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<title>brownnoinuのブログ</title>
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<title>兵動の「カップルの会話」</title>
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<![CDATA[ すべらない話より、マクドナルドでのカップルの会話<br><br>01兵動：女の子がね、急にその彼氏ですね、に、ね、「あの、これプレゼントやねん」って　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　言うて、<br>02？？：ほう<br>03兵動：箱を渡したんですね。ほんだら、その男の人が「うしょ、まじ、嬉しいわ、サピュライズやあ」いうてはるんですよ。<br>04みんな：ははははは<br>05兵動：んで、あ～あ～サプライズよかったな～思いながらティーわーって飲んでたら「まじで、うれしい、俺がほしかったやちゅかな」<br>06みんな：はははは<br>07兵動：言うて、ほんで、まあええんちゃう思うて、で、それから、ぱかって開けたら、急にね、<br>08松本：ほう<br>09兵動：「にゃにこれ」って言うんですよ。<br>10みんな：おーあれ？<br>11兵動：え、さっきまで、<br>12松本：おう<br>13兵動：「しりゃはまでもいきゅ？」って盛り上がってわーなってたのに、なにがあったんやろ？思うて、<br>14松本：おん<br>15兵動：もうその段階で僕はもうガン見してるんですよね、<br>16みんな：ははははは<br>17兵動：ほんで、え、え、え、え、っていうて、<br>18松本：おう<br>19兵動：中から出したら阪神タイガースの帽子やったんすよ。<br>20みんな：うん、うん、<br>21兵動：んで、「おれ、こんにゃんほしいゆうた？<br>22みんな：んははは<br>23兵動：おれほしいゆうたんハンチングの帽子であって阪神の帽子やにゃいよ？<br>24みんな：ははははは<br>25兵動：おれこれ言うてにゃいよ？<br>26みんな：はははは<br>27兵動：ハンチングの帽子言うたけどこれ阪神の帽子やんかーふちゅう間違える？」って間違えるわーって。いやもう誰も悪くない話やんけって。<br>28松本：滑舌が悪いお前が悪いんや、って<br>兵動の、彼氏のしゃべり方と表情がこの話を面白くしていると考える。具体的に言うと、兵動は彼氏のセリフを言うとき、口の両端をきつく結び、下あごを突き出し、肩をすくめて裏声で話している。兵動のしゃべり方と表情だけで、子供でも日本語のわからない外国人でも笑えるようになっているのだ。そしてまず、この場面の前の冒頭で「しりゃはまでもいきゅ？」という彼氏のセリフを入れることで、彼氏がしゃくれていて滑舌が悪いことを聴衆に知らせている。そして、兵動自身の語りと彼女のセリフの部分でしゃべり方と表情に個性を無くし二人の存在をモブ化させることで、彼氏のしゃべり方と表情の独特さを際立たせている。そして、03、05、09と彼氏のセリフを出すことで、このカップルの間では彼氏の滑舌の悪さが当たり前のこととして受け入れられていることを示唆し、笑いを誘うと同時に、これから展開される場面の土台を作っている。13で冒頭の彼氏のセリフを繰り返すことで、もう一度彼氏の独特さを再確認している。そして、21、23、25、27と彼氏がハンチングではなく阪神の帽子をプレゼントされたことに当惑している様子を声のトーンを下げ眉もひそめることで表現し、笑いを誘っている。また、前半で彼女が彼氏のしゃべり方に特に反応を示さず、普通に会話をしているところから、聴き手側は、彼女は彼氏と長い付き合いにあり、滑舌の悪さなど二人の間でなんの障害にもなっていないことを確信していた。ところが、ここで聞き間違いがあったことが発覚し、実は彼女はその滑舌の悪さに順応できていないことがわかり、ニヒルな笑いを生み出している。しゃべり方と表情を強調させたことで、表面的な笑いとその奥の冷ややかな笑いを兵動は作りだしているのだ。<br>さてここで、15の果たしている役割について考えてみたい。冒頭から15までは兵動が主体となってこの話の中でナレーターのような立場に立っていたが、「ガン見している」と言うことで、カップルの話を耳だけで聞いている状態から直接見ている状態に変化したことがわかる。兵動の立場が傍観者からカメラのような役割に代わっているということだ。文法も、間接話法から直接話法へ変えることで、聴衆とカップルの間に立っていた兵動が排除され、聴き手とカップルの距離を縮め、聴衆を話に引き込んでいる。また、盗み聞き、という設定ではプレゼントである阪神の帽子の存在の確認が出来ず、話がうまく運べなくなるが、ガン見しているという設定を新たに設けることで、話に矛盾がなくなっている。<br>ただ、なぜ15の直後で笑いが起きたのだろうか。この場面の前は、兵動が「食べ物４割、こっち（カップルの会話）６割」と話していた通り、兵動はそこまで話に興味を示していなかった。聞こえてくる会話を食事しながら突っ込みつつ流している感じだったのが、カップルの会話を聞いているうちに二人の話に夢中になっていく自分に気づき、そんな自分に突っ込みを入れている。盗み聞きが気づいた時にはガン見に代わっていることを、兵動は笑いにしているのではないか。<br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11737401331.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Dec 2013 17:22:16 +0900</pubDate>
