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<title>シラスとウシハク【保守・革新でなく、日本獨自のありかたにもとづく區別をとり、時事・歴史問題を考へるブログ】</title>
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<description>日本人固有の思想をもって、政治・經濟・歴史・時事問題を考へるウェブログでございます。（國體思想・皇室論・脱原發・消費税・TPP・言葉の問題など）天皇のシロシメス作用を促進・維持する政策には贊成し、かたや減殺しかねない政策には反對いたします。</description>
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<title>ブログ無期限休止のおしらせ</title>
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<![CDATA[ <font size="3">おもふにやまとの国には、たぐひ稀な性（サガ）がふたつあります。<br><br><br><font color="#FF0000"><b>①皇神（スメカミ）の厳（イツク）しき国</b></font><br><font color="#0000FF"><b>②言霊（コトダマ）の幸（サキ）はふ国</b></font><br><br><br>山上憶良の歌（万葉８９４）にある言葉です。<br>このブログは、主に①について言挙げしてきました。<br><br>さて、実を申しますと、ちかごろ別のブログを始めました。<br><br><a href="http://ameblo.jp/utayomi-therapy" target="_blank">http://ameblo.jp/utayomi-therapy</a><br><br>そのテーマが、②にかかはるものです。<br>そしてわが仕事に②が活かせるといふことを見つけ、今ふんばってゐるさなかであります。<br><br><br><br>もともと、このブログは仕事とは無縁だと割り切って始めたので、やはり仕事が忙しくなると、どうしても手が回らなくなります。<br>まして、いまや仕事につなげようとして書き始めたブログもあり、こちらは再開のメドが全くつかなくなってしまひました。<br><br>そこで、心残りではございますが、<font color="#FF6600"><b>このブログを無期限で休止することにいたします。</b></font><br>ただし閉鎖はせず、このまま残しておきますので、まにまに御役立てください。<br>いつかは再開する、といふ含みも残しつつ、去ることにしました。<br><br>いづれはちゃんと御挨拶せねばと思ってゐましたが、それが遅れに遅れてしまひ、申し訳ありませんでした。<br>今まで愛読してくださったみなさま、ありがたうございます。<br>再開がかなったあかつきには、また御会ひいたしませう。<br><br><br><br><font color="#800080"><b>私のふみをこれからも読みたいと御思ひのかたは、新しいブログにも御運びください。</b></font><br><br><a href="http://ameblo.jp/utayomi-therapy" target="_blank">http://ameblo.jp/utayomi-therapy</a><br><br><font color="#FF0000"><b>歌をよむことが、すなはち癒しになり、社会改善にもなりうる。</b></font><br>それをテーマとして、記事を書いてをります。<br><br>志のむきは、ブログ「シラスとウシハク」の頃とまったく変ってゐません。<br>むしろ、志も学識もパワーアップしてゐるかも・・・・・・。<br>歌よみといふ技を得て、私はこれからも国に報いてまゐります。<br><br>よろしければ、<font color="#0000FF"><b>ブログ「うたよみセラピー」も御役立てください。</b></font><br><br><br><br>それではみなさま、御元気で！<br>（終）</font>
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<pubDate>Wed, 07 Oct 2015 07:00:00 +0900</pubDate>
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<title>個々の國民の幸せを祈る存在・・・シラスとウシハク（２）</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br>【本記事の主張】<br><font color="#FF0000"><b>天皇は“國民ひとりひとり”の幸せを、あたかもみづからの身内に向けるがごとく、御祈りになる存在である。貧富貴賤によって差別したりはしない。</b></font><br><br><br><br><br>　　ふりかへってみると、きのふ１０月１０日は、體育の日なんですね。言ふまでもなく、東京オリンピックの開會式が行はれた日であります。７年後の五輪は眞夏におこなふのださうですが、正氣の沙汰とはおもはれません。ヒートアイランドのただなかに選手と觀衆を放りこんで、熱中症患者を大量發生させようといふ魂膽なのでせうか。祭うんぬんといふ理由があるさうですが、<br><br>「祭と人命のどちらが大切なんだ？！」<br><br>と言ひたい。きのふは台風一過の晴天で暑かったので、ついそんなことを叫んでしまひます。<br><br><br><br><br><br>　　天皇は金持の味方でせうか？　いえ、そんなことはありません。天皇は、特定の階級だけを愛しはしないのです。<font color="#0000FF"><b>“國民ひとりひとり”を、平等に分け隔てなく尊重してくださいます。</b></font><br><br><br>　　竹田恆泰氏の『日本人の原点がわかる「国体」の授業』（PHP研究所）に興味ぶかいエピソードが載ってをります。７６、７７ページです。<br><br><br>（引用ここから）<br>　　私は東北の被災地にボランティアで訪問したとき、近くにいた中年のご婦人に声をかけたことがあります。<br>「そういえばこの避難所に先週、天皇陛下がいらっしゃいましたね。」<br>と私が尋ね、その方が、<br>「そうなんです。」<br>と答えたのですが、そのご婦人は、その瞬間に泣き出してしまいました。<br>「思い出しただけで涙が止まらなくて。」<br>周りの人もみんな、<br>「そうそう。」<br>と言って、これまた泣きはじめる。驚いて、<br>「どんな様子だったんですか。」<br>と聞いたら、陛下のお姿を見たとたんに、全員が泣いていたそうです。<br><br><br>　　その方は、家族もみんな亡くなってしまい、<br>（なぜ自分だけ生き残ってしまったのか。）<br>（どうやって死のうか。）<br>とばかり考えた夜もあったそうです。<font color="#FF6600"><b>そんなとき天皇陛下のお姿を見て初めて生きる望みが湧いてきたというのです。お愛想や他人事ではなく、<br>（他人なのに自分のことを本当に心配している人がいる。）<br>ことが分かり、<br>（だったらもう少し頑張れる。）<br>と思ったそうです。</b></font><br><br><br>　　これは途轍もなくすごい話で、人を本当に救うのは理屈ではない、ということです。その方に、<br>「では普段から陛下を尊敬なさっていたんですか。」<br>と聞いたら、<br>「そうじゃないのよ。<font color="#800080"><b>どちらかというと『天皇なんかいなくてもいい』と思っていました。でも初めて分かったわ。</b></font>」<br>と。<br><br><br>　　何がわかったかというと、<font color="#FF0000"><b>天皇が国民にとって父母のような存在であるということです。天皇が存在することが、どれほどありがたいか、この方は肌身で知ったのでしょう。</b></font><br>（引用ここまで）<br><br><br>　　みなさんはこのエピソードを御讀みになり、どんな感想をおもちになりましたか？　驚きなさった方もをられるでせう。<br>わたくしは、驚きませんでした。むしろ逆に<br><br>「うんうん。さうだらうな。」<br><br>と、“想定の範圍内”といふ印象をもちました。なぜならば、天皇はさういふものであるといふことを、あらかじめ知ってゐたからです。（とは言へ、もしわたくしが直接に天皇の拜謁をたまはっても、まともに御顏を拜見できないとおもひます。あまりにもおそれ多いからです。ひとりでに身體が動いて、土下座までしてしまふかもしれません。）<br><br><br>　　天皇の等身大の御姿が、今のエピソードに寫し出されてをります。誇張も虚僞もありません。天皇は弱者の味方をしてくださるのです。<br><br><br><br><br><br>　　ただ、「天皇は貧乏人の味方」といふと、逆に金持を敵視するかのやうに誤解する人もをりますが、それも考へ違ひです。天皇は、金持も貧乏人も、等しく尊重なさります。<font color="#0000FF"><b>貧乏人だからといふ理由で差別しないのと同じく、金持だからといふ理由でも差別しないのです。</b></font>もちろん、その金持が貧乏人を虐待するならば、天皇は御怒りになるでせう。ひどい損害を他にあたへないかぎりにおいて、金持も天皇の庇護をうけることができるのです。<br><br>「<font color="#FF6600"><b>日本國民は、天皇の赤子（せきし）である。