<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>あらぶるボーダー日誌</title>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/55zepperi/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログとエッセーって、どうちがうん。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>わからず屋</title>
<description>
<![CDATA[ <p>お久しぶりです。篠崎です。</p><p>公務員を辞めて、いまはライターとして賃金を稼ぐ身になりましたが、どうにも生計が立てられず。。</p><p>今後は兼バイトをしながら、夢と現実に向かって生きていこうと考えています。</p><p>&nbsp;</p><p>さきほど、このあらぶる日誌の中で何度もテーマにしてきた「大学時代の友人」と、半喧嘩になってしまいました。</p><p>彼は中学校で教員をしていますが、近頃は帰ってきても風呂に入る気力がないのだと言います。でも、辞めたい気持ちはあるけれど、辞めたところで地獄は変わらないのだと言います。それなら続けていたっていいじゃないか。</p><p>&nbsp;</p><p>私は言います。</p><p>「でも、今のお前は安定した地獄への道を下っていることは変えようもない事実だが、環境を変えた先にあるのが地獄ではない可能性も否定できないだろう。」</p><p>彼は一点張りで意見を曲げません。私と同じように。</p><p>「環境を変えたところで地獄だろ？」</p><p>私は不思議なほど、電話で聞こえる彼の声に、感心をもたらす尊敬のゆらめきを感じられませんでした。大学時代には、彼の言葉の一つ一つが私の心にゆらめきを与えていたのは確かなのに、今の彼の声には、それがなかった。</p><p>あるいは私が、彼から尊敬を感じ取る力を失ったのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>これが縁の切れ目だと、私は確信していました。</p><p>私たちはお互いの声が聞き取れなくなってしまいました。お互いが求めるものをお互いに受け渡そうと会話しているのに、どちらの手に渡されたものも、どちらともにとって意味がないものだったのです。</p><p>もう、これ以上友達としては名乗れない。</p><p>なぜなら友達というのは、相手の声が自分の耳に届くなんてことは、よく聞こえるように耳を澄ませるなんてことは、当たり前なことだからです。</p><p>それぐらい、私の胸には彼の言葉は残らず、消化の良い食べ物よりもすんなりと、体の外に落ちていきました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>彼の言った「環境を変えたところで地獄だろ」</p><p>果たしてそれはどうでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>何もしていないのに、何を語れるというのでしょう？</p><p>&nbsp;</p><p>話が少し脇道に逸れますが、自己を形成するものには2つあると私は考えています。それはざっくりと分けると、「自意識」と「環境」です。</p><p>自分の思考や行動の方向性を司る「自意識」と、私達に常に外的・内的な影響を及ぼしている「環境」の2つが、1人の自己を形成します。</p><p>つまり、ある特定の環境による影響を知らない人に、環境による影響の持つ可能性を語れるのか？</p><p>&nbsp;</p><p>「俺も俗になったけど、お前はさらに早いスピードで俗になってるよ。」</p><p>彼は俗ではないことに拘ります。それが俗ではない己の作品作り、絵描きの根底にある力なのだと、確信しているのでしょうか。</p><p>おそらく彼は「環境を知ってしまった後では、すでに影響を受けているのだから、もう取り返しがつかないのだ」と考えているのでしょうが、</p><p>その「もう取り返しがつかない」ことを、どうして環境に影響される前に知ることができるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>”俗なものを知って、俗に堕落していった絵描きをたくさん知っているから、俗を知ることはいいことではない。”</p><p>&nbsp;</p><p>でもそれは、どうして彼が俗的なものに堕落していったかを説明できてはいません。</p><p>私が思うに、作品作りよりも俗的なものの方が彼の中で重要な価値を占めてしまったその瞬間、彼は俗的なものに蝕まれ、もう二度ともとに戻ることはできないのではないか。</p><p>致命的です。</p><p>俗的なものに引き込まれる心であれば、どれだけ神秘的な才能を持っていたとしても、それを手放して、ドブに捨ててしまうのです。</p><p>魔が差してしまう瞬間です。</p><p>&nbsp;</p><p>だが難しいのは、俗なものを知らなければ、誰の心をも突き刺す「高尚なもの」は、作り難いという事実です。</p><p>極めてシンプルで、だからこそどこまでも複雑な「高尚さ」は、誰の心をも動かす力を持つものです。</p><p>自分の知識だけではなく、誰にも通ずるロジック（ある意味では俗的なもの）に裏付けされた個性こそ、誰もが理解できるし、尊ばれるものではないのでしょうか。</p><p>要するに才能の差別化というのは、ロジックか個性かどちらに比重を置いているかが、その最もたる根幹にあるのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>私は書き続けます。</p><p>いつかそれがかつてよりも俗になったと知ったときにも、「それでも書かないと生きていけないから。」と思うのなら、書いてゆこうと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この記事を書いているうちに、1時間あまりが過ぎてしまいました。</p><p>晩ごはんを作らねば。</p><p>&nbsp;</p><p>それではまた。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12757778139.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Aug 2022 22:32:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ぼくは林檎の木を</title>
<description>
<![CDATA[ <p>マルティン・ルターの有名な言葉、「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私は林檎の木を植える。」――</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>今日を生き繋ぎつつ、貧血で座り込んだ子供さながら希死念慮の淵にしゃがみこみながら、無気力に頭が重くなったり、体が怠くなったりするのをやり過ごしている私には、この言葉がよく沁みます。</p><p>&nbsp;</p><p>最近、小さなシクラメンの苗木を買いました。</p><p>毎朝６：３０には起きて、暗い朝の陽光を窓から取り入れながら、「おはよう。」と一声かける。土が乾いているときには水をたっぷりやる。そうして起床と就寝の二度の機会に、シクラメンを「育てている」と実感することが、いまの私にとっては、何よりも生きていると感じることなのです。小さい苗木を育てることは、育てるという余裕を精神の中へと、自然な流れで組みこんでしまうところに、自分の心に植林することと同じように思います。</p><p>最近、仕事における心労負担が限度を迎えつつあるようで、ある日電車から降りられなくなり、職場に電話もできない状況に陥ってしまいました。管理職は温かく受け止めてくれたのですが、そんなことは例外の話でした。もちろん――こうなることは予期してましたが、それでも心苦痛をちょっとでも我慢することはできなかったのです――ふつうの同僚なら、「社会人として」規範破りを犯した私のことを、永続的で盲目的な右向け右に倣えなかった奇妙な愚か者として、冷たい目で見るものです。