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<title>3944777のブログ</title>
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<title>自転車の前籠に入れられた、タバコの吸殻の入ったペットボトル</title>
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<![CDATA[ ある店に用事があって、しばらくして店から出てきたら、自転車の前籠に、飲みきった空のペットボトルにタバコの吸い殻が入たゴミが、ゴミ箱に捨てられるように捨てられていた。<br><br>こんなことをされた人は他にもいると思う。<br><br>自分自身は入れたことはないけど、入れられていたのは何度目かの経験である。<br><br>怒り心頭に発すという気持ちになった。<br><br>本人は、とうに消えている。<br><br>恐らく、自転車の持ち主が近くにいないのを確認して。ポイ捨てしていったに違いない。<br><br>捨てるところを見つけられたら、下手すると暴力沙汰に発展しかねない悪事である。<br><br>しかし、本人がいなくなってしまってはどうしようもない。<br><br>頭に来たから、となりの自転車の籠に入れた。<br><br>しかし、自分が出したゴミではないが、転嫁された方はいい迷惑である。<br><br>もしかしたら、私の籠に入るまでリレーされてきたゴミかもしれない。<br><br>ペットボトルだけなら、帰りのどこかの自販機の空きボトル入れに捨ててもいいのだが、タバコの吸い殻が入っていては、確か火がついてはいなかったと思うが、回収業者が迷惑だろうと思って、とりあえず、隣の自転車から出さないと、自分もゴミを捨てた人と同じことをしたことになると思って、あわてて籠から取って、近所には店がないし、駐輪場で起きたことだから、先に店を出た人がやったのだろうと思う。<br><br>自分が出したゴミではないからといっても、それを他の人の籠に入れたら、その人が捨てた人でなければ、いい迷惑である。<br><br>ついつい頭に来て、他の人の自転車の籠に入れてしまう人もいるのではないだろうか。<br><br>でも、それをすると、誰かがそれを自分の責任で処理するまで、やられた人全員がいやな思いをすることになる｡<br><br>最初に捨てた人が、第一原因者だから悪いのはその人なのだが、それを自分の責任ではないからと、人にその責任を転嫁して同じことをすると、悪事は延々と続くことになる。<br><br>この人間の、やられたらやり返す。やられた本人が誰かわからないときは、自分も誰かわからない人にやり返す。<br><br>この連鎖が、人間社会の悲惨な現実が終わらない理由だと思う。<br><br>小さい問題から大きい問題まで、その根は同じである。<br><br>どこかで、いや自分に来た時に、そこで不幸の根を止めなければならない｡<br><br>キリスト教の一派であるメノナイトは、徹底的な平和主義者で、兵役を拒否して、代わりに医師として戦場に行ったり、兵役の代替作業として公共の土木仕事を行う。<br><br>殴られても殴り返さず、正当防衛さえしない人もいる。<br><br>そのため、一方的に殴られて殺された人もいる。<br><br>しかも、その父親は、その日の内に相手の男の家に行き、「私はあなたを許します。」と言ったという。<br><br>私は、そのタバコの吸い殻の入ったペットボトルの始末に困って、結局店の店員に始末してもらおうと思って、邪魔にならないところに置いてきた。<br><br>残念ながら、家まで持って行って処分しようとまでは思えなかった。<br><br>そこまでできれば一番良かったんだが。<br><br>自分が悪いことをしないことは、ある程度気をつければできるけど、人に悪意を持った行為をされた時に、自分がどういう行動を取れるかで、その人の人間的な評価が決まると思うけど、なかなか難しい。<br><br>イエス・キリストも、右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさいとは言ったが、<br><br>いわれのない暴力を受けた時に、なぜあなたは私を叩くのか、私になにか叩かれるような理由があるなら、それを示せ。<br><br>そうでないなら、なぜ私を叩くのかと抗議した｡<br><br>叩き返すことはしなかったけど。<br><br>やっぱり、一本筋が通っている人なんだね。<br><br>徹底的な、非暴力主義者だけど、ちゃんと不正に対する抗議はする。<br><br>非暴力・不服従のインドの聖人、マハトマ・ガンジーのようだ。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12204072579.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Sep 2016 12:58:36 +0900</pubDate>
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<title>心やさしく、明るく、穏やかな人</title>
