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<title>三流のアメリカ人になりたいか？</title>
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<description>「三流のアメリカ人」というのは、言語学者の鈴木孝夫氏が用いた言葉で、その趣旨は「幼少から英語を教えても、三流のアメリカ人になるのが関の山」という早期英語教育を揶揄したものから来ています。言葉や文化について、話をしたいと思います。</description>
<language>ja</language>
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<title>れる・られる２</title>
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<![CDATA[ <p>可能について。</p><p><br>１．昨夜は花火が見られてよかったね <br>２．昨夜は花火が見れてよかったね</p><br><p>我が国では、２の用法を、「ら抜き」言葉と言って、</p><p>誤用とする論が多数派です。</p><br><p>ただ、とあるデータによると、日本人の６割近くが、</p><p>生まれながらに「ら抜き」を使っているのだとか・・・</p><br><p>これは、地域差も大きいようです。</p><br><p>ちなみに、私は、「ら入れ」の生まれですから、</p><p>「ら抜き」が誤用と言われて、問題なく受け入れましたし、</p><p>「ら抜き」を使う人は、単に面倒くさがり・横着な人種なんだと思っていました。</p><br><p>おそらくは、東京方言が「ら入れ」だったため、それが「標準」とされ、</p><p>「ら抜き」は誤用とされたのだと思います。</p><br><p>しかし、「ら抜き」の人たちにとって、</p><p>勝手に誤用とされるのは理不尽極まりない話です。</p><br><p>言葉というのは、それ自身、優劣はないし、</p><p>当然それらを使う人間にも序列はないはずです。</p><br><p>為政者かあるいはそちら寄りの者が、勝手に基準を作って、</p><p>それに反するものを排除しようとするのは、ファシズムじゃないか！</p><br><br><p>「ら抜き」の人に言わせれば、</p><p>可能と受身が明確に区別できるから、「ら抜き」のほうが合理的だとの主張もあります。</p><br><p>Ａ．着替えを見られる。</p><p>Ｂ．着替えを見れる。</p><br><p>下世話な例で恐縮ですが、</p><p>Ａですと、受身なのか可能なのか、紛らわしい。</p><p>（もしかしたら、尊敬かもしれない[笑]）</p><br><p>Ｂですと、可能しか意味がありませんから、</p><p>間違えようがありません。</p>
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<link>https://ameblo.jp/3ryu-american/entry-10603144923.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Jul 2010 10:45:48 +0900</pubDate>
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<title>れる・られる</title>
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<![CDATA[ <p>助動詞ですね。 </p><br><p>受身・自発・尊敬・可能の４つの意味があるとされています。 </p><br><p>自発 <br>「昔のことが思い出される」 </p><br><p>受身 <br>「うちのエースピッチャーが打たれた」 </p><br><p>尊敬 <br>「先生が書かれている内容は～」 </p><br><p>可能 <br>「昨夜は花火が見られてよかったね」 <br>「昨夜は花火が見れてよかったね」 </p><br><p>自発と受身は、用法に大きな問題があるわけでもなく、 <br>理解はしやすいと言えます。 </p><br><p>問題は、尊敬と受身。 </p><br><p>まず、尊敬については、例えば前述の例ですと、 <br>受身と間違える可能性がある。 </p><br><p>つまり、「先生が（題材として）書かれている（取り上げられている）内容」とも <br>読めないこともない。 </p><br><p>紛らわしい。 </p><br><p>こういう場合は、 <br>「先生がお書きになっている内容」とすれば、 <br>これは意味の取り違いはほとんどないでしょう。 </p><br><p>ちなみに、学生時代、とある教授は、同じことを指摘し、 <br>そういう場合は、「書いておられる」とするのだ・・・ <br>とおっしゃった。 </p><br><p>ただ、「おられる」というのは、 <br>謙譲語の「居る」と尊敬の助動詞「られる」が合体したもので <br>厳密に言えば、正しくない使い方です。 </p><br><p>しかしながら、言葉は生きていますので、 <br>この尊敬の「おられる」は、間違いという指摘もあまり多くなく <br>今では市民権を得たというような感があります。 </p><br><p>謙譲語＋尊敬の助動詞は厄介ですね。 </p><br><p>先日挙げた「あちらで拝見してください」というのを <br>「あちらで拝見されてください」とすると、 <br>なんとなく正しい感じがしてしまう。 </p><br><p>これは、「拝見」が謙譲語だという意識が薄れているからかもしれません。 </p><br><p>可能については、次回。 <br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/3ryu-american/entry-10602475056.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Jul 2010 17:13:52 +0900</pubDate>
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<title>敬語の話</title>
