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<title>涅槃への一人旅</title>
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<description>祖父母に起こった不思議な現象をきっかけに、神秘現象を探求するようになりした。</description>
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<title>126日目　書籍紹介“催眠と前世”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/9c/57/j/o0480064015608369611.jpg"><br>　前回の投稿以来、色々と勉強してきたが、この“心霊”といわれる世界も実に難しい。何が真実で、何が虚偽かの判断をつけることは現実世界でも困難なことが多いが、心霊の世界ではなおさらで、「心霊などあるはずがない！」という立場に立てばすべてが虚偽になる。世間の多くの人はそのように考えているが、「科学は観察から始まる」という信条に忠実であろうとすれば世評に惑わされる訳には行かない。じっくりと観察し、仮説を立て、実験を繰り返し、証明していく。その初期の段階からなかなか抜け出せない分野なのであろうが、仮説を立てられない以上、まだ観察を続けて行くしかない。<br>　20数年前、米国精神科医のブライアン・ワイス氏の『前世療法』という本を読んでビックリした。本の背表紙に翻訳者の連絡先がのっていたので、電話をした記憶がある。「本当のことか？」と聞きたくて二言三言交わしたが、バカなことを聞いたものだと今では思う。これ以来、日本でも“催眠と前世療法”のブームが到来したが、当時は映画の『タイタニック』が流行っていた。催眠下で「自分はタイタニック号に乗っていた」と発言するクライアントが多いとある本に書かれており、さすがにこれは映画の影響と考えるのが妥当であった。私が現在の日本の催眠療法家の第一人者と考えている大谷彰氏は、「催眠下では、抑圧と空想の入り混じった精神分析でいうところの一次思考過程が表出される。長続きしない偽記憶も生産され、事実確認が必要で、米国の法廷では発言内容は採用されない」とある学術雑誌で述べている。まさにその通りで、“前世”での出来事などという発想はまったく出て来ない。<br>　ではワイス氏の『前世療法』（原著“Many Lives, Many Masters”は1988年発刊、日本語訳は1991年）を観察していこう。氏は、1944年生まれ。コロンビア大学で化学を学び、エール大学医学部に進学。子供の死を契機に精神科医となり、大学・病院などで部長・教授などの要職につき、専門分野でも多くの論文を発表していて、伝統的な科学的思考が頭を占めていた人物である。この段階だけでも私よりははるかにまっとうな精神科医であり、発言も信用できると思うが、1982年頃に同じ病院で働く20代の検査技師キャサリンの治療を始めてから人生の方向が大きく変わっていった。1年を越す標準的な精神科治療では彼女の神経症（強迫観念、恐怖症）は改善せず。博士が数百例の実施経験を持つ催眠療法を施すことになった。“過去に体験した人生”を思わせるような、年代や名前、出来事や周囲の状況などを詳しく、しかも多くを語っていった。催眠を受けるごとにキャサリンは改善していき、語る内容も繰り返しが多くなってきたため、1984年頃には治療を終了している。色々と面白い“過去世”や数人の“マスター”からの訓示も出てくるが、特に興味を引いたのは第5章にある「ロバート・ジェロッド（Jarrod）があなたの助けを必要としている」とキャサリンがワイス氏に言った下りである。<br>　<br>　さて、『Discovering the Soul（「魂の発見」くらいの訳？）』を紹介したい。ロバート・ジャーモン（Jarmon）著、1997年発刊。副題は「ある精神科医と彼の患者の驚くべき発見」。氏は長年内科医として働き、精神科実習を受けてニュージャージ－で開業し、1987年から精神科治療に特化した。おもに退行催眠を使い、肥満や喫煙などの現在の問題を解決してきた。義母の死の際の不思議な現象、死んだ夫が訪ねてきたと訴える患者、1300度はあろうかという燃える石炭の上を裸足で歩く儀式への参加などを通して、徐々に神秘的なものに対して心が開かれていった。1986年、婦人科的な訴えのあるアンナという30代の看護師に催眠療法を施行したところ、19歳のエリザベスのことを語り始めた。10回ほどの人生を語って改善していったが、蝶で飾られる「癒しの寺院」で働いていたとも話す。この頃ジャーモン氏はワイス氏の『前世療法』を読んでいた。両氏の父親には共通点が多く、義母二人も同じ病気で亡くなっていた。また育ったところも5マイル離れているだけであり、本には「ロバート・ジェロッドが助けを求めている」とも書かれていた。このため早速ワイス氏に電話をして会うことになった。患者のアンナは催眠下で「ワイス博士は年上の上級治療者。ジャーモン医師と一緒に働いている。神殿には柱があり、裏には庭園があり、長い白いローブを着ていた」と語り、ワイス氏が思い出した自身の“過去世”と共通点が多かった。<br>　<br>　以降もジャーモン氏は、ワイス氏と連絡を取りながら催眠療法を使って多くの患者を治療していき、様々な神秘現象を体験して行ったが、最後に“憑依とその治療”についての氏の意見を紹介したい。<br>　30代のクリスという男性。不安、自己不信、夫婦不和の改善のための受診であったが、「邪悪なものが頭を支配する」という訴えもあった。教会で聞いたことのある悪の勢力と関係があるかも知れないため、司祭に相談するようジャーモン氏は伝えた。<br>　数日後の催眠セッション中、態度が急に変わり、「彼は私のものだ！」「私は離れない！」などと怒ったように話す。憑依の除霊で博士論文を書いた友人の臨床心理士のアドバイスを思い出し、「神の光が届きますように」「光の中に行きなさい」と諭すも「私は去らない！」と返答。催眠状態から徐々に現実に引き戻したが、患者は心の中のものを追い出したいと考えていた。<br>　祭司の立ち合いは拒否されたが、後日、看護師の協力を得て拘束具を準備し、催眠誘導は上記心理士が行った。クリスは奇妙な声で「私はグレゴリー。私は幸せ、ここに残る」という。光の中に戻ることを伝えるも怒り出す。聖水を顔にかけ、十字を切り、神の愛を伝えると、激しい衝突のあと急に静まり返り、「それは去った」とクリスは語った。4時間かけて憑いていると思われる残りの6人も去るよう説得した。その後1年間はクリスは穏やかであり、3年後はフラストレーションはあるものの怒り出すことはなかった。多重人格の恐れはあるものの、時間がかかることなどから勧めれる治療法ではなく、ジャーモン氏の肩についている天使も「ほっておけ、他に餌はある」と言っているらしい。<br><br>　バチカンでは今でもエクソシストが活動していると聞く。聖書には憑依と除霊の話がよく出てきており、キリスト教の世界では医療と宗教が各々の役割をもって共存しているのであろうが、本邦ではどうなのか？宗教がない分、すべてが医療に押し込まれている可能性があり、もしあるとすれば前世よりは憑依の方が重要なのかも知れない。
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799526.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Jul 2024 14:41:40 +0900</pubDate>
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<title>125日目　日本心霊科学協会</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/a5/a9/j/o0480064015608369605.jpg"><br>またまた久しぶりの投稿になった。言い訳にしかならないが、次の予定のお釈迦様御涅槃の最後の言葉をまとめる力量が欠けている、仕事が忙しくなった、その他のことをしなければならなくなった、などなどご理解のほどお願いします。<br><br>さて、日本心霊科学協会にも入会し、ここ半年は毎回関西支部会の例会に出席している。それでふっと「第20回心霊科学研究発表会」が9月24日に東京であることに気付き、私のブログもまずまずまとまって来たのでそこで発表することを思い立った。一般部門で申し込んだが、学術研究部門に回された。発表時間が25分とあるものの、7ページあるような抄録を提出したのでそれを早口で読む事になってしまった。聴衆にはお経の話ばかりに聴こえたと思う。<br><br>このブログで解説してきたことの繰り返しになり、新たな霊現象は出て来ませんが、要約されているので読みやすいかも。誤字、脱字を修正し、分かりやすいように一部追加した“抄録”を掲載します。<br><br>JPSA 第20回心霊科学研究発表会　論文抄録（令和5年）<br><br>【学術研究部門】<br>霊告「浄土への道標」の調査　　TK（〇〇病院　精神科医師）<br><br>要旨　<br>　発表者の父方祖父である林領一（1902～1991年）は、昭和5年の28才当時、岐阜県内の工業高校の教師として働いていた。右耳後ろの腫れもの（リンパ節炎？）治癒後、地元の地蔵尊にお礼参りに行ったあとから霊告が始まった。おもに学校からの帰宅後、眠気をもよおしたあとにトランス状態となり、閉眼したまままたは開眼状態で仏教にまつわる話をし、長い時には一時間にもわたっていた。これを教員資格を持つ妻である発表者の祖母（1902～1989年）が速記し、昭和56年にその主要な部分をタイトル『浄土への道標』1)(以下,56年版と呼ぶ。）として自費出版した。平成25年に発表者らが仏典に関わる話を要約して“改訂版”2)として出版し、またネット上3)にも同タイトルで公表した。<br>　令和2年、縁あって56年版のもととなる“清書版”が親戚から発表者のもとに送られてきた。全三巻からなっており、和紙に墨で書かれ、綺麗な表紙で製本されていた。その中には速記したものを翌日あたりに清書したことがはっきりと書かれており、また鉛筆で速記した一部もみつかり、その内容も56年版に書かれていたものと同一であった。<br>　これらのことから、56年版『浄土への道標』に書かれていたことが実際に起こったことであることが断言できた。