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<title>どこかのクリスチャンのブログ</title>
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<description>クリスチャンなので、聖書の言葉が引用されます。でも、日常で考えていることを普通に書きたいと考えています。</description>
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<title>イカゲームについて</title>
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<![CDATA[ <p>ネットフリックスのイカゲームという作品を見た。</p><p>残酷な表現が目立つ一方で、繊細な心理描写が広がっていた。</p><p>人間が持つ欲望と邪悪性について考えさせられる。</p><p>それでいて、本来人間の持つ正義感、道徳性についても考えさせられる作品。</p><p>&nbsp;</p><p>主人公はギャンブル三昧だが、娘のことを大切に思う父親である。</p><p>離婚しても、娘のためになることを必死に考える。</p><p>更に重い病に苦しむ母親のことも大切にしたい。</p><p>そんな想いを持っているにも関わらず、人生が思い通りにならない。</p><p>&nbsp;</p><p>主人公は一発逆転できるゲームに参加する。</p><p>しかしそれは命懸けのデスゲーム（イカゲーム）だった。</p><p>主人公は自分の正義感と欲望との間で葛藤しながらゲームを進めていく。</p><p>このゲームの描写は極めて残虐で、心が痛むシーンが多い。</p><p>恐らく視聴した人はみんな私と同じ気持ちだったのではないだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>イカゲームはそのような視聴者の心理を理解した作品だと言える。</p><p>人間には本来、正義感や道徳性が備わっているのだ。</p><p>人としてやってはいけないこと、悲しむこと、辛いこと。</p><p>それらのことを人間は潜在的に持っている。</p><p>親が正しく教えていなくても、人は理解するのである。</p><p>理解した上で行動する。</p><p>&nbsp;</p><p>「ダメな事かもしれないが、生きるためには仕方ない」</p><p>そのような感覚と戦うのである。</p><p>つまり、これは神が潜在的に私たちの内に善悪の感覚をお与えになったと言える。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私はクリスチャンとして、その基準を神におきたい。</p><p>自分が生きるためではなく、神の視点から考えて生きたい。</p><p>イカゲームのように生きるか死ぬかの選択ではなくても、この選択が神の視点から見て正しいことなのか。</p><p>&nbsp;</p><p>イカゲームは究極的に誰が正しかったのかは言及できない作品だと思う。</p><p>それが非常に良いのだと考える。</p><p>なぜなら、人間の力で争い、戦っても、真に正しいことにはたどり着けないのだから。</p><p>聖書に書かれる神のことばこそが正しい。</p><p>その価値観に立って生きていきたい。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">「生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。&nbsp;</b></span></p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">母の胎内にいたときから あなたは私の神です。」</b></span></p><p style="text-align: right;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">詩篇22篇10節</b></span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Mon, 29 Dec 2025 11:23:54 +0900</pubDate>
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<title>「じゃあ、あんたが作ってみろよ」【最終回、クリスチャンによるネタバレ】</title>
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<![CDATA[ <p>良いドラマだった。</p><p>それはエンターテイメントとしても言えることだが、人間模様が見事だった。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、もしかしたら最終話に不満を持っている人がいるかもしれない。</p><p>私も最初は、２人が分かれた意味が分からなかった。</p><p>だが、少し考えてみると非常に面白く、納得のいく考察（個人的だが）が生まれた。</p><p>&nbsp;</p><p>勝男と鮎美はお互いを理解できずに１話で破局した。</p><p>勝男は鮎美に振られた理由を考え、自分を見つめ直し、変わっていく。</p><p>鮎美も本当の自分を知って、自由に生きる楽しさを知っていく。</p><p>この両者の人間模様が実に楽しい。</p><p>&nbsp;</p><p>自分を見つめ直した２人は、自分の問題点に気づいて、相手への理解も深めていった。</p><p>互いを理解し合った２人が結ばれることを多くの人が確信していただろう。</p><p>しかし、２人は最終話で実際に復縁した後に完全な破局を選ぶ。</p><p>この選択について考察してみた。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも２人は理想の相手だと思って付き合った。</p><p>しかし付き合う中ですれ違いが生まれて破局した。</p><p>その後、２人は生まれ変わって復縁する。</p><p>&nbsp;</p><p>では、この生まれ変わった２人は理想とする相手をどのように考えるようになったのか？</p><p>懸命に自分と向き合って、変わってきた２人だが、この２人の理想も変わってしまったと考えられる。</p><p>勝男は好きだと思って鮎美を追いかけ続けたが、料理が好きになり、強がらず女性と向き合えるようになった勝男にとって、もはや鮎美は理想の相手ではなくなっていたのだろう。</p><p>鮎美は頼りになって将来性のある勝男を追いかけていたが、自立した女性へと成長した鮎美にとって、もはや勝男は理想の相手ではなくなっていたのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、ここまで向き合ってきた２人は誰よりも理解し合っている。