書館職員が大きくいって二つの軸で分断されているために,協会は全体をまとめる力を失っているように見える。一つは館種による分断であり,もう一つは正規・非正規の雇用のあり方による分断である。（中略）<br>1960年代はその後の制度の枠組みが確立された時期である。たとえば,国立大学の職員制度に図書系職員が位置づけられ人事院試験に図書館学の枠がつくられたが,司書資格は必要とされなかった。学校図書館職員については,学校図書館法で司書教諭資格が教職の一部に位置づけられたが,それは機能しなかった。学校図書館を機能させようとした自治体・学校のなかには職員（学校司書）の配置を進めたところもあったが,個別の判断に委ねられた。<br>文部省は1968年に図書館法施行規則を改正して司書講習科目を改定した。その準備のために文部省に集まった図書館関係者は,当初こうした館種ごとの動きを取り入れて,法改正も含めて館種を超えた図書館専門職資格として司書を位置づける根本的な改革の議論をしたが,結果的には科目と単位を増やしただけに終わった。（中略）<br>資格を名乗る以上,一定の知識と技術が身につけられているのかどうか対外的に示されなければならないが,司書資格は養成機関の課程認定もなければ資格試験もなく,基準が不明なままに単位を集めることで資格になってしまうという,不思議な制度である。図書館員も,大学関係者もこのぬるま湯につかっているうちに先ほどのように資格自体が買い叩かれる事態になったわけである。（中略）<br>日本図書館協会は正規職の司書の存在とともにあった。毎年1万人以上の司書が養成されていると言われて20年以上になるからこれまで図書館員になることを希望して講習や大学で司書資格取得した人は20万人をはるかに超えるはずである。だが,先ほどみたように正規職に就いている人はそのなかの1割にも満たない2万人強であり,協会の個人会員はさらに少なく4,596人（2010年3月末現在）に過ぎない。<br>根本彰「日本図書館協会と専門職員養成の今後」（『図書館雑誌』第105巻第12号2011年12月20日発行）804～806ページより引用。<br>
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<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 17:56:45 +0900</pubDate>
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<title>地方分権一括法と図書館の危機</title>
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<![CDATA[ 地方分権一括法で訪れた図書館の危機<br><br>「課題解決型図書館」への舵が切られた裏では一体、何が起きていたのだろうか。先程述べた通り、バブル崩壊や地方分権化政策により、公共図書館の環境は大きく変化していた。糸賀教授（引用者註……慶應義塾大学の糸賀雅児教授）はこう語る。<br>「ひとつには、バブル経済が弾けた一九九〇年以降の低成長時代、場合によってはマイナス成長の時代に入り、自治体予算がどこも削減され、図書館予算も削減されたこと。もうひとつは、『図書館館長や司書の資格を持っていなくてもよい』という法改正が一九九九年に成立したことです。これは、地方分権を推進するために『地方分権一括法』という、地方自治にかかわる法律を一括して改正しようとしたもので、その中で図書館法の13条3項が削除されました」<br>削除された13条3項とはこういうものだった。「国から補助金の交付を受ける地方公共団体の設置する公立図書館の館長となる者は、司書となる資格を有する者でなければならない」。もちろん司書の専門性を重視する図書館界からは反発が相次いだが、この改正案は難なく成立してしまう。地方を豊かにするはずの地方分権化が、はからずも自治体の図書館のあり方を問うことになってしまったのだ。<br>「ただ、これには補足の説明が必要です。小泉改革によって国が地方自治体に対して出していたハコモノを作る補助金はなくなりました。補助金がないのに基準だけ残っているのはおかしいということで削除された」と糸賀教授は話す。<br>「さらに、館長は司書でなくても務まるということを、全国知事会や全国市町村会など地方六団体側から言われ出しています。