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<![CDATA[ こんな人をきらいになる人は、ほとんどいない。<br><br>こんな人に、私はなりたい。
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<pubDate>Sun, 25 Sep 2016 21:38:57 +0900</pubDate>
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<title>ばかにつける薬はない。セクシャルマイノリティーの性指向や性自認を変える薬もない</title>
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<![CDATA[ 日本でも、セクシャルマイノリティーと呼ばれる小グループの人達の存在が、社会的に取り上げられるようになって、数十年の月日がたったが、お互いがお互いのことを理解するのにはまだまだ道半ばである。<br><br>近所の日本基督教団の牧師が、ゲイのカミングアウトをして、牧師に任用されている人なので、個人的に色々と質問をぶつけてみた。<br><br>以下は、それをまとめたものである。<br><br>Q　同性愛は、聖書的には是か非か。<br><br>A &nbsp; &nbsp;是である。聖書のどこにも同性愛は罪だという記述はない。<br><br>Q &nbsp; &nbsp;では、下記の聖書の記述をどう判断するのか。<br>「女と寝るように男と寝てはならない。」(レビ記18-12)<br>「男がもし、女と寝るように男と寝るなら、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20-13)<br><br>A これは、今から3,400年前も前のイスラエルの時代背景を元に作られた、イスラエル人のための法律で、現代の日本人にそれを当てはめるのは的外れ(逆に聖書を人間の勝手な判断で冒涜する罪)である。<br><br>ちなみに、罪の原意は「的外れ」ということである。<br><br>Q &nbsp; &nbsp;では、新約聖書のパウロの次の言葉は、どのように思われますか。<br>「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。女は自然な用を不自然なものに代え、同じように、男も女の自然な用を捨てて、男同士で情欲に燃え、男と男が恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」<br><br>A &nbsp; &nbsp;パウロには偏見がある。<br>また、当時異教徒の習慣として神殿男娼がいて、パウロはこの事を非難したのではないか｡<br><br>Q &nbsp; &nbsp;もし、キリストの奇跡により同性愛を異性愛に変えられたり、科学の進歩により同性愛を異性愛に変えられる薬ができたとしたら、あなたはその方法によって異性愛者になることを選びますか。<br><br>A &nbsp; &nbsp;その方法を考え出そうとすること自体が、同性愛者を何がなんでも異性愛者に変えることが正しいという聖書解釈の前提に基づいている。<br>その根本にあるのは，同性愛セックスが罪であり、罪は改めなければならないという聖書の言葉に対する、ある人々の解釈である。<br><br>私は、聖書の中に同性愛そのものを否定する言葉は見いだせない。<br><br>男性同士がセックスをするのが罪というのではなく、同性異性に拘わらずセックスに溺れることが罪であるということならわかる。<br><br>キリストの奇跡や薬によって、異性愛に変えられることは、それが正しいと考える人、そうなりたいと思う人には有効だろうが、今のままがいいという人もいる。<br><br>もし、その選択を認めないとしたら、希望する人全員がキリストの奇跡によって異性愛者になれるのならいいだろうが、なれなかった人はどうなるんだろう。<br><br>ネットに乗っていた、イエスによってゲイから女性を好きになれたとするビデオは、同性愛者を罪に閉じ込めるためのやらせかもしれない。<br><br>差別をなくするためには、同性愛は窃盗ぐせのような罪と一緒にしてはいけないと思う。<br><br>神によって男と女に造られた人間は、何がなんでも異性愛者でなければならないというのは、聖書をそう解釈をする人によって行われる性的なマイノリティーに対する強制ではないか。<br><br>生まれつき、同性を好きになるか、異性を好きになるかの決定は本人の意思とは関係なく、何らかの原因により、人間に与えられた性決定システム変化により起こることで、自分自身に選択の余地はない。<br><br>しかし、性指向の変化の方法があったとしても、今度は自分の意思でそれを選ぶ権利、選ばない権利は本人のものであり、一つの聖書解釈である、人間は異性愛者であるべきであるという神学により、同性愛者に留まることを望む人間に対して異性愛者になることを強制するのは、自分自身の聖書解釈によって人を裁くことになる。例えその人達が多数派であったとしても、多数派であることをもって、それが絶対に正しいという根拠にはなり得ないし、ましてや自分の聖書解釈によって、人に対して自分自身が正しいとする聖書解釈に基づいた決定を相手に命令することは、宗教による人権侵害である。<br><br>そういうものの決め方をすることを、他の全てのことに対しても応用することが、多数決の原理のみで正誤が決定されることによる、真の平等な社会を実現することを阻む原因になる。それは人数の優劣によって、自らを正しいとし、相手を過ちとする間違った考えである。<br><br>私の聖書解釈が間違っているかどうかは、人でなく神の判断に任せる。<br><br>支持者が多数だからといって、それが必ずしもそのことが正しいとは云えないのだから。<br><br>もし、それで世の中のことが決められていくなら、必ずお互いの間にヘイト感情が生まれる。<br><br>以上が、その牧師の見解だった。
