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<title>文学的辺境通信</title>
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<description>辺境に住み続けたいと思う人間の文学的通信</description>
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<title>文学的辺境通信第二十三回</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 12px;"><strong>Oさんのこと</strong></span><br><br>　11月19日、かけがえのない仲間の一人、Oさんが逝った。56歳だった<br>　私が最後に1年だけ勤務した高校で、Oさんは業務員として働いていた。1年しか一緒に仕事しなかったのに、ずっと昔から一緒に仕事をしていたような気がした。話しているうちに、共通の親しい友人がいることもわかった。話せば話すほど親近感が増していった。<br>　<br>　学校の中で、Oさんは業務員という枠を越えた存在だった。生徒たちと気軽に喋る。時には話し込み、その相談に乗る。教師も業務員室を訪ね、Oさんに相談を持ちかける。特に女の先生にはOさんは頼りになる存在だった。相談相手になったり、食事会をしたりしていた。<br>　業務員室は、Oさんの手作りのリースや小物で飾られていた。居心地の良い空間だった。校舎周辺にはOさんが丹精した木や草花が繁っていた。生徒も教師も掃除や整理の行き届いた校舎や校庭でそれぞれの活動をすることが出来た。Oさんのおかげだった。<br><br>　Oさんは地域で子どもたちにダンスを教えていた。ダンスはOさんの生き甲斐だった。Oさんの人柄から、Oさんのもとに集まる子どもたちの中に、学校や社会に適応しにくい子どもたちが増えていった。Oさんは子どもたちと踊り、お母さんたちと談笑しながら、社会で生きにくい親子と一緒に歩んでいた。<br><br>　2年前、Oさんから病気のことをきいた。乳がんだった。一年間、Oさんは病気と向き合った。Oさんの話から、ご主人や娘さんたちの支えの強さが伝わってきた。「旦那やら娘らには、正直、ほんまに感謝してるねん。」<br><br>　病院でもOさんらしかった。女の先生だったこともあったのかもしれないが、主治医の先生と担当の看護師さんたちが、Oさんファミリーのようになっていった。みんなが、Oさんと強い絆を感じながら支援しているようだった。<br>　1年後、Oさんは職場復帰を果たした。それから半年、がんは転移していた。<br>　乳がんが改善したOさんはダンスにも復帰しつつあったが、がんの転移以降、ダンスは出来なくなった。Oさんは手作りの小物作りを地域で教えるようになった。病院でも、Oさんの受診する診察室は、OさんやOさん教室の看護師さんの作品が並ぶ、居心地の良い空間になっていった。Oさんが長年勤務していた高校の業務員室のように。<br><br>　告別式では年配の先生が号泣しておられる姿もあった。そんな中、ご主人は、しっかりと自分を持して最後の挨拶をなさった。<br><br>　「妻は自分のしたいことを一生懸命しました。その中で多くの人とお出会いし、素晴らしい時間を過ごさせて頂きました。多くの方々にも素晴らしい時間を過ごしていただいたのではないかと思っております。56歳という早い死ではありましたが、妻なりに十分に生ききった人生ではなかったかと思い、そういう妻を誇りに思います。」<br><br>　Oさんは差別をしなかった。良いことは良いと言い、悪いことは悪いと言った。べたべたせずに、親身になってその人に寄り添った。嬉しいときはとても嬉しそうで、悲しいときは悲しそうだった。苦しいときは、しかし、苦しそうな表情を抑え、笑顔であろうと努めていた。自分に正直であると同時に、人に誠実であり優しかった。思いやりがあった。温かかった。人として、生ききった人生だった。これからも遠くから、私を含む多くの人々を、限りなく優しく、少し厳しく、見ていてくれる気がする。
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<pubDate>Sun, 29 Nov 2015 16:42:29 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第二十二回</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 16px;"><strong>矢野誠一編『志ん生讃江』を読む<br></strong></span><br>　高校の頃から落語が好きだった。1970年頃、〈労音〉が落語会を開いていた。生で初めて聴いたのは、六代目松鶴だった。一滴も酒を飲んでいない人間が、目の前でこれ以上ない酒飲みそのものの姿に変貌していくのを目撃して楽しい衝撃を受けた。こんな芸があるのかと瞠目した。<br>　その頃、ちょうど、米朝のレコードが出始めていた。一枚買った。「崇徳院」「質屋蔵」「骨つり」、繰り返し聴いた。<br>　レコード屋に行くたびに、落語のレコードやカセットを探した。志ん生、文楽、円生があると買ってきて聴いた。色んなものを聴くうちに、自然に自分の中で「志ん生しかないな」という思いが定着してしまった。<br><br>　志ん生は最後の噺家であろう。『志ん生讃江』で語られる志ん生はそのことをよく知らしめてくれる。<br>　志ん生は、飲む打つ買うの三道楽もあり、とことん貧乏した。おかみさんはとことんそれにつきあった。そんな志ん生夫妻についての安藤鶴夫（作家）の文章の結び。<br><br>　　　（おかみさんに）いままでに、別れようと思ったことがあるか、と訊いたら、<br>　　　「いちどもありません」と言った。そしてこんどは笑わなかった。<br>　　　志ん生が七十四、おりんさんが六十七。<br>　　　こんないいお神さんなんて、そう、ざらにはいないぜ、といったら、志ん生が、にこにこッと、顔中で笑った。<br><br>　山田洋次が「結城昌治『志ん生一代』解説」で言う。<br><br>　　　出てきただけでおかしい、顔見ただけでおかしい、という役者こそコメディアンとして貴重なのだが、そのおかしさはどこかで悲惨さに通じるんです　　<br>　　　よ、と私に話してくれたのはフーテンの寅さんこと渥美清さんであった。「落語を地でいったような」という形容は志ん生の生涯を語るときによく用い　<br>　　　られる言葉だが、しかし落語がいかにおかしく楽しい芸であっても、落語のように生きた志ん生の人生は決して面白くもおかしくもなく、むしろ奇妙<br>　　　な重苦しさ、すさまじさのようなものすら感じさせるものだということを結城さんはこの著書で教えてくれるのである。　