いろいろな人材を図書館長に活用したいのに国の規制があってできないと。地方に行くと、司書資格を持った人材は必ずしも多くないのが現状です。だったら、削除した方がいいという声が上がりました」<br>地方分権を進めるための政策。その中で起きたことだったが、別の懸念も持ち上がる。「司書資格を持つ専門家でなくてもいい」という“規制緩和”は、図書館長の次は職員にも及ぶのではないか？<br>「私は司書資格がなければできない仕事を作りださなければ、職員も司書資格はいらないと、どんどん後退していってしまうと思いました。その頃、日本の図書館は一九七〇年の『市民の図書館』以来、貸出が大事だという路線だった。ところが、貸出は機械で自動的に手続きできてしまう図書館がどんどん増えていく時代に、それが司書としての生命線、大事な仕事であると言って今までと同じ仕事をしていたら、その仕事の重要性をアピールするにしても説得力がありません。だったら、司書でなくてはできない仕事を図書館の中に作らなければいけない。それが課題解決型図書館でした」<br>専門知識やノウハウを持った司書は、その図書館の生死を握るといってもいい。地域のことをよく知り、図書館が所蔵する本や雑誌、資料について熟知している司書なら、地域や住民たちが抱える課題を解決するためのコンテンツを発信できる。糸賀教授はそう考えたという。そしてこれは、『市民の図書館』以来、根強くあった「無料貸本屋」批判に対する「解」でもあった。<br>猪谷千香『つながる図書館・コミュニティの核をめざす試み』（ちくま新書、2014年）93～96ページより引用。<br><br><br>例えば小学校から始まっている総合的学習では、フィールドでの聞き取りや社会参加、観察などが重視される。フィールドで展開される具体的な事象に基づいて学習を始めようとすると、教員が持つ知識や教科書や副読本だけでは対応できない。それを説明できるのは土地の古老や様々な分野の専門家のような人的な情報源となる人たちであり、あとは文献資料に基づく調査も見聞したことの確認という意味では重要である。だがこれまで総合的な学習についてたびたび批判されてきたように、このような開放的な知を前提とした学習方法についてノウハウの蓄積がなく、結局のところフィールドで見聞きしたことについておざなりな発表やレポート提出を要求するだけで終わっていたことが多い。これだと学習者の疑問や対外的な関心、そしてコミュニケーションが学習過程のサイクルに収まらず、ただ体験しただけで終わってしまう。<br>このような探求型と呼ばれる学習は、学習者が一定範囲の知の体系をマスターするのではなく、自分で課題や関心を外に向けてそれを自分で解決するものであるが、外部の知とカリキュラムを結びつける役割を果たす専門家が必要である。これを行うのが学校図書館専門職である。例えばアメリカの学校にはメディアスペシャリストと呼ばれる専門職が置かれ、学校図書館で図書などの文献管理を行うだけでなく、学習内容に合わせて教員の教材作成の支援や外部の専門機関との連携、子どもたちの研究調査への支援を行っている。学校における知識情報管理を行う存在である。<br>占領が終了した翌年の一九五三年（昭和二八）に学校図書館法が誕生した。この法律は世界に先駆けて、すべての学校に図書館を設置し、司書教諭と呼ばれる学校図書館専門職を配置することを規定した。だが、この法律はほとんどの学校に図書館や図書室を設置させる力とはなったが、できた図書館の多くは図書資料を置いた部屋にすぎなかった。というのは肝心の司書教諭配置のための財政措置が伴わず、「当分の間」司書教諭を配置しなくともよいという附則がつけられたからである。<br>そのため、学校図書館はあたかも理科教師のいない理科実験室あるいは養護教諭のいない保健室のようなものになった。自治体や学校にとっては、教諭の資格をもった司書教諭ではなく学校司書と呼ばれる事務職員を配置した例もあった。しかしそれだと教師が授業を展開するときの教材づくりを助けたり、子どもたちが自ら図書館の資料を使って調べてそれを発表するのを支援したりといった、学校図書館法の趣旨である教育課程の推進に資するためにはうまくいかないことが多かった。何よりも、学習課程そのものが学習指導要領によって規定された方法に基づき一定の内容を教え込むものに戻っていたから、教科書や副教材などが用意されれば十分でそれ以上の文献資料が必要とされることはなかった。図書館に読書推進と勉強部屋以上の機能が要求されることはまれだった。<br>根本彰『理想の図書館とは何か・知の公共性をめぐって』（ミネルヴァ書房、　2012年）14～16ページより引用。<br>