</p><p>&nbsp;</p><p>その後、私から、かつてから苦手であった指導役が外されることになりました。その指導役は私の属するグループ全体（4人ほど）の研修も”率先して”行っていたので、自分の不快感にすなおな上司は――本来なら、私の味方になってくれる立場なのだけれど――「残念なことに」研修がこれからは行われないと、定期会のときに告げました。社会人の連帯感など、それくらいのものでしょうか。</p><p>つまりは、己の自然が目を覚ますにつれて、私の住んでいた環境が崩れていっている。</p><p>それはそうでしょう。いままでの姿や振る舞いが剥がれ落ち、どうしようも偽ることのできなくなった肥大化した自意識が、社会的連帯に属していた私をその繋がりもろともに揺り動かしているのですから。</p><p>私は自分の手ですら舵を取れなくなった難破船を、また誰かに任せたい。</p><p>でも、その舵を負担してくれる心優しき人たちは、ここにはいません。</p><p>&nbsp;</p><p>言い方を変えると、心優しきというよりも「傲慢なほどに寛容な」人であり、それを社会に求めるのであれば、まず環境がその性質を持ち合わせていなければなりません。しかしながら、よっぽど特殊な職場でもない限り、そうした境遇などと巡り会うことはありません。</p><p>だから私は、夢を新しく作ることにしました。</p><p>本当に自分がしたいことと、おのがライフプランをぎりぎりまですりあわせるのです。そうすれば、夢はひとりでに実体を持ち始め、この現実に色濃く魅惑的な影を落としてくれるはずですから。</p><p>&nbsp;</p><p>私は、究極的には、小さな庭のある瑣末な家で、家庭菜園をしたいと思っています。</p><p>私によって育てられる、野菜や花木を、一所懸命に育てたいのです。</p><p>ごはんと味噌汁を食べられるだけの賃金でくらし、自分の心を差し出さなくてもよい仕事に務め、植物を育てることを生の中心に据える。</p><p>これが、私のありのままの姿であって、原風景です。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>何が賃金か。</p><p>何がかなしくて、「死ぬ気で働く」か。</p><p>何がたのしくて、自我の指針よりも社会倫理に合わせるか。</p><p>私は賃金を心の生に、労働は夢を支える柱にして、生きたいだけなのです。生き繋ぐような人生は苦しい。ただ、人生を過ごしていたいだけなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これから先の未来は不透明です。</p><p>来週に予約したカウンセリングが、いまの生を照らす街灯になっています。どんなお話をして、どんな気持ちになって、どんなことを考えるのだろうか。とっても楽しみです。</p><p>そうして明日を生き繋ぐ手立てを、ひとつひとつ施してゆくことでしか、いまは生をたしかにするものがありません。私にとっての林檎の木とは、まさにそういうことなのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>それではまた。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12712099282.html</link>
<pubDate>Wed, 24 Nov 2021 21:51:26 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>さくらのうた</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ここ最近、カヴァレリアルスティカーナの復活祭の合唱と、2012全日本吹奏楽コンクールの課題曲であったさくらのうたを、鬼リピしています。笑</p><p>&nbsp;</p><p>コロナのおかげで（おかげ、というと不謹慎ですが）、人とも会わず、友人たちが他の友だちと仲良くしているところも見ず、また周りから見られることばかりを意識することもなく、悠々と過ごしていられました。ここまで落ち着いて暮らしていられたのは、外出を控える風潮があったから、というのは、まんざらでもないことでもあります。</p><p>ですが今度、大学の友人と会います。図書館で借りていた本を返しに行くので、そこで会おうというのです。</p><p>&nbsp;</p><p>先の公務員試験で、友人は落ちました。</p><p>私は無事に合格することが出来ましたが、彼のメッセージには試験前にあった「子供っぽい」情熱はなく、ふつうの大人としての平熱になっていました。</p><p>それはやるべきことを終え、社会人としての展望も見えてきたところで、かつての少年らしさを卒業した証拠でしょうか。</p><p>けれど、私が愛していたのは、そんな子供っぽい私たちの関係と時間だったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>平熱になった彼からのラインには、なんの魅力も感じません。自分に対しての興味がないことを、知らしめられているような気がするためでしょうか。それも正しい。</p><p>実際、彼も私に対しては、ストレートで合格したという事実を踏まえて、かつての情熱も少しずつさめているのでしょう。</p><p>けれど、やはり、私はかつての若々しくておろかなやりとりにこそ、私たちの時間の価値の全てがあったのではないか、そう思われて仕方がないのです。</p><p>大学生というのに、小学生のような付き合い方。</p><p>私たちの会話の応酬が、まるで漫才のようだと言われたこともありました。</p><p>河川敷で喧嘩したり、授業をサボって好きな子との作戦について練り合わせたり、お互いの作品について語るために川の周りを何周もして、また授業をサボってしまったり。</p><p>旅行にも行きました。リゾートバイトで、地獄のような時間を共有したりしました。それらすべての思い出が、やはり「子供っぽさ」あってのことであったと、強く思われてきて仕方がない。</p><p>そして彼は、高校時代よりも楽しかったと、ほとんど二人きりですごしたこの四年間を振り返っていたのですから。</p><p>&nbsp;</p><p>あの、かつての「起きえないことが起きていた時間」に、私は恋していたのです。</p><p>彼はどうでしょうか？　彼は前に進む人だから、私のように思い出す度に体が分断されるような憧憬をもって昔に焦がれることもないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>私は彼に会いたいのだろうか。</p><p>会いたくないです。終わりには、必ず寂しさがある気がするから。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、この「会ったら寂しくなりそうで嫌だ」の感情と、そこから派生する分岐――「だから寂しさを相手に教える」「気にしていないふりをして、陽気に振る舞うことを演出する」の選択肢――これこそが境界性パーソナリティ障害の症状ではないかと、思うのです。</p><p>大学一年生のころの私は、心に拭えぬ永久寂寥のようなものを抱いていました。でもいまは社会的身分も約束され、人に会わない穏やかな日々を過ごして、大人として心が落ち着いてきていますから、そう思えるのかも知れません。</p><p>大きく括れば、「相手に粘着質に執着するあらゆること」、それがボーダーではないかと。</p><p>なので、それも病気としてまとめることで、執着のないまっさらな己として彼に会うということ。</p><p>それがこの胸の寂しさを、根本から抜き取る最良の道、なのではなかろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>そう思うと、さまざまな情景が立ち返ってきました。</p><p>かつての子供らしい日々、それこそボーダーの情熱があったからこそ、行えたものではないか。ボーダーを捨てるというのは、陶酔の日々とも永遠に別れるということだろう。</p><p>ボーダーがなければ、彼に対して無関心になってしまうのではないか。</p><p>心の中心核となる友人たちは、どこへ行くの？　