</p><p>お互いが理解者として、これからの人生を応援していくが、それは結婚相手としてではない。</p><p>この先、勝男は南川のような料理が出来ない女性のことも愛せるだろう。</p><p>鮎美は、ミナトのように結婚にしがみついていない男性のことも愛せるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>以上が私の考える本ドラマの考察である。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>楽しませてもらったが、相手を愛することについて考えさせられた。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。</b></span></p><p style="text-align: right;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">ルツ記３章１０節</b></span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#000000;">これは、聖書のルツ記の一幕である。</span></p><p><span style="color:#000000;">若い女ルツが、年配の男性ボアズと結婚するのだが、彼女はルックスや年齢で男性を選ばなかった。</span></p><p><span style="color:#000000;">彼女は聖書のことばに従った。</span></p><p><font color="#000000">つまり、聖書に書かれていることを大切に相手を愛したのだ。</font></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#000000">この表現は、少し分かりにくいかもしれない。</font></p><p><font color="#000000">別の言い方をすれば、神が人を愛するように、人を愛したということになる。</font></p><p><font color="#000000">その先に見えてくる一つの形が結婚である。</font></p><p><font color="#000000">人はコンディションや環境によって愛せなくなるが、神の愛はいつでも完全である。</font></p><p><font color="#000000">その愛を目指すのが、聖書の示す結婚である。</font></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#000000">ボアズも聖書を大切にしていた。</font></p><p><font color="#000000">一緒に神の愛を目指して結婚できるのであれば、それは本当に素晴らしいことだと思う。</font></p><p><font color="#000000">神のように愛せない自分を知り、それでも神の愛を知っていることを喜ぶ。</font></p><p><font color="#000000">そのような結婚が出来ることはクリスチャンの喜びだろう。</font></p><p><font color="#000000">私も見失わないようにしたい。</font></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#000000">神は条件や見た目で人の愛し方を変えたりしないし、そこに強弱もない。</font></p><p><font color="#000000">そして、その愛をこの世で実行されたの方こそがイエス・キリストだ。</font></p><p><font color="#000000">そのイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスが近づいている。</font></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#000000">真に人を愛することを知るクリスマスにしたい。</font></p>
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<pubDate>Thu, 11 Dec 2025 20:44:27 +0900</pubDate>
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<title>エンデバー</title>
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<![CDATA[ <p>私は「僕のヒーローアカデミア」、つまり「ヒロアカ」という漫画を読んでいる。</p><p>&nbsp;</p><p>クリスチャンである私が、どこか人ごとに思えないキャラクターがエンデバーだ。</p><p>自分の強欲さ、自己保身のために家族を犠牲に、No.1ヒーローを目指して生きてきた男。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな彼のせいで家族はボロボロ。</p><p>子どもたちにも奥さんにも深い心の傷がある。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなエンデバーの家族、轟家の末っ子が焦凍である。</p><p>彼は主人公デクと同じクラスで、友情の大切さ、人を想うあたたかみのようなものを学んでいく。</p><p>この焦凍の成長によって、轟家は回復に向かう。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、この轟家の姿にクリスチャンである私は心を打たれる。</p><p>彼らは自分たちが良くない家族であったことを認める。</p><p>そのうえで変わろうと前に進んでいく。</p><p>特に父であるエンデバーは自責の念を常に表すようになる。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が悪かったこと、諸悪の根源であることを認めて、家族への謝罪をするようになる。</p><p>近年は、人生の過ちを認めることに消極的な傾向があるように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>「人生色々、その人にはその人の正義があった。」</p><p>「あなたの人生をまるっと肯定します。」</p><p>それがさも優しさかのように扱われることがある。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">私はそうは思わない。