<br><br>　興津要（近世文学者）の「古今亭志ん生」にはこんな件がある。　<br><br>　　　…「ふろしき」のマクラでは、「あのひと、おまえさん、好きで一緒になったの？」「ううん、好きじゃないの」「なんか見込みがあるの？」「ううん」「じゃ<br>　　　あ、どうして一緒になったのさあ？」「だって、さむいんだもの」という、貧窮のどん底で、心が結ばれている夫婦の横顔をえがく会話があるなど、いず<br>　　　れも体験に基づくものであるだけに、それが、みごとな芸になっていた。<br><br>　志ん生の語りによる半生記『なめくじ艦隊』で志ん生は言っている。<br><br>　　　人間てえものは、ほんとうの貧乏を味わったものでなけりゃ、ほんとうの喜びも、おもしろさも、人のなさけもわかるもんじゃねえと思うんですよ。<br><br>　志ん生の息子、馬生も志ん朝も、うまい。私は好きである。けれども志ん生とは比べようがないのである。<br><br>　再び『志ん生讃江』から、吉村昭の「古今亭志ん生」の一節。<br><br>　　　…顔に、酔いが濃くひろがっている。…志ん生さんは、弟子に身支度をととのえさせると、覚束ない足どりで舞台に出ていった。しかし、客席にまわっ<br>　　　てみると、志ん生さんは、いつもの古今亭志ん生であった。噺は「宿屋の富」であったが、その日の噺は私のきいたかぎり最高のものであった。入念<br>　　　な「宿屋の富」を四十五分間いきいきと話し続けた。／やがて高座から志ん生さんが下りてきたが、華やかな高座の志ん生さんとは全く別人のよう<br>　　　な体の小さな老人に戻っていた。そして、むっつりと黙ったまま弟子とともに体をふらつかせながら帰っていった。<br>　<br>　この志ん生の素顔に、私は名状しがたい感懐を持つ。馬生にも志ん朝にもこういう姿は想定できない。その死を知って志ん生が号泣したという文楽なら、こういう姿はあったかもしれない。こういう姿が原点にあるというのは、江戸という文化がそこにあるからではないのか。志ん生という存在は江戸文化最後の一閃の光芒というものなのではないか。新しい時代の志ん生が現れることは、二度とないように思える。<br>
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<pubDate>Tue, 27 Oct 2015 17:28:16 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第二十一回</title>
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<![CDATA[ <strong><span style="font-size: 16px;">岡田一と著『鶴彬の軌跡』を読む</span><br></strong><br>　私がこの本を手にしたのは三十年以上も前の事である。大学の５年目だったか６年目だったか、ふとしたことで知り合った、山川詳という高校生の友人から贈られたのである。著者の岡田一と氏は彼の父上だった。著書だけでなく、油彩画も頂いた。１号ほどの大きさの白山の絵だった。作者の誠実さや清潔さが自然のうちに感じられる、味わいのある落ち着いた美しさをたたえた絵だった。今でも我が家の居間に飾っている。<br>　　『鶴彬の軌跡』もずっと私の本棚にあった。しかし、川柳は私には縁遠いものだった。せっかく贈って頂いていながら、読む事はなかった。ただ、いつかは読む事になるだろうとは感じていた。先日、テレビのドキュメンタリーで鶴彬の特集番組が放映された。鶴彬を読むべき時期になったと感じた。<br>　<br>　鶴彬。1909（明治42）年～1939（昭和14）年。石川県高松町生まれ。本名喜多一二（かつじ）。1923年、高松高等小学校卒業後、養父の機屋で働くも倒産により大阪の町工場で働く。16歳頃から独学で川柳に親しむ。失業に苦しみながら川柳誌『氷原』でプロレタリア川柳論を読み「胃袋で直感」してプロレタリア派に投ずる。1930年、金沢第七連隊入営。連隊内で赤化事件を起こし軍法会議にかけられ2年の刑を受ける。1933年、二等兵のまま除隊。当局の監視を避けるため上京。反戦川柳を書き続け1937年、治安維持法違反で検挙。留置場で赤痢に罹患。看視のまま豊多摩病院で死去。享年29歳。<br><br>　　人遂に己に似たる神を彫る<br><br>　　干し鰮（いわし）の如く群衆眼をぬかれ<br><br>　　退けば飢えるばかりなり前へ出る<br><br>　　十五日経ったら死ねという手当<br><br>　　地下へもぐって春へ春への導火線<br><br>　　ふるさとは病といっしょに帰るとこ<br><br>　　玉の井に模範女工のなれの果て<br><br>　　ざん壕で読む妹を売る手紙<br><br>　　暁をいだいて闇にある蕾<br><br>　　裏切りをしろと病気の子の寝顔<br><br>　　くひしばるたびうずいてくる飢ゑの牙<br><br>　　グラインダーの蒼い火花に徹夜続きのあばら骨<br><br>　　奴隷ではない女らのヨイトマケ<br><br>　　万歳を必死に叫ぶ自己欺瞞<br><br>　　華やかに名を売り故郷へ骨が着き<br><br>　　手と足をもいだ丸太にしてかへし<br><br>　　高梁の実のりへ戦車と靴の鋲<br><br>　　屍のないニュース映画で勇ましい<br><br>　　万歳とあげて行った手を大陸へ置いてきた<br><br>　これらの句は、昭和10年前後のものである。この時代にこのような表現行為を為す事は非常な勇気を必要とした。同時に明確な認識と理論と方法と信念を必要とした。鶴は云う。<br><br>　「…僕は川柳の純粋性を「その現実的な精神と人民的な性格と批判的諷刺的方法」において規定した。これこそは、川柳を短歌や俳句やその他の短詩のだいようであらしめるものとは全然別個な、川柳を川柳以外の何ものでもあらしめない、本格的な特殊性をさして言われているのであり、それは川柳にとって何物にも代えがたい、ぬきさしならぬ本質的純粋性にほかならない。」「川柳の詩的純粋性は、決して「純粋詩」的性格のうちになどあり得ない。川柳の詩的純粋性はただ諷刺的性格のうちにのみあるのだ。」<br><br>「…ひっきょうするに川柳は右手に諷刺の剣を、左手には憤りと笑ひの情熱をそなへた現実の詩である…。すぐれた作品はよりたくましい格闘精神を持った生活の実践に基礎づけられてはじめて可能であるのだ。」「このような諷刺は勿論誰にも彼にも持つ事が出来るものではなく、特定の一人の人間が、とことんまでの苦しみをしぬいた結果によって身につける特殊な精神である。だが故に諷刺詩人となるためにはまづ諷刺的人間をこしらえてゐることが絶対不可欠の第一条件としてゐることを忘れてはならない。」<br><br>　これらの言葉にこもっている精神はまさに川柳精神と言うべきものであろう。あるいは文学精神と言うべきものであろう。あるいは、精神そのものの精髄と言うべきものであろう。私が心して聴くべき言葉であると感じる。そのような言葉と精神を、鶴彬という存在を通して、山川君と岡田氏は確かに私に届けてくださったのであった。<br>　　
