<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>心の病は薬では治らない。体の病とは違って。 ～２１世紀は心の世紀～</title>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/21cocoro/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>このブログは私・星健一（仮名）の人生体験記です。１５才からの人生を【本編】として読んでもらえると、光栄です。１５才からの２３年間にわたる苦難の歩みが、誰かの希望の笑顔へと繋がっていると信じつつ。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>心の世紀　</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　～段階的脱薬物の精神医療時代を～</p><br><br>　現在、精神医療の分野においては薬物を用いた治療が盛んに行われています。これは、患者に対して簡単に、精神的に作用させる薬を処方するというものです。<p></p><br><p>　現状、多くのうつ病をはじめとする心の病の人々は無造作に薬を飲んでいます。医者、患者ともにそれが当たり前といわんばかりに。</p><br><p>　現代に生きる人々は、日本のみならず世界中、このような状況に疑問を持たない人が多数派であると思います。世界的にみると日本は精神医療分野での薬物処方量が多すぎる、とＷＨＯ（世界保健機関）から指摘を受けています。</p><br><p>　これは一部の入院患者に対して一日の限界摂取量を超えた薬物投与が行われている事の反映です。また、通院患者にも風邪薬を出す事と同様の感覚で精神薬が出されている事も指し示しています。</p><br><p>　しかし、多くの患者は薬を飲む事を歓迎しているようには思えません。心の病とされる多くの人々は、むしろ会話を通した心の治療を望んでいるのではないでしょうか。</p><br><p>　現在、カウンセリングには健康保険が適用されていません。このためカウンセリングを受けようとすると多額の費用がかかってしまいます。その為に、臨床心理士などの資格をもった人達に相談しようと思っても金銭的な余裕のある人たちだけに限られてしまいます。</p><br><p>　国は予算を組み、カウンセリングに健康保険を適用させるべきだと思います。</p><br><p>　多くの人達が気軽にカウンセリングが受けれるような体制づくりが必要です。</p><br><p>　それによって、心の病とされる人達は薬を飲んで病気に対処するか、薬を飲まずに対処するかの選択権が獲得できるのです。</p><br><p>　精神的な薬がどの程度、効果をもたらすのか。また、どの程度、弊害的な作用を及ぼしているのか。実際のところは患者さんたちの自由な選択のもとに客観的に検証してみる事が一番分かりやすいはずです。</p><br><p>　そのためにも、薬を飲む、飲まないの選択の自由が患者側には必要なのです。</p><br><p>　もっとも、現状の体制でも心の病を抱える人が薬を飲まないという選択をする事は出来ます。</p><br><p>　しかしながら、病院へ行き、医者に病名をつけられ薬を出されてしまうと、ほとんどの人は薬物治療のレールに乗ってしまいます。</p><br><p>　長い歴史の上で、その時代の医療行為が部分的に適切ではないという事は、たまに起きる現象です。</p><br><p>　ことさら、心の問題を医療の分野が積極的に扱うようになったのは比較的、近年の事なのです。</p><br><p>　科学的な根拠という、うたい文句の名のもとに精神医療は薬物治療を行っています。しかし、脳内の神経伝達物質の変容が心の治療である事を“科学的な根拠”といえるのでしょうか。</p><br><p>　精神医療の現場は少ない医者に対して多くの患者が押し寄せ、混迷を極めています。</p><br><p>　心にあらゆる悩みを抱えた方々が薬を飲み、症状が改善しない事に一番気付いているは医者のほうかもしれません。患者が薬を飲み、起きる現象は精神活動と肉体活動の質の低下です。</p><br><p>　薬を飲まないと自殺をしてしまうから飲んだ方がいい、という呼びかけはおかしなものです。</p><br><p>　自殺と薬は、何の関係もありません。飲んだから自殺をしないのか。いやいや、飲んだ方が自分の状態に絶望して自殺をしてしまうのか。比べてもいないのに断定なんか出来るはずないんです。</p><br><br><p>　そもそも、自殺は人生に絶望した結果に起きる行動です。自殺に対処する“心の薬”は希望です。</p><br><br><p>　薬を飲んで自殺を思いとどまる人がいるならば、薬にすがる気持ちがわずかな希望の光になっているからであり、薬自体には効果が無いでしょう。</p><br><br><p>　心は心です。脳は心の働く“場”なのです。つまり、脳がそっくりそのまま心という訳では無いのです。<br><br></p><p>　まずは、国が予算を計上してカウンセリングに保険を適用させる事です。</p><br><br><p>　精神医療の分野を担う人達は薬物治療のみに固執することなく、柔軟な姿勢で心の問題に取り組むべきです。人類史上、医療が心の病を扱う事は難事中の難事です。</p><br><br><p>　不可思議に満ちた心の分野に対応するには、謙虚な姿勢が何より大事です。</p><br><br><p>　医療を行う側にいるからといって謙虚な姿勢を失えば、自分も他人も苦しむ事になるでしょう。</p><br><br><p>　医療は人の為にあります。政治も人の為にあります。</p><br><br><p>　何が本当に人の為になるのか。</p><br><br><p>　カウンセリング保険適用時代へ向け、舵をきる英断を強く望んでやみません。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-12022876983.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2015 18:33:37 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>治病大小権実違目（治病抄）</title>
<description>