</b></p><p>&nbsp;</p><p>人は過ちに気づいてこそ成長する。</p><p>間違っても、そこから自分を入れ替えて再び前に進み始めるのだ。</p><p>これはまさにクリスチャンの生き方そのもの。</p><p>更にクリスチャンには、その先にイエス様の希望があるのだから、大胆に間違いを認めて良いのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>罪を指摘しにくい世の中。</p><p>その中にあって、自分の人生の過ちを素直に認めて前に進むエンデバーの姿は美しい。</p><p>その生き方の真髄がイエス・キリストにこそある。</p><p>私はそのことに確信を持っている。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。</b></span></p><p style="text-align: right;"><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">使徒の働き3章19節</b></span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/24248abc/entry-12911170826.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Jun 2025 17:58:16 +0900</pubDate>
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<title>チ。</title>
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<![CDATA[ <p>「チ。」というアニメを観ました。</p><p>クリスチャンとして、このアニメをどのように観るのか。</p><p>なぜなら、このアニメはキリスト教徒が地動説を唱える人々を弾圧するアニメだからです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、もしこのアニメを見て「クリスチャンはヤバい」「キリスト教は排他的だ」と思う人がいるのなら残念なことです。</p><p>なぜなら、弾圧するキリスト教徒の強調点は<b style="font-weight:bold;">「変化への恐れ」</b>だからです。</p><p>天動説こそが正しいと信じ生きて、それこそが神の支配の中でなされている。</p><p>作中のキリスト教徒たちはそのように盲信しています。</p><p>&nbsp;</p><p>そして地動説を唱える人々の強調点は<b style="font-weight:bold;">「神の創造は更に偉大」</b>ということです。</p><p>聖書を否定しているわけでも、信仰を否定しているわけでもありません。</p><p>ただ、神は地球規模に収まらない、全宇宙を支配しておられる。</p><p>&nbsp;</p><p>安易に、科学によって神を否定するような話ではありません。</p><p>そのような意味で、このアニメは決して聖書や信仰を否定するものではありません。</p><p>神様は人間の常識を超えたところで働かれる偉大なお方です。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』</b></span></p><p style="text-align: right;">エレミヤ書33章3節</p>
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<pubDate>Wed, 11 Jun 2025 13:58:59 +0900</pubDate>
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<title>レッテルを貼ること</title>
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<![CDATA[ <p>私はレッテルを貼られることを嫌っています。</p><p>「野球部だから」「東京生まれだから」「一人っ子だから」そのように一括りにされると、何か勝手に分かられて、分類されてしまったような気持ちになります。</p><p>&nbsp;</p><p>それでいて、人にはレッテルを貼ってしまう人間だとも思うんです。</p><p>「あの人は〜だから」と分類して、その人を理解しようとしてしまいます。</p><p>なんと自分勝手な人間なのかと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>これがクリスチャンの中でも起こってしまう事があるのは悲しいことです。</p><p>クリスチャン同士で、「あの人は〜派だから」「あの人は〜っていう団体だから」と一括りにしようとする。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、「福音派」という言葉があります。ある国の大統領も「福音派」です。</p><p>私は福音派と呼ばれる教会に属していますが、その大統領と同じ政治思想があるわけではありません。</p><p>だからといって「あの大統領の信仰は偽物だ」などとは言いません。彼もクリスチャンです。</p><p>ただ、私と彼の物の考えは全く違います。人に対するアプローチも全く違います。</p><p>&nbsp;</p><p>それでもクリスチャンのアイデンティティはキリストにある、という点においては一致していたいと思うんです。</p><p>聖書でイエス様はこのように言います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。</b></p><p style="text-align: right;"><b style="font-weight:bold;">使徒の働き　1章8節</b></p><p>&nbsp;</p><p>これはイエス様がこの世で最後に語られたことばです。</p><p>クリスチャンはイエス様のことを証する人として生きていきます。</p><p>もし、クリスチャンを一括りにするのなら「いつもクリスチャンってイエス・キリストを証してるよなあ」と言われたい。</p><p>&nbsp;</p><p>「クリスチャンって固いよなー、古臭いこといってるよなー」などと言われるのは残念なことです。</p><p>更にクリスチャン同士で「あの派は〜だよなー」と分類したり、丸ごと一括りにするのであれば、もっと残念なことです。</p><p>&nbsp;</p><p>私は時に「クリスチャン」「福音派」と名乗ることで一括りにされ、偏見を押し付けられることがあります。</p><p>でも、私はその偏見に流されずに、クリスチャンとしてイエス様を証していきたいです。</p><p>イエス様が多くの偏見の中で生きられたように。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 16 Apr 2025 17:48:17 +0900</pubDate>
