<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>くろすけのしっぽ</title>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/akariryu/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>アカリ・リュウ というネームで作品を制作しています。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>スノーボード備忘録</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　特に配信目的ではないのですが、基礎スノーボードをやりながら気づいた点をまとめていきます。</p><p>これらは発展途中の経過であるため、正解理論でもないし間違いも正しながら逐次更新、変更していきます。</p><p>　つまり、壁にぶつかった内容を書いていきますので、同じ基礎スノーボードで悩まれている方と情報共有できれば幸いかと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>あと、読みやすくするために文語調にします。</p><p>決して粗暴に書いているわけではありませんので悪しからずです。ノ(^ ^)</p><p>&nbsp;</p><p>前言</p><p>スノーボーディングについて（忘れがちなこと）</p><p>&nbsp;</p><p>　私は随分長い間、北海道に暮らしていたが、３年前の移動で九州に転勤になった。</p><p>スノーボードは自分の中でライフワークの一部になっていて、地域が変わっても当然、西日本のゲレンデを探し歩いた。</p><p>そこで感じたものはスノーボードのスタイルが地理的な特性を受けるということだった。</p><p>&nbsp;</p><p>　北海道の旭川にいるころは、吹雪が続くと仲間内で「今週やばくね？」と心は浮足だし、週末に向けて道具を準備して、ボードにワキシングし、メンタルとフィジカルを整え、最高の一本のために、仲間と共に最高のセッション、ディープトリップを楽しんだ。</p><p>　旭岳は聖地であり、胸まで沈むパウダーとバックサイドで吹き飛ばす雪のカーテン。樹氷の森、最高の景色、まさにスノーボードとは魂の浄化であった。</p><p>&nbsp;</p><p>　それ以前の雪山との関わりは、長くフリースタイルスキーをしていて、でも、結構怪我が絶えず、やってれば、それなりに上手くはなるけど、キッカーにエントリーすることに苦痛を感じていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　そんな中、アイテムでスノーボーダーと接する機会が多く、そこでスノーボードの文化に触れていく。</p><p>その文化は単純に言い表すと「チャレンジを賞賛し、最高のエールを送る」</p><p>上手くても下手であってもメイク「創造」することがスノーボーディングの全てであった。</p><p>そのメイクに最高の賞賛を送るのである。</p><p>&nbsp;</p><p>　この頃知り合ったリーダーはセッションにおいて安全を最優先にプランニングして、朝一の一本目から、がっつり３時間やる。その後はみんなで昼食。これは、深雪などのディープライディングは、体力を消耗するため、長時間は怪我のリスクが高まるためである。</p><p>　また、人工物であるキッカーやジブを使わず、天然の地形を使ってランディングポイントもパウダーなど絶対に怪我をしないポイント見つけて順番にメイクし、賞賛を送り合い、最高のスノーボード世界を味わった。</p><p>　次の年にニセコに長期出張になった時は、未圧雪急斜面バーンを滑れるようになりたくて、なんどもなんどもリフトを往復した。</p><p>動機はテクニックとかではなくて、みんなが見ている壁の向こう側の世界を見てみたい一心だった。</p><p>&nbsp;</p><p>　やはりスノーボード、特にフリースタイルボードはアルペンボードと比較してオフロードバイクのような乗り味が魅力である。</p><p>すなわち、オールマウンテンを走破することができるため、ライダーの想像力によって、あの地形を使ってみよう、このラインを攻めようなど、創造するスポーツ、サーフィンやスケートボードと同じくアーティスティックな面が非常に高いスポーツと言える。</p><p>&nbsp;</p><p>では、西日本のゲレンデではどうだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>　山自体に雪が降り積もらない。人工降雪機で対応していいるゲレンデなどは自然の地形でメイクするという概念は存在しない。</p><p>人工物のキッカーやパイプ、ジブを使うか、安全性のためパークを設置しないスキー場も多い。</p><p>　当然、制限の中でスノーボードは繰り返されるため、パークの設置してあるスキー場では飛びの技術が非常に高く、そうでないフラットなゲレンデではグラトリやテクニカルのレベルが非常に高いことが特徴だ。</p><p>　実際に上位入賞されるトップクラスのライダーの方も関西、西日本の方が多い。</p><p>&nbsp;</p><p>　一見、決められた演技構成の枠内で創造性がないのでは？と思われるかもしれないが、制限の中でスノーボーディングを創造してきた結果、完成されたライディング技術に繋がったと考える。