<![CDATA[ 　日蓮大聖人の治病大小権実違目について、用語の解説を中心に見直してみました。<br>　ひとつひとつの語句は難解に感じますが、述べたい趣旨は単純です。<br>　それは“体の病は薬で治るが、心の病は薬では治らない”ということ。<br>　それを表現するために無量不可思議阿僧祇劫もの昔の名医を対比させる形で登場させています。時間的スケールを大きくとり、過去遠々劫（ｵﾝﾉﾝｺﾞｳ）から未来永劫にわたって変わらない事象であることを教えてくれています。<br>　そして、その根底には、仏に備わる智慧と慈悲が燦然（ｻﾝｾﾞﾝ）と輝いています。　<br><br>　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br><br>　<font color="#0000FF">｛それ人に二の病あり。一には身の病・いわゆる地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・いじょう四百四病なり。この病は設（タト）い仏に有らざれども・これを治す。いわゆる治水（ｼﾞｽｲ）・流水（ﾙｽｲ）・耆婆（ｷﾞﾊﾞ）・扁鵲（ﾍﾝｼﾞｬｸ）等が方薬・これを治するにゆいて、癒えずという事なし。二には心の病・いわゆる三毒ないし八万四千の病なり。この病は二天・三仙・六師等も治しがたし。いかにいわんや神農（ｼﾝﾉｳ）・黄帝（ｺｳﾃｲ）等の方薬、及ぶべしや。（以下略）｝</font><br><br>　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br>　<br>　<font color="#0000FF">人には二つの病がある。一つは身の病（体の病）。身の病には、地大百一・水大百一・火大百一・風大百一の、四百四病がある。これらの病は、たとえ仏でなくても治す事ができる。治水（ｼﾞｽｲ）・流水（ﾙｽｲ）・耆婆（ｷﾞﾊﾞ）・扁鵲（ﾍﾝｼﾞｬｸ）などが薬を使い治せば、癒せずという事はない。二つめは心の病である。心の病は三毒であり、八万四千の病である。この病は二天・三仙・六師なども治すことは出来ない。ましてや、神農（ｼﾝﾉｳ）・黄帝（ｺｳﾃｲ）などの薬が及ぶことはない。</font><br><br>　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br><br>　<font color="#0000FF">“人には二つの病がある。一つは身の病（体の病）。身の病には、地大百一・水大百一・火大百一・風大百一の、四百四病がある。”</font><br><br>　仏法上においては、体の病には四百四病があるという事になっている。<br>　これらは“地・水・火・風”の四大（ｼﾀﾞｲ）から成っている。<br>　<br>　四大とは古代インドにおける元素論であり、物質を構成する四種の根本の元素をいう。<br>　“大”とは梵語（ﾎﾞﾝｺﾞ）マハーブータの訳で、元素という意味である。また、“大”には、広く宇宙に遍満するという意味もある。<br><br>　人の体において“地”とは、骨、髪、毛、爪、歯、皮、筋肉などにあたる。<br>　“水”は血液などにあたり、“火”は体の暖気などにあたり、“風”は呼吸にあたる。<br><br>　人の体は四大によって作られているとされる。複数ある、人に起こる病気の原因の一つとして、四大の不調和がある。<br><br>　<font color="#0000FF">“これらの病は、たとえ仏でなくても治す事ができる。いわゆる、治水（ｼﾞｽｲ）・流水（ﾙｽｲ）・耆婆（ｷﾞﾊﾞ）・扁鵲扁（ﾍﾝｼﾞｬｸ）などが薬を使い治せば、癒せずという事はない。”</font><br><br>　治水とは、金光明経に説かれる名医である。<br>　無量不可思議阿僧祇劫（ﾑﾘｮｳﾌｶｼｷﾞｱｿｳｷﾞｺｳ）もの昔、宝勝如来の像法時代に天自在光王がいた。<br>　王は正法を信じ、法に随って世を治めていた。<br>　その王の国に治水という長者がおり、医術に詳しく多くの衆生を病苦から救った。<br>　ある時、国内に疫病が流行した。その時、治水は老いていたので治療にあたる事が出来なかった。<br>　しかし、子の流水が治水から法を学んで治水の代わりに治療にあたった。<br>　そして、多くの衆生を病苦から救った。<br>　流水は古昔（ｺｾｷ）の名医の代表格である。<br><br>　耆婆（ｷﾞﾊﾞ）は釈尊在世時代の名医である。医学を７年学び、のちに難病を治して“医王”の名をあげた。<br>　仏教を深く信奉し、忠節な大臣として阿闍世（ｱｼﾞｬｾ）王に仕えた。<br>　阿闍世王に対し釈尊に帰依することを勧めた一人であり、王を帰依へと導いた。<br><br>　扁鵲（ﾍﾝｼﾞｬｸ）は中国、周時代（紀元前１１～３世紀頃）の名医である。<br>　少年時代から長桑君（ﾁｮｳｿｳｸﾝ）のもとで医術を学び、すべての医術に長じた。<br>　扁鵲の医術と名声は長く中国に伝えられ、名医の代名詞ともなった。<br><br>　体の病に関してはこれらの名医たちが調剤した薬によって、癒せないという事はない。<br><br>　<font color="#0000FF">“二つめは心の病である。心の病は三毒であり、八万四千の病である。”</font><br><br>　三毒とは、貪（ﾄﾝ）・瞋（ｼﾞﾝ）・癡（ﾁ）の三煩悩（ﾎﾞﾝﾉｳ）である。<br><br>　煩悩とは、心身を煩（ﾜｽﾞﾗ）わし､悩ませるはたらき、という意味。<br><br>　この三種の煩悩は、全ての煩悩の根本であり、全ての煩悩を含み、衆生を今世、後世にわたって害するので毒と名づける。<br><br>　貪（ﾄﾝ）とは、むさぼり。満たされず、際限なく貪（ﾑｻﾎﾞ）ること。<br><br>　瞋（ｼﾞﾝ）とは、いかり。満足がいかないことへの瞋（ｲｶ）り。いかりの感情に左右され、他人を恨むこと。<br><br>　癡（ﾁ）とは、おろか。根本の真理、正法を知らない癡（ｵﾛｶ）さ。<br>　なかでも癡は、無明（ﾑﾐｮｳ＝物事をありのままに見られない迷いの生命）であり、最も根源的なものとされる。<br><br>　八万四千の病とは、八万四千の煩悩という意味。<br>　八万四千の塵労（ｼﾞﾝﾛｳ）ともいう。<br>　一切の煩悩について説き明かした法門（教え）のことを八万四千の塵労門という。<br>　八万四千は、実際の数を示す場合もあるが、通常は大数を表すので“数多くの”という意味。<br><br>　二つめは心の病である。心の病とは三毒の煩悩であり、八万四千の煩悩の事を指し示している。<br><br>　<font color="#0000FF">“この病は二天・三仙・六師なども治すことは出来ない。”</font><br>　<br>　二天・三仙とは、釈尊の出現以前に崇拝された二天と三仙人のこと。<br><br>　仏教の内道に対して、仏教以外の教えを外道といい、外道の信仰対象となっていた。<br><br>　二天とは、もともとはインドのバラモン教の神である摩醯首羅天（ﾏｹｲｼｭﾗﾃﾝ）と毘紐天（ﾋﾞﾁｭｳﾃﾝ）。<br><br>　三仙とは、サーンキヤ学派の祖である迦毘羅（ｶﾋﾞﾗ）、<br>　ヴァイシェーシカ学派の祖である漚楼僧佉（ｳﾙｿｳｷﾞｬ）、<br>　尼乾子(ﾆｹﾝｼ)外道の祖である勒娑婆（ﾛｸｼｬﾊﾞ）のこと。<br><br>　六師とは、釈尊の在世当時に中インドに勢力のあった六人の外道論師のこと。<br><br>　人間はたとえ何を行っても悪にも善にもならないという、道徳否定の富蘭那迦葉(ﾌﾗﾝﾅｶｼｮｳ)。<br>　すべてはあるがごとくにあり、なるがごとくになると唱える、自然主義的宿命論の末伽梨拘舎梨子(ﾏｶﾞﾘｸｼｬﾘｼ)。