<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方</title>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/activebrains/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>記憶術×陽転思考の&lt;a href=&quot;http://www.oda-abs.com&quot;&gt;アクティブ・ブレイン・セミナー&lt;/a&gt;を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>021 マーガレット・サッチャー 02</title>
<description>
<![CDATA[ ●向上心が高く勤勉なローワー・ミドル階級<br><br>イギリス史上初の女性首相となったマーガレット・サッチャーは、1925年に食糧雑貨商を営む家に生まれました。<br>父親は後に市長に選ばれたこともありましたが、サッチャーが生まれた頃は決して裕福というわけではなく、中流の下の方（ローワー・ミドル）でした。<br><br>ここで、イギリス特有の階級社会について少し述べておきましょう。<br>イギリス社会は、上流、中流、労働者階級と、その出生や仕事内容によって大きく３つの階級に分かれています。<br><br>イギリスの上流階級は、日本語からイメージされるよりもずっと上に属する人たちです。そのほとんどが貴族で、その他は大資本家や地方の大地主など、「生計のために働かなくてもいいような人」<br>「自分の財産の管理が主な仕事になっている人」たちです。<br>国家への貢献が認められ、一代限りの貴族の称号が与えられている人もいます。（ちなみにサッチャーもその「一代貴族」の一人です）。<br>上流階級は、イギリスの人口の0.2パーセント程度に過ぎません。<br><br>中流階級は、さらにアッパー・ミドル（中流の上）、ミドル・ミドル（中流の中）、ローワー・ミドル（中流の下）と３つに分けられます。<br>アッパー・ミドルは、銀行の経営者や幹部、高級官僚などで、ミドル・ミドルは、会計士や設計士、弁護士、医師など高度な専門技術を有する人など。<br>そしてローワー・ミドルは、小企業経営者や下級管理職などの人たちであるとされています。<br>中流階級は、収入や仕事内容によって上下に変動する階級ともいえるかもしれません。<br><br>サッチャーの思想や生き方には、ローワー・ミドルの家に生まれたことが強く影響していると考えられています。<br>ほぼ出生によってその位置が決まる上流（貴族）階級に比べ、中流階級は、本人の努力次第で、より上に行くことができる位置です。<br>とくに、サッチャーの生家が属したローワー・ミドルは、怠ければ労働者階級に落ちてしまいかねない反面、逆にがんばればローワーからミドルへと上っていくこともできます。<br>そのため、向上心が高く勤勉な人が多いと言われていました。<br><br>「イギリスのローワー・ミドルは昔の日本の商店や職人のように律儀である。またマナーがよく、子供の躾も厳しく、イギリスの階級の中で一番清潔である。<br>クーパーによれば、アッパー・ミドルの女性は便所に入っても人が見ていなければ手を洗わないで出るが、ローワー・ミドルの女性は必ず石鹸で手を洗うとも書いている。一番きちんとした階級なのである。」<br>（『歴史の鉄則』渡部昇一 著）<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1YjNdZP">『歴史の鉄則』-税金が国家の盛衰を決める</a>渡部昇一著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12107333601.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Dec 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>021 マーガレット・サッチャー 01</title>
<description>