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<link>https://ameblo.jp/ahimayo8341/entry-12086302052.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Oct 2015 15:09:10 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第二十回</title>
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<![CDATA[ <strong><span style="font-size: 14px;">漱石と博士号</span></strong><br><br>　明治４４（１９１１）年２月２０日、漱石宅に文部省から手紙が届く。博士号を授与するから翌２１日出頭するようにと。長与胃腸病院で修善寺大患の予後を養っていた漱石は、翌２１日手紙を書いて辞退の意を伝える。曰く「…小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持って居ります。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。この際ご迷惑をかけたりご面倒を願ったりするのは不本意でありますが右の次第故学位授与の儀はご辞退致したいと思います。宜敷お取り計らいを願います」。<br>　この手紙に対して、四月になって文部省から「已に発令済みに付き今更ご辞退の途も無之」との手紙が来る。漱石は再度辞退の手紙を書く。「…毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し、小生は不快の念を抱くものなる事をここに言明致します。／小生の意思に逆らって、お受けする義務を有せざる事をここに言明致します｡／最後に小生は目下我が邦における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑑みて、現今の博士制度功少なくして弊多き事を信ずる一人なる事をここに言明致します」。<br>　その後、友人の仲立ちや文部省側からの接触があったが、両者が折り合う事はなかった。結局、文部省は授与を取り消さず、漱石は授与辞退を撤回しないという事で、文部省は夏目金之助は博士であると認定しており、漱石側は博士でないと認識しているという事になっているようだ。<br>　既に英国留学中の明治３４（１９０１）年、漱石は鏡子夫人への手紙で書いている。「先達てお梅さん（夫人の妹）の手紙には博士になって早くお帰りなさいとあった。博士になるとは誰が申した。博士なんかは馬鹿々々敷、博士なんかを有り難がるようではだめだ。お前は俺の女房だから其れくらいな見識は持って居らなくてはいけないよ」。<br><br>　明治４４年３月６～８日、『朝日新聞』に『博士問題とマードック先生と余』掲載。<br>　マードックはスコットランド生まれのイギリス人。一高時代の漱石の英語と歴史の先生。若き漱石はその人柄と学識を敬愛し、私宅を訪ねて教えを請う事もあった。マードックと漱石は一高での師弟関係以来連絡はなかった。二十年の時を経てマードックから漱石に手紙が届いた。漱石は驚き喜んだ。「手紙には日常の談話と異ならない程度の平易な英語で、真率（まじめ）に余の学位辞退を喜ぶ旨が書いてあった。その内に、今回の事は君がモラルバックボーンを有している証拠になるからめでたいという句が見えた。／…先生は又グラッドストーンやカーライルやスペンサーの名を引用して、君のお仲間も大分あると云われた。是には恐縮した。…先生がこれら知名の人の名を挙げたのは、辞任の必ずしも非礼でないという実証を余に紹介されたまでで、これら知名の人を余に比較するためでなかったのは勿論である」。そして漱石は書く。<br>　「先生云う―吾等が流俗以上に傑出しようと努めるのは、人として当然である。けれども吾等は社会に対する栄誉の貢献によってのみ傑出すべきである。傑出を要求するの最上権利は、凡ての時において、吾等の人物如何と吾等の仕事如何によってのみ決せられるべきである」。<br><br>　明治４４年３月７日『朝日』掲載の漱石談話の一節。「私は当局者と争う気もない。当局者も又私を圧迫する了簡は更にないと信じています。この際直接福原君（文部省の担当者）の立場として甚だ困られるだろうとは思うけれども、明治も既に五十年近くになってみれば、政府で人工的に拵えた学位が、そう何時までも学者に勿体ながられなければ政府の威信に関するというような考えは、当局者だってそう鋭角的に維持する必要もないでしょう。…博士を辞退する私は、先例に照らしてみたら変人かもしれませんが、段々個人々々の自覚が日増しに発展する人文の趨勢から察すると、是から先も私と同様に学位を断る人が大分出てくるだろうと思います。私が当局者に迷惑をかけるのは甚だ気の毒に思っているが、当局者も又是れら未来の学者の迷惑を諒として、なるべくはその人々の自由意思通り便宜な取り計らいをされたいものと考えます」。<br><br>　漱石の言葉は１００年前のものと思えない。漱石云うように、博士とか何とか言う事と関係なしにその人の努力や値打ちが認められる社会がいい。人や物事の価値を認めるのは一人一人の人間である。正しく価値を見極める事が出来る人間でありたいものである。<br>
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<pubDate>Tue, 13 Oct 2015 14:35:37 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第十九回</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 12px;"><strong>時を越えて響く漱石の言葉―講演『現代日本の開化』と『私の個人主義』<br></strong></span><br>　〈近代〉をどう捉えるか、また、〈日本の近代〉をどう捉えるのかは、私にとって変わらない課題である。そのことを考えるとき、いつも心に浮かぶのは、漱石晩年の二つの講演である。<br>　『現代日本の開化』は一般の人を対象とした講演である。漱石はまず開化一般について次のように言う。<br>　「…出来るだけ労力を節約したいという願望から出てくる種々の発明とか器械力とかいう方面と、出来るだけ気儘に勢力を費やしたいという娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜して現今のように混乱した開化という不思議な現象が出来るのであります。」