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<title>身体</title>
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<![CDATA[ <br>中山元（2005）によると、古代から近代まで、西洋では心身二元論が主流となっていた。心身二元論とは、精神と身体が対立関係にある、という考えである。ここから、身体というのは、思考する精神と共通性を持たないとデカルトは主張した。そしてその観念に従って医学は成り立っている、と中山は述べている。例えば内臓移植は、身体と精神に相互性がないという考えから、自身の内臓が除かれようが他人の内臓を所有しようが個人の精神、魂は変わらないという暗黙の了解をもとに行われている。つまり、身体と精神は別物だという考えのもとで西洋の技術は進歩していった。ただ、現代ではこの理論は揺らぎつつあると私は考える。20世紀にロボトミー手術が問題になったように、身体の一部である脳は精神とつながっている、というのが今日の一般論であると思う。<br>さて、ニーチェはこの心身二元論を批判した。中山によると、精神は合理的なものであり、それに比べて身体は動物的で劣等である、という考えが間違っているとニーチェは主張したのだ。ニーチェによると、人間自身が合理性や効率性とは異なる基準のもとで、みずからの欲望のもとに生きている。例えば、ゲーム売り場で面白そうなゲームを見つけたとき、頭ではゲームで遊ぶことは非生産的だと理解しているが、遊びたいという欲望に負けて買って帰ってしまった経験は誰にでもあるはずだ。もっと究極的な話をすれば、私たちは理性によって人間を食べることは異常だとわかっている。だが、遭難や飢饉などの生死にかかわる状況下では、生きたい、という本能と強烈な食欲から人食行為におよぶ、という話をよく聞く。身体が有用性とは別のところで、我々は幸福感を感じなければならない、生きなければならないという一種の理性をもち、重要な判断をしているということだと私は考える。<br>また、メルロ＝ポンティは、精神と身体の関係性について間身体性という言葉を用いた。私たちの身体は、他者を模倣し、他者に自分の感情を伝え、他者と交流する社会的な存在である、とメルロ＝ポンティは主張する。私たちは生まれてから大人になるまで、周囲の人の真似をして学習する。他人の鉛筆や箸の持ち方などを真似ていくことで初めて、我々は社会生活を送ることが可能になるのだ。また、身体があることで、感情が相手に伝わりやすくなる。例えば、文面上でのやり取りで誤解が生まれた経験は誰にでもあると思う。「きもっ」と言われたとき、それが冗談なのか本気なのかは相手の表情や声色なしでは判別できない。身体の存在によって、我々は伝えたいことを伝えられ、他者との円滑なやり取りが可能になるのだ。つまり、身体は精神と共に人間の営みにおいて重要なはたらきをするものなのだと私は考える。<br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11737296161.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Dec 2013 14:00:36 +0900</pubDate>
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<title>記号</title>
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<![CDATA[ 中山元氏（2005）によると、記号とは、あるものを示すために使われるものである。例えば、赤信号がSTOP、青信号がGOなどである。<br>記号は、信号などの自明なものだけでなく、無意識のうちに用いられ、我々の考えに影響を与えることがあると中山氏は述べている。例えば、1960年代のアメリカのショートヘアの流行はアメリカ社会での女性の社会的地位の向上を支えた。ロングヘアという女性らしさを示す記号を捨て、男性に近づくことで、当時の人々の考え方を変えていったのだ。つまり、ショートヘアは独立した女性を示す記号として、暗黙のうちに大きな役割を果たしたのだ。<br>人間以外にも、記号を使う生き物は多いと言われる。アリはおしりから出す汁で餌への道順を示すし、ハチはおしりダンスで食料の在り処を仲間に知らせる。つまり、記号はあらゆる生物によって、あるものを示すために使われている。<br>ただ、言語は人間にしか使えない記号である。ソシュールは、言語という記号は分節機能のために使われるものだと述べた。例えば、犬という言葉だけでは、秋田犬も土佐犬も甲斐犬も同じものとなる。そこに、それらを分ける言葉があって初めて、私たちはその違いを認識できる。また、言語はその分節機能によって我々のものの考え方に影響を与える。例えば、時間を表す言葉は国によってそれぞれ違うが、国内でも時代によって異なる。