<![CDATA[ ●「サッチャノミクス」ではなく「サッチャリズム」<br><br>2013年4月8日、「妥協しらずの“鉄の女”が死去」というニュースが報じられました。<br>1979年から1990年まで、3期にわたってイギリスを率いたマーガレット・サッチャー元イギリス首相の訃報です。87歳でした。<br>エリザベス女王はじめイギリス国内はもちろん、安倍首相やオバマ大統領など、世界中からお悔やみと共に、偉大な業績を讃えるメッセージが贈られました。<br><br>その反面、自由競争を促進し、国営事業の民営化や、緊縮財政などを強行に進めた政策で苦しみを味わった人たちからは、痛烈な批判が浴びせられたことも事実です。<br>曰く、「サッチャーによって地獄が民営化されようとしている」「サッチャーが地獄に落ちて、わずか20分で地獄のかまどが3つ廃炉になった」などなど…。<br><br>サッチャーの政策は「サッチャリズム」と呼ばれていました。彼女と同時期にアメリカを率いた盟友・レーガン元大統領の経済政策は「レーガノミックス」と呼ばれました。<br>ちょうどいま日本でも、安倍政権が推し進める「アベノミクス」の成否が注目されています。<br>サッチャーの政策も、その中核は経済政策であったにもかかわらず「サッチャノミクス」ではなく「サッチャリズム」と称されたのには、どんな理由があったのでしょう。<br><br>「レーガノミックスにはサッチャリズムのような革命、世直しといった発想は乏しく、経済政策のワクを大きく超える広がりを欠いていた。従って「イズム」にはなりえなかったということなのだろう。<br>逆にサッチャリズムは経済政策の背後にある意識改革、世直しに力点が置かれており、「(エコ)ノミックス」だけではなく、それをも含む「イズム」のほうがふさわしいということになるのではないだろうか。」<br>（『サッチャリズム』三橋規宏 著）<br><br>サッチャリズムは、単に経済政策であるというだけでなく、「人間のあり方」「生き方そのもの」の提案だったともいえるでしょう。<br>そしてもう一つ、陽転思考的観点から見落としてならないのが、「信念を貫くこと」「逆境に負けず自分を信じて前進する」という、<br>夢や志に向かう強い姿勢が「サッチャリズム」という言葉には、内包されているということです。<br><br>サッチャーは、反対意見や幾多の困難に屈することなく、自分の信念を「鉄の意志」で貫き通そうとしました。まさに「鉄の女」と称されるゆえんです。<br>その結果、冒頭にも述べたように「敵」も多く作ることになりましたが、偉大な政治家として、その名を歴史に残すことにもなりました。<br><br>次回からは、サッチャーの偉業と、それを可能にした陽転思考について詳しく掘り下げていきます。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1O83V3o">『サッチャリズム』</a>三橋規宏著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12107332855.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Dec 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 15</title>
<description>
<![CDATA[ ●江戸の戦火を阻止した勝と西郷の歴史的会談<br><br>1868年10月23日、「慶応」は「明治」へと改められました。元号はその年の初めに遡って適用されるため、慶応4年という呼称はなくなり、1月1日から明治元年となります。<br>実質的にはまだ慶応4年だった1968年の春。鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は、西郷隆盛を司令官に征東軍を編成し、江戸城に向かって進軍します。<br><br>先回述べたように当時幕府の最高幹部だった勝海舟は、江戸城が火の海になることを阻止しようと実に大胆な策を講じます。<br>まずは、万が一戦争になれば、幕府軍は命がけで戦う用意があるということ、そしてもう一つは、江戸の庶民を逃がした後で、街中に火をかけるという焦土作戦です。<br>もし戦えば、甚大な被害を及ぼすことになる、という決死の作戦でした。<br>それは単なる言葉だけの脅しやハッタリではありません。勝は、かねてから付き合いのあった江戸の庶民たちに協力を仰ぎ、人々の避難と焦土作戦を具体的に準備していたのです。<br><br>「江戸開城の時に、彼が頼りにしたのは、武士ではなかった。町人達である。つまり、庶民である。<br>それも、新門辰五郎や、清水次郎長などのやくざ、あるいは、吉原華街の経営者、芸者、料理屋のおかみ、踊りの師匠、消防を担当していた町火消などを動員し、<br>江戸市中の沈静に当たった。いざという時に備えて、房総方面から数百隻の船を用意し、官軍が江戸に攻め込んだ時は、江戸市民をこれらの船で逃がす用意をしていた。