<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>aiaiのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/aiaiooo/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/aiaiooo/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>聖徳太子aiai　</title>
<description>
<![CDATA[ 聖徳太子☆ 提供: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』移動: ナビゲーション, 検索凡例聖徳太子 時代 飛鳥時代 生誕 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日) 死没 622年4月8日(推古天皇30年2月22日) 改名 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子 別名 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、厩戸豊聰耳聖徳法王 諡号 聖徳太子 墓所 叡福寺北古墳 官位 摂政、皇太子 主君 用明天皇、崇峻天皇、推古天皇 氏族 皇族、上宮王家 父母 用明天皇、穴穂部間人皇女 兄弟 聖徳太子(厩戸皇子)、来目皇子、殖栗皇子茨田皇子、田目皇子、麻呂子皇子酸香手姫皇女 妻 菟道貝蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎女、膳大郎女 子 山背大兄王、財王、日置王、白髪部王長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王片岡女王、手島女王、春米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王 特記事項 物部守屋討伐戦を元服と、また便宜上天皇を主君とみなす。 聖徳太子（しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日（574年2月7日） - 推古天皇30年2月22日（622年4月8日）（同29年2月5日説あり-『日本書紀』））は、飛鳥時代の皇族。 用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女（あなほべのはしひとのひめみこ）。また、『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄（山背大兄王）らがいるという。 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」に記述された?王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と言われている[1]。 近年の歴史学研究においては、これまで太子の実績と考えられていたことを否定する文献批判上の検証や、太子の実在を示す日本書紀などの歴史資料としての信憑性の低さから、聖徳太子自体を虚構とする説もある。詳細は#聖徳太子虚構説の節を参照。 目次 [非表示] 1 本名 2 生涯 3 名称関連 4 聖徳太子にまつわる伝説 4.1 豊聡耳 4.2 兼知未然 4.3 四天王寺 4.4 南嶽慧思の生まれ変わり 4.5 出生の伝説について 4.6 片岡飢人（者）伝説 5 墓所 6 河内三太子 7 聖徳太子の著作 8 聖徳太子虚構説 9 系譜 10 太子信仰 11 聖徳太子が登場する作品 11.1 小説 11.2 漫画 11.3 ドラマ 12 脚注 13 参考文献 14 関連項目 15 外部リンク 本名 [編集] 本名は厩戸（うまやど）であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また母・穴穂部間人皇女（あなほべのはしひとのひめみこ）が実母（小姉君）の実家で出産したため、つまり叔父・蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸（うまやど）と付けられたという説もあるが、現在のところ生誕地の近辺に厩戸（うまやと）という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。別名・豊聡耳（とよとみみ、とよさとみみ）、上宮王（かみつみやおう）とも呼ばれた。 『古事記』(こじき)では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』(にほんしょき)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称（追号）であるという理由から、近年では「厩戸皇子」の称に変更している教科書もある。詳細は#名称関連の節を参照。 生涯 [編集] ※本節の記述は『日本書紀』等によるものである（日本書紀の信頼性については当該項目を参照）。 敏達天皇3年（574年）、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛（きたしひめ）を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君（おあねのきみ）であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。 用明天皇元年（585年）、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した（用明天皇）。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年（587年）、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫（敏達天皇の皇后）の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮（とみのいちい）に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた（崇峻天皇）。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年（592年）、馬子は東漢駒（やまとのあやのこま）に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた（推古天皇）。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年（593年）4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した[2]。 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年（594年）、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年（595年）、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。 推古天皇8年（600年）新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。[3] 推古天皇9年（601年）、斑鳩宮を造営した。 聖徳太子立像（飛鳥寺）推古天皇10年（602年）、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した（新羅の刺客に暗殺されたという説がある）。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。 推古天皇11年（603年）12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。 推古天皇12年（604年）4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」（『日本書紀』）いわゆる十七条憲法[4]を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している（津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている）。 推古天皇13年（605年）、斑鳩宮へ移り住んだ。 推古天皇15年（607年）、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書[5]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。[6] 日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」（「皇帝　倭皇に問ふ」）とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」（「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す）[7]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[8]としている。 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年（615年）までに三経義疏を著した。 推古天皇28年（620年）、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。 推古天皇30年（622年）、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。 名称関連 [編集] 一般的に聖徳太子とされている人物の肖像が描かれた一万円札（C一万円券）聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した以下の史料が初出と言われる。 『懐風藻』（天平勝宝3年・751年）に編纂とされる。 『日本書紀』（養老4年・720年）：敏達天皇の妃推古天皇についての記事に「豐御食炊屋?尊為皇后 是生二男五女 其一曰 菟道貝鮹皇女 更名 菟道磯津貝皇女也 是嫁於東宮聖德」と見えるが、「聖徳太子」という名称は記されていない。 