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12202907839.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Sep 2016 14:42:41 +0900</pubDate>
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<title>一筋縄ではいかない、教会・信徒・未信者の諸問題　</title>
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<![CDATA[ キリスト教会では、礼拝、祈り会、聖書学習(研究)会などの集会がある。<br><br>礼拝では、全員で同じ讃美歌を歌い、牧師の説教を聴き、献金し、牧師の祝祷で終わる。<br><br>祈り会では、教会に来ている人々の色々な問題を祈り合い、関係する組織についても祈る。礼拝時の献金は自由だが、祈り会でも献金袋が回ってくる教派もある。自分が行った教会では、バプテスト教会が礼拝以外の集会でも献金があるところが多かった。<br><br>大抵の教会ではバプテスマを受けると、自由献金ではなく、十分の一献金を指定される。規則というか、税金のように有無を言わせず納めなければならないものである。<br><br>これがないと、教会運営が立ち行かないからである。<br><br>30人の教会員が在籍している教会では、一人平均2万円として、×30人で、一ヶ月の教会収入は約60万円。一年ではその12倍だから、年間720万円である。<br><br>その内牧師の取り分が、年間250円～450万円位である。<br><br>教会の教師になるためには、神学校で学び、レポート提出と試験を通過して、2～4年かかって卒業できる。<br><br>所属教団の任用試験に合格者しても、3年間は伝道師となって働かなければならない。<br><br>その期間の給料は、一ヶ月2万円以下という場合もある。アルバイトをしなければとても生活出来ない。これが3年間続き、牧師になるためには、さらに正教師試験に合格しなければ、いつまでも伝道師である。<br><br>既成の教会に就職口が見つからなければ、開拓伝道師として社会の中で一般的な仕事をしながら、教会の仕事もやらなければならない｡<br><br>相当の覚悟と精神力と体力とがあっても、信徒が育って、その献金で生活できるまでに教団からの支援がなければ大抵挫折してしまう。<br><br>その挫折感は限りなく大きい。<br><br>神の召命を受けて、堅い信念の元に始めた福音宣教だったのに、神の役に立てなかったという思いは、とてもじゃないが一般信徒の信仰の挫折感の比ではないだろうと思う。<br><br>命をかけた、大事業に失敗したようなものか。いや、必ずそれ以上の挫折感を味わうに違いない｡<br><br>そんなにしてまで、何故牧師になるのだと思うだろうが、どんなにいい思いをしても自分の死によっていずれ消えてしまうこの世の栄光に比べるたら、永遠に続く神の栄光のためにこそ働きたいと思う気持ちは、イエス・キリストを自分の一生を掛けてもいいと思えるほどにその素晴らしさを知り、信じたものでなければとうていわからないだろう。<br><br>そういう生き方を選んだら、基本的に、この世の人からの褒美はすべてあきらめなければならない。<br><br>それでも、全てを捨てても、なお余りあるキリストの栄光を追い求める使命感は、その命さえ惜しまないほどの凄まじいものなのである。<br><br>少なくとも、キリストが十字架に架かり、復活して、そのあと50日後に五旬節の時に聖霊降臨が起こって、12大弟子とユダヤ教徒としてイエス・キリストの教会と信徒を迫害し、そのあとキリストに直接出会い、回心してイエス・キリストの福音宣教者となったパウロの時代までは聖霊が確かに火のような時代だった｡<br><br>しかし、イエス・キリストを直接知らない世代のクリスチャンの時代になるにつれて、その信仰は、人間の解釈である神学論争により、信仰は人によって【キリスト教】となり、宗教として確立され、形式が整っていくと共に次第に形式的になっていった。<br><br><br>礼拝が形式化し、同時に形骸化していく中で、教会の中に腐敗が浸透していった。<br><br>カトリック教会の自らの刷新運動もあり、宗教改革による、カトリック教会と正教会しかなかったキリスト教界に新たにプロテスタント教会が加わったりもしたが、<br>しかし、現在の教会には、キリストが生きていた頃のキリスト共同体はもはやない。<br><br>社会化され、組織化された、キリスト教という【宗教】があるだけである。