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<title>「共感のその先へ」</title>
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<description>枠を超えた学びの共感。そして、共感を超えた先の可能性の世界へ。”やり方”ではなく、”あり方”を見つめ、受け容れる。</description>
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<title>桑員地域拡大座談会なう！</title>
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<![CDATA[ 今日は、美し国おこし・三重が主催する対話の場、「桑員地域拡大座談会」に参加してきました。<br><br>テーマは<br><br>”いたみを糧に、新たな「地域の未来」の話をしよう”<br><br>3.11の東日本大震災を通して、いのちを見つめ、自分達を見つめ、自分の居る地域を見つめる<br>そんな対話の場でした。<br><br>初めて出会う三重県、愛知県の方とのワールドカフェの中で出てきたキーワードは<br><br>「当事者意識」　「つながり」<br><br>当事者意識から生まれた様々なつながりが、今、僕たちに多くの何かを伝え、呼び起こしています。<br><br>そのつながりがどうして生まれたのだろうとずっと考えています。<br><br>そしてこの多くの人達がつながる今が「震災」という言葉の中で終わってほしくないと強く思うし、<br>終わらないという確かな実感もあります。<br><br><br>人は本質的に、献身の心が奥底にあるんだという想いを実感。<br><br>でも、それが常に目を覚ましているわけではなく、何かをきっかけにしないと湧き上がらない部分もあるなあということも同時に感じています。<br><br>同じ東北で、つい１、２ヶ月前、大雪の中でお年寄りが雪かきをしている最中に転落して<br>亡くなられたというニュースをよく耳にしていました。<br><br>しかし、その雪かきを誰かが手伝いに東北地方へ支援に駆けつけた<br>という話は恐らくほとんどなかったのではと思います。<br><br>自分の日常でも、こんなふうに条件によって動いているような気がします。<br><br>何が、人を突き動かすのだろう。<br><br>それを考えていると、今日のキーワードにも出てきた<br><br>「当事者意識」<br><br>なのかなあと感じます。<br><br>twitterの中で、ビートたけしの言葉が紹介されていました。<br><br><br>「だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、<br>　被害者のことをまったく理解できないんだよ。<br><br>　じゃあ、8万人以上が死んだ<br>　中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、<br>　そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。<br><br>　それは死者への冒涜だよ。<br><br>　人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。<br><br>　そうじゃなくて、そこには<br>　「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。<br><br>　本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね」<br><br><br>一人ひとりの「みんな」が今呼び覚まされている哀しみと当事者意識。<br><br><br>この気持ちをつなげ、つながる場がもっと増やしたい。<br><br>「つながる」<br><br>ということへの願い、想いが誰しもの内にあることを感じられる今だからこそ。<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110425/00/ahead-of-empathy/20/af/j/o0800060011186003696.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110425/00/ahead-of-empathy/20/af/j/t02200165_0800060011186003696.jpg" alt="$「共感のその先へ」" border="0"></a><br>
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<link>https://ameblo.jp/ahead-of-empathy/entry-10871636762.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Apr 2011 22:37:33 +0900</pubDate>
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<title>『心に響く小さな５つの物語』</title>
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<![CDATA[ 「先生の胸に激しい痛みが走った。<br>　だめと決めつけていた子が突然、<br>　深い悲しみを生き抜いている生身の人間として<br>　自分の前に立ち現れてきたのだ。<br>　先生にとって目を開かれた瞬間であった」<br>（藤尾秀昭『心に響く小さな５つの物語』致知出版）<br><br><br>よく寝る前に読む本があります。<br><br>『心に響く小さな５つの物語』の第５話「縁を生かす」という短いお話。<br><br>１年お世話になった上司から職場を離れる時に餞別として贈ってもらったものです。<br><br>一言、相手に寄り添う言葉が心を、人生を動かす。<br><br>新たに自分の目の前に現れた世界に立ったことで生まれる言葉。<br><br>人は自分が今見えている世界しか見えていないということを<br>あらためて教えてくれます。<br><br>本当は自分の知らないその人の人生や世界があることは知っているのに<br>でも、自分が見えている認識の内でしかその人のことを見ることができない。<br><br>常に、その人の向こうにある奥行きを感じられる人でありたいなあと思います。<br><br><br>「子どもの気持ちに寄り添える先生になってください」<br><br><br>心に響く贈られた言葉と一緒に。