そしてそこに書かれている仏教説話について調べたところ、多くの個所で大乗仏教の経典に基づいていることが判明した。<br><br>1.はじめに<br>　霊告・霊訓といわれるような霊界通信はアラン・カルデックの『霊の書』をはじめ数々となされてきている。その多くは幽界、霊界、神界などの状況を伝えてきているものであり、その世界の美しさや素晴らしさ、不思議さ、そこでの生活や規則などはうかがい知れても、その内容の真偽を確かめるすべが現世に生きる平凡な我々にはない。シルバーバーチの霊訓でもその信憑性を判断するには、彼が語ることの論理性、首尾一貫性、そしてその語り口の高潔さからその内容を判断するしかない。<br>　発表者の父方祖父である林領一は、高校教員であった28才の当時から睡魔におそわれたあとにトランス状態となり、昭和5年7月から20年3月までの間の計233回にわたり寝言のようにして霊告を語ってきた。長い時には1時間を越えて話すことがあり、語る言葉を妻である発表者の祖母が速記し、昭和56年にその内容が出版された。林領一の孫である私たちはさらに要約して、平成25年に改訂版として同名タイトルで私費出版したが、インターネット（以下、ネット版）でもその内容は確認できる。<br>　林領一は、「前世では高僧であった」と述べており、本の内容にも多くの仏典に関わる話が書かれている。出版当時には専門家でしか確かめることの困難であったことが、検索エンジンの発達した今日では一般人でも調べることができるようになった。このためその調査内容を発表することとした。<br><br>2． 目的<br>　霊告・霊訓でも、霊媒や周囲が知らないことを霊が語り、後でその語った内容が真実であると確かめることができれば信憑性が高くなる。56年版と清書版の微妙な違いなどを確認し、また清書版を詳しく読んで信憑性を確かめることにした。<br><br>３． 本論<br>3.1.1　研究方法<br>　昭和56年に発刊された『浄土への道標』は、国会図書館、岐阜県図書館にも所蔵されているが、その元となった発表者祖母の直筆の清書版ともいうべき本は、令和2年に縁あって親戚から発表者の元に送られてきたものである。その内容を56年版と比べながら精査し、インターネットや仏教書で真偽を吟味し、必要時には大蔵経データベースを利用した。<br>3.1.2　背景<br>　林領一の略歴については、56年版、改訂版・ネット版に書かれている通りであるが、祖父は明治35年に岐阜県揖斐郡で出生。同胞8人中、第5子、3男にあたり、実家は炭問屋を営んでいた。祖母も同年に生れ、同胞4人中の第1子、長女。お互い21歳の時に結婚し、祖母の両親と同居するようになった。昭和7年頃には自宅を構え、五子をもうけるが、発表者はその第二子次男（昭和2年生まれ）の第二子にあたる。<br>　父方祖母の父、発表者の曾祖父（生年不明、昭和27年没）は当時、日本赤十字社に勤務しており、浄土真宗についてはある程度の知識を有していたと思われるが、祖父母に関しては清書版や本人を直に知る発表者から見ても仏教についてほとんど知識がなかったものと思われる。<br>3.2　研究結果<br>　56年版、清書版と既出の経典、仏教書で確認したが、出典の分からない箇所はあるもののほとんどが下記に示すとおり一致している。出典元を以下に示し、『浄土への道標』の本文についても一部を掲載したが、詳細については改訂版・ネット版をみていただきたい。また発表者は当演題に関わる内容をブログ『涅槃への一人旅』4)（以下、当ブログ）に投稿しており、そこで詳しく解説している。<br>3.2.1　浄土真宗に関わる話<br>・『浄土真宗聖典－勤行集―（小）』拝読用法語Ｐ166：「朝（あした）には紅顔ありて・夕（ゆうべ）には白骨となれる身なり」「紅顔むなしく変じて・桃李のよそおいをうしないぬるときは」の記載と漢字・ひらがな、句読点などが異なるくらいで、『浄土への道標』の文章とほぼ一致する。<br>・『浄土真宗聖典』（1988年初版、本願寺派発刊）P187：【72】「まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。・・・（以下続く）」という極楽往生についての因縁の説明がある。『浄土への道標』では2個所にこの話が出てくるが、ともに同じ内容ではあるものの「業識（がっしき）」が「業誠（ごうまこと）」になっており、同じところでの間違いがみられる。<br>・『浄土真宗聖典－勤行集－（小）』Ｐ42、高僧和讃：「本願力にあいぬれば　空しく過ぐるひとぞなき　功徳の宝海みちみちて　煩悩の濁水へだてなし」は、平仮名と漢字との差があるだけでまったく同じ文章である。<br>・『覚如上人拾遺古徳伝絵詞』黒谷源空聖人四末、第五段：法然聖人が京都・黒谷で説法した屋敷の縁の下に泥棒が忍び込んで、その法話を聞いていたという話であるが、『浄土への道標』では「摂津国の大泥棒」のタイトルになっている。56年版、改訂版では二度この話が出てくるが、『拾遺古徳伝絵詞』を含めた三者で大泥棒の出身地、殺されかけた時の様子、その後の状況などで微妙な違いがみられる。<br>・『蓮如上人御一代記聞書』（本願寺派“浄土真宗聖典”、P1252）（63）：「－仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあり。ただわかきときたしなめと候ふ」という若い時からの信心の勧めであるが、ほぼ一致している。<br>同じく、「行住座臥」「猟、すなどりもせよ」の文言でも一致。<br>・『浄土への道標』では、浄土三部経の一つ、仏説観無量寿経の下品中生と十三観想の第十一番目が語られており、経典との一致点が多い。<br>・源信和尚の『往生要集』（1996年発刊、本願寺派『浄土真宗聖典－七祖篇』P837）の天人五衰についての記載：天人にも五衰があらわれ死にいたるという話ではあるが、色々な経典にでてくるも、五衰の内容で若干の違いがみられる。『往生要集』の五衰は、1頭上の華鬘が萎む、2天衣に塵垢が着く、3腋下に汗が出る、4両目がしばたく、5住まいを楽しまず（不楽本居）であるが、『浄土への道標』では五番目が「不楽本座」となっているだけで、他の経典に比べて一番近かった。<br>3.2.2　賢愚経に関わる話<br>・国訳一切経本縁部七（昭和5年発刊）P223、『賢愚経』35、「尼提、度する縁の品」：便処理を営みとしていた尼提が、釈迦牟尼のお目にとまり、徳を積むという話であるが、前半部分で一致点が多い。経典では尼提の前世譚が書かれている。<br>・国訳一切経本縁部七（昭和5年発刊）P138、『賢愚経』20、「難陀の一灯」：有名な「貧者の一灯」の話であるが、経典には難陀や釈迦の前世譚が語られている。<br>・国訳一切経本縁部七（昭和5年発刊）P176、『賢愚経』27、「迦旃延、老婆を教へ貧を売るの品」：迦旃延が、布施するものが何もないという老婆に説く話であるが、『浄土への道標』では「念仏を唱える」などとあり、多少の違いがみられる。<br>3.2.3 法句譬喩経に関わる話<br>・法句譬喩経悪行品第十七第二話（真理の偈と物語『法句譬喩経』現代語訳、2001年発刊）：釈迦牟尼の「九横の大難」の一つで、「琉璃の殺釈」といわれている。コーサラ国のビルリ王に釈迦族が殲滅された大難である。いくつかの経典で言及されており、災難を恐れた目連尊者が人々の救済方法を釈迦に進言したが、「釈迦族の宿縁が熟して、その報を受けようとしている」と言って申し出はすべて斥けられた。しかし目連は神通力によって4，5千人の舎衛国人を鉢の中に入れて虚空の星宿の際においたが、ビルリ王の進軍後に多くの人々が殺された。目連が舎衛国人を救ったことを釈迦に報告すると、確認してみよと言われ、鉢の中を見てみるとみな亡くなっていた。釈迦は「生老病死など七事は免れることはできない」と目連に説いている。『浄土への道標』には、１ビルリは第二皇子であり、兄を殺して王位についた、2鉄鉢に入れて5千の人を虚空に上げたがすべて亡くなっていた、3「生老病死禍業因縁はどうすることもできぬ」と七事について記載されており、引用元は法句譬喩経であると断定した。<br>・法句譬喩経無常品第一第六話（真理の偈と物語『法句譬喩経』現代語訳、2001年発刊）：仏説四不可得経にも説かれているが、神通力を持つ四人の兄弟が寿命の尽きることを知って空中、市中、大海、大山に身を隠した話である。『浄土への道標』での隠れた順番は、空中、海の底、須弥山、町中となっており、須弥山がでてくることから引用は法句譬喩経と判断した。<br>3.2.3 法華経に関する話<br>・譬喩品第三『三車火宅』と信解品第四『長者窮子』：『長者窮子』の話を「三車一車」として説明しているなどの間違いはあるが、話の内容は概ね経の本筋とよく合致する。小乗よりは大乗が重要であることを説いている。<br>・56年版の昭和7年第7回2月6日にでてくる話であるが、方便品第二にある「我は、仏願をもって観じて六道の衆生を見るに貧窮にして福慧なし　生死の険道に入って相続して苦絶えず」とほぼ同じ文章が記載されている。『浄土への道標』には「華厳経の終りの方に」と書かれており、明らかな間違いがみられる。<br>3.2.4 その他の経典<br>・国訳一切経本縁部七（昭和5年発刊）P34,『百喩経』54、「蛇の頭と尾と共に前に在るを争う喩」：経典よりは『浄土への道標』の方が長く、教訓が述べられている。百喩経からの引用はあと１，２ケ所あり。<br>・金光明最勝王経第六巻『妙憧』：釈迦牟尼が自ら「私は80歳で成仏する」と述べたところが一致する。<br>・大般涅槃経（昭和11年原田霊道著『新訳　大般涅槃経』P229）、『第17　解脱道の十徳（高貴徳王菩薩品）四、闡提の成仏』：四匹の蛇、逃げる臣下と追う五人の旃陀羅、六人の盗賊や行手を阻む大河や渡河のための筏の話であるが、喩の部分では一致点が多い。<br>・仏遺教経『大八人覚』：「汝達比丘、若し諸の苦難を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽為りとす。不知足の者は富めりと雖も而も貧し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の憐憫する所と為る。是れを知足と名づく」という知足についての説明であるが、ほぼ同じ文章が『浄土への道標』の見出し「知足」で書かれている。<br>・中阿含経中阿含大品十九善生経第十九の「六非道」の話：南伝仏教の『シンガーラの教え』にも「財を散ずる六つの門戸」という題名で出てくる。六非道とは、１飲酒、2夜に出歩く、3祭礼舞踏などの熱中する、4賭博など、5悪友、6怠惰とあるが、4、6が『浄土への道標』で一致した。