</p><p>&nbsp;</p><p>　私自身も今ある環境でモチベーションを上げるために基礎スノーボードの世界に足を踏み入れた。</p><p>そこで自分の技術のなさを痛切に知らされる。</p><p>　どんな地形でも克服できる自信や地形の読み方、気象などの知識があると自負していたのだが、知れば知るほどに自分が稚拙で、課題がいくらでも湧き出てきた。</p><p>　レジャースポーツとしてのスノーボードが突然真剣なスポーツに変容したのである。</p><p>その日から、キッカーを飛びたい、壁に当て込みたい、フリーランで気持ちよく滑りたいなどの欲求をころして、ひたすら練習に変わった。</p><p>&nbsp;</p><p>　基礎スノーボードの世界に踏み入れて思うことは、マテリアルの能力を最大限に引き出し、安全にスノーボードの魅力を広げ、モチベーション維持して目標を決め、ステップアップを目指すために非常に有効だと知った。</p><p>ただし、今でも前述したスノーボーディングの文化は否定しない。</p><p>&nbsp;</p><p>　これから基礎を始める人にも言いたいが、なんども、なんども同じターンの練習を繰り返して、全ての時間を練習に捧げるが、インストラクターからは同じ指摘を言い続けられ、試験に落ちたり、ライバルが上位に行ったりで、自分だけが停滞しているようで、気持ちが滅入り、自分にはスノーボードが向いていないのでは？と考え、結果、スノーボードが嫌いになりそうになることがある。</p><p>&nbsp;</p><p>　そんなときは、絶対に前のめりになり過ぎているから、一歩引いて世界を見渡してほしい。</p><p>大体、前が見えないほどの大量の課題がある時は一歩下がるのがセオリーだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　これまで極めてきたロングターンもショートターンも最高のフリーライディングをするためのものではないのか？</p><p>自分の持つイメージを、自分の持つリズムを、鍛えた脚力で雪面とのコンタクトにぶつけて、自分の持つ全ての技術にこめて、最高に気持ちい一本をメイクする。</p><p>&nbsp;</p><p>　そのとき、創造性の文化が一気に開花し、最高のスノーボードライフが生まれるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-12445731256.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Mar 2019 15:31:17 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第10回　構図について</title>
<description>
<![CDATA[ 命題「絵画に計画的な構図は必要であるだろうか?」<br><br><br>今回は構図の問題である。<br><br>　大学の研究室では流石に触れることが少ない構図の問題であるが、受験生を対象とした予備校や美術研究所、カルチャーセンター、公募展の評論会などでは盛んに「構図が悪い」だの「ここをこう描いたほうが構図が良い」などと指導がされている。また写真雑誌の投稿コーナーでも構図についての論評が盛んである。問題は作品の意図や表現性ではなく「構図」である。<br><br>　これについて違和感いうか、時に嫌悪感を覚えることがある。<br>　とある会場で若手作家の指導をされたとということで指導前の写真と指導後の作品を見せてもらった。シンメトリーで動きのない構図がダイナミックな流麗な構図に変貌していたのである。作家と話をすると随分と芯のある真っ直ぐな性格をしていて、抑えきれないパワーを画面に吐き出しているタイプの作家であった。幼少期から青年期にかけての噴出する世界を具象化して描いている。そのためか下図ではシンメトリーな構図で、主人公が阿修羅のような形相でこちらを見つめている。その周囲に曼荼羅らのようなパーツが配置され、意味を持つ絵になっていた。しかし、指導後、修正された絵は流れるような構図に置き換えられ、導線をしっかりと導くようにパーツも配置し直されていた。これは絵画としては正解であり公募展の審査も後者の方が合格しやすいだろう。しかし、何か引っかかる感じがした。<br><br>　それは何だろうか？<br><br>　この作品にぶつけられた彼女の揺るぎないエネルギーはメッセージ性をより強くするためにシンメトリーに配置されたと考える。初期の絵は未成熟ながら青年期のアイデンティティとして考えさせらる物があった。しかし、後者は構図がダイナミックで絵図らの良い絵に変更されていた。そのためか色彩もビビットで波長の揃わない攻撃的なものから一般的な中間色へ、描画も粗暴で野生的なものから丁寧で光や空間を意識した表現になっていた。<br>　確かに絵画としての技術は上がっている。しかし長いこと絵画を鑑賞されている読者ならこれじゃないと感じるだろう。<br><br>　絵画に構図は必要かという問いを冒頭にしたが、筆者自身は10代や20代の若い頃は、これに頼り切って描いていた。仕事も含め、工学を学び、数値のみで設計していく世界にどっぷり嵌り、理想の数式をマセマティカという演算ソフトを使ってシュミレートしすると恐ろしいほど美しいグラフが出現する。この立体や平面上の構図は思想の根幹になり、人工物や自然界も含め最も無駄のない構成こそが美を感じる原理と信じていた。