<br>市民を逃がした後、魚市場の連中に頼んで、江戸を焼き払うつもりでいた。焦土作戦を敢行して官軍を迎えようとしたのである。これだけ決意をして、官軍の代表西郷吉之助と談判したのだ。<br>（『勝海舟の人生訓』童門冬二 著）<br><br>当時のことを振り返って、勝は次のように述懐しています。<br><br>「江戸の明け渡しの時は、スッカリ準備がしてあったのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あっちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼打のつもりサ。<br>（中略）治まってから西郷と話して、“あの時は、ひどい目にあわせてやろうと思っていた”と言ったら、西郷め、“アハハ、その手は食わんつもりでした”と言ったよ」<br>ーーー戦まじえる準備、やったらどうなるかわからないぞという裏づけがあったのだ。西郷に対した海舟の眼光、一挙手一投足、一語一語にはすさまじい迫力があったろう。（『勝海舟　強い生き方』窪島一系 著）<br><br>こうした決死の覚悟と、そして幕府や藩よりも国を思う公的視野は、敵将・西郷の心を動かし、江戸城無血開城という偉業が成功したのでした。<br>旧知の間である西郷が相手なら、その志が通じるはずだという信頼も勝にはあったでしょう。<br>奇しくも、この二人の会談が、薩長連合から倒幕への足掛かりを作り、そしてまた、その幕を閉じるきっかけとなったのでした。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12107331794.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Dec 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 14</title>
<description>
<![CDATA[ ●戦う力をもちつつ戦わない強さ<br><br>慶応3年（1867）10月、将軍・徳川慶喜は京都・二条城に諸藩を集め、大政奉還を決議します。勝海舟45歳の時のことでした。<br>翌月には、門弟であった坂本龍馬が暗殺されてしまいます。<br>さらに翌年には、大政奉還後も権力を保とうとする幕府と、薩長を中心とする討幕派連合軍（官軍）が、京都南部の鳥羽伏見で激突します。<br>明治が幕を開ける前夜。勝個人にとっても、そして日本歴史においても、まさに激動の時代でした。<br><br>鳥羽伏見の戦い（戊辰戦争）に敗北した幕府は江戸に引き上げ、将軍慶喜も恭順の姿勢を示して、徳川幕府の温存を図ります。<br>それでも官軍は、強大な兵力をもつ徳川幕府をせん滅しようと、江戸城に迫ります。<br>当時、海軍奉行並や陸軍総裁を兼任するなど、実質上、幕府の最高幹部となっていた勝は、江戸での戦闘を阻止しようと奔走します。<br><br>「海舟の努力は続く。まず、こちらからは絶対に戦争をしないという体制をつくらなければ、彼の議論は成立しない。徳川から「私」の巣窟を一掃しなければならないのだ。<br>それは、この場合主戦論を断乎排斥して徹底的な恭順論を貫く以外にない。それも、勝利の見込みをもちながら恭順することが、その「公」を光彩陸離たるものにするに違いない」<br>（『維新前夜の群像３ 勝海舟』松浦玲 著）<br><br>単に恭順するだけであれば、勢いづく主戦論を抑えることさえできれば、それほど難しいことではないでしょう。<br>しかし勝が考えたのは、「もし戦えば相手にも相当な被害が出る」という状況を作り上げたうえで、和平に持ち込もうという作戦でした。<br>そして軍事責任者として、実際にどのように戦うかという計画まで立案しています。<br><br>いざという時には戦う余力がある、場合によっては勝てる、という力を示すことで戦争を抑止するという考えは、現代日本の専守防衛という考え方にも通じる先駆的なものだったといえるでしょう。<br><br>「この、必勝を未前に察して、しかも戦わないのが、海舟の「公」なのである。（中略）こちらが「公」を貫けば、先方もまた「公」でもって応ぜざるをえまいというのだ」（同）<br><br>勝の「公」とは、単に幕府の生き残りのためではなく、とにかく日本そして日本人を守るために考え、行動するというところにありました。勝はその信念を生涯貫いています。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12100178898.html</link>