<br><br>歴史の流れの中で、キリストに対する信仰は。神学論争と、聖職者と信徒の分業を引き起こし、今やキリストの生きざまは【キリスト教】という【教え】としてすっかり変貌してしまった。<br><br>キリストを利用した、人間の働きがあるだけである。<br><br>「私(イエス)が再び地上に来る.(再臨)時、はたして地上に信仰が見られるだろうか?」<br><br>と、キリストが存命中に言われた言葉が、そのまま現代のキリスト教界を象徴している。<br><br>そのことに、一番鈍感になったいるのが、当のキリスト教界であり、かえって自分達こそキリスト教のスペシャリストであると奢ってこの世に君臨している。<br><br>まさに、洪水で滅ぼされたノアの時代や、バベルの塔を建設して人智を誇った、あの時代と現代は酷似している。<br><br>ソドムとゴモラが滅ぼされた、まさにその性の快楽の罪を商売にしている者もいる。<br><br>性の乱れはその極致に達し、その復讐としてAIDSウィルスが、神によって世界中に蔓延した｡<br><br>中世のヨーロッパのペスト(黒死病)の流行も、歴史上の度重なる戦争も、最近の気象異常も全ては人間の犯してきた罪の集積の結果であり、神の造った完全な世界に対する人間の身勝手な幸福追求のなれの果ての帰結である。<br><br>人類は、一人一人、罪を積極的に犯してきた者も、無意識に犯してきた者も、人類全体の連帯責任者として、自然からその復讐を受けることから逃げられない(避難するということとは別のことである)。<br><br>自然災害に対して、なぜ神がいるならこんなことがという人達がいる。<br><br>だが、便利さの故にエアコンを使わずには生活できなくなっている、あなたもわたしも、自然に対して加害者になってしまっている。<br><br>それによって自然から仕返しを受けるのは、自然に対して連帯責任を負っている人類全体に当然のように及ぶ。<br><br>その被害は、自然災害を受けやすい場所に住んでいる人達に及んでいる。<br><br>その人質が、善人か悪人かということと自然災害は直接関係がない。<br><br><br>津波の被害による福島の原子力発電所事故は、明らかに国と東京電力による人災だが。<br><br>どうして人は便利さばかりを追い求めるのだろうか。<br><br>その代償の大きさと引き換えにしてまで｡<br><br>自然災害に対しては、色々な対策方法が取られているが、人間の欲望のほうがはるかに強く大きい。<br><br>交通事故も、今は地上と空と海だけだが、将来は宇宙空間でも起こる。<br><br>それを阻止しようとする努力は、それが拡がる力を追いかけるだけだ。<br><br>人類は一部に正義が在るとしても、全体としては、その一人一人の欲望の強さ、大きさのゆえに、確実に破滅に向かってひた走っている。<br><br>それに気がつかないで、人智で何とかなると思っているのなら、その人は、人間の悪の力の凄さを知らない人だ。<br><br>我々は、一人一人神に従うよりほかに、人類全体の責任から逃れることはできない。<br><br>２,０００年前の、神であるキリストを磔刑にしたユダヤ人の運命は、その後どうなったか。<br><br>国は滅亡し、首都エルサレムは荒廃し、ユダヤ人は先祖伝来の土地を追い出され、世界中に散らされて、自分の国を持てない民族となってしまった｡<br><br>神の憐れみにより、国土を失っても生きていけるように神から与えられた才能によって、国土を持たない彼らは他国でしたたかに生き抜いてきた。<br><br>しかし、キリストの血の責任は自分達が負うと言い放ち、２,０００年近くも過ぎてから、その言葉はナチスによって自らの身に降り掛かった。<br><br>神は限りなく憐れみ深いが、一方では罰すべきものは必ず罰し、復讐される公正な方である。<br><br>キリストが死の間際まで、自分を十字架で死刑にしたユダヤ人に対して、赦しの祈りを捧げたからといって、そのキリストの祈りが果たしてユダヤ人の誉れになるだろうか。<br><br>その後の彼らの運命を見れば、神がそのキリストの血の責任を彼ら自身に負わせたのは歴史が証明している。<br><br>神を侮ってはいけない。<br><br>キリストは、確かに汝の敵を愛せよと言い、自分を迫害する者のために祈れと言ったが、次に来るときは、私達を迫害した者に復習するために来るのである。<br><br>迫害する者のために祈ることができるほどの存在が、いよいよ堪忍袋の尾が切れた時の恐ろしさは、やさしく見えたやくざが豹変した時の怖さの比ではない。<br><br>神に対して悔い改めるなら、チャンスは今しかない。<br><br>正しく生活している人は別だが。
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<pubDate>Thu, 22 Sep 2016 17:40:59 +0900</pubDate>
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<title>世の中の人は色々なことを言うが、結局は自分の気持ち一つで決まる</title>