顕真の著『聖徳太子伝私記』に引用される「法起寺塔露盤銘」（慶雲3年・706年という）に「上宮太子聖徳皇」と見える[9]。 他にも厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳、上宮王、『上宮聖徳法王帝説』での厩戸豊聰耳聖徳法王、上宮聖徳法王、万葉集巻三の上宮聖徳皇子　など、様々な名前で呼ばれる。 平安時代に成立した史書である『日本三代実録[10]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに「聖徳太子」の名が広く用いられていたことが伺える。 一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子（厩戸皇子）」とされてきた。しかし上記のように「存命中に用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王（聖徳太子）」に変更された[11]。 聖徳太子の肖像画は過去に紙幣（日本銀行券）の絵柄として何度か使用されている。特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されていた。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。 聖徳太子にまつわる伝説 [編集] 新井薬師寺 16歳の聖徳太子像以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。 なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。 また、各地に聖徳太子が建てたという寺院が多いが、後世になって縁起で創作されたものが多いと思われる。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。 豊聡耳 [編集] ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳（とよとみみ、とよさとみみ）とも呼ばれるようになった[12]。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。 『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。 一方「豊かな耳を持つ」＝「人の話を聞き分けて理解することに優れている」＝「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。 なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」（とよとみ）はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。 兼知未然 [編集] 『日本書紀』には「兼知未然（兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす）」とある。この記述は後世に「未来記（日本国未来記、聖徳太子による予言）」の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。 四天王寺 [編集] 蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺（大阪市天王寺区）を建てた。 南嶽慧思の生まれ変わり [編集] 「南嶽慧思後身説（慧思禅師後身説）」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝（＝『七代記』）』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述がある。 中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある[13]。 出生の伝説について [編集] 「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教（キリスト教のネストリウス派）の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者（久米邦武が代表例）もいる[14]。 　しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午（きのえうま）でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている（イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている）。 片岡飢人（者）伝説 [編集] 『日本書紀』によると次のようなものである。 推古天皇21年12月庚午朔（613年）皇太子が片岡（片岡山）に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。 「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」 しなてる 片岡山に 飯（いひ）に飢（ゑ）て 臥（こ）やせる その旅人（たびと）あはれ 親無しに 汝（なれ）生（な）りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖（ひじり）は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。 『万葉集』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。 上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首（小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古）「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人[立心偏＋可]怜」 [15] 家にあらば 妹（いも）が手纒（ま）かむ 草枕客（たび）に臥やせる この旅人あはれ また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある。[16] しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし 後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている[17]。 墓所 [編集] 詳細は「叡福寺#叡福寺北古墳」を参照 叡福寺 聖徳太子墓墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている（聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう）。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。 直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている[18][19]。 河内三太子 [編集] 聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺（やちゅうじ）、大聖勝軍寺（たいせいしょうぐんじ）はそれぞれ上之太子（かみのたいし）、中之太子（なかのたいし）、下之太子（しものたいし）と呼ばれ、河内三太子と総称されている[20]。 聖徳太子の著作 [編集] 『三経義疏』（さんぎょうぎしょ）。このうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。 『四天王寺縁起』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世（平安時代中期）の仮託と見られている。 『十七条憲法』は、『日本書紀』中に全文引用されているものが初出。 『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』は、『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。 『先代旧事本紀』は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。 『未来記』は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。 この他にも聖徳太子の名を借りた（仮託）偽書は多い[21]。 聖徳太子虚構説 [編集] 聖徳太子を描いたとされる肖像画「唐本御影」。この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある。表題の通り、聖徳太子の実在を否定する説である。 近年、歴史学者の大山誠一の説が取り上げられることが多いため、大山独自の説かのような扱いをしている書籍も存在するが、太子の実在を否定する学説は古く、例えば十七条憲法は太子の功績では無いとする説は江戸時代の考古学にまで遡る。昭和初期の歴史学者津田左右吉も『日本上代史研究』（1930年）において十七条の憲法を太子作ではないとしている[22]。 また高野勉の『聖徳太子暗殺論』（1985年）では、聖徳太子と厩戸皇子は別人で実は蘇我馬子の子・善徳こそが真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った残虐非道な架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。 また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった?古代日本史の謎を解く』（1992年）を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』（2004年）を著している[23]。 さらに、森博達は『日本書紀の謎を解く?述作者は誰か』（中公新書　1999年）において十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。 太子については『日本書紀（巻22推古紀）』、「三経義疏」、「天寿国繍帳（天寿国曼荼羅繍帳）」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文（＝伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。）」