</b></font>」<br><br>　　それは、戰前は當り前に言はれてゐた命題であります。戰後になって言はれなくなりましたが、だからといってその實體が失はれたわけではありません。それどころか實體は相變らず、日本國民は“天皇の赤子”なのです。換言すれば、天皇は“民の父母”であるといふことです。<br><br><br>　　竹田氏の前掲書、さきほどの引用の後に、こんな表現がございます。７９、８０ページです。<br><br>「（天皇皇后両陛下が）<font color="#800080"><b>あたかも『わが事』に際し『わが身内』を見舞っている感じ、両親や子をお見舞いになるような感じでした。</b></font>」<br>「天皇が民の父母であるというこの一点は、建国から貫徹している真実です。天皇は『国民一人ひとり』の幸せをお祈りになります。<font color="#FF0000"><b>それは『国民全体の幸せ』ではありません。国民一人ひとりの幸せ」を、命を懸けて祈る。これが天皇のご存在なのです。</b></font>」<br><br>　　天皇にとって國民は、ひとりひとりが“身内”であります。家族・親戚なのです。身内にたいして、貧富貴賤による差別をするでせうか？　まづしませんね。金持であらうが貧乏であらうが、自分の子（たち）であるといふ事實は變りません。親ならば平等に子らを愛するはずです。<br><br><br>　　すでにおわかりのことと存じます。天皇の前においては、貧富貴賤の區別なんぞ無效なのです。諸外國の君主が金持の味方であったといふ事實と、よくよく見比べてください。<br><br>「<font color="#0000FF"><b>罪あらばわれを罪せよ天つ神　民は我身の生みし子なれば</b></font>」（明治天皇）<br><br>　　明治天皇にかぎらず、天皇ならばみなさま、そのやうなおもひを胸に、祈りを捧げてきなさったのです。<br>（つづく）<br><br><br><br><br><br>【本記事の主張】<br><font color="#800080"><b>天皇は“國民ひとりひとり”の幸せを、あたかもみづからの身内に向けるがごとく、御祈りになる存在である。貧富貴賤によって差別したりはしない。</b></font><br><br><br><br>最後まで御讀みいただき、誠にありがたうございます。<font color="#FF0000"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<pubDate>Fri, 11 Oct 2013 06:45:43 +0900</pubDate>
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<title>外國における“左右”の區別・・・シラスとウシハク（１）</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br>【本記事の主張】<br><font color="#FF0000"><b>諸外國においては、<br>「右翼＝保守派＝王黨派＝資本主義＝體制派＝金持」<br>「左翼＝革新派＝ジャコバン派＝共産主義＝反體制派＝貧乏人」<br>と、きれいに圖式化しうるから、左右の區別は有效である。</b></font><br><br><br><br><br><br>　　昨日は、台風騷ぎがございました。みなさま、御無事でせうか？　台風が來るときは、田畑が心配だからといって見に行ってはなりませんよ。眞夏にビニールハウスにはひって作業するのと同じくらゐ、危險な行爲ですから。災害時にかぎらず、もっと御自分を大切になさってくださいね。<br><br><br><br><br><br><font color="#0000FF"><b>「わが國において、保守・革新の區別は無用である。」<br>「その代りとして、《シラス（シロシメス）・ウシハク》の區別を用ゐるべきである。」</b></font><br><br>と、わたくしは以前より主張してきました。が、その詳しい理由については、まだ申上げてこなかったやうにおもひます。そこで、けふからしばらく、その話題について御話しすることにいたします。どうぞ御附合ひくださいまし。<br><br><br><br><br><br>　　政治勢力を色分けするときは、ふつう、「右翼・左翼」と分類いたします。その意味するところは、こんなことでせう。<br><br>「保守派・革新派」<br>「王黨派・ジャコバン派」<br>「資本主義・共産主義」<br>「體制派・反體制派」<br>「金持・貧乏人」<br><br>　　外國の事象を説明するときは、それでもよいのです。が、こと我が國についてとなると、事情が變ってまゐります。<br><br><br>　　「アメリカの保守・日本の保守」といふ記事で述べたやうに、國がちがへば保守するものも異なります。わが國は《君民一體》をそのアイデンティティーとしますから、それを維持・發展させる者こそが“日本の保守”であるべきなのです。<br><br><br>　　<font color="#FF6600"><b>ただ、「保守」といふ用語をつかふと、外國のそれと混同されてしまふ虞れがあります。いえ、實際に混同が起きてをります。</b></font>その混亂を終熄させたいとおもひ、わたくしは古典から<br><br>「シラス（シロシメス）とウシハク」<br><br>といふ區別をもってきたのです。御承知のとほり、それはわがブログの題名でもあります。<br><br><br><br><br><br>　　<font color="#800080"><b>ふつう、君主といふのは、金持の味方をします。</b></font>みづからも金持であり支配階級ですから、當然と言へば當然です。西洋の王樣、支那の皇帝など、たいていはその通りであります。<br><br><br>　　「右翼・左翼」の區別が生まれたフランスでも、事情は同じです。ブルボン王朝の君主たちはみな、金持階級の味方をし、みづからも贅澤な暮しをしてをりました。それもあって、王政は倒されてしまったのです。<br><br><br>　　フランス革命時の議會において、議長席からみて右側に“王政を支持するグループ”が坐り、左側に“王政に批判的なグループ”が坐りました。そこから「右翼・左翼」の區別が生まれたわけです。<br><br><br>　　王政を支持するグループは、要は金持連中です。金持の利益を代辯します。もちろん、議員自身も上級貴族であり、金持です。體制派と言ってよいでせう。<font color="#FF0000"><b>社會變革を望まず、そのままの氣樂な暮しを維持したい人々です。</b></font><br><br><br>　　一方、王政に批判的なグループとは、現状に不滿をいだく人々です。そして、被支配階級の支持を受けます。議員自身は貴族なのですが、下級のため、今の境遇には不滿です。反體制派とよべます。<font color="#0000FF"><b>社會を變革してみづからがのし上がらうといふ野望をもつ人も、少なくありません。</b></font><br><br><br><br><br><br>　　さういふわけですから、<br><br><font color="#FF6600"><b>「右翼＝保守派＝王黨派＝資本主義＝體制派＝金持」<br>「左翼＝革新派＝ジャコバン派＝共産主義＝反體制派＝貧乏人」</b></font><br><br>といふ區別が、わりときっちりできます。これは、ロシア革命や支那の共産革命にも當てはまります。すべての革命がそのやうに圖式化できると言っても、過言ではありません。<br><br><br><br><br><br>　　ひるがへって、わが國はどうでせうか？　天皇は、金持の味方でせうか？　その答へについては、次の記事で御話しいたします。<br>（つづく）<br><br><br><br><br><br>【本記事の主張】<br><font color="#800080"><b>諸外國においては、<br>「右翼＝保守派＝王黨派＝資本主義＝體制派＝金持」<br>「左翼＝革新派＝ジャコバン派＝共産主義＝反體制派＝貧乏人」<br>と、きれいに圖式化しうるから、左右の區別は有效である。</b></font><br><br><br><br>　　最後まで御讀みいただき、誠にありがたうございます。<font color="#FF0000"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 06:45:02 +0900</pubDate>
