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<title>猫虎の庵</title>
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<description>投稿頻度は少ないと思いますが、質の良い投稿を目指していきます。</description>
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<title>阿波青木城の当時の姿を考察する</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1.4em;">■初めに</span></p><p>今回は青木城の歴史、構造を様々な二次資料からまとめ、現在残されている資料から想像した当時の縄張りの考察を交えながら青木城について説明していこうと思う。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">■歴史</span></p><p><span style="font-size:1em;">・市原氏</span><br>市原兼継、もしくは同兼行が築城主で、天文3年(1534年)に築かれたと云う。この2人は同一人物の可能性もある。市原氏は牛岐城主・新開道善の別れで、元は土肥氏であったがこの地へ来てから市原姓を名乗るようになったとされ、ほたる川を挟んで南西に位置する井上城主・土肥氏とは縁戚関係で互いに連携していたそうである。共に阿波細川氏から阿波三好家に仕えたと考えられている。<br><br>・青木城築城<br>市原氏は代々大塚二町地の瀬詰城主であったが、土肥氏と領地を交換して、この地を得て、より堅固な段丘上に青木城を築き、居城を移したそうだ。<br>しかし、青木城の別名も「瀬詰城」「喜来城」であり、非常に混乱しやすいところである。（図1）</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">図1<br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/c1/6c/j/o1040072015814393301.jpg"><img alt="" height="291" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/c1/6c/j/o1040072015814393301.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p><p>・長宗我部元親勢の侵攻<br>長宗我部元親勢の進軍ルートは海部の海からと吉野川沿いの三好郡からの2つのルートがあり、白地城・岩倉城・脇城・重清城と次々に攻略していった。そんな中、三好方に長宗我部方となっていた岩倉城主・三好康俊、脇城主・武田信顕から帰参の合力依頼の密書が届き、長宗我部勢の侵攻を抑えるため、岩倉城へ三好勢は兵を展開した。だが、この合力依頼は康俊・信顕の謀略であり、三好勢は城兵からの奇襲をうけて大敗した。この合戦にこの青木城主・市原兼頼もしくは兼隆も含まれ、兼頼は討たれなかったが、合戦後に城を攻められ、青木城南の高越山へ敗走し、自刃したと云われる。<br><br>・櫟原氏<br>「阿波志」では城主を櫟原石見守としているが、市原氏と同じ氏族の可能性もある。<br><br><span style="font-size:1.4em;">■立地</span><br>青木城は扇状地の標高50m、比高は約20の河岸段丘先端に築かれ、北は吉野川・ほたる川、西は川田川が流れ、南・東には山がそびえ、四方が自然の要害に囲まれ、険要な地となっている。<br>井上城は同じ扇状地上にあり、青木城から川田川を挟んで対岸に位置する。この立地からも2城で一帯を守っていることがよくわかる。（図2）<br><br>図2</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/d8/ea/j/o1040072015814393303.jpg"><img alt="" height="291" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/d8/ea/j/o1040072015814393303.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">■遺構</span><br>現在は堀跡・櫓台・矢塚が残る。<br>城跡を開墾した時、地元民によると刀剣・器具類が出てきたそうである。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">■現在</span><br>天明年間大師庵として建立され、瀬詰城守護仏であった青木大師協会が設立され、城域のほとんどが墓地となっている。（図3）</p><p>&nbsp;</p><p>図3</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/59/dc/j/o1040072015814393306.jpg"><img alt="" height="291" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/59/dc/j/o1040072015814393306.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">■縄張り</span><br>『徳島県の中世城館』で述べられている内容をまとめると以下のようになる。<br>※報告書で「曲輪Ⅰ」などと記述されてありますが、本投稿では「郭1」などのように統一しております。<br><br>・郭1の東北に櫓台とみられる土壇があり、その上に城主を祀った祠（城主神社）がある。<br>・郭1の西側の小規模な堀によって郭2は区画されている。<br>・明治期の地籍図では郭2の西側に二条の堀（二重堀）が描かれ、幅16mほどの堀と推定される。<br>・郭1の東側に郭3が配置されている。<br>・曲輪1～3の南側の道路は堀跡（内堀）とされ、現在よりもう少し浅かったとされる。<br>・内堀南に「矢塚」がある。<br>・矢塚の南には堀があったとされる。<br>・矢塚はもとは東に延び北にクランクして郭1・2を囲い込む土塁の一部とされ、地割からは堀幅10m、長さ100mほどと推定される。<br>・矢塚西側の寺院敷地は土塁を崩し、堀を埋めて造成されたと想定される。