ｆ島氏によると、日本においては、江戸時代不定時法という方法が取られ、十二支を元に30分ごとに時間を区切っていた。江戸時代の日本人たちは、30分を一つの区切りに生きていたと言える。現代では、時、分、秒と分けられていて、我々は1時間という単位で生活している。つまり、時を表す言葉が変わると、それに伴って我々の時間の感じ方が変わるのだ。言語は我々のものの捉え方に大きな影響を与える、ということだと私は考える。<br>ソシュールのように、中山氏も言語は分節機能を持つ他に、その参照物との直接的なつながりはないと主張している。だが、本当にそうだろうか。ブーバキキ効果というものがあるとf島氏は教えてくれた。これは、ギザギザの図形とフワフワした図形を用意し、どちらがブーバでどちらがキキか訊くと万国共通でギザギザした方をキキ、フワフワの方をブーバと高確率で答える、というものだ。つまり、視覚的記号は言語に影響力を持つ、と言える。つまり、視覚情報と言語と我々の価値観は相互に関係していると私は考える。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11737295729.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Dec 2013 13:59:11 +0900</pubDate>
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<title>記憶</title>
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<![CDATA[ 記憶には、二種類あると中山元氏（2005）は述べている。一つ目は、詩の暗唱など、反復して学習したものである。二つ目は、思い出など自然に頭に残ったものである。この二つは、その思い出し方、思い出すのに要する時間に決定的な違いがある。前者は、例えば詩であれば思い出すものは平面的なものであり、思い出すにはそれを朗読するだけの時間がかかる。それに比べて後者は、ふとしたときに瞬時に細部まで鮮明に思い出すことができる。ただ、その思い出した記憶は、不確かなものであると中山氏は述べている。というのは、我々の記憶は簡単に書き換えられるものなのだそうだ。例えば、警察が過剰なまでに圧迫尋問をしたことで、無実の人間が罪を自供し、冤罪のまま服役する、という話をよく聞く。過度のストレスの中で、警察側の都合のいい記憶が作られることも少なくないはずだ。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>また、中山氏によると、共有された記憶はアイデンティティ、共同性、他者とのかかわりを生じさせるそうだ。自分がたどってきた人生の記憶を他者の人生の記憶と交わらせることで、自分と他者の間につながりが生まれ、そこからアイデンティティが形成される。共同の記憶、例えば戦争の歴史などを持つことで人々は良くも悪くも強く結びつき、共同性が生まれる。秘密を共有すると深い関係になるのも、共同性によるものだと私は考える。<br>そこで、もしその記憶がなくなったらどうなるのだろうか。アイデンティティ、共同性、他者とのかかわりにおいて不可欠の記憶が消えることはとても恐ろしいことであろう。例えば、アルツハイマー病で記憶を徐々に失っている人について考えてみたい。他者の中でずっと存在している自分が、自身の記憶の中には存在していないというのは、恐怖以外のなにものでもない。かつて共有できていた記憶が少しずつ減っていくにつれて、他者とのかかわりも希薄になり、共同性も失ってゆくだろう。さらに、自分の記憶自体がなくなっていくことでアイデンティティも喪失し、自己と他の境界を失ってしまうはずだ。記憶を失うことは、生まれて間もない赤子のような状態になる、と言える。つまり、記憶が私たちの自己、社会性を形作る根幹であると私は考える。<br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11737295023.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Dec 2013 13:57:59 +0900</pubDate>
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<title>異端</title>
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<![CDATA[ 異端とは、正統的な教えに反したものとされる。よって、正統と異端は常に同時に存在するものである。例えば、正統派イケメンがいれば、個性派イケメンがどこかにいるものだ。（私の中では、向井理ｖｓ染谷将太）<br>異端という概念は西洋においてキリスト教での対立から生まれたといわれている。カトリックが正統で、その他の宗派、例えばプロテスタントなどは異端としてカトリック教会と長く争いが続いている。<br>宗教の論争に始まった異端の概念は、今日政治や芸術の分野にも浸透している。北朝鮮においての張成沢氏、古典派の中での印象派は異端であったはずだ。ただ、芸術分野においての異端は、その創造性から評価されることも多いとされる。<br>よって、異端の流れは、凝り固まって絶対化した既存の制度のうちに多様性を持ち込み、正統とされるものを相対化するものである。