<br><br>4.　結果と考察<br>林領一夫婦には仏教的知識があるという自覚はまったくなく、しかもナルコレプシー（睡眠発作と入眠時幻覚を特徴とする疾患）のように急に睡魔が襲い、トランス状態に至り、話し方を変えがなら複数人からの情報であるかのように語り出す。それを教養のある妻が鉛筆で速記し、翌日あたりに筆で清書していた。難しい漢字は林の魂か林に憑いた霊か、または途中まで同居しており多少の知識のあった妻の実父に聞いている。このため意味と価値のある文章が現代まで残された。<br>大正6年に漢訳経典が国訳大蔵経として和訳され始め、昭和5年には多くの経典が国訳一切経として一般に読めるようになったが、霊告はその年から始まっている。林領一か量子が国訳経典を読んでいたのではないかと勘ぐってしまうが、その場合では祖父母、曾祖父みなが嘘をついたことになる。また清書版には量子が「自分で速記した」「なるべく正確に速記した」と書いているし、当時は両親と同居はしていても5歳と3歳の幼児を抱えていた。霊告は多い時で連夜に渡り、「翌日清書しようとしたが」という量子の記述もあり、速記したメモもみつかっている。また清書版に書かれた林量子の文面にも、その一部を代理で清書した実父の文面にも国訳経典の話は一切出てこない。国訳経典などを読んでそれを写したにしては引用元についての記載に正確性が欠けるところがみられる。（『覚如上人拾遺古徳伝絵詞』を『拾遺古読本』としたり、『賢愚経』を『賢愚禄』としてみたり、『八大人覚』を『大八人経』としてみたり、『天寿国繡帳』を『天寿国曼荼羅経』としてみたりなど）。林領一が語った仏教に関わる多くのことは、時に一言違わず、時に大筋では経典に似るものの「念仏」の重要性を説くものになっており、この点も国訳経典を写したこととは異なる。当ブログ120日目に記載しているように、祖母とその実父が祖父の語った文言について話し合っている時に、トランス状態の祖父からの解説が加わっている。そして清書版に書かれた言葉を祖母が自信がないために56年版では省いていた。これらのことから、総合的にみても漢訳経典を読んで人為的に作成したとは考えにくい。<br>56年版の昭和5年57回11月22日の終りの方に、林領一は覚醒後「自分はずっと以前、前世の時に高僧に生れて多くの衆生を済度した。あれから長らく浄土に居て、此度済度の為出て来れり。」との記載がある。当ブログ21日目の昭和5年第9回10月4日には「(〇）（＝林が語ったとされる印）何かしら喉に入った。ああ印度と云うは暑いですね、これが印度ですか、よう来ますね、ああガンジス河が流れて居る、ここがブタガヤで御釈迦様が御修行なさった処じゃ菩提樹が有る。向うの方に見えるのは・・・」との記載。ネット版・改訂版では昭和5年第14回10月18日に「今から三千年前の昔の御修行がありありと思い出されて仏様の御修行を話させてもらった」と言ったあと、子どもたちに言及している。改訂版・ネット版の昭和6年第33回3月16日には、自分の心情を吐露したあと「私は前世はインドの国にいたが、中々暑かった。今生は豊葦原瑞穂国に生まれた。この内に因縁あって来た」との記載がある。覚醒後に語ったり、子どもの話などをしながら語っていたりするところを見ると、林領一の本霊が語っているようにみえる。林領一の妻の量子の実家の菩提寺が浄土真宗大谷派であり、『浄土への道標』には浄土真宗に関わる話が多くでてくることから林領一の前世の一つは大谷派の僧侶と考えられたが、特定するヒントは得られなかった。<br>　トランス状態は変性意識状態とも呼ばれ、瞑想や催眠、強度の疲労などで現れる。催眠では「意識野が狭窄」して、被暗示性が亢進してくるといわれているが、意思決定や問題解決などをつかさどる前頭葉前野から、心理的葛藤を調整する前部帯状回が分断されていることがfMRIなどで確認されたという報告がある5)。巫女型霊媒や林領一の霊告のような心霊現象に対しても、同様の検査で霊が作用する部位やその作用によって活動してくる脳の部分は判明するかも知れないが、霊がどのような機序で物質であるはずの脳に影響を与えるかは分からないであろう。心霊研究においては、事例報告も重要ではあろうが、量子脳理論や超ひも理論などの近代物理理論からの推論も必要と考えているが、当ブログが終わった訳ではないので発表者はその続きをして行かなければならない。<br><br>まとめ<br>1　発表者の祖父の霊告を祖母が速記してまとめた『浄土への道標』について述べた。<br>2　この本にでてくる数々の仏教説話を調べた結果、浄土真宗的な色彩は濃いものの、もとの経典の多くを確認することができた。<br>3　『浄土への道標』の信憑性と、祖父の前世についての考察も行った。<br>4　霊告・霊訓の中でも、このように仏典について数多く語る例を発表者は知らない。<br><br>参考文献・資料<br>1)林量子編集『浄土への道標』、昭和56年9月発刊<br>2)林量子著、みなもとしん編集『仏界交信　浄土への道標』、2013年2月発刊<br>3)浄土への道標、URL：http://minamotonoshin.life.coocan.jp/<br>4)涅槃への一人旅、URL：https://blog.goo.ne.jp/afvqv103<br>5)大谷彰、催眠誘導ハンドブックP149、2013年金剛出版発行
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799521.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Oct 2023 09:09:00 +0900</pubDate>
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<title>124日目　説明⑯“聖道門と浄土門（2）”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/ec/b1/j/o0480064015608369597.jpg"><br>123日目で説明したように、“聖道門と浄土門”の二回目の話しは、昭和5年第49回の11月14日夜に始まっている。清書版の始まりは短い。<br><br>　聖道門と浄土門との御説教（続き）<br><br>宵に（量子の）母一人でひねっている。量子草臥れてうとうとしている間　別に何のお話しもなかりし由。<br>起こされて目を覚ます。△△（柳ケ瀬）の来らるるのを御待兼だったかの如く室に入り床につくとすぐにお話声あり<br><br>以下、ネット版・改訂版の本文が続く。<br><br>　“聖道門と浄土門”についての理解は、浄土教では後者が重要なのは明らかであるが、林領一も話をしながら「迷って来た」との発言があるように、昭和5年第46回目と49回目の記事でも寝言の速記のためもありなかなかその内容が分かりづらい。それで、46回目11月10日にその説明のために引き合いに出された“刈萱（かるかや）道心と石堂（いしどう）丸”、“山伏弁円”、“日野左エ門の御教化”の説話を調べてみた。<br><br>【刈萱道心と石堂丸】<br>・13世紀頃、仏教説話として語られるようになり、様々なバリエーションがあるらしいが、本家本元と思われる高野山刈萱堂で購入した“刈萱と石堂丸絵傳”（著者は徳富元隆、発刊は大正13年前後と思われる）からその話の概要をまとめてみた。<br>・今から800余年前、筑前の守護職加藤兵衛尉繁昌が、「石堂川の地蔵堂にある石を妻に与えよ」との夢のお告げにより、やっと授かったのが繁氏、こと刈萱道心である。<br>・繁氏はある武将の娘桂子姫を妻に迎えたが、たまたま出会った亡き父の友の娘である千里姫の美しさに引かれ、妾にした。<br>・千里姫は繁氏の子供（石堂丸。ちなみに繁氏の幼名でもある）を懐妊していたが、桂子姫による暗殺計画を知って、侍女の兄の住む播州に身を隠した（この時、桂子姫の部下が「忠義のためなら命を捨てる」と言う別の娘の首を、念仏を唱えつつはねている。後にこの部下も出家）。<br>・もともと世の無常を感じていた繁氏は、桂子姫の部下に事情を聞いてから自分の不徳を恥じ、出家を決めた。桂子姫は夫の出奔に恨み悶え、その後に狂い死にした。<br>・高野山で「一旦捨てた浮世には思いをかけぬ」を誓い、覚心上人の弟子となり、円空坊等阿と名乗った。この時、繁氏21歳。<br>・夫や父を慕う気持ちから、千里姫は14歳の石堂丸を連れて高野山へと向かった。<br>・高野山の麓に辿り着いた二人であるが、女人禁制のため石堂丸だけが山を登った。<br>・石堂丸は奥の院で出会った僧侶（繁氏）に父の所在を尋ねたが、「繁氏は先日亡くなった。」と言われ、その墓を示された。石堂丸は「余りに嘆くは父君の後生のさまたげになる。母親を大切に」と諭され、下山した。繁氏は数珠をつまぐり合掌して見送った。<br>・麓に降りると母は既に32歳で亡くなっており、山で会った親切な僧侶を頼りに再度高野山に登った。<br>・石堂丸は刈萱堂で繁氏の弟子となって出家したが、ついぞ実の父親であることは知らされなかった。<br>・繁氏は、親子地蔵尊を製作・入魂して、厄除けとして堂内に設置した。<br><br><br>【山伏弁円のご済度】<br>・覚如上人の『親鸞聖人伝絵』に書かれているが、親鸞聖人が関東でのご教化の頃の話であり、日野左エ門とほぼ同時期の説話である。<br>・仏法に怨を持っていた山伏弁円は、親鸞聖人に危害を加えようとして板敷山々中で待ち伏せしていたが、どうしても会うことが出来なかった。<br>・刀杖を手にはさみ、自から聖人のいる稲田の草庵に押し入った。<br>・聖人は、ためらいなく弁円の前に出られた。それを見た弁円は、親鸞を殺害しようという気持ちが忽ちなくなってしまう。<br><br>【日野左エ門の御教化】<br>・ネットで調べてみると、茨城県陸奥の枕石寺がヒットした。この寺は関東の真宗二十四輩と言われる鎌倉時代からの古寺であり、開基が入西房道円こと日野左衛門尉頼秋である。明治44年発刊の佐竹智應編『御開山聖人御傳記繪鈔』に詳しく書かれているので、それを要約する。<br>・日野左衛門尉頼秋は時に遇わず、流浪して常陸国に至る。1216年11月夜、親鸞聖人一向が雪の中を訪れ、宿を請うた。<br>・断られた聖人一向は、門前の石を枕にして横になっていたが、夫婦そろって有難い夢を見た日野左衛門は驚愕し、一向を棲家に招き入れた。<br>・聖人の他力本願の教えを聞いた夫婦は立ち所に信者となり、日野左衛門は入西房道円と名乗った。<br><br>刈萱道心は京都・黒谷の法然聖人の元で弟子になった、など逸話にはバリエーションはあるが、高野山の絵伝を元にすると、出家して世俗を完全に捨てるというところは聖道門に通じる。一方、“山伏弁円”“日野左エ門”はともに親鸞聖人の関東ご布教時代の話であり、仏道と世俗との共存を説く浄土門の話であろう。祖父・林領一も聖道門と浄土門との説明に迷いがあったように、世俗として過ごしながら仏道に則った生活を送ることは極めて難しいことなのであろう。末法の世の中（仏法の教えだけが残る時代）では、我々凡夫には浄土門でしか救われない、極楽往生出来ないことが浄土教の教えであるが、阿弥陀如来の本願だけを信じることの難しさを伝えているように思う。<br><br>今回も前回と同様、仏典の出所についての記述はほぼしていない。仏教的な説明はあと数回で終わる予定であり、その後はこのブログで記載してきた現象の脳科学的、精神医学的な説明を行い、次に高校レベルの知識から現在勉強している物理学の視点ではどのような仮説が立てることが出来るかを述べていきたい。ただ後者については、健忘、記銘力低下、判断・理解力低下などの老化現象および寿命との競争になるため、保証は出来ません。