「然しこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的和らげられたというわけではありません。否、昔よりかえって苦しくなっているかもしれない。…これが開化の生んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。」<br>　そこから漱石は、日本の開化について論を進める。<br>　「…西洋の開化は内発的であって、日本の開化は外発的である。…今まで内発的に展開してきたのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその言うとおりにしなければ立ちゆかないという有様になったのであります。それが一時ではない。四五十年前に一押し押されたなりじっと持ちこたえているなんて楽な刺激ではない。時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、または恐らく永久に今日のごとく押されていかなければ日本が日本として存在できないのだから外発的と言うより他に仕方がない。」「…現代日本が置かれたる特殊の状況によって我々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏ん張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒といわんか憐れといわんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。…私の解剖した事が本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して俺の国には富士山があるというような馬鹿は今日は余り言わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申したとおり私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱にならない程度において、内発的に変化して行くがよかろうというような体裁の良い事を言うよりほかに仕方がない。…」<br>　漱石の苦い予見や周囲への皮肉は百年後の現在もそのまま当てはまるように私には思える。<br><br>　『私の個人主義』は学習院の学生に対する講演である。漱石は言う、「あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立ったときよりも余計権力が使える」「金力も…あなた方は貧民よりも余計に所有しておられる」と。そういう学生たちに漱石は言う。「義務の付着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです」「責任を解しない金力家は、世の中にあってはならないものなのです」。<br>　さらに漱石はこんなことを言う。<br>　「たとえば私が何も不都合を働かないのに、単に政府に気に入らないからといって、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせたらどんなもんでしょう。…三井とか岩崎とかいう豪商が、私を嫌うというだけの意味で、私の家の召使いを買収して事ごとに私に反抗させたなら、これまたどんなものでしょう。」<br>　続いてこんな例が出される。<br>　「私がかつて朝日新聞の文芸欄を担任していた頃、だれであったか、三宅雪嶺さんの悪口を書いた事がありました。もちろん人身攻撃ではないので、ただ批評に過ぎないのです。…すると「日本及び日本人」（三宅中心の同人誌的総合雑誌）の連中が怒りました。…雪嶺さんの子分―子分というと何だか博打打ちのようで可笑しいが―まあ同人といったようなものでしょう、どうしても取り消せというのです。…その話を間接的に聞いたとき、変な心持ちがしました。というのは、私の方は個人主義でやっているのに反して、向こうは党派主義で活動しているらしく思われたからです。…個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非をあきらめて、去就を定めるものだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持ちがするのです。それはそのはずです。薪ざっぽうでも束になっていれば心丈夫ですから。」<br>　講演の最後近くにこんな言葉もある。<br>　「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののようにみえる。」<br><br>　『現代日本の開化』は明治４４（１９１１）年８月、和歌山での講演である。前年８月、いわゆる修善寺の大患で生死の境をさまよった漱石が、その一年後、関西各地で行われた大阪朝日新聞主催講演会の一つとして行ったものである（漱石は明石で『道楽と職業』、和歌山で『現代日本の開化』、堺で『中身と形式』、大阪で『文芸と道徳』を講演した）。この直後、胃潰瘍再発により大阪で入院。帰京後、痔の手術、五女の急死等が相次ぐ。<br>　翌４５年１月、後期三部作の初め『彼岸過迄』を朝日に連載開始。４月末終了。９月、痔の再手術。１１月『行人』連載開始するも神経衰弱により執筆進まず。翌大正２年、神経衰弱と胃潰瘍のため『行人』一端中断。再会して１１月連載終了。翌大正３（１９１４）年１月『行人』刊行。４月から『こころ』連載。８月『こころ』連載終了。９月上旬から胃潰瘍のため病臥。病臥の間に『こころ』自序を書き、箱・表紙・見返し・扉など一切を自装して創業間もない岩波書店より刊行（岩波は漱石の弟子）。『私の個人主義』は、それらが一段落した１１月２５日の講演だった。２年後の１２月、漱石は４９歳で逝去する。<br><br>　漱石晩年のこの二つの講演には、「洋文学の隊長たらん」としてイギリス留学し、徹底的に文学を究めんとしてとことん挫折した漱石自身の、切実な体験と認識が貼り付いている。この二つの講演と『こころ』は、読者に対する遺言のように私には思える。<br><br>
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<pubDate>Tue, 06 Oct 2015 16:05:41 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第十八回</title>
