<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>幸せで一杯のバスケット　（アルーナ・バイアースさんのチャネリングの課題）</title>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/abasketfulofhappiness/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>私は、２０１０年１２月１日午後１時から、山川紘矢氏・亜希子氏のご自宅で、アルーナ・バイアースさんのチャネリングを受けました。その時、自分が幸せだと思うことを書きとめ、そのメモでバスケットをいっぱいにするように言われました。このブログはそのバスケットです。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>アメブロ書けない幸せ？！</title>
<description>
<![CDATA[ 最近仕事に追われ過ぎで、アメブロに日記を書けない。<br>失業率○○％とか言われる時代に、仕事があることは幸せで、<br>なおかつ、その仕事が暇ではなく、忙しいことは<br>とっても幸せなことなのだろうな、と思います。<br><br>私は、アメブロに日記を書けないほど仕事に追われていて<br>今、とても幸せです。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11205732580.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Mar 2012 01:00:24 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>人間の存在の３つのサイクルを知る幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>その瞬間のムードにのる&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br>&nbsp; <br>&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　人間の存在には３つのサイクルがある。ひとつめは肉体的なものだ。それは一巡するのに23日かかり、病気に対する抵抗力、体力、調整、身体のそのほかの基本的な機能、そして肉体的に健康であるという感覚を含む広範囲な肉体的要素に影響する。<br>　ふたつめのサイクルは感情的なものだ。それは、女性のからだが生理になるのに28日かかるように、一巡するのに28日かかる。ちょうど科学も、男性にも月ごとの生理のようなものがあり、それは28日ごとに起こることに気づきつつある。女性の生理は目に見えるし、肉体的なものだ。男性の生理は目に見えないし、肉体的なものではなく、より心理的、より情緒的なものだが、それは起こる。感情のサイクルは、創造性、感受性、精神面の健康、ムード、世界と自分自身に関する知覚力を支配する。<br>　女性は生理のとき、3、4、5日間はみじめで、悲しく、否定的で、元気がなく、死んだようで、ひじょうに落ち込んだ感じがして、神経過敏で、動揺している。だが、女性はそれに慣れるようになる。というのも、それははっきり目に見えるものだからだ。だんだん彼女たちはそうでなければならないことを理解し、やがてそれほどみじめではなくなる。それは毎月のことであり、はっきり目に見えるものだから、ことは落ちつく。だが、男性の問題はもっとむずかしい。生理はあるが---男性の生理---だが、それは目に見えないので、どこからそれがやって来て、いつ終わるのかわからない……。</p><p>　そして最後に、３つめのサイクル。３つめのサイクルは知的なサイクルだ。それは33日ごとに起こる。それは、記憶、気づき、知識的・論理的なものに対する受容性、そして分析的働きを支配する。それぞれの周期の前半はポジティヴで、後半はネガティヴだ。ときにはネガティヴな時期にあなたが生理をむかえ、相手はポジティヴな時期にむかえることもあり、またその反対もある。３つのサイクルすべてがポジティヴなとき、喜びとエクスタシーのピークが起こる。そして３つのサイクルすべてがネガティヴなとき、人は地獄に生きる。天国とは３つすべてがポジティヴな時期にあるという意味で、地獄はもう一方の端だ。そして、その両方から自由であることがニルヴァーナ、モクシャ、絶対の自由……。</p><p>　あなたはただ自分の時期を理解しなければならないだけだ。そして、もう少し気づいていなければいけない。これらのネガティヴな時期について日記をつけるようにしなさい。3、4ヶ月のうちに、自分の図表をつくることができるだろう。そうすれば、来週の月曜日は悪いムードになるだろうと推測できるから、気をつけていればいい。</p><p>　昔、ヨーギはそういう図表をつくっていた。バイオリズムの科学はよく知られていて、ヨーガとスーフィーのスクールでは実践されていた。そして、これらの図表はひじょうに役に立った。というのは、もし月ごとの最初の週にひじょうにひじょうにネガティヴになることがわかったら、いくつかのことを避けることができるからだ。その第１週には、あとで後悔することになるどんなこともしないこと??争わないこと、怒らないことだ。それらの図表にほんとうに従う人たちは、部屋から出ない。彼らは、その7、4、3日のあいだはなにもしない。なぜなら、なにをしようと、よくないことになるからだ。</p><p>　そののちに、ポジティヴなムードがやって来るのがわかる。それがかかわりを持ち、人びとのところに行き、会うときだ。そして、なにひとつうまくいかないということがない。あなたはまったく違った状態にある。だから、明日の朝から日記をつけなさい。が、私は、日記であらゆる細部まで書かなければいけないとは言っていない。ただネガティヴとポジティヴなムードの日記---午前、午後、夕方、夜---４回だ。毎日どんなふうに感じていたかを３ヶ月間記録しなさい。それから図表をつくる。ちょっとその図表を見てごらん。ポジティヴなときに瞑想し、愛し、歌い、踊り、泳ぎに行き、人びととかかわり、なにか創造的なことをするべきだ。そうすれば、あなたは多くの恩恵をこうむるだろう。というのは、そのような瞬間には、突然神に手がとどくからだ---あなたはすぐ近くにいる。　あなたがネガティヴなムードにあるときは、なにもしてはいけない……ただ必要なことだけ。そして、マインドにはなにか原因を見つけ出そうとする傾向があるが、どんな原因もさがしてはいけないということを覚えておきなさい。原因はあなたのなかにある。</p><p>　このやり方で見守ると、６ヶ月、８ヶ月のうちに、あなたは目撃者になれるようになる。そうなったら、あなたはなににも邪魔されない。そうなったら、それはただ自然の一部なのだということがわかる。<br>&nbsp;&nbsp; <br>&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br>Don't Just Do Something, Sit There&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<br>&nbsp;&nbsp;&nbsp; </p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11199788610.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Mar 2012 23:12:07 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ダイエットして痩せたい時に内側を見る幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>【 痩せたかったら、内側を見よ 】&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br>&nbsp; <br>&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　私はなぜ食べ続けてしまうのでしょうか。でも、本当の質問はこれじゃないんです。もっと何かが、何か別のものがあるんです。おかしいかもしれませんが……<br>----------------------------------------<br><br>&nbsp;&nbsp;&nbsp;いや、そうやって判断してはいけない。おかしいと言う時、あなたはすでにそれを非難してしまった、そしてそのことも問題と関係があるかもしれないのだ。それではどんな問題からも脱け出すことはできない。ものごとを名づけたりしないで、それを理解しようとしてごらん。</p><p>　人が食べ過ぎてしまう時、それはその底流にある何かの徴候だ。</p><p>　食べ物というのはいつも愛の代用品だ。愛のない人、どこか人生で愛が欠けている人は、今までよりもっと食べるようになる。それが愛の代用品だからだ。</p><p>　子どもが生まれた時、最初の愛と最初の食べ物は同じではないだろうか？　つまり母親だ。それで食べ物と愛には深い関係があるのだ。実のところ、食べ物が最初にやってきて、それから愛がついてくる。まず子どもは母親を食べる、そうして彼はだんだんと、母親はただ食べ物というだけではなくて、自分を愛してくれてもいるのだ、ということに気づく。