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<title>出光佐三と安倍晉三</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br>【本記事の主張】<br><font color="#FF0000"><b>出光佐三の事蹟をたどれば、安倍總理大臣に足りないものが何なのかがわかる。それは、”確信”である。</b></font><br><br><br><br><br><br>　　う～～～ん、またぞろ暑くなってまゐりました。他の地方はわかりませんが、靜岡は結構暑いのです。夏みたい。まあ、暑いのは好きだからよいのですが、季節感がマヒしてしまひます。みなさんの地方は、まだ夏ですか、それとも秋になりましたか？<br><br><br><br><br><br>　　みなさんは、出光佐三を御存じですか？　その名前を御存じでないかたでも、<br><br>「百田尚樹氏の小説『海賊とよばれた男』の主人公・國岡鐵造」<br><br>と言へば、おわかりになるでせうか。<br><br><br>　　出光佐三（１８８５～１９８１）は、出光興産の創業者であります。<font color="#0000FF"><b>かれのもっとも偉大な功績は、何と言っても、昭和２８年にイランから石油を輸入したこと</b></font>です。<br><br><br>　　當時、イランは自國の石油を國有化しようとしてをりました。植民地時代のイランはイギリスの支配をうけたので、かの國の強い影響下にありました。したがって、石油國有化にはイギリスが大反對します。もちろん、英米を中心とする國際石油資本（石油メジャー）も、みづからの取分がすくなくなるので、斷乎反對の立場です。<br><br><br>　　つまり、<font color="#FF6600"><b>當時のイランは、歐米列強と敵對關係にありました。國際的に孤立してゐたと言ってよいでせう。</b></font>そんなイランから、出光はあへて石油を直接に輸入したのです。「日章丸（二世）」といふタンカー船をイランに寄越し、石油を搭載して、歸國をはたしました。イギリス海軍によるホルムズ海峽封鎖をかひくぐっての偉業でした。<br><br><br>　　わが國にとっては偉業でも、イギリスや國際石油資本にとっては犯罪的行爲です。アングロ・イラニアン社から、積荷の石油の所有權にもとづく返還請求をおこされました。その裁判にも勝利（被告による訴因取下げ）して、出光の行爲は正式に認められたのです。<br><br><br><br><br><br>　　<font color="#800080"><b>國際的に孤立するイランから石油を直接輸入するといふのは、歐米列強を敵にまはすも同然の行爲であります。</b></font>出光とて、それは百も承知であったはずです。昭和２８年といへば、敗戰の打撃からまだ立直りきれてゐない時期。そんな時期に、歐米を刺戟するやうなことをする。どんなにか勇氣の要る行動であったことでせう。<br><br><br>　　出光はなぜあへてそんな危險を冒したのでせうか？  ここで念頭に置くべきは、<br><br>「<font color="#FF0000"><b>出光佐三が尊皇の志士である。</b></font>」<br><br>といふ事實です。<br><br><br><br><br><br>　　その當時、石油は「セブン・シスターズ」とよばれる石油メジャーに獨占支配されてをりました。そしてかれらは、その優越的地位を利用して、油の値段をつりあげてゐたのです。その理不盡に怒ったのが、出光佐三でした。石油の値段が高騰すれば、庶民の暮しに惡影響が生じます。敗戰後の混亂によって貧窮してゐた時期ですから、なほさらであります。<font color="#0000FF"><b>庶民の生活をたすけるために、出光は冒險をなしたのです。</b></font><br><br><br>　　出光は、皇室を中心とする國體に、自信をもってをりました。皇室のかかげる價値を、一點のくもり無き心で、確信してをりました。その價値とは、<br><br>《人間尊重》<br><br>といふことです。<font color="#FF6600"><b>金錢・主義の奴隸になることなく、人間そのものを尊重し、慈しむこと。それが、皇室が體現してこられた價値なのです。出光は、それを信じてをりました。これからのわが國・世界を向上させうる價値であると、確信をもってゐたのです。</b></font><br><br>「安いから輸入した。」<br>「儲かるから輸入した。」<br><br>といふわけでは、けっしてありません。もちろん、儲けを考へなかったとは言ひません。商賣ですから、儲けを考へるのは當然のことです。しかし、歐米を敵にまはすのは、儲けを追求するだけならリスクが高すぎます。金錢以外の理由がなければ、そこまでのことはできません。<br><br><font color="#800080"><b>「庶民の暮しをまもる。」<br><br>といふ大義があったからこそ、出光は危險な一歩をふみだすことができたのです。</b></font><br><br><br><br><br><br>　　出光は、皇室の掲げる價値《人間尊重》を確信してゐたからこそ、その確信に突きうごかされて、かの偉業をなしとげたのです。プレッシャーや弱氣を感じても、それをはね返すだけの心の強さが、出光にはありました。そして、<font color="#FF0000"><b>その強靱な心の源泉は、人間尊重といふ價値への”確信”にあります。</b></font><br><br><br>　　出光は紛れもなく、大楠公をはじめとする後醍醐天皇の忠臣や、吉田松陰ら幕末の志士たちの流れを繼いでをります。<br><br>「皇室のかかげる大義のためには、討ち死にするも厭はず。」<br><br>といふ氣概があったのです。<br><br><br><br><br><br>　　出光の尊皇は有名な話であり、昭和天皇もあつい御信頼をよせておいででした。出光が亡くなったとき、昭和天皇がおんみづから御歌を詠んでをられます。<br><br>「<font color="#0000FF"><b>出光佐三逝く三月七日國のためひとよつらぬき盡くしたるきみまた去りぬさびしと思ふ</b></font>」<br><br>　　天皇が一國民の死を悼んで御歌を御讀みになるのは、前例の無いことであるさうです。どれほど天皇の御信頼が巨きかったかが、わかります。<br><br><br><br><br><br>　　ところで、わたくしの所藏する『海賊とよばれた男』の帶には、<br><br>「安倍晉三總理も愛讀」<br><br>とあります。その文字を見て、<br><br>「いったい、その本から何を讀み取ったのか？」<br><br>と、疑問を感ぜずにはゐられませんでした。安倍首相にはぜひとも、“讀書感想文”を提出していただきたうございます。<br><br><br>　　<font color="#FF6600"><b>出光佐三を理解するキモは《人間尊重》にあり、それを土臺にしてかれは戰ったのです。</b></font>安倍首相の“土臺”は、どこにありますか？<br><br><br><br><br><br>　　このたびの消費税引上げの決斷においては、各方面からの壓力があったこと、想像にかたくありません。安倍首相が確信犯的に（＝増税することが“善”であると思ひこんで）決斷したのでなく、壓力に屈してしまったのだとしたら、その心根の弱さを分析する必要があります。<br><br><br>　　<font color="#800080"><b>安倍首相の心中には、出光佐三のなかに確乎として存在した（人間尊重といふ）土臺が、無いのではありませんか？</b></font>  土臺が無いから、壓力に負けてしまふのです。堅固な基礎が無いから、強風が吹くとすぐに倒潰してしまふのです。<br><br><br>　　安倍首相はまた、同郷といふこともあってか、吉田松陰を尊敬してゐるさうです。いったい、吉田松陰の“どこを”尊敬してゐるのか？　ぜひ教へていただきたいものです。吉田松陰の一大特徴は、その志の忠烈さにあります。岩をも貫くやうな信念こそ、松陰のアイデンティティーなのです。そして、そんな信念の下には、皇室にたいする崇敬の念が存在します。<br><br><br>　　<font color="#FF0000"><b>吉田松陰を尊敬し、出光佐三の事蹟を顯彰するといふのならば、かれらの生き樣や價値觀こそ評價し、<br>「みづからもかくありたし」<br>と見習ふのでなければなりますまい。</b></font>それを拔きにした尊敬とは、いったいどんな“尊敬”なのですか？<br><br><br><br><br><br>　　安倍首相を限定的にではあれ支持してゐるからこそ、以上の批判をさせていただきました。もっと立派におなりいただきたいと願ふからこそ、苦言を呈するのです。そのあたり、御汲取りいただければ幸ひに存じます。<br><br><br>　　本ブログを御讀みくださるみなさんは、きっと御志のある方々でせう。みなさんもぜひ、御自分の“確信”がどこにあるのかを、いまいちど問うてみてください。みづからの確信を認識すれば、この先ブレない人生を生きることができます。<br>（終）<br><br><br><br><br><br>【本記事の主張】<br><font color="#0000FF"><b>出光佐三の事蹟をたどれば、安倍總理大臣に足りないものが何なのかがわかる。それは、”確信”である。</b></font><br><br><br><br>　　最後まで御讀みいただき、誠にありがたうございます。<font color="#FF0000"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<link>https://ameblo.jp/a-frog-in-the-ocean/entry-11631127014.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Oct 2013 06:45:19 +0900</pubDate>