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799513.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Dec 2022 10:13:21 +0900</pubDate>
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<title>123日目　説明⑮“聖道門と浄土門（1）”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/0b/8e/j/o0640048015608369593.jpg"><br>　“聖道門と浄土門”は、ネット版・改訂版の昭和5年46回11月11日と、49回11月14日（後半の欠落部分はこのブログの43日目に追加で説明しています）の2回に亙って話されている。どちらも1時間はかかるような長い話であるが、このブログの14日目にも「刈萱道心と石堂丸」について触れたように浄土教においては重要なポイントらしい。ネット版・改訂版で掲載できなかったところをブログで補ってきたが、細切れになってきて私も混乱してきた。そのため46回と49回の全文を載せようかと思ったが、あまりにも文章が長いため、今まで通りの補填で繕うことにした。<br>  まずは“聖道門と浄土門”の一般的な知識について説明したい。私が今受けている仏教の通信教育ではレポートを提出しないと進学できないが、二年次のテーマが『龍樹菩薩の教え（難易二道）について述べよ』（900字以内）であったため、提出したものを末尾に掲載したので参考にしてほしい。<br><br>　さて、昭和5年46回の11月11日午後8時、以下の記載で清書版が始まっている。<br>　<br>　本日、林の身内より林の兄嫁林○○　林の生母の実家の人香田○○、二人来客有り。<br>少し御不快の御様子　附近の薬局にてノーシンを買求めおのみになった。<br>父窪田（義父）枕頭にて我建超世願―――読経<br>　やがて　<br>「フン　△△（香田関係の親戚の名）は来とらまい　どうしゃしらんが<br>　△△は来とるか　あれは仲々よう参らして貰わんわ<br>　△△が来とらなんだら呼んでやってくれ」<br>　　早速電話をかける<br>　「遠慮して出てこんなん様ではいかんわな<br>　矢張内中のものが喜ばんで　可愛想じゃなあ<br>　フフン　たのむ<br>ごそんごそん（ママ）とやかましい　ふふん」<br>　10分程たって<br>「向うの家に誰かよぼっておらんかな」とのお声。柳ケ瀬〇丁目の香田△△急いで来る。<br>　ややあって<br>「△△をつれてやって来ました　どうぞ聞かしてやって」<br>　<br>　この後に改訂版・ネット版の“聖道門と浄土門①”の話が続いているが、またまた欠落部分に気が付いた。このブログ40日目の昭和5年第44回が11月9日であり、41日目は同年同月12日の47回目であるが、今回の46回目11月11日の後の記録が改訂版・ネット版に掲載されていなかった。少し長いが、追記しておく。<br><br>【ネット版・改訂版、昭和5年46回11月11日後半の欠落部分】<br>　亡祖父（窪田○十郎、量子方でブログ作成者の曾々祖父）　所感<br>（祖父）　ようしてやて呉れたな、もう嬉しくて嬉しくて<br>　　　△△よく聞いたか<br>　　　浄土門の話、始終忘れん様に、腹立ったら南無阿弥陀仏　夜昼常に守るなり、南無阿弥陀仏唱うれば悪鬼退け、念仏申す処悪鬼が近寄らず、自から人柄が出来る。信を得さして貰ったら困らしてやろうと思って来ても自然に頭を下げてしまう。<br>（祖父）　私は嬉して嬉して、わしは浄土で聞かせて貰って喜んだ。<br>（〇）其処を取逃がした者は迷の中から<br>（祖父）　わし等の居る時（存命中）そんな話聞けなかった、つまる処は其処じゃ、わしはもう嬉して嬉して感謝の日を毎日送らして貰える、もう短かいから余り御世話かけない様に<br>この次の不思議が表われたら罪の深い者は最後じゃ、どうぞ喜こばっしゃいな。<br>有難うございました、今日はお疲れでしたで誰も出て来ん様に。<br>（〇）遠い所から寄って来るとえらいが苦しい中からしてやりました。私の喜びは此の上もございません。<br>なに　どうしました。<br>　　南無阿弥陀仏唱うれば四天大王守りつつ萬の悪鬼を近づけず<br>　　南無阿弥陀仏　南無阿弥陀仏　なに、よう聞いて呉れたな<br>　　草臥れたで休ませて貰うわな。<br>父　我建超世願……　読経<br>一同退出　やや過ぎて<br>（〇）△△もひねらせなさい、との事<br>　其の後寒気がして慄え出す、此の時母○○（量子の母）傍にありてひねって居たら不思議にも汗が身体中出て勿体なくも温まれたり。<br><br>   8行上に記述されている「南無阿弥陀仏唱うれば四天大王守りつつ萬の悪鬼を近づけず」は、浄土和讃101（浄土真宗聖典－勤行集（小）－P42）にある。本文は「南無阿弥陀仏をとなふれば　四天大王もろともに　よるひるつねにまもりつつ　よろずの悪鬼をちかづけず」で、ほぼ同じ文書であろう。<br>今回は、超常現象の裏取りについての説明はほとんどなかったが、次回も“聖道門と浄土門”についての説明を続けたい。<br><br>【龍樹菩薩の教え（難易二道。聖道門と浄土門）について】・・・通信教育で提出したレポートに一部、説明を追加しています。<br>龍樹菩薩は、紀元150年頃に南インドに生れた。釈尊が『楞伽経』（龍樹菩薩が生まれたあとに成立した経典らしい）に、「有無の邪見にとらわれず・・・大乗の無上なる法を説き・・・念仏の教えに帰して安楽国（極楽浄土）に生まれる・・・」と予言した。龍樹菩薩はその通りの人生を送り、『中論』、『大智度論』、『十住毘婆沙論』などを著した。このため、日本仏教の『八宗の祖』、浄土真宗『七高僧の第一祖』と仰がれている。<br>浄土真宗では「聖道門と浄土門」とが説明されているが、道綽禅師（浄土真宗第四高僧）は『安楽集』のなかで、「末法の世では浄土の一門のみがただ一つの出離の道である」ことを明らかにされた。これを受けて、親鸞聖人は『正信偈』のなかで「末法の世においては、証し難い聖道門とは決別し、ただ浄土門のみが易く行ける道である」ことを明らかにされたが、この「証し難い聖道門」と「易く行ける浄土門」との難易二道に分けて説かれたのが龍樹菩薩であり、『十住毘婆沙論』の「易行品」にその内容が説明されている。<br>　龍樹菩薩は自ら問いを設けられた。「菩薩が初地（菩薩の最初の段階）に至るためには、堕する恐れのある諸々の修行を、久しく永い間しつづけなければならない。このような諸・久・堕の三難のない、易しい仏道修行の方法はないものだろうか」と。これに対し、「十方十仏の名号や阿弥陀仏等の諸菩薩の名号を聞信して、これを称するという仏道修行がある。これで、一念に本願の船に乗せていただいて、速やかに必ずお浄土への確かな道を歩ませて頂く身になるという一・速・必の信方便の易行がある」ことを説かれた。<br>　龍樹菩薩が、十方十仏のなかでも特に阿弥陀仏を重視したのは、「もし人われを念じ名を称してみずから帰すれば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提（説明）を得」という阿弥陀仏の本願によるところである。親鸞聖人は、龍樹菩薩の教えを「信心正因・称名報恩」と受け取られ、「二道の鴻判は南天の功」と仰がれて「正信偈」「高僧和讃」の中で讃えておられる。
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799508.html</link>
<pubDate>Fri, 21 Oct 2022 21:30:59 +0900</pubDate>
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<title>122日目　説明⑭“天人五衰”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/dc/fd/j/o0640048015608369586.jpg"><br>　昭和6年第77回目の11月20日、改訂版・ネット版では“火と水”のタイトルで書かれているが、珍しく書き出しから清書版との違いがまったくない。文章も短いため、前文を載せておく。<br><br>　そこで臨終の有無と云う事に話は及ぶが誰しもこの断末魔の叫びがある、如何なる高位高官爵位のある者も貧しい者も富んで居る者も一様に断末魔の叫びが起る、人間から……<br>ここにお出での方は凡夫よりも喜ばれた方ばかりじゃが、天上界にも断末魔の叫びの代りに五つの憔悴がある。第一には頭上の華蔓が萎む、二つには天衣が垢づき光が消える、三つには腋の下に汗が出る、四つには目の光がなくなり両眼がしはただく（ママ）、五つには本座を楽しまず、詳しく云えば華蔓が萎むとか水滴が出来るとか体臭がつくとか云ってやはり天人も死の直前に際して五つの憔悴がある、人間の中でも何時迄も病床に呻吟して看護して貰う人もあり、朝には元気で野良に仕事に出て夕べにはむくろとなって帰る人もある。そう云う楽な往生を遂げた人は断末魔の叫びがない、人間の体は火と水から成って居る。熱がするのは水の欠乏であって、ぞみぞみするのは火の欠乏である。