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<![CDATA[ 寡黙な人の生と死<br><br>　昨年７月、義兄が亡くなった。妻の姉の夫である。７１歳だった。<br>　体の大きな人だった。眉が濃く、唇は「へ」の字が似合った。何升飲むのだろうかと思われる人だったが、酒は殆ど飲めなかった。酒が飲めぬのに、いつも義姉の飲み会につきあった。義姉の友人が全て義兄のワゴン車に乗り、それぞれの家まで送られた。みんなに感謝された。酒席の嫌いな人ではなかった。人が好きだったのではないかと思う。義姉は賑やかな人である。その傍らで義兄はいつも口を「へ」の字に結んでいたようだ。そして、時々楽しそうに笑っていたらしい。義兄と一緒に私たちが飲食しているときも、いつも、そうだった。<br>　私たち家族が、妻の実家に帰省するたびに、義兄にお世話になった。義兄夫婦の子どもたちと私たちの子どもたちはいつも楽しい時間を過ごした。私たちは義兄の車で遊園地や水族館やボウリング場など、色んなところに連れて行ってもらった。私は将棋が出来ない。子どもたちの間で将棋がはやったことがあり、上の二人の男の子は、義兄と将棋を楽しんだ。下の娘は、義兄にとてもかわいがられた。義兄が娘を好きなのはとてもよく分かった。義兄はいつも静かに子どもたちのそばにいて見守っていた。大きな〈お守り〉のようだった。<br>　昨年６月、義兄は「あと一ヶ月」と診断された。義姉がそれを聴いた。子どもたちも聴いた。「お父さん」（義兄）には告げず、みんなで看病した。家族は「お父さん」の話を聞きたいと思った。殆ど自分のことを話さなかった義兄が、自分の事を話すようになった。一ヶ月の間に、お父さんが如何に自然のものごとについてよく知っているか、初めてわかった。様々な事についてどう考えているか、少しわかった。お父さんの心の世界の豊かさを、家族のみんなが改めて感じた。前年１２月に結婚した長男の奥さんも、義兄の子どもの一人になって、義兄を看病した。義兄は家族に看取られて義兄らしく静かに逝った。<br><br>　先月２６日、叔父が逝った。叔母（父の妹）の夫である。７６歳だった。<br>　義兄と違い、小柄な人だった。体型は違うけれど、やはり寡黙な人だった。<br>　叔父の闘病は、昨年１１月から始まった。初めは腎臓結石の手術のための入院だったが、感染症により、一時、心肺停止になった。一命は取り留めたが、しゃべれない状態が続いた。小さめのホワイトボードに筆談で会話するようになった。いったん、心肺停止になり、その後、何ヶ月もベッドで寝たきりの生活を続けていたにもかかわらず、叔父は明晰な意識を保ち続けていた。見舞客には必ず「ありがとう」と書いた。看護師にも「ありがとう」と折に触れて書いた。家にある、趣味で撮りためていた写真の中から、どの写真をコンテストに出すか、妻（叔母）に正確に伝えていた。筆談の文字が読みやすくなるように、仮名の練習をしていた。<br>　農家の９人兄弟の末子に生まれ、働きづめの一生だった。業者の求めに応じて、その求め通りに様々な機械を作る職人だった。自宅の風呂や車庫なども自分で作ってしまった。奥さん（叔母）が、「寡黙な人、不平不満を言わない人」と叔父を評していた。そんな叔父が、鼻注の管を払いのけるのを防ぐために自分の手がベッドに縛り付けられているのに気づいたときだけ、妻の手をたたいた。手に痛みはなかったが、叔母は号泣したという。<br>　看護師が病室を出るときバイバイをすると、叔父は動かない手で必ずバイバイをしたという。比較的体調がよいときには微笑みかけもしたという。そんな叔父に看護師の方がかあえって癒やされたという。そういうことが最後まで続いたという。妻と二人の子に看取られて、最期は静かに逝った。<br><br>　私に義兄や叔父のような生と死が営めるだろうか。<br>
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<pubDate>Tue, 29 Sep 2015 14:28:51 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第十七回</title>
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<![CDATA[ 中野淳著『青い絵具の匂い―松本峻介と私』<br><br>　３年ほど前『日曜美術館』で松本峻介が紹介されて以来、その作品をずっと見たいと思っていた。特に「立てる像」は気になって仕方がなかった。先日、名古屋市美術館の『画家たちと戦争』展で初めて対面することが出来た。<br>　間違いなく決意の絵だが、あくまで静かな絵だった。隅から隅まで、どの部分にも画家の張り詰めた、そして抑制のきいた精神と神経が行き届いている。<br>　「立てる像」同様、十点ほどの他の絵も、どれも好かった。<br>　『青い絵具の匂い―松本峻介と私』は、松本より１３歳年少の友人画家、中野淳による追想記である。<br>　松本は１９１２年（明治４５年）東京生まれ。２歳から岩手県花巻市と盛岡市で過ごす。１３歳で聴力を失う。１５歳から絵を描き始める。１７歳、家族と上京。本格的に絵に取り組む。以後、二科展等に出品、個展も開く。戦後も地道な活動を続けるが、持病の気管支喘息による心臓衰弱のため１９４８年（昭和２３年）、３６歳で早世。<br>　松本が逝去したとき、親友の画家、麻生三郎が新聞社に死亡記事を載せるよう要請したら「有名でないから載せられない」と断られたという。その時々の社会の評価というものが如何に当てにならないものであるか、この一事からだけでもよく分かる。<br>　『日曜美術館』がクローズアップしていたことの一つは、昭和１６年（１９４１年）、美術雑誌『みずゑ』に掲載された座談会「国防国家と美術」における軍人たちの居丈高な言葉―「言うことを聴かないものには配給（絵具の）を禁止してしまう。又展覧会を許可しなければよい。そうすれば飯の食い上げだから何でも彼でも従いて来る」といった言葉―に対する松本の反論だった。「生きている画家」で松本は言う。<br>　「沈黙の賢さということを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思う。……だが、座談会「国防国家と美術」の諸説の中から私は知らんとする何ものも得られなかったことを甚だ残念に思うものである。今沈黙することが全てにおいて正しいのではないと信じる。」<br>　「芸術家としての表現行為は、その作者の腹の底まで染みこんだ肉体化されたもののみに限り、それ以外に表現不可能という厳然とした事実を度外視することは出来ないのである。私たち若い画家が実に困難な生活環境の中において、なお制作を中止しないということは、それが一歩一歩、人間としての生成を意味しているからである。」<br>　「立てる像」はこの文章の翌年に発表されたものである。この文章の精神はそのまま「立てる像」に表現されていると思う。その精神は、戦争に抵抗する。当時、殆どの画家が、いや、殆どの日本人が戦争に抵抗することが出来なかった。それを、松本はなした。中野は「生きている画家」を「知識人の最後の砦であるように感じた」という。松本の姿勢は、しかし単に戦争への抵抗という言葉ではくくれない。<br><br>　絵具もモデルもないため自画像のデッサンばかり描いていると話す中野に松本は言う。