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<title>大切にしたいこと</title>
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<![CDATA[ <p>礼拝って聞いたら、皆さんはどのようなことを考えるでしょうか？</p><p>日本人に聞いたら、大体の人はカトリックのミサを思い浮かべるのかもしれません。</p><p>クリスチャンである私は「それはカトリックで、私はプロテスタントです」と答えることが多いです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、これはカトリックとプロテスタントを差別したりしているものではありません。</p><p>ただ、カトリックの礼拝を私はよく理解していませんし、違う点が多いことは確かであるので、毎回訂正してしまうのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが、どちらの礼拝も神様を一番大切にして捧げているものではないかと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>私が毎週捧げる礼拝は、神様を一番大切にするものです。</p><p>だから、この礼拝が適当なものにはならないで欲しいと願います。</p><p>私達は、色んな式を行いますが、少なくともクリスチャンである私は、どんな式典よりも、この礼拝の時を大切にしたいと考えます。なぜなら、それは神様に捧げるものだからです。</p><p>&nbsp;</p><p>結婚式や卒業式、入社式、どの式典よりも大事なものです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">詩篇134篇</b></p><p><b style="font-weight:bold;">都上りの歌。</b></p><p><b style="font-weight:bold;">1節 さあ 主をほめたたえよ。&nbsp;</b></p><p><b style="font-weight:bold;">主のすべてのしもべたち&nbsp;</b></p><p><b style="font-weight:bold;">夜ごとに主の家で仕える者たちよ。</b></p><p><b style="font-weight:bold;">2節&nbsp; 聖所に向かってあなたがたの手を上げ&nbsp;</b></p><p><b style="font-weight:bold;">主をほめたたえよ。</b></p><p><b style="font-weight:bold;">3節&nbsp; 天地を造られた主が&nbsp;</b></p><p><b style="font-weight:bold;">シオンからあなたを祝福されるように。</b></p><p>&nbsp;</p><p>聖書は、私達が心から礼拝を捧げることを望まれています。</p><p>なぜなら、全てを支配しておられるのは、聖書の神様だと信じているからです。</p><p>&nbsp;</p><p>だから、私は教会で礼拝を捧げることを喜んでいますし、大切にしています。</p><p>教会へ行かなくても、もちろん礼拝は出来ます。しかし、この「都上りの歌」は聖所、つまり礼拝する場所へ向かう人へ向けた歌です。</p><p>クリスチャンの仲間、神様を求める全ての人達と礼拝へ向かうことが歌われています。</p><p>一緒に過ごす時間があり、一緒に礼拝することは大切ですし、一人では神様を大事にし続けることは難しいです。</p><p>&nbsp;</p><p>これからも私は、教会へ行って礼拝を捧げることを大事にしたいと心から思います。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 09 Apr 2025 17:49:52 +0900</pubDate>
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<title>セルフイメージ</title>
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<![CDATA[ <p>私はセルフイメージが低いです。</p><p>恐らく大学受験の失敗から、特にその傾向が強くなったと思います。</p><p>人から認められる自分を求め続けていました。</p><p>家族から、友人から、恋人から、同僚から。</p><p>&nbsp;</p><p>誰かから認めてもらっても、他の誰かから自分を否定されると「自分は駄目な人間だ」と悲しくなり、自分の人生を否定したくなるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな私は、聖書の言葉によって救われました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』</b></p><p><b style="font-weight:bold;">主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』　マタイの福音書25章22節から23節</b></p><p>&nbsp;</p><p>これはイエス様が、神様と私たちの関係を鮮やかに描いている例え話の箇所です。</p><p>主人（神様）から五タラント、二タラント、一タラントもらったしもべたち（私たち）が、主人（神様）が帰ってくるまでに頂いたタラントをどうするのか。<span style="font-size:0.83em;">※タラントとは当時のお金の単位です。</span></p><p>五タラントもらったしもべは十タラントに増やしました。二タラントもらったしもべは四タラントに増やしました。一タラントもらったしもべは土に埋めてしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>せっかく主人から一タラントをもらったのに土に埋めてしまったしもべを、主人は帰ってきて叱ります。</p><p>ただ、タラントを増やした二人のしもべは主人に褒められます。</p><p>ここで注目したいのは、五タラントもらったしもべも、二タラントもらったしもべも、<b style="font-weight:bold;">『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』</b>という全く同じ評価を受けるということです。