<pubDate>Sat, 28 Nov 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 13</title>
<description>
<![CDATA[ ●勝海舟の視野の広さに敬服した西郷隆盛<br><br>幕末、勝海舟と西郷隆盛は二回ほど会って会談しています。その二回とも、幕末史の流れを大きく変えてしまう重要なきっかけとなりました。<br>初めての出会いは、先回述べたように、禁門の変（蛤御門の変）の敗北や、四国（英・仏・蘭・米）連合艦隊による攻撃などで、<br>倒幕派の急先鋒だった長州の力が低下し、その一方で幕府が息を吹き返していた頃のことでした。<br><br>「元治元年、西郷と海舟は大阪で初めて対面したが、西郷はたちまち海舟の大きさ深さに心酔してしまう。この時、海舟は西郷にこう言っている。<br>「幕府には人材がおらずもうダメであるから、幕府など相手にするな。それより、賢明な諸侯が四、五人集まって話し合い、外国軍艦を破る兵力を備えて長崎・横浜を開港したらよい。<br>そうすれば屈辱的でなく外交交渉もできる。これを実行するため雄藩が出京してくるなら、それまでは自分の力で外国人を引きとめておいてみせる」<br>ーーさすがの西郷も驚いたのである。」（『勝海舟　強い生き方』窪島一系 著）<br><br>幕府による長州征伐軍の有力藩であった薩摩の西郷に対して、勝はむしろ幕府の限界を説いたのです。西郷にとってそれは、全く予想外のことだったでしょう。<br>幕臣という立場を越えて、日本全体を思う勝の視野の広さ、高さに驚き感服した西郷は、薩摩にいる大久保利通への手紙に「ひどくほれ申候」と書き送っています。<br>実際、勝との初会見の後、西郷はその政策を大きく方向転換しています。<br><br>「西郷は海舟を通じて横井小楠の「共和政治」を理解した。しかも、同時に、それに触発されて、割拠論の方も明確に位置づけている。共和政治が雄藩主連合であるのに対して、割拠の方は武力倒幕論である。<br>（中略）ともかく、この海舟との会見を機として、西郷は、長州を決定的にいためつける方針を改め、その息の根を止めてしまわないように上手にたちまわりはじめる。<br>いずれ幕府を倒さなければならないとすれば、長州は最大の盟友となるのだ。」（『維新前夜の群像３ 勝海舟』松浦玲 著）<br><br>敵対関係にあった薩摩と長州が手を組むことになった薩長連合は、坂本龍馬の功績が大きかったと評価されていますが、<br>その根底には、この時の勝の考えが西郷の心を動かしたことも強く影響していたのではないでしょうか。<br>そもそも龍馬もまた勝の弟子として、その影響を強く受けて行動していたということを考え合わせると、あの時代、勝の果たした役割は、きわめて大きかったということが分かってきます。<br>さらには、その倒幕への流れの最終段階、勝は江戸城に迫る官軍の司令官であった西郷との単独会談に臨み、無血開城を成功させることで、自らが開いたドラマを見事に締め括っています。<br>それが幕末の二人の二回目の出会いでした。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12100178036.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Nov 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 12</title>
<description>
<![CDATA[ ●幕府・諸藩融和の先行モデルとしての海軍操練所<br><br>軍艦奉行へと出世した勝海舟は、元治元年（1864）、神戸に開設した海軍操練所で、諸藩から集まった修練性たちを指導することになります。<br><br>「勝の名声もあって、諸藩からの入学生は相当数にのぼった。薩摩からはのちの元帥海軍大将伊東裕亨はじめ二十一名が来ている。<br>土佐も、竜馬の関係で多い。紀州からはのちに陸奥宗光となる伊達小次郎が来た。熊本からは、横井小楠の親類筋の横井左平太や横井忠平といって連中の名前がみえる。」<br>（『維新前夜の群像３ 勝海舟』松浦玲 著）<br><br>海軍操練所の修練性たちは、それぞれの藩籍を背景にしながらも、共に厳しい訓練に従事する中で仲間意識が芽生え、より大きな「日本」という枠組みを強く意識するようになっていたでしょう。<br>それこそ、操船や戦いの技術を学ぶこと以上に、勝が教えたかった本当のことだったのかもしれません。