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<![CDATA[ 人としてこの世に生まれ、色々な人や物事に、好むと好まざるとに拘わらず、しかしそれらに関わり合わないでは済まされない中で、一人一人がみな、それぞれの事情を抱えて生きているのがこの世の現実である。<br><br>まず、生まれる時代と国とを自分では選べない。両親や兄弟関係、家庭環境もすでに決められたところに生まれてくるしかない。<br><br>自分で金持ちの家に生まれたかった、両親が社会的に地位の高い家柄に生まれたかったと、後から思っても、それらは自分ではどうにもならない運命に支配されている。<br><br>また反対に、金や地位がある家には生まれてきたが、両親の愛情が薄い家庭に生まれてきたことについても、その結果に対して、あらかじめ自分に選択の余地はない。<br><br>おおよそ、生まれた時代、生まれた国、家庭によって、人生の大半の部分はすでに決定されている。<br><br>才能や能力や、体力や健康や容姿も、両親から受け継いだものである。<br><br>その先にある自分の人生を自分の意思で選べるのは、その前提の元でである。<br><br>生まれつき、後々社会で差別を受けかねない色々な障害を持って生まれてくる人々もいる。<br><br>病気や事故によって、人生の途上でそのような憂き目に出会う人々もいる。<br><br>しかし、世の中上手くしたものでと言って良いのかどうかはわからないが、世の中は金持ちだけでも貧乏人だけでもうまく回ってはいかない。それぞれが各人の役割分担を十全に果たしてこそ、社会は円滑に回っていく。<br><br>自給自足でもっぱら自然を相手に生活している人は別だが、人は住む家が必要だし、食べるもの、着るものが必要である。さらに生活に余裕のある人々は、さまざまな娯楽に興じる。<br><br>その用に供するために、社会には色々な職業の人が必要である。<br><br>世の中に格差があることは事実だが、皆が全員運転手付の高級外車に乗れる身分になれるわけではない。<br><br>また、そのような高級外車に乗る人を送り迎えする運転手も世の中には必要なのだ。<br><br>しかし、あなたはどちらの立場になりたいですかと聴かれても、自分の思い通りになるわけではない。<br><br>デビ婦人は、その容姿を武器に、銀座の一流ホステスから、インドネシアの大統領の第３婦人にまでのし上がった｡<br><br>インドネシア進出の際に、夜の贈り物として、丸紅がスカルノ大統領に送ったと言われている。<br><br>それの仲介をしたのが、児玉誉志夫である。<br><br>人の中で生きるためには、必ずお金を必要とする。お金に関わりのない社会に住むとしたら、それは生活の全てを自分で賄える自給自足の生活をしている人々である。<br><br>こういう人々が、案外一番強い生き方をしているのかもしれない。<br><br>戦争時代に、農家には食べ物があったが、職場を失った人々は食べるものにも事欠いた。<br><br>現代社会は、時代とともに色々なことがどんどん分化して、しかも、そのひとつひとつが限りなく専門化していき、あまり一つのことにだけ関わりあっていると、専門バカになってしまい、世間知らずの片輪な人間になってしまうことさえある。<br><br>しかし、社会の各分野が高度に専門化した現代においては、彼らはスペシャリストと呼ばれて、畏敬の念を持って社会から仰ぎ見られている存在でもある。<br><br>スペシャリストというと、だいたい伝統的なものを継承する人達と、時代の最先端を研究する人達とに、大きく二つに分けられる。<br><br>職業として見た場合は、実にさまざまな仕事がある。だが、大抵はカエルの子はカエルというパターンが多い。<br><br>異分野に進出するためには、昔から蓄積されてきた知識と技術を兼ね備えた専門業者と対等に渡り合わなければならず、そうすることはその道に対して0から学ばなければならない、いわばずぶの素人には至難の業である。<br><br>また、人脈という点においても、社会に有為な人は多くの人脈を持っている。<br><br>親の七光りも、親の人脈があればこそで、そうでなければ、独力でその地位を勝ち取らなければならない。<br><br>親の人脈よりも、本人の才能と努力によって、その地位を獲得できる社会的地位もある｡<br><br>芸術、芸能、スポーツ関係は、親の七光りは、最初のデビューの時のきっかけをつくるだけで、プロ野球の長島とその息子の活躍を比べれば、確かにプロ球団には所属できたが、その活躍の差は歴然としている。<br><br>親があまりにも偉大だと、子供にそれを凌ぐだけの才能や努力があれば問題ないが、そうでなければ、親のあまりにも偉大な栄光は子供にとってはありがた迷惑かもしれない。他の仕事につけば比較されることがないから気楽なのだろうが。<br><br>誰々の子供として見られることを嫌がって、全く別の仕事につく人もいれば、自分の目的のために親の七光りや人脈を頼りにする者もいる。<br><br>クリスチャンだって、日本語ではキリスト者と言われているのだから、イエス・キリストと同じレベルの人間でなければと、キリスト教界内でも、あるいは外部の人からもそういうイメージで見られている向きがある。<br><br>キリスト教の信仰は、きわめて単純な構造になっているのだが、後世の聖書学者がそれを神学という学問によって限りなく複雑に、あるいは間違ったいびつなものにしている。