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<link>https://ameblo.jp/12344321iui/entry-12442034846.html</link>
<pubDate>Fri, 22 Feb 2019 17:54:58 +0900</pubDate>
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<title>これまでのレポート13</title>
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<![CDATA[ 風土とは何か<br>そもそも『風土記』の題にも見られる「風土」とは何か。和辻哲郎の『風土』を見てみよう。<br>和辻哲郎『風土』（岩波文庫、二〇〇一年）<br>序言<br>「この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。だからここでは自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない。通例自然環境と考えられているものは、人間の風土性を具体的地盤として、そこから対象的に解放され来たったものである。かかるものと人間生活との関係を考えるという時には、人間生活そのものもすでに対象化せられている。従ってそれは対象と対象との間の関係を考察する立場であって、主体的な人間存在にかかわる立場ではない。我々の問題は後者に存する。たといここで風土的形象が絶えず問題とせられているとしても、それは主体的な人間存在の表現としてであって、いわゆる自然環境としてではない。この点の混同はあらかじめ拒んでおきたいと思う。」（三頁より引用。）<br><br>第一章　風土の基礎理論　　　一　風土の現象<br>ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。それは古くは水土とも言われている。人間の環境としての自然を地水火風として把捉した古代の自然観がこれらの概念の背後にひそんでいるのであろう。しかしそれを「自然」として問題とせず「風土」として考察しようとすることには相当の理由がある。それを明らかにするために我々はまず風土の現象を明らかにしておかなくてはならぬ。（九頁より引用。）<br>（前略）我々にとって問題となるのは日常直接の事実としての風土が果たしてそのまま自然現象と見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。（九から一〇頁より引用。）<br>我々はさらに風土の現象を文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の表現のうちに見いだすことができる。風土が人間の自己了解の仕方である限りそれは当然のことであろう。我々は風土の現象をかかるものとして捕える。従ってそれが自然科学的対象と異なることは明白である。（一七頁より引用。）<br>二　人間存在の風土的規定<br>（前略）人間存在は個人的・社会的なのである。が、歴史性のみが社会的存在の構造なのではない。風土性もまた社会的存在の構造であり、そうして歴史性と離すことのできないものである。歴史性と風土性の合一においていわば歴史は肉体を獲得する。（二〇頁より引用。）<br>・歴史的・風土的二重構造について<br>「風土」は、単なる風土として歴史と独立にあり、その後に実質として歴史の内に入り来るというのではない。それは初めより「歴史的風土」なのである。一言にして言えば、人間の歴史的・風土的二重構造においては、歴史は風土的歴史であり、風土は歴史的風土である。（二〇頁より引用。）<br><br>かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言われるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持である、あるいは寂しい気持である。