もちろんそう気づくためには、子どもはある程度成長していなくてはならない。最初は、子どもは愛を理解することができない。食べ物という言語なら理解できる、すべての動物にとって自然で原始的な言語だからだ。子どもは飢餓とともに生まれてくる。すぐに食べ物が必要だ。愛が必要になるのはもっと後になってからだ。それはそんなに急を要することではない。一生の間、愛なしで生きることもできるが、食べ物なしで生きられるだろうか？　それが問題を作り出す。</p><p>　だから子どもは、食べ物と愛の関係に気づくようになる。子どもはだんだんと感じるようにもなる。母親がとても愛に満ちている時、彼女の乳房の与え方は特別だ。そして愛ではなく、怒りや悲しみに満ちている時には、しぶしぶと乳房をくれるのだ。全くくれない時だってある。それで子どもは母親が愛してくれている時、食べ物が手に入る時はいつでも、愛も手に入るということに気づくようになる。食べ物が手に入らない時はいつも、愛も手に入らないと子どもは感じるし、その反対もそうだ。これが無意識の中にあることだ。</p><p>　どこかであなたは愛のある人生を恋しがっていて、それで食べ過ぎるのではないだろうか。それは代用品なのだ。あなたは食べ物で自分を満たし続け、内側に隙間を残さない。だから愛は必要ではなくなる。どこにも隙間が残っていないからだ。それに食べ物なら事は簡単だ、食べ物は死んだものだからだ。好きなだけ食べ続けることができるだろう？　食べ物はいやだとは言わない。食べるのを止めても感情を害したなどとは言わない。食べ物についてはあなたが主導権を握っていられるのだ。</p><p>　けれども愛の中では、あなたはもう主導権を握ることはできない。あなたの人生に他者が入ってくる、そして依存が入ってくる。あなたはもう独立したままではいられない。それは恐ろしいことだ。</p><p>　エゴは独立していたいと思う。エゴはあなたに愛することを許さない。許すのはもっと食べることだけだ。あなたがもし愛したいのであれば、エゴを落とさなくてはならない。</p><p>　食べ物が問題なのではない。食べ物は単なる徴候にすぎないのだ。だから私は食べ物のことや、ダイエットをしたり何かをしたりするようにとは言わない。それでは助けにならないだろうし、効果がないからだ。あれこれとやってみてもいいが、それでは何も変わらないだろう。だから私はその代わりに、食べ物のことは忘れて好きなだけ食べ続けるように、と言うのだ。</p><p>　愛のある生活を始めなさい、恋をしなさい、あなたが愛することのできる人を探しなさい。そうすればあなたはすぐに、自分がそんなに食べなくなるのに気づくだろう。</p><p>　観察したことがあるだろうか。幸福な時には、あなたは食べ過ぎたりしない。悲しい時には食べ過ぎる。幸福だと食欲も旺盛だと人は思うだろうが、それは全くばかげている。幸せな人はとても満ち足りていて、内側がいっぱいになっているのを感じる。不幸な人は自分の中に食べ物を放り込み続けるのだ。</p><p>　だから食べ物のことには触れないでおこう……今のままでいなさい、でも恋人を見つけること。</p><p>Above All, Don’t Wobble</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11193924679.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Mar 2012 23:48:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>マインドと病気の関係性を知る幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>&nbsp;マインドと病気——催眠と健康&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; <br>&nbsp; <br>&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　病気の70パーセントはマインド志向だ。これらの病気は生じる前に催眠を通して防ぐことができる。催眠を通して、近い将来にどういう種類の病いが起こることになるのかを調べることができる。身体にはどのような兆候もない。定期的な健康診断では体調を崩したり病気になったりするような兆しは見られない。まったく健康なのだ。</p><p>　だが、催眠を通して、３週間以内に病気になることがわかる。身体になにかがやって来る前に、それはすべて深い宇宙無意識から来ているからだ。それはそこから集合無意識へ、無意識へと旅をして、その後、意識しているマインドにまで来て初めて、検査して身体のなかに見つけることができる。</p><p>　自分は病気になると思い当たる前ですら、病気を防ぐことができるのだ。</p><p>　ロシアで、ひとりの天才的な写真家、キルリアンは、人の写真をも撮っている……。彼はひじょうに感度の高い感光板、高感度レンズを使用して、普通の目と普通の機材ではとらえられないなにかを見つけるために、生涯、写真の仕事をしてきた。そして、少なくとも６か月先のことを写真で見ることができることに当惑した。<br>　彼がバラのつぼみの写真を自分の特殊な感光板で撮影すると、写っているのはバラのつぼみではなく、写っているのはバラの花なのだ。翌日、それはバラの花になる。そんな奇跡は他のどのカメラでもなしえない。</p><p>　まだ起こってもいないことをどうして感光板が写真に撮ることができるのか——そして翌日、そのつぼみが開くと、それは写真とまさにそっくりで、違いはまったくないことに、まず彼自身が当惑した。</p><p>　その後、彼は、つぼみを取り巻くある種のオーラがあることをますます発見していった——まさにエネルギー･オーラであり、そのエネルギー･オーラが、つぼみはどのように開くのかという全プログラムを持っている。感光板は、私たちが裸眼では見ることのできないそのエネルギー･オーラの画像をとらえる。その後、彼は病気に取り組むようになり、ソヴィエト医学に革命をもたらした。</p><p>　まず病気になって、それから癒される必要はないのだ。病気だと自分で分かる前ですら、癒されうる。どの部分に病気が現われることになるのかがキルリアン写真で分かるからだ。エネルギー・オーラが病んでいれば、すでに病気だからだ。それは６か月先を行っている。あなたの宇宙無意識とつながっている。</p><p>　催眠と、そのさらに深い実験を通して、起こることになっている病気を見つけることがでるし、それらを治療することができる。</p><p>　子どもたちはもっと幸せになれる。なぜ世界中で、数か所を除き、判で押したように70歳が寿命の考え方となったのかということが、精神分析学者たちの関心事となっている。というのも、カシミールにはいくつかの部族がいて、そこでは人びとがいつも130歳、140歳、150歳まで生きていて、150歳になっても、どの若者とも同じくらい元気だったからだ。彼らはけっして年を取らなかった。死ぬまで若さを保った。</p><p>　ソヴィエト・ロシアのコーカサスでは、そこはヨシフ・スターリンの出身地、そしてジョージ・グルジェフの出身地だが……。コーカサスはほんとうに強い人間を生んできた。人びとが180歳までも生きる狭い地域がある。150年間を過ごした人は何千人もいる。<br>　そこで仕事をしていた私のある友人が、土を耕していた農夫にたずねた。「あなたはいくつですか？」<br>彼は指で数えた。教育を受けていなかったからだ。彼は言った。「180歳くらいかな」<br>　私の友人には信じられなかった——180！　しかも、まだ若い。<br>　彼が町でたずねると、彼らは言った。「彼は正しい。彼のおやじさんは200年生きたし、彼も200年は生きるだろうと私たちは期待しているんだ。死にそう様子はなにも見られないからね」</p><p>　なぜ、ある数か所では人は長生きするが、世界のほとんどでは判で押したように70年しか生きないのか、その理由を見出そうとして、心理学者たちは関心を寄せてきた。</p><p>　ジョージ・バーナード・ショーは70歳になったとき、ロンドンから引っ越した。彼の友人たちは言った。「きみはいったいなにをやっているんだ？　年を取ったら、ここで友人たちと、社会と共にいた方がいい——それに、きみは社会人、文化人じゃないか」</p><p>　彼は言った。「私はここには住めないんだ。私はもう70だ。人は70で死ぬと社会は信じているし、そう信じるのは危険だ！　人びとがそんなことは信じない場所をどこか探すつもりだよ」</p><p>　そして、彼は近くに小さな村を見つけたが、彼がどうやって見つけに行ったかというと、いくつもの墓場に入っていき、どのくらい人びとが生きていたのか、墓石を見たのだ。そして、ある墓場のひとつの墓石に、この人は120歳まで生きたと記されているのを見つけた。しかも、その墓石は次のように語っていた。「彼は120歳で早世した」</p><p>　彼は言った。「暮らす場所はここだ。120歳で死んだ人のことを早世だとみんなが思うんだからね」。そして、彼はそこで暮らし、長生きした。なんとか１世紀を生きた。そして、その墓場では、それがほんとうのところだった。どの墓石にも70歳で死んだ人はいなかった。</p><p>　それはたんに心理的なプログラミングのように思える。何世紀にもわたって私たちはプログラムされてきた……70年間、そして、あなたは終わってしまう。それがあまりにも深く入っているので、あなたは死んでしまう。あなたの身体に生きる力がないからではなく、あなたの心理が「決まっていることに従え。