彼の平清盛の臨終は水をかけたと云う話があるが、あれは水の欠乏である、頭寒足熱と云って………<br>人間界に生を受ける人は………人間界から天上界に行く人は心臓の鼓動が何時迄もぬくといと云う事である（胸の温まりが続く）<br><br>　「天上界の断末魔」をネットで調べてみると、林典佑氏の【天人五衰～三十三天の神々が死期に受ける苦しみ】というブログで詳しく語られていた。「天人五衰」については、増一阿含経、大毘婆沙論、法句譬喩経、正法念処経、仏本行集経、大乗理趣六波羅蜜多経、瑜伽師地論、大般涅槃経、摩訶摩耶経（偽経らしい）、往生要集で語られていると。<br>　私のブログの流れからも、当然引用元は“法句譬喩経”と思われた。他の譬喩を探すためにも身銭を切って、『法句譬喩経』現代語訳、「真理の偈と物語（上）」を6千円で購入。2001年初版発刊の本であり、（下）は高価なため、購入せず。そこでは、第一話の無常品第一に天人五衰と同じような記載があった。それを記すと、<br>　「昔、帝釈天は、五種の徳が身から離れていった（五徳離身）ので、『命が尽き、下って世間に生まれるであろう、陶器作りの家で、ロバとしての胎を受けるであろう』と、自ら知った。何が五種の徳（の衰え）なのであろうか。第一は、身体の表面の光が消えたこと（身上光滅）。第二は、頭の飾りがしおれること（頭上華萎）。第三は、これまで坐っていた座席が不快になったこと（不楽本坐）。第四は、腋の下で汗が出て異臭を放ったこと（腋下汗臭）。第五は、土ほこりが体についたこと（塵土著身）である。この五つの出来事によって、自ら、幸福が尽きようとしているのを知ると、たいそう憂えて、『三界の中で、人々の災苦を救えるのは、ただ仏のみであろう』と、自ら考えた。かくして、仏のもとに馳せ参じた」と話が続いている。<br>　<br>　“浄土への道標”の五つの憔悴の記述と若干異なるため、再度林氏のブログに戻って調べてみた。他の経典でも五衰の内容は良く似ているが、第四の「身体が汚れて臭くなる」の記述で異なってくる場合が多いとある。そこの代わりに、増一阿含経では「側近の女性達が逃げ出す」、法句譬喩経 では「身体から出ている光が弱くなる」、仏本行集経では「身体から出ている光が弱くなる」、摩訶摩耶経では「両眼のまばたきが多くなる（四者兩目數瞬）」、大乗理趣六波羅蜜多経では「両眼のまばたきが多くなる（四者兩目數多眴動）、往生要集でも「両の目しばしば眴（まじろ）く（四兩目數眴）」とある。<br>　“浄土への道標”でも、「目の光がなくなり両眼がしはただく（ママ）」と瞬目についての記載があるが、五衰の出てくる順番や記載内容全般について最も近いのが大乗理趣六波羅蜜経と往生要集と思われた。往生要集の五衰は、1　頭の上の華鬘（はなかずら）たちまちに萎む（一頭上華鬘忽萎）、2　天衣、塵垢に着せらる（二天衣塵垢所著）、3　腋の下より汗出づ（三腋下汗）、4　両の目しばしば眴（まじろ）く（四兩目數眴）5　本居を楽（ねが）はず（五不樂本居）である。<br>　せっかくなので、大般涅槃経でも確認することにした。117日目のブログで紹介した「新訳　大般涅槃経」（原田霊道著、昭和11年5月発刊）を調べたところ“天人五衰”は見つからず。その本の序文を読んでみると、大般涅槃経にも色々あるようで、すべてが現代語訳されている訳ではないことが分かった。それで大蔵経データベースを調べたところ、大般涅槃経十九に「一者衣裳垢膩（えしょうこうじ）。二者頭上華萎（ずじょうかい）。三者身体臭穢（しんたいしゅうわい）。四者腋下汗出（えきげかんしゅつ）。五者不楽本座（ふらくほんざ）」の記述を発見。「身体が汚れて臭くなる」は三番目に記載されており、「両目瞬目」は見つからなかった。<br>　偽経と言われている摩訶摩耶教は別にして、大乗理趣六波羅蜜多経と往生要集が“天人五衰”の内容、記載の順番がほぼ一致していることが分かったが、前者は8世紀に中国で編纂された経典であり、後者は10世紀に比叡山で源信和尚により著されたものであるため前者を引用したものと思われる。ただ両者とも、五番目は「不楽本居」になっており、“浄土への道標”や大般涅槃経で語られている「不楽本座」と一字だけ異なっている。まあ浄土真宗に所縁のある林領一のエネルギー体が往生要集に精通しているのは当然のことで、また今までのブログでも書いてきたように法句譬喩経、大般涅槃経なども読んできており、このくらいの記述の違いは起こりえるものと思われた。
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<pubDate>Wed, 14 Sep 2022 22:04:41 +0900</pubDate>
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<title>121日目　説明⑬“観無量寿経”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/02/97/j/o0640048015608369580.jpg"><br>　仏説観無量寿経（観経）は、無量寿経（大経）、阿弥陀経（小経）とならぶ浄土三部経の一つであり、浄土宗・浄土真宗の根本聖典である。林領一のエネルギー体は、前世は高僧であったと語っており、話の内容からも浄土真宗と所縁があった人物と思われ、浄土三部経について語るのは得意なはずである。<br><br>観無量寿経については、118日目の記事の終りの方で韋提希夫人に関する話で少し触れた。今回は、昭和8年9月18日の第19回で話された“下品中生”について説明したい。ここも、清書版の記述から始める。<br><br>第19回　昭和8年9月18日　午後10時<br>昨17日は竹鼻地蔵祭なりしかば家内一同阿弥陀山に参詣　例年の如く祝をなす<br>　恒例は9月14日なるも17日日曜の為延期　夜御礼に御出でになりし由なるも（弥八地蔵様と）一人も御縁なかりき　草臥れて寝てしまって居て　本日は稍学校よりの帰り早く量子用事あって外出帰宅せし時早二階で眠いとて御就寝あり　〇〇（長女）抱き傍に行くと御話声あり<br>ふと〇〇（長女）の声に目を覚まされ彼岸は何日からとの問いあり　目を覚まし夕食を済まし入湯9時過直外出就床10時頃体をさすっていると礼をされにこにこと御話声あり<br>此間の話にて先刻の昼寝の時の御話をくわしく承わるを得たり。<br>　これ以降に、初版本（製本版）、ネット・改訂版の話が続く。面白いことに、そこには「下品中生…それで中品下生迄の話したが…」とある。一体どこで話をしてきたのか？寝言として語ったのに、量子が寝ていて記録が残らなかったのか、極楽？で話をしてきたのかのどちらかであろう。この話は極楽に往生するもののその態様についての説明であるが、上品が上生中生下生の三話、中品も三話、合計六話と結構長い話なので、おそらくは極楽で法話のように語ったと思われる。<br>　さて、本願寺出版社の現代語訳『浄土三部経』、P208に記載されている“下品中生”の話を転記する。<br>【29】釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。<br>「次は下品中生について説こう。<u>五戒や八斎戒や具足戒</u>を犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物を奪い、<u>僧侶に施されたものを盗み</u>、さらに私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事のために<u>地獄に落ちる</u>ことになる。<br>　この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいにその人の前に押し寄せてくる。そこで、<u>善知識</u>にめぐりあい、哀れみの心からその人のために阿弥陀仏の持つ力のすぐれた徳と、光明の持つさまざまな不可思議な力を説き、またその戒・定・慧・解脱・解脱知見のすぐれた徳をほめたたえるのを聞く。その人はこれを聞いて、ただちに<u>八十億劫という長い間の迷い</u>のもとである罪が除かれ、<u>地獄の猛火はたちまちさわやかな風に変って</u>、多くの<u>美しい花を吹き散らす</u>。花の上にはみな化身の仏と菩薩がおいでになって、その人をお迎えになる。するとたちまち極楽世界に生まれることができ、七つの宝でできた池の中にある<u>蓮の花に包まれて</u>、六劫を経て後にはじめてその花が開くのである。その花が開くとき、<u>観世音・大勢至の二菩薩</u>が清らかな声でその人を心安らかにし、<u>大乗の奥深い教え</u>をお説きになる。そこでその教えを聞いてただちに<u>この上ないさとりを求める心</u>を起すのである。これを下品中生のもとの名づける」<br>　上記アンダーラインの部分が両者で一致しているが、“浄土への道標”にある「念仏の偉徳を悟らせて」「念仏の功徳によって」の記述は観無量寿経にはない。<br><br>　次も観無量寿経に出てくる話である。ネット版・改訂版の昭和8年の第23回“彼岸②”に書かれているが、これは囚われの身にあった韋提希夫人の「世尊の後の世では、どのように極楽の世界を見ることができるのか？」という願いに応えるもので、十三観想の第十一番目の観である。ここも清書版の書き始めを記す。<br><br>第23回　昭和8年9月23日　午前11時30分頃<br>　昨夜遅かりし為朝食後昼寝されたので子供を階下で遊ばせ居ると二階で畳をたたく様な音がするので何か用事があるならんと二階へ行くと左の御話あり<br>　後から聞くに誰も叩いたのでなかった　仏智　不思議の一端　<br>（〇）あ、お祖父さん（量子方）か、今彼岸のお参りして帰ってみえた処その綺麗な事と云ったら。で話が始まり、以下はネット版・改訂版の通り。<br>十一観想の話を、本願寺出版社の現代語訳『浄土三部経』、P191から引用すると、<br>「この<u>菩薩が歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く</u>。その揺れ動くところには<u>五百憶の宝の花が咲き</u>、それぞれの花のうるわしさはちょうど極楽世界のように気高くすぐれている。この<u>菩薩が座られるときには七つの宝でできた極楽世界の大地がいっせいに揺れ動き</u>、<u>下方の金光仏の国土から上方は光明王仏の国土まで</u>、その大地もまた揺れ動く。そしてすべての世界におられる<u>数限りない無量寿仏の分身と観世音・大勢至の分身</u>とが、みな<u>極楽世界</u>に集まり、大空一面に満ちあふれて<u>蓮の花の台座に座り</u>、尊い教えを説き示して苦しみ<u>悩む人々をお救いになる</u>のである。」<br>　アンダーラインのところが一致する。“浄土への道標”に出てくる“白色白光”は阿弥陀経（岩波文庫『浄土三部経（下）』Ｐ137）の言葉であり、若干異なる記載もあるが、概ね観無量寿経の十一観（の一部）について語っていると考えてよい。<br><br>　上記の通り、“下品中生”は９つある話の中の一つ、“十一観想”については13ある話の一つが、アンダーラインでこれだけでも一致点が多いところを見ると、どちらも残り8つと12個の話も同じように諳んじることが祖父のエネルギー体にとっては可能であったと考えるのが妥当であろう。高僧にもなればこのくらいのことは出来たのかも知れない。<br><br>　無量寿経については、またの機会に説明したい。