このような気持、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。しかもそれは我々自身が自由に選んだものではなく、「すでに定められた」有り方として我々に背負わされている。このような既定性、気持は、必ずしも風土的にのみ規定せられているのではない。我々の個人的・社会的な存在は、すでに有るところの間柄としてそれに属する個人の存在の仕方を定め、従って彼に一定の気持を与える。あるいはすでに有るところの歴史的情勢として社会に一定の気分を与える。しかしそれらとともに、またそれらとからみ合って、風土的負荷もまたきわめて顕著である。我々がある朝「爽やかな気分」において己れを見いだす。これは空気の温度と湿度とのある特定の状態が外から影響して内に爽やかな心的状態を引き起こしたとして説明せられている現象であるが、しかし具体的体験においては事情は全く異なっている。そこにあるのは心的状態ではなくして空気の爽やかさである。が、空気の温度や湿度として認識せられている対象は、この爽やかさそのものと何の似寄りも持たない。爽やかさは「あり方」であって「もの」でもなければ「ものの性質」でもない。それは空気というものに属してはいるが、空気自身でもなく空気の性質でもない。だから我々は空気というものによって一定のあり方を背負わされているのではない。空気が「爽やか」の有り方を持つことは取りも直さず我々自身が爽やかであることなのである。すなわち我々が空気において我々自身を見いだしているのである。しかしまた空気の爽やかさは心的状態の爽やかさではない。それを最もよく示すものは朝の爽やかな気分が直接に我々の間の挨拶として表現せられるという事実である。我々は空気の爽やかさにおいて我々自身を了解している。爽やかなのは己れの心的状態ではなくして空気なのである。だからこそ我々は、他人の心的状態に目を向けるというごとき手続きを経ることなく、直接に互いの間において「いいお天気で」「いい陽気になりました」などと挨拶する。我々はともに朝の空気の中へ出て、ともに一定の存在の仕方を背負うのである。（二四から二六頁より引用。）<br>第二章　三つの類型　一　モンスーン<br>モンスーンという言葉はアラビア語のmausim（季節）から出たと言われている。アジア大陸とインド洋との特殊な関係から、太陽が赤道を北に超えてよりまた南に超えるまでの夏の半年は、南西モンスーンが陸に向かって吹き、冬の半年は北東モンスーンが海に向かって吹く。特に夏のモンスーンは、熱帯の大洋において極度にまで湿気を含み込んだ空気を強い風力によって陸に吹きつけるのであるがゆえに、世界における一つの特殊な風土を作り出しているのである。広義に解すれば、東アジアの沿岸一帯は、シナも日本も、風土的にモンスーン域に属すると言ってよい。モンスーンは季節風である。が、特に夏の季節風であり、熱帯の大洋から陸に吹く風である。だからモンスーン域の風土は暑熱と湿気との結合をその特性とする。我々はこれを湿度計に現わすことのできぬ人間の存在の仕方として把捉しようとするのである。（二九頁より引用。）<br>（前略）我々は一般にモンスーン域の人間の構造を受容的・忍従的として把捉することができる。この構造を示すものが「湿潤」である。（三一頁より引用。）<br>「夏」とは一つの気候であるが、しかしその気候は人間の存在の仕方である。ただ気温の高さと日光の強さとのみでは我々は「夏」を見いださない。冬のさ中にまれに現われた高気温の日に、人は「夏のようだ」とは言うかも知れぬが、しかし夏の中にいるとは感じない。（三二頁より引用。）<br>しかも我々にとって南洋は異境である。なぜならば我々がそこに「夏」として見いだしたものは南洋にとっては「夏」ではないからである。我々にとっての「夏」は、虫の音がすでに秋を含み、はずした障子が冬の風を含んでいる夏である。（中略）しかるに南洋にとってはかかる秋冬春を含まざる単純な夏が、言い換えれば夏でない単調な気候が存するのみである。植物はその葉を変えるのに時を定めない。（中略）かかる単調な、固定せる気候は、絶えず移り行く季節としての「夏」とは同じものではない。人間が夏として存在するのは気分の移り行きとして存在するにほかならぬが、南洋の人間はかかる移り行きを知らない。（三三頁より引用。）<br>・南洋は文化を産まなかった？<br>我々はこれによって南洋的人間が何ゆえに文化的発展を示さなかったかを理解し得るであろう。