<br>　人知に疑いを持ち、判断中止の思想を主張する、懐疑論の刪闍耶毘羅胝子(ｻﾝｼﾞｬﾔﾋﾞﾗﾃｲｼ)。<br>　人間は死ぬと無に帰すという断滅論を説き、したがって善悪の業の果報も受けることがないとして、現世の快楽説と唯物説を主張する阿耆多翅舎欽婆羅(ｱｷﾞﾀｼｼｬｷﾝﾊﾞﾗ)。<br>　因果否定論の迦羅鳩駄迦旃延(ｶﾗｸﾀﾞｶｾﾝﾈﾝ)。<br>　ジャイナ教開祖で、苦行論の尼乾陀若提子(ﾆｹﾝﾀﾞﾆｬｸﾀﾞｲｼ)。<br><br>　この六派は常に争論し九十五派ほどに分かれていたが、釈尊により徹底的に論破された。<br>　この病（心の病）は、これら二天・三仙・六師などが治すことは不可能である。<br><br>　<font color="#0000FF">“ましてや、神農（ｼﾝﾉｳ）・黄帝（ｺｳﾃｲ）などの薬が及ぶことはない。”</font><br><br>　神農とは、中国古代の伝説上の帝王。<br>　易経（ｴｷｷｮｳ）によれば、初めて民に農耕の道を教えたので神農という、とある。<br>　数多くの草木を嘗味して製薬の法をはじめ、火をもって徳として民を治めたという。<br><br>　黄帝とは、中国古代の伝説上の帝王。<br>　五穀の栽培を教え、衣服、家屋、文字、医術などの発明者とされ、中国に初めて文化生活をもたらした人物とされている。<br>　<br>　ましてや、神農・黄帝などが調剤した薬が心の病を治すこともない。<br><br>　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br><br>　以上、日蓮大聖人の治病大小権実違目について、用語の解説を中心に見直してみました。<br>　ひとつひとつの語句は難解に感じますが、述べたい趣旨は単純です。<br>　それは“体の病は薬で治るが、心の病は薬では治らない”ということ。<br>　それを表現するために無量不可思議阿僧祇劫もの昔の名医を対比させる形で登場させています。時間的スケールを大きくとり、過去遠々劫（ｵﾝﾉﾝｺﾞｳ）から未来永劫にわたって変わらない事象であることを教えてくれています。<br>　そして、その根底には、仏に備わる智慧と慈悲が燦然（ｻﾝｾﾞﾝ）と輝いています。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-12019130330.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Apr 2015 16:20:40 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ブログを作るにあたって</title>
<description>
<![CDATA[ 　２０１３年９月、大学の“同窓の集い”が開催された。そこで大学時代の旧友たちと再会し、夜は数人と飲み会をした。１０年ほど交流が途絶えていた、同窓の友との会話は新鮮なものだった。<br><br>　自分の状況や、考えを話した事を受けて、友人の一人が「何か形にして欲しいよね」という言葉を掛けてくれた。もともと、大学時代のゴルフ部の友人に見せる為に用意していた、数枚の文章が手元にあった。それは自分の１５～１７歳の経験をつづった物だ。しかし、ゴルフ部の友人は当日、同窓の集いには不参加だったようだ。そして、「何か形にして欲しいよね」と言ってくれたので、文章を読んでもらう事にした。数人の友人たちは、自分の経験や考えに、それなりの理解を示してくれたと思う。<br><br>　そして、年末の忘年会か新年会までに、自分の考えと、人生をまとめた文章を書いて、友人たちに見せる予定を立てた。この日は、これまでの人生の中で“友人が財産である”と最も実感した日だった。<br><br>　忘年会の予定だった飲み会は、飲み会好きな一人の後輩が幹事役となり、２ヶ月後の１１月に設けられた。自分の人生をまとめた文章は、あと一歩で原案の完成という所まで来ていた。この時点で３０ページ分の文章量があったので、友人たち数人に、それぞれ手渡しすると、かさばってしまう。そこで、ブログを作って、ブログを通して友人たちに読んでもらう案を思いついた。<br><br>　そもそも、少し前から、自分の考えを広く多くの人に知ってもらいたい、という気持ちも芽生え始めていた。特に、心の病に苦しんでいる多くの人達には知ってもらいたい。さらには、その家族の方や、その友人たち、と広げていけば、この問題に無関係な人など現代には、いないのではないだろうか。<br><br>　これまでに、カウンセラーという職業を模索してきた事もあり、自己分析を少しばかりしていた。それが、自分の人生をまとめる上では、役に立ったと思う。０才から１５才までの人生も、まとめてあるが、“付録”みたいな物だと思っている。人生の重要な幕開けである、１５才からの人生を“本編”として読んでもらえると、ありがたい。<br>　<br>　ブログを作る、きっかけを与えてくれた友人たちに感謝する。１５才からの２３年間にわたる、苦難の歩みが、誰かの希望の笑顔へと繋がっていると信じつつ。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877902968.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:39:24 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>０才～幼稚園　 【付録】</title>
<description>
<![CDATA[ 　１９７５年（昭和５０年）１０月、「健一（仮名）」生まれる。実際の名前は、創価学会第三代会長の池田先生に命名していただいた。そして、両親が考えた名前の候補には、健康第一の“健一”があったらしい。健康第一との願いには、父が若くして死に直面するほどの病に瀕した経緯がうかがえる。<br><br>　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br><br>　父が大学４年の時である。原因不明の腎臓(ｼﾞﾝｿﾞｳ)の病気を患った。それは、必要な栄養素が体外に排出されてしまうという病気だった。原因不明とはいえ、精神的なものが多大に影響しているのではないかと医者は判断した。父は戦時中の１９４３年に生まれ、両親との縁がうすい。母親に抱えられ防空壕に逃げ込むシーンをうっすら記憶しているという。幼くして両親と死に別れ、父親の記憶は全くなく、物心ついたときは近所の親戚の家で暮らしていた。小学校を卒業すると同時に海辺のふるさと・京都府舞鶴を離れた。そして、大阪の親戚の家にお世話になり、中学生活をスタートさせた。新たにお世話になる親戚夫婦は、子供を授かりたかったものの、子宝に恵まれなかったという経緯があった。父は多感な思春期を向かえるなかで、新たな親子関係を築いていく必要にせまられた。特に母の愛をジレンマの中で求める気持ちと、義母の我が子を愛する心の行き違いには心労を要した。そんな中でも勉学に励み、医者になる夢を描いたりもした。