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<title>人生雨のち日本晴れ</title>
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<title>シンディ</title>
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<![CDATA[ 彼女はシンディと名乗ると、ポニーテールを揺らしながら理知的な笑顔で挨拶をした。<br><br>身長は恐らく145cmくらい、クリクリとした目の浅黒い顔立ちはどこかインド系を思わせる美形で、笑うと白く大きな前歯がこぼれた。<br><br>日本語は全くわからないようだが、英語の話し方に知性を感じ、それでいて愛嬌のある女性だった。<br><br>シンディはまだ入店して３ヶ月で、ミンダナオの家族に仕送りするために、BAYSIDEの裏にあるアパートに住み込みで働いていた。<br><br>僕たちは、話の合間にロエルをかませて、彼女の警戒感を解くような配慮をしながら、少しずつ本題に入った。<br><br>ポイントは、近松がガールフレンドを探していることをストレートに伝え、我々が決してヤクザではないことをわからせることだ。<br><br>目的と条件をクリアにすれば、後は不安要素を取り除くことだけだと考えたのである。<br><br>その１つとして、レガスピータワーの部屋がある。単なる旅行者ならその場しのぎの嘘をつくかも知れないが、部屋を構えているとなれば、からかっているのではなく、また資力があると言う証明にもなる訳だ。<br><br>僕は、近松に促されて彼女を部屋に来るように誘った。但し、明日のランチにだ。もちろん、シンディに必要以上の警戒をさせないために他ならない。<br><br>ところが翌日、結局待てと暮らせど彼女は現れなかった。<br><br>ロエルがアパートに迎えに行くと言い出したが、近松はそれを制した。そんなことをすれば、彼女に恐れを抱かせるだけだからだ。<br><br>その晩BAYSIDEに行くと、近松は再びシンディを指名したが、全く怒った素振りを見せず、もう一度誘った。<br><br>但し、今度はロエルにアパートまで迎えに行かせ、夕食を共にして同伴出勤と言うコースを設定した。<br><br>そのために、マネージャーに500ペソを握らせてお店公認扱いとし、彼女が断りにくい状況を作っておいた。<br><br>そんないきさつを経て、シンディはようやく第一歩を踏み出すことになったのである。<br><br>当初のスケジュールでは、今回の滞在は10日間の予定だったが、既に何だかんだと1週間が過ぎていた。<br><br>そして、シンディと出会ってから5日目となる夜、僕は彼女に決断を促した。<br><br>近松のガールフレンドとなる契約に同意するかどうかと言うことである。<br><br>その条件とは、<br><br>・近松の滞在中は、BAYSIDEには出勤せず、常に一緒に過ごすこと。<br><br>・日本からのゲストがある時は、本心にかかわらず、本物の恋人を演ずること。<br><br>・但し、近松からセックスは強要しない。<br><br>・店に対するペナルティは近松が支払う。<br><br>・シンディに対する報酬は、1日当たり1500ペソ（当時の日本円で6000円）支払う。<br><br>と言う内容のものだった。<br><br>僕はシンディに、一晩の猶予を与え、万一返事がＮＯであっても、報復するようなことはしないと約束した。<br><br>彼女には金が必要なはずだった。足元を見ていることにはなるが、双方の利害が一致すれば仕方のないことで、たがら「契約」と言う言葉を使っているのだ。<br><br>シンディにとっては、絶好の条件だったはずで、勇気さえあれば承諾すると踏んでいた。<br><br>しかし、彼女は恐怖心に勝つことができなかった。翌日、ロエルを通じて断りの回答を寄越して来たのだ。<br><br>僕はひどく落胆したが、近松は切り換えが早かった。そもそも、シンディに惚れていた訳ではなく、ダメならダメで次に行けば良いとの考えだった。<br><br>そうして、ロエルには新たな指令が与えられることとなった。<br><br><br><br>
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<pubDate>Thu, 13 Jan 2011 13:50:53 +0900</pubDate>
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<title>現地スタッフ</title>
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<![CDATA[ 僕たちが歓談をしていると、ステージではオーケストラがスウィングジャズを奏で始めた。<br><br>いつも思うことだが、フィリピン人の音楽的才能はとても優れており、どこの店に行っても素晴らしい演奏を聞くことができる。<br><br>BAYSIDEのバンドは管楽器を中心とした15人ほどの大編成で、グレンミラーばりのジャズを始め、オールディーズやホールでダンスを踊る客のために、ワルツやタンゴなどもこなした。<br><br>そんな音楽に思わず聞き惚れていると、突如として背後から目の前にオシボリが突き出された。<br><br>振り向くと真っ白なユニフォームに身を包んだ中年男が立っていて、僕と目を合わせた瞬間「マッサージね、社長！」と言ってニッコリした。<br><br>フィリピンでは男性に対する一般的敬称に「ボス」を使うため、日本人と見れば誰にでも「社長」と呼びかけるのだ。<br><br>僕はそれに苦笑いしながら正面に座る小山の方に目をやると、薄暗がりの彼の背後にも白いユニフォームが浮いていた。<br><br>「いらなかったら断って下さい。オシボリを受け取ったらＯＫと言う意味になります。マッサージをしてもらったら、100ペソくらいのチップをやって下さい。」<br><br>小山はそう教えてくれた。彼によれば、マッサージ師たちはそのチップで生計を立てているそうで、何とか得意客を作ってチップを上乗せしてもらうのに必死なのだそうだ。<br><br>僕の右側の席では、既に大柄で純朴そうな青年に近松が肩や背中を揉んでもらっていた。そして、珍しく彼のお気に召したようで、背後で汗を流す青年に向かって親指を立て、誉める仕草をしていた。<br><br>「気に入ったから、名前を聞いて、チップをはずんどけ。」<br><br>そう言うボスの指示で、僕は彼を手招きすると小さく折り畳んだ500ペソをその手に握らせた。<br><br>ロエルと名乗ったその青年は、満面の笑みを浮かべて恭しくお辞儀をすると「ワタシ、ルームサービスＯＫですね～、社長さん」と僕の耳元で囁いた。<br><br>近松にそれを伝えると、早速後でレガスピーの部屋に来させるようにとの指示が出た。<br><br>ひと通りのマッサージを終えたロエルは、巨体を小躍りさせるように店の奥に歩いて行き、右腕で小さくガッツポーズを作りながら暗闇に姿を消した。<br><br>その晩、ロエルは１時間ほどのマッサージで1000ペソを獲得し、翌日の夜以降もBAYSIDEで毎晩500ペソを稼いだ。<br><br>そんな日々に変化が訪れたのは、3日後のこと。近松はロエルに昼間のガイド兼ボディガードの話を持ち掛けた。<br><br>もちろん、直接話をしたのは僕だが、彼は二つ返事で快諾した。どうやら以前にも似たような申し入れに応じたことがあるようだった。<br><br>翌日から、ロエルは毎日11時にレガスピーに来るのが日課となり、僕は時給50ペソを基準に彼の報酬を記録した。