南洋の風土は人間に対して豊かに食物を恵む。人間は単純に自然に抱かれておればよい。しかも人と自然との関係は、あらゆる移り行きを含まないものである。人間はその受容的・忍従的な関係において固定する。猛獣・毒蛇との戦いもこの固定を破ることはできぬ。そこでは生産力を発展せしむべき何らかの機縁も存せぬのである。だからまれにジャヴァにおいてインドの文化の刺激により巨大な仏塔が作られたということのほかには、南洋は文化を産まなかった。そうして文芸復興期以後のヨーロッパ人に易々として征服され、その奴隷に化したのである。（三三から三四頁より引用。）<br>・インドの受容的・忍従的なる人間の構造について<br>インドの人間はかかる受容性において優れていた。だからそこには極端な歴史的感覚の欠如とともに、恐ろしく豊富な人生の種々相の洞察がある。（三五頁より引用。）<br>かかるインド的人間はヒマラヤを越えてシナや日本に侵入したが、しかしその侵入の仕方がまた戦闘的・征服的ではなくしてあくまでも受容的・忍従的であった。仏教を通じてインド的人間はシナや日本をおのれに引きつけたのである。シナや日本におけるインド的なるものをそれらの中から引き出したのである。それに反してインド自身が砂漠の侵入を受けた時には、その侵入は戦闘的・征服的であった。インド的人間は内にひそむ砂漠的なるものを引き打さるることなく、ただ外から砂漠に圧倒されて、一層受容的・忍従的になった。（四九頁より引用。）<br>かかる意味においてインドの人間は、その綿(めん)が世界の市場に現わるる現代においても、依然として受容的・忍従的である。無抵抗主義的な争闘がそれを示している。インドの労働者の体力はシナ人よりもはるかに弱く西欧の労働者の三四分の一に過ぎぬと言われているが、それが短時日に革まり得ないように人間の特性もまた短時日には変わり得ないであろう。それは風土的特性である。変革は風土の克服に待たねばならぬ。しかし風土の克服がまた風土的なる特殊の道によるほかないのである。すなわち風土の自覚を歴史的に実現することによってのみ、人間は風土の上に出ることができる。（五一頁より引用。）<br>二　砂漠<br>「砂漠」という言葉は我々がシナから得たものである。これに相応する日本語は存しない。「すなはら」は砂漠ではない。厳密な意味において日本人は砂漠を知らなかった。しからばシナ語としての「砂漠」は何を意味するであろうか。現代のシナ人は日本人からの逆影響によって砂漠をdesertの同義語とする。しかし古き用法においては「砂漠」はゴビの砂漠をその直観的内容とする言葉であった。「砂」はしばしば「流砂」の意義に用いられ、「漠」もまた北方の流砂をさす。それは巨大なる砂海であり、（中略）シナ人はかかる風土の外に住む人間として、この風土をばただ外からながめた特性において（中略）砂海として把捉した。（五二頁より引用。）<br>・砂漠＝人間の有り方<br>吾人は砂漠を「人間の有り方」として取り扱う。この場合、人間が個人にして同時に社会であること、及びかかる人間が歴史的にのみ存在し得ることを前提としているのである。従って人間の有り方としての砂漠は、人間の社会的・歴史的なる性格と離すべからざるものである。砂漠はその具体性においてはただ人間の歴史的社会にのみ現出する。（五四頁より引用。）<br>・乾燥の生活について<br>乾燥の生活は「渇き」である。すなわち水を求むる生活である。外なる自然は死の脅威をもって人に迫るのみであり、ただ待つものに水の恵みを与えるということはない。人は自然の脅威と戦いつつ、砂漠の宝玉なる草地や泉を求めて歩かねばならぬ。（中略）すなわち人は生くるためには他の人間の脅威とも戦わねばならぬ。ここにおいて砂漠的人間は砂漠的なる特殊の構造を持つことになる。人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも対抗的、戦闘的関係として存する。（中略）自然との戦いにおいて人は団結する。人間は個人としては砂漠に生きることができぬ。従って砂漠的人間は特にその共同態において現われる。（五九頁より引用。）<br>自然への対抗は自然に対して人間を際立たせる一切の文化的努力に現われる。それは恵み深き自然に抱かれる態度でもなく、また自然を人間の奴隷として支配する態度でもない。あくまでも自然に対して人間を、あるいは人工を、「対峙」せしめる態度である。（六〇頁より引用。）