医者とまではいかなかったが、大手製薬会社に内定が決まった大学４年に大病は発生した。入院して治療に専念するも、これといった治療法があるわけでもなく、病状は一向に好転しなかった。そんな最中、お見舞いの柿を食べ、食あたりを起こし病状は悪化した。そして、死を迎える人が見るという“あの世への扉”を見るにまで至った。しかし、姉が駆けつけた瞬間に父は生気を取り戻した。姉は“自分の寿命を縮めてでも弟を助けたい”と真剣に御本尊に祈ってくれていた。姉が来てから病状も良くなり、退院する事が出来た。父はその後、入信し、心も体も元気になった。しかし、闘病生活が長引き内定取り消しとなった為、大学を２年間留年し、海運会社に就職した。信心を始め、親元を離れ、自立生活をしながらの留年２年間は、父の生命蘇生、復活劇の幕開けだった。<br><br>　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br>　　　<br>　栃木県那珂川(ﾅｶｶﾞﾜ)町は母の故郷だ。１９７５年、１０月に二人目の子供を生む為に母は帰郷した。生まれた直後に父は「ちゃんと手と足はついてるか」と二歳上の姉の出産後と同じセリフを口にした。東京、杉並のマンションから大阪、寝屋川へと引っ越したのは翌春の事である。新居に到着した直後のあわただしさを薄っすら記憶している。まだ６ヶ月の赤ん坊のベットを早く組み立てるように父に催促している母の声が耳朶(ｼﾞﾀﾞ)に残っている。やがてベットは完成し、寝かされる。ベットは２階に設置された。赤ちゃんとって、母を呼ぶ行為は“泣く”という行動で表される。それまでと違い、一階にいる母を呼んでも来てもらえるまでの時間が長くなったような不快感も脳裏にうっすら残っている。<br><br>　記憶をひも解けば、体を自由に動かしたいのだが、なかなか思うように体が動いてくれない、赤子の体性感覚までよみがえる。さらには、母から名前を呼びかけられた時は“はて、自分はそんな名前だったっけなー”とチョットした違和感のような不思議な感情すら持った事もあった様に思う。<br><br>　多くの人は自分が歩けるようになった時の記憶は残っていないらしいが、自分は母とのやりとりを通して、よく覚えている。母が「まだ少し早いかなー」などと言い、自分を立たせて歩かせようと試みていた。日を置いて、２度か３度か失敗すると「やっぱりまだ無理かー」と母は言った。少しがっかりした様子の母に対して、期待に応えられない“もどかしさ”みたいなものを感じた。やがてフラフラと歩けるようになると、母は喜び写真を撮った。写真に写しだされた“満面の笑み”には、自分と母の二重の喜びがあった。<br><br>　すこし大きくなり、走り回れるようになると、同い年の遊び仲間が二人できた。一人は学会の子で、もう一人は学会の子ではなかった。大勢で遊ぶ事もあったが、この二人とは家が近かったので“仲良し三人組”としてよく遊んだ。三人組といっても実際は、どちらかの一人と二人で遊ぶ事のほうが多かったかもしれない。三人のうち、二人が学会だったので“なんで○○君は学会じゃないのか”それぞれの親達に聞いたりしたが、返事は曖昧(ｱｲﾏｲ)なものだったと思う。<br><br>　幼稚園にあがると、母のいいつけで勤行を覚える事になった。勤行をしないと、夕食を食べさせてもらえない。勤行は主に、２才上の姉から教わった。歳が２才しか離れていないのに、経文をそらんじる姉のことをすごいと思った。<br><br>　幼いときから、小児ぜんそく持ちで、たまに体調を崩すと発作が起きた。幼稚園の年長になると、お泊り会なる行事がある。どこかのお寺に皆で泊まるイベントはチョットした大人への階段なのだろう。しかし、そんな日の前日に限って、ぜんそくの発作が起きてしまった。おとまり会に行けなくて残念だったが、母は他宗の寺に泊まらせずに済んだ事を喜んだ。翌日、おとまり会から帰ってくる友達を待つ為にわざわざ外に出た。しばらくして帰って来た友人から、おとまり会の様子を聞いた。「いろんな人が夜寝るときに泣いていた」などと聞いた。みかん狩りともセットだったし、やっぱり行けなくて残念だったと思った。<br><br>　小児ぜんそくの発作は、ときに激しいものとなった。軽い時は、肺がゼーゼーいうくらいだったが、ひどい時は息ができなくなり、首をしめられているような状態に近かった。発作は、たいてい夜に起きる。そんな時は母は題目を唱えてくれ、自分は母の後ろで寝ている。発作がひどくなってくると、母にうながされ、自分も息が出来ないような状態で一緒に題目を唱えた。そして、あまりに発作がおさまらない時は、母が自分をおんぶし、近くの病院へと走った。そんなことが何度かあったので、医者は劇薬の吸引薬を渡してくれた。「大人になってから心臓に悪影響が出る事があるので、なるべく使わないよう」にと注意され、この吸引薬を受け取った。中学生になるまでは、年に何度か大きな発作が起きた。その度に、息が出来ないような状態で、苦しくて涙を流しながら題目を唱えた。ぎりぎりまでは我慢したが、もう肺が空気を受け取れなくて、苦しくて死んでしまう、という所まで来ると吸引薬を吸った。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877902192.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:37:39 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小１～小２･夏</title>
<description>
<![CDATA[ 　小学校に入学して何日か過ぎたある日のこと。クラスのみんなにプリントを留めるファイルが配られた。そのファイルのアルミ製の留め棒を折り曲げてしまった。そこで、クラスの半数程の人たちが席を離れ、動き回っているすきに、自分の留め棒と交換した。席に戻ってきた女の子は、折り曲がった留め棒にショックを受けて泣き出してしまった。先生も巻き込んで犯人探しが始まるかと思いきや、先生も困った様子で、自主的に名乗り出るのを待つことしかしなかった。自分は、名乗り出なければ絶対にばれないと自信があった。しかし、クラスメイトと先生の悲しげな様子に“後味の悪さ”を感じた。それ以降は、周りにばれないからといって、他人を悲しませるような事は、しない様にしようと思った。<br><br>　２年生になると、音楽に使う縦笛がみんなに配られた。下校途中の事である。歩いてるときにランドセルを不意に開けられ、縦笛を放り投げられた。クラスの中でも体が大きく、気も強そうな感じのクラスメイトだった。放物線を描きクルクルと回転しながら宙を舞う縦笛を二人で眺めた。そして、自分が注意を怠ったという意味を込め「しまった！」と言った。投げた方は“してやったり”といった感じだった。次の瞬間ランドセルが勢いよくバタンと音をたてて閉まった。それをうけて自分は「ランドセルがしまった」と言う。すると、悪さをしたクラスメイトの彼は「ハッハッハッ」と大笑いをし始めた。しばらく笑い、そのあと「おまえ面白いな、よし、俺が笛を取ってきてやるぞ」などと言い、草むらへと走り出した。