<br>　「こういうデッサンには君の真摯な気持ちが出ていて良いね。悪条件の中でも、描く人間の心情や歓びが表現されていれば、それで良いんだ。」<br>　制作についての松本の言葉。<br>　「……僕は下塗りをしっかりする。……作画中は何回も透明色を塗って、美しい色彩の画面を作り、たとえば空襲でやられて断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたい……。」<br>　戦後の二年間、松本は貧しい子どもたちのための通信教育の仕事に打ち込んで生計を立てながら絵を描いていたという。時にはお金のために、喫茶店に絵を売ることもあった。中野は記す。「やがて店内はお客たちの煙草のけむりとコーヒーの香りとお喋りで充満するだろう。絵も汚れるだろうが、それよりも二点の絵の精神の美しさに気づく人が、どれほどいるだろうか？」<br><br>　「立てる像」が見やる遠くには、美や永遠や真の人間性がある。「立てる像」の決意は、状況如何に関わらず、それを目指そうというものだろう。私が松本に感動するのは、そのような決意が、抑制のきいた、そして自由な精神により日々営まれていたからである。そのような松本の人となりを、中野の追想は落ち着いた静かな口調で、よく伝えてくれている。<br>　<br>
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<link>https://ameblo.jp/ahimayo8341/entry-12075910122.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Sep 2015 11:37:41 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第十六回</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">小さな町の記録に見る戦争―『近江日野の歴史　第四巻　近現代編』を読む<br></span><br>　大日本国防婦人会が結成されたのは満州事変勃発の翌年、１９３２年（昭和７年）。日野で分会が発足したのは１９３７年（昭和８年）だった。同年、日野町から初めての日中戦争開戦後の応召兵が出た。７月３０日から８月４日まで、２６名の兵士が日野から出発した。「在郷軍人、一般市民、児童が小旗を振り、万歳を唱えながら（雲雀野という広場から）日野駅まで見送った」。８月１日、青年団主催の時局講演会で「北支事変は東洋平和の聖戦」と京都連隊の大佐が講演。同月７日、馬見岡綿向神社（日野の総鎮守社）で、町主催「応召軍人及び現役兵、武運長久及び国威宣揚祈願祭」開催。各種団体役員、小学校児童、女学校生徒らが参拝。同月１７日、町長を会長に、全町民を会員として「日野町関係の軍人及びその遺家族に対する後援を為す」目的で日野町軍事後援会設立。同月２６日、馬見岡綿向神社で、応召兵士、町長、知事代理、警察署長、女学校長、小学校長、在郷軍人会員、消防団員、青年団員、町会議員、仏連幹事、区長、国防婦人会員、五年生以上の小学児童らの参加で「国威宣揚及び武運長久祈願祭」挙行。９月１９日、各種団体、町民約２０００名参加による国防町民大会が挙行されたという。<br>　この１９３７年（昭和１２年）、日本軍は南京を占領した。「馬見岡綿向神社で南京陥落戦勝奉告並びに出動将兵感謝祭が執行され…日野小学校・女学校・西大路小学校連合の南京陥落祝賀旗行列が行われた。…多くの日本国民が南京占領を祝う裏では、日本軍によって南京大虐殺が引き起こされていた。当時、日本国内にはこの大虐殺は知らされていなかった」。<br>　１９３８年（昭和１３年）１月１日、日野町北比都佐村村報『必佐』に「国民精神総動員実施要領」掲載。運動目標として「一　社会風潮の一新」「二　銃後後援の強化持続」「三　非常時経済政策への協力」「四　資源愛護」「五　時局認識」が列挙され、家、組、部落、村、青年団、処女会、軍人・軍友会、国防婦人会・主婦会ごとの実践項目も記載。２月１１日から１７日まで、「国体明徴、産業振興週間」と定められ、１１日建国記念日、１２日生活並びに経営改善の日、１３日勤労報国の日、１４日能率増進の日、１５日報国貯金の日、１６日資源愛護の日、１７日祈念祭並びに国産愛用の日―という内容で実施されたという。<br>　「国家総動員法」が施行されたのは１９３８年(昭和１３年)５月５日である。しかし、上に見るように、すでに１９３７年から「国民生活総動員運動」は日常生活を細かく縛る形で小さな町の人々にも押し寄せていた。「国家総動員法」は当時の大日本帝国憲法との関連が議会で論点となったが、日中戦争には発動しないという含みで無修正可決されたのだった。そして、実際には、この法律に基づく勅令が次々と出され、適用範囲が拡大され、終戦まで文字どおり国家総動員のための法的枠組みとして機能したのだった（『日本歴史大事典』）。<br>　１９３９年（昭和１４年）。９月、ドイツによるパリ占領。同月、日独伊三国同盟締結。１０月、近衛首相を総裁とする大政翼賛会結成。<br>　この年の９月、滋賀県は「部落会町内会等整備要領」という通達を出している。この要領に従って、１１月、日野町大字大窪今井町は町内会規約を定めている。「この規約は、町内住民の合意の上、定めたとし…たが、規約に違反することは困難であったと思われる。…人々は、否応なく、戦争に協力させられていく。…今井町の…部落会長は、隣組（全２７戸を四つの隣組に編成）によって人々を相互に監視させることにより、規約を守らせようとした。日常のささいなことにまで、規制の縛りをかけることで、戦争に協力させようとしたのである」。<br>　これ以後も、紀元二千六百年奉祝式典、戦勝祈願祭、「供出と配給」、「金属回収」、「戦時下の学校教育」等、日野における戦争関連事項が記述される。<br><br>　『日野町誌』における戦争関連の記述はそれほど多くはない（第四巻全６１９頁中５３頁）。それでも、戦前戦中の事実がかなり拾われていて当時の様子を推測する手がかりになる。そこから見えてくるのは、細かなことにも人々を縛り、とことん人々を戦争に協力させていくように仕向けていくこの国のやり方である。この国は重大な局面において、大所高所に立った合理的判断が出来ない傾向にある。責任の所在が曖昧なままに重大な決定が為されていく傾向にある。一方で、決められた小さな目的を達成するためには緻密に物事を進めていく民族性をもっている。この国が生み出してきた、素晴らしい美術や工芸、豊かな自然景観などは後者のエートスによっている。しかし、それだけではだめなのだと、この国は７０年前に感じたはずだった。７０年間、この国は、我々は、何をしてきたのだろうか。<br>　