<br>・城郭東に古城谷があり、堀とする。<br><br>まとめでは、「縁辺に東西に連なる三か所の堀の西と南に内堀と土塁、東は古城谷を堀とする。」と述べられているが、特に「縁辺に東西に連なる三か所の堀」の解釈が誤っている可能性があるため、ご了承願いたい。<br><br>また、「城郭放浪記」では南の堀は水堀で、二重堀だったとされている。<br><br>これらの記述から図に表すと、図4の画像のようになる。<br>※縄張り図は、以上の記述をもとにした筆者の解釈であり、位置関係等に誤認がある可能性がございます。ご了承ください。</p><p>&nbsp;</p><p>図4</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/0c/f4/j/o1040072015814393307.jpg"><img alt="" height="291" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/0c/f4/j/o1040072015814393307.jpg" width="420"></a><br><br>縄張りを見てみるとほたる川を背後にした梯郭式の城郭となっている。<br>同じ吉野川沿いの重清城にも二重堀があるが、「徳島県の中世城館」の重清城のページによると、二重堀は長宗我部氏の改修によるものとみるべきとあり、私はこの青木城の外堀・二重堀も重清城と同じように長宗我部氏の改修の可能性があると推測する。となると、市原氏期は外堀は無く、内堀だけで郭1・3しかなかったかもしれない。<br><br>因みに矢塚の由来は当時は土塁が崩され塚と認識されていたからだと『徳島県の中世城館』では考察されている。<br><br><span style="font-size:1.4em;">■想定縄張り</span></p><p>※『徳島県の中世城館』の記述をもとにした私の個人的な想定となります。<br>矢塚南の外堀はそのまま二重堀と繋がり、L字型に郭1を囲み、堀と同時に矢塚から延びる土塁も同様に囲むと想定した。<br>しかし、「城郭放浪記」の通り、矢塚南の堀は水堀で、二重堀だったとされると、そのまま郭2の西側の二重堀と繋がると考えられるが、水堀となると、水がそのまま段丘斜面から流れ出してしまうため、矛盾してしまう。そのため私は南西側のL字の角部分に土橋があり、水を郭2の西側の二重堀に流れないようにしていたと考察する（図には記述していない）。（図5）</p><p>&nbsp;</p><p>図5</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/af/39/j/o1040072015814393308.jpg"><img alt="" height="291" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/af/39/j/o1040072015814393308.jpg" width="420"></a><br><br><span style="font-size:1.4em;">■支城</span><br>位置は定まらないが、東は「東ノ丸」、西は「太郎丸（田の丸）」、南は「中ノ丸」があったとされ、更に青木城西隣の座標（34.055654,134.241210）地点には「幸上丸」という出丸が城の一部であったとの伝承があったと『徳島県の中世城館』には記述されている。<br>私は中ノ丸は見張りや狼煙のための城郭だと考察する。（図6）</p><p>&nbsp;</p><p>図6</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/5b/ad/j/o1040072015814393310.jpg"><img alt="" height="291" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260821/15/2662315/5b/ad/j/o1040072015814393310.jpg" width="420"></a><br><br><span style="font-size:1.4em;">■おわりに</span></p><p>この青木城は当時の阿波の城郭史・歴史を研究するにあたって非常に重要な城郭の一つと言える。現在はほぼ遺構は残っていないが、限られた資料から当時の姿を想定することは、長宗我部元親・国衆などの関係性や、当時の城郭の構造を知るにおいて非常に重要だと感じる。</p><p>もちろん青木城だけではない。ほとんどの中世城館は廃城され、遺構が残っているものは少ない。また、近世城郭がやはり目に付きやすい。だが、そのような中世城館を詳しく調べ、考察していくことは、これからの考古学・城郭史・歴史学では非常に重要になってくるであろう。<br><br><span style="font-size:1.4em;">■参考文献</span><br>・徳島県教育委員会.(2011).『徳島県の中世城館』.徳島県教育委員会.637.<br>・阿波 青木城.城郭放浪記.https://www.hb.pei.jp/shiro/awa/aogi-jyo/?utm_source=chatgpt.com,(参照 2026-08-20).<br>・Motty(2024-10-2).青木城（阿波）.Mottyの旅日記.https://mottystraveldiary.hatenablog.com/entry/2024/10/02/123500,(参照 2026-08-20).<br>・山川町教育委員会.川町の文化財：青木城跡.itpoint.jp.https://castle-jpn.com/prefecture/tokushima/13512/,(参照 2026-08-20).<br>・青木城跡.コトバンク.https://kotobank.jp/word/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%9F%8E%E8%B7%A1-3092178?utm_source=chatgpt.com#goog_rewarded,(参照 2026-08-20).</p>
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<pubDate>Fri, 21 Aug 2026 15:58:34 +0900</pubDate>
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