</p><p>つまり、この前の節では五タラントもらったしもべが23節と全く同じ言葉で祝福されています。</p><p>&nbsp;</p><p>私はこのことを知った時に、心から嬉しかった。</p><p>人からの評価に苦しみ、葛藤していた自分でしたが、神様の前に精一杯生きるなら、神様は<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">『よくやった。良い忠実なしもべだ。』</b></span>と言ってくださる。</p><p>そのことが私のセルフイメージを助けてくれています。</p><p>&nbsp;</p><p>今でも自分の無能さにうんざりすることがありますが、私は神様に認めていただけることを知っています。</p><p>そのことを今日も覚えて生きていきたいです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Fri, 28 Mar 2025 15:53:11 +0900</pubDate>
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<title>愛が増え広がっていくこと</title>
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<![CDATA[ <p>クリスチャンは良く、一緒に教会へ通っている人のためにお祈りします。</p><p>「病気が良くなりますように」</p><p>「仕事が上手くいきますように」</p><p>&nbsp;</p><p>〜祈願的な祈りを捧げることがあります。</p><p>そのような祈りは全く問題ありません。神様には何を祈っても良いのです。</p><p>ですが、そのように祈っている人が聖書にどのくらい登場するのかと言うと、あまり多くはありません。</p><p>&nbsp;</p><p>誰かのために祈るときに、クリスチャンは何を祈ったって構わないけれども、まず何を祈るべきか。</p><p>それは、<b style="font-weight:bold;">目の前の大切な人がイエス様の愛に生きることが出来るように</b>、ということだと思います。</p><p>使徒パウロは次の言葉を残しています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b>「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。　」テサロニケ人への手紙第一　3章12節</b></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>パウロは迫害に苦しむテサロニケの人々、つまり<b style="font-weight:bold;">信仰の友</b>に手紙を送りました。</p><p>その祈りは、もちろん彼らが励まされるものでしたが、<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">パウロは何よりも熱心に彼らがイエス様の愛に生きていけるように</b></span>祈りました。そして、その<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">イエス様の愛が全ての人に増え広がっていくように</b></span>祈りました。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは神様に何でも祈ることができます。</p><p>ですが、イエス様の愛が全世界に増え広がっていく以上に素晴らしいことは無いと思うのです。</p><p>無条件に、打算抜きに私たちのために死んでくださったイエス様。</p><p>その愛を私たちが実践できるのであれば、それは本当に素晴らしいことです。</p><p>そして私の友が、家族がそのように歩んでいるのであれば、本当に嬉しいこと。そこで伝わった愛が、私の知らない人にまで増え広がるなら、言葉にできない喜びです。</p><p>&nbsp;</p><p>理想論に感じられても良い。</p><p>そのことを今日、私は自分の愛する友のために祈りたいと思います。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Thu, 20 Mar 2025 13:08:29 +0900</pubDate>
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<title>人をはかること</title>
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<![CDATA[ <p>人を地位や能力で比較するのは、生きていれば当然あることかと思います。</p><p>ですが、それはとても辛いことだなあ、とも感じるんです。</p><p>&nbsp;</p><p>人を出来る出来ないで判断することは、自分にも返ってくる可能性があります。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">「リアル」</b>という車椅子バスケの漫画をご存知でしょうか？</p><p>高橋くんという高校生は人間を勝ち組か、負け組かで分けていたのですが、足が不自由になった瞬間に、自分が見下していた負け組になってしまったと絶望します。</p><p>「もう、何も出来なくなった」と涙するシーンは心が痛みました。</p><p>&nbsp;</p><p>人間の世の中の価値観で分けることは恐ろしいことだと感じます。</p><p>「英語が出来るか出来ないか」</p><p>「スポーツが出来るか出来ないか」</p><p>「名門校出身かどうか」</p><p>「どの仕事をしているか」</p><p>&nbsp;</p><p>更には、自分の子供や親を自慢出来るか出来ないか、なども比較し出したらキリがないことのように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>聖書でパウロという人は次のように言います。</p><p><b style="font-weight:bold;">「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」ローマ人への手紙12章3節</b></p><p>&nbsp;</p><p>イエス様を信じているのなら、その<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">「信仰の量り」</b></span>で人を見ます。</p><p>イエス様は人間の目に「出来る人」「出来ない人」で分けませんでした。</p><p>それは聖書を読めば見えてきます。