ボーダーがなければ繋ぎとめられないんじゃないのか？</p><p>反面、このような声も聞えます。</p><p>ボーダーが治まってきたといって、いまもこうして悩んでいるなら、そのときには治っていなかったというわけだ。今回の決意だって失敗に終わる。</p><p>ありのままの自分を受け入れること。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、ボーダーは、真っ向から向かっていかなければ治りません。</p><p>満たされたように思って、治ったと一口に言うのは、むしろボーダーの世界から離れていないことを示します。ボーダーとして満たされたのだ、ということ。平穏の時は永遠に過ぎぬわけがないのです。</p><p>ありのままの自分とは、苦しみ続ける自分であること。受け入れてしまえば、苦しみを生み出す周回から逃れられないのです。くるしみを味わえば、かつてあった自分に対して・相手に対しての寛容さも、忘れてしまいます。苦し紛れにありのままの自分を受け止めてはならない。</p><p>それでは、どうするのか。</p><p>前に書いたように、相手に対するねちっこい執着のすべてを病気とみなし、冷静に否定すること。</p><p>一人になってしまうとか、仲が良くならないとか、そういうことはもう目をつむります。</p><p>見えぬもの・確証のもてぬものに脅かされず、幻影から脱することを目指すのです。</p><p>&nbsp;</p><p>――相手の行動が分からなくとも、自分の行動なら分かります。</p><p>当たり前として、相手を傷つけてはいけない。自分勝手な行動はしてはならない。</p><p>そこにボーダーの影響など、本当なら及ぶはずがないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>さくらのうたの話になりますが、終盤の盛り上がりの部分は、「今年も、さくらが咲いた」と、言葉がきこえてくるのです。</p><p>悲痛でもの悲しい旋律で語られていたのはさくらに纏わる過去の話、あの盛り上がりは、いまの姿と心。</p><p>&nbsp;</p><p>またいつか、さくらが咲くときが来るのかも知れません。心が乱されることもあるでしょう。</p><p>それでも、「ああ、さくらがさいてくれたぞ」と思える心。</p><p>それを大切にして生きていたいものです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>それではまた。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12640364395.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Nov 2020 15:57:49 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>余命幾ばくもなく、希死念慮</title>
<description>
<![CDATA[ <p>転換期に来ています。</p><p>モラトリアムの満了期。いままでの発達段階で、解決することのできなかった問題のあとしまつをする時期。</p><p>&nbsp;</p><p>しょうじき、とてもしんどいです。</p><p>いままでは希死念慮までには陥らずに、手前でなんとか持ちこたえたり、浸ってもすぐに戻ってきたりと、その境界を行き来していたのですが。</p><p>いまは、完全に希死念慮に陥っています。</p><p>とても死にたい。生きることをやめたいし、消えたい。消えてしまいたいです。</p><p>これは久しぶりの感覚で、おそらくは2年ぶりくらいでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>どうしてそうなってしまったのかと言えば、教員採用試験には受かったものの、教育実習をするにつけてなおさら教職に嫌悪感が募ってきたこと（癒やしも楽しさも、ましてやる気も湧いてこない！）、実習を先に終えた友人の話を聞いて、自分の居場所がなくてひとりぼっちだと感じたこと――そのために、私はもうほんとうに一人なのだと考えたことが、原因でしょうか。</p><p>あれほど教師に向いていないと言っていた友人が、実習の三週間を終えてみれば、来年もやってみるだけの力はあると言っていたこと――それどころか生徒にも慕われたそうで、適正的にはなんの不満足もなさそう、ということ。「社会で生きるくらいには認められた」と、あれだけ社会不適合者を自称していた友人が、穏やかに告げたこと。</p><p>&nbsp;</p><p>それは、よい変化です。</p><p>でも私にとっては、最悪の変化でもあります。</p><p>私の知っている友人は、実習前を最後にしていなくなってしまった。ほんとうにこの世から消えてしまった。ふたたび出会うことは、この人生ではあり得ません。</p><p>私はどれだけ昔の友人に救われて、それを拠り所にして生きていたか。</p><p>&nbsp;</p><p>これは、はなはだ自分勝手な話ですが、そもそも感情は己が公正に裁けるところに存在していません。いつでも自分の身に寄り添い、そのために身を焦がさせることもあり、ときどき身を潤わせるのが、感情なのですから。もう一人の友人と言ってもよいかもしれませんね。</p><p>私は本当に打ちのめされました。彼は今年は試験に落ちたので、来年は非常勤です。私は受かってしまったために、まったなしで正規雇用、もうこうして振り返るだけの余裕も余暇も残されていないのですから。気がつけば、崖の縁に立っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>彼からは、「これから会話しても、お前は受かったんだから、（こいつは受かったんだからなあ、という）気分は変わらないと思う。」と言われました。</p><p>彼の言い分は、とても正直で、もっとものところです。</p><p>でも、それに私の孤独感を合わせたら、もうお互いに会っている理由もわけも、なくなってしまったのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは試験と実習を経て、関係が変わってしまったのです。お互いに嫌々ながら教職を目指す連れ合いから、一方は来年から教員として現場に立つ者、片方は非常勤として働く者。そして、一方は実習をして、なおさら教職への嫌悪を募らせたが、片方は生きていける実感を得た者。</p><p>わかり合えません。</p><p>お互いの立場が、心の姿勢が、まるきり変わってしまったのだから。</p><p>表面の態度には出ないにしても、どこか魯迅の『故郷』を思い出してしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>彼自身、また心の変化が生まれています。</p><p>気になった女性の連絡先を聞いたり、慕われた生徒から手紙をもらったり。女性関係で自信をもてなかった友人は、確実に男としての自信をつけることができたのでしょう。</p><p>自分の性対象に向けて、どうしても惹かれてしまうこと。それは生きている限りなくすことはできません。</p><p>私のような――境界性パーソナリティ障害にして、同性に依存し惹かれてしまう人間のような――微妙な立ち位置にいる人間は、その図式から除けられます。</p><p>これは、生涯をかけて孤独です。</p><p>&nbsp;</p><p>おそらく順当に結婚もできないでしょう。きっと女性では、この心の欠けた部分は埋められません。</p><p>ほんとうに、生涯をかけてどこまでも孤独。</p><p>誰かを愛せるかも知れないが、誰からも”心からは”愛されない。</p><p>いえ、”心や身体を”愛されない。</p><p>&nbsp;</p><p>なので私は、この友人との一件を、失恋として捉えることにしました。</p><p>いままでは友情として考えていましたが、これほどまでに自己存在の欠落を感じてしまうのでは、もう友情ではありません。</p><p>失恋は往々にして乗り越えなければならないものです。</p><p>忘れるか、次の恋愛を見つけるか――でも、次の恋愛をどこまでしても、最後に同じ痛みを味わうことは免れ得ない。それは本当に不毛に思われるのです。