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<title>安倍首相の“勝手ヨミ”</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br>【本記事の主張】<br>「<font color="#FF0000"><b>法人税を下げれば賃金がアップするから消費税を上げても大丈夫といふ、安倍總理大臣の豫想は“勝手ヨミ”である。</b></font>」<br><br><br><br><br><br>　　どこからともなく、金木犀（キンモクセイ）のかをりが漂ってまゐりました。そのにほひをかぐと、わたくしの心は“秋モード”に切り換はり、アン二ュイな氣分になります。さうなると、ショパンやシューベルトの曲の出番が増えます。みなさんの“秋の定番”は、何ですか？<br><br><br><br><br><br>　　どうも安倍首相は、<br><br>「消費税を上げても、法人税を下げるといった經濟對策や成長戰略をおしすすめれば、企業業績が上向いて賃金が増えるから、問題はない」<br><br>とか考へてゐるやうです。が、それは“勝手ヨミ”であると申上げたい。なほ、勝手ヨミとは<br><br>「<font color="#0000FF"><b>圍碁將棋などにおいて、自分がかう打てば相手が必ずかう打ってくれると思ひこんで實際に打ってみると、そのとほりに相手が反應してくれなかったとき</b></font>」<br><br>を指します。<br><br><br><br><br><br>　　消費税が上がると、どうなるか？　國民の可處分所得が減ります。たとへば１０,０００圓の物を買ふとして、今は消費税が５％ですから１０,５００圓で濟みます。それが來年４月以降、１０,８００圓になる。３００圓よけいに取られるわけで、<font color="#FF6600"><b>そのぶん國民は他の物やサービスにお金をかけられなくなります。</b></font>さういふ現象を指して、《可處分所得が減る》と言ふのです。<br><br><br>　　可處分所得が減ると、どうなるか？　國民は買ひたいものを買へなくなります。金額的に不可能になるだけでなく、いはゆる“消費マインド”も冷えこませます。<br>「これからは負擔ばっかり増える・・・・・・。」<br>と感じ、消費そのものを抑へてしまひます。かくて、<font color="#800080"><b>國民は物理的・精神的に財布のヒモを“ギュッ”と締めるに至る</b></font>のです。<br><br><br>　　國民の消費が抑制されると、どうなるか？　國内において物・サービスを提供する企業の業績が、惡化いたします。當然のなりゆきですね。<font color="#FF0000"><b>買ってくれる人が少なくなれば、賣上が落ちる。</b></font>猿でもわかる道理です。<br><br><br>　　企業業績が惡化してしまったときに、法人税を下げるとどうなるか？　<font color="#0000FF"><b>減税分を業績惡化の穴埋めにつかひます。</b></font>さうするより仕方はありません。しかも、おそらく減税分だけでは損失を補填できないでせう。このたびの増税による消費の冷えこみは、相當なものになると豫想されますから。<br><br><br>　　減税分だけでは企業業績の惡化をくひ止められないときに、あへて企業は賃金を上げようとするでせうか？　答へは言ふまでもなく、NOですね。下手をすれば、さらなる給料カットが行はれるかもしれません。<br><br><br>　　また、<font color="#FF6600"><b>正社員の賃金には消費税がかかる</b></font>ので、企業はその方面からの出費にも惱まされます。かたや、非正規雇傭者の賃金は消費税の對象になりませんから、正社員削減の傾向がつよまるでせう。それも、賃金カットの一形態です。<br><br><br><br><br><br>　　つらつら考へてみると、安倍首相の、<br><br>「消費税を上げても、法人税を下げて企業の儲けを増やしてやれば賃金が上昇するから、國民の可處分所得には惡影響がない。」<br><br>といふ豫想は、紛れもない“勝手ヨミ”であります。その勝手ヨミにもとづいて増税されたのでは、たまったものではありません。<br><br><br><br><br><br>　　斷言します。從業員の賃金は、増えません。一方、個人の可處分所得は、確實に減ります。低所得者に現金を配るやうですが、それ以上の増税が待ってゐるのです。「みずほ総合研究所」の試算によると、<font color="#800080"><b>年收３００萬圓未滿の世帶は５７,５２９圓も増税されます。</b></font>一萬圓程度の給付では、“燒け石に水”であります。<br><br><br><br><br><br>　　いろいろな言ひ譯をつけて“増税をあきらめる”のは勝手です。増税や賃金カットに耐へられるだけの餘力がある人・税金を拂ふのが趣味の醉狂な人は、どうぞ御自由に。しかし、そんなゆとりはないと自覺する人に言ひたい。<br><br>「<font color="#0000FF"><b>そんなふうに諦めてしまってよいのですか？</b></font>」<br><br>と。<br><br><br>　　わたくしは、安倍首相の勝手ヨミと心中する氣なんぞ無いので、自分なりに聲をあげてゆくつもりです。みなさんも、御出來になる範圍でこゑをあげませう！<br>（終）<br><br><br><br><br><br>　　最後まで御讀みいただき、誠にありがたうございます。<font color="#FF0000"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<link>https://ameblo.jp/a-frog-in-the-ocean/entry-11630249602.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Oct 2013 06:45:08 +0900</pubDate>
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<title>アメリカの保守、日本の保守</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br>　　本稿の趣旨は、<font color="#FF0000"><b>アメリカの國體と日本の國體との相違點を明らかにすることにより、日本における新自由主義者は《保守》とはよびえない</b></font>ことを示すところにあります。要旨は、次のとほりです。<br><br>「<font color="#0000FF"><b>アメリカの保守と日本の保守とは、守るものがちがふ。アメリカの國體は《自由》であり、日本の國體は《君民一體》である。守るものがちがへば、保守革新の勢力圖も當然にちがってくる。新自由主義は、アメリカでは保守思想であっても、日本においては革新思想である。したがって、安倍氏も歴とした革新派である。保守派とみなさないやうに。</b></font>」<br><br><br><br><br><br>　　安倍總理大臣が増税の決斷をしてしまひました。まことに殘念です。わたくしも、微力ながら増税反對運動をしてきただけに、己れの非力をさとります。<br><br><br>　　１０月１日の記者會見をみて、わたくしはあらためて再認識いたしました、<br><br>「安倍さんは、《日本の保守》ではない。」<br><br>と。<br><br><br>「新自由主義者よ、保守を僭稱することなかれ。」<br><br>　　わたくしは常々、さう言ひつづけてきました。なぜならば、<font color="#FF6600"><b>わが國の傳統のどこを探しても、新自由主義的な思想は出てこないからです。</b></font>むしろ、わが國體に反するのが、新自由主義であります。<br><br><br><br><br><br>　　海の向うのアメリカ合衆國。その國體は、一言であらはすなら《自由》といふことです。國體とは、<br><br>「それを拔いてしまふと、その國がその國でなくなってしまふもの」<br><br>であります。要は、<font color="#800080"><b>國の獨自性・アイデンティティー</b></font>です。<br><br><br>　　アメリカの國體は《自由》。したがって、その自由を守る勢力が「保守」と呼ばれます。<br>ちかごろ、移民を制限するといふ案が出てゐるさうですが、それなどはアメリカ國體に反する考へです。<br><br>「はひってくるも自由、出てゆくも自由。」<br><br>といふのが、建國以來の傳統であるからです。また、<br><br>「金持になるも自由。貧乏になるも自由。」<br><br>とも考へられてきました。すべては自由竸爭で、結果は自己責任、といふ思想です。社會保障は、國家が國民の領域に介入する政策であるといふ點において、アメリカの傳統に反してをります。だからこそ、かの國では社會保障への反對が根強いのです。<br><br><br>　　ニュー・ディール政策をおこなったフランクリン・ルーズヴェルトを「社會主義者」とののしる人が、アメリカには少なからずをります。（實際、かれはアカでしたが。）また、ちかごろ「オバマ・ケア」なる社會保障政策をめぐって、かの國では大論爭になってをりますが、大統領を批判する人たちはやはり「社會主義政策だ！」と舌鋒鋭く主張します。<br><br><br>　　繰り返しますが、<font color="#FF0000"><b>アメリカの國體は《自由》です。その自由を守る勢力こそが「保守」であります。</b></font>したがって、政黨では共和黨が保守派とよばれるのです。新自由主義は、アメリカの國體には親和性をもちます。それゆゑ、かの國では新自由主義＝新保守主義といふ構圖になるのです。<br><br><br><br><br><br>　　かたや、日本の國體はどうでせうか？  いろいろな定義が考へられますが、わが國體を一言でいひあらはすなら、<br><br><font color="#0000FF"><b>《君民一體》</b></font><br><br>といふことでせう。わが國の獨自性は、その點にあります。君民一體でなく君民對立になってしまったら、そんな國はもはや日本ではありません。どこにでもある普通の國になってしまひます。<br><br><br>　　それでは、君民が“どんなふうに”一體となってゐるのでせうか？  