<br><br>そこでは、どの藩に属しているか、どの階級に属しているか、ということよりも、いかにして日本を守るべきか、どうしたら西欧列強に負けない国を作れるのかという課題が優先されていました。<br>より大きな視野、世界観、理念を提示しつつ、皆で同じ船を動かすという共同作業を実践させることで、それまで頑なだった諸藩の壁を崩してしまったのでした。<br><br>しかし、諸藩が融和する海軍操練所とは裏腹に、国内情勢は風雲急を告げる緊迫した状況になっていきます。<br>まず8月には、京から締め出されていた長州藩が復権をかけて会津・桑名藩らと戦った禁門の変（蛤御門の変）が起こります。<br>敗北した長州藩は朝敵の汚名を着せられ、幕府を中心とした諸藩によって長州征伐軍が編成されます。さらに四国（英・仏・蘭・米）連合艦隊による長州攻撃（馬関戦争・下関戦争）も勃発していました。<br><br>倒幕の急先鋒であった長州藩の弱体化により、尊攘派の動きは一気に後退し、時代の趨勢は再び幕府側に移ったかのように感じられていたでしょう。<br>そうした動きに乗じてか、幕府は一度ゆるめていた参勤交代の制度を、また元の厳しさに戻して、諸藩の力を弱めようとしていました。<br><br>しかしこのとき勝は、幕府内部にいながら、全く別の視点をもっていました。日本の将来を考えずに、ひたすら体制擁護ばかり考える幕府を完全に見限っていたのです。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12100177388.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Nov 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 11</title>
<description>
<![CDATA[ ●勝海舟の視野の広さに敬服した西郷隆盛<br><br>攘夷派の志士たちの多くが、開国論を掲げる勝海舟を危険視し、その命を狙っていました。先回述べたように、坂本龍馬もその一人であったと考えられています。<br>そうした刺客に対して、勝は逃げるよりも、むしろ真正面から相対することで、龍馬がそうであったように、逆に自らの懐に取り込んでしまうということが度々ありました。<br><br>諸藩の志士たちだけではなく、公家たちも攘夷派が主流でした。<br>彼らの多くは一歩も京の外に出たことがなく、海を越えてやって来る外国人は、みな野蛮人だと思っていた節があり、そうした現実離れした観念が、感情的で単純な攘夷論の背景にあったようです。<br><br>勝は、そうした強硬な攘夷論を唱える公家たちや、自らの命さえ狙う志士たちを自らが率いる船に乗せ、今のままでは攘夷が不可能であるという現実を見せようと計画します。<br>あるとき勝は、攘夷派公家の中心的存在であった姉小路公知を船に招待します。<br><br>「公知は大阪にやって来た。この時、京都内にいた桂小五郎他の攘夷派の志士が、全部いっしょにくっついて来た。場合によっては、勝を斬ろうという腹である。勝は、これらの攘夷派をぐるみで船に載せた。<br>そして、大阪湾内を見せながら、「どうです？　こんな状況で、外国から日本を守りきれるとお思いですか？　今こそ、日本の海防を貫くために、一大海軍を起こさなければなりません。<br>もちろん、日本各所に砲台を築くべきでしょうな。それ以上に、海軍を起こすことが緊急の要務です。」と説いた。」（『勝海舟の人生訓』童門冬二 著）<br><br>この勝の作戦は見事に功を奏します。現実を目の当たりにした姉小路は、勝の考えに賛同します。<br>現実を見せることを通じて勝は、自らの考えが単に幕府を擁護するためのものではなく、列強から日本を守りたいという公的精神に基づいたものであるということを伝えることにも成功しています。<br><br>あるいは、敵をも飲み込んでしまう懐の深さ、器の大きさも、感銘を与えたでしょう。誠意をもって対応しつつ、そうした演出・プレゼン効果も、おそらく勝はしっかりと計算していたはずです。<br>かつて、大砲製作の時に見せてブランド・広報戦略の才能が、ここでも生かされています。<br><br>「桂小五郎以下も、姉小路に賛同した。一時は命さえ狙われていた勝が、自分の得意とする船に反対派を乗せて、議論するよりも一つの事実を見せて、見事に彼等を説得してしまったのである。<br>（中略）この時、坂本龍馬も船の中にいて、大いに活躍した。」（同）<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12100176854.html</link>