</p><p>どうせなら、私と同じ立場にいる人と、痛みを分け合いたい。相手の痛みを少しだけ受け取って、その量の分だけ、私からも痛みを差し出す関係を、築いてみたい。</p><p>でもそんな関係を築ける可能性をもつ人と巡り会えるのは、あったとしても今ではない。</p><p>だから、今は消えるか死ぬか。それを考えてしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>「生きるためには働かなくちゃならない」とは言いますけれども、「生きるよりも心の安寧がほしい」人は、どうして生きなければならないのか。</p><p>その解をもっているのは、やっぱり自分の痛みを知っている人だけなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>教員になったあとか、近々、ほんとうに死ぬ気がする。</p><p>助けられる人もいないのに、助けは求めません。いえ、もしかしたら話を聞いてくれたら救われるのかも知れないですが笑</p><p>&nbsp;</p><p>とにかく、この記事をここまで読んでくれた人には感謝しきれませんね。</p><p>同じ痛みを抱えた人の癒やしになれるように、どうか届いてくれることを祈ります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12633596082.html</link>
<pubDate>Sat, 24 Oct 2020 16:09:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ハウルの動く城から学んだこと</title>
<description>
<![CDATA[ <p>こんにちは。しのざきです。</p><p>前回の投稿は二ヶ月前ですね。</p><p>すっかり試験も終えて、いまはゼルダをやったり、読書をして、のんびりしています。笑</p><p>&nbsp;</p><p>読書というのはおもしろいもので、ある意味一種の偏執を抱えた人間の書いた本、あるいは、偏執を抱えて生きる人の物語を読んでいることになります。物語に出てくるのも、ちょっと考えれば、どこか日常にはいないような人ばかり。（最近の文学では、やけに主人公が物語のテーマに対して忠実、万能だったりしがちですが。）</p><p>私が読みたくなる本は、たいていブッカー国際賞、ノーベル文学賞、谷崎潤一郎賞あたりを受賞した作家の本が多いので、広く浅い自我の認識というよりは、狭い世界を掘りつづけた結果、地球を貫通したような、それこそ特殊なテーマの本ばかり読むことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>ハン・ガンの『菜食主義者』、オルガ・トカルチュクの『逃亡派』、アリスマンローの『ピアノ・レッスン』――どれもある固定された概念、とても一般的とは言い難いが、あらゆる人が心の要素として抱えている偏執や欲望を、専門家さながらの批評眼でつきつめた作品ばかり。人は新しいことを知るよりも、心のどこかで共感線が響くものを求めていますね。往々にして、これは新しい・好ましいと思ったことは、それは自分が受け入れることのできたものであり、あるいは共感してしまったものでもあるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>話が少し逸れてしまいました笑</p><p>でも、この「偏執」という性質は、人の一生を考えるにあたって最も重要なことではないか――それが、『ハウルの動く城』から学んだこと、なのでした。</p><p>『ハウル』の考察が主眼ではないのですが、少し触れていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>宮崎駿の『ハウルの動く城』、観たことある方はご存じだと思いますが、物語中でソフィーは若返りと老いを繰り返します。</p><p>それは、一部ではソフィーの精神年齢と呼応したものではないか、とも言われています。</p><p>私もその説を推している立場ではあるのですが、そのもう少し先を行ったところに、ソフィーの性格や感情の原点があるのではないか、と思うのです。</p><p>作中の中終盤、ハウルがソフィーと花園を散歩するシーンで、若返ったソフィーはハウルに寂しさを打ち明けます。そして、自分は力不足だが、それでもハウルの役に立ちたいと告げます。</p><p>ハウルはソフィーの容姿を褒めますが、みるみるうちにソフィーは年老いていってしまいます。</p><p>そうして、「年寄りはなくすものが少ないのがいいところね。」などと、さっきまでの正直さとは裏腹に、皮肉っぽい自虐まで言ってしまうのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ここに、作中を通して現れてきたソフィーの性質、「外見の自信の欠落、それによる他者への不信」が如実に現れているのではないかと思うのです。これはソフィーの持つ「偏執」――どれだけ人から否定されようともけっして譲らない考え方、むしろ譲りたくない考え方、そうであると妄信的に信じて疑わない姿勢――平たくいうと、固定観念です。</p><p>そして、その根拠を疑わず（それは往々にして、自分が不利になる情報を、不利だと分かっていながら強く信じているのですが）、端から見れば痛々しくも見えるそのひたむきな考え方や思考こそ、”呪い”ではなかろうかと思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これは物語の話だけではなく、現実の生活でも見られることです。</p><p>たがが外れてしまうまでは、自分の力を信じ続けて生きる人。</p><p>ある一つの個性を信じていなければ、これを譲ってしまったら生きている意味もないし、私らしさもなく、ましてや生きていけないと握りしめる人。</p><p>「正義は正しい、いかなる場合においても悪は悪である」と前提的に考えるあまりに、なかば非情にも見える人。</p><p>自分の融通の利かなさを、分かる人には分かる癖のように昇華してしまって、頑なに直そうとはしない人、など。</p><p>&nbsp;</p><p>いろいろな種類があります。それだけに、似た偏執を持つ人も多いのです。</p><p>なぜだか分からないけれど、おそらく本人に聞いてもちゃんとした理由を持っていないのだけれど、その考え方をひとまず横に置いておけば事はスムーズに運ぶのに、あくまで手放すことを考えない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私にもあります。私の場合、あいさつすることが緊張してできなかったり、「この人は私と話していたらつまらないだろう」と信じるばかりに、良好なコミュニケーションが築けなかったり、または忌避したり、崩したり。</p><p>それは子供や、明るい陽気なグループに所属している人と触れ合うときに現れます。</p><p>誰かとはじめに会うときは、たいていこの考え方から入ります。そうして、この考え方でも無理なく接していられる人とだけ、交流が生まれるのです。つまりは、私のことを必要としてくれている人や、面白いと思ってくれる人たち。</p><p>いっけん、ふるいにかけているようで、集まってくるのは自分に良い人ばかりだから、それはいいことなのではないかと思われるかも知れません。ですが、これは「孤独な鎧」です。</p><p>甘んじていればこれ以上の人間関係も築けないし、ますます自分の考え方が固定化していく。拒むものだけが明瞭になっていって、小さな小さな世界にしか生きることのできない――一種の自己中心的な人間になるのです。これは自分では諦めがつくかもしれないが、周りから見れば、これほど息苦しくて融通の利かなさそうな印象もありません。気付かずに、人に不快を与えている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>たくさんの人に会って、自分の価値観を錬磨することが大切だ、という話ではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>ある一つの考え方を、一度も疑うことも壊すこともなく、「それは確かだ」と握りしめていることが、どれほど自分にとって大切なものを取りこぼしてしまっているかということ。