ただ、異端の思想の中には、この性質を忘れて異端であることに満足してしまっているケースがある。例えば、秘密保護法でのデモ活動に参加していた人々のうちで、この法を深く理解していた人はどれほどいたのだろうか。私には彼らはただ団結して大きな力に反発する、ということを目的として動いていたようにしか見えなかった。私の偏見かもしれないが、彼らは正統とされるものをあまり見ず、その反対勢力、異端として活動することに意味を見出していたのではないか。異端としての本来の姿を見失ってはならない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11733359801.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Dec 2013 08:44:08 +0900</pubDate>
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<title>暴力</title>
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<![CDATA[ 暴力とは、意思に反して他者に加えられる力とされている。<br>一方、他者との合意の元で、他者との相互的な関係において力が発揮されるとき、それは権力と呼ばれる。人々の合意の元で設立された権力は、恣意的な暴力を防ぐ力があると言われる。例えば、軍隊や警察は、自国の市民を守るという大義名分のためにその敵対勢力に暴力をふるう。しかしときにそれらは、守るべき者たちにさえ暴力をふるう。権力が腐敗すると、その権力が恣意的な暴力行為を行うようになるのである。世界史を見ると、権力がふるう暴力を止めるために、幾度となく革命が行われてきた。ただ、これもいつ恣意的な暴力をふるうようになるかわからないと言われる。<br>こうして見ると、暴力は遠い世界の話のように感じる。だが、我々も日々暴力の元にさらされ、もしくは我々自身が暴力をふるっている可能性があると言われる。例えば、3人の友人が一緒に何か話していたとする。いつのまにか話題は3人中2人しかわからない話になる。夢中になって話す二人を尻目に、取り残された一人は孤独感を味わうことだろう。2人は、知らず知らずのうちにその一人に暴力をふるっているのだ。<br>つまり、暴力は私たちの生活において、金魚の糞のように見にくいところでびよびよつきまとうものだと言える。
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11733185058.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Dec 2013 23:05:46 +0900</pubDate>
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<title>アイロニー</title>
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<![CDATA[ 思ったことと反対のことを言うことで、皮肉やあてこすりなどがその一種。<br>ソクラテスはアイロニーを駆使した対話によって、相手が知っていると思っていることを実は知らなかったことに気づかせ、そこから真の知に向かって進ませようとした。というのは、ソクラテスは知識人の家々をまわり、美とは、とか勇気とは、とか無知のふりをして聞いて回った。そして、知識人たちが得意気に自分たちの考えを披露すると、その矛盾点を容赦なく突いた。それによって、知識人らは自分たちの盲点に気づき、物事をより深く考えるようになった。このように、アイロニーは、真理にたどり着くための手助けとなるものである。その一方、その鋭さから、人々の心を傷つけるものでもある。例えば、恋人に飽き、円満に別れたいがために「あなたには私よりもっと素敵な人が似合う」と言って諦めさせたとする。しばらくして、別れた人が自分より器量、性格、要領のすべてにおいて優れた人と付き合い始めたことを知る。自分よりいい人が見つかるはずないと心の中で思っていたのに、それが見事にアイロニーとなってしまい、あなたは深く傷つくだろう。ソクラテスもアイロニーの使い過ぎで処刑された。こうした悲劇を起こさないために、ユーモアやウィットを駆使すべきと中山氏は述べている。ただ、ユーモアやウィットを使っていれば誰も傷つくことはないというは間違っていると思う。人それぞれ感性が違い、コンプレックスも違う。褒めたつもりで背が高いね、と言われて傷つく人がいるように。<br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11731926524.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Dec 2013 23:34:31 +0900</pubDate>
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<title>遊び</title>
