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<title>おりとのブログ</title>
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<description>ほぼ備忘録的自由帳</description>
<language>ja</language>
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<title>”【保存版】変容が始まります。”</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>自分の中の「水脈」を見出して、</p><p>その水脈をたぐっていく。</p><p>&nbsp;</p><p>たぐっていくとたどり着く泉に</p><p>自分を重ねていく、</p><p>チューニングしていく、</p><p>そういうことなのかもしれないな。</p><p>&nbsp;</p><p>AZさんのブログより。</p><p>&nbsp;</p><p><iframe class="reblogCard" data-ameba-id="momoharudo" data-entry-id="12669177090" frameborder="0" height="234px" sandbox="allow-same-origin allow-scripts allow-top-navigation" scrolling="no" src="https://ameblo.jp/s/embed/reblog-card/momoharudo/entry-12669177090.html?reblogAmebaId=5wombat-go" width="100%"></iframe></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 18 Apr 2021 03:42:02 +0900</pubDate>
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<title>”バシャール：過去の記憶の断ち切り方”</title>
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<![CDATA[ <p><b>ある記憶を『思い出したくない』と”思う”という事は、</b></p><p><b>『思い出したくない過去』を</b></p><p><b>手放さないでギュッと掴んだままでいるから思い出したくありません。</b></p><p>&nbsp;</p><p><b>なるほど・・。</b></p><p><b>もう二度とこんな思いをしたくない！</b></p><p><b>という時の、</b></p><p><b>「こんな思い」を刻んでしまう。</b></p><p>&nbsp;</p><p><b>メモメモ。</b></p><p><br><iframe class="reblogCard" data-ameba-id="viva-bashar" data-entry-id="12665199795" frameborder="0" height="234px" sandbox="allow-same-origin allow-scripts allow-top-navigation" scrolling="no" src="https://ameblo.jp/s/embed/reblog-card/viva-bashar/entry-12665199795.html?reblogAmebaId=5wombat-go" width="100%"></iframe></p>
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<pubDate>Mon, 29 Mar 2021 06:33:48 +0900</pubDate>
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<title>ある視点。スピルバークの「ジョーズ」について。</title>
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<![CDATA[ <p>しばらく映画を見ていないので「脳内映画館」を振り返ってみる。<br>スピルバーグの「ジョーズ」の別な楽しみ方・・。<br><br>ラストシーンで「俺、海が嫌いだったんだよな」<br>「何でだろうね？」というセリフがある。<br>つまり海が大嫌いだった主人公は、最後には好きになっている、ということが分かる。<br><br><br>実際出てくるのは、おっさんたち３人だけど、<br>「海が嫌いだった少年の、ひと夏の物語」という見方をすると<br>ただのパニック映画とは違う色彩が生まれてくると思う。<br><br><br>ロバート・ショウ演じる漁師も、<br>リチャード・ドレイファス演じる海洋学者も、<br>立場は違うが「サメ大好き」ボーイズだ。<br>当然サメを育んでいる海に対するリスペクトも深い。</p><p><br><br><br>主人公の警察署長は、「人食いザメの大事件」という非常事態で<br>仕方なく海の仕事に巻き込まれるけど、<br>文字通り、海にもまれているうちに<br>気がついたら海の豊かさが視野に入ってくるようになる。</p><p>自分が海の住人、なんなら<span style="font-weight:bold;">海の主人公</span>になっていることに気づくのだ。</p><p>それがラストシーンのセリフにつながっていく。<br><br><br>サメ退治のメンバーには女性は登場しない。<br>まさしく「少年たちのひと夏の大冒険」なのだ。<br><br><br>そしてふと思う。</p><p>サメの事件も、３人の男たちも、</p><p>１人の人間の心の中で起こっているストーリーとだとしたら<br>どうだろうか・・？<br>&nbsp;</p><p>ある大事件をきっかけに、<br>戸惑い、落ち込み、葛藤し、<br>最終的には、より豊かな世界観を獲得していく。</p><p>実は私たちも時折、こういったプロセスを経験しているのではないだろうか？<br><br>ストーリーの表面をなぞるのではなく、<br><span style="font-weight:bold;">物語の深海に揺られてみる・・。</span></p><p>&nbsp;</p><p>ただの「怖がらせ映画」とは違う世界が見えてこないだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p><br><br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/5wombat-go/entry-12606358103.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Jun 2020 20:05:38 +0900</pubDate>