<br>砂漠においては「人間のもの」は本来すでに自然に対して他者である。（六〇頁より引用。）<br>（前略）自然への対抗が最も顕著に現われているのはその生産の様式である。すなわち砂漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。（六四頁より引用。）<br>砂漠的人間の功績は人類に人格神を与えたことにおいて絶頂に達する。この種の功績において砂漠的人間に拮抗し得るものは、人類に人格的ならざる絶対者を与えたインド人のみであろう。しかしこの人格神も初めは部族の神にほかならなかった。（六八頁より引用。）<br>部族の全体性を神として感ずることは一般に原始宗教の特徴であって砂漠にのみ限らない。しかし部族生活が単に原始的たるに留まらず特に砂漠的生活の様式として意味を持つと同じく、部族神の信仰も砂漠生活の必然性によって他のいずれの場合よりも強烈である。その特異性が部族神を人格神たらしめた。神は「自然と対抗する人間」の全体性が自覚せられたものであり、従って自然の力の神化の痕跡を含んではいない。自然は神の下に立たねばならぬ。（六九頁より引用。）<br>以上によって我々は砂漠的人間の構造を明らかにした。それは「乾燥」である。乾燥とは人と世界との対抗的・戦闘的関係、従って人間の全体性への個人の絶対的服従の関係である。（七一頁より引用。）<br><br>三　牧場<br>ここに牧場というのはWieseとかmeadowとかの訳語である。しかしこの訳語は全然当たっていない。（中略）Wieseに当たる言葉が日本にないということはWieseというものが日本にないことを意味する。日本の草原は利用価値のない、捨てられた土地である。しかるにWieseは、同じく草原でありながら、畑と同じ意味を持っている。（七五頁より引用。）<br>我々の国土から出発して太陽と同じに東から西へ地球を回って行くと、まず初めにモンスーン地域の烈しい「湿潤」を体験し、次いで砂漠地域の徹底的な湿潤の否定すなわち「乾燥」を体験する。しかるにヨーロッパに至ればもはや湿潤でもなければ乾燥でもない。否、湿潤であるとともに乾燥なのである。数字的に言えば、アラビアの雨量が日本の数十分の一であるに対してヨーロッパの雨量は日本の六七分の一ないし三四分の一である。体験的に言えばそれは湿潤と乾燥との総合である。（七七頁より引用。）<br>・従順な自然<br>夏の乾燥――ここで我々は牧場的なるものに出逢うのである。ヨーロッパには雑草がない。それは夏が乾燥期だということにほかならぬ。雑草とは家畜にとって栄養価値のない、しかも繁殖力のきわめて旺盛な、従って牧草を駆逐する力を持った、種々の草の総称である。（八四頁より引用。）<br>日本の農業労働の核心をなすものは「草取り」である。雑草の駆除である。（中略）しかるにヨーロッパにおいては、ちょうどこの雑草との戦いが不必要なのである。土地は一度開墾せられればいつまでも従順な土地として人間に従っている。（中略）だから農業労働には自然との戦いという契機が欠けている。（八七頁より引用。）<br>自然が従順であることはかくして自然が合理的であることに連絡してくる。人は自然の中から容易に規則を見いだすことができる。そうしてこの規則に従って自然に臨むと、自然はますます従順になる。このことが人間をしてさらに自然の中に規則を探求せしめるのである。かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧場的風土の産物であることも容易に理解せられるであろう。（九二頁より引用。）<br>西欧の風土が牧場的であることは、それが湿潤と乾燥との総合、夏の乾燥、というごとき点において地中海沿岸と共通であることによってすでに示されている。（一二二頁より引用。）<br>このように温順な自然は、ただその温順さからのみ見れば、人間にとって最も都合のよいものである。温順の半面は土地が痩せていることであり、従って一人の支配する土地の面積は広くしなくてはならないが、しかし一人の労力をもって何倍もの土地を従えて行くことのできるのは、自然が温順だからである。（一三一頁より引用。）<br>・まとめ<br>かく考えて過去を振り返るとき、我々の祖先がきわめて敏感に急所を直覚していたことを見いださざるを得ぬ。第一にキリシタンに対する異常な傾倒と異常な恐怖とがそれである。