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<![CDATA[ <p>敬語は難しい・・・</p><br><p>日本語が難解だという理由の一つは、敬語の存在でしょう。</p><br><p>敬語と一口に言っても、丁寧語、尊敬語、謙譲語という分類がある。</p><p>（もっと細かい分類もあるそうです）</p><br><p>丁寧語はともかく、尊敬語と謙譲語、この区別は非常に難しい。</p><br><p>「あの書類、拝見しましたか？」</p><p>「あちらの窓口で、伺ってください。」</p><br><p>尊敬語のつもりで謙譲語を使っている。</p><br><p>最近気になるのが、二重敬語。</p><br><p>「おっしゃられる」</p><p>「召し上がられる」</p><br><p>「おっしゃる」「召し上がる」はそれだけで尊敬語なのに、</p><p>さらに「られる」という尊敬の語尾をつけています。</p><br><p>ただ、言葉というのは、使い古されると、「格」が落ちるのですね。</p><br><p>たとえば、「貴様」という言葉。</p><p>今では、喧嘩のときか、軍歌ぐらいしか聞きませんけど、</p><p>これは字面だけを見れば、非常に相手を敬った言葉です。</p><br><p>事実、昔はそういう使われ方をされていましたが、</p><p>いつのころからか、その言葉自体の「格」が落ちてしまったのです。</p><br><p>「おっしゃられる」「召し上がられる」は、今でこそ、違和感を覚えますけど、</p><p>近いうちに「おっしゃる」「召し上がる」も「格」が落ちて、</p><p>「られる」をつけるのが普通になるかもしれません。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/3ryu-american/entry-10597517037.html</link>
<pubDate>Thu, 22 Jul 2010 07:54:52 +0900</pubDate>
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<title>耳ざわり</title>
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<![CDATA[ <p>とあるメルマガを読んでいたら、「耳障りのいい言葉」という文言がありました。</p><br><p>おいおい！</p><br><p>百歩譲って、そういう使い方を認めるならば、</p><p>「耳触りのいい言葉」と書かねば、おかしいでしょ？</p><br><p>「障る」と「触る」。</p><p>どちらも「さわる」と読みます。</p><br><p>でも、意味は全然違います。</p><br><p>そもそも「障る」については、</p><p>「その音楽は耳障りだ！」とかいう風に使います。</p><br><p>そのほか、「お前の存在が目障りなんだよ～」などと使います。</p><p>また、「さしさわりがある」＝「差し障りがある」です。</p><br><p>「障害」という言葉にも表れるように、なんらかの不都合がある場合の言葉。</p><br><p>一方、「触る」については、</p><p>「肌触り」とか「舌触り」とか、何かがくっついた感じがあるときに使うものです。</p><br><p>さて、耳ざわりですけど、</p><p>耳に心地よく響く言葉などを称して、「耳触りのいい言葉」とする。</p><p>これを、別の言い方をするならば、「耳通りのいい言葉」なんでしょうが、</p><p>あんまり聞きませんね。</p><br><p>言葉は生きていますから、もともとが誤用であっても、多くの人が使っていれば、</p><p>それが正しいとされます。</p><br><p>だから、別段、目くじらを立てることもないかなと。</p><br><p>でも、このデンでいくと、</p><p>「その洋服は、目触りがいいね～」なんて用法も出てくるのかな？</p><br><p>逆に、</p><p>「この果物は、舌障りがする」とか</p><p>「この下着は肌障りがしていやだ！」なんて使い方もされるようになるのでしょうか？</p><br><p>いずれにしても、少なくとも、漢字は間違えないでほしいものだと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/3ryu-american/entry-10596572463.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 07:28:57 +0900</pubDate>
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<title>日本語の乱れ？</title>
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<![CDATA[ <p>日本語が乱れている！と言われて久しいですね。</p><br><p>ただ、「乱れ」というからには、正しいものが有ってのもの。</p><p>じゃあ、「正しい日本語」というものが存在するのか？</p><p>あるいは、何を持って「正しい」とするのか？</p><br><p>亡くなった作家の井上ひさしさんなどは、「古典をひもとけ」と言っています。</p><br><p>確かに、「昔の用法＝もともとの使い方」とすれば、</p><p>それを基準に、「正しい」「乱れだ」と言えるのかなとも思えます。</p><br><p>でも、言葉は生きています。</p><br><p>間違った使い方であっても、多くの方がそれを使えば</p><p>「正しい用法」になってしまいます。</p><br><p>言葉を論じるとき、必ずしも杓子定規にはいかない・・・というのが実際のところです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/3ryu-american/entry-10595659218.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Jul 2010 08:24:34 +0900</pubDate>
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