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<link>https://ameblo.jp/ahead-of-empathy/entry-10870592363.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Apr 2011 23:54:54 +0900</pubDate>
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<title>教育の未来を創る「繋がり」に出会う</title>
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<![CDATA[ 先週は、地震の関係でほとんどの予定をキャンセルしていましたが<br><br>今日からできること、自分のことと、動き出し始めました。<br><br><br>今日は、「繋がる学校」へ関心を寄せてもらった横浜のアツい学生の方と<br>濃い時間を共有させてもらいました。<br>始まりは「繋がる学校」のコーディネーターだったということで、<br>あらためてコーディネーターの持つパワーは不思議・・・と思います。<br><br>さてさて<br><br>そんなアツい横浜の彼と、ツナガクコーディネーターの３人で<br>「教育」をテーマにダイアログ。<br><br>キーワードは<br><br>「教育の成果」<br><br>「教育のゴール」<br><br>「被教育者（子ども）の自律性、好奇心」<br><br><br>教育のゴールと成果は捉え方も考え方も３人でもそれぞれ。<br><br>従来の画一教育に対する編み直しを迫る想いや動きが出ている中で<br>「教育」という巨大なつかみ所があるようでない、見知ったこの言葉の捉え方が<br>とても面白かったです。<br><br>一つ思うのは<br><br>教育を実践するのは、学校の中では「先生」がいて<br>それには資格があり、スキルがあり、多様な方法論、実践論があり、<br>教育実践には、専門的な知が必要だと思われがちです。<br><br>でも、今回のダイアログを通して、<br>何か特別なカタチになった実践（アクション）が教育なのではなく、<br>教育に対する想いを「言葉」として外に出すことからが既に<br>教育を創るアクションなのだと実感。<br><br>教育が「誰か」一人が占有して行うものではないという前提に立ち、<br>そこに生きる人達みんなが横並びのサークルシップの中で育み創られていくのならば、<br>言葉を出すことが、最初のアクションで、一番のアクションであると感じます。<br><br>特別なスキルや知識があればいいわけじゃない。<br><br>誰しもが、生み出すこのできる教育を。<br><br><br>いい繋がりに出会えて嬉しい～。<br><br>ツナガクの種が関東でまた新しい繋がりを生んでくれることを願いながら、<br>次は横浜へ行くぞー！と楽しみにしています。
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<link>https://ameblo.jp/ahead-of-empathy/entry-10830947001.html</link>
<pubDate>Mon, 14 Mar 2011 22:08:46 +0900</pubDate>
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<title>虚しかった瞬間</title>
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<![CDATA[ ガソリンスタンドに寄って、給油。<br><br>「たかいーー」<br><br>１５０円近い値段に、ため息。<br><br>給油を終えて、市道に出ようとしたら<br><br>ちょうど信号待ちの車の列ができていました。<br><br>しかも、ちょうどいい具合に、列の間に入れる具合の間隔ができていました。<br><br>そこに頭つっこんでいくと、<br><br>割り込まれる！と思ったのか、間に入ろうとした後ろの車が<br><br>いちいち車間を詰めてきて前を塞ぎよった！<br><br>何だか・・・とても虚しくなった。
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<link>https://ameblo.jp/ahead-of-empathy/entry-10825666461.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Mar 2011 19:49:12 +0900</pubDate>
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<title>「繋がる学校」の産声</title>
