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<title>日本史大好き</title>
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<description>日本の時代の流れがわかる日本史が大好きです。</description>
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<title>いったい邪馬台国はどこにあったの？</title>
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<![CDATA[ <p>未だにはっきりとしない邪馬台国の所在地。</p><p>九州、大和（奈良県）のどちらにあったかで日本の歴史は大きくかわるともいわれています。</p><br><p>なぜこんなことになっているのか？</p><br><p>それは邪馬台国について言及したという中国の史書「魏志」倭人伝に責任があるのです。</p><br><p>大陸から邪馬台国に至る工程が非常にあいまいに記されているのです。</p><br><p>「日本書紀」が卑弥呼を神功皇后に比定して以来、邪馬台国＝大和朝廷と考えられて、所在も大和（奈良県）と信じられてきました。</p><br><p>でも、この歴史に異議を唱えたのが江戸時代の新井白石と本居宣長でした。</p><p>彼らは、邪馬台国＝九州説を唱えていました。</p><br><br><p>九州説</p><br><p>いわれている方角はぴったり合うけれども、距離が短すぎるというもの。</p><p>だけど、榎一雄氏は、倭人伝の微妙な記述相違に着眼し、大陸から伊都国までの工程は直線的に以後各国への距離はいとこくから放射線状にとらえるべきだと解釈すると見事に邪馬台国を九州内におさめることに成功したのです。</p><br><p>大和説</p><br><p>同地域に魏の時代の銅鏡が多く発見されていること、言語学的に大和と邪馬台国が同系列の音韻であること、倭人伝に記述された行程が大和までの距離と一致すること。</p><p>ただ、方角が合わないのです。</p><br><p>大和か九州かでにほんの弥生時代は大きく変わってしまいます。</p><br><p>大和であれば、３世紀にはすでに九州から畿内にかけて広域連合王国が存在していたことになり、</p><p>九州であれば、まだ強大な統一王朝は成立していなかったことになります。</p>
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<pubDate>Sun, 29 Nov 2015 18:01:38 +0900</pubDate>
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<title>弥生時代ってどんなの？</title>
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<![CDATA[ <p>弥生時代の日本では文字が使われていなかったみたい。</p><p>だから、どんな過ごし方をしていたのか、日々の事などが記載された書物がないんです。</p><br><p>でも、中国ではすでに史書が作られていて文字もあり、日本へも来ていたので弥生時代の事が記されていたので様子がわかったんです。</p><br><p>日本っておくれていたんですね。</p><br><p>中国の「漢書」に紀元前の日本は「倭（わ）」と呼ばれて１００国ほどの小国に分立。漢の楽浪郡（朝鮮半島）に朝貢していたと記されています。</p><br><p>こまかい生活の事までは記されていません。</p><br><p>それから２００年後の「魏志」倭人伝に２０００字に及ぶ日本に関する記述があってそこでやっと日本の様子がわかってきたといわれています。</p><br><p>ここに書かれているのは、日本人の男性はみんな入れ墨をしていて、髪を結んで布で縛って、横幅のある布を上手に体に巻きつけて服にしていたようです。</p><br><p>女性は、髪を結わずにそのまま伸ばして髷にして中央に穴をあけた布を頭から被って服にしていたようです。</p><br><p>そして、男女共に裸足で歩いていたようです。</p><br><p>食生活は、お米を主食としていたようで、</p><p>魚や貝を好んで食べ、野菜もよく食べていたと記されている。</p><br><p>肉食の風習もあったみたいですが、その肉は鹿やイノシシだといわれている。</p><br><p>お酒も飲んでいたみたいです。</p><p>よその国からの情報でわかるというのもなんだか複雑ですね。</p><br><p>日本人の性質として、</p><p>権力者に従順で盗みや争いはなく、治安は安定していたようです。</p><p>夫婦制は、一夫多妻。</p><p>なにか行動するときは、獣骨を焼いて吉凶を占ってから動いていたとあります。</p><br><p><a href="http://dansiryonijosi.x.fc2.com/" target="_blank">男子寮に女子。</a></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/29d729dx/entry-12100875364.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Nov 2015 17:49:58 +0900</pubDate>