</p><p>&nbsp;</p><p>むしろ、せかせか良く働いている人より、イエス様の言葉をゆっくり聞いている人を喜ばれたりしました。</p><p>いつでも、精一杯イエス様と共に生きている人を評価されます。</p><p>&nbsp;</p><p>確かに私たちには出来ること、出来ないことがある。それでも、私たちがイエス様と一緒に精一杯生きるなら、神様は喜んでくださる。イエス様は認めてくださっている。</p><p>&nbsp;</p><p>私にとって、そのことはとても幸せなことです。</p><p>私には出来ないことが沢山ありますし、人を嫉妬してしまう時もあります。</p><p>出来ない自分は周りからどのように思われるのか不安になります。</p><p>&nbsp;</p><p>それでも、私はクリスチャンとして精一杯イエス様と共に生きたいのです。</p><p>なぜなら、この生き方は人が何と言おうと神様に喜ばれるのだから。</p><p>&nbsp;</p><p>そのことを分かっていても<b style="font-weight:bold;">「人間の量り」</b>で考えてしまう私。</p><p>ですが、いつも<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">「信仰の量り」</b></span>によって考えていきたいと願う日々です。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/24248abc/entry-12889507801.html</link>
<pubDate>Tue, 11 Mar 2025 12:26:12 +0900</pubDate>
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<title>ネットニュース</title>
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<![CDATA[ <p>ネットニュースが良く読まれる時代になりました。</p><p>多くの人はその内容を鵜呑みにしていないと思います。</p><p>しかし、その記事が誰でも読めることも事実です。</p><p>&nbsp;</p><p>私はネットニュースの全てが悪いとは思っていません。一生懸命働かれて記事にされている方のことを尊敬しています。</p><p>ですが、一部の記事を読むと、とても虚しい気持ちになります。</p><p>次の言葉が目に入る時です。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;">「ネットでは…」</b></span></p><p>&nbsp;</p><p>Xの投稿などを引用して、さもその意見が世間一般の意見であるように記事を書くことには、大きな虚しさを感じます。</p><p>これは取材の手を抜いていると言わざるを得ません。</p><p>（いや、もしかしたらXの投稿者を特定して、信頼できる発言である確証を手に入れているのかもしれません。</p><p>そこまですれば立派な取材だと思います。）</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、匿名の、誰か分からない人の発言を引用して記事にするのは、私にとって理解できないものです。</p><p>私はネットの炎上というもので傷つく方の事を思うと、本当に何とも言えない気持ちになります。</p><p>確かに不適切な事をして、社会的制裁を受けるべきかもしれない。</p><p>でも、SNSの投稿に心を傷つけられる必要は無いのではないか。社会的地位を失って、収入が無くなり、明日のことも分からない悲しみの中生きている。きっと本人はそれで生きることに精一杯です。不特定多数の非難にさらされる必要は無いと思います。</p><p>一部のネットニュースは、その手助けをしています。しかも、簡単な作業の中で作った文章で。</p><p>だから私は、虚しくなるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>イエス・キリストは2000年前、炎上したと言えるかもしれません。</p><p>ただし、現代のように不適切な行動や言動によって炎上したわけではありません。</p><p>罪を犯していないにも関わらず、社会的制裁を受けました。</p><p>それでも、イエス様は自分が炎上して、社会的制裁を受けるのだと分かっていました。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">「わたしたちは…祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。」マタイによる福音書20章18-19節</b></p><p>&nbsp;</p><p>分かっていて炎上に飛び込んでいきました。</p><p>しかし驚くべきことに、十字架にかかる時、このように言いました。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」ルカによる福音書23章34節</b></p><p>&nbsp;</p><p>この赦しの中でクリスチャンは生きています。</p><p>イエス様が、私たちの罪のために神様に祈ってくださいました。その身を捧げてくださいました。だから、私たちはどんな罪を犯したとしても、イエス様を信じるなら罪が赦されます。</p><p>&nbsp;</p><p>世の中には社会的制裁が必要な罪もあるでしょう。</p><p>しかし、私たちが一生赦さなくて良い罪はありません。もしくは、私たちが赦せなくても、神様は赦してくださるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>SNSでの叩かれ方は、不特定多数から心無い言葉を浴びせられるものです。そのようなSNS上の言葉を引用して、人を追い込もうとするネットニュースは本当に虚しいものです。</p><p>綺麗事だと言われても私は、炎上する人が人の罪の本質に目を向けて、イエス様に目を向けて欲しいと願います。</p><p>この世の全てが敵に見えたとしても、自分がもう社会的に死んでしまったと感じたとしても、イエス様は赦してくださいます。</p><p>&nbsp;</p><p>人々が虚しいネットニュースに心を奪われないことを願います。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/24248abc/entry-12888749029.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Mar 2025 11:25:00 +0900</pubDate>
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