わたくしの答へは、これです。<br><br>「<font color="#FF6600"><b>天皇が國民ひとりひとりの幸せを一心に御祈りになり、國民はその御祈りを實現すべくひたすら精進努力する。</b></font>」<br><br>　　そのやうに一體となることが、君民一體といふことです。<br><br><br>　　天皇が國民ひとりひとりの幸せを祈りつづけてをられることは、疑ひやうのない事實です。日本國家をつらぬく眞實でもあります。したがって、われら國民としては、天皇のその御願に沿はないかぎり、君民一體は望めません。むろん、政策もその方向を目指すものでなければならないのです。<br><br><br>　　一部の富裕層が優遇され、大多數の貧困層が虐げられる政策をつづけるのは、君民一體に反します。<font color="#800080"><b>天皇だけ國民ひとりひとりの幸せを祈り、國民の方は弱者いぢめをつづける。そんなていたらくは、君民一體ではない。</b></font>まさか、天皇にたいし奉り、<br><br>「特定の國民だけ幸せになれと、御祈りしてくれませんか？」<br><br>とでも、御頼みするつもりですか？　それはできないでせう。「できる」といふ方は、天皇に直訴してください。天皇に面とむかって、そんなことを申上げられますか。まあ、假にできたとしても、天皇は御聽き入れにならないでせう。君民一體への道は、ひとつしかないのです。<br><br><br><br><br><br>　　<font color="#FF0000"><b>わが國體が《君民一體》であるとするならば、わが國における保守は、それを守り推進する勢力でなければなりません。</b></font>逆に、君民不一致を志向する勢力は、まったく保守とはよびえないどころか、立派な《革新勢力》です。<br><br><br>　　わが國の現状はどうでせうか？　新自由主義を奉ずる勢力が、保守を名乘ってゐるではありませんか。その親玉が、安倍首相であります。規制緩和や成長戰略など、安倍氏のかかげる政策をみる限り、かれは歴とした新自由主義者です。そもそも、小泉純一郎元首相に見込まれて後繼者に指名されたくらゐですから、“正統的な”新自由主義者とみなして差支へありません。<br><br><br>　　もし、「保守」といふ理由“だけ”で安倍氏を支持してをられるならば、「それはおやめなさい。」と御忠告いたします。<font color="#0000FF"><b>新自由主義者は、保守ではなく革新なのです。</b></font><br><br><br>　　誤解されないやうに申上げると、わたくしは、安倍氏を限定的にではありますが支持してをります。したがって、倒閣運動に加はるつもりはありません。ただ、安倍首相の“正體”を直視してほしいと願って、この一文を書きました。<br><br><br>　　消費税は、弱者につらくあたる税金です。一方、強者には恩惠すら與へられます。日本國民を、弱者と強者とに分斷し、弱者を虐げるもの。それが、消費税なのです。<font color="#FF6600"><b>そんな税金を上げる決斷をする政治家は、どんな理由があれ、《日本の保守》とは呼べません。君民一體をめざす氣概に乏しいからです。</b></font><br><br><br>　　ちかごろは「解雇特區」なるものを創るとか言ってをります。一聯の行動を總合的にみるかぎり、安倍氏を保守派とみなすことはできません。まがふことなき革新派です。靖國神社に參拜しようがしまいが、關係ありません。靖國參拜は、“保守の免許證”とはなりえないのです。<br><br><br><br><br><br>　　最後に、まとめを再掲して終ります。<br><br>「<font color="#800080"><b>アメリカの保守と日本の保守とは、守るものがちがふ。アメリカの國體は《自由》であり、日本の國體は《君民一體》である。守るものがちがへば、保守革新の勢力圖も異なる。新自由主義は、アメリカでは保守思想であっても、日本においては革新思想である。したがって、安倍氏も歴とした革新派である。保守派とみなさないやうに。</b></font>」<br>（終）<br><br><br><br><br><br>　　最後まで御讀みくださり、誠にありがたうございます。<font color="#FF0000"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<link>https://ameblo.jp/a-frog-in-the-ocean/entry-11626900704.html</link>
<pubDate>Thu, 03 Oct 2013 10:32:39 +0900</pubDate>
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<title>人間尊重主義のルーツ・・・人權觀念は要らない（４）</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br><br>　　またかと言はれるやもしれませんが、大事なことなので幾度も申します。<font color="#FF0000"><b>天皇が在ますおかげで、わが國は人權が保障されてきたのです。</b></font>もちろん、完璧に保障されてきたとは言ひません。が、世界と比較して、わが國が古今をつうじて人權保障大國であったことは、紛れもない事實です。<br><br><br>　　先月、「皇室から受けた御恩とは？」シリーズと題し、１０囘にわたって論じたことがございました。そこで申したかったことは、<font color="#0000FF"><b>われわれ國民は天皇のおかげでさまざまな恩惠をうけてきたし、今もうけつつある</b></font>といふことです。テーマ「皇室論」に收めてありますから、まだ御讀みでないかたは、ぜひ御參照ください。<br><br><br><br><br><br><br>「外国のエンペラー、キング、国王、皇帝は武力をもって支配している。外国のエンペラー、キング、国王、皇帝で鎧兜をつけていないものはありません。そしてすべて要塞地帯のようなところにたてこもって、武器をもって自分を保護している。<font color="#FF6600"><b>そして一方では国民を搾取して、豪華な金殿玉楼に住み、ぜいたくの限りをつくしている。</b></font>こういうふうに武力によって支配しているから、三百年しか続かない。<br><br><br>　　日本は武力ではない。日本の天子様あるいはお公家さんで、鎧兜をつけている人はありません。ということは武力をお使いになっていないということです。それではなにをお使いになったかといえば、それは道徳、徳の力です。<font color="#800080"><b>日本の皇室は、京都の御所を見ればわかるように、平地に無防備で、しかもきわめて質素に暮らしておられる。</b></font>平地に無防備でおられるということは、これは、人間の徳なんです。徳ということばは外国にはありません。日本独特のものです。<br><br><br>　　<font color="#FF0000"><b>国民は皇室にすがっておれば、生命も安全であるし、なにかのときは救ってくださるし、財産も没収されるようなことはない。皇室はご自分もきわめて質素にお暮らしになっているから、国民の財産を没収なさる必要がない。生命、財産の安全が皇室によって守られているということは、国民にとっていちばんありがたいことで、国民は皇室に対して「ありがとうございます」という感謝の念をもつことになります。</b></font>ここに日本人の“恩を知る”とか無我無私、互譲互助、犠牲心というような独特の国民道徳が出てきたわけです。<br><br><br>　　外国では、いつも武力で征服されて搾取されているから、そういう征服者に対し、国民が「ありがとうございます」という気持ちをもてということは無理です。<font color="#0000FF"><b>むしろ反対に、我々にも自由があります、権利がありますと主張することとなり、頼るものは自分だけしかないということから、ここに外国の個人主義、権利思想がでてきたのも当然であります。</b></font>」<br><br><br><br><br><br><br>　　問題です。上のふみは、誰の筆になるものでせうか？　絶對にわからないとおもひますが、敢へて問うてみます。<br><br><br><br><br><br><br>　　答は、<font color="#FF6600"><b>出光佐三</b></font>でした。『出光佐三対談集　　永遠の日本』（平凡社）前書Ⅳ、Ⅴ頁からの引用であります。<br><br><br>　　なぜ出光のふみを長々と引用したかといふと、<font color="#800080"><b>そこにわが國のありのままの姿が描かれてゐるからです。</b></font>出光自身がつねに述べたごとく、觀念・イデオロギーの奴隸とならず虚心坦懷に日本をながめれば、だいたい引用文のやうな認識に至ります。そしてその考へは、本居宣長・井上毅らの系譜につらなる傳統的思想でもあるのです。<br><br><br>　　それにしても、出光はどこでそのやうな正しい認識をもったのでせうか。『ウィキペディア』によると、出光は小學生のときに眼病と神經症とを患ったといひます。さうだとすれば、あまり讀書はできなかったでせう。それにもかかはらず、正しい日本國家觀を身につけてゐた。やはり、本を讀みさへすればよいといふわけではなささうです。<br><br><br><br><br><br><br>　　さて、出光がたびたび口にした「人間尊重」といふ言葉は、言ひ換へれば「人權尊重」であります。