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<link>https://ameblo.jp/ahimayo8341/entry-12073433459.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Sep 2015 16:01:36 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第十五回</title>
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<![CDATA[ 宇野浩二著『芥川龍之介』<br><br>　芥川龍之介は私の好きな作家の一人である。芥川を好きになったのは、宇野浩二の『芥川龍之介』を読んだからである。<br>　宇野は芥川について、こんなふうに記す。<br><br>　<em>私は、芥川を思い出すと、いつも、やさしい人であった、深切な人であった、しみじみした人であった、いとしい人であった、さびしい人であった、と、ただ、それだけが頭に、うかんでくるのである。それで、私には、芥川は、なつかしい気がするのである。時には、なつかしくてたまらない気がするのである。<br></em><br><em>　…私は、芥川は、いろいろなイタズラをしたけれど、何というかなしい人であったか、と、これを書きながら、思うのである。すると、何度も同じことを言うようであるけれど、実際、涙ぐましくなってくるのである。／広津（和郎）は、「芥川は、死ぬとき、兜の中に香を入れておくような心がけの男であったなあ…やっぱり、芥川は、ういやつであったなあ…」と、云った。<br></em><br>　広津和郎は『年月のあしおと』で、芥川の死について、次のように記している。<br><br>　<em>芥川君の死は、何か実に悲しい。…吉井勇氏もそれを云っていた。<br>　「そうだよ。芥川の死は悲しいよ。…文壇の他の連中が死ぬことを想像してみても、悲しくはあっても何処か可笑しいよ。しかし芥川の死は、あれは可笑しいところが少しもなく、ただただ悲しいよ」／芥川君が死ぬ二日前、彼が桜木町の宇野の細君を訪ね、岡埜の菓子折と浴衣地とを出し、「宇野君は甘いものが好きだからこの菓子を病院に届けてください。それからこの浴衣は宇野君に着せてください」と云い、それから宇野から彼に来た手紙をふところからだし、それを宇野の細君に読んで聞かせ、しばらく泣いていたそうである。／芥川君の自殺は発作的でなく、相当前から計画的なものであったことが次第にわかってきた。しかし自殺を計画しながら、いくつかの創作を書き、自分が死んでも、後のことがわかるように、準備をしていったその冷静さは、驚嘆に値すると云って好いであろう。</em><br><br>　宇野は彼らしい、本質を射ぬく鋭い観察眼と柔らかく瑞々しい文体で、芥川の風貌を記している。<br><br><em>　…芥川は…あの、目尻に、二三本のしわをよせ、目にたつところに大きな歯が一本かけている少し大きな口を細kめにひらいて笑う、独特の、おどけたような、あかるい、笑い方をした。</em><br><br>　<em>…誠に妙なことをいうようであるが。私は、芥川の小説は芥川という人間よりもすぐれていたのではないか、というような事を、ふと、思うことがある。が、又、芥川の小説より芥川という人間の方がおもしろさに於いては、ずっとおもしろかった、とも思うのである。</em><br><br>　宇野が精神を病み始めたのは昭和二年の五月頃だった。広津と芥川の尽力などがあり、六月、入院する。宇野の入院中の七月二十四日、芥川は自殺するのである。<br>　芥川は宇野の病を自分のことのように感じていたのではないか。そう感じていた芥川は、もともと敏感な精神・神経が、更に鋭敏になっていた芥川だった。一方、入院中の宇野は新聞で芥川の死を知る。身につまされたであろう。そして、初めに引いたような芥川への思いがわいてきて、それが宇野の心に厚く濃く沈殿して結晶していったのだろう。昭和二十六年九月から翌年十一月まで『文学界』に連載されたのがこの作品であった。芥川の死から二十年以上経って結実した、宇野晩年の労作である。<br>　宇野浩二は正宗白鳥と並び、日本近代文学史上、最高の「小説の読み手」である。芥川の小説についても、手放しでほめているわけでは全くない。<br><br><em>　…明治の末から大正にかけて新しい文学の道を歩こうとした文学者は、…わざとらしい技巧や美辞麗句をしりぞけ、各自が自分の使う言葉（あるいはそれに近い言葉）で、小説その他の文章を書くことに苦労し身をやつしてきたのである。ところが、芥川は、その逆で、二十二三歳の年から、いかに、巧緻な、洗練した文章を書こうか、と、苦心惨憺したのである。誇張していえば、骨身をけずったのである。その点で、そのよしあしは別として、芥川は、随一の人であった。が、その事にあまりに煩いすぎたので、芥川の小説は、窮屈になり、飾りすぎて、いかなる切羽詰まった事を書いても、人にせまるところがなかった。しかし、それが芥川の小説の特徴でもあったのである。</em><br><br>　そんな宇野にしてなお、晩年の芥川の作品は心にせまるものをもっていた。<br><br>　<em>そこで一と口に云うと、芥川は『孤独地獄』とか、『地獄変』とかいう題をつけた作品では、殆ど『地獄』のようなものが書けなかった。、そうして、『玄鶴山房』で、ようやく、『地獄』に近い感じのものを出したのであった。／しかし、それも、あの世の地獄ではなく、この世の地獄のようなものである。</em><br><br>　<em>私は、『河童』は、芥川の最晩年の作品の中で、いろいろな欠点はあるけれど、最後のかがやかしい「花火」である、と、確信するのな人である。</em><br><br><em>　…私は、芥川は実に『異常な人』であった、と、しみじみと思うのである。…自殺をくわだてる一二時間ほど前まで、『続西方の人』の(22)『貧しい人たちに』を、少しも乱れない文章で書き続けた、ということに、私は、文字どおり、驚嘆し、実に『異常な人』であった、と感歎するのである。</em><br><br>　宇野浩二著『芥川龍之介』一冊により、芥川はほほえんで瞑することができたのではないか。<br>　心の底から文学を志したもの同士の間に成立した、最高に純度の高い希有な友情の結晶が、宇野浩二の『芥川龍之介』である。<br><br><br>
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<pubDate>Fri, 11 Sep 2015 13:18:14 +0900</pubDate>
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<title>文学的辺境通信第十四回</title>