<br><br>そうなると、キリスト信仰はとんでもなく面倒くさい【宗教】となる｡<br><br>そんなものは、単純にキリストそのものを信じている人間にとってはごみみたいなものであって、百害あって一利なしである。<br><br>聖書神学者にとっては、自分の名誉と生活に関わるものかもしれないが。<br><br>ということで、題名に戻って、世の中には自分の力では抗えない事実が存在することを認めて、その中にあって、人の考えはあてにせず、あくまで自己責任において、自分で考えて判断していくことが大切であるということが非力な自分自身の結論である。<br><br>ゆめゆめ、不条理の渦巻くこの世を何とかして変えようと、粗暴な言動に訴え出ることだけは絶対に控えるべきである。<br><br>それが、格差と不正と不条理の蔓延しているこの世の中にあって、自分がそのようなものに巻き込まれて加害者にならないための唯一の方法である｡<br><br>神は、偉大な働きをした人と同時に、名もなく非力だが、神の言いつけ通りに、素直に生きる人を、決して不幸のままには捨ておかれない。
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12202175202.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Sep 2016 15:22:39 +0900</pubDate>
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<title>一流大出の真に優秀な牧師と、でもしか牧師と、危険な牧師</title>
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<![CDATA[ 日本キリスト教団所属の神学大学といえば、東京神学大学である。<br><br>入学資格は大卒以上で、東大や京大出身のエリートも入っている。<br><br>しかし、内実は玉石混淆で、社会に出ても一流企業や高級官僚として十分勤まる人が、はるかに安い給料の牧師となるためにわざわざ超一流大学を出た後に、純粋に神と人に仕える事を自らの生き甲斐として入ってくる人が約半数である。<br><br>この人達は、本当に素晴らしい牧師になる。<br><br>残りの半数は、一流大学を出たものの、世の中の競争や国家公務員の試験からは落ちこぼれ、生存競争の激しい中小企業には就職したくないし、公務員ほど待遇は良くないが、教会という閉鎖的な世界で、聖書から毎週説教さえしていれば何とか一生楽に暮らせると思って入学してくる輩である。<br><br>こいつらは、いてもいなくてもいい、甚だしい場合には、教会にいてもらっては困る牧師になる。<br><br>教会が問題だらけでも、いっさい見ないふりをして、ひたすら自分の生活の保身に走る。<br><br>やくざや犯罪者上がりの牧師も、真っ二つに分かれる。同じような経歴の人間を次々に救いに導く人もいれば、金やセクハラ、暴力沙汰を起こす牧師になるかのどちらかである。<br><br>日本基督教団の教規によれば、禁固以上の罪を過去に犯したものでも、刑期を終えたものや、執行猶予期間内で3年を経過したものは教職者なれることになっているが、その人が真に神と人に役立つ人に生まれ変わったか、天使の皮を被った悪魔の本質は変わっていない者なのかは、牧師になって人に接するようになってからしかわからない。<br><br>人間の中で、神のように、その人間の未来までも確実に見通せる人だけが、牧師になるものを任命する権利を持っているなら、間違った人間が牧師になって惨劇を起こすようなことは決して起こらないのだけれども｡
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12201846595.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Sep 2016 17:15:00 +0900</pubDate>
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<title>一筋縄ではいかない教会・信徒の抱える諸問題　その2</title>
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<![CDATA[ 政治の方に話が飛んでしまったが、信仰だけでこの世の全ての問題を解決できるという考え方には必ずしも私は同意しない。<br><br>自分自身も社会人の一人であるはずのクリスチャンには、天国にばかりに自分の関心が行き、この世で果たすべき社会人としての使命に関しての関心が薄い人がけっこういる。<br><br>政教分離という、本来は社会上のシステムであるはずのものを、個人レベルの生活に当てはめるからである。<br><br>何でも信仰、あれもこれも信仰、信仰が一番大切。信仰があれば全てこと足りる、と思っているガチガチのクリスチャンはけっこういるのである。<br><br>こういう人は、信仰に関係すること以外の事に対しては全く聴く耳をもたない。<br><br>自分は特別な世界の住人だと思っている。<br><br>神は人間を創造したという事を信じてはいるが、クリスチャンデはない、あの人もこの人も神様が造った同じ人間だということにはあまり考えが及ばない｡<br><br>人間には、ただキリストによって【救われた人】と、まだ【救われていない罪人】だけがいるという「世界」に住んでいる。<br><br>そのこと自体は決して間違ってはいないが、このような世界観の中に生きていることによって、色々な問題が起こってくる。