そして<font color="#FF0000"><b>人間尊重の思想は、天皇が代々うけついでこられた思想でもあるのです。觀念・イデオロギーにとらはれないといふことも、天皇の一大特徴であります。</b></font><br><br><br>　　イデオロギーが一番になってしまふと、それのために人間を犧牲にしてもかまはぬ、といふ考へにゆきついてしまひます。たとへば、共産主義はもともと人民のために生み出された觀念であるはずです。それにもかかはらず、共産主義の名の下に、いったいどれほどの人民が生命を絶たれてきたか。みなさんも、よく御存じのはずです。<br><br><br>　　ほかの例をあげると、國家財政の均衡やら構造改革やらを《原理主義的に》信じる人々は、かれらが信奉する觀念こそが大切なのであって、それさへ守られれば、國家や國民がどうならうと知ったことではありません。<br><br><br>　　ことほど左樣に、およそ原理主義とは、人間に害をもたらす危險思想なのです。<font color="#0000FF"><b>そんな危險思想に天皇といふ國のトップが染まらず、むしろ人間尊重の思想をもちつづけてこられたといふことが、われら下々の者にとって、どれほどありがたいことであるか、考へたことがおありですか？</b></font>　天皇統治のありがたさを、觀念的にではなく具體的に《實感》できるところは、ひとつにはその點にあります。<br><br><br><br><br><br><br>　　天皇の基本思想は、初代神武天皇のみことのりに、はっきりと記されてをります。<br><br>「それ大人（ひじり）制（のり）を立てて、義（ことわり）必ず時に隨ふ。<font color="#FF6600"><b>苟（いやし）くも民（おほみたから）に利（かが）有らば、何ぞ聖（ひじり）の造（わざ）に妨（たが）はむ。</b></font>」（『日本書紀』神武天皇、即位前紀、己未（きび）三月條）<br><br>【譯】<br>そもそも聖人は制度を立てるものだが、その意義はことごとく時勢にかなふ。<font color="#800080"><b>いやしくも（或る制度・政策によって）民に利益がもたらされるならば、（その制度・政策の實行が）どうして聖人の行爲にたがふであらうか、いやたがはない。</b></font>（したがって、そのやうな制度・政策はためらはずに實行すべし。）<br><br><br>　　人間尊重・人權尊重の主義が、たからかに宣言されてゐるではありませんか。人權觀念の根據を天皇にもとめることがいかに自然なことであるか、おわかりいただけませう。<br><br><br>　　昔の人は天皇のありがたみを自覺してきたからこそ、「ありがたうございます」といふ感謝の氣持を、皇室にたいして持ちつづけてきたのです。現代を生きるわれわれはどうか。<font color="#FF0000"><b>天皇に戰爭責任をかぶせて罪人に仕立てあげ、平氣な顏をしてはゐまいか。わたくしがつねづね、憲法改正の議論はまづ天皇條項から始めよと主張するのは、かくのごとき不忠・恩知らずを清算するためでもあるのです。</b></font><br>（つづく）<br><br><br><br><br>　　最後まで御讀みくださり、誠にありがたうございます。<font color="#0000FF"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<pubDate>Tue, 28 May 2013 09:39:46 +0900</pubDate>
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<title>オリジナルの人權觀念をつくる方法・・・人權觀念は要らない（３）</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br><br>　　わが國に人權觀念は要らないと、いささかショッキングな書き方をしてをります。わたくしの言はんとするところは、《ヨーロッパ起源の人權觀念》が要らないといふことであって、人權が保障されなくてよいといふことではありません。<font color="#FF0000"><b>西洋の人權觀念をそのままコピーして濟ますのではなく、わが國にふさはしい人權觀念をうちたてるべきなのです。</b></font><br><br><br>　　世界中で人權が保障されない現實をあらためるには、國・地域ごとの人權觀念をつくるほかないとおもはれます。<font color="#0000FF"><b>そこに住む人々が心から信じられる物語（フィクション）としての人權を、オーダーメイドでつくりあげるのです。</b></font><br><br><br>　　イスラム教文化圈はイスラム教にもとづいた人權觀念を、支那は支那にふさはしい人權觀念を、一からつくるべきであります。それが可能であるか否かは問題になりません。ヨーロッパ起源の人權が無力でしかない以上、ほかに道がないからです。<br><br><br><br><br><br><br>　　前囘の記事においてもすこし述べましたが、<font color="#FF6600"><b>わが國にふさはしい人權觀念をうちたてる方法としては、宗教に據り所をもとめるものと、天皇に根據をもとめるものとがあります。</b></font><br><br><br>　　わが國が佛教國家であることは、議論の餘地のない眞實です。「えっ？　そんな自覺は無いよ」と感じる人が多いでせうが、それは自覺が無いだけであります。すこし眞面目に歴史を調べてみれば、すぐにわかります。<br><br><br>　　<font color="#800080"><b>歐米諸國がキリスト教國家であることと同じく、わが國は佛教國家なのです。</b></font>たとへば、方々で人氣の高い《もったいない（勿體ない）》といふ言葉は、もともと佛教用語であります。人間・世間といった言葉も、佛教を起源にもつ言葉です。たまたま手近にあった、松原哲明『暮らしに生きる禅の言葉』（PHP出版社）を見ると、日常的につかはれる１００の佛教用語が記されてをります。使ひ慣れた言葉ばかりです。<br><br><br>　　わが國を古今東西にわたって調べれば、佛教國家と言はれても何の違和感もなくなります。むしろ、當然だと感じられるでせう。<font color="#FF0000"><b>わが國が人權觀念の根據を佛教にもとめるのは、何ら不思議なことではないのです。</b></font><br><br><br><br><br><br><br>　　人權觀念の據り所を天皇にもとめることにも、違和を感じる人があるやもしれません。が、それもをかしなことではないのです。きはめて自然なことであります。次はそれについて述べたいのですが、その前に、<font color="#0000FF"><b>宗教的な人權觀念の弱點について、考へてみませう。</b></font><br><br><br>　　ヨーロッパ流の説明では「人權とは神からあたへられた權利である」と、事もなげにいふのですが、世界をみまはしてみると、そんなものは繪に書いた餠であることがすぐにバレてしまひます。<br><br><br>　　<font color="#FF6600"><b>そもそも「神」と言っても、肝腎のヨーロッパ人たちがもはや神をあまり信じてゐないのです。</b></font>信じてゐないといふか、神について論ずることじたいを快しとしません。それは世俗化の結果であります。また、宗教をめぐって悽慘な殺し合ひまでやったので、「もう宗教はこりごり」といふのが、彼らの本音なのです。（アメリカは、また事情が異なります）<br><br><br>　　本家本下のヨーロッパにおいてさへ、「神」とはそんなものなのですから、それを他の地域でも信じろといふ方がをかしい。<br><br><br>　　さらに、「生まれながらにあたへられた人權」と言ったところで、ほとんどそれが保障されてゐない地域があることは變りません。<font color="#800080"><b>生まれた時代・地域によって、或る人は人權が保障され、別の人はほとんどそれが保障されない。この現實のどこに、「生まれながらに人權があたへられた」とみなす根據があるのか？</b></font><br><br><br>　　つまり、「生まれながらに～」式の説明は、現實との乖離がはなはだしいのです。それは、イスラム教的な説明や佛教・神道的な説明をしてみたところで、同じであります。<font color="#FF0000"><b>キリスト教・イスラム教・佛教のそれぞれから人權觀念をみちびきだしたとしても、人權が保障されてゐない地域が出てしまふことは避けられません。</b></font><br><br><br><br><br><br><br>　　なぜ、人權が保障される地域とされない地域とに分れてしまふのでせうか？　それらを分ける分水嶺は、どこにあるのでせうか？<br><br><br>　　それらの疑問を解くカギは、政府（統治機構）の存在にあります。<font color="#0000FF"><b>まったうな力・見識をもった政府のもとにある地域においては、人權が保障されます。統治能力をもたない政府や、力があってもそれを惡用・濫用するやうな政府のもとでは、人權が侵害されます。</b></font><br><br><br>　　無政府状態において、まったく人權が保障されなくなるのは、わかりやすい道理です。生命を脅されたとしても、救濟を求めることはできません。訴へる先がないからです。<br><br><br>　　無政府状態とまではゆかなくとも、一定の地域を排他的に支配する力をもたない政府ならば、その地域に住む人々はやはり苦しみます。内戰状態にある國の民がひどい目にあふのは、そのためです。例をあげるまでもないでせう。