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<title>一路真輝や、その他、いろいろ考察</title>
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<description>一路真輝や、その他、いろいろ考察</description>
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<title>おせんについて説明＆紹介</title>
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<![CDATA[ 一冊の書物を読んで、ひとりの著者でなくひとりの人間を見出すとき、我々の悦びは大きい。修辞学は抽象的な論理でなくて人間的な論理であり、それは心理と論理との統一であるように論理と倫理との統一である。そしてかくのごとくそれが主観的なものと客観的なものとの統一であるところに、修辞学が技術であるべき理由がある。けだし技術においては主観的なものが客観化され、客観的なものが主観化され、主観的なものと客観的なものとの統一ということが技術の本質である。<br>　修辞学はもとより単に心理の技術ではない。それはすでに言葉という或る物質的なものを支配しなければならぬ。しかも修辞学は単に言葉の技術でなくて同時に思考の技術である。プラトンが考えたように修辞学の根柢には論理がなければならず、アリストテレスがいったように修辞学は弁証論の孫である。言葉と思考とはもと一つのものである。思考の真に基づかないようなものは真の修辞学ではない。パスカルは雄弁についていっている、「快適と真とが必要である、しかもこの快適はそれ自身真から取って来られたのでなければならぬ」。真であるためには、ひとは論理的に思考せねばならぬ。
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<link>https://ameblo.jp/ahu88kre/entry-11421521154.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Dec 2012 20:06:12 +0900</pubDate>
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<title>グラビア製版について思う</title>
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<![CDATA[ この書物は、過去一年余りの間に私が様々な雑誌に発表した文章を、略々発表の時期の順序に従って編集したものである。どの文章もそれだけで独立な統一を有っているのではあるが、書物全体が実は、初めから一定のテーマを追跡することによって、それからそれへと次々に展開された諸問題の一系列を形づくっている。それ故この書物を初めから順次に読むならば、個々の文章だけでは気付かれなかったような必然的な統一が、容易に読み取れるだろうと思う。そこにこの書物を出版する理由がある。<br>　ここに取り扱われたものは主に論理［＃「論理」に傍点］に就いての問題であると云うことが出来る。ただその論理という言葉が、所謂形式論理学でいう夫とは別であるということは、この書物の名前自身が物語っている通りである。人々は今まで観念の、思惟の、認識の、科学の、論理学の周囲に集っていたように思われる。そして思惟［＃「思惟」に傍点］の論理学に就いては、之を論理学以外のものの責任に帰して好いように考えていたのではないかと思われる。併し今吾々にとって必要なのは、思想［＃「思想」に傍点］の論理学なのであり、それが「イデオロギー」の論理学なのである。<br>　イデオロギーという言葉を観念形態［＃「観念形態」に傍点］という意味に用い始めたのはカール・マルクスの独創に由来するといわれている。従って今云うイデオロギーという言葉はただマルクス主義の理論に立ってのみ、初めて正当な問題となることが出来る。「イデオロギーの論理学」はマルクス主義にのみぞくする。
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<link>https://ameblo.jp/ahu88kre/entry-11410168293.html</link>
<pubDate>Thu, 22 Nov 2012 08:08:37 +0900</pubDate>
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<title>かばん金具について思う</title>
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<![CDATA[ この新しい波動の概念によって、連続性と不連続性との矛盾は解消する。――さてそうならば、物質の概念に於て先程見た、かの連続性と不連続性との矛盾も、物質を一つの今云った新しい意味での波動現象と見做すことによって、解消されるわけである。で、ド・ブロイ（de Broglie）やシュレーディンガー（〔Schro:dinger〕）は、その新しい波動力学に於て、物質を物質波［＃「物質波」に傍点］だと考える＊。実際物質波は、丁度光の波動と同様な殆んど凡ゆる諸性質を備えていることが、実験上たしかめられつつある。之が、新しい量子理論［＃「新しい量子理論」に傍点］の取るべき形態だったのである。<br>［＃ここから２字下げ、折り返して３字下げ］<br>＊　ド・ブロイの画期的な仮説によれば、物質の固有エネルギーは、波動現象を成り立たせる振動のエネルギー要素と等値物である。かくて物質［＃「物質」に傍点］と波動現象［＃「波動現象」に傍点］とが等置される。――物質波は超光速度を持つ波動現象で、物体のもつ力学的な速度はこの物質波に於ける群速度［＃「群速度」に傍点］に相当する（A. Haas, Materiewellen und Quantenmechanik, 3 Aufl., S. 24）。なおオリジナルなテキストとしては、L. de Broglie, 〔Einfu:hrung in die Wellenmechanik〕（独訳）, 1929; 〔E. Schro:dinger〕, Abhandlungen zur Wellenmechanik, 1927. を見よ。<br>［＃ここで字下げ終わり］
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<link>https://ameblo.jp/ahu88kre/entry-11403211970.html</link>
<pubDate>Tue, 13 Nov 2012 09:20:24 +0900</pubDate>
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<title>翁華栄や、その他、いろいろ考察</title>
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<![CDATA[ 文章規範的なものは文章の参考とはなっても、勿論今日、文章を裁くことは出来ない。元来クリティシズムには裁くより前に先ず理解してかかるべき義務があるとされる。何を理解するかと云えば、作品に表現された作者やその背後の時代や民族や階級の生活や思想だ。そういう意味で芸術が表現であると主張することは、少しも間違ったことではない。ただその表現とは一体何かという問題が残るだけだ。<br>　だがこの主張はもう少し検討を必要とする。芸術を一般にこのように表現だと主張するなら、それは何も芸術に限ったことではない筈だ。表現（之は表現物をも指す）と見られるものは芸術品だけではない。科学・哲学・宗教・意識・其の他一切の文化現象、社会現象――経済・政治・風俗・道徳――が総て表現でなくてはならぬ。生活の表現が文化であり又人間の歴史であるとしなければならぬ。現にドイツ的観念論による文化史や歴史主義系統の歴史哲学は、一貫してそういう主張を持っている。<br><br><br>&lt;p&gt;&lt;a href="http://impapb67.jugem.jp/"&gt;住宅ローン借り換え審査&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;<br>
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<link>https://ameblo.jp/ahu88kre/entry-11402690862.html</link>
<pubDate>Mon, 12 Nov 2012 17:03:43 +0900</pubDate>
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