、「法起寺塔露盤銘」、『上宮記』、『上宮聖徳法王帝説』などの歴史的資料があるが、これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説がある。 例えば、法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、福山敏男説では後世の追刻ではないかとする[24]。 大山誠一は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。 さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王（聖徳太子）は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。 また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする[25]。 大山は、飛鳥時代にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。 しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。 大山説では道後湯岡碑銘文は仙覚『万葉集註釈』（文永年間(1264年～1275年）頃）と『釈日本紀』（文永11年～正安3年頃（1274年～1301年頃））の引用（伊予国風土記逸文）が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。[26]。 牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑　推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた。」と述べている[27]。 「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする[28]。 「法華経義疏」巻頭の題箋（貼り紙）について、大山説は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。 安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字（「是」、「非」など）の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。 また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。 王勇（浙江工商大学日本文化研究所所長）は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。 ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[29]。 また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している[30]。 「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年（690年）に採用された儀鳳暦（麟徳暦）のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[31]。義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする[32]。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。 慶雲3年（706年）に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起寺塔露盤銘は暦仁一年（1238年）頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記（古今目録抄〔法隆寺本〕）』にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年（1227年）に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄（四天王寺本）』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[33]。 また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」とする[34]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする[35]。 日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈（在唐17年の後、718年に帰国した）が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻（渡来唐人の述作）α群ではなく、日本音の表記の巻（日本人新羅留学僧らの述作）β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武朝（697年～707年）に文章博士の山田史御方（やまだのふひとみかた）がβ群の述作を開始したとする[36]。 『播磨国風土記』（713年-717年頃の成立とされる）印南郡大國里条にある生石神社（おうしこじんじゃ）の「石の宝殿（石宝殿）」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈（つえ）、廣さ一丈五尺（さか、尺または咫）、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王（聖徳王）」は厩戸皇子[37]と考えられることから、『日本書紀』（養老4年、720年）が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の注釈書『古記』（天平10年、738年頃）には上宮太子（厩戸皇子）の諡号を聖徳王としたとある。 『播磨国風土記』二?里驛家 大國里　「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 ?? 弓削大連 守屋 所造之石也」 『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は『おそくとも大宝（701～704）までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[38]。 大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。 大山は従来のバラエティ色の強い論者とは違い、古代史分野において実績のある大学教授であったことから大きな反響を呼んだとも考えられる[39][40]。 聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男 『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』（2000年）、上原和『世界史上の聖徳太子-東洋の愛と智慧』（2002年）、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」（『聖徳太子の実像と幻像』所収）（2001年）、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』（2007年）、森田悌『推古朝と聖徳太子』（2005年）などがある。 いずれの反論も、日本書紀で語られているような超然たる人物が存在しなかったことは認めている。 遠山美都男は大山説について次のように述べる。「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみのことである。」「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だったのである。（遠山美都男『天皇と日本の起源』講談社　2003年）」和田萃は大山説について、厩戸王と（脚色が加わった）聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説｣や「蘇我王権説｣につながるわけではないとする（2004年1月10日日本経済新聞）。曽根正人は「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい。」とする（2007年6月4日毎日新聞東京夕刊）。仁藤敦史は次のように述べる。「「聖徳太子像」の変遷と実証的な研究動向を総括するならば、近年の「虚像」としての「聖徳太子」を否定する議論は、戦後においても十分払拭されていない『日本書紀』の拡大解釈にもとづく「偉大な宗教家・政治家」としての位置づけに対して根本的な批判を加えたものと考えられる。」「けれども、その史料批判の方法にも問題がないわけではない。すでに、奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与える諡（おくりな）とする理解があり、さらに、慶雲３（706）年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていたことは明らかとなる。このように『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認されるので、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると考えられる。推古朝の有力な王子たる厩戸王（子）の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題となる。（仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校　歴史のしおり』　帝国書院　2005年　9月号）。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/aiaiooo/entry-10367753759.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Oct 2009 18:25:04 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