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<title>”欠点や弱点をさらけだすと”</title>
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<![CDATA[ <p>自分の苦手なこと、欠点が、<br>人とつながるポイントになり得る！ってことか。<br><br>足りないところから、新しいものが生まれるってことだね！</p><p>「足りない」を</p><p>「新しいものが入るスペースだよ」と考えられるといいなぁ。</p><p>&nbsp;</p><p><br><iframe class="reblogCard" data-ameba-id="miffy-andomifuyu" data-entry-id="12605941251" frameborder="0" height="234px" sandbox="allow-same-origin allow-scripts allow-top-navigation" scrolling="no" src="https://ameblo.jp/s/embed/reblog-card/miffy-andomifuyu/entry-12605941251.html?reblogAmebaId=5wombat-go" width="100%"></iframe></p>
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<link>https://ameblo.jp/5wombat-go/entry-12606357287.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Jun 2020 20:01:40 +0900</pubDate>
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<title>つながるために、切る。</title>
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<![CDATA[ <p>先日書いた、「オンラインと体感」についての続き。</p><p>（<a href="https://ameblo.jp/5wombat-go/entry-12598633457.html" target="_blank">オンラインについて。体感としての違和感。</a>）<br><br>再度言うがこれは、苦情ではなく、あくまで観察である。<br><br><br>リアルでのやり取りとは違う、<br>オンラインでのやり取りでの「ねじれ」についての気づき。<br><br><br><span style="font-weight:bold;">１．「見ていなくても見ている」というねじれ。</span><br><br>それなりの人数でミーティングをする時、<br>それなりの数の「顔」が、こちらを見ていることになる。<br><br>実際は、みんながみんな私の顔を見ているわけではない。<br>書き物をしている人もいれば、他の画面や<br>他の人の顔を見ていることもあるだろう。<br><br>それにも関わらず、<br>それなりの数の顔が、マス目に区切られた状態で<br>こちらを向いている。<br><br>つまり、<span style="font-weight:bold;">「こちらを見てない人も見ているかのような画面」</span><br>が出来てしまうのだ。<br><br><br><br><span style="font-weight:bold;">２．「見ているが、見ていない」というねじれ。</span><br><br>リアルなやり取りの場面で<br>私が発言している時に、みんなが私の顔を見る、というのは<br>「肉眼」が「肉顔」を見ている、ということになる。<br><br><br>でも、オンラインの場合、<br>「肉眼」が実際見ているものは「画面」である。<br>発言している私の顔を見ようとしてくれているのだが、<br>実際見ているのはＰＣに映っている私の顔なのだ。<br>さらに人数が増えればその分、</p><p>見ている画面の顔は小さく区切られたものになる。<br>、<br>１のように、向きとしてはこちらを見ているわけなのだが、<br>目が追っているのは画面である。<br>つまり、<br>お互いが、気持ちとしては視線を<span style="font-weight:bold;">「合わせようとしているにもかかわらず、<br>視線が合わない」。</span><br><br><br>こんな感じで、<br>やり取りの間に、複雑なねじれが入り込んでいる。<br>どうやら、こういった「ねじれ」が増えると、<br>私の情報処理のキャパを越えるらしい、ということが<br>徐々に分かってきた。<br><br><br><br><span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">３．「つながるために、切る」。</span></span><br><br>「ねじれ」の発信源は、主に機器である。<br>それに対し、こちらはねじれを修正しようとし、疲労してしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>発してくれている相手とのやり取りで疲労するのではなく、</p><p>機器の発する情報とのやり取りに疲労しているのだ。</p><p>もっとざっくり言うと、</p><p>「コミュニケーションの相手が機械になってしまっている疲れ」なのだと思う。<br><br><span style="font-weight:bold;">私がしたいことは、機械との関係をがんばって修正することではなく、<br>話す相手とつながること、関係性を作ること。</span><br><br>ならば「ねじれの元」を切るのは、アリなんではないだろうか？<br>　　　　↓<br><br><span style="font-weight:bold;">・画面を切り替えて、「たくさんの顔」が見えないようにする。<br>・それぞれがカメラを切り、音声だけのやり取りをする。</span><br><br>実際にやってみて、これらは非常に有効だった。<br>前回書いた「距離感の狂い」への違和感も殆どなくなり、<br>「一緒の時間を共有している」という感覚が戻ってくる。<br><br><br>切るのは、相手との関係ではない。<br>機器と私の感覚解釈が起こしている「ねじれ」を切るのだ。<br><br>つまり、<br>「つながるために、切る」、ということなのだ。<br><br><br><br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Tue, 26 May 2020 14:16:40 +0900</pubDate>