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<![CDATA[ 「繋がる」と「教育」をテーマにした対話の場、「繋がる学校」が歩みを始めています。<br><br>誰もが経験する「教育」というステージ。<br><br>でも、「教育をする人」と「教育を受ける人」という関係性の色が濃すぎて<br><br>教育を行うという一種の権力的装置を一部の人間が有しているという構図が出来上がっているように思います。<br><br>教育の象徴でもある「学校」をイメージすると、その構図は用意に描けるでしょう。<br><br>でも、本当に教育は、一部の誰かが対象の誰かに「する」という行為になりうるような<br>誰かが持ちうることができるものなのかという問いをずっと学生の頃から持ち続けています。<br><br>教育にしろ、何にしろ、ある一定の調和が成立している場（概念として成立している場）が<br>その場たりえているのは、その場にいる一人ひとりの行動が一定の調和としての概念つくりあげているからに他なりません。<br><br>学校で言えば、あの授業風景が学校の営みとして成りえているのは<br>そこに生きる子どもと先生が、それぞれの役割を行動として生み出し生きているからです。<br><br>概念として箱をつくり、管理するという意味では一部の「誰か」が用意できますが、<br>それを実際にリアルな物としてつくっているのは、その場にいる全ての人です。<br><br>教育を「受ける」と見られている子どもでも、それは真に与えられているのではなく、<br>教育という場を共につくる当事者の一人に他ならないのです。<br><br><br>公教育は、今後の時代の中で間違いなくそのパラダイムの変革を迫られます。<br><br>既に、時代の流れは誰か一部の人に力が集中する機構から離れ、<br>一人ひとりが、自分で自分の状況に「ヤバイ！」と感じ、それを自分で何とかしなきゃという<br>パラダイムへ移りゆく流れになっていると感じています。<br><br>これからは、誰か一人の強烈なリーダーシップではなく<br>一人ひとりの、「自分」という自覚をもった上での「みんな」が場をつくっていくということが<br>大きな流れをつくっていく。<br><br>そのために、もっと一人ひとりが、自分が場をつくっている当事者の一人なんだ<br>特別なアクションを起こさないと場をつくれない、場が動かないのではなく、<br>その場にいる一人として自覚された「声」が既に一つのアクションであり、<br>場をつくるパワーなのだということに一緒になって考えたい、<br>一人ひとりの声をもっと教育の世界に種のように蒔いて育てたい。<br><br>そんな想いで、まずは三重県を教育をテーマにした対話で繋いでいく<br>「繋がる学校」を立ち上げました。<br><br>言葉を繋ぎ、想いを繋ぎ、人を繋ぎ、アクションを繋ぎ、今から未来へと繋がる。<br><br>全ての人が、これから起こる未来へのシンクロニシティを感じる場づくりへ。<br><br><br><br>まだまだ、スキルとか場づくりそのものは弱いのですが、<br>これから出会う人々、今「繋がる学校」に関わっている人「みんな」の繋がりが<br>「繋がる学校」をつくり、育て、次の未来を生み出していきます。<br><br><br>
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<pubDate>Tue, 08 Mar 2011 18:45:43 +0900</pubDate>
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<title>「余韻を残す人」</title>
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<![CDATA[ 出会った瞬間から強烈なインパクトをもたらす人。<br><br>刺激をくれる人。<br><br>一緒に居て楽しい人。<br><br>何となく馬が合う人。<br><br>何だか気になっちゃう人。<br><br><br>何かしら、自分が人に与えるインパクト。<br><br>なかなか、その辺りのことって無自覚で、自分では把握しにくい。<br><br>僕は結構、その辺は苦手。<br><br><br>最近、僕は「余韻を残す人」だという表現をもらった。<br><br><br>「余韻を残す人」<br><br><br>何だか、いい響き☆<br><br><br>密かに「余韻を残す人」というステータスを自分の中に持つ事にしよう（笑）<br><br><br>そして<br><br>今日から<br><br>ブログの頻度をアップすることにした！<br><br>ゆるい話から、頭使う話まで、ごちゃごちゃ書こう～。
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<pubDate>Thu, 03 Mar 2011 01:10:13 +0900</pubDate>
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<title>「私」という無自覚と無関心</title>
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<![CDATA[ 「愚者の最も確かな証拠は、自説を固守して興奮することである」<br>（『随想録』ミシェル・ド・モンテーニュ）<br><br><br>「私は私」<br>「あなたはあなたのままでいい」<br><br><br>その人自身を大切にする想いーーー<br><br>その人を認めること<br><br>その人の選択を見守るということ。<br><br>その人「らしい」部分に、他人が介入せずに<br>「見守る」ことが、「その人らしさ」を認めるとと思っている人は<br>恐らくこの今、多く存在しているでしょう。<br><br>しかし気付いているだろうか。<br><br>その「見守る」というあなたの選択が<br>いかに他人の無関心を顕しているか。<br>そして、自分を含めたその「場」をつくりあげている一つの<br>要因になっているということを。<br><br>「見守る」ことがいけないと言うのではありません。<br>しかし、「見守る」ことの背中合わせに存在するのが<br>「無関心」であることに気付ける人はそう多くないという<br>事実を思い知らされました。<br><br><br>「あなたの選択だから、私はそれを認める」<br>と自分が「あなた」の選択を認めていながら<br>自分の感覚とは違う事実を突きつけられたとたんに<br>抵抗を示すことは往々にして存在しています。