群れに従え」と主張するからだ。そして、他のすべてのことでもあなたは群れに従っている。だから当然、これでもまた、あなたは群れの心理に従う。</p><p>　科学者たちは、人間の身体には少なくとも300年は生きる能力があると言う。それは70年間にわって活力を取り戻しつづけるのとまさに同じように、実際に300年間働きつづけることができる。だが、プログラムが変えられなければならない。科学者たちはプログラムを変えるために様々な方法を考えている。そして、それにはひじょうに長い時間がかかるだろう。彼らは、プログラムは身体の細胞にあると考えているのだ。</p><p>　だから、ちょうど原子を分裂させることができたように、私たちが人間の細胞を分裂させ、そして、そのプログラムを作りなおさない限り、それは遠い先のようだ。というのも、下準備すらまだ始まっていないからだ。</p><p>　だが、生理を経る必要はない、心理を経ればいいというのが私の理解だ。</p><p>　もしあなたの催眠が充分に深く入ったら……あなたがそのなかに入れば入るほど、もしそれが毎日のことになったら、ゆっくり、ゆっくりと、あなたは宇宙無意識に触れることになるだろう。そしてそこに、ほんとうのプログラミングがある。それをあなたは変えることができるのだ。</p><p>　私たちの子どもたちはもっと長く生きることができる、私たちの子どもたちはもっと健康に生きることができる、私たちの子どもたちは老いることなく生きることができる。このすべてが可能だし、私たちはやり遂げなければない、世界に示さなければならない。だが、それは、もし政治家たちが催眠の手法を手に入れたら、彼らはそれを自分たち自身の目的のために使うことになるという意味で、危険だ。</p><p>&nbsp;</p><p>The Transmission of the Lamp<br>&nbsp;&nbsp; <br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11190866283.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Mar 2012 20:48:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>悲しい時の魔法の鍵を手にする幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>魔法の鍵――まず自分とひとつになりなさい&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </p><p><br>　まず、自分とひとつになりなさい。これが「ユニオ・ミスティカ（神秘の合一）」の最初のステップだ。自分自身とひとつになること。そして次の第二にして最後のステップは、存在とひとつになることだ。二番目は簡単だ。最初のものは、多くの条件付け、多くの教育、多くの文明化の努力のために難しくなっている。最初のものは難しくなってしまった。<br>&nbsp;</p><p>　自分自身をそのまま受け容れて、あるがままの自分自身を愛するという、最初のステップを踏み出したなら、いついかなるときでも……。例えば、あなたは悲しい。この瞬間、あなたは悲しい。条件付けのすべてが、あなたに言う、「悲しむんじゃない。それはよくない。悲しむんじゃない。幸せでいなくては」こうして分割が生まれる、こうして問題が生まれる。<br>&nbsp;</p><p>　あなたは悲しい――それがこの瞬間の真実だ。</p><p>　するとあなたの条件付け、あなたの心は言う、「こんなふうになるべきではない。幸せでいなくてはいけない。微笑むんだ！　みんなおまえのことをどう思うだろう？」<br>&nbsp;</p><p>　あなたがそんなに悲しかったら、恋人は去っていくかもしれない。あなたがそんなに悲しかったら、友人に見捨てられるかもしれない。あなたがそんなに悲しかったら、仕事が台無しになるかもしれない。あなたは笑わなければいけない、微笑まなければいけない、少なくとも幸せなふりをしなければいけない。あなたが医者だったら、そしてとても悲しそうだったら、患者たちはいい感じはしないだろう。彼らは幸せそうな、陽気な、健康的な医者を求めているが、あなたはいかにも悲しそうに見える。微笑むがいい――ほんとうの微笑みを浮かべることができないのなら、嘘の微笑みでもいいから、とにかく微笑むのだ。少なくともそのふりをして、演じるのだ。<br>&nbsp;</p><p>　これが問題だ。あなたはそのふりをする、あなたは演じる。あなたはむりに微笑むこともできるが、そのときあなたは二つになっている。あなたは真実を抑圧した、あなたは偽者になった。<br>&nbsp;</p><p>　そして偽者は社会によって賞賛される。偽者が聖者になり、偽者が偉大な指導者になり、偽者がマハートマ（大聖）になる。そしてだれもが偽者に従うようになる。偽者があなたの理想だ。<br>&nbsp;</p><p>　あなたが自分自身を知ることができないのはそのためだ。自分自身を受け容れないのに、どうして自分自身を知ることができようか？　あなたはいつも自分の存在を抑圧している。では、どうしたらいいのか？　悲しいときは、その悲しみを受け容れなさい。これがあなただ。「私は悲しい」と言ってはいけない。悲しみが自分から分離したものであるかのように言ってはいけない。たんに言うがいい、「私は悲しみだ。この瞬間、私は悲しみだ」と。<br>&nbsp;</p><p>　自分の悲しみを生きなさい、まったく正直に。</p><p>　すると驚いたことに、あなたの存在のなかで魔法の扉が開く。幸せそうなイメージなど抱くことなく、自分の悲しみを生きることができたら、あなたはただちに幸せになる。なぜなら、分割が消えうせるからだ。そこにもはや分割はない。「私は悲しみだ」――そこには理想などない、ほかのなにかになるということは。だからそこに努力はないし、葛藤もない。「私はただこれだ」――そこにはくつろぎがある。そのくつろぎのなかに恩恵がある、そのくつろぎのなかに喜びがある。<br>&nbsp;</p><p>　すべての心理的な痛みは、ひとえに、あなたが分割されているから存在する。痛みとは分割のこと、至福とは非分割のことだ。あなたには矛盾しているように見えるだろう。ある人が悲しいとき、自分の悲しみを受け容れることで、どうしてその人は喜びにあふれるようになるのか？　それは矛盾しているように見えるが、そういうものだ。やってみなさい。<br>&nbsp;</p><p>　私は幸せになりなさいと言っているのではない。私はそんなことは言っていない、「幸せになるために、自分の悲しみを受け容れなさい」とは。私はそんなことは言っていない。それがあなたの動機なら、なにも起こらないだろう。あなたはいまだに葛藤している。あなたは横目で盗み見ている。「ずいぶん時間がたったし、私は悲しみさえ受け容れたし、『私は悲しみだ』と言っているのに、まだ喜びがやってこない」それはそんなふうにはやってこない。<br>&nbsp;</p><p>　喜びは目的ではない、それは副産物だ。</p><p>　それはひとつになること、統合の自然な結果だ。この悲しみとただ一体になりなさい、どんな動機もなく、どんな特定の目的もなく。どんな目的も問題外だ。これがこの瞬間のあなたのありようだ、これがこの瞬間のあなたの真実だ。次の瞬間には、あなたは怒っているかもしれない。それもまた受け容れなさい。そして次の瞬間には、あなたはまた別のものになっているだろう。それもまた受け容れなさい。<br>&nbsp;</p><p>　瞬間から瞬間を生きなさい、この上もない受容性とともに、どのような分割もつくりだすことなく。そのとき、あなたは自己認識への途上にある。自己認識とは、ウパニシャッドを読み、静かに座り、「アハム・ブラフマスミ、われは神なり」と唱えることではない。そういったことはみんな愚かしい努力だ。あなたは自分が神であることを知っているか、知らないか、そのどちらかだ。一生、「アハム・ブラフマスミ、われは神なり」と唱えつづけることはできる。その吟唱に一生を費やしても、あなたがそれを知ることはないだろう。<br>&nbsp;</p><p>　あなたがそれを知っているなら、それを唱えることに意味はない。どうしてそれを唱えるのか？　知っているなら、知っている。知らないなら、どうして唱えることで知ることができようか？　それがまったく愚かだということを理解しなさい。<br>&nbsp;</p><p>　だが、それがこの国の、そして同様に他の国々の、僧院やアシュラムで行われていることだ。人びとはなにをやっているのか？　オウムのような繰り返しだ。<br>&nbsp;</p><p>　私はまったく異なるアプローチを提案している。聖書やヴェーダを繰り返すことで、あなたが智者になることはない。あなたは物知りになるだけだ。では、人はどうやって自分自身を知るにいたるのか？<br>&nbsp;</p><p>　分割を落としなさい。分割が問題のすべてだ。あなたは自分自身に対立している。すべての理想を落としなさい。それがこの対立を、あなたのなかにつくりだしている。<br>&nbsp;</p><p>　そんなふうにあるのが、あなたなのだ。それを喜びとともに、感謝とともに受け容れなさい。</p><p>　突然、調和が感じられる。あなたのなかの二つの自己、理想的な自己と現実の自己は、もはや闘おうとしていない。それらは出会い、ひとつに溶け合う。<br>&nbsp;</p><p>　あなたに痛みを与えるのは、ほんとうは悲しみではない。