自分を歪なものにしているかということ。これは大なり小なり（端からの見え方において）のものがあれども、誰しもが持っているものですね。</p><p>じつは、『ハウルの動く城』では、その呪いに対する答えが描かれています。</p><p>一番最後のシーンでは、地味だったソフィーがきれいなドレスと帽子を身に纏っています。歳は、呪いをかけられる前よりも少し上でしょうか。けれども、髪の毛は銀色のままで、呪いが解けていないことは分かります。</p><p>ハウルの心臓の一件を通して、ハウルから改めてソフィーのすべてを受け入れられたこと、またソフィーもすべてを受け入れることができた人が生まれたことによって、かかっている呪いがまだ解けていなくとも、それを気にし続ける必要がなくなったのです。これはあくまで憶測ですが。。。</p><p>「外見の自信の欠落、それによる他者への不信」が、その過程――ソフィーの場合は、自分の駄目な性質の存在だけを肯定し、それとともに誰かを愛し、その上で愛されたこと――によって、信じるものに足りなくなったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで大事なのは、ソフィーは自分に呪いがかかっていることを知っていたということ。</p><p>呪いは完全には解けなかったかもしれません。ですが、それを気にしなくてもいいところまでは、自分を変えることができる。</p><p>それは呪いをちゃんと知ること、呪われているのだと知ること。</p><p>さらに実際的に言うならば、なぜ自分はその呪いを握りしめているのかを考えること。</p><p>さきほどの私のあいさつの件で言えば、よくよく考えてみると、「相手は自分と話してもつまらないだろう」→「自分と話していたらつまらないだろうと、自分は思う」という考え方に固執していたことが分かりました。相手を透かして、自分に対する自信のなさを、まるでそれが真理であるように考えていたわけです。すべては自己完結が原因でした。</p><p>私が恐れていたのは相手ではなく、自信の持てない自分自身でした。そのため、あいさつするのが躊躇われたときも、「私は自分に対して恐れているだけなのだ。」と考えたところ、すっと心が軽くなり、余計な固執をせずにあいさつできました。いまのところは、あいさつをするたびに考えなくてはなりませんが、呪いが±０にいたるまでは、そう考えていきたいと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>自分をよく知っていると自惚れていて、いつのまにかに、自分の嫌なところに定住するような姿勢。むしろそれを譲れないものとして、気がつけば他者にも押しつけているような傲慢さ。</p><p>せめて、歳をとったあとには自分の良いところばかりを振り返られるように、いまのうちから直しておきたいものです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>なんにしても、宮崎駿は登場人物の性格を本当に考えているから、こうして人生の考え方に生きてくるのだと思うと、偉大さを感じます笑</p><p>人間を知ることから物語を作らなくては、物語は永遠にフィクションの域から出られません。それが、現代文学の大きな盲点であり、世界観に人を当てはめたように不自然な「演劇的人間」を作ってしまうのです。現代文学では世界観を読むことを重視しています。明治～昭和のような、人を読むお話は、ほんとうに少なくなっている。</p><p>世界観が作られれば、同時に人間にも役割が生まれます。それはＳＮＳでも明らかですが、果たして役割とは個性たり得るのか？</p><p>世界観に屈従した、シリアルナンバー以外のなにものでもないのではないか。</p><p>個性とは、世界観を抜いたところにも自立できるものではないのか。</p><p>&nbsp;</p><p>これ以上すすめると話がまとまりませんからここまでにしましょうか。笑</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>それではまた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12631701653.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Oct 2020 17:44:52 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>その日の幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>連日ブログ投稿をしていることに、我ながらおどろきました。笑</p><p>でも、それだけ心が揺れうごいていたり、また新しい発見が多いのも事実です。</p><p>&nbsp;</p><p>私しのざきのブログのコンセプトは、「同じ状況にいるひとの助けになれるような」ブログを書くこと、です。ちょっとおこがましいですね笑</p><p>なんでもすべてを知っているわけじゃないし、偏りが多いのも現実ですが、それでも半ば自分の回顧録風に書いたこの記事たちが、どこかで困っている・解決策もなく暗闇で苦しんでいる人たちの一抹の光になれば、という思いで書いています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>さて、さきほど思いついたことがあります。</p><p>それは私の不安を鎮めると共に、とても基本的なことでした。</p><p>&nbsp;</p><p>私にはボーダーの依存を受け持ってくれる大学の友人がいます。</p><p>先日、その友人が新たなバイトを始めるというので、私は取り乱してしまい、彼からのラインに返信したものの既読無視。久しぶりの人離れ不安に駆られたので、ああこんな感じだったかなあと、ちょっとは客観視できてるつもりになってみたりと、自分にとってはあたかも「掌握できた出来事」として纏めようとしてのですが、やはり上手くいきません。</p><p>&nbsp;</p><p>彼は新しい職場で新しい人間関係を見出して、それに没頭し、まるで人が変わってしまう。</p><p>私から離れたいのではないか。私から離れていくつもりなのではないか。</p><p>そんなことがない、ということは完全に言えないまでにしても、その不安は杞憂であることを示す出来事は、以前何度でも起きています。つい最近では、私たちの関係が良かったこと、大学四年間のあたたかい振り返り、今の気持ちを伝え合ったのです。私はいつになくとても満たされていました。脱線すると、そこでむかしの教訓――満たされた後には不安がやってくる、を思い出せば良かったのですが。</p><p>また、そういう久しぶりの心の交流があったからこそふたたびボーダーを発症してしまったというのは、たしかに言えることでもありそうです。どこまでも他人勝手に自分勝手を含める悪い癖ですね笑</p><p>&nbsp;</p><p>さて、そんな流れで人離れ不安を思い出した私は、どうしても彼にラインを送りたい。</p><p>でも、重たく思われるようにはしたくない。ぜったいにうっとうしがられたくはない。それは誇りにも似ています。</p><p>運良くバイトの話題以外にも、公務員試験の合格発表という話題がありました。それでラインを送ってみたものの、私は今日発表されるのに対して、彼はもう少し先だ、という返答。そのまま会話は空中停止し、私からの最後のメッセージ、「合格発表したら一報いれてね」で終わってしまいました。まだ未読のままです。（きっと対応が面倒くさいと思ったのでしょうね。）</p><p>&nbsp;</p><p>それでも会話を終わらせたくない私は、彼のバイトの話に無理矢理持っていってしまおうかとも考えたのですが、そこでおしまいにしました。それはさすがにやり過ぎであると、過去の経験を思い出して踏みとどまったのです。</p><p>「合格発表が行われたら、また会話」――これでいいんじゃないか、と。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>そこで、ふと考えがまとまったのです。</p><p>人離れ不安とは、相手に自分が同化している状態においての、隔離に対する不安。