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12201718941.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Sep 2016 09:37:11 +0900</pubDate>
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<title>一筋縄ではいかない教会・信徒の抱える諸問題　その1</title>
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<![CDATA[ キリスト教のプロテスタント教派が、多くの派に分かれて、それぞれ皆自分の教派が聖書に対してもっとも正しいとしており、それぞれの教派ごとに自分の聖書解釈によって、教義を立てている。<br><br>従って、お互いの教派が同じ場所で一緒に礼拝を持つことはない。<br><br>カトリックは、キリスト教の最初にできた最大会派だが、宗教改革時にその教義について、ルター達から批判を受けた時に、贖有状(免罪符)の発行こそ中止して、金で罪が赦されるという制度は中止したが、カトリック教会と教皇の権威は唯一の正統性を持つとして、その制度に関する改革は行わなかった。<br><br>教会と金が癒着しているのは、何も中世のカトリック教会に限ったことではなく、現代のプロテスタントでも、その話題には事欠かないほど教会全体の腐敗は進んでいる。<br><br>宗教改革時に、プロテスタントが糾弾した対象は、教会の財源を増やすために免罪符の発行したという個別の行為だけにとどまるものではなく、根本的にはカトリック教会が、聖書の主張から逸脱して、神から譲り受けた信仰を持っていると主張して憚らない人間によって、聖書に違反することを、国家の後ろ楯と自分達の作った伝承の権威づけにより、信徒を支配しているという事に対して批判したのである。<br><br>ルターは、信仰の原点である聖書に帰れと言ったので、いたずらにただカトリック教会を一方的に批判したのではない。<br><br>政治の世界でいうなら、野党が与党の政策批判をして政治の原点に戻れと言ったようなもので、その中で免罪符に当たる特定団体や会社に利益供与を生む政治献金を弾劾するのと同じである。<br><br>政治の場合は、政権を奪う目的で、与党を一方的に政策批判をし、対案を出さないことを逆に批判されたりするが、金脈問題や政策の不能を問題にして、政権交代しても、与党になったとたんに回りの環境が一変して、権力に群がる人間が押し寄せる中で、新与党自体が既製与党と同じ金脈問題に絡め取られたり、政治の連続性の中で、急に政策が変わり、自党の政策を押し通そうとする余り、国民に無理、無駄を強いるような事態も招いたことは民主党の政権交代にはっきりと現れた。<br><br>これが、一定期間ごとに政権交代している国であって、それぞれの政党が一定の政治的な成果を上げていれば、政権交代による混乱は日本のようなひどい結果にはならないが、日本では、政党の離合集散を繰り返す中で一時、傀儡首相を祭り上げた連合政権が誕生したこともあったが、一党独裁がほぼ60年以上に渡って続いた日本では、政権交代自体が画期的なことであり、その内容がはなはだお粗末な結果に終わったのは、与党経験の全くない野党が初めて政権与党になった事を考えれば、当然の結果だったと言えるかもしれない。<br><br>しかし、自民党の「永続的継続与党思想」の傲慢さを破り、どんなに長く与党の座を占めていても、役に立たないと国民に判断されれば、いつでも政権交代は起こりうるという事を選挙によって実現させたことは、驕る自民党にとっても、反省の機会にもなったであろうし、彼らにとって野党でいることの辛酸と屈辱を舐めたことは、今後の政治に対して決して無駄ではなかったと思う。<br><br>与党となった民主党にとっても、予算の立案と執行を行う与党になったことで、政治に対する国民の直接の批判にさらされることになり、また、自民党の行った政策の後を引き次いで政治を行うことが:その政策に違いが大きければ大きいほど難しいということを思い知っただろう。<br><br>また、国民にしても、自民党の国民目線に立ち得ない【自分党】さ加減に、とうとう愛想を尽かして、直接利害の癒着のない人々の持つ浮動票を取り込んでの政権交代劇に至ったが、もとより民主党への現実的な実効的期待を持って投票した人はほとんどいなかったと思う。<br><br>ただ、ただ、自民党にはほとほと愛想が尽きたという理由で、第２党の民主党へ投票したと思う｡しかし、実体のない期待感による投票による政権の政治によって見事に裏切られた。<br><br>しかし、この混乱は、日本における政党による議会政治の成熟のめには、どうしても通らなければならなかった道であったと思う。