あなたに痛みを与えるのは、悲しみは良くないという解釈だ。それが心理的な問題になる。痛みを与えるのは怒りではない。心理的な不安をつくりだすのは、怒りは良くないという考えだ。それは解釈であり、事実ではない。事実はつねに自由をもたらす。<br>&nbsp;</p><p>　イエスは「真理は自由をもたらす」と言う。それはこの上もなく重要だ。そう、真理は自由をもたらすが、真理について知ることとはちがう。真理になれば、それが自由をもたらす。真理になれば、そこに自由がある。それを持ち込まなくていいし、それを待たなくてもいい。それは即座に起こる。<br>&nbsp;</p><p>　どうやって真理になるのか？　あなたはすでに真理だ。あなたは間違った理想を持っているだけだ。それらが問題をつくりだしている。理想を落としなさい。数日間、自然な存在でいなさい。木々や動物や小鳥のように、あるがままの自分の存在を受け容れなさい。すると深遠な静けさが起こる。ほかになにがありえようか？　そこに解釈はない。そのとき、悲しみは美しいものだ、それには深みがある。<br>&nbsp;</p><p>　そのとき、怒りもまた美しく、それには生命と活力がある。そのとき、セックスもまた美しい。なぜなら、それには創造性がある。<br>&nbsp;</p><p>　そこに解釈がないとき、すべてのものが美しい。<br>&nbsp;</p><p>　すべてのものが美しいとき、あなたはくつろいでいる。</p><p>　そのくつろぎのなかで、あなたはみずからの源泉のなかに落ちて、それが自己認識をもたらす。みずからの源泉のなかに落ちていくこと、それが「なんじ自身を知れ」の意味だ。知識が問題になるのではない、内なる変容が問題となる。<br>&nbsp;</p><p>　そして私はどんな変容について語っているのか？　私はこうあるべしというどのような理想も与えていない。あなたはあるがままの自分を変容させて別人になるべきだ、などと言ってはいない。あなたはただ、それがなんであろうと、あるがままの自分にくつろがなければいけない、そしてたんに理解する。<br>&nbsp;</p><p>　私の言っていることが聞こえただろうか？　そのポイントを理解しなさい。それは自由をもたらす。そして巨大なハーモニー、大いなる音楽が聞こえてくる。それは自己認識の音楽だ。するとあなたの人生は変わりはじめる。<br>&nbsp;</p><p>　あなたはそのとき、すべての錠を開ける、魔法の鍵を手にしている。</p><p>　悲しみを受け容れたら、悲しみは消えうせる。悲しみを受け容れたら、どれだけ長く悲しんでいられるだろう。悲しみを受け容れることができるのなら、あなたはそれを自分の存在のなかに吸収することもできるだろう。それがあなたの深みになる。</p><p>&nbsp;</p><p>Osho, Unio Mystica, Vol. 1, #3 から抜粋<br>&nbsp;<br>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11190203284.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Mar 2012 01:12:30 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>愛に誠実であることの幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>「 愛に誠実でありなさい&nbsp;&nbsp;」<br>&nbsp;&nbsp;<br>&nbsp; Osho，<br>　関係には三段階あるとあなたがおっしゃるのを私は聞いたことがあります??セックス、愛、そして祈り。けれども、もし相手を変えつづけたら、どうして深みに進むことができるのですか？　どうやって最高の段階へ達することができるのですか？</p><p>-------------------------------------</p><p>　この質問は多くの人びとに生じる。人びとは、ひとりの人を愛しているときにだけ愛は深く進むと思っている。それはまったくのナンセンスだ！</p><p>　愛の深みは、ひとりやふたりの人とはなんの関係もない。愛の深みは、確かに、あなたがいつも愛のなかにとどまっていなければならないということとなにか関係がある。それが深みをもたらす。さて、たとえば、あなたがひとりの男性あるいは女性を愛しているとする。２、３日はものごとがほんとうにファンタスティックで、素晴らしく進んでいく。そして、それから、当然のことだが、ものごとは退屈になりはじめる。それには、なにも間違ったところはない。それはまさに自然の成り行きだ。あなたはその女性、彼女のやり方になじんでしまい、彼女はあなた、あなたのやり方、あなたのライフ・スタイルになじんでしまう??そして、あらゆることがわかってしまうと、興味はうすれはじめる。あらゆることがわかってしまい、もうなにも驚かされることがないとき、どうしてその関係がファンタスティックなままでありうるだろうか？　驚きは消えはじめ、ものごとは落ちつき、平凡で、日常的な、ありふれたものになる。これが普通に起こることだ。</p><p>　さて、あなたは、もし男性か女性を変えたら、愛はけっして深くは進まないと考えて、その男性あるいは女性と暮らしつづけることもできる。だが、愛は少しも深く進んでいかない。愛は日々浅くなるばかりだ。遅かれ早かれ、あなたは相手のことをとくに注意を払う必要もない人と思いはじめる。相手がいることにどんな喜びもなく、相手がいることによってスリルを味わうこともない。あなたはしがみつづけることもできるのだ……。</p><p>　だが、あなたがあまりひどくしがみつくと、あなたといっしょにいようという人はいなくなる。というのも、誰も束縛は望まないからだ。あなたが足かせになることなど、誰も望まないからだ。あなたがしがみつけばつくほど、関係は醜くなる。最初に喜びが失せ、あらゆる魅力が失せ、あらゆる磁力が失せ、そして病気に、病的になりはじめる。</p><p>　私がある関係を病的とみなすのは、あなたがしがみつくためだけにしがみつき、ほかにしがみつくものがなにもないときだ。あなたは、失うのをこわがり、変化するのをこわがり、新しい関係に移っていくのをこわがって、しがみついているだけだ。というのも、新しいものは……それがどのように進展していくのか、どこに連れていってくれるのか、誰が知っているだろう。新しいことは危険だ。というのも、新しいことにはまだ慣れていないからだ。古いことには慣れているし、それは安定している。そこにはある安全さが、快適さが、便利さがある。あなたが、しがみつくためにしがみつきはじめると、それは病的で、醜い。それはあなたの関係にどんな深みももたらしはしない。あらゆる深みが消えてしまう。</p><p><br>　さて、私は、もしあなたがある人??ひとりの男性あるいは女性??といて、ものごとが依然として成長していても、変えなさい、と言っているのではない。そんなことは言っていない。私を誤解してはいけない。相手のなかに毎日なにか新しいものを見つけつづけることができるほど、ひじょうに繊細な人びとが少数だがいる。ものごとが終わっているとはけっして感じないほど、ひじょうに審美的な人びとがいる。彼らの感受性、彼らの強烈さ、彼らの情熱は新しい深みをもたらしつづける。そうだとしたら、それはまったく素晴らしい。</p><p>　私の判断の基準は、もし関係が深みに向かって成長しているのなら、それはまったく素晴らしいということだ。だが、もしそれが成長していないのなら、もしそれが深まっていないのなら、親密さがもはや花開いていないのなら、すべてが止まっていて、どう立ち去り、どうさようならを言えばいいのかわからないために、ただ行き詰まっているのだったら、あなたは自分の愛の能力を破壊していることになる。愛を破壊するよりも、動いて、パートナーを変えたほうがいい??というのも、パートナーではなく、愛がゴールだからだ。あなたが人を愛するのは、その人のためではなく、愛のためにその人を愛するのだ。</p><p>　愛がゴールだ。だから、もしその人と起こっていないのなら、ほかの誰かと起こさせてみるがいい。とにかく、起こらせなさい！それが連続したものになるのを許すことだ。その連続、絶えず起こっている愛のその流れが、あなたをそのなかにもっと深く連れていき、深みをもたらし、新しい次元をもたらし、新しい現実化をもたらしてくれる。</p><p>　だから、覚えておきなさい。もしひとりの人とうまくいっていたら……だが、「うまく」で私は、「彼らはいいカップルだ」とか「とてもいい」と誰かが言うときに普通に意味しているものを指しているわけではない。私はそういう意味で言っているのではない。こうした言葉はまさに事実を隠している。だが、ほんとうにいい関係は、ただいいだけではない。それはとびっきりだ！　けっしてそれ以下で落ちつかないことだ。とびっきりの関係だけが深みをもたらす。もしそれが起こっていないのなら、さようならを言うだけの勇気をもちなさい??どんな不平も、どんな恨みも、どんな怒りもなく。あなたになにができる？　もしそれが起こっていないのなら、それは起こっていないのだ。</p><p>　相手にうしろめたい思いをさせることなどできない。彼になにができる？　彼はできることはすべてやっているし、あなたもできることはすべてやっている。それは丸い穴に四角いプラグを押し込もうとしているようなものだ。試しつづけても??それは起こらない。そして、たとえ成功しても、そのプラグをあなたは完全に壊してしまったかもしれないということは大いにありうる。それではなんの価値もない。