<br><br>後に近松から聞いた話だが、実は初めてロエルを部屋に呼んだ時に、彼自身が近松にそれとなくアピールをしていたのを、敢えてわからない振りをしていたらしい。<br><br>それは、ロエルの人柄を見極めるのと、我々がヤクザではないが特別な日本人であることを彼に印象付けるための近松の作戦であった。<br><br>そして、いつものように、その作戦にはまだ奥があった。<br><br>「ロエル、BAYSIDEにボスのガールフレンドに相応しい女の子はいないか？」<br><br>僕はそう切り出すと、ロエルに近松の好みのタイプを細かく伝えた。<br><br>彼は「もちろん、いるよ～！」と自信満々で答えると何人かの名前を挙げてみせた。<br><br>そう、近松の真意は、ロエルが店の裏側に詳しいことを見越して、仲介させることにあったのだ。<br><br>小山の助言に従うならば、限りなく素人に近い女性を選ぶに越したことはないのだが、こちらには相手の素性を知る手だてがない。<br><br>その点、スタッフのロエルならば、候補者探しにうってつけであるばかりでなく、女性を信用させるにも一役買ってもらえると言う寸法だ。<br><br>近松の相変わらず計算高さに、僕は改めて舌を巻いた。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/afterrains/entry-10670840113.html</link>
<pubDate>Fri, 08 Oct 2010 15:37:47 +0900</pubDate>
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<title>足りないもの</title>
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<![CDATA[ 晴れてホテル住まいからステップアップしたものの、いざ生活しようとすると色々と足りないものがある。<br><br>近松と僕は、まずは近くにあるハリソンプラザに物色をしに出掛けた。そこはちょうどレガスピータワーとシェラトンホテルの中間くらいにあるショッピングモールで、飲食店をはじめとして、専門店やスーパーマーケットが入っていた。<br><br>ＳＭ（シューマート）はフィリピンでも大手のチェーン店で、食料品や家電や生活雑貨を取り扱うダイエーやイトーヨーカ堂のようなところだ。<br><br>僕たちは、取り急ぎ最低限の食器類と近松が好きなコーラやお菓子類をまとめ買いした。<br><br>食器類とは言っても、コップや皿やフォーク、スプーン程度のことで、好き嫌いの激しい近松は、僕に料理をさせることはしない。<br><br>結局いつもファーストフードと言うパターンで、この日もハリソンプラザ内にマックを見付けて、表向きはイヤイヤながらにハンバーガーを買うのであった。<br><br>今回マニラに来るにあたっては、事前にプロモーターの小山に連絡を取り、今夜は「BAY SIDE」で落ち合うことになっていた。<br><br>誰かと待ち合わせの時には、宮本武蔵よろしく相手を待たせるのが近松の常套手段だ。<br><br>それは、相手をイライラさせて本性を見抜くと言う大義名分と自分自身が待つのが嫌いと言う理由からだった。<br><br>約束の時刻に20分ほど遅れて店に入ると、小山は既に着席して一杯やっていた。<br><br>「いやぁ、お待たせして済みません。出掛けに日本から電話がありまして…」<br><br>僕はもっとらしい嘘を言って詫びた。<br><br>小山はフィリピンタイムに慣れているせいか、全く気にする風もなく笑顔で我々を出迎えた。<br><br>今回小山と会う目的は、近松にとって最も不足しているもの、すなわち自室に囲う女性の調達方法の指南を受けることだった。<br><br>「簡単そうでいて、実は難しいんですよ。」<br><br>小山はそう言うと今までの経験を踏まえたポイントを説明し始めた。<br><br>「まず、基本的に水商売の女は止めた方が賢明ですね。それから、日本語が上手なのも避けた方が無難です。」<br><br>つまり、近松のような立場の者がフィリピン女性を囲うのならば、スレていない素人娘を選ぶに限ると言うことなのである。<br><br>そもそも、水商売系つまりタレントたちは、自分で生計を立てられるようになっているため、特定の日本人に囲われることはないのだそうだ。<br><br>店の客相手に駆け引きを演じ、馴染み客を広く持った方が増収につながるのは明白だからだ。<br><br>それと知らずに、いつかを期待して金を注ぎ込むのは、時間と金の無駄と言う訳である。<br><br>また、日本語ができると言うだけで、既に多くの日本人を手玉に取って来た可能性があり、素人と言えども用心すべきとのこと。<br><br>それでは具体的にどこでどうやって、と言う話になるのだが、<br><br>「ここにも結構いますよ」<br>と小山は言った。<br><br>「あの…、水商売は止めた方が良いのですよね？」<br>僕はすかさず疑問を投げかけた。言ってることが違うじゃないか…。<br><br>「はい。実は、この業界には独自のルールがありましてね。」<br><br>小山の言う「水商売」とは、コーラスラインなどのプロが所属している高級クラブであり、ある程度の金が動く環境を指していた。<br><br>それに対して、BAY SIDEのような店は、基本的に中流以上のフィリピン人が客層で、ホステスも田舎から出て来たばかりのアルバイトがほとんどなのだと言う。<br><br>つまり、ここが登竜門になっていて、器量の良い娘たちが徐々にクラスアップしていくという仕組みなのだそうだ。<br><br>なるほどそれでプロモーターの小山がBAY SIDEに出入りしている理由がわかった。彼もまた安くて良い人材を発掘しようとしていたのだ。<br><br>「ただ、難点がありまして、田舎娘なもんですから、社交マナーなどを一から教えなければ、恥ずかしくて外には出せませんよ。」<br><br>日本語ができない代わりに驚くほどガサツな部分があり、矯正が必要とのことだった。<br><br>「運が良ければ、ダイヤの原石が見つかるかも知れませんね。」<br><br>小山はそう言って笑ったが、一歩間違えば我々と競合することになるのだから、内心穏やかではないはずた。<br><br>「タレントとハウスワイフは違いますから、たぶんご迷惑をお掛けすることはないでしょう。」<br>僕は彼に気休めの言葉を贈った。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/afterrains/entry-10610529475.html</link>
<pubDate>Thu, 05 Aug 2010 08:34:53 +0900</pubDate>
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<title>契約</title>