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799495.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Aug 2022 13:06:25 +0900</pubDate>
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<title>120日目　説明⑫“不知足”“六非道財？”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/7c/52/j/o0640048015608369575.jpg"><br>　昭和7年の第6回、珍しく2月としか清書版にも記載されていない。前の記録が2月26日であり、次が3月6日（正確には、第7回は2月6日と誤記？されている。）になっている。第6回と第7回に“不知足”と“六非道財”の話が出てくるが、ともに短いため、清書版をそのまま転記しておいた。<br><br>第6回　昭和7年2月　日<br>財界不況の為格銀行取付けせりとの話をなし居る内都合よく父窪田（筆者の曾祖父）来宅あり。直うとうとと昏睡状態になられ次の御話を承わるを得たり。幾分連関あるものの如し。<br><br>（〇）中阿含経にも華厳経にも大八人経にもある様に不知足、足る事知らず飽く事を知らぬ。守銭奴は仏の最も嫌われた事、而していましめられたと云う。苦悩を脱せんと欲せば知足を観すべし。知足を感じたる人は知足を得る人は地上に臥するとも尚安楽である（臥すか座すか不明なりしかば父窪田と量子語り居る時地上に寝る臥すとの御話ありたり）。安楽とは不落安楽とは普通に云う。知足を感じたる人は地上に臥するとも安楽である　貧しきとても富んで居る。不知足の人は常に六つの苦に悩まされ、而して知足を感じたる人から憐れに迎えらる。華厳経にもある通り………伴う六非道財（字の説明あり）、六つの非が生ずるのである。又華厳経にもある。中阿含経にもあるが………<br>　仏教に於ては其れに六つの悩みが伴って来る。即ち例えば賭博をするとか仕事をせずに居るとか、投機的、延をするとかある。それをやれば六つの非が生ずる。財産を失くするとかになる。この知足を感ずると云う事は困難な事である。仏と人間との区別、仏と人、願行である。願とは仏を衆生のものとする、行とは衆生が仏を………る事、言葉をかえて云うと願とは仏が衆生済度の為、発せられたる大誓願である。「我汝を救わずば正覚取らず。」その願は行を……れすものは行は願を招く。仏は如何にして仏果を得たかと云う事を研究して、願行を一つにならねばならん。例えば百里の道を行くにも右後左前にあらば一歩も進まず、願行が一致せなければいかぬ。前へ戻って知足を知る。その中、六非道財との区別、其の人達が救われるか否かと云う事を………そうすればよく分る。かかるあさましき徒ら者は弥陀の願行により救われると云う事が判ると思う。<br><br>　ああ　しびれた<br>　おれ早うとうととしていた<br>と云って目を覚まさる<br><br>第7回　昭和7年2（3？）月6日<br>量子主人に夕食を進め乍ら談話していると目を明き乍ら左の御話あり。<br>　夕食中六非道財の話承わる。<br>　華厳経の終りの方に、「我仏眼を以って衆生を見るに、貧窮にして福恵なし　将に生死に入りて相続して苦しみ絶える事なし」まだずっと沢山有るが………華厳経と云う本知らん　中阿含経の六非道財、そんな事知らん。<br>　　六つの災厄が伴なう<br>　　其後量子主人にお釈迦様は御入滅遊ばされる前（みょうどう）と云う人にわしは80才で成仏すると云われたそうなが字はどう云う字を書くのですかと云うと　妙瞳ならんと教わる。又先日の御話や御釈迦様の御成仏の時の事を詳しく承わるを得たるも茲に省く。<br><br>　清書版なので、改訂版・ネット版や、このブログで掲載してきた記事と若干異なるが、当時語ったことに近い言葉が文章として残されているため、臨場感がある。“不知足”の説明で「大八人経」とあるが、『八大人覚』でみつけることができた。これは、『仏遺教経』（正式には『仏垂般涅槃略説教誡経』、漢訳は鳩摩羅什）で説かれており、中国でも仏教初学者が学ぶお経であったらしい。東京禅センターの天野氏の法話でその現代語訳をみつけたので、以下に引用する。<br>「汝達比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽為りとす。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦た意に称わず。不知足の者は富めりと雖も而も貧し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の憐憫する所と為る。是れを知足と名づく。」<br>　昭和7年2月の記事の前半と、説明の必要がないくらい酷似している。改訂版・ネット版では記載されていないが、「地上に臥す」の部分を量子とその父親が「座すか？」と話し合っているところに、「臥す」と解説まで入れている。清書版の「不落安楽」は、初版本（昭和56年自費出版）には省かれている。「富楽安穏」が正しい言葉であったのであろうが、自信のなかった祖母（量子）がそれを省いたものと思われる。<br>ちなみに、『八大人覚』は、『中阿含』一八「八念経」にも出ているらしい。<br><br>　次に「六非道財」を説明したい。昭和7年第6回、2月には、「華厳経にもある通り・・・伴う六非道財」と記載されており、第7回の3？月6日にも「六非道財の話承わる。華厳経の終りの方に・・・」と書かれている。大蔵経データベースで検索したところ、中阿含経の中阿含大品19善生經第十九に「六非道」がヒットした。それによると、「求財物者　當知有六非道」（財物を求める者、まさに六つの非道の有るを知る）で説明が始まり、「種種戲求財物者」「非時行求財物者」「飮酒放逸求財物者」「親近惡知識求財物者」「常喜妓樂求財物者」「懶惰（なまけもの）求財物者」を“六非道”というらしい。（漢文であり、大体の意味は分かるであろうし、私の下手な書き下し文を載せるよりはましと思い、原文をそのまま転記した。下記の注を参考にして欲しい）。この六つの非道にそれぞれ六つの不利益があると。祖父母の本ではこの不利益は、「賭博をするとか仕事をせずに居るとか、投機的、延をする、財産をなくす」の五つが指摘されているが、賭博と仕事をしない、財産をなくすが中阿含経の善生経と一致している。大蔵経データベースで、「六非道」はみつけることが出来たが、「六非道財」の熟語となると見つからず。祖父のエネルギー体は、前世では「六非道者の財」とでも解して勉強していたのかも知れない。<br>　華厳経も勉強ついでに調べてみた。現代語訳は相当分厚く、高価であり入手は困難。何事も勉強と思い、大角　修著『善財童子の旅』という入法界品の現代語訳を購入して読んでみた。続いて、原田霊道著『現代意訳華厳経』を購入。前者では、『北路歴程　釈迦如来の故地37』に「知足の法」（無量歓喜知足光明の法門）を見付けることが出来た。後者では、知足・六非道に関わるような話はみつからなかったが、『他化自在天会第22　真証の生活（十地品）聖者の十大願』の中に「大願大行」を見付けることが出来た。<br>　ところで、7年3月6日の記事にある「仏願をもって・・・」以降は、法華経方便品第二に、「我以仏眼観　見六道衆生　貧窮無福慧　入生死険道　相続苦不断（我は、仏眼をもって観じて　六道の衆生を見るに　窮にして福慧なし　生死の険道に入って相続して苦断えず）」とあり、ほぼ同じ文章である。華厳経の終りの方ではなく、法華経の前の方の方便品の終りのところにある。これは祖母が法華経を華厳経と聞き違えて記載したにしては間違いが大き過ぎる。祖父のエネルギー体の法華経についての知識が、116日目でも説明したように不十分であったものと推測される。<br><br>　<br>　以上、“不知足”と“六非道財？”の話について説明した。色々な経典を引き合いに出して話が作られているが、『仏遺教経』の「大八人覚」から“不知足”の話が出てきて、そこから『華厳経』入法界品の知足や“願行”について連想したものと思われる。“不知足”に関わる経典と、中阿含経の“六非道”との直接の繋がりを見付けことは出来なかったが、祖父のエネルギー体の中では何らかの繋がりがあったものと思われる。<br><br>注）中阿含経はかなり古い経典と思われるが、日本に伝わった中国由来の漢訳経典は南伝仏教のパーリ語経典『シンガーラの教え』に相当するらしい。中村　元氏の文庫『原始仏典』P322に「財を散ずる六つの門戸」という見出しで説明がなされているので、下記に引用する。<br>「人の近づいてはならぬところの、財を散ずる六つの門戸とは何であるか？（一）酒類など怠惰の原因に熱中することは、実に、資産家の子よ、財を散ずる門戸である。（二）時ならぬのに街路を遊歩することに熱中するのは、財を散ずる門戸である。（三）〔祭礼舞踊など〕見せものの集会に熱中するのは、財を散ずる門戸である。（四）賭博という遊惰の原因に熱中することは、財を散ずる門戸である。（五）悪友に熱中することは、財を散ずる門戸である。（六）怠惰にふけることは、財を散ずる門戸である。」
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799486.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Jul 2022 16:17:30 +0900</pubDate>