</p><p>　だが、マインドは条件づけを通して機能する。何千年ものあいだ、ひとりの人に誠実であるべきだと考えられてきた。私はあなたがたにまったく違うことを教えている。私はあなたがたに教えている??人にではなく、愛に誠実でありなさい。愛に誠実でありなさい。けっして愛にそむいてはいけない。それだけだ。もし、ときどき人が変えられなければならないのだったら、変えられなければならない。だが、けっして愛にそむいてはいけない。古い伝統というのは、愛にはそむいても、けっして人にそむいてはいけない、ひとりの人にしがみつけということだ。そして、ものごとが何千年もそこにありつづけると、それはあなたの血や骨の一部、髄の一部になり、あなたは無意識に機能しはじめる。</p><p>　いつの時代も、あなたがたは人に誠実でありつづけるよう教えられてきたが、それにはあまり高い価値はない。より高い価値は、愛に誠実でありつづけることだ。もしそれがひとりの人と起こっているのなら、まったく素晴らしい。私は「変えなさい」とは言っていない---どこに変える意味がある？　もしそれがその人と起こっていないのなら、どこかほかでそれを起こさせなさい。</p><p>　だが、それを起こさせなさい。というのは、もしあなたが愛を逃したら、生における美しいものすべてを逃すからだ。もしあなたが愛を逃したら、祈りの可能性をも逃す。というのも、愛だけが、それが深まるとき、あなたを祈りに近づけるからだ。</p><p><br>I Say Unto You&nbsp; <br></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11189095204.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Mar 2012 00:00:44 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>大震災の特集番組を見ると、涙がこぼれ落ちてくる</title>
<description>
<![CDATA[ あの 2011年3月11日の大震災から、早くも1年がたとうとして、テレビ各社は大震災特集番組を様々に放映している。その番組を見ていると、すぐに涙がこぼれ落ちてくる。<br>約1年前に同じような映像を見ても、涙は出てこなかった。ただ、大自然の驚異に圧倒され、茫然と佇むばかりという心境だったのであろうと、今になって思う。<br>今は、同じ津波の映像を見ると、ただただ涙がこぼれてきて仕方がない。<br>涙を流すことしかできない俺がここにいる。<br><br>ふと見上げれば、目の前に大きな青空が広がっている、などというわずかながらも希望につなげることができる言葉が浮かんでくれば、まだ、少しは救いになるのだが、テレビの映像に釘付けになる俺には、この映像を、涙を流しながら見つめ続けることしかできない。<br>これだけ涙が流れてきているのに、つらさや悲しみをさほど感じずに、ただ涙がこぼれ落ちる。おそらく、俺は、まだ、大震災のつらさや悲しみを感じないようにするために、心のどこかの扉を固く閉ざしたままにしているのかもしれない。ただ、俺の体は、少し自分に正直になってきているので、涙がこぼれ落ちるのかもしれない。<br><br>大自然の驚異の前に、人はただ立ち尽くすことしかできないのだろうか？<br>大自然の驚異に、人は悲しむことはできないのだろうか？<br>大自然の驚異に、人はつらすぎると思うことはできないのだろうか？<br><br>己の魂が、人と言う肉体を宿として、この地球上にとどまっている間は、すべて借り物を使ってこの地球上に存在している。その借り物が、たとえどのようなものであれ、それに対して不平不満が浮かんでこないのは、当然のことなのかもしれない。それを、俺は無意識的に感じているのかもしれない。<br><br>などという思いも、脳裏を横切る。<br><br>でも、やはり、大震災の映像を見るのは、とても悲しい。<br>とてもつらい。<br>涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちてくる。<br>俺は、ただ、ぼろぼろと泣くことしかできない。<br><br><br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11188098074.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Mar 2012 23:47:01 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>否定的なマインドを超越する幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>「否定的なマインドを超越する」</p><p>　ヴィギャン・バイラヴ・タントラは言う、</p><p>　何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。</p><p>　たとえば、喉の渇きを感じる。そこで水を飲む。ほのかな満足が得られる。そ<br>のとき、水を忘れ渇きを忘れるのだ。自分の感じているほのかな満足にひたり、<br>それによって満たされ、ただひたすら満足を感じなさい。<br>　だが人間のマインドはやっかいだ。不満や不足しか感じない。けっして満足を<br>感じない、けっして充足を感じない。もし不満足だったら、それを感じ、それに<br>よって満たされてしまう。もし喉が渇いていたら、それを感じ、渇きに満たされ<br>てしまう。渇きは喉に感じられるが、それが成長すると身体中に感じられるよう<br>になる。さらにやがて、あなたが渇きになってしまう。自分が渇きになったと感<br>じてしまう。もし砂漠のなかにいて、水を得る望みがまったくなかったら、その<br>ときにはきっと「自分は渇いている」というより、「自分は渇きになった」と感<br>じるだろう。<br>　不満が感じられ、苦悩が感じられ、痛みが感じられる……苦しむときにはいつ<br>も、あなたがその苦しみになってしまう。だからこそ生全体が地獄になるのだ。<br>あなたはかつて一度も肯定性を感じたことがない。つねに否定性を感じてきた。<br>生というのは、それほど苦に満ちたものではない。あなたがそれを苦に満ちたも<br>のにしている。苦というのは、我われの解釈にほかならない。仏陀のような人間<br>は、今ここにおいて、まさにこの生において幸福だ。クリシュナのような人間は、<br>踊り、笛を吹く。今ここ、この生のなかで、我われは苦のなかにいるのに、クリ<br>シュナは踊っている。生というのは、苦ではないし、至福でもない。至福も苦も、<br>我われが生を見るときの、その解釈、その態度、その姿勢だ。それはあなたのマ<br>インドが生をどうとるかにかかっている。<br>　さあ、自分自身の生涯についてよく考えてごらん。あなたはいままで、幸福な<br>瞬間というものに気づいたことがあるだろうか――満足、充足、至福の一瞥とい<br>ったものに――。あなたは気づいたことがない。だが、痛み、苦しみ、悩みにつ<br>いては、大いに気がつく。そしてそれを蓄積しつづける。あなたという存在は、<br>蓄積された地獄だ。そしてそれはあなた自身の選択だ。他人によって地獄に突き<br>落とされたわけではない。あなた自身の選択だ。マインドは否定性を拾い上げ、<br>それを蓄積し、それ自体が否定的になる。そうしてそれは永続的な苦となる。マ<br>インドのなかに否定性が増せば増すほど、あなたは否定的になり、さらに多くの<br>否定性が蓄積される。似たものは似たものを引きつける。そしてそれは何生も何<br>生もつづく。この否定的姿勢によって、あなたはいっさいを逃してしまう。<br>　この技法は肯定的姿勢をもたらす。肯定的姿勢というのは、通常のマインドや<br>その作用とはまったく逆のものだ。<br>　何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化する。そ<br>れを感じ、それとひとつになる。それを過ぎゆくものと考えない。その満足は、<br>より大きな肯定性の一瞥となりうる。<br>　すべては窓のようなものだ。痛みと同化することは、痛みという窓から見るこ<br>とだ。痛みの窓、苦しみの窓は、地獄に向かって開いている。一方、満ち足りた<br>瞬間、至福に満ちた瞬間、エクスタシーの瞬間――そんな瞬間とひとつになった<br>ら、あなたは別の窓を開ける。〈存在〉は同じものだ、だがあなたの窓がちがっ<br>ている。<br>　何らかの行為のなかで満足が感じられたとき、つねにそれを現実化する――つ<br>ねにだ！　無条件に、つねにだ！　友人に会い幸福を感じる、恋人に会い幸福を<br>感じる、それを現実化する。幸福をそこに存在させ、その幸福を扉とする。それ<br>はマインドを変えることだ。それによって幸福が蓄積されていく。マインドは肯<br>定的なものへと転じ、同じ世界が別のように見える。<br>　禅僧の睦州（ぼくじゅう）はこう語った、<br>「世界は同じだ、だがなにものも同じではない。マインドが変わるからだ。あら<br>ゆるものは同じままだ、だがなにものも同じではない。私が同じではないから<br>だ」。<br>　あなたはたえず世界を変えようとするが、何をしようと世界は同じままだ。な<br>ぜならあなたが同じままだからだ。もっと大きな家を手に入れたところで、もっ<br>と大きな車を手に入れたところで、もっとすばらしい妻や夫を手に入れたところ<br>で、何も変わらない。