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<![CDATA[ レガスピータワーの512号室は、家賃が28,000ペソ（当時約112,000円）、保証金が家賃の3ヶ月分と言う条件だった。<br><br>仮に毎月2週間滞在するとして、1日当たり約8000円と言う計算である。<br><br>あくまでも、それほど頻繁にマニラまで来ればの話ではあるが、僕にはたぶんそうなるだろうとの予感があった。<br><br>ところで、フィリピンと言う国は、過去にオランダやスペイン、日本など色々な国に占領された歴史を持っている。<br><br>それがために、この国固有の文化と言うものが薄く、料理なども色々な国の特色が融合されたものとなっていた。<br><br>やがて、太平洋戦争以降の米軍駐留によって非常に強くアメリカナイズドされるに至り、その影響が"契約社会"を形成していた。<br><br>不動産に絡む契約は、その中でも典型的なものであり、今回のコンドミニアムの賃貸借契約にも膨大なページの契約書が用意されていた。<br><br>先ほど親切丁寧に部屋を案内してくれた男性は、最後に自分の名刺を差し出すと、確実に512号室を押さえるなら、いくらかでも手付金を払った方が良いと言った。<br><br>渡された名刺にはエドウィン・ラモスと印刷されており、表の看板からして彼がこの不動産屋の経営者か少なくとも身内であろうことが推測でき、一連の言動からは誠実な人物であると思われた。<br><br>近松を振り返ると、彼も同感であるらしく、小さく頷いて手付金の支払いを了承した。<br><br>僕は、財布の中からキリの良い10,000ペソ（約40,000円）を支払い、契約書は持ち帰ってよく検討してからサインする旨を伝えた。<br><br>エドウィンは、手付金の領収証を作成しながら「もちろん結構ですよ」と答え、手付金の取扱いに関する説明をしてくれた。<br><br>それによれば、後日成約に至れば手付金は支払総額に充当され、こちらがキャンセルする場合は手付金を放棄、彼がキャンセルする場合には倍返しと言うことだった。日本と変わらないルールに我々も安心することができた。<br><br>彼はまた、補足説明として、外国人である近松が借り主になることは何ら問題なく、パスポートのコピーがあれば充分であることを教えてくれた。<br><br>後でわかったことだが、512号室のオーナーは日本人（現実の名義は奥さん）で、できれば日本人と契約したいとのリクエストが出ていたのであった。<br><br>その夜、ホテルに戻った僕は英和・和英の辞書と首っ引きで契約書の翻訳にあたった。法律用語の独特な言い回しには苦労はしたが、仮にも法学部で学んだ知識が多少なりとも役に立った。<br><br>翌朝、僕が翻訳内容を近松に報告したところ、帰国したら弁護士に確認するように指示が出た。こう言うことには意外と慎重なのである。<br><br>弁護士については、後日談がある。我々の会社で顧問を依頼している小池弁護士は、僕の翻訳を読んで良く出来ていると誉めてはくれたが、フィリピンの法律がわからない以上は、判断できないと言うのである。<br><br>そこで考えついたのは、会社のメインバンクである三和銀行に紹介を依頼することであった。<br><br>今後のことを考えると、マニラに銀行口座を開設して外国送金をする方が、大金を持ち歩くより安全であり、税務署対策としても効果的であることを考慮してのことだった。<br><br>相談に乗ってくれた副支店長によれば、三和銀行はフィリピンに資本を出資している銀行（リサールコマーシャルバンク）があり、マニラ支店長への紹介の手筈を取ってくれるとのことだった。<br><br>その成果に、近松が喜んだのは言うまでもない。新たなコネクションが開拓できたからである。<br><br>その後、マニラ支店長に紹介された弁護士に契約書のチェックをしてもらい、近松は晴れてレガスピータワーの部屋を確保することに相成った。<br><br>
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<pubDate>Sat, 03 Jul 2010 23:44:36 +0900</pubDate>
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<title>コンドミニアム（3）</title>
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<![CDATA[ 小山が滞在しているアパーテル（アパートメントホテル）は、マニラ市内のエルミタ地区にあって、歓楽街で有名なマビニ通りに出るのに便利なロケーションだった。<br><br>その外観は、日本の中規模程度（100部屋クラス）のマンションそのものであり、玄関を一歩入るとビジネスホテル風の小さなフロントがゲストを迎えるつくりになっていた。<br><br>彼がいつも指定すると言うお気に入りの部屋は、このアパーテルでは一番高級な最上階の角部屋で、調度品も粗悪な国産ではなく輸入品を使用しているとのことだった。<br><br>しかし、部屋に一歩入っただけで、僕には近松の好む雰囲気ではないことを感じることができた。永年彼に仕えて来た勘である。<br><br>そうは言っても、２ＬＤＫの間取りならば必要充分に思えたし、ホテルに長期滞在するよりも半分以下の経費で済むのは魅力的に思えた。<br><br>しかし、独占欲の強い近松には、予約の煩雑さと固定の部屋にならない可能性についても、引っかかりがあるようであった。<br><br>「フィリピンでは、永住権を持たない限り外国人が不動産を所有することはできないんですよ。」<br><br>小さくても狭くても良いから一軒家かコンドミニアムを買えないか、と僕が質問すると、小山はそう教えてくれた。<br><br>パラニャーケの中村の家がナンシー名義なのは、それで頷けた。その辺の事情もあって、日本人と結婚したフィリピン女性は、持ち家を最も欲しがるのだろう。<br><br>女性に心底入れ込んだ日本人男性としては、家と引き換えに結婚を手に入れる訳だが、同時に大集合となった親戚たちまでを扶養すると言う現実に直面して、初めて目が覚めるのであった。<br><br>我々は小山への気遣いからアパーテルについての直接的な感想は控えた。しばらく談笑した後、今晩再び「ベイサイド」での会う約束をして小山に別れを告げた。<br><br>レガスピータワーに移動すると、エントランスには屈強なガードマンが僕たちを出迎えて、用向きを尋ねた。<br><br>僕は、カタコトの英語で、部屋を借りたいので中を見せて欲しい旨を伝えると、彼は入館記録ノートへの記載を促して、3階に不動産会社があることを教えてくれた。<br>　<br>エントランスを入る時にガードマンを横目で見ると、彼が肩に掛けているのがショットガンであることがわかった。<br><br>もちろん本物である。射撃の趣味を持つ近松は、一瞥しただけでそれがどこのメーカーであるかを言い当てたが、僕には覚えられない名前だった。<br><br>建物の中は、眩しい外とは違った薄暗さがあった。たぶん照明設備がよくないからだろうか、マニラのどこに行っても、ホテルのロビーでさえそう感じることが多かった。<br><br>2階には、50～100㎡程度の区画が並び、小さなレストランやカフェなどの飲食店と雑貨店と言った店舗が目立つ位置を占めていた。<br><br>その傍を抜けて更に3階上る。エレベーターホールの正面を逸れて少し奥に行くと、二番目のユニットに"REALESTATE"と書かれた看板が目に入って来た。<br><br>リアルエステートとは不動産のことである。白地に青色の文字でシンプルに表記した店構えが気に入って、僕はそこの入口のガラス戸を開けた。<br><br>来客を告げるボタンを押すと、電子音のメロディーが流れ、やがて仕切りの奥からスタッフと思われる女性が出て来た。<br><br>僕が用向きを告げると、彼女は、再び仕切りの奥に消え、入れ替わりに30歳前後の男性が現れた。<br><br>彼は、空室のリストを見せながら、それぞれの条件を説明してくれた。<br><br>それでわかったことは、レガスピータワーは分譲物件であり、オーナーの希望によって賃料や保証金などが決められていると言うことだった。<br><br>近松は、手始めとして手頃な月額10万円前後の物件を検討していたので、僕はリストからいくつかの部屋を選んで、中を見せてくれと頼んだ。<br><br>21階建ての館内を案内されながら気付いたのは、建物がＬ字型をしていて、できるだけ多くの部屋をベイビュー（マニラ湾側）にするための設計上の工夫がなされていることだった。<br><br>紹介された部屋の間取りは２ＬＤＫが中心で、家具付きのものもあれば、エアコンすらない空っぽの部屋もあった。<br><br>中には、場末のキャバレーのようなケバケバしい内装と調度品の部屋もあり、オーナーの趣味によってまさに千差万別であった。<br><br>最後に見せてもらった512号室は、白を基調とした内装で、最低限の家具も付いていて、近松の気に入るものだった。<br>　<br>低層であるためにさほど眺めは良くないが、大きめのマスターベッドルームと備え付けのキングサイズベッドは、大柄な近松に取っては嬉しいアイテムだ。<br><br>僕たちは再び3階の彼のオフィスに戻り、先ほどの512号室に仮申込みを入れた。<br><br><br>