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<title>119日目　説明⑪“宿業因縁（ビルリ王と目連）”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/b7/36/j/o0640048015608369567.jpg"><br>　昭和8年の第3回、3月6日10時28分終（多分、この時間に話が終わったのであろう）、改訂版・ネット版の“宿業因縁の理のお話”が始まっている。清書版の書き出しは以下の通り。<br><br>「本日量子（私の祖母）用事ありて〇〇（長女）を負んで外出し主人は長男・次男と留守居さる。やがて案外遅くなり急ぎ帰宅すると下の寝間にて休んで居られたのを何気なく起すと御話声あり。ノートに筆記する暇なかりしかば直後思出した事を筆記なす　其節忘れた一箇所（太子の名ビルリ太子）を窺うとやさしい声でもう何か聞く事はないかと御話ありたり（優しい声というのは、この本によく出てくる量子の祖母のことであろう・・・筆者注）。」<br>そして、“宿業因縁の理のお話”が始まる。<br><br>　ビルリ王（毘流璃王）はネットで調べればすぐに分るが、釈迦族を殲滅したコーサラ国の王である。当時の様子を調べると、まずは“増一阿含経巻第26　等見品第34”がヒットした。釈尊の「九横の大難」の中の「流璃の殺釈」といわれているようで、釈尊の人生の中でも最も悲しむべき難であったらしい。今昔物語集には、巻二第二十八『流離王殺釈種語』で出てくる。武者小路実篤の『私も知らない』という舞台劇の脚本にもなっているが、増一阿含経からの話を下に要約した。<br><br>・波羅奈国（鹿野園の近く）の国王が即位したとき、釈迦族から嫁をもらおうと考えた。<br>・名門の釈迦族は一計を案じて、婢の生んだ娘を差し出した。そこで生まれたのがビルリ王子である。<br>・ビルリ王子は、カピラ城に武術を習うため留学したが、新しく建った講堂の師子の座に坐ったため引きずり降ろされ、身分が低いなどと辱めを受けた。<br>・これに激怒した王子は、復讐を誓った。<br>・王に就任したビルリは、恨みを思い出し、釈迦族の征伐に乗り出した。<br>・一、二回目の遠征では、ビルリ王は途上で世尊と遭遇したため引き返した。三回目を準備した時、目連は釈迦に進言した。<br>・「ビルリ王と兵を他の世界に投げうってしまいましょうか？」「カピラ城を空の上に移しましょうか？」「城の上を鉄籠で覆いましょうか？」と。しかし仏は「釈迦族の宿縁が熟して、その報を受けようとしている」と言って目連の申し出を斥けた。<br>・ビルリ王は、四回目の遠征でついに釈迦族を残忍な方法で滅ぼしてしまった。<br>・生き残って嘆く婦女に世尊は説いた。『諸法はみな離散するものである。会えば、別れあり。五陰（色受想行識の五蘊、人の心と身体）は苦痛と諸々の悩みを受け、みな五趣（天上、人間、畜生、餓鬼、地獄）の中に墜ちる。そして行いの報として受胎する。」などと。<br>・ビルリ王は、世尊の予言通り7日目に豪雨で亡くなった。<br>・そして世尊は釈迦族の不幸な因縁について語った。「昔、カピラ城に大きな池があった。飢饉の時、城内の人はその村に魚を捕らえに来ていた。食べられる方の魚は、『前世に多少の福徳があればこの怨に報いるのに』と話し合っていた。魚を捕らえることはなかったが、見て喜んでいる8歳の子供がいた。」「この魚がビルリ王で、カピラ城の人たちが釈迦族、笑っていた子供が私（世尊）である。」「釈迦族は因縁によって無数劫のあいだ地獄にいて、今その報いを受けた。」と。<br><br>　『増一阿含経』に出てくる目連の神通力と、“宿業因縁の理のお話”での神通力には大分違いがあるため、更にネットで検索した。すると森　章司氏の『釈迦族滅亡年の推定』についての論文（中央学術研究所紀要所蔵）がみつかった。この論文では、増一阿含経以外にも『四分律』『五分律』『出曜経』『法句譬喩経』『仏説瑠璃王経』『十誦律』『僧祇律』『根本有部律』『義足経』『興起行経』『仏五百弟子自説本起経』『大唐西域記』などの漢訳経典や南伝仏典に同じような話が出てくるらしい。森氏はその内容を細かく比較検討している。それによると、『法句譬喩経』と“宿業因縁の理のお話”とで一致点が多い。①ビルリは舎衛城の第二皇子であり、兄を殺して王位に就いた、②ビルリが出兵することを知った目連尊者は世尊に策を提案するも、宿対の業はどうすることもできないといって許されなかった、③そこでひそかに 4、5 千人の舎夷国人を鉢の中に入れて虚空の星宿の際においた、④目連が舎夷国人を救ったことを世尊に報告すると、確認してみよといわれるため、鉢の中を見るとみな死んでいた。仏は「生老病死など七事は免れることはできない」と説かれた、の四点である。七事もついでに漢訳経典で調べてみたが、『法句譬喩経悪行品第十七』には「生老病死」以外に、悪殃（＝災）、苦悩、宿対とあり、概ね“宿業因縁の理のお話”の「生老病死禍業因縁」と一致しているように思う。<br>　<br>　以上から、『浄土への道標』の“ビルリ王と目連”の底本は、『法句譬喩経』に間違いないと思う。117日目の“四人の童子”の説明のところで、引用元を『仏説四不可得経』としたが、その日のコメント欄にも記したように“須弥山”が出てくることから、底本は今回と同じく『法句譬喩経』とほぼ断定できる。従って祖父母は、赤松大勵著の修養小話（印度古代お伽草子、明治39年発刊）を読んでいなかったということが、更に強調されよう。また冒頭に説明した通り、この昭和8年3月6日の話しは、祖母が後から思い出して書き留めた文章である。まあ“加邪城”は何かの間違いとは思うが、これだけ意味の分かるように残せるとは、少なくとも私よりは知能が高かったと推測される。
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799478.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jun 2022 17:22:42 +0900</pubDate>
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<title>118日目　説明⑩“賢愚経”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/7d/7c/j/o0640048015608369560.jpg"><br>　賢愚経については、112日目に“尼提（にでい）”の話で触れた。続いて、『浄土への道標』の中の“難陀の一灯”と“女召使い”のタイトルの記事も、以前と同じ日蓮正宗さんのブログで、賢愚経の現代語訳をみつけることが出来た。しかし他人さまのネット上の訳をそのまま引用するのも芸がないので調べたところ、『国訳一切経　本縁部　七』に賢愚経と百喩経の両方が所載されていることを発見。昭和5年発刊のものを、ネット「日本の古本屋」で1,000円で購入できた。“難陀の一灯”は“貧者、難陀の品”に、“女召使い”は“迦旃延、老婆を教へ貧を売るの品”といタイトルになっている。<br><br>【難陀の一灯】<br>　　“貧者、難陀の品”の話も長いので、これも下に要約する。（なお『阿闍世王授決経』にも同じような話あり）<br><br>・舎衛国での話。貧窮孤独で乞匈（がい）し自活する女人・難陀は、人々が仏を供養するのを見て、「自分は宿罪（前世の罪）のため貧しく、福田（福徳を生み出す田）に遭っても種子（福徳の種）がない」と悔いて、一日を終えてから一銭を持って油屋に行った。<br>・憐れに思った油屋は、倍々増しで油を与え、それを持って世尊に奉上した難陀は「来世は智慧の照らしを得て、一切衆生の垢闇（けがれた闇）を滅除せしめよ」と誓願した。<br>・夜が明けるようになった頃、他の灯は消えるも、難陀の一灯だけが燃えていた。<br>・白日ではもったいないと思った目連尊者が衣で煽っても、灯は消えず。<br>・これを見た仏は、「この灯は、四大海水でも嵐風でも消せない。広く済う（救う）大心をおこした人の施した物なるが故」と目連に語る。<br>・難陀が仏に來詣したとき、仏は「汝、来世二阿僧祇百劫の中当に仏となる。名を灯光という」と告げ、難陀は出家をした。これを見た阿難と目連は、難陀が貧窮である理由を聞いた。<br>・「昔、迦葉という仏あり。貧女の願いに先に応じたことで、仏に不平を言った長者の妻は、これ以降五百世中恒に渡って貧賤乞匈の家に生まれることになった。」と仏は言った。<br>・これを聞いた衆生は、祇洹（祇園精舎）を灯で満たしたが、阿難は再度、この灯供の果報の過去世での善根を尋ねた。<br>・釈迦は、二阿僧祇九十一劫むかしの自分の過去世を語った。波塞奇（はそくき）という名の大王の王子は出家して仏となったが、大王の娘・牟尼は、毎日城に入って長者などに油・灯心を求める比丘・聖友の姿を見る。仏・僧のために灯を布施するためとの理由を聞いて、牟尼が油・灯心を精舎に送ることとした。<br>・比丘・聖友は「来世阿僧祇劫に仏となる。名を定光という」と仏に言われ、王女・牟尼も聞きに行ったところ「二阿僧祇九十一劫に仏となり、釈迦牟尼と名づく」と言われ、よろこびのあまり男子に変身した。昔の灯明の因により今の報を受けると釈迦は説明した。<br><br>　さて、“難陀の一灯”は、昭和8年7月26日午後2時から語られている。量子の妹が嫁ぎ先に帰ろうとし、その前に御仏壇に燈を上げ拝礼していた。祖父も拝んで、「一燈か」と言った。それについて、今朝お話を仏より聞いたが忘れていたものを、思い出したとて「長者の万灯、貧者の一灯」と言って話が始まっている。この時も目は開いたままであった。<br>　内容は、上記の“貧者、難陀の品”と前半部分はほぼ同じと思うが、後半部分については、112日目の“尼提”の話と同様、前世からの因果についての話は語られていない。時間の関係というよりは、前半だけで話を終えているように見える。<br><br><br>【女召使い】<br>　賢愚経の“迦旃延、老婆を教へ貧を売るの品”も短くはないので要約した。<br><br>・阿梨提（ありでい）国の話。横暴な長者に仕える年老いた婢がいた。瓶を持って川に行き、貧しさや死ぬに死ねないことを哀しみ、声をあげて泣いていた。<br>・居合わせた迦旃延が事情を聞き、「貧、実に売るべし」と三度勧め、川で老婆の身体を清めさせてから「汝、当に布施すべし」と伝えた。<br>・老婆に、迦旃延の持つ鉢に水を汲ませ、受けて呪願を為し、仏の種々の功徳を念ずるようい教えた。そして次のように伝えた。「汝、好く心を持ち共勤に走り使し嫌恨を生すること莫れ、自ら大家の一切臥しおわるを伺ひ密に其の戸を開き戸の曲内（かたはし）に於て浄草の座を敷き思惟し仏を観じ悪念を生すること莫れ」と。<br>・老婆、教えの通り実行して、夜半過ぎに命終り、忉利天に生まれた。