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<title>変えるのは、「自分に対する自分の見方」</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1em;">日常が、戻ってくる、らしい。<br><br>コクーン状態になったばかりの時は<br>「え？なんで今？」<br>「あっちもこっちもストップじゃーん！」と嘆いていたけど、<br><br>いざ、解放ってなると<br>「あー、今さらめんどくさい」。<br><br>コクーンの外に出て、<br>外の人たちとあれやこれややって、<br>すり合わせたリするのが、めんどう。<br><br>そして、<br>「何かやり忘れたことなかったっけ？<br>やっといた方がいいことは？」<br>と考え出す。<br><br><span style="font-weight:bold;">新しい日常に必要なものはなんだろう？</span><br><br>と考えてみて・・。<br>・・・いや、やることは同じじゃない？<br>必要とされる行動は、きっと前とそんなに変わらない。<br><br>変えるのは・・・行動じゃなくて、<br><span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">行動する時の</span></span></span><br><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">「自分に対する自分の見方」</span></span></span><span style="font-size:1em;"><span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">の方なんじゃないか？</span></span>と思った。<br><br><br>コクーン前から、自分の足かせになっていたものは<br><span style="font-weight:bold;">「自分は足りない人なんだ」</span>という思い。<br>自分は至らない、欠けている、条件を満たしていない・・etc・・<br>その時使うモノサシは、自分の外側にあるものだった。<br><br>そのモノサシは、本物だろうか？<br>その目盛りは、真実を刻んでいるだろうか？<br>私の、役に立っているだろうか？<br><br>・・真実かどうかは、疑わしい。<br>少なくとも、役には立っていないな。<br><br><br>この数か月の断片を拾ってみると、<br>周りの人や、本や、自分の記録からキャッチしていたことって、<br><span style="font-weight:bold;">「もうあるじゃない！」</span>ということ。<br><br><span style="font-weight:bold;">自分には、必要なものはもうある</span>、ということ。<br><span style="font-weight:bold;">備わっている、</span>ということ。<br>だから、<span style="font-weight:bold;">それを思い出せばいい、</span>ということ。<br><br><br>「足りていない」と思っている時は、<br>本当に足りていないというより、<br>これはもう、私の<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">「見方のクセ」</span></span>なんだ。</span><br><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">外側にいる、何かや誰かの</span></span></p><p><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">「優れたもの」を見る時→　「自分の足りない」を見てる！</span></span><br><br><span style="font-size:1em;">自分の「全部」じゃなくて、「足りないところ」に焦点を当てて見ているのだ！<br>外側の誰かや何かにだって、本当は足りないところはいっぱいあるはずなのに、</span><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">外側の優れた所を見て　←　→　自分の足りない所を見ている</span></span><br><br><span style="font-size:1em;">だから色々上手く行かない。<br>これが、この数か月に起きていることだった、と思う。<br>そのチグハクさ、違和感に気づくための<br>「コクーン」だったのだ、と今は思う。<br><br><br><span style="font-weight:bold;">今、自分は自分のどこを見てるだろう？<br>全体を見てるだろうか？<br>ある部分だけ拡大して見てないだろうか？</span><br><br><br>生きるために必要な機能、能力は、自分に備わっているのだ！<br>自分の中に、資源はちゃんと内蔵されているのだ。<br><br>だから、これから必要なのは、<br>まず、「ある」ということを思い出すこと。<br>そのためには、自分の全部をまるっと見ること。<br><span style="text-decoration:underline;">自分への偏見に気づくこと</span>。<br><br>慌てて、予習したり、復習したりしなくてもいいということ。<br><br>何かをするその時に、</span><br><span style="font-size:1.4em;"><span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">自分の中の豊かさとつながること。<br>自分の全体性とつながること。</span></span></span><br><br><br><span style="font-size:1em;">それが、表面的にはなーんにも変わっていないようで<br>実は、世界の見え方が変わってしまうという、<br>「あたらしい日常」のはじまり。<br><br>自分への見方が変わる、ということは、<br>世界の見え方も変わる、ということ。<br><br>目に映るのは、今までと全く違う新しい世界。</span></p><p><span style="font-size:1em;">自分の意思、意図によって、<br>瞳に何を映すのかが変わるのだ。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Mon, 25 May 2020 03:44:09 +0900</pubDate>
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<title>統合体、というアイディア。</title>