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<title>稲作の伝来ルート</title>
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<![CDATA[ <p>稲作の伝来ルートは２つあるといわれています。</p><br><p>一つは、朝鮮半島経由。</p><p>もうひとつは、中国の江南地方から直接九州に到達。</p><p>というルートです。</p><br><p>おそらく朝鮮半島のルートが主となる経路だと思われますが、</p><p>朝鮮半島にはみられない南方系の高床式倉庫跡が日本の遺跡から出土していることから</p><p>江南ルートも決してないとはいえない。</p><br><p><br></p><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151125/00/29d729dx/55/37/p/o0255022213493480367.png"><img border="0" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151125/00/29d729dx/55/37/p/o0255022213493480367.png"></a></div><p><br></p><p>日本に伝来した稲作は、弥生時代を通して飛躍的に耕地面積を拡大していきましたが</p><p>農具の面でもその進化は著しい。</p><br><p>初期のころは鍬や鋤といった耕作具は木製、鎌や石包丁などの収穫具は石製の道具を使用していましたが弥生時代も後期になるとこれらは鉄製に取って代わって収穫率も増大します。</p><br><p>また水田も自然の低湿地を利用する「湿田」によって人工的な「乾田」が多くなっていきました。</p><br><p>日本列島に稲作が導入されたことによって人々は定住生活をするようになって</p><p>土地や収穫物をめぐる戦争がはじまって貧富の差が発生してしまい、</p><p>支配するものと支配されるものに分かれ、各地に小国が誕生しました。</p><br><p>それまでの社会構造は稲作によって完全に壊されてしまったともいえます。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/29d729dx/entry-12099286356.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Nov 2015 00:34:57 +0900</pubDate>
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<title>縄文時代の稲作</title>
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<![CDATA[ <p>稲作が弥生時代にはじまったといわれていたりもするが、それは間違っているそうです。</p><br><p>最近では縄文時代の晩期の地層からゾクゾクと水田跡や稲作を行った形跡が発見されていてしかもその水田はかなり完成されたものだったことがわかっています。</p><br><p><br></p><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151125/00/29d729dx/69/78/p/o0199026513493474314.png"><img border="0" alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20151125/00/29d729dx/69/78/p/o0199026513493474314.png"></a></div><p><br></p><p>縄文晩期に突如現れた稲作（水田農耕）<a href="http://pankeikusu.x.fc2.com/" target="_blank">パンケイクス</a></p><p>これは、大陸から渡来人によってもたらされた異質なシステムであったと思われますが</p><p>わずか数十年の間に日本全国へと急速に広まっていったのは、すでに縄文人たちに新システムを導入するに十分な素地があったからだといわれています。</p><br><p>縄文時代は狩猟・採集を中心とした社会でしたが、ある程度農耕も行われていました。</p><br><p>縄文前期には、クリや瓢箪などの植物を栽培した原初的農耕の痕跡が認められていますし、</p><p>後期になると焼畑農耕によってアズキやアワ、裸麦などが作られていたことがわかっています。</p><br><p>このような経緯があったからこそ短期に稲作が拡散していったのだと思われます。</p><br><br>
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<pubDate>Wed, 25 Nov 2015 00:26:11 +0900</pubDate>
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<title>壊れている土偶が多いのはなぜか</title>