しかし亡骸を見た主人は、寒林の中に遺体を捨ててしまった。<br>・舎利弗は、老婆が天に生まれたのは迦旃延に由るを知り、老婆と500人の天子を寒林に連れて行き、亡骸を供養して、布施・持戒・生天の論・欲不浄の法よりの出離を説いた。天子たちは法眼浄（智慧の目）を得た。<br><br>　“女召使い”は、昭和6年7月7日午後8時10分より20分の間で語られている。清書版の書き出しは、「本日稍不快にて（風気味）学校より帰宅　種々手当をなし夕食は何時より遅く8時10分終了と間もなく鶴田町2丁目（妻量子の実家）の下座敷にて横臥せられ量子一人座辺？になり」とある。<br>　「賢愚禄の中に・・・」で話が始まっている。内容は上記の話とよく似ているが、老婆→中年の女となっており、迦旃延から諭しを受けたあとの行動も大分違う。賢愚経では、長者の家に戻ってすぐに亡くなったようであるが、“女召使い”の話では「念仏の日を暮らした」となっている。どちらも“布施”を重視しているところは共通している。同じような話は、今昔物語にもあり、賢愚経から引用したのは確かなのであろうが、祖父の話では“念仏”を強調しているように見える。法話を重視し、それに役立つように賢愚経を引用したように見えるが、この辺りにも前に説明した“法華経”でみられた同様な傾向があるように思う。<br><br>　“女召使い”の話の最後の部分は、「韋提希夫人、釈尊に『清浄業の国（正しくは清浄業処）を教え給え』とお願いになった。其の時、世尊眉間の光を放ち給いしかば其の光、金色にして普ねく十方世界をお照らしになってあらゆる国土が眼前に表われ何れの国土も結構なるが、とりわけ西方阿弥陀仏の在す極楽浄土こそ」と終っている。「韋提希夫人・・・お願いになった」以下のところは、祖母の量子は聞き落としたと清書版には書かれており、その当時まだ同居していた父の窪田安治（私の曾祖父）に聞いている。その内容が続けて記載されているが、これは概ね観無量寿経に書かれているところ（『浄土真宗聖典』P90、岩波文庫『浄土三部経（下）』P47）と一致する。日本赤十字社に勤務し、浄土真宗檀家であったと思われる曾祖父は、この位の知識（韋提希夫人の清浄業の国の話を聞いて、観無量寿経を指摘するほどの知識）を有していたことを示している。
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<link>https://ameblo.jp/afvqv103/entry-12907799472.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Apr 2022 14:20:03 +0900</pubDate>
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<title>117日目　説明⑧“蛇と筏”、⑨“四人の童子”</title>
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<![CDATA[ <img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250602/14/afvqv103/5b/77/j/o0640048015608369554.jpg"><br>【大般涅槃経高貴徳王菩薩品】<br>昭和6年、第38回の3月31日、夕食後子供を抱きながら、目を開いたまま“蛇と筏”の話が始まっているが、寝言は睡眠中だけでなく、時々開眼中にもなされている。目が開いたママでも、催眠にかかっている状態と同じように話ができると理解していいであろう。<br><br>「涅槃経の王徳本」からの話とあるのでネットで調べてみると、国会図書館のデジタルサービスで「新訳　大般涅槃経」（原田霊道著、昭和11年5月発刊）の全文がみつかった。このＰ229から「第17　解脱道の十徳（高貴徳王菩薩品）四、闡提（＝仏法を誹謗するなどの者）の成仏」の話が始まっている。その前段を要約すると、<br>・高貴徳王は仏性の普遍性に就いて疑を質すために世尊に質問した。<br>・「闡提でも佛性があるため地獄に堕ちる理由はないが、現にこれがあるのは何故か？断善根と名づけられた闡提は、善根を断つ時に佛性は断たれないのか？佛性が断たれるのなら常楽我浄の四徳は説かれず、断たれないのなら闡提と名づけられないのではないか？」と。<br>・世尊は、「闡提は絶対的なものではない。佛性と善根には深浅の別がある。佛性とは絶対的なものである。」「佛性は常住不易で、如何なる命辭にても決定的に表せない。」「物質とも精神とも常とも無常とも差別とも平等とも断言できない。」「仏は感覚、意識、観念の一切の迷妄を断ずるが故に、一切の邪見、悪心（見漏）、悪の行為（根漏）、悪の果報（悪漏）、生活欲（親近漏）、感覚的欲望（受）、邪念相続（念漏）の七漏がないために、有漏（＝有煩悩）体ではない。」と答え、最後の念漏について一つの譬を説いた。<br><br>お経の内容は３月31日の“蛇と筏”の話と似通っており、長いため下に要約する。<br>・四匹の毒蛇の入った一つの箱を渡された臣下は、その中の一匹でも怒らせれば死刑に処すと言われ、逃亡した。<br>・王は五人の旃陀羅に後を追わせた。五人は親善を装って近づいた。<br>・臣下が都市に入った時、空中から「ここには寄るべき人も隠れるべき物もない。今度は六人の盗賊が襲い来るであろう」と聞こえて来た。<br>・逃走したが、行手に大河があるも、橋も船もない。<br>・勇気を出して、草木で作った筏で漕ぎだした。<br>・彼岸に達し、安穏に平和に一切の苦痛、恐怖を除くことが出来た。<br><br>その説明であるが、<br>・「『大涅槃経』を学行して安楽常住の涅槃の彼岸に達することはこの譬とよく合っている。」<br>・箱はこの身。身体を構成する地、水、火、風は四毒蛇で、常に心の隙を窺い長養する人を苦しめ、肉欲を恣にして身を亡させる。<br>・五旃陀羅とは客観と主観の五陰（蘊）に当り、煩悩のもとになる。親善とは貪愛に当り、仇敵にもまして恐れるべきものである。愛欲は近くても知りがたく、常楽我浄を離れている。<br>・四毒蛇、五旃陀羅を恐れて逃亡することは、逡巡なく八正道を学修することである。<br>・「村落に人なく隠れる物さえない」は、六感を否定すべきとの譬である。<br>・「六人の盗賊」は六感の対象である六境の譬。<br>・大河は煩悩。聖者は六波羅蜜を修めて渡るしか外はないが、十地の聖者も断じ難く、ただ仏陀のみ除くことが出来る。<br>・戒定慧、六波羅蜜、37の修養項目を船筏として精進すれば、必ず彼岸に達する。<br><br>最後は、「聖者は寸時の怠慢（念漏）がない。況して仏陀にはそれがあろう筈がない。仏陀にはこのような欠陥（三漏、七漏）がないから有漏と名づけられぬ。然し無漏とも決定せられない。何となれば仏陀は常に迷妄の中にあって活動して居らるるから。」と締めくくっている。<br><br>“蛇と筏”の譬と比べると、前者は四匹の蛇が五匹となっており、臣下は家来に、旃陀羅は先達等に、大河は川になっているが、そう大した違いはないように思う。祖父のエネルギー体は、浄土真宗ゆかりとは言え、色々な経典を勉強していたように見える。<br><br><br>【仏説四不可得経】<br>　ついでに、昭和8年3月9日、第四回の“宿命論”に出てくる“四人の童子”について説明したい。<br>　前に掲載した“蛇の頭と尾”は、ネットで赤松大勵著の修養小話（印度古代お伽草子、明治39年発刊）でみつけた。たまたま、P48に“神通を得し四人の兄弟”との表題で、“四人の童子”と似たような話を発見した。引用元は仏説四不可得経とあったが、このお経の現代語訳がまったくネット検索できなかった。今昔物語の中にもみつからず。取り敢えずは、修養小話でみつけた例え話を下に記す。<br><br>神通を得てをる四人の兄弟がありましたが、今7ケ月を経てば死の神がきて、各自の寿命が尽くると云うことを予めしりましたので、一同に打よりて言うには「吾々はこーして神通を得て、何處へでも飛んで行くことが出来る身分であり乍ら反って死の神に命を取られるのは如何にも残念な次第ゆへ、互いに方法を考えて此度の災いを免れよーではないか」。<br>それは宜しかーと云うことで談が纏まりましたから、一人は空中に踊り入りて姿を隠しました、一人は市中の雑踏して居る中へは入りて死の神に見付かからぬ様に致しました、一人は大海の深みに身を沈め、底のも付かず水面にも出ぬ様にして居りました、今一人は人跡の絶えた深山にわけ入りまして、岩屋の様な所へ身を隠して居りました、そーして各々みな斯様にして居れば死の神に見出されぬと自ら固く信じて居りました。けれども死は何處に居ても免れぬものと見えまして、軈て空中からも死骸が落ちて来ました、山の中でも死骸が一つ出来、海の中へかくれた者は魚類の餌食となり、市中へ入ったものも多くの中で死にました。<br><br>　祖父の本では、兄弟が童子となっており、隠れた順も「空中→海の底→須弥山→町中」で多少の違いはあるが、大まかには似たような話ではある。人の和訳の引用ばかりでは気が引けるため、底本の大正新脩大蔵経 17 経集部IV（著者名 竺法護 訳）を調べてみた。<br>120行程度の短い経典ではあるが、漢文は半世紀近く前に学んだままなので、再度辞書をひきひき勉強しなおした。それによると、身を隠したのは兄弟で、隠れた順は空中→市中→海底→大山とある。まあこの順番は重要ではないのかも知れないが、『須弥山』という言葉はどこにも出て来なかった。話は更に続き、仏説四不可得経で重要な点は、老病死別（もしくは生）の四つを得ることはできないということである。この苦しみを免れるため仏が出世し、菩薩道を究めることが説かれている。<br><br>“蛇の頭と尾”の譬やこの“四人の童子”の譬は、ともに修養小話に掲載されているが、その発刊が明治39年である。林領一・量子の生まれ年は明治35年、それ以降に二人してこの小話を読んだ可能性はゼロではないが、今までブログで語って来たとおり、両者とも仏教的知識は皆無であったと考える方が確かであろう。あとに取り上げる賢愚経や百喩経などと同様、仏説四不可得経も当時（前世？）の仏教者にとっては教養レベルの経典であったと思う。
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<pubDate>Thu, 14 Apr 2022 12:50:08 +0900</pubDate>
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