<br>むしろ、それが今の私たちの関係性のほとんどです。<br><br>とかく人に対して無関心。<br>在るのは、ただただ「私」への関心。<br><br>だから、平気で人の批判ができるし、<br>自分のいる「場」への否定が簡単にできるのです。<br><br>「場」というものは、一定の調和が保たれているから<br>「場」として確立することができています。<br>しかし、そこにいる「誰か」によって調和が乱されることがあります。<br>その調和の乱れの中にある時、人は何を思うのか。<br><br>ほとんどの人が、冒頭のモンテーニュの言葉にある<br>愚者としてその「場」に抵抗していることに、自分自身で気付けているでしょうか。<br><br>自分の描く理想や概念によって見る世界から<br>調和の乱れた「場」を批判していないでしょうか。<br><br>「そんなことして、どうするの？」<br>「もうダメだ。こんなことしてても、何も変わりゃしない」<br>「誰のせいでこんなことに」<br>「あなたの、その行為がこんな結果を生み出している」<br>「あなたが変わるべきだ」<br><br>全てこれらは、その「誰か」を通して自分自身への関心に向けられた言葉です。<br><br>気付いてほしい。<br><br>自分自身が抵抗を起こしている「場」を引き起こしているのは<br>具体的な調和を乱す出来事を起こした「誰か」ではなく<br>そんな調和を乱す出来事を「誰か」に起こさせてしまった<br>「あなた」自身そのものだということに。<br><br>本当に自分自身がその「場」を変えたいと思っていて<br>本当に、その「場」にいる人にコミットしたいと思っていたら<br><br>その「場」は何かしらの変化を生み出し動いていきます。<br><br>それだけ人には可能性が秘められています。<br><br>でも、ちょっとした周りの人や環境の反応に<br>「あなたには何を言ってもダメだ」<br>「ここにいても意味がない」<br>と言葉にしているのは、自分自身のその人やその「場」に対する<br>可能性の諦めでしかありません。<br><br>「あなたのことは信じてないけど、私の話を聴いて」<br>「あなたのことは信じてないけど、見守ってる」<br><br>なんて言って、誰が真剣に向き合ってくれるでしょう。<br><br>その自分自身が見ている世界は<br>自分自身が生きている世界です。<br><br>自分の言葉や行為は、目の前の対象だけに影響を与えているわけではありません。<br>「誰か」個人に向けた言葉ですら、<br>それは、色んな場面や人に飛び火しています。<br><br>そして<br><br>それが、自分のいる「場」を生み出しているのです。<br><br>「私は私、あなたはあなた」<br><br>尊いその人自身を認める一方で<br>あまりにも、自分の責任に対して無自覚であることの顕われ。<br><br><br>恐ろしいまでに<br>これが、今の私たちが生きている人間関係の浅い限界なのです。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Tue, 19 Oct 2010 22:31:40 +0900</pubDate>
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<title>「信じる」ということ</title>
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<![CDATA[ 「信じる」<br><br><br>明るいエネルギーを感じる一方で<br><br>どこか物悲しさを感じる言葉。<br><br><br>信じるって何だろうか。<br><br><br>そもそも<br><br>「何かを信じる時ってどんな時？」<br><br>この問いを向けられた時<br><br>どんな思いが巡るでしょうか。<br><br><br><br><br>何かを信じる時。<br><br>それは、信じているその何かを疑っている時。<br><br><br>「信じる」という心情の裏側には<br>「今に裏切られたくない＝裏切られるのでは」という、疑念が隠されています。<br><br>「あなたを信じている」<br><br>それは、あなたが生み出すであろう未来を<br>私の中で生み出していて、そうなることを私が望んでいるという<br>メッセージであり、主語はあなたではなく私です。<br><br>「夢を信じて」<br><br>夢とは何か。<br><br>明るい未来への希望は<br>他ならない「今」そのものの疑念、否定から出発しています。<br><br><br>今よりも上を目指す、志向の精神はとても大事です。<br><br>だけど<br><br>時に、夢という未来に執着しすぎると<br>今の否定を延々と繰り返し、その未来と違う今が<br>現れた瞬間に、大きな絶望や怒りや負のエネルギーが生まれてしまいます。<br><br>大事なのは、未来を見る前に<br>自分が行きている今のこの瞬間を受け容れること。<br><br><br><br>人の夢と書いて「儚い」<br><br>人の見る夢は、不確かで儚い一瞬の未来でしかありません。<br><br><br>今この瞬間に現れてくるものこそが、確かな未来の礎となります。<br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 26 Sep 2010 23:14:33 +0900</pubDate>
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<title>「場」に規制される身体</title>