そのあとも彼は上機嫌で、話しながら途中まで一緒に帰った。悪さを働くイタズラっ子が“笑いの力”で急に、いい友達に変身するさまにビックリした、印象的な出来事だった。<br><br>　小学生になった頃には勤行を暗記して憶えていた。そこで、クラスの友だち数名に勤行を聞かせてあげた事があった。しかし、周りで聞いていた数名は、気味悪がったのか知らないが、みんなその場を離れて、何処かへ行ってしまった。<br><br>　小学２年のある日には、給食の時間に騒ぎ出した６人が廊下に立たされた。そして“謝らないと給食は抜き”と先生は提示してきた。他の５人は、相談の結果、先生に謝ると決めた。しかし、少しばかり盛り上がっていた事の何が悪いのかと、納得のいかない思いがあった。自分は給食と交換条件というところに納得がいかなっかった。“なぜ、いけないのか”の理由の説明もなく、給食と引き換えに謝罪を要求してくる感じに、素直に謝る気になれなかった。そして、一人だけ最後まで意地を張り、廊下に居つづけた。給食の時間の終わりの頃、クラスの皆の前で「給食は要りません」と意地を張り続け、最後には、先生に「もういいから、給食を食べなさい」と大声で言われた。先生の言う事を変えさせた事に一定の満足感を得たものの、お互いに納得の行かぬままだった。実際はお腹が空いていたので、そうじ時間に、ひとり給食を食べた。ほうき掃除をするクラスの女子からは「バカねー」と軽く言われたが、もくもくと給食を食べた。<br><br>　夏休みのある日、薬をもらう為に一人で病院に向かった。母からは「創価高校の甲子園での活躍よかったね」と伝言を伝えるように言われていた。病院の受付をしている母の知り合いに伝言を伝えると｢創価高校よかったね」とお返しの伝言を受け取った。そして、家に戻ると母に伝言を伝えた。この二人のやりとりを通して“創価高校って、すごいところなんだなー”と思った。<br><br>　小学２年の夏休み中に大阪から神奈川へと引っ越した。担任の先生からしてみれば、扱いづらい生徒という印象だったかもしれない。一学期の最後の方に、事前に引越しの報告を先生にしたのだが「皆がビックリするからお別れ会は、しない事にしましょう」などと言われた。引越しを済ませ、２学期が始まってしばらくすると、大阪の元担任から教科書と手紙が郵送されてきた。手紙の内容は、２学期が始まって、星君が引っ越し、居なくなってしまった事をクラスの大勢がすごく残念そうにしたという。なぜお別れ会を開いてくれなかったのかと、みんなに言い寄られた。といった内容だった。その文章からは、せめて、お別れ会を開いてあげるべきだった、という女の先生の気持ちが伝わってきた。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877901696.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:36:21 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小２･秋～小４</title>
<description>
<![CDATA[ 　神奈川へ引越してくると、学校ではサッカーが人気の遊びだった。休み時間や放課後にはサッカーを通じてたくさんの友達ができた。４年生からは学校主催のサッカーチームにも入った。家に帰ると同じマンションの友達数名と連れだって遊んでばかりいた。公園ではサッカー、野球など。マンション周辺ではオリジナルなルールの遊びを考案して遊んだりもした。穴あきプラスチックボールでゴルフをしたりもした。流行のテレビゲームも皆で遊んだりした。夏場は歩いていける、プールに皆で行き、水球に似たルールのプールサッカーなる遊びを考案して皆で遊んだりもした。<br><br>　３年生の頃に、先生やクラスの数名と輪になって話していると「星くんは、いつも笑顔の星くんだね」と言われた。そして、その場のみんなが「そうだね、そうだね」と言った。自分では普通にしてるつもりだったが、周りから見ると、いつもニコニコ笑ってる印象だったようだ。<br><br>　４年生の頃だったか、ある日、クラスで事件が起きた。その日は年に何度か起きる、ぜんそくの為に学校を休んでいた。事件のあった翌日、学校へ行くと一人の生徒が首にギブスを巻いていた。前日にクラスの男子達がふざけていて、プロレスごっこ始まったという。後ろから走ってきて首に腕をぶつける技を何度もしていたらしい。そのうちに一人が思い切り力を込めて腕をぶつけられ、首に大きな怪我をしたのだった。学校でその話を聞いたとき、クラスの数人に「もし昨日、星が居たら、あそこまでの事件にはならなかった」と言われた。「そんな事はないんじゃないか」と言い返したが「いや、星が居たらきっと、ある程度のところでみんなを止めてくれていたはずだ」と別のクラスメイトにも言われた。あんまり言われるので「たしかに、そうかもしれないねー」などと返事をした。<br><br>　４年生の後半からは学会の合唱団に入る事を勧められた。姉も合唱団に入っているし、親の知り合いの一学年上の友人も合唱団に入っていた。けれど、男が歌を歌う集団に入るのはナンカかっこわるいと思った。なので、入りたくないと拒み続けていた。そんな時期の音楽の授業で歌を歌っている時、不意に涙が出るくらいの感動が込み上げて来た。そんな事はこれまでに一度もなかった事だった。それで“「歌」っていいものだなー”と思い、合唱団に入るテストを受ける事にした。あとから聞くと、一学年上の友人が３日間、一時間の唱題をしてくれ「健一が合唱団に入るように」と祈ってくれていた。その友人には、気が変わった理由を気恥ずかしくて内緒にしてしまったが、“祈りは届く”という事を実感させてもらう機会となった。<br><br>　学会の少年部員会や合唱団では、担当者の人に「池田先生の御期待にこたえられる人材になる」という事を教えられた。当時、どこまで自覚していたか分からないが「池田先生の御期待にこたえられる人材になれるように頑張ります」と言うと担当者の人が喜んでくれるので、そう言う事にしていた。横浜の銀河合唱団が池田先生の前で歌を披露したと聞くと、自分たちの川崎合唱団も池田先生の前で歌を披露する事に憧れたが、実現は叶わなかった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877901097.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:34:38 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小５～小６</title>
<description>