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<![CDATA[ G・ベイトソンは、遊びとは「これは遊びだ」というメタレベルのコミュニケーションを含む行為だとしている。つまり、遊びとは外見上でお互いがどんなに激しいやりとりをしていても、そのやりとりが遊びであることを暗黙の了解としているものである。例えば、漫才は一見喧嘩・説教をしているように見える時がある（X-GUNとかさがね見てると心臓痛くなる）が、我々はそれが演技であることをわかって見ている。<br>また、J・ホイジンガは、遊びとは、あるはっきり決められた時間・空間のなかで行われる自発的な行為あるいは活動である、と述べている。また、遊びとはなにかの目的に奉仕するのではなく、遊びの目的は遊びの行為そのもののなかであり、この観念は祝祭や演劇にも通じている。<br>R・カイヨウは、競争（アゴーン）、偶然（アレア）、擬態（ミミクリ―）、めまい（イリンクス）という四つの要素を重視し、そのどれが優勢であるかにしたがって遊びを分類することを提案している。かけっこがアゴーン、すごろくがアレア、おままごとがミミクリ―、絶叫マシンがイリンクスである。こう考えると、オリンピックや宝くじもちょっとお金のかかった遊びなのだとわかる。遊びたい
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11731158509.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Dec 2013 19:01:13 +0900</pubDate>
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<title>アイデンティティ</title>
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<![CDATA[ アイデンティティとは、領域によって訳し方が異なる。<br>例えば、心理学分野では同一性、社会学分野では存在証明と訳される。<br>また、エリクソンはアイデンティティとは人種などのバックグラウンドから形成される歴史的連続性と人格的同一性の両方を意味するとしている。歴史的連続性は、私の場合だと、日本人であることだ。人格的同一性とは、私の場合だと、某K駅のそばに住めていることだ。（引っ越したらアイデンティティクライシスが起きることだろう。）<br>また、レインはアイデンティティを他者との関係性から現実化される、相補的なものとしている。つまり、アイデンティティは個人個人の内から生じるものではなく、個人と、その周囲の人々の間の関係から生まれるものである、ということだ。例えば、私は自分の家族や友人などがいて初めて、彼らの子どもや兄弟、友人として存在証明がされるのである。<br>この考え方によって、アイデンティティの問題は役割の問題にも結びつく。つまり、「性格」とも訳されるアイデンティティによって、個人の役職が決まる、ということである。私の場合、目立ってリーダーシップを発揮したことがないため、特に大きな役職につけたことはない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11729894840.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Dec 2013 21:20:02 +0900</pubDate>
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<title>フレームワーク</title>
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<![CDATA[ フレームワークとは、、、<br>情報分析、問題発見や、問題解決や戦略を立案するときに利用する「思考の枠」のこと<br>出したアイディアを活用、共有するために役立つ<br>情報を整理するためではなく、整理した情報からどんなことが言えるのか？何をしていくべきなのか？を導くためのもの<br><br>e.g. マインドマップ、５W２H、PDCA（Plan Do Act Check）など、、、<br><br>フレームワークを使うと、<br>思考が客観的かつ論理的になる。→理解しやすくなる。<br>考えモレを無くし、より大きな視点で物事を捉えることができるようになる。<br><br>(゜-゜)私は知覚過敏で悩んでいるので、その解決法をマインドマップで考えてみた。結果、歯のしみる食べ物はほとんどジャンクなもの（アイスクリーム、キンキンに冷えた飲み物、ガムなど歯にくっつくもの）だったとわかった。そして、それらを食べなくなったことで私は健康体になったことに気づいた。解決方法はわからなかったものの、前向きな気持ちになれた。よかった。(　゜-゜)<br>                       <br><br>
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<link>https://ameblo.jp/9mmnochocolat/entry-11728206991.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Dec 2013 23:12:27 +0900</pubDate>
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