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<![CDATA[ 「他方この権力は、《それを持たざる者》に、<br>　ただ単一に一種の義務ないし禁止として強制されるのではない、<br>　その権力は彼らを攻囲し、彼らを介して、<br>　また彼らを通して貫かれる」<br><br>（M.フーコー／田村俶訳『監獄の誕生－監視と処罰』1997）<br><br><br>私たちは、何らかの「空間」の中に身を置いています。<br><br>そして、その空間は何らかの特有の意味を有しています。<br><br>例えば<br><br>学校の「教室」<br><br>「自宅」、「会社」、「コミュニティ」など。<br><br><br>同じような広さ、机やイスとかありふれた道具も一緒だったりしてても<br><br>それぞれの空間の特有の意味を<br><br>私たちは、「それらしい」振る舞いや言動によってつくりだしています。<br><br>つまり、その自分が身を置く「場」によって<br><br>自分の振る舞いや言動が規制されていることになります。<br><br><br>例えば<br><br>学校の教室をイメージした時。<br><br>教室にあるおなじみの「イス」。<br><br>イスは教室でなくても、どこにでもあるものなので<br>イスを見たら、ほぼ確実に「座る」という行為を私たちは生み出します。<br><br>この単純な「座る」という行為も<br>教室の中で、始業の合図がなった時に「イス」に「座る」という行為が<br>当たり前のものとして存在するとき<br><br>それは<br><br>単なるイスに座るという意味ではなく<br><br>「授業を受ける」＝「着席」<br><br>という教室特有の意味の行為へと変容を遂げます。<br><br>人の身体は、物理学的に動く可動範囲のパターンが決まっているし<br>言葉も新しい意味の単語は増えていながらも、限りある意味の言葉を用います。<br><br>人の身体の限界によって限られた行動のパターンから<br>その空間に相応しい身振りを生み出す、引き出すための布置が<br>今の「イス」であったり、様々な物によって成されています。<br><br>それらを上手く組み合わせ配置し、<br>それを繰り返し、慣習化することで、<br>それらの行為は、その特有な空間を特有な空間たらしめる意味ある行為として<br>認識されることになります。<br><br><br>それは<br><br>あまりにも自然で<br>あまりにもありのままであり<br>完璧なまでに、調和した一つの解釈の世界＝空間を創造しています。<br><br><br>そして<br>そこで息づく人達の中に<br><br>「こうあらねばならない」<br><br>という暗黙の強迫観念を押し付けることになります。<br><br>誰かの行為に対して「それは違う」「こうすべきだ」<br>これらの人に対する批判は<br>その「場」が生み出している一つの世界の解釈に過ぎません。<br><br>しかし、その「場」にとっては調和した世界なので<br>その強迫観念に迫られた言葉や解釈をふりかざした<br>闘争と逃走の世界に陥ってしまってしまいます。<br><br><br>その空間の中における批判や否定は<br><br>真の意味で生産的はなく、閉鎖的な循環のサイクルに過ぎないことがほとんどです。<br><br><br>いかに、その空間の持つ特有さを客観的に把握できているか。<br><br>その上でそれらを越境する行為が<br><br>次の創造を生み出すステップへとつながるのではと考えています。<br><br><br><br>「共感のその先へ」ーーー<br><br><br>単純な表層的な共感だけでは、新たな変革や創造は生み出せません。<br><br>深い共感を経て、その次の扉を開く時こそが<br><br>新しい世界の解釈へ辿り着く時です。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ahead-of-empathy/entry-10659094929.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Sep 2010 22:27:44 +0900</pubDate>
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<title>笑顔のスイッチ！</title>
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<![CDATA[ 先日の９月１８日（土）に、「笑顔のコーチングファシリテーター養成講座」を開催しました。<br><br><br>「笑顔のコーチング」のプログラムに参加するのは去年に続き２度目。<br><br>同じプログラムですが、新しい発見もあり、再確認されたものもあり。<br><br><br><br>「答え」が決められていないものをテーマにすると<br><br>その時出てくるものは本当に様々。<br><br><br>テーマが「笑顔になる瞬間」、笑顔のスイッチは何？というもの。<br><br>「友人と会った時」<br><br>「温泉旅行に行った時」<br><br>「朝の電車で座席に座れた時」<br><br>などなど。<br><br>特段、何かがあるというものではなく<br><br>あまりにもありふれた日常の一片をかき集める。<br><br><br><br>いかに、ありふれた日常を「ありふれたもの」にして世界を見ていたか<br><br>そんなことに気付かされます。<br><br><br>テーマによって切り取られた日常は<br><br>それだけで<br><br>「ありふれたもの」から<br><br>「笑顔」という人を明るくする大事なスイッチへと変わっていく。<br><br><br><br>世界を見る解釈は一つではない。<br><br>でも、今見ている世界は一つの解釈によって見られている。<br><br><br>いかに、自分の見ている世界の解釈を自覚できるか。<br><br><br>それが、人生を豊かにする一つの解釈の世界。<br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ahead-of-empathy/entry-10654429786.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Sep 2010 23:38:59 +0900</pubDate>
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