<br><br><br>　　次に、確乎とした統治能力をもつ政府であっても、まったうに統治しようとする氣のない政府であれば、人權侵害がおこなはれます。そのタイプの國は、何と言っても中華人民共和國です。みなさんもよく御存じのとほり、かの國においては人權なんぞあってないやうなもの。地位・財産がなければ、人間としてまともに扱ってくれません。<br><br><br><br><br><br><br>　　<font color="#FF6600"><b>政府が人權を侵害するものであることは確かです。が、それと同じく、人權を保障して民に安寧をもたらすものも、また政府なのです。</b></font>その點をふまへない人權論議は、すべて夢物語であり、現實にはたらきかける力をもたぬ主張であります。<br><br><br>　　わが國においては、歴史をつうじて、人權がおほむね保障されてきました。困難な時代にあっては制限をうけましたが、それは仕方のないところ。それでは、<font color="#800080"><b>なぜわが國で人權が保障されてきたかといへば、政府が充分な支配力をもち、それなりにまったうな統治をしてきたからです。</b></font><br><br><br>　　では、なぜわが國の政府は（支那と違って）まったうであったのか？　<font color="#FF0000"><b>天皇がつねに在（いま）し、精神的な統治作用を國中におよぼしてをられたからであります。</b></font><br>（つづく）<br><br><br><br><br>　　最後まで御讀みくださり、誠にありがたうございます。<font color="#0000FF"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<link>https://ameblo.jp/a-frog-in-the-ocean/entry-11538002168.html</link>
<pubDate>Sun, 26 May 2013 07:47:00 +0900</pubDate>
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<title>日本人が信じられるフィクションを・・・人權觀念は要らない（２）</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br><br>　　前囘の記事において「人權觀念とは歴としたフィクションである」と申しました。そして「重要なのは、そのフィクションを本氣で信じられるかどうかである」とも書きました。<br><br><br>　　わたくしの問題意識として常にあるのは「國や地域によって、人權（といふか人間）が尊重されてゐないところがあるのはなぜか？」といふことです。<font color="#800080"><b>人權觀念が普遍的であるとするなら、程度の差こそあれ、世界中で《それなりに》人權が保障されてゐなければならないはずです。しかしながら、現實はさうなってゐない。</b></font><br><br><br>　　たとへば支那人は、人間としてろくに尊重されてをりません。一億人や二億人死んだところで問題は無い、と考へるのが支那の傳統的思想であります。また、イスラム教文化圈においても、一般的な人權觀念がうすいやうに見受けられます。<br><br><br>　　<font color="#FF0000"><b>それらの現状をふまへると、人權觀念が普遍的であるとみなす方が誤りではないかとおもはざるをえません。</b></font>世界の方が誤りなのではなく、人權觀念の方が誤りなのではないか？<br><br><br>　　誤りといふ表現がふさはしくなければ、かう言ひ換へませう。<font color="#0000FF"><b>人權觀念が、人々をして信じさせる力をもたない</b></font>、と。人權がフィクションであることは確かです。そのフィクションを世界の人々が信じないからこそ、尊重もされないのではありませんか。<br><br><br>　　同じフィクションであっても、國家や民族といったものは信じるけれど、人權觀念は信じない（日本はむしろその逆？）。それが世界の標準でありませう。ヨーロッパは人權觀念の發祥地ですから、それが信じられてゐるのは當り前です。<font color="#FF6600"><b>ほかの地域で信じてくれなければ、普遍的價値をもつとは言へません。</b></font><br><br><br><br><br><br><br>　　人權が尊重されてゐるかのやうに見えるわが國においても、事情は似たり寄ったりかもしれません。倉山滿氏の『誰が殺した？  日本国憲法！』（講談社）の第一章は「最高裁は人權を守らない」と題して、いかに裁判官の人權觀念がうすいかを論じてをります。<br><br><br>　　倉山氏の言ふごとく、わが國においても人權觀念は信じられてゐないのです。裁判官たちは、信じるフリをするだけであります。それでは、なぜ人權が信じられてゐないのか？  繰返しになりますが、それはわれわれが日本人だからです。<br><br><br>　　<font color="#800080"><b>全知全能の神が人權をあたへたといふ物語を、日本人は信じられないのです。</b></font>唯一絶對神を信仰する排他的・非寛容な宗教を、われら日本人は受けつけません。生理的に無理なのだとおもはれます。歴史に照らしても明らかです。<br><br><br>　　信じられないのにもかかはらず、それを信ぜよと憲法に書いてある。しかたがないから、信ずるフリをする。それが、わが國の現状ではないでせうか。ふだんは人權尊重をさけぶ人（左翼）が、みづからと異なる思想信條の持ち主（右翼）にたいしては、途端に偏狹になって、表現の自由を侵害することがあります。その例こそ、人權觀念が信じられてゐない何よりの證據です。<br><br><br>　　信じるとすれば、それは取引の材料とか、方便とか、その限りにおいて信ずるにすぎません。人權觀念をつかった方がオトクだからつかふけれども、その價値は信じないのです。<br><br><br><br><br><br><br>　　これはわたくしの危惧なのですが、<font color="#FF0000"><b>日本國憲法が施行されて戰後的價値といふものが一般的になるにしたがひ、むしろ人間が輕視されてゐるやうな氣がしてなりません。</b></font>昔の方が、まだ人間が尊重されてゐた。貧しさからくる不便はありましたが、人間を輕んじる傾向はなかったとおもはれます。それが今では、人間輕視のオンパレードです。<br><br><br>　　ふつうに考へれば、人權觀念が定着すればするほど、人間は尊重されるはずであります。が、現實は逆です。不思議なものであります。<br><br><br>　　いや、不思議でも何でもありません。<font color="#0000FF"><b>信じられないことを無理に信じようとしたり、信じるフリをしたりするから、むしろ中身がうつろになり、形骸化するのです。</b></font>人權尊重といふスローガンだけはやかましく、その中身については空虚になる一方・・・・・・。<br><br><br><br><br><br><br>　　われわれはいい加減、人權觀念に見切をつけるべきなのです。そんなものを後生大事に抱へつづけても、幸せにはなれません。それでは、いったいどうすればよいのか？<br><br><br>　　簡單なことであります。<font color="#FF6600"><b>ヨーロッパ起源の人權觀念に別れを告げ、われら日本人が心から信じられるやうなフィクションをあらためて考案し、人權を規定しなほすのです。</b></font>つまり、われわれの言葉をもって人權を語りなほすのです。外國の人權觀念ではなく、《わが國の人權觀念》を定めるのであります。<br><br><br>　　ただし、ヨーロッパの人權觀念とわが國のそれとは、保障される中身は同じです。思想良心の自由からはじまる諸權利を保障する、といふところは變りません。<font color="#800080"><b>異なるのは、その出處來歴・根據をどこに置くのかといふところです。</b></font>そこが信じられるかどうかによって、人權が保障されるか否かが決まります。<br><br><br>　　ヨーロッパにおいて、人權が保障される根據は全知全能の神に求められます。神が人權をあたへたのであるから、それを侵害してはならない、といふ理論構成をとるわけです。しかし、わが國にはその手がつかへません。<br><br><br>　　<font color="#FF0000"><b>わが國においては、宗教ならば佛教が、人權保障のよりどころとなりませう。</b></font>排他的な宗教ではありませんし、教義がきちんとしてをります。日本佛教の獨自性である《山川草木悉有佛性》から、人間尊重を導きえますし、環境保護も根據づけられます。言ふまでもなく、神道からも何らかの根據づけができます。いろいろな案があってしかるべきところです。<br><br><br>　　<font color="#0000FF"><b>人權保障の根據を宗教に頼らないとするならば、天皇を人權保障の根據にすゑるべきであります。</b></font>ただし、ここで言ふ天皇とは、「すめらみこと」ではなく「すめろき」の方です。前者は個人としての天皇であり、後者は天皇といふ存在そのものであります。詳しくは、またの囘にいたしませう。けふの結論は、これであります。<br><br>「<font color="#FF6600"><b>われら日本人が心の底から信じられるやうな人權觀念を、日本人みづからの言葉で語るべし。</b></font>」<br>（つづく）<br><br><br><br><br>　　最後まで讀んでくださり、誠にありがたうございます。<font color="#800080"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<pubDate>Sat, 25 May 2013 08:10:12 +0900</pubDate>