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<pubDate>Sat, 27 Mar 2010 22:05:32 +0900</pubDate>
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<title>コンドミニアム（2）</title>
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<![CDATA[ 翌日、中村のドライバーが僕たちを迎えに来たのは、午後1時をとうに回った頃だった。<br><br>中村が今朝電話して来た時には「11時には着くだろう」と言われていたのだが、例によって「渋滞に巻き込まれた」との言い訳があった。<br><br>これがまさしく「フィリピンタイム」と言うやつで、日本ならば渋滞を見越して早く出発するのが常識なのだが、中村も既にフィリピン流になってしまっているらしかった。<br><br>そうは言っても、我々もまた渋滞に揉まれながら、マニラ郊外のパラニャーケにある彼の自宅に着いたのは夕方4時を過ぎていた。<br><br>彼の家（名義はナンシーである）は、こじんまりとした一軒家で、蔦の絡まる外壁を持つヨーロッパ調の佇まいをしていた。<br><br>黒く塗られた鉄製の門扉をくぐると、獅子やら壺やら様々な陶磁器の置物が玄関周辺に所狭しと飾されており、若干ながら成金趣味を感じさせた。<br><br>家の中では、ナンシーたちがせわしく夕食の準備をしているところだった。その合間を縫って、彼女は両親や兄弟や子供たちを僕らに紹介してくれた。<br><br>いったい何人がこの家に寝起きしているのだろう。2階建てのこじんまりとした外観から想像すれば、きっと狭い部屋に折り重なるようにして寝ているのだとしか思えなかった。<br><br>「日本に出稼ぎに行って、まがりなりにも成功して、日本人を夫に迎えたフィリピン女性の典型的な家庭がこれさ。」と中村が自嘲気味に小声で言った。<br><br>つまり、１人の女性の両肩に一族朗党の生活がのしかかっていると言うことを象徴しているのであった。<br><br>出された料理の大半は住み込みのメイドが作ったらしかったが、数品を除いてはどれも非常に美味しく、僕としてはフィリピンの家庭料理を堪能することができた。（好き嫌いの多い近松は適当にごまかしていた。）<br><br>食事のあと、デザートやコーヒーをご馳走になりならがら談笑していると、近松が誰にもわからない瞬間を狙って、僕の脇腹を肘で小突いて来た。<br><br>彼をチラリと見やると、"お前はわざわざメシを食いに来たのか！"と言うように、一瞬の睨みで僕を恫喝した。<br><br>そもそも今回の渡比目的はコンドミニアム探しであり、中村からその辺の情報を聞くために、短気な近松が遅刻や渋滞を我慢してやって来たのである。<br><br>僕は近松とのやり取りを周囲に気付かれないようにしながら、おもむろにコンドミニアムの件を切り出した。こう言ったこと全てが僕の役割なのである。<br><br>ナンシーの話によれば、我々の宿泊先であるシェラトンのすぐ近くにレガスピータワーと言う高級コンドミニアムがあり、そこが一番のお薦めとのことだった。<br><br>中村もそれに同意した。近くにショッピングモールがあって生活に便利なこと、セキュリティーがしっかりしていること、そして、マニラ湾に面していると言うロケーションがその理由だった。<br><br>明日は早速そこへ下見に行くこととなったが、さすがにネタを仕入れたからと言ってすぐに帰る訳にもいかず、我々は9時過ぎまで歓談した。<br><br>近松は典型的な夜型で朝は弱い。中村宅を辞してからホテルに戻ってからも、結局2Fのラウンジが閉まるまでバンド演奏を楽しんだため、翌朝は小山から電話のでようやく起きるという始末だった。<br><br>10時に起きた近松が朝食は食べないことはわかっていた。いつもはあと1時間は遅く起きるので、たいていは午後1時頃のブランチとなる。<br><br>僕はそんな近松の生活パターンを承知していたので、8時には起床してこっそり朝食は済ませていた。<br><br>小山は、約束の1時ちょうどに来た。それが近松の機嫌を良くさせたのは言うまでもない。我々はホテルの日本料理店に入り、昼食を共にした。<br><br>僕は早速小山にコンドミニアムの情報を尋ね、昨日ナンシーから薦められたレガスピータワーなるものの評判も聞いてみた。<br><br>彼によれば、確かにレガスピータワーは高級物件で各方面の評価は高いが、果たしてそこまでする必要があるのか疑問に思うとのことだった。<br><br>むしろ彼が薦めるのは、アパーテルと言うアパートとホテルの中間のような施設で、現に小山自身も長期滞在で定宿にしているところがあると言う。<br><br>そこで、僕たちは食事のあとエルミタにある彼のアパーテルを見せてもらうことにした。食事代は近松が支払ったのはもちろんである。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/afterrains/entry-10472203462.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Mar 2010 01:39:58 +0900</pubDate>
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<title>コンドミニアム</title>
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<![CDATA[ それからわずか3週間後、僕たちは再びマニラにいた。<br><br>前回ホテル宿泊に多額の費用を使ったので、マンションの部屋でも借りようと言うのが今度の主な目的だった。<br><br>この渡比に先立って、六本木のクラブ『ピアジェ』で「部長」と呼ばれている中村と親しくなることができていた。驚いたことに、彼はピアジェでナンバーワンタレントであるナンシーの夫と言う立場でもあった。<br><br>もちろん、その事実は店の極秘事項である。タレントが既婚者で、しかも相手が店の関係者とあっては、売上に影響することは間違いないからだ。<br><br>しかし、その情報は中村自身から我々にもたらされたものだった。恐らく彼は、近松がただ者ではないと言う判断から、接近する目的があってわざと秘密を漏らしたと思われた。<br><br>そんな前振りがあって、今回はその中村と連れ立ってのマニラとなっていた。<br><br>中村は、移動中にフィリピン人の国民性や女性の異常なまでのヤキモチ焼きなところなどを面白おかしく教えてくれた。