<pubDate>Sat, 07 Nov 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 10</title>
<description>
<![CDATA[ ●坂本龍馬と勝海舟の出会い<br><br>坂本龍馬が勝海舟の元を訪れたのは文久２年(1862)、勝が咸臨丸で渡米してから２年後のことでした。<br>咸臨丸での太平洋横断、渡米を成功させた勝の名は、幕府内はもとより、雄藩の志士たちにも広く知られるようになっていました。<br>しかし、必ずしも好意的に受け止められていたわけではありません。開国を指向する勝は、攘夷を掲げる志士たちの間では敵視される傾向にありました。<br><br>「海舟と龍馬の出会については、有名な話がある。攘夷派だった龍馬が開国論の巨魁と思われていた海舟を斬りに行き、逆に説き伏せられて弟子入りするというのである」<br>（『維新前夜の群像３ 勝海舟』松浦玲 著）<br><br>当時は、ひたすら外国人を嫌悪するいわば「原理主義的攘夷派」よりも、開国によって力を蓄えて不平等条約を破棄しようとする「開国的攘夷派」が主流になっていました。<br>外国と戦ってその力を思い知った長州の久坂玄瑞や桂小五郎らも、そうした考えに傾いていました。<br><br>彼らは、とにかく外国人を排斥しようとする単純な攘夷論から脱皮して、まずは腰抜け外交しかできない幕府を倒し、諸外国と対等な関係を結ぶことを目標としていました。<br>その思想的支柱となっていたのが、元は熊本藩士で、当時、福井藩の政治顧問だった横井小楠です。龍馬に勝と会うことを勧め、紹介したのがこの小楠でした。<br><br>「横井小楠の論説は、攘夷論者を開国論に脱皮・飛躍させる道筋として、もっともスムーズなものをもっていた。<br>龍馬は、その線に乗ってきた。一つには、もちろん、柔軟な発想のできる龍馬の天性の資質によるところも大きい」（同）<br><br>勝も小楠とほぼ同じような考えでした。しかし幕府の中枢にいたことと、アメリカに渡り通商条約批准に関わったことなどから、単純な開国論者であると誤解されることもあったのかもしれません。<br>龍馬も、小楠から勝のことを聞き、興味をもってはいましたが、とにかく会ってみなければわからないと思っていたのでしょう。<br>「斬りに行った」というより、「話の内容によっては、そうすることも心に秘めていた」というのが本当のところかもしれません。<br><br>二人の会合の結果はご存知の通り。龍馬は勝の考えに心服し、そのまま弟子入り、ということになります。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12100176262.html</link>
<pubDate>Sat, 31 Oct 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 09</title>
<description>
<![CDATA[ ●勝海舟が垣間見たサンフランシスコ<br><br>万延元年(1860)、勝海舟は咸臨丸に乗り、日米修好通商条約の批准書交換のために渡米した遣米使節団に随行しています。<br><br>総責任者は軍艦奉行・木村喜毅でしたが、実質的な艦長は操船技術に長けた勝が務めたとされています。（実際は、勝と木村の間で、それぞれを支持するジョン万次郎（勝派）と福沢諭吉（木村派）を巻き込み、主導権争いのようなものがあったという話も伝えられています。）<br><br>「木村喜毅以下96名の日本人と米海軍ジョン・ブルック大尉以下11名の米国人を載せた咸臨丸は、1860年3月17日にサンフランシスコの地に到着しました。（中略）<br>咸臨丸乗組員は、2ヶ月弱ベイエリアに滞在し、咸臨丸の修理が終わるのを待って日本への帰途に就きました。」（在サンフランシスコ日本国総領事館WEBサイトより）<br><br>サンフランシスコ市は咸臨丸が到着した3月17日を記念して「咸臨丸の日」として後世に伝えています。<br><br>「咸臨丸のサンフランシスコ来航はこのように短期間であり、その使命はあくまでも遣米使節団の随伴艦というものでしたが、その功績には極めて重要且つ意義深いものがあります。<br>サンフランシスコにおいては、咸臨丸は初めて米国までやって来た日本の軍艦として、耳目を集め、新聞にも大きく報道されました。<br>木村提督、勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎（ジョン万次郎）ら乗組員一行は、遣米使節団一行と共に初めて米国市民の前に姿を現し、交流した日本人となりました。」