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<title>rishitiのブログ</title>
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<description>主に高等学校の倫理に関する話題です。</description>
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<title>初心忘るべからず</title>
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<![CDATA[ <p>本日は、表題の「初心忘るべからず」についてです。</p><p>この言葉は、日本では室町時代の能の大成者</p><p>世阿弥の言葉として知られています。</p><p>wikipediaには劉禹錫にあると書かれていますが、</p><p>出版されている全集等の注釈には</p><p>特にそのようなことは書かれていませんでした。</p><p>（ことの真相はこれから私も研究してみたいと思いますが…）</p><br><p>さて、「初心忘るべからず」は今日では</p><p>初めて行う時の新鮮な気持ちをいつまでも忘れずに</p><p>という意味で使われますが、</p><p>世阿弥が言う「初心忘るべからず」はそうではありませんでした。</p><p>端的に言えば、初心とは未熟な頃の芸を意味していて、</p><p>未熟な頃の芸のあり様を忘れたら</p><p>また未熟な芸に戻ってしまう</p><p>という戒めとして、語っていました。</p><p>（一方で、そのすぐ後に、この初心の頃の芸をも含めて</p><p>各々の時分の芸を保てという指示も続きます）</p><br><p>なぜ世阿弥の言う「初心」がこのような意味だと言えるのかというと、</p><p>『風姿花伝』第一の二十四・五のところの文章を読むと分かります。</p><br><p>多くの方が誤解して引用されているようです。</p>
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<pubDate>Tue, 21 Sep 2010 10:51:43 +0900</pubDate>
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<title>不正確な読まれ方。</title>
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<![CDATA[ <p>哲学・倫理学など、思想の分野では</p><p>単なる語句の記憶ではなく、</p><p>とりわけ正確な理解が求められるように思います。</p><br><p>ところが、かねてから思っていたことですが、</p><p>高等学校の倫理では</p><p>本来の哲学者（思想家）の意図した意味とは違った形で</p><p>受け取られ、説明されている事柄が沢山あるように思います。</p><br><p>もしかしたら、《受験の倫理》をクリアする上では</p><p>そのような微に入り細に入った正確な読解は</p><p>必要ないのかもしれません。</p><br><p>しかし、</p><p>兎角安易な理解に流されやすい</p><p>近年の傾向に私は危機感を感じています。</p><br><p>そもそも「本当の意味」などというものがあるのか、</p><p>作者（哲学者・思想家）の意図に辿りつくことなどできるのか、</p><p>といった根本的且つ現代的な問題が</p><p>大きく横たわっていることは否定できません。</p><br><p>この問題をいかに乗り越えるかということを</p><p>私はまだ考えられていませんが、</p><p>私がここで目標にしたいのは、</p><p>哲学者・思想家の書物や箴言を、</p><p>誤解無く、正確に読み解くことです。</p><p>いつまで続けられるか分かりませんが、</p><p>思うことのある限り、つづってみようと思います。</p><p>また、私は自分の読解に</p><p>できるだけ根拠を持たせたいと思います。</p><p>他方で、斯く言う私も読解に自身があるわけではありません。</p><p>また人一倍私に理解力がないことも事実です。</p><p>そこで多くの人からこの場を通じて正しい理解に</p><p>至ることが出来れば幸いです。</p><br><p>さて、今日は手始めにモーセの十戒（正しくは十誡だそうですが）</p><p>を取り上げようと思います。</p><p>高等学校の倫理では、どのように学習するのでしょうか。</p><br><p>この十戒の内容は、一般に１～４の項目と５～10の項目の間で</p><p>大きな質的差があると解されます。</p><p>一般に、１～４は神と人との間の契約で、５～10は人と人との間の契約とされます。</p><p>しかし、第５戒「父母を敬え」は、</p><p>ヘブライの伝統により父母が神と直接する目上の者一般を指すと解せば、</p><p>１～４の項目と６～10の項目のかけはしになっていると捉えうるそうです。</p><p>これは、関根清三先生の教えです。</p><p>問題は、十戒を日本語訳したとき「～するなかれ」という文言になりますが、</p><p>関根先生の著作によれば、</p><p>この部分の原語は、ヤハウェの愛に本当に気付いた者は「～しうるはずがない」<br>という不可能性の断定の表現なのだそうです。</p><p>だから、刑法や道徳と同じ次元でこの部分を扱ってしまっては</p><p>理解が不正確になってしまうことが分かります。</p><p>また、仏教など、他の宗教にも不殺生戒などがありますが、</p><p>これも同じ次元で扱ってはならない（＝根拠が異なる）</p><p>ことは言うまでもありません。</p><br><p>この十戒の本当の解釈を知り、</p><p>私はとても驚きました。</p><p>以来、正確に物事を理解することの大切さを学びました。</p>
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<link>https://ameblo.jp/1869-1869/entry-10653766925.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Sep 2010 11:10:25 +0900</pubDate>
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