<![CDATA[ 　小学５年の授業参観は理科の実験の授業だった。ロウソクの炎をビーカーで被せた時、炎が消えるか、消えないかを皆で予想し、手を上げた。そして、自分一人だけが消える方に予想し、手を上げた。結果、炎は消え、皆ビックリしていた。先生は授業参観に、もってこいの授業を用意していた、といった様子だろうか。「学校では、いい生徒でいる事が学会の素晴らしさを証明する事になる」と学会のお姉さんからは言われていた。自分は“そこまで、いい生徒ではない”と自分の事を思っていた。なので、少し窮屈(ｷｭｳｸﾂ)な感じもしたが“チョットは、いい生徒でなければいけないか”とも思った。そして、たくさんの保護者たちが見守る中、自分だけ正解を予想できた事は“学会の証明が少し出来たかな”と二重の意味でうれしかった。<br><br>　ある日のバスの席決めのとき、クラスには酔いやすく、いつも吐いてしまう男子がいた。体がクラスいち大きく、縦笛を情感豊かに演奏する彼は、担任に酔いやすい事を申し出た。すると先生は「それなら星のとなりの席にしよう」と言った。そう言われて自分も快く承諾した。当日、バスガイドのお姉さんに「バス酔いしやすい人が居たら、となりの人が気を利かせて“だいじょうぶ？”って声をかけてあげましょう」とアナウンスされた。そして、さっそく「だいじょうぶ？」と聞いた。その後も何度か「だいじょうぶ？」とか「吐きたかったら吐いてもいいんだよー」なとと声を掛けた。しかし、あまりしつこいのも何なので、声かけは３回位にしておいた。そして“もう、だいじょぶそうだな”と思った。無事バス旅行も終わり、となりの彼は「星くんが声をかけてくれて、安心して、吐かずにすんだ」と先生に言った。先生は「そうか、そうか、よかったな」と満足げな笑みを浮かべながら言った。<br><br>　林間学校は箱根へ行った。大涌谷(ｵｵﾜｸﾀﾞﾆ)の、とある一角に小さな穴が地下へと深くまで続いている場所があった。その穴からはヒューヒューと音が聞こえ、それは地獄の人達の声とされている場所だった。クラスメイトがその音を聞いて「地獄の人の声なんか聞こえない」と感想を言った。今度は自分が聞いてみた。すると、風の音が人のうめき声のように聞こえ、「たすけてー、たすけてー、」と、うったえているかの様に聞こえた。先生は「そうか、そうか、星には聞こえるか」と、にこやかに言っていた。<br><br>　５，６年生では学級委員をやることが多かった。学期ごとに学級委員を多数決で決める事になっていたが、６年のある学期で先生が「男子は星ばっかりで飽きたから、星以外で決めよう」と言った。そうやって決まった事もあってか、新たな学級委員はあまり乗り気ではなかった。それをうけて先生は「やっぱり学級委員は星だなー」とつぶやいていた。<br><br>　月に何度か行われる、授業のクラブ活動でもサッカークラブを選んだ。５・６年生、合わせて８０人くらいの一番人気のクラブだった。６年生では“サッカーのうまさ”というよりは、推薦されて、人望で部長になった。しかし、一度、対戦リーグ表を自宅に忘れてしまった時があった。この時は顧問と８０人に謝り、なんとかお許しをもらうのに冷や汗ものだった。<br><br>　６年生の５月には運動会があった。運動会の数日前には、公園でサッカーをしていた。そして、ドリブルを急停止した時、ぬかるみに足を滑らせて、左腕を骨折してしまった。運動会に向けて、組み体操では、三重の塔の中段として練習に励んでいた。頑張って練習してきたのに、運動会で三重の塔が出来ない悔しさに、病院で涙が溢れてきた。その後、自分の抜けた三重の塔は練習で失敗する事が多く、本番で成功するか心配だった。小学生最後の運動会が見学だけになってしまって残念だったが、なんとか三重の塔が成功してくれて良かった。<br><br>　合唱団では大きい会合で司会を務めた事もあった。司会役を決めるときに、一学年上の友人が「司会は健一がいいと」言い出したのが、きっかけだった。大きい広間のある川崎文化会館での予定だったが、変更になり別会場になった。すこし小さい会場になった事にがっかりしたが、張り切って司会を務めた。そして、元気いっぱいの司会ぶりが良かったと高評価をもらった。<br><br>　合唱団を卒団するにあたっては、卒団生代表の答辞を担当する事になった。当日、直前に担当のお姉さんと答辞の練習をする予定だったが、お姉さんは忙しく「君はダイジョブだから練習はナシで」と、どっかへ行ってしまった。てっきり、直前練習するつもりでいたので、自分が必要とされてないみたいな気分になってしまった。そして、答辞のあいさつは、がっかりした気分のまま読みあげてしまった。終了後、担当のお姉さんは涙目で「ごめんね、ごめんね」と言ってくれた。終わってしまえばしょうがないし「もういいですよ、大丈夫ですよ」と応えるくらいしかできなかった。<br><br>　小学校での卒業式の直前には、在校生との“卒業生を送る会”が開かれた。そして、その送る会では、卒業生代表のあいさつを担当した。原稿用紙一枚分だったが、先生から言われた要点を入れつつ文章を作るのは結構苦労した。卒業生を送る会は雨のため、各教室のテレビに映される、テレビ集会になった。そして、放送室のテレビカメラに向かって原稿を読み上げた。原稿がテレビに映っていなかったらしく「暗記して話していたの？」とあとでクラスメイトに聞かれた。あいさつ終了後の長いお辞儀が「気持ちがこもってて、よかった」と、となりの席の子には言われた。<br><br>　小学校を卒業し、今度は埼玉へ引っ越す事になった。大阪から神奈川へ引っ越した時は、さみしさの反面、その後、楽しい事がたくさんあった。だから、友達との別れはさみしいが、きっと、埼玉へ行っても楽しい事がたくさんあるはずだと思った。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877900451.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:33:14 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>中１</title>
<description>
<![CDATA[ 　新たな中学校では男子の髪型は丸坊主という校則だった。入学式に参加した母は「男の子は、みんな同じ顔に見えた」と感想を言っていた。それまでと違い、田んぼが沢山ある田舎に来てしまったと思った。夏場はカミナリが多く、比較的近くに落雷したりするので、下校時などは怖い思いをした。<br><br>　中学ではサッカー部に入った。自分の身長はクラスで前から５番目前後だった。同じくらいの身長のサッカー部員が２７,５ｃｍのスパイクを履いていたので、それに影響されて２６,５ｃｍのスパイクを新たに買ってしまった。３ｃｍ以上大きいけど、直ぐに自分の足も大きくなるだろうと思った。しかし、この判断は間違いで、走る上でも蹴る上でも相当な痛手となっていたが、当時は気にしていなかった。<br><br>　小学生の時は自分で勉強嫌いを自覚するほど、勉強が面白くなかった。授業中は、おしゃべりや、他の事をして遊んでいる時も多かった。しかし、卒業文集の好きな科目には体育、算数、図工と書いてあったので、算数だけは、それなりに楽しかったはずだ。中学に入ったら勉強を頑張るというのは母との約束だった。だから、小学生の時は遊んでていい、という事になっていた。