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<![CDATA[ <p>誰かが、優れたことを言ったりしたりすると、<br>&nbsp;</p><p>そこに至っていない自分に落ち込んだり、恥じたリする。<br><br>でもこれ・・足りないんじゃないのかもしれない。<br><br>あの人と、この人と・・それから自分と。<br><br><span style="font-weight:bold;">「みんなで１コの頭脳」</span>、と考える。<br>あるいは、<span style="font-weight:bold;">「１つのオーケストラの一員」</span>であると考える。<br><span style="font-weight:bold;">「１つの図書館の中の、１冊の本」</span>でもいいかな。<br><br><br>それぞれの分担があって、機能し合っている。<br>持ち場とか、役割とか、その程度の区分。<br><br>１つの曲を、統合体で奏でる。<br>時々役割を交代したりして。<br>誰かがソロをやる時もあれば、<br>全員で演奏する時もある。<br><br>指揮者は、いたりいなかったり？<br>いや、ほんとはいないんじゃないかな？<br><br>　　　・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p><p><br>０の総記から９の文学まで並んでいる本たち。<br>図書館の機能としては、<br>どの本が優れていて、どの本が劣っているということはない。<br>貸出数の多さで優劣が決められるわけでもない。<br><br>棚のどの場所に並べられているか、<br>どの分類に属しているか、<br>それだけの違い。<br><br>私たちは、１冊の本。<br>そして、私たちで、ひとつの図書館を作り合っている。<br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Fri, 22 May 2020 03:08:04 +0900</pubDate>
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<title>オンラインについて。体感としての違和感。</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1em;">色々試してみて、今の時点で思っていること。<br>便利だし、楽しいなと思うことも、もちろんある。<br>それを踏まえた上での、やっぱり無視できない違和感について。<br><br><br><span style="font-weight:bold;">１．現在形で相手とコミュニケーションしているにも関わらず、</span></span></p><p><span style="font-size:1em;"><span style="font-weight:bold;">距離感が分からない、という違和感。</span><br><br>リアルなやりとりではなんとなく分かる、<br>「この距離の相手には、このぐらいの声で届くよね」という<br>自分のモノサシが狂ってしまうような感覚だ。<br><br><br><span style="font-weight:bold;">２．視覚情報からは確かに相手がいることが分かるのだが、<br>「一緒にいる感」が得られない違和感。<br>理解と実感のズレ、だ。</span></span><br><br><br>これらをまとめていうと<br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">今まで使えていた方位磁石が、<br>狂ってしまって使えない、<br>そんな次元に迷い込んでしまっている、</span></span><br><br><span style="font-size:1em;">ちょっとそんな感覚だろうか？<br><br>これは文明批判でもなんでもなくて<br>ただ単に、今の私の実感の記録である。<br><br><br>機器が進化したり、<br>私のキャッチの仕方が変化したりすることで<br>徐々に慣れていくのだろうが、</span><br>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">この「違和感」があることも大事にしたい。<br>そんなことを思っている。</span><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/5wombat-go/entry-12598633457.html</link>
<pubDate>Fri, 22 May 2020 00:35:20 +0900</pubDate>
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<title>「じっくり」と「ぱっ」と。</title>
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<![CDATA[ <p><br><span style="font-weight:bold;">「じっくり」が得意なワタシ。<br><br>だが、これからは「ぱっ」で行け、という説がある。<br><br><br>どっち？と考えてみて・・<br>これは、役割分担なんじゃない？<br>と思った。<br><br>両方使う。<br>両方やってみよう。<br><br>ここでは「ぱっ」の練習を時々やってみようかな。</span><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/5wombat-go/entry-12596328724.html</link>
<pubDate>Mon, 11 May 2020 17:01:30 +0900</pubDate>
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<title>「風の時代」への提言</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>とっても面白かった。<br>占星術って「実学」なんだと思った。<br><br><br><iframe class="reblogCard" data-ameba-id="uenopasiri" data-entry-id="12593490967" frameborder="0" height="234px" sandbox="allow-same-origin allow-scripts allow-top-navigation" scrolling="no" src="https://ameblo.jp/s/embed/reblog-card/uenopasiri/entry-12593490967.html?reblogAmebaId=5wombat-go" width="100%"></iframe></p>
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<link>https://ameblo.jp/5wombat-go/entry-12593569726.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Apr 2020 18:16:41 +0900</pubDate>
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