<br><br>あとは、与党、野党それぞれが、これからの日本の政治の舵取りをどうするべきかを、国際競争が一層加速しつつある一方で、緊迫した国際関係が次々に新しい問題を産み出している現実にどう解決策を打ち出して、国際社会の中で、日本が住み良い国としてあり続けることができるのかを、今までのような選挙のためのその場しのぎの政策ではなく、党利党略を越えて真剣に考え、立案し、討論して、長中期的な視点を持ちながら、この国の行く手を決定していかなければならないだろう。<br><br>そのために我々国民ができることは、国民全体の利益のためのある程度の我慢は必要だろう。<br><br>また、真に国民のためになる政治家を育てるための援助と、候補者への情報収集、当選した議員への継続的な監視が必要になったらくる。<br><br>我々にとって、直接政治に関わる機会はそう多くはないが、自分のことにかまけている間に、代表者に知らないところで自分達に都合のいいように物事を決められないためである。<br><br>マスコミも、政治権力や金に抱き込まれる可能性が大であるから、活字にされない部分や、画面に映っていないところや、放送されていない編集でカットされた部分に真実が隠されていることを心しておくことは必要である。<br>
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12201712455.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Sep 2016 07:17:38 +0900</pubDate>
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<title>キリストと同じことができないなら、偉そうに説教なんかするな、クリスチャンなんかになるな。</title>
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<![CDATA[ あなたの罪を背負ってイエスさまは死なれました。<br><br>それがどうした。<br><br>誰が罪を償ってくれってキリストに頼んだ。<br><br>その事を一生の大事みたいに話すあなたは何者なんだい?<br><br>あんた自身がキリストと同じことができるのかい。<br><br>できないなら、いったい何を話して何を宣伝してるんだい。<br><br>キリスト教の美しいイメージでも売ってるのかい。<br><br>それで、献金集めれば、月給と年金で<br><br>自分の一生の生活は保証される?<br><br>キリスト教は美しい宗教なんかじゃない｡<br><br>ユダヤ教の延長上にある宗教だし、昔からユダヤ教は牛や羊を殺して神に贖罪を果たしてきた。<br><br>神がそうしろと言ったからだ。<br><br>でも、身代わりに殺される動物の身になったらたまったもんじゃない。<br><br>その最終回が、人間の生け贄だ。<br><br>まぁ、どこまで残酷な神なんだか。<br><br>旧約聖書には、火の中を自分の子どもを歩かせたり、飢饉の時に我が子を殺して煮て食って食料にしたり、聖書なんて名前はいかにも神の書みたいに立派な名前をつけてるが、生け贄の書とでもつけた方がずっと中身に合ってると思う。<br><br>人間の凄まじい生きざまが書かれている書と言ってもいい。<br><br>キリストと同じことができないなら、クリスチャンなんかになるな。人も教会なんかに誘うな。<br><br>まず、普通の人間になれ。<br><br>それができなくて、何がクリスチャンだ。<br><br>そんなんは、クリスチャンじゃなく、クルクルパーちゃんだろう。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12201240164.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Sep 2016 20:40:11 +0900</pubDate>
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<title>栄光よ、現れ出でよ❗</title>
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<![CDATA[ アーメン、ハレルヤ❗<br><br>主の栄光を賛美します。<br><br>満ち満ちよ、主の栄光よ<br><br>我らの世に果たせ❗<br><br>その奇跡のみわざ<br><br>奇しい主のみわざを。<br><br>今こそ、この世に<br><br>あらゆる人に<br><br>その栄光を現せ<br><br>主の出番だ<br><br>あがめたてまつってる場合じゃない<br><br>その姿を現せ、神よ<br><br>我々にわかるように<br><br>全ての人が、その姿を目で見れるように<br><br>今こそ現せ、その姿を❗<br>
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<link>https://ameblo.jp/587423690/entry-12200249511.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Sep 2016 18:24:14 +0900</pubDate>
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