大きな家も大きくはなくなるし、美しい妻や夫も美しくは<br>なくなる。大きな車も依然、小さなままだ。あなたが同じままだからだ。あなた<br>のマインドや、姿勢や、ものの見方が、同じままだ。自分自身を変えずに、いつ<br>もものごとを変えつづける。だから、苦悩している人間だけが、小屋を離れて宮<br>殿へと移る。だがその苦悩している人間はそのままだ。彼は小屋のなかで苦悩し<br>ていた、そしていま、宮殿のなかで苦悩している。その苦悩は宮殿並みかも知れ<br>ない、だが彼は苦悩している。<br>　あなたはいつも自分の苦を持ち運んでいる。どこへ行こうとも、あなたは自分<br>自身とともにいる。だから外側の変化は根本的には変化ではない。たんに見かけ<br>上のものだ。変化があったと感じるだけで、じつは何の変化もない。変化はただ<br>ひとつ、革命はただひとつ、突然の変異はただひとつしかない――それはマイン<br>ドが否定から肯定へと変化することだ。もしあなたの焦点が苦の上にあったら、<br>あなたは地獄のなかに住む。もし焦点が幸福の上にあったら、まさにその地獄が<br>天国となる。これを試してごらん！　きっとあなたの生の質そのものが変わるだ<br>ろう。<br>　だがあなたの関心は量にある。あなたの関心は、どのくらい量的に豊かになる<br>かにある。質的にではない。だがたとえ家を２軒、車を２台もち、銀行預金を増<br>やし、そのほかいろいろな物をもったとしても、あなたの質は同じままだ。豊か<br>さというのは、物質的なものではない。豊かさとは、マインドの質、生の質に関<br>するものだ。質に関するかぎり、貧乏人であっても豊かでありうるし、豊かな人<br>間であっても貧乏人でありうる。そして実際、ほとんどの場合、それがそのまま<br>当てはまる。というのも、物質や量に関心のある人間は、自分のなかにある別の<br>次元、つまり質の次元に、まったく気づいていないからだ。その次元が変化する<br>のは、マインドが肯定的であるときだけだ。<br>　明日の朝から、一日中、心がけてごらん――何かに対して、美しさや、満足や、<br>至福を感じたら、それを意識する。24時間のうちにはそんな瞬間がいくらでもあ<br>る。天国がすぐそばにあると感じられるような瞬間は、いくらでもある。だがあ<br>なたは、あまりにも地獄に結びつけられ、巻き込まれているせいで、いつもそれ<br>を逃してしまう。太陽は昇り、花々は開き、鳥たちは歌い、そよ風は樹々を吹き<br>抜ける。それは起こっている！　小さな子どもが無垢な目であなたを見る、する<br>と至福のほのかな感覚があなたのなかに入り込む。あるいは、誰かがほほえむと、<br>あなたは至福を感じる。<br>　周囲を見まわし、至福に満ちたものを探してみる。そしてそれによって満たさ<br>れなさい。そのときにはいっさいを忘れ、それによって満たされる。それを味わ<br>い、それがあなたの存在全体に起こるにまかせる。それとひとつになる。その芳<br>香はあなたに付き従う。それは一日中、あなたのなかで鳴り響く。その鳴り響く<br>感覚、反響する感覚によって、あなたはもっと肯定的になる。<br>　それは蓄積していく。もし朝から始めれば、夜までには、星々に、月に、夜に、<br>闇に、もっとマインドを開いていることだろう。24時間の実験としてこれを行な<br>い、その感覚がいったいどんなものか感じ取りなさい。いったん、「肯定性によ<br>って自分は変わり、別世界へと入っていく」と感じ取ったら、もうそれは手放せ<br>なくなる。焦点全体が、否定性から肯定性へと移る。すると世界に対する見方は<br>変わり、新しくなる。<br>　こんな話がある。仏陀の弟子のひとりが、師のもとを離れようとしていた。そ<br>の弟子の名前はプルナカーシャパと言った。彼は仏陀にたずねた、「どこへ行っ<br>たらいいでしょう。どこへ行ってお言葉を伝えたらいいでしょう」。<br>仏陀は言った、「どこへでも自分で決めるといい」。<br>そこで彼は言った、「ではビハールの遠いはずれへ行きます」。その地方はスッ<br>カーという名前だった。「スッカー地方へ向かいます」。<br>　仏陀は言った、「それはやめたほうがいい。その地方の住民は、ひどく残忍で、<br>乱暴で、性悪だ。いまだかつて誰もあえてそこへ赴き、彼らに非暴力や愛や慈悲<br>を教えようとはしていない。だからどうか考えなおしてほしい」。<br>　だがプルナカーシャパは言った、「誰も行ったことがないからこそ行かせてほ<br>しいのです。いずれ誰かが行かなくてはいけないのですから」。<br>仏陀は言った、「ではあなたをそこに行かせる前に、三つだけ聞きたいことがあ<br>る。もしその地方の住民に侮辱されたら、いったいどう感じるかね」。<br>プルナカーシャパは言った、「たいへん善良な人びとだと感じるでしょう。もし<br>辱めるだけだったら、私を打ちはしないからです。つまり善良な人びとだという<br>ことです。私を打つこともできたのですから」。<br>　仏陀は言った、「では第二の問いだ。もし彼らに打たれたら、いったいどう感<br>じるかね」。<br>プルナカーシャパは言った、「たいへん善良な人びとだと感じるでしょう。私を<br>殺すこともできたのに、ただ打つだけなのですから」。<br>そこで仏陀は言った、「では第三の問いだ。もし彼らにほんとうに殺されたら、<br>死にぎわに、いったいどう感じるかね」。<br>プルナカーシャパは言った、「あなたとその人びとに感謝します。殺されるとい<br>うことは、多くの過ちに満ちていたであろう生から、解放されるということです。<br>おかげで私は、多くの過ちに満ちていたであろう生から解き放たれます。ですか<br>らありがたく感じます」。<br>そこで仏陀は言った、「よろしい、どこへでも行くといい。全世界はあなたにと<br>って天国だ。もはや何の問題もない。全世界はあなたにとって天国だ。だからど<br>こへでも行くといい」。<br>　このようなマインドにとっては、この世のなかに具合の悪いことは何もない。<br>ところがあなたのマインドにとっては、具合の良いものは何もない。否定的なマ<br>インドにとっては、あらゆるものが具合悪い。そのもの自体が悪いわけではない。<br>否定的なマインドには具合悪いものしか見えない、だからこそいっさいが具合悪<br>い。</p><p>　何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。</p><p>　これはじつに微妙なものだ。だがじつに甘美でもある。そのなかに入って行け<br>ば行くほど、ますます甘美になる。それによってあなたは、新しい甘美さに、芳<br>香に満たされるだろう。要は、美しいものを探し、醜いものを忘れることだ。す<br>るといつか醜いものもまた美しくなる。ただひたすら幸福な瞬間を見つめなさい、<br>そうすればいつか、不幸と呼べるようなものはなくなる。もはや不幸な瞬間はな<br>くなる。ただひたすら至福に満ちたものにかかわりなさい、そうすればそのうち、<br>苦はなくなってしまう。いっさいが肯定的なマインドによって美しいものとなる。</p><p><br>　昨晩あなたは言われました。人はつねに生を肯定的次元において見るべきであ<br>って、否定性には重点を置くべきでないと。でもそれは、ひとつの選択ではない<br>でしょうか。またそれは、あるがままの真実に直面することに反するのではない<br>でしょうか。 </p><p>　確かにそれは選択だ。だが否定的な人間は無選択へ飛躍できない。もし飛躍で<br>きたとしたら、それは結構なことだ。だがそれは不可能だ。否定性から無選択へ<br>と跳躍することは不可能だ。否定的なマインドには、醜いものしか見えない、死<br>しか見えない、苦しか見えない、生のなかの肯定的な要素は何も見えない。そし<br>て何より、苦を失うことはむずかしい。<br>　こう言うと、おそらくひどく奇妙に思えるだろうが、苦から飛躍するのはむず<br>かしい。幸福から飛躍するほうが楽だ。幸福であるときに飛躍するほうが楽だ。<br>というのも、幸福とともに勇気が現れるからだ。幸福とともにより高い至福の可<br>能性が開け、幸福とともに世界全体が我が家のように思える。苦においては、世<br>界はまさにひとつの地獄だ、そこには希望はない。いっさいが絶望的だ。すると<br>もはや跳躍は可能ではない。苦のなかで、人は臆病者になり、そして苦にしがみ<br>つく。というのも、少なくとも、この苦は既知だからだ。<br>　不幸であるときには冒険的になれない。冒険には内側の微妙な幸福が必要だ。<br>幸福であれば、既知を去ることができる。幸福だからこそ、未知を恐れない。す<br>でに幸福が深い現象となっているからこそ、「どこにいようとも自分は幸福だ」<br>とわかっている。マインドが肯定的であれば、「地獄などない」とわかっている。<br>自分がどこにいようとも、天国はそこにある。それで未知のなかへと入れる。な<br>ぜなら「天国はいつも自分といっしょだ」とわかっているからだ。<br>　よく言われるが、人は天国か地獄に入ることになっている。これはたわごとだ。<br>誰も天国に入りはしない、誰も地獄に入りはしない。あなたは自分自身の地獄と<br>天国を携えている。どこへ行くときにも、自分の地獄や天国といっしょに行く。<br>天国や地獄は扉ではない。荷物だ。あなたはそれを携えて行く。<br>　ハートが踊っているときにだけ……幸福で、至福に満ち、肯定的なときにだけ、<br>未踏の地へと飛躍できる。