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<![CDATA[ <p>土偶のほとんどはそのままの姿で出土されていない。</p><br><p>手、足、顔、お腹などどこかしら壊されてる。</p><p>そして、不思議なことにその壊された部分は本体と一緒には出てこない。</p><br><p>また、壊しやすくつくられている土偶が多く、さらには最初から身体の一部を作っていないものさえ存在している。</p><br><p>もしかすると、最初から壊されるために作られているのかもしれません。</p><br><p>なぜ壊す？</p><br><p>この解釈の仕方によって実は学説が３つに別れています。</p><br><p>1つ目は、疾病治療説。</p><p>2つ目は、呪人形説。</p><p>3つ目は、豊穣祈願説。</p><br><p>病や傷の平癒を祈って土偶を自分に見立てて幹部をもぎ取って身代わりにすることで再生を果たすというのが疾病治療説。</p><br><p>憎い相手を土偶に見立て、その不幸を祈って像を壊すという考えが呪人形説。</p><br><p>「古事記」に登場するオオゲツヒメはスサノオの怒りに触れて殺されるが、その死体から稲や麦などの穀物や蚕が発生したといわれています。ここから縄文人は土偶を女神に見立てて、これを破壊することによって作物の豊穣を祈ったのではないかというのが豊穣祈願説。</p><br><p>土偶というのは不可思議な存在のままなのです。</p><br>
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<pubDate>Sat, 21 Nov 2015 23:19:05 +0900</pubDate>
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<title>土偶って何のために作られたのか？</title>
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<![CDATA[ <p>1万5千点以上も出土している『土偶』</p><p>形も色々あっていったい何のためにつくられたものなんでしょうか？</p><br><p>土偶とは、縄文時代につくられた土製の人形です。</p><p>今までたくさん出土されているのにその用途については明確な定説をもっていないという不思議な存在なのです。</p><br><p>土偶は縄文早期にはじめて出現します。</p><p>初期のころは腕を水平に広げて、足をそろえた扁平十字型ものが多いけれど、</p><p>やがて地方によって形状は多彩化していることがわかってきます。</p><br><p>出土件数は東日本が多くて縄文晩期になると東北地方がその中心となっていきます。</p><p>とくに遮光器型とよばれる土偶は前衛芸術のようでさえもあるといわれています。</p><br><p>土偶の大半は女性の形をしていて妊婦をかたどったものも多い。</p><br><p>そんなことから縄文人は女性を生命を生み出す神秘的な力を有する存在と考え、これを土で作成して豊穣を祈ったのではないかという説があります。</p><br><a href="http://yamete.x.fc2.com/">やめて！そんなにされたら壊れちゃう！！</a> <br>
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<link>https://ameblo.jp/29d729dx/entry-12098161304.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Nov 2015 23:12:51 +0900</pubDate>
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<title>縄文時代にも貧富の差が！？</title>
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<![CDATA[ <p>縄文時代の後期に入ると縄文人は住居をさらに低い土地に構えるようになります。</p><br><p>これは原初的農業や稲作導入と無縁ではないと思われます。</p><p>またこの時期以後、漆器や籠、櫛などが作られていたような出土が急増します。</p><br><p>後期は注口土器が有名です。遺跡は、堀之内貝塚（千葉県）があります。</p><br><br><p>晩期については、農耕具が多く出土することからかなり広範囲に農耕が営まれていたことが判明しています。</p><p>また遺体の埋葬状況から貧富の差が厳然と存在しはじめていたことがわかります。</p><p>すでに弥生時代への変化がこの頃からはじまっていたのではないでしょうか。</p><br><p>晩期は、亀ヶ岡式土器が有名で遺跡は亀ヶ岡遺跡（青森県）に存在します。</p>
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<pubDate>Sat, 14 Nov 2015 15:08:12 +0900</pubDate>
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<title>長ーい縄文時代</title>