それが生じる前提において、相手に自分が同化しているというのは、最も大切な事実です。私は、その事実があるからこそ依存しているのだし、相手にどれだけ愛を振りまいても痛くないのです。無意識的に、本当の意味としての「同化」を目指している、とも言えそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし現実、我々は別個の人生を生きてきた別個の身体と人格を持っているという時点で、本当の意味での「同化」が不可能であることは確か。</p><p>模擬的にそれに近いところまでは目指せようとも、反するところは必ず生まれる。</p><p>要するに、ここからここまでは関与しない、ここからここまでは仲良くする（できる）、という、「人間として」明確な区切りを、やっとこさっとこ見出したのです。</p><p>これで言うなら、バイトのことは関与しない、合格発表のことは関与する、のように。</p><p>&nbsp;</p><p>ボーダーに対する対処法として、そのような区切りを提示することが挙げられているものを読んだことはありましたが、いま思うと、よっぽど毅然とした態度で行わなければ意味を生むことができないやり方でもあるようです。ボーダーのお友達や恋人の方、お疲れ様ですね。</p><p>私自身も、四年目にして心落ち着いてそれを受け入れることができたのですから。彼にはいろんな被害を与えていたことは、想像に難くありません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>でも、こうした区切りの落とし穴としては、その時々によって区切りの位置は変わってしまうし、細分化しようとしたらいくらでも細分化できる、またその反対も然り、であるということ。</p><p>先を考えると気分が落ち込みそうです。区切りだらけになって、彼と本当に離れてしまったらどうしよう。</p><p>しかし、それの対処法は存在します。</p><p>区切りを付ける定義は、私が不快な気分を覚える箇所に付けること。不快に思わないのなら付けないこと。それでいいと思います。</p><p>あなたが不快に思うのは、きっと相手が離れていくような素振りを表したときなのですから。積極的に「見なかったこと」にしてしまいましょう。</p><p>ボーダーのお相手の声で、「そんなつもりはなかった」というのをよく見かけるように思います。私たちは共依存ではなくて、共存しなくちゃならんのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>最近の私の目標に、「その日その日がよければ幸せ」があります。</p><p>さきほどの「合格発表がなされたら、一報」というのも、ほんとうに一報くれるのかも怪しいです。彼からはなにも来ないような気がしますから、きっと私がまた連絡を入れてしまうのではないか。</p><p>けれども、さきのことを考えていてなにも始まらないのも、確かな事実。いまを生きる私たちは、どれだけ未来のことを考えていても、じつはコンマ一秒先の行動を起こすことしか許されていません。体のキャパシティと矛盾しているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>だからこそ、そういった未来に託すメッセージを送ってしまったとしても、「その時点での気分が前向きならそれで幸せ」。たしかにそのときの気分は、未来のことを考えていて幸せでした。またこんど、会話ができるのですからね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>相手の顔をしっかりと思い浮かべて（自分の感情で塗りたくっちゃいけません）、ほんとうの「愛」を抱きましょう。</p><p>「愛」とは愛すること、つまり、愛している状態においては、それが円滑に進むために耐える苦行も必要不可欠です。</p><p>それらすべてで「愛」なのですから。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>次回も行き当たりばったりで何かを書きますね。笑</p><p>それではまた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12614655721.html</link>
<pubDate>Fri, 31 Jul 2020 15:50:33 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>寄り道　その一</title>
<description>
<![CDATA[ いまがとても辛いので逃げてきました。ボーダーの発作が発症しています。<br><br><br>先ほどから、友人に送ったラインが返ってこないのです。もとはと言えば、彼からのメッセージを返信したのに。どうして返ってこないのだろう－－　こうしてどつぼにはまるのです。<br><br>彼は今日、面接があったといいます。面接官は知り合いで、一つ年上の異性。昨日の言葉から、彼のメッセージが来たのは面接のあとだと分かるのですが、一時間おきに３つメッセージを送っても、まったく返信を返しません。彼の携帯電話は通知が来ると音がなるので、本当は気づかないはずはないのです。<br><br><br><br>彼は、その面接官と会食をしてるのでしょうか。<br>きっと仲良くなれば私は捨てられてしまう。関係は続いても、以前のように親しく接してくれるというよりも、多少の距離をもって、接してくるのではないか。<br>辛いです。体が異常事態を警告しています。本当は私の考えすぎなのだということを頭で理解していても、心はまったく受け付けません。<br><br><br>もう一つ辛いのは、昨日つい心を許して、もう私はボーダーじゃなくなった、なんて言ってしまったこと。そのせいで私に構ってくれなくなったのではないか、なんて思われてくるので、悔恨の念が渦を巻きます。そんなことは言わなければよかった。いつものように接していれば良かった。<br><br>心を許すというのは、試練の始まりでもあります。<br>相手の甘えを許すということ。それだけの寛容さが自分にあると宣言すること。<br>昨日の時点では寛容さを備えていると思っていたのですが、それこそ甘かったようです。<br><br><br><br>いつになったら治るんだろう。<br>薬に頼りたい気持ちがよく分かります。呪いは簡単には自分のものにすることができません。<br>ああ、辛いなあ。<br>また昔のように、落ち着いて幸福に溢れていた頃に戻りたい。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12614276914.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Jul 2020 21:37:08 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ボーダーの逆襲。瞑想と認知①</title>
<description>
<![CDATA[ <p>お久しぶりです。前回から一ヶ月も経っていない更新は、初めてかも知れません。</p><p>&nbsp;</p><p><br>最近、よく批評家の本を読むのですが、まあ彼らはなんと自己批判の上手なこと！　なにかを批判するときには、まず己を透かして見せてから批判するのです。ある時には、己の首をざっくり斬り落として仕舞いかねない冷淡さ。それが、本当の批評であると心得ているからこそできるのだなあ、と、ぬるぬる批評家の私はそう思ったり。してます。<br><br>前回のブログで認知と瞑想についての予告をしました。正直なところ、まだ至らぬ点の多い考察です。<br>そもそも考察というよりも、自分自身とは何かをテーマにして書く気概がこのブログにはちょっとあるので、これは感想文に近いのかなあ。<br>今回は、私しのざき自身の認知を基に、境界性パーソナリティ障害の縁をなぞりながら、認知と瞑想についてうっすら書きたいと思います。<br><br><br>私は、ご存じのようにボーダーです。医療機関を受けたことはありませんが、中学校、高校、大学と環境が変われども、他者との接し方－－相手に己を激情でもってぶつけながら人離れ不安で身を焦がすこと－－が変わらないので、そうであると認識しました。