また、居食住など様々な調達方法や相場などの情報も提供してくれた。その見返りに彼が求めているものは、今のところ見当が付かなかった。<br><br>中村はマニラ郊外に自宅を構えていたが、僕たちは取り敢えずマニラ市内のホテルに宿泊することにしていた。空港には中村のドライバーが出迎えに来ていたので、彼の好意に甘えてシェラトンまで送ってもらうこととなった。<br><br>いつもの渋滞を抜けてようやくホテルにたどり着くと、かなりの遠回りになったためか、中村は車から降りずに早々に立ち去った。車内での会話で、明日は僕たちを自宅に招待してくれたので、まだまだ付き合いは継続するとの思いもあったのかも知れなかった。<br><br>その晩の近松は、夜遊びの先を「ベイサイド」に求めた。食事と音楽と女性を一度に、しかもリーズナブルな値段で楽しむことができるからだった。<br><br>席に着いてしばらくすると、近松がふいに僕に囁いた。薄暗く広い店内で、２つ向こうのテーブルの島に見知った顔があると言うのである。<br><br>「おい、俺たちはとことんツイテルな。あれは小山だろ？プロモーターの。」<br><br>プロモーターとは、店とタレント本人と所属事務所の間を取り持つ役割を担う職業だ。タレントは、彼らがいなければ日本に来ることは不可能に近い。店側も売上に貢献するタレントを確保するためには、彼らの腕が頼りだった。<br><br>近松の視線の先に目をやると、その小山が確かにそこいた。彼はピアジェのタレントのほとんどに関わっている腕利きプロモーターだ。彼は我々の知らない日本人と一緒で、４～５人の女性と冗談を飛ばしながら盛り上がっていた。<br><br>同席の日本人がトイレに立った隙を狙って、僕はすかさず小山に近付いて挨拶をした。その日本人が彼の客なのか、それとも友人や仲間なのかわからないので、配慮をしたと言う訳だ。<br><br>彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに近松を見付けて会釈をした。近松も会釈を返した。それを合図に、僕は小山に我々のホテルと部屋番号を書いたメモを渡すと、もし時間があったら滞在期間中に会いたい旨を申し入れた。<br><br>そこに、先ほどの日本人が戻って来たので、小山は簡単に事情を話して離席すると、 近松のいるテーブルまでやって来た。<br><br>「こんな所でお会いするとは驚きましたね。明後日で良ければ、ホテルまで行きますよ。」<br><br>彼はそう言って、当地での名刺を近松に渡し、自分の席に戻って行った。<br><br>近松はコネクションがどんどん増えて行くことに満足げな表情をしていた。<br><br><br>
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<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 11:06:26 +0900</pubDate>
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<title>リピーターになる</title>
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<![CDATA[ シーラのタクシーに乗り込んだ僕たちは、一路センチュリーパーク・シェラトンホテルに向かった。<br><br>途中、片側4車線のロハス大通りに入ると、車は軽快にスピードを上げた。ところが、それもほんのもつかの間、5分ほどで大渋滞に捕まってしまうと、ドライバーは苛立たしげに舌打ちをした。<br><br>僕は前回もこの大渋滞を経験しているが、今度は出発の時のように時間を気にする必要がないので、気持ちに余裕が持てた。<br><br>周囲を見回すと、灼熱の太陽に照りつけられた車のボンネットや屋根から陽炎がゆらめいていた。目玉焼きができるくらいの熱さに違いなかった。<br><br>車は延々とノロノロ運転で、歩いた方が早いくらいだが、誰もそうしないのは外気の猛烈な暑さのせいだろう。そうした車の行列の間を縫って、例のごとく物乞いが蜜蜂のように順番に巡っていた。<br><br>やがて僕は、日頃の疲労も手伝って眠りに落ちた。随分した頃にハッとして目を覚ますと、タクシーはまさにホテルの入口スロープに進入しようとしているところだった。時計を見ると、空港を出発してから1時間半は経過していた。<br><br>チェックインをして部屋に案内されると、近松は思ったより豪華な客室に満足そうな声を上げながら、マニラ湾を望むバルコニーに出て眺めを確認した。<br><br>テーブルに用意されていたウェルカムドリンクと賽の目に切られたマンゴーを頬張っていたシーラが「また明日来るから」と言って立ち上がった。<br><br>そして、ベッドサイドのメモパッドに数字を書き留めると、それを近松に渡した。<br><br>「これワタシのホントの電話番号ね。でも、明日ワタシから電話する。」<br><br>僕はシーラのために日本から運んで来たシーフードヌードルをとりあえず2箱選んで、緩んでいたヒモを締め直した。<br><br>すると彼女は、自分の荷物の中の１つを置いて行くから預かっておいてくれと言い出した。<br><br>「持てなくなっちゃったから、ヨロシクね」<br><br>シーラは笑いながらあっけらかんとして言った。<br><br>つくづく賢い女性である。どうせ車で帰るのだから、荷物が持てないことなど関係ないはずだ。空港での鮮やかな手口を見せ付けた後だから、自分を信用してもらう為に質を差し出したと言うことなのだ。しかも、そうとは言わないところがニクい。<br><br>ホテルの玄関で見送る時に、僕は近松の目配せでシーラにタクシー代として500ペソを渡した。<br><br>翌日、今か今かと待ちわびる我々の気持ちをよそに、シーラから電話があったのは、午後1時を回った頃だった。<br><br>先ほど起きたばかりだと言う彼女は、悪びれた様子もなく「今から行くから」と言いながら「3時か4時」などと曖昧な約束を口にした。<br><br>短気な近松が珍しく「せっかく来ると言うのだから待とう」と言うので、僕たちは更にシーラを待つハメになった。<br><br>結局彼女がホテルに到着したのは、ほとんど5時になりかけた頃で、フィリピンタイムを思い知らされた初日だった。<br><br>翌日もまた遅刻をされてはたまらないと思った近松は、シーラの為に部屋を追加で用意するように僕に言った。<br><br>フロントでの交渉は彼女に手伝ってもらったが、日本で手配したよりもかなり安い室料だったことに驚いた。やはりどこにでもある二重価格と言うやつだった。<br><br>昼間は例によって近松の好きなプールに行くほか、毎日あちこち観光やら買い物やら美味しい料理を食べたりと、あっという間に1週間が過ぎた。<br><br>すると、いつものように近松は延泊をしたいと言い出した。全く子供と同じ行動パターンである。気に入った場所にはいつまでも居たいのだ。<br><br>今回は日本側が暇なシーズンなので、僕はあと1週間位なら問題ないと返事をした。事務所とは毎日連絡を取っているので、近松にも既に支障はないことがわかっていた。<br><br>ところが、シェラトンは満室で延泊が受け入れてもらえないと言う問題が発生。そこで、我々はロハス大通りを挟んでマニラ湾に突き出した場所にあるフィリピンプラザホテルに移動することにした。<br><br>部屋は先ほどシーラに電話してもらって、彼女の名前で確保してあった。やはり日本人が予約を申し込むより割安のようで、1泊150ドルとのことだった。<br><br>ところで、不思議なことにこれだけ毎日一緒にいても、近松はシーラを自分のモノにしようとはしなかった。