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<![CDATA[ 山中恒の自己認識<br><br>　学生の頃から児童文学を読み始めた。その中で最も大きな影響を受けたのは山中恒だった。『ぼくがぼくであること』を初めて読んだのはちょうど二十歳だった。内容とともに、題名自体から強い示唆を受けた。それ以来、「ぼくがぼくである」ような生き方をしたいと思うようになった。折に触れて「自分は自分らしく生きているだろうか」と自問するようになった。<br>　山中さん自身が「ぼくがぼくであること」を確かめる営みを続けていた。山中さんの自己確認作業の典型は『ボクラ少国民』全六巻である。<br>　山中恒、１９３６年（昭和６年）生まれ。この年、日本は「満州事変」と称する戦争を始めた。それから１５年間、戦争を続けた。いわゆる十五年戦争である。山中恒の子ども時代は、完全に戦争と重なっている。この１５年の間、日本という国が、いかに常軌を逸した思考をしていたか、知れば知るほどおぞましい限りであるが、山中が『ボクラ少国民』全六巻を書かざるを得なかったのは、常軌を逸した思考を示す現物が、どんどん失われてしまっているという現状に愕然としたからであった。そして、そのゆえに、この国がまた同じことを繰り返すのではないかという強い危惧からだった。その危惧には山中自身のひりひりするような戦争体験が貼り付いていた。<br>　<br>　<em>各学校が創立百周年記念誌を方々で作るようになりまして、それを五、六十校分集めてみたところが、国民学校（１９４１年４月から敗戦まで）についてはほとんど書かれていないんです。…僕は非常に腹が立ちました。自分が受けた教育というものがここでえぐり取られている、これはおかしいんではないか。（『文学的立場』１９８０年秋号）<br></em><br>　「戦後、多くの児童文学作家や童話詩人たちが全集を編んだ際、わずかの例外を除いて、ほとんどのものは、この時期の創作を外しているし、年表からも抹消してしまっている」（『子どもたちの太平洋戦争』）。これは「児童文学作家や童話詩人たち」だけではない。一般の文学者、思想家、ジャーナリスト、教育者、画家、歌手、作曲家など文化に関わるあらゆる人たちのほとんどが同じことをしている。ほとんどの人が、信じがたいような戦争協力の動きをしている。そして、戦後、それを隠している。<br><br>　<em>ミュンヘンの国際青少年図書館の職員から聞いた話ですけれども、児童文学賞に作品がノミネートされても、その作家がかつてナチに手を貸したってことがわかると、即刻除外なんですって。／ところが日本の場合は、芸術院会員であろうと何であろうと、戦争犯罪人がみんな賞をもらっちゃう。八月十五日以降歴史的に変わったと思われているけれども、それは年表だけであって、実は何も変わっていなかったんじゃないか…。（『少国民体験をさぐる<br>　ボクラ少国民補巻』）</em><br><br>　山中は敗戦時、十四歳の旧制中学生だった。敗戦を知った彼は「天皇陛下にお詫びするために自決しなければならないのではないかと思った」という。当時、子どもたちが戦争協力のための教育をどれほど徹底的にたたき込まれていたかがわかる。山中は級友たちと話し合い、教師やおとなたちの「死に方を見とどけた上で、それに習うことにした」。ところが「天皇陛下の御為に死ね」と叱咤激励していた教師たちは「そんなことなどいわなかったという顔をして息を殺していた」。そして、誰一人自決しなかった。「そればかりか、その中から、日本が神国だなどというのは甚だしい迷信だという教師さえ現れた」。<br><br>　<em>そのとき私たちは大日本帝国の少国民として敗れ、更に信頼していたおとなの裏切りに敗れ、二重に敗れた。けれども、おとなたちは敗れなかったように思う。彼らは「敗戦」を「終戦」と称し、「占領軍」を「進駐軍」とよんで、素早く民主主義者になってしまった。…／…私たちは必死で民主主義というものを学んだ。その民主主義も現実には、学ぶそばから、戦争に敗れなかったおとなたちによってねじまげられてきた。（『ボクラ少国民　第一部「あとがき」』）</em><br><br><em>　敗戦によって、ぼくらの受けた教育がその場でご破算になったのに、ぼくらは告発できる自由な魂を持ち合わせなかった。…そのときからぼくは、おとな一般に敵意を抱くようになった。…にもかかわらず、ぼくもかつて、ぼくらを思想善導したおとなたちの年齢になってしまった。…かつてのおとなが子どもであるぼくにしたようなことを、いまぼくはしていないと言い切る自信はない。ぼくが物理的に子どもになれない以上、それは確かめようもない。／だから、ぼくは子どもたちに魂の自由であることの素晴らしさを語り続けたいと思う。ぼくたちおとなのあやまちを告発できる魂の宿ることを願っている。／一九四五年八月十五日、満十四歳の〈皇国の少国民〉であったぼく自身をあわれに思うたびに、僕はそれを強く思う。（『御民ワレ　ボクラ少国民第二部「あとがき」』）</em><br><br>　このような思いから山中の子どもの本は生まれる。<br><br><em>　ぼくのなかには、とにかく子どもの本の第一の条件は、おもしろいことだ、そのおもしろさを支えるのは、作家の思想だという気持ちがずうっとあった。（『少国民体験をさぐる』）</em><br><br>　一方で、子ども存在や自分自身のありようについての問い返しも繰り返される。<br><br><em>　…戦争体験も、ひとつ間違うといつの間にか加害者になってしまう。ぼくらは子どもだったから、人に何かするということはなかった。…その意味では告発が出来る。でも、もし大人だったらやっぱりやってたんじゃないか…。（同）<br><br>　…子どもを人質に取られて、おまえがうんと言わなければ、この子どもを殺すぞといわれたら、ぼくなんか情けないから、何もかもみんな白状するんじゃあないか…。（同）</em><br><br>　最後に、山中の自己認識として最も切実に、痛く、私に響いた言葉を引く。<br><br><em>　ぼくらのいうことなんか、そんなに立派なブルドーザーにはならないだろうし、歯止めにはならないだろう。だが、たとえトゲの一本であってもいいから、徹底的に頑張らなくちゃしょうがないんだろうと思うんだよ。たとえ幻想であってもいいから。自分が生きてきたことのいいわけみたいなつもりでも、やっぱりいいつづけていかないと、ぼくら自身がだめになっちゃうんじゃあないかっていう気がするね。（同）</em><br><br><br><br><br><br>　
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<link>https://ameblo.jp/ahimayo8341/entry-12069323936.html</link>
<pubDate>Fri, 04 Sep 2015 13:18:04 +0900</pubDate>
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