<br>さて、これはボーダーあるあるか、私はよく友人との出来事を思い出すことがあります。大抵は友人が素を出してくれた、と思う瞬間。</p><p>何かを薦めてきたが、私が面白くなさそうなのを感じて、がっかりした顔。私のことを尊敬してくれていて、溢れる敬意にしたがって(私が勝手にそう思ってるだけだけど)熱っぽく愛のある言葉を掛けてくれるとき。そしてよくあるのが、「おまえって、こういうところがあるよな。」と、私のことを把握しきったような口振りで、当たり前のように語る友人の眼差し。<br><br>なぜこういったとりとめもないことを思い出すのか。それは、これらを一種の自己肯定として受け取っているからです。私のことを考えてくれている、私のことを知ろうとしてくれている、なおかつ大事に思ってくれている。この実感が、私にとっては替えがたい甘さを含んだ陶酔と、友人との関係の確かさ、肯定感をもたらしてくれるのです。<br><br>しかし今回は、そういう妄想を冷静に捉え直してみました。</p><p>つまり、「どうしてこういう端々からでしか自分・友人を肯定できないのか」ということ。<br><br><br>瞑想を時折するお陰で、感情をそのまま捉える術が身に付きつつあります。私はじっと感情を観察してみました。すると、不思議な確信が生まれたのです。<br>私は、友人たちの感情を信じることができないということ。<br>もしくは、友人たちがもっている感情を理解することができないし、共感できないということ。<br><br><br>彼が怒っているとか、悲しんでいるとか、そういうことは分かります。でも、そこまでなのです。彼は怒っている。彼は悲しんでいる。「どうして」と「だから」がない。彼の感情の実態が全く掴めない。彼の怒りや悲しみに共感できない。寄り添うことができない。<br>冷淡に言えば、彼を自分と同じ感情を持つ人間だと認識していないということですね。見下しているのではありません。自分の持っている感情を彼の感情に当てはめよう(=共感)としたときに、それが全く性質の違うものであるということが、明確だから、なのです。</p><p><br>なぜそんなことが起きるのか。<br>おそらく理由は二つあり、そのどちらかでしょう。<br><br><br>一つ、ボーダーは(主語が大きい。笑)、むろん激情的です。感情の単位が大きすぎる。人間は個人として己の感情だけを常に感知し、それを「怒り」や「悲しみ」と使い分けているので、相手の感情を推し量ろうとするとき、自然と己の感情の尺に当て嵌めることになります。ボーダーは持ち合わせた感情の単位が異常に大きすぎるから、すなわち相手の感情と同じものだと考えることができない。=共感できない。<br>もう一つは、ボーダーを発症する人自体、そもそも共感的理解の脳の働きが乏しいこと。脳のことはよく分かりませんが、そういった構造的な問題としてです。イヤホンを付けた人は、周りの音が聞こえなくなると同時に、自分の声の大きさも分からなくなり、だんだんと声が大きくなってしまう。それと同じように、そもそも共感するための脳の働きが鈍いために、己の感情をコントロールする力も足りず、暴走させてしまうということ。</p><p>&nbsp;</p><p><br>どちらにも言えることは、共感することができない、ということでしょうか。<br>これはボーダーの特徴として言えることだと思います。</p><p>平たく言えば、相手のことを考える前に、大前提として自己のことから考え始めてしまうこと。「私は彼のことをこう思う(人離れ不安に基づく主観)」→「彼はこういう状況にある」→「彼はこうに違いない」みたいな流れですね。<br>それではいくら相手のことを考えようとしても、そこに自分の感情を見るだけで、共感することはできません。</p><p><br>よって、人離れ不安にいつまでも駆られてしまい、相手は私と同じ感情を持たないと考えてますます疑心暗鬼に陥り、相手のいつでも「移り変わる」(これはボーダーから見れば、です)言動が許せなくて激情的に振る舞って、日頃から相手の自然な感情を見定めようと躍起になります。自然な感情なら、それは決して移ろわない本当の友人の姿だから。<br>その見定めが、私にとっては、先ほど書いた妄想の類いなのではなかろうか。<br><br><br>ボーダーの改善法は、努力です。<br>相手の顔に、相手自身を見つけること。自分の感情をそこからなくして、相手のあるがままを観察すること。それは、相手を知ること。なんとも子供のようなやり方ですが、そこから始めなければなりません。私たちはいつも基礎を無視して応用に走り勝ちなのです。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>けっきょく瞑想と認知という皮を被ったボーダー論になってしまいました。笑<br>やや不完全燃焼オチですが、無理矢理まとめるなら、瞑想と認知というのは『己の感情をありのままで捉えること』。<br>今回のお話は、その成果、なのかもしれません。<br>ボーダーと瞑想というのは、案外相性のいいものかもしれませんね。</p><p>&nbsp;</p><p>次回は何を書くかまだ決めていません。</p><p>みなさんもコロナウイルスに負けないでくださいね。</p><p>&nbsp;</p><p><br>それではまた。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12609137766.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Jul 2020 03:04:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>性依存症、あまりに性依存症の</title>
<description>
<![CDATA[ <p>お久しぶりです。何ヶ月ぶりとかになるのかな。<br><br>先日、『セックス依存症になりました。』という漫画を発見しました。主人公は浮気をしてしまい、当時付き合っていた彼女からDVを受け、セックスのことを少しでも考えると途端に激しい焦燥、動悸、落ち着きのなさに見舞われる「性依存症」を発症してしまうというお話です。</p><p>&nbsp;</p><p><br>文字面を見るだけなら人よりも性欲が強いだけのように見えてしまいますが、恐ろしいのは性欲とは関係のないところ(精神、こころの問題)で発症するということです。たとえ性欲がなかったとしても、セックス(あるいはそれにかかるもの)がちょっと頭を掠めただけで、自分はそれを考えないようにしていても強迫的にそれのことしか考えられなくなり、いま行っている仕事は全く手につかず、挙げ句の果てにセックスをすることで焦燥から逃れようと試みますが、こころが満たされることはないのです。</p><p>むしろ、その発作とも言うべき症状に駆られて行為に励んだことに、罪悪感や後悔を覚えるのです。</p><p>そして少し時間が経てば再発してしまう。性欲と切り結んだものではないからこそ、何度でも再発し、その原因を突き止めることも難しい。</p><p>&nbsp;</p><p><br>アメリカではれっきとした精神疾患の一つとして考えられているようです。</p><p>じつは、この病気のことを知ったとき、私は安堵を覚えました。同じような考えの人がたくさんいることに安堵したのです。</p><p>&nbsp;</p><p><br>とはいっても、私の場合はセックスそのものではなくて、誰かが(主に友人たち)依存症めいたものに襲われているところを想像してしまうと、同じような動悸、焦燥、落ちつかなさに見舞われることがあります。それは今まで、何年間も続いています。<br>具体的に言えば、例えば潔癖そうな友人が煙草にはまる妄想をしたり(それは得てして、「本当はそうなのではないか」という不安であったりもするのですが)、あるいは彼らが薬物を乱用している場面を考えたりと、何かと"もう脱け出せないような依存"をしている光景をちょっと妄想しただけで、私は性欲よりも激しく不安や焦燥に見舞われて、何をしてても手付かずになってしまうのです。そうして発散させると、性欲を発散させた時のような解放感や満足感を得ることはなく、後ろめたさと暗い気持ち、自責の念が湧いてきます。<br>精神疾患としての側面を知る前は、私もこれを性欲、性嗜好として発散させてきました。しかしこれは性嗜好とは関係がないのかもしれない－－というのが先日の発見でありまして。