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<![CDATA[ <p>約1万年にも及んだ縄文時代。</p><p>でも、一番シアワセだったのではないかと思われる時代でもあります。</p><br><p>この頃に人々が定住して、植物を栽培し、動物を狩りはじめました。</p><br><p>縄文時代は土器の形状によって</p><p>草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と６つの時期に区分されます。</p><br><p>はじめて土器が現れるのは草創期でいまから13000年前のことです。</p><p>まだ気候は寒冷で人々は寒さをしのぐために洞窟や岩陰を住居として狩猟中心の移動生活を営んでいました。</p><p>学者の中にはこの時期を縄文時代とはいわず、旧石器時代と呼ぶ人もいます。</p><p>どちらも聞いたことがありますね。</p><br><p>縄文早期になると人々は台地上に竪穴式住居を建てて10人前後の小規模な集落を形成して集団生活をはじめます。漁労もさかんになってゴミ捨て場となる貝塚が出現します。</p><br><p>前期には荏胡麻や瓢箪、漆などの植物栽培が行われるとともに丸木舟を使用して沖合漁労が開始されます。</p><p>住居のなかには炉が設置されて土器は地べたにおいて煮炊きしやすいように底が平たくなって盛り付け用の浅鉢土器も登場します。</p><br><p>また土偶が盛んに精製されるのもこの時期で人々の定住化はいっそう進展していきます。</p><br><p>中期の特徴は、集落の変化です。</p><p>中心に広場をもつ延期の環状集落が多くみられて規模も１００戸を超えるところがでてきます。</p><br><p><a href="http://josidaiseitokyoju.x.fc2.com/" target="_blank">女子大生と教授(と僕)のありがちなを</a></p>
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<pubDate>Sat, 14 Nov 2015 14:59:07 +0900</pubDate>
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<title>貧富の差ができた弥生時代</title>
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<![CDATA[ <p>中国の史書には、弥生時代初期の日本が小国に分立して大変な争乱状態だったと記されています。</p><br><p>小国の王たちは戦いに明け暮れるとともに、競って中国に使者を遣わし、その政治的威光を後ろ盾にして戦争を有利に進めようとしていました。</p><br><p>3世紀に入ると日本列島にある小国は、滅亡や統合によって拡大整理されていきます。</p><p>なかでも30カ国を支配下におく邪馬台国が最大級の国家であったと思われます。</p><br><p>女王卑弥呼の支配するこの国の様子は「魏志」倭人伝に詳しく書かれていますが</p><p>それによれば、人々の間には依然とした尊卑の差があって、庶民が道で支配者とすれ違うときはすぐさま端に飛びのいてひざまずき身体を地にすりつけて礼拝したといいます。</p><br><p>その光景からはかつて互いに協力しながら獲物を倒して、仲良く獣肉をわけあった素朴な縄文人の姿は完全になくなってしまっていました。</p><br><p>進化していくためには仕方がなかった時代の流れなのでしょうか。</p><p>失うものも大きかったのですね。</p><br><br>
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<pubDate>Sun, 08 Nov 2015 04:55:13 +0900</pubDate>
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<title>平和な縄文時代</title>
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<![CDATA[ <p>日本人は昔、少数で洞窟や穴蔵を転々としながら、狩猟中心の生活をして過ごしていたようです。</p><p>それは数十万年もの長い間。すごいですね。</p><br><p>そして1万数千年前、土器という利器を発明したことで食物の貯蔵と煮炊きができるようになってさらに狩猟具の改良で獲物の捕獲率が高まった結果、人間の暮らしはとてつもなく豊かなものに変わっていきました。</p><br><p>人々は堅穴式の住居に定住するようになって村を形成しはじめます。</p><p>縄文とよばれる社会ができていくのです。</p><br><p>この時代は焼く1万年続いたといわれています。</p><p>とてつもなく長いですよね。</p><br><p>人間同士がお互いに武器をとって殺しあうというような戦争はなく、本当にのどかで平和な時代でした。</p><br><p>この安定した生活を崩してしまったのが縄文晩期に導入された稲作技術だといわれています。</p><p>稲作が日本の社会を根本的に変えてしまいました。</p><br><p>良い田をもつ者ともたざる者。</p><br><p>高い稲作技術を有するものとそうでない者に貧富の差が出てしまい</p><p>他人の収穫物や土地、富や労働力を奪う人間が現れてきたのです。</p><br><p>そして、戦争がはじまってしまってそれに勝ち残ったものが王（支配者）となって負けたものが奴隷となっていきました。</p><br><p>弥生時代のはじまりです。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/29d729dx/entry-12093114078.html</link>
<pubDate>Sun, 08 Nov 2015 04:46:29 +0900</pubDate>
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