シーラもまた近松に必要以上に迫ったりしなかった。<br><br>1つには、近松は歌手グループの中では、シーラではなくライニーをひいきにしていたからで、同じグループ内での浮気は避けた方が無難であることと、そもそも彼女は近松のタイプではなかったからである。<br><br>かと言って、好色な彼が何もしないまま我慢するはずもなく、毎晩ナイトクラブに通いながらウズウズしていた。<br><br>マニラでの夜遊びは、大きく4種類に分けることができる。<br><br>1つは、「ベイサイド」に代表される大きなダンスホールを備えた生オーケストラバンドのあるショークラブである。<br><br>客は、ホステスの控室に付いている小窓から覗いて、好みの女性を指名することができるシステムになっていた。但し、基本的にお持ち帰りはできない。<br><br>2つ目は、フィリピンプラザの２階にある「シエテ・ピカドス」のようなホテルのミュージックラウンジである。<br><br>ここでは、かなりレベルの高いミュージシャンが毎晩出演しており、ポップス系のバンド＆ボーカルの時もあれば、ジャズバンドの場合もあった。<br><br>シーラやライニーたちも時々ステージに上がるとのことで、彼らは客席とのウィットに富んだ会話や歌と踊りで我々を存分に楽しませてくれた。<br><br>3つ目は、経営者が日本人の「コーラスライン」などの日本式ナイトクラブだ。客のほとんどが日本人であるのは、店内では普通に日本語が通じて、日本と同じシステムでタレントとのおしゃべりやカラオケを楽しむことができるため、安心して遊べるからなのだろう。<br><br>最後は、いわゆる非合法の赤線地帯である。当然ながら看板は出しておらず、外観は一般の住宅と同じなので素人には全く見分けはつかない。<br><br>タクシー運転手などが口コミでいくつかの店の場所を仕入れており、ケースバイケースで店側からキックバックを得ているとのことだった。<br><br>近松は女好きだが音楽も好きなので、毎晩違う店を最低でも2軒はハシゴするのを日課としていた。<br><br>それは一見すると無節操のようでいて、実は次回以降を見据えた現地コネクションの開拓も兼ねていた。そうすることによって、シーラのようなタレントに頼らない行動が可能になるはずだったからだ。<br><br>あっという間に延泊の1週間が過ぎ、そろそろ帰国をしない訳には行かなくなって来た。どの道、シーラといつも一緒の行動をしていては、近松に取っての楽しみが半減していたので、ちょうど良い頃合いだった。<br><br>近松は、支払にはいつも限度額無制限のVISAゴールドカードを利用していたが、伝票にサインするのはほとんどが僕の仕事だった。<br><br>もちろん、キャッシャー係はカード裏面の署名を確認をするのだが、漢字の署名の真贋を見分けるのは、彼らには無理な話だった。<br><br>もっとも、いつも近松の署名をしていた僕は、本人そっくりに書けるほどになっていたから、仮に日本人でも筆跡鑑定のプロでない限りは区別できないものだった。<br><br>ところで、この2週間の滞在費が100万円近くだったのを受けて、近松が言い出した言葉は、やはり一般人の発想を超えたものだった。<br><br>「なぁ、どうせ毎回これだけホテル代がかかるなら、マンションの部屋を借りた方が安いんじゃないか？」<br><br>彼は既に毎月来るつもりの前提でそんな計算をしたらしい。2人で1週間滞在しても20万円はかかるのだから、確かに家賃の方が安いと思うのは、感覚的には正しいと言えた。<br><br>そうして、僕たちはマニラへのリピーターとなることが決まり、次回の渡航目的の一番は、賃貸マンション探しと相成ったのである。
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<link>https://ameblo.jp/afterrains/entry-10306679218.html</link>
<pubDate>Fri, 24 Jul 2009 23:31:00 +0900</pubDate>
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<title>マニラ再訪</title>
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<![CDATA[ そろそろフィリピンの話題に戻ろう。<br><br>さすがに毎日欠かさずとまではいかなくなったが、近松は相変わらず六本木に通い詰めていた。<br><br>一週間のうち、台湾クラブ「花月」とフィリピンクラブ「ピアジェ」とは、２対４程度の割合となっていた。<br><br>六本木に比べてはるかに近くにある「花月」は、同業者を誘い出すには便利だったし、業者側としても、わざわざ遠い六本木までは行きたくないので、先手を打って「花月」で待つと言う者さえいたからである。<br><br>従って、以前のようにピアジェに"皆勤"ではなくなったのだが、僕にしてみれば、どこに行こうとも朝まで付き合わされ、翌朝は9時までに出社しなければならない状況に変わりはなかった。<br><br>夜のクラブ通いは、本来なら重要な仕事であるはずの「接待」と言う大義名分の下に、実質的には「仕事の打合せ」にかこつけて、近松の趣味が正当化されたものに他なく、周囲に取っては悪しき慣習以外の何物でもなかった。<br><br>業界の中では、このことは既に周知の事実であったが、重要案件についてどうしても近松の協力が必要な者には、到底無視することはできなかったし、近松はそれを承知で翻弄することを楽しんでいた。<br><br>そんなある日、ピアジェの歌手グループに属しているシーラが契約更新のために一度マニラに帰ると言う情報が入った。<br><br>そもそも、何故彼女たちをタレントと呼ぶかと言うと、日本への在留許可が「興行ビザ」であり、芸能人としての活動資格を持っているからなのである。<br><br>歌手の他にも、ダンサーやマジシャンといった芸能に関するフィリピン政府公認ライセンスを持つ者だけが、プロの芸能人として興行ビザを取得することができるのだ。<br><br>これは例えば、Ｘ JAPANがアメリカにコンサートツアーに行くようなものであり、プリンセス天功がラスベガスでマジックショーの公演をやるのと同じ理屈なのである。<br><br>従って、厳密にはタレントはホステスとして接客をしてはならず、客席ではショータイムの出番待ちで遊んでいるだけと言う建て前になっている。<br><br>この興行ビザの有効期間は、基本的に最長6ヶ月間で、必要に応じて更に6ヶ月間だけの延長が可能となっている。新人タレントなどは、このタイミングで店側から延長要請がなければ、いくら本人が望んでも帰国しなければならなくなる。<br><br>例えベテランであっても、あくまでも短期滞在が前提なので、1年を超えて日本にいることはできないし、彼女たちは絶対にオーバーステイにならないように細心の注意を払っていた。<br><br><br><br>「一緒に行くか！」<br><br>予想通り、近松はそう言って僕にスケジュール調整の指示を出した。あの忌まわしい体験（タクシー恐喝事件）を思い出すと、僕はあまり気乗りがしなかったのだが、近松は全く意に介さなかった。<br><br>僕はセブ島に行った時のガイドブックを見返し、まずはマニラ近郊のホテルの物色から始めた。近松がいつも拘るのはホテルだったからだ。<br><br>ガイドブックでシーラの実家があると言う町を見付けられなかったので、僕は観光に便利そうなマニラ湾に面したエリアに候補のホテルを探した。<br><br>その中にセンチュリーパーク・シェラトンと言う名前を見つけたので、僕はそこを第一候補として手配を進めることにした。