</p><p>&nbsp;</p><p><br>具体的な対処や治療がまだ見つかっていないため、患者たちは完治することが出来ません。しいて言うなら忘れること、それを全く意識に留めないようにすることだけしかないようです。けれど、そうしたことをふと考えてしまう折というのは、日常のあらゆるところに潜んでいるもので、誰かとの会話、ツイッター、テレビを見ていたり、本を読んだりしているうちに、忘れていたトリガーを引いてしまうことだってあるのです。実際、私は何度もそれに見舞われています。<br>この症状、何が辛いのか分からない－－という方に端的に説明しますと、もうしたくないのにしてしまう、するたびに後悔するが発作のように行ってしまう、そこには自制心の関与も許されていない、というところが辛いのです。こう書くと、まさに薬物依存・アルコール依存と同じもののように思えますが、事実その通りではないか、と思われます。</p><p><br>主に子供の頃の親からの愛情不足、厳しいトラウマなどがこれを引き起こす原因なのではないかと考えられているようです。私自身、幼少期に親からの愛情を信じられなくなるような出来事があったことを、うすらと覚えています。けれどそれが曖昧なために、これこれこういうことがありましたと言うこともできず、この症状の快復までは途方もなさそうなのです。<br>幼少期の愛情不足、トラウマというのは、境界性パーソナリティ障害と考え方が似ていますね。もしかしたら私は、子供の頃の出来事のせいでこの二つの病気を抱えているのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p><br>と、ここまで暗い話になりましたが、発見と言えば、次回は瞑想と認知についての発見を書きたいと思います。これはなかなかのスクープで、私自身まだ整理がついていないところもあるのですが。。。笑<br><br>それではまた。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12599865590.html</link>
<pubDate>Wed, 27 May 2020 13:48:58 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>うつとボーダー、そして劣等感</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ひさしぶりに重い話。</p><p>&nbsp;</p><p>私はごぞんじボーダーですが、おそらく躁うつ病も抱えていて、少し前まではうつであったように思います。</p><p>うつであったとき、もはや何もしたくないのに、何かをすると死のことばかりを考えて、みるみるうちに顔つきが変わっていったのを覚えています。</p><p>そうしてある日首をくくったのですが、あまりのくくり方の下手さに首が激痛、何度か再トライしたものの、あえなく失敗に終わりました。その話を一人の友人にしたことで、容易には死ぬこともできなくなり、いまも生きているわけではあるのですが。</p><p>&nbsp;</p><p>うつにはなみがあるのです。一度は完全に死を考えなくなった時期もありましたが、いまはそうではありません。そういう流れになってしまう引き金は、いつでもどこにでも存在しているもので、被害者には避けられようがないのです。私の場合、その引き金になってしまうことが多いのは、『劣等感』でした。</p><p>劣等感は当たり前ですが不快さをもたらします。それを紛らすためによく母親に相談していたのですが、、、</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば運動が出来なくて周りから後れを取っている、と母に話し出せば、「小さい頃から運動するのを嫌ってきたじゃないか」と返されて、周りの友人たちが異性にモテているのがくやしい、といえば、「運動をしてこなかったからだ」と言われて。私はもともとどのスポーツをやらせても、いつも「動かそう」と考えているようには体が動かないので、とても運動が苦手でした。こればっかりはどうやっても治せないものです。それを小さい頃からの過ちである、というように言われたら、もうなにも言い返せないし、しかも悪いことにはその意見は正しくて、すべてその通りであるのです。私は持ち前の性格の暗さを、運動をしてこなかった事による弊害として教えられてきたので（今考えればほんとうにおかしな話ですよね）、少しでも劣等感を人に対して抱くときがあれば、たちまち過去二十数年分のそうした後悔が、一瞬間にどっと押し寄せてくるのです。</p><p>あのときから（母が言うのはおそらく小学三年生頃）運動を真面目にしていれば、いまこうして悩むこともなかったのだ。友人たちから遅れを取るようなこともなかったのだ。けれど、今から始めても追いつけることはない。習い事だって趣味だって、性格を直すのだって、もう遅いのだ。取り返しが付かないのだ。</p><p>きっと大学生というのは、小学生から積み上げてきたことの決算が初めて行われる時期であるのです。私は「運動をしなかった」というただひとつのそれだけのことで、これからさきの人生を棒に振ってしまったので、もうどうしようもありません。改善も出来ないのですから、日々を生きるような向上もできません。そうして、死について考えるようになりました。運動ができないということが、希死念慮につながる要因のひとつとなったのです。本気の話ですよ？ 笑</p><p>&nbsp;</p><p>これは二年前の話ですが、いまでも何度も遭遇します。ほんの小さな、些細なことであってもその度に希死念慮が湧いてくる。最近で言えば、友人が髪型を変えたことで余裕が出、異性から話しかけられるようになったということを聞いたとき。そういう話を聞く度に――そこまで考えなくてもいいのに――私自身にはもう日の出がないし、後がないのだ、と思い知るのです。</p><p>それはどうしたら治せるのでしょうか。</p><p>いま出せる考えは、死ぬしかないということ。</p><p>病院にでも頼れば、もしかしたら生きていけるかも知れません。そこまでして生きていたいのなら。</p><p>そこまでして、生きたいのなら・・・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>と、「うつの私」は、いつも訴えかけてきます。</p><p>「日常生活の私」は、そうは考えないようにしています。もう治しようがないんだったら、ひらきなおるか、その環境を立ち去るか、辛苦の泥沼にでも這うような生活を探していかなきゃならないでしょう？　時間を掛けて、ただゆっくり時間を掛け、ゆっくりと人生を楽しもうよ。急ぎすぎはよくないよ。などと、ほっこりお茶を飲んでいるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>どちらが私のためになるか、とは考えません。二人の私の主張では、あまりに主観的すぎますから。</p><p>それでも私は希死念慮は拭えませんし、ゆっくりと生きようと思うことも捨てられません。生きることも死ぬことも、等しく無価値なものなのです。どちらが正しいとか、そういうのはありません。</p><p>いまは「生きているのだ」。それだけなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>吐き出しただけの文章は見返すのも嫌になりますね。笑</p><p>それでも書かずにいられなくなってしまいました。</p><p>きっと、これからも、何か思うことがあったときに書いてしまうのでしょうが。</p><p>その度に書けるというのは、私にとって大きな救いです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>次回は川上未映子『夏物語』の書評でも。</p><p>それではまた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/55zepperi/entry-12524661341.html</link>
<pubDate>Fri, 13 Sep 2019 01:36:22 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