だからこそ私は言う――否定性からは無選択になれな<br>い。あなたは自分の苦にしがみつく。苦は既知だ。あなたにとってはおなじみだ。<br>あなたはそれと関係をもっている。だから未知に入るよりも、既知の苦のなかに<br>いるほうがいい。少なくとも、あなたはそれに親しんでいる、その様子がわかっ<br>ている。その苦に対してなら、周囲に一定の防御機構や鎧をつくり上げている。<br>だが未知の苦だったら、新たな防御機構がいる。だから既知の苦のなかにいたほ<br>うが、未知の苦のなかに入るよりもつねにましだ。<br>　幸福の場合、事態は正反対となる。幸福の場合は、未知の幸福に向かいたくな<br>る。というのも既知は退屈だからだ。だが、既知の苦については、退屈すること<br>はけっしてない。自分の苦について語っている人びとを見てごらん――それを楽<br>しんでいる。人びとは自分の苦を増幅する、そうして微妙な幸福を感じる。<br>　幸福の場合、あなたは退屈する。それによって未知へ向かうことができる。未<br>知は魅力的だ。無選択というのは、未知への扉だ。否定性から肯定性へ、肯定性<br>から無選択へ、このようにして人は動かなくてはならない。まず自分のマインド<br>を肯定的にする。地獄から天国へと進む。そして天国から、モクシャへと、つま<br>り天国でも地獄でもない「究極」へと進むことができる。苦から至福へと進んで<br>初めて、両者を超えた超越へと進める。だからこそスートラは、「まず自分のマ<br>インドを否定性から肯定性へと変容せよ」と言うのだ。この変化は、焦点を変化<br>させることにほかならない。<br>　生というのは、その両方か、あるいは、そのどちらでもない。その両方か、あ<br>るいは、そのどちらでもない！　それはあなた次第だ――あなたが生をどう見る<br>かにかかっている。否定的なマインドとともに見れば、生は地獄のように見える。<br>それは地獄ではない！　たんにあなたの解釈だ。<br>　見方を変えて、肯定的に見てごらん。これこそが有神論的態度というものだ。<br>私が人を無神論者とか有神論者とか呼ぶのは、別に神を信じる信じないの問題で<br>はない。私が有神論者と呼ぶのは、肯定的態度をとる人のことであり、また無神<br>論者と呼ぶのは、否定的態度をとる人のことだ。それは神を否定するか否かの問<br>題ではなく、生を否定するか否かの問題だ。有神論者とは、「イエス」と言う人、<br>いつもイエスと言うマインドをもってものを見る人だ。するとすべては完全に変<br>化する。<br>　もし否定的なマインドが、バラの花園にやって来たとしたら、いくらたくさん<br>のバラの花があっても、きっとその刺だけを数えるだろう。否定的なマインドに<br>とって、まず第一のものは刺だ、それが重要だ。花々はまぼろしにすぎない、刺<br>だけが現実だ。彼はそれを数える、そしてもちろん、花にはそれぞれ千の刺があ<br>る。そして千の刺を数えてしまったら、もう花の存在が信じられなくなる。彼は<br>言う、この花はただのまぼろしだ、どうしてこんなに美しい花が、こんなに醜い<br>刺、暴力的な刺とともに存在できるだろう、それは不可能だ、信じがたいことだ<br>――。たとえ花が存在したところで、もう何の意味もない。千の刺が数えられ、<br>花は消え失せる。<br>　肯定的なマインドは、バラから始める、花から始める。いったんバラと交感を<br>始めたら、いったんその美しさ、その生命、その天上的な開花を知ったら、刺は<br>消え去る。バラをその美しさにおいて、その最高の可能性において知った者にと<br>って、また、その奥深くまで見入った者にとっては、刺さえも刺のようには見え<br>ない。バラに満たされた目はもう別のものになっている。すると刺は、この花の<br>守りのように見える。もはや敵ではなくて、花というできごとの一部のように見<br>える。<br>　肯定的なマインドは知っている――この花が起こるためには刺が必要だった、<br>刺は花を守っている、こういった刺があるからこそ、この花は出現できた……。<br>この肯定的なマインドは、刺にさえ感謝する。この態度が深まれば、やがて刺が<br>花になる。否定的態度の場合は、花は消え失せる……あるいは、花は刺にさえな<br>る。肯定的なマインドがあってこそ、あなたはマインドの無緊張状態に到達でき<br>る。否定的なマインドにあっては、そこらじゅうが苦ばかりで、ずっと緊張状態<br>がつづく。この否定的で創意に富んだマインドは、後から後から苦と地獄を出現<br>させる。<br>　仏陀の時代にたいへん有名な教師がいた。その名はサンジャヤ・ベーラッティ<br>プッタと言って、極度に否定的な思想家だった。仏陀は７つの地獄を語った。そ<br>こである人がサンジャヤ・ベーラッティプッタのところへ来て言った、「仏陀に<br>よれば、地獄は７つだそうだ」。サンジャヤ・ベーラッティプッタは言った、<br>「その仏陀に言うのだ……あなたは何も知らないってね。地獄は700ある。彼は何<br>も知らないんだ！ ７つだけだって！　地獄は700ある。私はそれを全部数えた」。<br>　もしマインドが否定的だったら、700でさえ多すぎはしない。その数はもっと増<br>えるだろう。それにはきりがない。肯定的なマインドは無緊張になれる。実際、<br>肯定的な人間がどうして緊張できるだろう。また、否定的な人間がどうして無緊<br>張になれるだろう。否定的なマインドは、瞑想と何のつながりもない。否定的な<br>マインドは反瞑想的だ。瞑想ができない。一匹の蚊でさえ、瞑想をすべて破壊し<br>てしまう。否定的なマインドにとっては、平安への扉、静寂への扉、沈黙への扉<br>は閉ざされている。否定的なマインドは苦をみずから永続化させる。どうしてそ<br>れが無選択へと飛躍できるだろう。<br>　クリシュナムルティは無選択について語りつづける。だがその聴衆は否定的だ。<br>耳は傾けるが、けっして理解しない。聴衆が理解しないと、クリシュナムルティ<br>は苛立つ、なぜなら聴衆に理解してもらえないからだ。彼の言っていることを理<br>解できるのは、肯定的な人間だけだ。だが肯定的な人びとは、どこへ行く必要も<br>ない。クリシュナムルティやラジニーシといった人間のもとへ行く必要がない。<br>否定的なマインドだけが教師を探し、マスターを探す。<br>　否定的なマインドに対して無選択を語っても、「二元性の超越」を語っても、<br>「否定性と肯定性の両方を生きよ」と語っても、それは無意味だ。それが非真実<br>だというわけではない。それは真実だ。だが意味がない。聴いている人のことを<br>考慮に入れる必要がある。聴き手のほうが語り手よりも重要だ。私の見るところ、<br>あなたは否定的だ。だからまず最初に必要なのは、肯定性への変容だ。「否定家」<br>から「肯定家」になることだ。生を「イエス」の姿勢で見ることだ。そして「イ<br>エス」の姿勢によって、この地球そのものが全面的に変容する。肯定的態度に到<br>達して初めて、無選択へと飛躍できる――そしてそれは簡単だ、とても簡単だ！<br>　苦は放棄できない。むずかしいことだ。あなたはそれにしがみついてしまう。<br>放棄できるのは幸福だけだ。というのも、あなたはもう知っているからだ――否<br>定性を放棄すると、肯定性と肯定的幸福が得られる。否定性を放棄すると、幸福<br>が得られる。たんに否定性を放棄するだけで、幸福に到達する。そして今度、こ<br>の幸福も放棄し、この肯定的なマインドも放棄すると、「無限」への扉が開かれ<br>る。だが要は、まずその肯定性を感じることだ。そうして初めて、そうして初め<br>て飛躍ができる。</p><p><br>Osho, The Book of Secrets, Vol.1 #35,#36 より抜粋、<br>邦訳本としては「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ 第5巻」 </p><p><br>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11187114535.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Mar 2012 00:05:15 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不適合者であることの幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>【 不適合者になる勇気をもちなさい 】<br><br>　Osho，あなたは私にとってつねに啓示でした。たとえほとんど至るところで自分はのけ者のようだと感じても、それでも自分のやり方をつづけて妥協しない、という勇気を、あなたは私に与えてくれます。私はあなたに、自分は不適合者でありつづけていいのだ、と言っていただきたいのです。<br>----------------------------------</p><p>　私の周りに集まってきた人たちは、この腐敗した社会のなかではみんな不適合者だ。この死んだ、時代遅れの、迷信に満ちた、信仰体系に基づく社会のなかでは、知性のある人はすべて不適合者であらざるを得ない。知恵の遅れた人だけが適合者であることができる。あなたが知恵遅れでないのは幸運だ。私に合う人は誰でも、ほかのどこでも不適合者であらざるを得ない。<br>　私は生涯不適合者だった――自分の家族のなかで、自分の宗教のなかで、自分の国のなかで――そして私はそれをあらゆる方法で楽しんできた。