勉強を頑張るといっても現実的には、授業に集中するといったもの。そして、家での勉強もなるべく沢山する事。しかし、実際はテレビを見てしまい、勉強時間はそこまで多くなかったが。<br><br>　中学生になった当初はだいぶ、大人になった様な気がして、“小学生のままの気分ではいけない”と思ったりした。入学してしばらくったった頃の放課後、教室の後ろの方で、ある女子生徒が男子数名にいじめられていた。クラスに残っている人は少なく、一人の男子を筆頭に３人程引き連れて、「ブス、ブス」と皆で連呼しながら女子の事を追い回していた。少し気になる女子にチョッカイを掛けてしまう、男子特有のよくある行動ではあるのだが、あまりにしつこく続いていて、女子生徒も本気で嫌がっていたので止めに入った。自分の席から立ち上がり、振り返って「○○さんカワイイじゃん、もう中学生になったんだから、そういうこと止めたら」と言った。言われた男子数名はあっけにとられ、無言になり、ポカーンと立ち尽くした。その女子は「星君、一緒に帰ろう」と言ってきたが、「そういうつもりで言ったんじゃないから勘違いしないで、あまりに見てられないから言っただけだから」と返した。それを受け「ヒドイ」と女子はつぶやいた。しかし、この一件では、逆に“自分も中学生になったからといって、あまり大人ぶる必要もないのかなー”とも思ったりした。<br><br>　遠足の日のバスでは、仲良くなった友達と隣の席に座った。帰りのことだったか、隣の友人がバスに酔い、吐いてしまった。自分はその友人がバスに酔いやすい事は知らなかった。その為、エチケット袋すら用意できなかった。相手から言い出さなくても、自分から酔いやすいのかを聞いてあげればよかったと思った。<br><br>　担任の先生の結婚があったときは、数日間、先生は休日をとった。新婚旅行から戻った担任の先生を迎える際には、副担任から、お祝いのメッセージをサプライズで発表するように頼まれた。「こういう事は学級委員長がやるものじゃないんですか」と断ったが、「どうしても星君にやって欲しいの」と何度もお願いされてしまった。あんまりお願いされるので、引き受ける事にした。そして、学級会の途中、タイミングを計り突然立ち上がり、お祝いのメッセージを読み上げると、担任は目を潤ませて喜んでくれている様子だった。副担任は感性豊かな女性の国語教師だった。担任は理知的な男性の数学教師だった。そういえば、担任からは「星君を見ていると元気になる」と言われた事もあったかな。先生の結婚に、何か自分が関係してるのかもしれないと、あとから感じた。<br><br>　サッカー部での練習はとても疲れた。家での勉強は、定期テスト前の部活のない期間が主だった。それでも、学期ごとに成績も上がり、手ごたえを感じた。偏差値が上っていく事に喜びを覚えた。<br><br>　一年生の３学期の体育はサッカーだけだった。そして、リフティングができた回数を１０位まで、学年で廊下に貼りだされた。そして、自分だけが２００数回という、２００台を記録しての一位が獲れた。スパイクよりも、足の大きさどおりの運動靴の方が調子がよかったのも影響していると思った。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877900065.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:32:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>中２～中３･秋</title>
<description>
<![CDATA[ 　２年生の夏休み、家族で東京の青梅に住む、母を入信に導いてくれた知人宅に出かけた。向かう途中には、小平にある創価学園に立ち寄り、校舎やグランドなどを見学した。きれいな雰囲気の建物内に入り、“立派だなー”と思った。学園は中学と高校が隣接していた。中学の校舎を眺めながら、自分と同世代の“すごい人達”がここに通っているのか、と思ったりもした。<br><br>　２年の秋には生徒会の立候補を担任に勧められた。そして、書記での立候補をしようかどうか迷った。一緒に勧められた友人は立候補しないと言った。さんざん迷ったが立候補はしない事にした。<br><br>　２年の冬は、サッカー部の練習中に顧問の先生に怒られることが多くなった。ささいなプレーでも個人的に注意され、指導される機会が幾度かあった。ある時はドリブルしている人に追いつけない事を「走るのが遅い」と叱られたりもした。今考えれば、スパイクがブカブカという理由も少しはあったりもした。そして、これらの叱責はレギュラーメンバーとして育てたい、という顧問の情熱の表れでもあった。しかし、当時はそんな顧問の思いも分からずに、ただただ辛い気持ちになり、サッカーをする事が楽しくなくなってしまった。来春、３年になると、新１年生が入ってくる。今度入ってくる新１年生には、のちにＪリーガーになった、とてもサッカーのうまい生徒がいて、顧問も小学校に品定めに出かけた様だった。そして、この冬には仲の良い部内の友達も含め、２年生４人が退部した。練習に出ない日が増えた、スランプの冬を過ぎ、３年生の春を迎えた。サッカー部の練習にも再び出るようになったが、部活の時間を迎えるのが嫌だった。そして、頭の片隅にあった創価高校受験と天秤にかけ、勉強優先という理由でサッカー部を辞める事にした。サッカー部を辞めてからは気が楽になり、嬉しい気分だった。しかし、そんな気分は一ヶ月と持たなかった。生徒は全員なんらかの部活に入らなければならないので、将棋部に在籍することにした。放課後、将棋部の全体としての活動は無いのだから早く帰れるのに、剣道部のクラスメイトと将棋を指したりしていた。のちに東大に合格する程の優秀な対戦相手と互角に将棋を指した。時おり、外のサッカー部の練習を眺めている姿に「未練タラタラだな」と彼に言われても「そんな事ないよ」と強がったりしていた。<br><br>　夏が終わり、２学期からは受験に備える為に部活は皆、引退となった。そして、部活をやりきった人達は勉強に集中しだす２学期に入ると、余計に“サッカー部を辞めなければよかったという”気持ちが、やりきれないものとなった。<br><br>　秋に行われた文化祭では初の弁論大会が開かれた。テーマは校則について。前年度まで丸刈りだった男子の頭髪が「中学生らしい頭髪」とされるなど「中学生らしい」という表現で大幅に全体の校則が緩和された。全校生徒が一枚の原稿用紙に意見を書き、生徒会役員の生徒を除いて、各学年代表３名が選ばれた。そして、体育館の壇上で９名が弁論に臨んだ。自分は「中学生らしい」という事を一人一人が考えて行動する重要性を弁論の主眼においた。そして、校長先生も何度もうなずきながら聞いていて、誉めてくれていた、と後から聞いた。その結果、最優秀賞をとる事ができた。表彰状を受け取り、席に戻る途中に「星君カッコイイ－」と声をかけてくれた一人の女子生徒がいた。<br>　<br>　秋から冬にかけて、テレビ埼玉の「埼玉の中学生」という番組をうちのクラスで撮影する事になった。「中学生日記」の埼玉版といった感じだろうか。