（同）<br><br>まだ徳川幕府が支配していた江戸時代、太平洋を渡ってアメリカの街並みや人々を実際に目の当たりした勝は、どんな思いを抱いたでしょう。<br>あまりに日本が遅れていることに愕然としたこともあったでしょう。<br>あるいは逆に日本の良さを再発見したかもしれません。<br><br>いずれにしても、圧倒的な物質文明に茫然とするだけではなかったということは、帰国後、列強の干渉から日本を守るために、幕府や諸藩を横断して奔走した彼の行動したを見れば明らかです。<br>2ヶ月弱という短い滞在期間ではありましたが、元来、勉強熱心であった勝のことですから、先進的な政治体制や産業構造、都市計画など、とても多くのものを吸収してきたに違いありません。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12087451492.html</link>
<pubDate>Sat, 24 Oct 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>020 勝海舟 08</title>
<description>
<![CDATA[ ●幕末という時代を動かした原動力の中心軸<br><br>勝海舟が生きた幕末。二百数十年も続いた徳川幕府の制度疲労に加え、ペリー来航に象徴される外圧により、日本全体が大きく揺れ動いた、まさに日本歴史の大転換の時でした。<br>攘夷／開国、倒幕／佐幕、雄藩連合／徳川軍など、いくつかの対立構造が複雑に入り組んでいました。<br><br>一般的に尊皇攘夷派は、開国に反対であり、天皇の承認を得ずにアメリカとの通商条約を結んだ幕府の弱腰姿勢を強く批判していました。その急先鋒は長州藩でした。<br><br>しかしその長州藩も下関戦争（馬関戦争1864年）の惨敗で列強の力を思い知らされてからは、ただ闇雲に攘夷を叫ぶよりも、まず外敵に対抗できるだけの力をつけなければならないという考えに傾きます。<br>いくら攘夷を声高に叫んでも実力的にそれが不可能であるということ、そして経済や軍事力を強化するためには開国・貿易という流れは避けられないという考えも浸透していきます。<br>そもそも、こうした考えはもともと勝が坂本龍馬や西郷隆盛らに語ってきたことではありました。<br><br>では幕臣でもあった勝自身は、開国への道を歩み出していた幕府擁護の立場にあったかということ、必ずしもそうではありません。<br>外圧に屈して行き当たりばったりの対応しかできない幕府を見限り、むしろその心情は、本来「敵側」にいるはずの志士たちのほうに傾いていました。<br><br>そのとき勝には、攘夷／開国、倒幕／佐幕とは別の「公／私」という対立軸が見えていました<br>幕府が守ろうとしていたのは「公（日本）」ではなく「私（幕府体制・究極的には徳川藩）」でした。それに対して、薩長連合後の倒幕派は「藩」を越えて連携するなかで「日本」という「公」的視野をもつようになってきていたのです。<br><br>幕末に展開された歴史を、改革派と守旧派の対立という単純な構図で捉えると、全体像を見誤ることになってしまうでしょう。<br>開国という時代の趨勢に抵抗して、感情的な攘夷論に支配されていた尊皇攘夷・倒幕派は、一時的にはむしろ「守旧派」に見えなくもありません。<br><br>しかし全体を俯瞰する視野をもっていた勝の視点から情勢を読み解くと、幕末という時代を動かす原動力の中心軸が浮かび上がってきます。<br><br>┌──────────┤書籍のご紹介├┐<br>□<a href="http://amzn.to/1OU8GlC">『勝海舟の人生訓』</a>童門冬二著<br>└──────────────────┘<br><br><a href="https://z106.secure.ne.jp/~z106117/contacts/freemanga/" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20140324/18/activebrains/76/48/j/o0400016612885663567.jpg" alt="無料マンガダウンロード" border="0"></a>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/activebrains/entry-12087451009.html</link>
<pubDate>Sat, 17 Oct 2015 08:00:00 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