不適合者であるということは、個人であるということだからだ。<br>　既存の確立されている秩序に適合することは、自分が個人であることを失うことだ。そして、それこそがあなたたちの全世界だ。妥協して自分が個であることを失った瞬間、あなたはすべてを失ってしまう。あなたは自殺をしたのだ。この世界に適合する人びとは、自分自身を破壊した人びとだ。<br>　もちろんそれには勇気が、自由に対する途方もなく強いセンスが必要だ。そうでなければ、全世界を向こうにまわして独り立つことはできない。だが全世界を向こうにまわして立つことこそが、不適合者になったことのない者には決して理解することのできない大いなる喜びの、歓喜の、そして至福の始まりだ。<br>　人間の歴史で偉大な名前はすべて、その社会ではたんなる不適合者に過ぎなかった。人間の幸福と地上の美に貢献した人びとはみんな、不適合者だった。不適合者であることは途方もなく貴重な資質だ。いかなる点でも、けっして妥協してはいけない。妥協そのものがあなたの破壊の始まりだ。<br>　私はあなたが頑固でなければならないと言っているのではない。なにかが正しいと思うなら、それと共に行きなさいということだ。だがなにかが正しくないとわかった瞬間、たとえ全世界がそれを正しいと感じていても、それはあなたにとっては正しくない。そうなったら自分の立場を貫きなさい――それはあなたにスタミナを、強さを、ある種の正直さを与えることになる。私のサニヤシンは、みんなこの世間では不適合者だ。<br>　だが不適合者であるということは、利己主義者であるということではない。もしあなたが利己主義者なら、遅かれ早かれあなたは妥協することになる。自分がより利己的になれるようにしてくれる人びとのグループ、社会、国を見つけたら、あなたはその社会に即座に適合することになる。真の不適合者は謙虚な人間だ。だからこそ、彼を取り込むことは誰にもできないのだ。彼が自由なのは、彼がエゴから自由だからだ。<br>　ほかのところで拒否される人がみんな、ここでは歓迎される……というのも私が理解するところによれば、知性ある人、個人である人たちだけが拒否されるからだ。従順な人びと、自分の個人性や表現の自由をもたない従順な人びとは、どんなことにも決してノーを言わず、自分の意志に反してもつねにイエスを言う準備がある――それこそが世間で大いに尊敬される人びとだ。彼らは大統領になり、首相になる。彼らがあらゆる意味で尊敬されるのは、たんに彼らが自殺したからにすぎない。彼らはもはや生きてはいない、ただ化石化したにすぎない。<br>　ここでは、人びとは生きている。生きている人びとをどうやって特定の型にはめ込むことができるかね？ あらゆる個人はユニークだ。その彼がどうしてほかの人の鋳型に適合する必要がある？<br>　この世界のすべての不幸は、きわめて単純に説明できる――その人が本来どうあるべきかということを発見するなど気にもかけない他人によって、誰もが切られ、型にはめられ、整えられているということだ。彼らは存在にチャンスを与えない。<br>　子どもが生まれたまさにその瞬間から、彼らはその子を駄目にしはじめる――もちろん、すべて善意によってだが。どの親も意識的にそうしているのではないが、その親もまた同じように条件づけられている。親は自分の子どもにも同じことを繰り返す。ほかのやり方を知らないからだ。<br>　言うことを聞かない子は絶えず非難される。その一方で、言うことを聞く子は絶えず褒められる。だが従順な子どもが、なにかの創造性の領域で世界的に有名になったなどということを、聞いたことがあるだろうか？ 従順な子どもがなにかのノーベル賞――文学賞、平和賞、科学賞――を受賞した例など聞いたことがあるだろうか？ 言うことを聞く子どもはただの一般大衆になるだけだ。存在につけ加えられたものはすべて、言うことを聞かない者たちによってつけ加えられている。<br>　だからそれがどれほど高くつこうとも、けっして妥協しないことを覚えていなさい。たとえ自分の命を失うことになろうとも、妥協してはいけない。妥協した人間は去勢された人間だ。自分の個性と自由のために死ぬ者は喜びをもって死に、存在の祝福はすべて彼のものだ。<br>　私は絶えずどこでも不適合者として生きてきた。そして私はそれを、すみからすみまで、その一滴一滴をあますところなく楽しんできた。ただただ自分自身であるということは実に素晴らしい旅だ。自分の存在を、自分の潜在性を発見しつづけ、そしてある日その発見は、あなたを自分という存在の究極の開花に導く。その究極の開花を、私は光明と呼んだ。あなたは光輝く。<br>　なぜこの世ではひじょうにわずかな人しか光明を得ないのか？ この質問は何度も何度も私にたずねられた。その理由はきわめて単純だ。つまり全生涯を不適合者で通し、非難されつづけ、尊敬されず、拒否されつづけるだけの勇気が人びとにはないからだ。ほんのわずかの人びとしか個であることに到達しないのは、そしてほんのわずかの人びとしかその存在の究極の爆発に至らないのは、そのためだ。始める人びとはいるが、ひたすら自分でいることの危険を知ると、彼らは遅かれ早かれ妥協する。<br>　私は一度も、どんなことにも妥協したことはない。それはこの上もなく私に役立ってくれた。厄介な状況だった――誰もが私に反対で、誰もが私を非難していた――だがそれが私に、独りであるための途方もない勇気を与えてくれた。だから私は、一度もどんなことにも妥協したことがない。どれほど苦しまなければならないとしても、私は文句を言わずにその苦しみを通り抜けた。私はそれを自分で選んでいた。だがそのすべての火が、私の存在をますます純化した。<br>　どんな点においても妥協してはいけない、その妥協点があなたを弱くするからだ。あなたは自分の個を失う。だが利己的であってはいけない。謙虚でありなさい。利己主義者になろうとしたら、遅かれ早かれあなたは妥協しなければならなくなる。<br>　だからどんな結果になろうとも、妥協してはいけない。<br>　たとえ結果として死がやってくるとしても、あなたは踊って死を受け容れることができるだろう。そして個人だけが踊って死を受け容れることができる。それは個人だけが、死は存在しないことを、死とはひとつの形態からもうひとつの形態への変容に過ぎないことを知っているからだ。<br>　そしてもし彼らが全面的に花開いたら、光明を得たら、彼らは絶対的に、途方もないくつろぎをもってそれを知る――自分が永遠の存在だということ、自分が不死だということを知る。全宇宙は彼らのものだ。彼らはつねにここにいた。彼らは今もここにいる、そして彼らは永遠にここにいるだろう。<br>　彼らは存在の本質的な部分になり、死というような問題は存在しない。そしてこれこそ、生があなたたちを導いて行くべきところだ――不死の体験へ。</p><p><br>Osho, From Death to Deathlessness, #33 より抜粋</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11186048023.html</link>
<pubDate>Wed, 07 Mar 2012 22:43:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>3月2日の夢を覚えていた幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ 2012年3月2日の朝に覚えていた夢<br><br>丸が三つ横に並んでいて、真ん中の丸の下に丸が一つだけある図を見る。<br>40年前の高校3年生の時に、大学の数学科を受験したことがあるので、<br>図形は僕にとってわかりやすい説明なのかもしれないと思う。<br><br>その夢を図形に書くと↓こんな感じ。<br>○○○<br>　○<br><br>上の三つの○の真ん中の○が、今の僕。<br>③①④<br>&nbsp;　②<br><br>①からスタートして、②で母親の意見を聞き、<br>③で熟考して④に移行すると、物事は全てうまくいく<br>というような内容の夢だった。<br><br>僕は、そのような夢を見ても、一切信用しないので、<br>その夢を夢日記に書いた後で少しうとうとすると<br>夢の中で、その流れが物事をうまく動かした例を三つ見る。<br>一つは、大昔の話で内容は、夢が早すぎて覚えておらず、<br>残りの二つは共に侍の時代で、島根県と徳島県のようだった。<br><br>今ネットで調べてみると、島根県は松江藩で石見銀山やたたら製鉄<br>徳島県は徳島藩で藍およびその運上銀のことではなかろうかと思う。<br><br>私の働く会社は、銀のアクセサリーを輸入販売しているので<br>この流れにすれば、全てうまく行くのであろうと思った。<br><br>事実、今日の午後、偶然のように、銀のアクセサリーのオンラインショップ<br>に関するミーティングが起こり、今後のオンラインショップの方向性と<br>制作者・制作順序をみんなに発表する場ができた。<br><br>来週からの仕事が楽しみだ。<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/abasketfulofhappiness/entry-11181184842.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Mar 2012 22:57:07 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