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<title>人權といふフィクション・・・人權觀念は要らない（１）</title>
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<![CDATA[ <font size="3">『人氣ブログランキング』に參加してをります。一日一囘、クリックを御願ひいたします。<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a><br><br><br><br><br>　　<font color="#800080"><b>わが國には、human rights （人權）といふ觀念は要りません。</b></font>そんなことを言ふと、氣違ひか獨裁者だとおもはれさうですが、どうか早合點なさらず、後の文をじっくり御讀みください。さすれば、わたくしの言はんとすることがわかっていただけるはずです。<br><br><br><br><br><br><br>　　人權概念は、近代ヨーロッパで誕生いたしました。それは周知のことです。それでは、なぜ近代ヨーロッパなのでせうか？　これから、ちょっと考へてみます。<br><br><br>　　理由はいくつかありませう。第一に、<font color="#FF0000"><b>そこがキリスト教文化圈であったから</b></font>、といふことが擧げられます。<br><br><br>　　<font color="#0000FF"><b>人權は、全知全能の神（Mighty God）によって萬人にあたへられた</b></font>といふことになってをります。つまり、きびしい一神教のもとで生まれたのが人權といふ觀念です。言ひ換へれば、一神教に支配されない地域では、人權觀念は生まれてこなかったと考へられます。<br><br><br><br><br><br><br>　　さうなると次に湧いてくる疑問が、「なぜキリスト教文化圈だけで？」といふものであります。なにゆゑにイスラム教文化圈ではなく、キリスト教文化圈において人權觀念が生まれたのでせうか？<br><br><br>　　おもふにそれは、啓蒙思想のおかげです。世俗化と言ってもよい。<font color="#FF6600"><b>それまで教會に隸屬するだけの存在とみなされてきた人間を解放し、自由獨立の存在にとらへなほしました。</b></font>それにより、人間を大切にする思想が生まれ、人權觀念につながったものと思はれます。<br><br><br>　　隸屬からの解放としては、絶對君主からの解放も含まれます。<font color="#800080"><b>それまでは君主の財産・奴隸にすぎなかった人民を、尊嚴のある主體としてとらへなほしたのです。</b></font>かくのごとく、何者かに隸屬すべきものとされた人間を解放し、尊嚴をあたへたのが啓蒙思想であります。<br><br><br>　　かたや、イスラム教文化圈で世俗化がおこったのは、かなり最近のことであります。トルコの世俗化が有名です。ただし、いまだ世俗化してゐない地域もあります。（もちろん、世俗化してゐないことを一概に惡とみなすべきではありません。）<br><br><br>　　今に至るも、イスラム教文化圈においては人權觀念が稀薄であるやうです。實體はさだかではありませんが、西洋人はそのやうに批判してをります。結局のところ、イスラム教文化圈では人權といふ觀念がつひに生まれなかったといふことでせう。（もちろん、それが惡いことであるかどうかは、一概に申せません。）<br><br><br><br><br><br><br>　　まとめると、<font color="#FF0000"><b>一神教であるキリスト教文化圈において、啓蒙思想による世俗化がすすんだために、人權觀念が生まれた。</b></font>さういふことになります。<br><br><br>　　しかしながら、ここでわたくしは疑問を感じます。世俗化とは脱宗教化のことであり、それは謂はば、神からの解放であります。<font color="#0000FF"><b>神からの解放を言ひながら、神によって人權がア・プリオリにあたへられたとみなすのは、蟲がよすぎるのではないでせうか。</b></font>神を頼らないと言ったその舌が乾ききらぬうちに、人權が神からあたへられたと強辯する。何といふか、矛楯したものを感じます。胡散臭いともおもひます。<br><br><br>　　じっさい、<font color="#FF6600"><b>歴史をふりかへると、人權觀念がつよかった時代・地域においては、逆に人權が保障されてきませんでした。</b></font>フランス革命がよい例です。自由・平等・博愛（Liberté, Égalité, Fraternité）と、美徳がつけ加へられるにしたがって、なぜか虐殺もエスカレートしてゆきました。ほかにもソ聯の例など、枚擧に暇がありません。<br><br><br>　　神への信仰がますますあつくなり、その結果として人權觀念が生まれてきたのならともかく、事實はその逆でした。<font color="#800080"><b>世俗化・脱宗教化した地域で、とくに人權がさけばれてきた</b></font>のです。しかも、さけぶわりには人權蹂躙がはなはだしくおこなはれた。<br><br><br><br><br><br><br>　　<font color="#FF0000"><b>人權とは、一種のフィクションであります。神によって先天的にあたへられたものとみなすのは、立派なフィクションのひとつです。</b></font>神がそんな權利を人間にあたへたところを見た人は、誰もをりません。想像の産物なのです。<br><br><br>　　以前から「想像の共同體」とか「創られた傳統」とか言って、國家・國民などの概念がフィクションであることを暴きたがる人が大勢をりますね。そっち方面のフィクション性は大騷ぎするのに、人權觀念のフィクション性には頬かむりです。<br><br><br>　　もちろん、フィクションであることが即、惡いことになるわけではありません。それじたいは善惡を離れた中立的なものです。<font color="#0000FF"><b>問題は、そのフィクションを本氣で信じられるかどうかであります。</b></font>信じられるならば、それを大いに使へばよろしいのです。<br><br><br>　　人權觀念を、本氣で信じられますか？　それはつまり、<font color="#FF6600"><b>全知全能の神（Mighty God）からあたへられたのが人權である、といふ物語を信じられるかどうかにかかってをります。</b></font><br><br><br>　　ただ、日本人は一神教的な世界觀を嫌ひます。排他的で嚴格な宗教ではなく、八百萬の神々をゆるく信じてをります。わが國でキリスト教徒の割合が増えないことが、なによりの證據です。<font color="#800080"><b>キリスト教は、日本人になじまない宗教なのです。</b></font><br><br><br><br><br><br><br>　　わたくしは信じるフリをしたくないから正直に申します。キリスト教は信じられません。逆立しても無理です。それゆゑ、神からあたへられたとされる人權も信じません。そもそも全知全能の神からして、わたくしにとっては「？」であります。<font color="#FF0000"><b>むしろ『古事記』に登場するやうな、《神のくせに占ひをしてしまふ神》の方に親近感を感じます。</b></font><br><br><br>　　みなさんはいかがですか？　キリスト者ならば人權といふフィクションも信じやすいでせう。西洋人が人權觀念を信じる（フリをする？）のは、かれらがキリスト教徒だからです。<br><br><br>　　日本人のみなさんは、キリスト教徒である人をのぞき、人權觀念を本氣で信じることはできますまい（わたくしと同じく）。それでしたら惡いことは言ひません。<font color="#0000FF"><b>人權觀念なんぞを信じるのはおやめなさい。信じてもゐないことをあたかも信じてゐるかのごとく僞るのは、精神衞生上、まことによろしくありません。</b></font>素直になってください。<br>（つづく）<br><br><br><br><br>　　最後まで讀んでくださり、誠にありがたうございます。<font color="#FF0000"><b>本ブログの活動を認めてくださるかたは、ぜひこのボタンをクリックしてください。日々の勵みになります。</b></font><br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fimage.with2.net%2Fimg%2Fbanner%2Fbanner_23.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1388221" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></font><br>
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<pubDate>Fri, 24 May 2013 06:55:28 +0900</pubDate>
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