キリシタンの侵入はある意味では砂漠的なるものの侵入であるが、それに対する傾倒も恐怖もともに砂漠的なるものがちょうど我々に欠けているものであることの直覚を示すのである。第二には厳密な鎖国を透して徐々に侵入して来たヨーロッパの科学に対する熱烈な関心である。それは己れに欠けている牧場的なるものへの渇望にほかならない。東洋の諸国の中でこれほどの渇望を示したものはどこにもない。ただしかしこれらの直覚において我々の風土が牧場にも砂漠にもなり得ないことの洞察が欠けていた。それが今や我々にとって眼前の問題である。（一四四頁より引用。）<br>二　日本<br>我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。（一六一頁より引用。）<br>「家」は家族の全体性を意味する。それは家長において代表せられるが、しかし家長をも家長たらしめる全体性であって、逆に家長の恣意により存在せしめられるのではない。特に「家」の本質的特徴をなすものは、この全体性が歴史的に把捉せられているという点である。（中略）家族の全体性が個々の成員よりも先であることは、この「家」において最も明白に示されている。（一七〇頁より引用。）<br>最も日常的な現象として、日本人は「家」を「うち」として把捉している。家の外の世間が「そと」である。そうしてその「うち」においては個人の区別は消滅する。（一七三頁より引用。）<br>日本人は外形的にはヨーロッパの生活を学んだかも知れない。しかし家に規定せられて個人主義的・社交的なる公共生活を営み得ない点においては、ほとんど全くヨーロッパ化していないと言ってよいのである。（中略）町をあくまでも家の外として感ずる限り、それはヨーロッパ的ではないのである。開放的な日本の家屋に住み得る限り、彼らは依然として「家」に規定せられているのである。（一七五から一七六頁より引用。）<br>・日本の珍しさ<br>ヨーロッパを初めて見物して何か「珍しい」という印象を受けたかと聞かれると、自分は明白に「否」と答えるほかない。そこには深い感動を与えるいろいろなものがあったが、しかし「珍しい」という点では、途中で見たアラビアやエジプトの砂漠の足下にも及ぶものがなかった。ところで旅行をおえて、日本へ帰って来て見ると、この「日本」というものがアラビアの砂漠にも劣らないほど珍しい、全く世界的に珍しいものであることを、痛切に感ぜざるを得なかったのである。（一八七頁より引用。）<br>日本には明らかに「家」がある。（一九五頁より引用。）<br>日本の社会の欧米化は確かに顕著な現象に相違ないが、しかしそれがいかに顕著であっても、この「家」が頑強に都会の地に食いついて平べったく存している間は、すなわち世にも珍しい不釣り合いが存立している間は、それは根本的にはまだ過去の地盤を離れないのである。（一九九頁より引用。）<br>・『風土』に対する批判<br>第一は、そのイデオロギー的側面に関する。（中略）『風土』は、和辻の独自な「人間の学としての倫理学」と結びつくことによって、「家」の肯定、「家」国家としての天皇制の安易な護持となる半面、「マルクス主義打倒・撲滅のための」武器となっている（後略）（二九五頁より引用。）<br>第二は、和辻の自然の理解についてである。和辻にとって風土とは、自然そのものを第一の自然と仮称すれば、いわば第二の自然であって、人間が長い歴史の過程において、自然の脅威に対峙しつつ、またその恩恵に浴しつつ、じぶんの中にはぐくみ、蓄積してきたところのものである。（中略）和辻の『風土』が、この第二の自然しか問題としていないことは何か問題が残っていることも事実ではあるまいか。（二九六頁より引用。）<br>第三は、学問的手続きである。和辻が風土論において展開する日本文化の位置づけは、和辻がはじめて海外に留学したときのみずみずしい体験と、彼のもつ天才的な詩人的直観によるものであることは何人も否定し得ないところである。（二九七頁より引用。）<br>日本人の風土的構造の間柄的表現は「家」であるという主張のように、論証の不明確な部分がある。<br>
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<pubDate>Thu, 21 Feb 2019 21:47:11 +0900</pubDate>
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