この番組の主役を務めたのが、その女子生徒だった。撮影は約一ヶ月間にわたり、数日間かけて行われた。<br><br>　男友達だけで開いたチョットしたクリスマスパーティー。一人の友人がその女子生徒に電話を掛けた。自分も電話を替わってもらって話をした。「受験勉強してる」と相手は言っていたくらいだったが、それ以降、その女子の事が気になる様になった。<br><br>　中学時代の後半は、なにかと後悔することが多かった。生徒会立候補に挑戦しなかった事。サッカー部を３年になってから退部した事。創価高校受験を視野に入れての自主退部が逆効果を及ぼし、勉強への集中力が下がってしまった事。サッカー部をやめてしまったという大きな後悔を抱え、中学３年の受験年を過ごした。<br><br>　１２月には早くもすべり止めの私立に合格し、最低限の進路先は確保された。年が明け、本格的に受験に向かわなくてはいけないのだが、集中力を欠いた。サッカー部退部の後悔みたいな思いをもうしたくないと思った。そして、受験直前の一月にもかかわらず、気になる女子生徒に告白してしまう。それが、後悔しない選択肢だと考えた。今考えれば、時期も悪いし、相手だって受験があるのだから、うまくいくはずは無いのだけど・・・恋は盲目とはよくいったもので、全く自分本位の行動だった。オープンな性格が裏目にでて、周囲にも知れ渡るような明らさまな告白劇が逆に自分を苦しめてしまう悪循環。告白の返事は「友達が星の事を好きみたいだからチョット・・・」、「受験勉強あるし・・・」、しかも、「なんでサッカー部やめたの？」とその女子に聞かれて、余計にダメージを受けてしまったりもした。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877899662.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:30:53 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>中３･冬</title>
<description>
<![CDATA[ 　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br><br>　小学校の５・６年生の時の担任から卒業時に受け取った言葉は「少年老いやすく、学なりがたし」だった。人の事を思いやれる性格などを気に入られ「将来が楽しみです」と親に言ってくれたものの“しっかり勉強に励みなさい”とのメッセージを感じた。中学では１・２年生での勉強は集中できていた。<br><br>　５教科の中で一番、勉強時間を多くとったのが社会だった。小学生の時の不勉強もあって、覚える事が沢山あった為だ。３年の初め、社会の２年間総まとめのテストがあった。テスト範囲が広すぎたので試験対策はしなかったが、９４点は学年一の成績だった。２年間の勉強の成果の現われだと感じた。そして、社会の先生が、各委員長の集まる委員長会の担当教師だった。生活委員長として委員長会に出席した時には「星が委員長会の中の委員長だ」と先生に言われた。<br><br>　数学では、先生が解けなかった、証明の問題を定期テストの中で解けた事もあった。理科と数学は満点を取る事も多かったので、担任からは理数科の高校を受験する事を勧めれた。しかし、どうせ勉強するなら、まんべんなく勉強したかったので、普通科を選ぶ事にした。<br><br>　３年生では後半になるにつれ、勉強に対する集中力が落ちつつあった。<br><br>　～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～・～<br><br>　中３の受験直前の２月、自分の行動によって、学校に行く事自体、おっくうな気分だった。中学に入り、勉強もそれなりに頑張ってきたが、勉強の中には、人生に対する疑問の答えはなかった。後悔する事や、恋が実らない苦しみを経験し、人生に対する意味や目的を激しく求めた。“結局、人生って何なのか？”。受験直前にもかかわらず、この答えを出したくて仕方がない気分になってしまった。そして、家にあった２冊の本を読みふけった。「教学の基礎」と「創価学会の歴史」の２冊だった。「教学の基礎」では、仏法の法理の主要な概念にふれた。「創価学会の歴史」では、牧口先生、戸田先生の時代からの学会の歴史に改めて触れた。そして、学校の勉強にはない奥深さを感じ、知識欲も満たされて充足感を覚えた。この２冊の本の中に人生の意味や目的があると感じた。そして、“仏の御使い”としての自覚が芽生えてきた。自分の人生における、本当の意味での仕事は広宣流布だと思った。<br><br>　高校受験の時期は、精神状態が複雑でとても疲れていた。勉強と試験に対する集中力が大幅に落ちていた。本命の創価高校は不合格となり、すごく残念だった。国語、数学、英語の３教科は、理科、社会を加えた５教科よりも不得意だった。そして、私立は３教科受験だったし、たいして受験対策もしてないので当然の結果ではあったのだが。<br><br>　１２月の早めの私立受験では合格していた。ところが２月の私立受験では、２校、続けて不合格となった。担任にも親にも心配され、ちょっとした自信喪失感を味わっていた。公立高校のランクを一つ下げようかと担任に言われたが、そのままの公立高校を受けることにした。<br><br>　公立高校の受験当日。試験の合間の休憩時間で、最終確認の教科書読みをしていた。そこで、理科の岩石の種類を覚えきれていない事に気づいた。この冬は勉強不足だったので、試験対策に穴があいていた。試験開始までは数分しか残っていない。そして、この数分で完全に覚えきれる自信がなかった。公立高校に落ち、授業料の高い私立に通う事になると親にも迷惑をかけてしまう。当然、自分としても何とか公立には合格したかった。そこで、６種類の岩石の頭文字、一文字だけの表を机に薄く、ひらがなで書いた。試験には、そこから２問出題され、机の表から記憶を呼び戻し、答えを書いた。<br><br>　後日の合格発表では、合格の確認をしたが、心の底から喜ぶ事は出来なかった。あとあと考えれば、例え不合格になっても机に表を書くべきではなかったと思う。合格か不合格か、よりも“正直に物事に取り組む姿勢”の方が圧倒的に重要だった。<br><br>　１９９１年３月。皆の受験が終わると、あらためて意中の女子に告白してみたりもしたが、うまくいかなかった。対して、仏法への目覚めも生じてきていたので、父親には「出家してお坊さんになりたい」なんて言ってみたりもした。父が賛成していたら本当にそうしていたかは分からないが、賛成してもらえず、その場はあきらめた。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/21cocoro/entry-11877899158.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 15:29:41 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