<br><br>もう１つ僕が心配したのは、彼女の帰国荷物の量だった。クラブ「花月」のさくらが上海に帰国する時の同行旅行では、荷物のことで大迷惑を被ったので、僕は先手を打つことにした。<br><br>そんな心配をシーラは軽く笑い飛ばした。そんなにお土産を持ち帰るのは、ファーストタイマー（初来日の者）くらいのものだと言うのだ。<br><br>たしかに彼女は10回以上は行き来しているベテランだし、今さら運搬に苦労するような大荷物を持ち帰るはずもなかった。<br><br>クラブでは、大抵"さよならパーティー"と称して、帰国タレントのファンをたくさん呼ぶ企画を開催するのだが、ベテランのタレントは、そんなお客たちに対して、したたかに小さくて高い物をおねだりするのだった。<br><br>更に、シーラの様に固定ファンのいるタレントになると、店側が既に次回の契約をオファーしているので、帰国した頃には既に日本行きのビザが下りていることすらあると言う。<br><br>従って、日本のアパートに衣装などを置いたままにすることが可能であり、なおさら荷物で苦労する必要がないのだった。<br><br>ところが、そんなシーラが不敵な笑みを浮かべて猫なで声を出して来た。<br><br>「あの～、ちょっとオネガイあるけど～。いいですか？」<br><br>恐る恐る内容を聞いた僕は、思わず安堵の息を漏らさずにはいられなかった。<br><br>一体何事かと思ったら、カップヌードルのシーフード味を箱単位で買って帰りたいので、手伝って欲しいとのこと。１人で同じ品物を多く持ち過ぎると税関で引っかかる可能性があるらしいのだ。<br><br>それを近松に報告すると、話の意外さに笑いながら、全面協力するように僕に指示を出した。早速僕は大型ディスカウントスーパーに出掛けて、1箱20個入りのシーフードヌードルを6箱仕入れた。もちろん、近松は費用をシーラに請求しなかった。<br><br>そんなこんなで、僕たちは約半年振りにフィリピンを訪れることになった。<br><br>マニラ行きの当日、成田空港には我々以外にも5～6名のファンがシーラを囲んでたむろしていた。ある者は見送りに、ある者は一緒にマニラに行くようだった。<br><br>「邪魔しちゃって悪いね」<br><br>近松が小声でシーラに囁いた。<br><br>「悪いじゃないよ。助かるよ。あのお客さんしつこいから。ワタシホントはキライ。」<br><br>彼女はそう言うとペロリと舌を出して笑った。<br><br>約4時間のフライトで、ニノイ・アキノ国際空港に降り立った一行は、3つに分かれると思われた。シーラとファン連中と僕たちである。<br><br>到着ロビーで、シーラはバッグからメモ帳を取り出すと、手早くそれに何かを走り書きしてビリッと破き、ファンの代表格の男に渡した。<br><br>「これワタシの電話番号。明日電話してね、ＯＫ？じゃあ気を付けてね～」<br><br>そう言うと、そそくさとタクシーに乗り込んでしまった。<br><br>我々は呆気に取られていたが、先ほどの男は電話番号を手渡されて誇らしげにしていた。<br><br>残された２つのグループは、互いに会釈をすると別々の方向に散った。どうやら彼らの方は旅行会社手配のガイドを探しているようだった。<br><br>以前にタクシーで酷い目に遭っていた僕は、怪しげなタクシーを避けるべく、Avis（エイビス）やHertz（ハーツ）といった有名な運転手付きレンタカーを利用することにして、カウンターに並ぶ列の最後尾に付いた。。<br><br>すると、ロビーの外から誰かがしきりに近松を呼んでいるのが聞こえた。声のする方を見ると、何とそこには先程立ち去ったとばかり思っていたシーラがいた。<br><br>「近松サン、はやくはやく！」<br><br>彼女はそう言いながら手招きをして、自分のタクシーに乗るように促した。キツネにつままれたような気分のまま、僕たちはシーラの言葉に従った。<br><br>「やったぁ！うまくいったよ！」<br><br>ドアが閉まると、彼女は車内で小さな身体を踊らせて、満面の笑みでガッツポーズを取った。<br><br>どうやら、彼女は嫌いだと明言をしたファンのグループをまいたと言う訳だ。しかも、後で聞いた話によれば、渡した電話番号は1文字違いの嘘を書いたのだと言う。<br><br>いつの時代もどこの国でも、女の策にはまるのは、愚かな男の下心と言うことなのである。<br><br>僕たちは、マニラ市内のシェラトンに向かった。
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<link>https://ameblo.jp/afterrains/entry-10290212268.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Jun 2009 01:06:55 +0900</pubDate>
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<title>海南島への旅</title>
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<![CDATA[ 海南島は、中国最南端に位置しており、中国では公式には２番目に大きな島と言われている。ちなみに、中国最大の島とは台湾のことである。<br><br>政治的なことはさて置き、経済特別区に指定されたばかりの海南島は、ガイドブックによれば、東洋のハワイと呼ばれる美しいビーチを擁する将来有望な観光地であると紹介されていた。（現在では立派な国際的ビーチリゾートとなっている。）<br><br>この旅にはさくらは同行しなかった。当時の中国人は、基本的に自分の生活圏から勝手に移動することが規制されていたからだ。<br><br>特に、宿泊を伴う観光旅行には自由に行くことができず、必ず上司の許可と共産党の地区本部の承認をもらう必要があった。それがないと、ホテルに宿泊ができないのである。張は我々の訪中がわかると、早速手を回して許可証明書を入手していた。<br><br>海南島には、海口市と三亜市と言う２つの主要都市がある。最終的な目的地は三亜だったのだが、僕たちはまず海口に一泊することにした。<br><br>これには当時の中国らしい事情があった。上海→三亜行きのフライトは、スケジュール表にはしっかりと掲載されているにもかかわらず、中国南方航空の窓口でチケットを買おうとしたところ「飛ぶかどうかわからないので売らない」と言われたのである。<br><br>何故か？と聞いても素っ気なく「知らない」との返事。挙げ句の果てには、海口行きの定期便ならたぶん運航するだろうと言う話だったのである。（くどいが、現在ではその様なことはない）<br><br>そうしてたどり着いた海口市は、海南島北端の臨海都市として工業や貿易が栄え、政治・文化・経済の中心地として隆盛のただ中にあった。ちょうど我々が行った時にも、日本の大手ゼネコンがホテルと思しき大規模な建物を建築中だった。<br><br>島の南端にリゾート地として開発中の三亜市とは対照的で、海口にはこれと言って興味を惹くような観光スポットはありそうもなく、それどころか、建築ラッシュの影響で多くの粉塵が大気中に舞っていたため、空はどんよりと曇っていて、喉がイガラッぽくなるような環境だった。<br><br>その晩、僕たちはホテルの中国料理店でウエイトレスをからかいながら腹ごなしを終えたのだが、またぞろ近松の欲望が頭をもたげて来た。<br><br>張の話によれば、海南島が経済特区に指定されたお陰で、外貨を落としてくれる外国人の訪問が増えており、それを目当てに地方から出稼ぎに来る女性が急増しているとのことだった。<br><br>もちろん、中国でもその様な行為は禁止されていて、中国人は捕まれば死刑、外国人は国外強制退去の上にパスポートに黄色のスタンプが押されて、二度と再入国できなくなるとのことだった。<br><br>また、ホテル側も統制されており、中国人男女が同じ部屋に宿泊するには、結婚証明書を提示しなければチェックインを拒否されるし、ホテルの警備員が抜き打ちで客室を検閲することが許されていた。<br><br>日本を始めとして一般的には考えられないことだが、宿泊客が在室であろうとなかろうと、警備員が勝手に鍵を開けて押し入って来ると言う訳だ。<br><br>従って中国では、ホテルの客室にドアの内側から掛けるチェーンは存在しないのである。（現在では改善されていると思われる。）<br><br>しかし、どんな状況であっても、需要と供給があれば成り立つのがこの商売であり、中国でも例外ではなかった。彼女たちは、ホテルに１人の客として宿泊し、外国人を狙った営業活動をしていた。ホテル内で客同士が同室でくつろいでいるところまでは禁止できないと言う建て前を逆手に取った商法である。<br><br>ホテルのロビーには、場違いに華美で高級そうなな服装に身を包んだ女性が点在しており、よく見ると一定の距離を保ちながら人待ち顔をして立っていた。<br><br>小柄で浅黒く、どちらかと言えば可愛いらしいタイプの南方系民族の特徴とは異なり、色白でスラリとした容貌の彼女たちは、張の話によれば、四川省方面の顔立ちだとのことであった。<br><br>近松は、如何にもソレとわかる彼女たちを相手にしたのでは面白くないと主張し、館内にいるはずの元締めを探して交渉をするように張に頼んだ。<br><br>程なくして、彼は２人の女性を連れて現れた。やはりホテル従業員との癒着があるらしく、比較的容易に探せたようだ。張の陰に隠れて、恥ずかしそうに見え隠れしていた彼女たちは、まだ垢抜けしていない表情をしていた。<br><br>２人は中国人を相手にする素人で、一晩で50元（日本円で1500円程度！）だとのことだった。平均的な中国人の月給が200～300元と言われた時代を考えれば、充分に高額な料金だった。<br><br>近松は、またしても自分だけではなく僕を道連れにしようと執拗に誘って来た。一度言い出したらきかないのが彼のパターンだ。<br><br>精神的に疲弊していた僕は、とりあえず何でも受け入れるように洗脳されてしまっていた。僕としては、近松の無理難題に対処することが自分自身の成長につながると信じるしかなかった。こうして、海口の夜は更けていったのである。<br><br>翌日、我々を乗せた50人乗り小型飛行機が着陸した三亜飛行場には、軍用機や軍事施設ばかりが目立っていた。旅客用施設はと言えば、日本のローカル線で見掛けるような駅舎程度のものしかなく、荒涼とした敷地に乾燥した熱風が砂塵を舞い上げて、僕たちの視界を遮った。<br><br>海口からの搭乗客は我々を入れて10名程度で、見たところ地元民か仕事関係者のようだった。客が少ないのでタクシーもわずかしかなく、張が先客を乗せた運転手に無線で車を回すように頼んでくれた。<br><br>猛暑の中で待たされた時間は、1時間にも2時間にも感じられたが、実際には20分ほどで１台のダイハツの小型車がやって来た。クーラーの効いた車内に滑り込んだ僕たちは、思わず溜め息を漏らした。<br><br>海南島は東シナ海に面した最果ての島だが、そこかしこに戦争の爪痕が残されていた。戦時中に旧日本軍が敷設した鉄道が現在でも現役で運行されていたのには驚いた。しかも蒸気機関車である。昭和26年生まれの近松は、ノルタルジーを感じて記念乗車をせずにはいられなかった。僕にとっては、この時が生まれて初めてのＳＬだった。<br><br>また、三亜の海岸には中国最南端を表す名所があった。地理上の果てを示すモニュメントのように「天涯」と言う文字が灼熱の砂浜にそびえる巨大な岩に刻まれていた。<br><br>その文字の窪んだ部分は朱色に塗られていて、周囲の風景とは全く調和していなかった。それもそのはずで、ここは唐の時代には罪人の流刑地だったとのことであった。<br><br>それよりも我々の目に奇異に映ったのは、その砂浜に観光用と思われるラクダがいたことだ。「砂漠にラクダ」と言う構図が面白いからなのか、カメラマンがパラソルに机とイスと言う出店を広げて、観光客に記念写真を勧めていたのには笑うしかなかった。<br><br>僕たちは「大東海海浜度假区」（大東海ビーチリゾート地区）に建つリゾートホテルの中で、最もプライベートビーチが整備されているホテルに宿泊していた。日本人にはまだあまり馴染みのない場所であるにもかかわらず、欧米人の多いことには驚かされた。<br><br>北緯18度と言うハワイと同じ緯度に位置する三亜のビーチには、人影はまばらにしかおらず、娯楽施設も何もないからこそ、本当にのんびり過ごす術を知っている欧米人の好むところなのかも知れなかった。<br><br>数日間の滞在期間中、我々は東シナ海沿岸のビーチを方々訪れてみたが、亜龍湾のビーチはまた格別だった。真っ白な砂浜の砂を手に取ってよく見てみると、珊瑚が細かくなったものであることがわかった。それはまさしく星の砂であり、歩く度に雪を踏みしめる時のようなキュッ、キュッと言う音がした。<br><br>近松は、どこの土地に行っても必ずそうするように、相変わらず夜は繁華街へと繰り出すことを望んだ。もっとも、開発途上のリゾート地であるから、繁華街とは言ってもポツポツと点在する屋台と新規に開店したばかりといった風情のカラオケや酒把（チューパー、居酒屋の意味）のネオンが場違いな輝きを放っているだけだった。<br><br>張に導かれるままにとあるカラオケ店に入ると、薄暗い店内はまるで1970年代のゴーゴーバーのような喧騒で、誰かが歌うカラオケに合わせて多くの男女が入り乱れて踊っていた。<br><br>そして、ここでも需要と供給のバランスが崩れていないことを僕は思い知らされた。ブラックライトに照らされて白いシャツやスカートを浮かび上がらせた妖艶な女性が入れ替わり立ち替わりこちらに接近して来たのだ。<br><br>近松と僕は、それぞれに好みの女性を選び、彼女たちに案内されて、道路を挟んだ向かいの建物に連れて行かれた。そこは、一見したところ1階は喫茶店で、上の階は住居になっているようなところだった。<br><br>急な階段を3階まで上がると、廊下に小部屋がいくつか並んでおり、すれ違いで階下に降りて行く男女の姿もあった。部屋の広さは3畳ほどしかなく、乱れたシーツが生々しかった。僕は彼女に200元を払った。<br><br>実は、3年後に再び三亜に行く機会があったのだが、その発展ぶりには目を見張るものがあった。全ての道路はきれいに舗装され、立派なホテルが建ち並ぶ国際的ビーチリゾートに成長していた。<br><br>市内の飲食店も充実しており、ブランドショップも進出して来るとの話も耳にして、まさに破竹の勢いがあった。<br><br>その分、様々な物価も高騰し、一晩お付き合いする料金も10倍に跳ね上がっていた。ある意味では、国際標準価格になったのかも知れなかったが、その勢いに乗り遅れる人々も当然いる訳で、僕たちは市内の目抜き通りで物乞いをする人にしばしば出くわした。<br><br>共産主義の理想が崩壊していく一端を垣間見た気がした。
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<link>https://ameblo.jp/afterrains/entry-10270416031.html</link>
<pubDate>Fri, 29 May 2009 22:11:45 +0900</pubDate>
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