そのため絵画においても下図の前にキャンバスに幾何学を基にした無数の構造線を引き、それを頼りに制作した。その効果として完成作の一枚として失敗作がない、一定の壁面空間を制圧できる絵画をコンスタントに制作することができるのである。このことは言い換えれば鑑賞者は、表面に書かれた作品である表現を見ているのではなく、全てのラインを構成する構造線を見ているのである。上手く行くはずである。だが、何か違和感を感じ始め辞めてしまった。そのまま、幾何学的に計算された構造線を持つ絵画を研究し続けていても良かったのかもしれない。年齢を重ね、今頃は構図の講釈を述べていたかもしれない。しかし、当時それらの作品を並べた個展で迫り来る構造線を前に不思議な違和感を覚えたのは確かである。<br><br><br>「構図線について」<br><br>　構図線を下図に取り入れた絵画作成技法は古くからある。古くはギリシャ、エジプトを代表する古代壁画にも見られ、特にルネサンス以降はビジネスとして絵画を工房で制作されるようになると顕著になる。事業として納期期が決まり予算が決まれば失敗は許されない。そういった場合、構造的に優れた構図が基になり、幾何学をベースに繰り返し制作すれば、構造的な失敗は避けることができる。宗教的な数学の意味も含め、当時の宝石を原料とするような高価な材料を用いる絵画制作においては、必ず成功をもたらす構図が研究されたことは自明の理である。<br><br><br>閑話休題、「我々の日本美術で構図はどうであったか？」<br><br>　日本では前回述べたように陰影表現より形や質感を重視した絵画が発展したため、構図は直線や曲線を主体とした幾何学ではなく、地と図の関係に重きをおいた構図が発達した。簡潔に言うと東洋には書道における地と図の関係があり、また禅宗にもあげられる空白も空間も存在として認める哲学が影響していると考えられる。そのため西洋絵画と比較し、背景を遠近ではなく存在として扱った表現が発達した。その後、交通インフラの発達によって西洋美術と東洋美術の流入により構図そのものの考え方も変化する。セザンヌによる実験的な空間の解体はキュビズム、フォービズムに発展し、ダダ以降は先の商業的な構図は否定破壊されていく。同時に抽象という新しい空間概念が生まれる。人間的な空間作為のない空間の誕生である。物理学においてM理論などで空間概念が急転したことも影響された。また、日本を代表する現代芸術におけるスーパーフラットという概念も日本絵画の空間理論をベースにしている。<br><br><br>「作家は構図を学ぶ必要があるのだろうか？」<br><br>　デッサン学の講義であった話しである。研究のために美術とは関係のない学部の学生にコピー用紙を渡し「美しいと思うところで線を引いて分割してください」という命題を与え、１０年程サンプリングした結果、殆どの学生が幾何学的な理想線に近い線を描くというのある。これについては出典を詳細に調べてないので引用できないが、大変興味深い話である。と言うのも我々が自然に目につくもの全てが幾何学を準拠したデザインであり、鉄塔ひとつにしても、鉄骨強度が最適で最大に力を発揮できるトラス構造が採用されている。無駄に強度を持たせるために部材を太くしたり、あるいは力学的な構造設計を無視して適当に組まれた構造物は頑丈であっても美しく見えない。我々が目にするビルや橋と言った建造物、交通機関、コップや食器、家電製品、このインターネットのプログラムやコンテンツもそうであるように、あらゆる無駄をなくし、洗練された美しい構造が世の中に溢れている。それらは自然界もそうであり、幾何学の基になった植物や河川、山々までもがそうであるように、世界は完成された構図で満ちあふれていると言える。その中に暮らす我々は無意識のうちに最適な構図を見て学び、感覚として持つ。美術に無関心な学生が最適な構図線を描けることは想像しにくいことではなく、むしろ自然であろう。つまり美的構図は意識すれば誰でも使える感覚であると言える。<br><br><br>「王道コードと日本の音楽」<br><br>　少し話しを変えて音楽の話しをする。音楽と絵画を単純に置き換えることは出来ないが、音階を明暗、音色を色彩と考えると構図はコード（chard）は言えないだろうか？<br>　音楽は美術とは違い、数的で法則的な面をもち、共振し合う音、１オクターブを１２分割し、その中の倍音を基に和音を構成し音楽を創っていく。絵画の場合、無意識に絵の具を選び、思うがままペインティングしたとしてもそれなりの作品になるかもしれないし、失敗したとしても鑑賞できないような物にはならないが、音楽は好きなチューニングで適当に演奏してもノイズにしかならず、一般には聴くに耐えない音楽となる。音楽は思っている以上に感情をぶつけた創作物ではなく、楽理を基に計算された結果の産物なのである。<br><br>　以前作曲をやっていた頃、ヒットソングの傾向を探すべく過去さかのぼって50選とか100選とかピックアップし、コード進行や歌詞について研究した。その結果、特異点があった。それは1970年代のフォークブームから現在までヒットソングに使われる王道コードなるものである。ヒットソングのサビは次に示すコード| FM7 | G7 | Em7 | Am |（IV△7-V7-IIIm7-VIm）によって構成されている場合が多い。その他、Aメロ、Bメロにも使えるカノン進行| C | G | Am | Em | F | C | F | G |（I-V-VIm-IIIm-IV-I-IV-V）がある。これらのコード進行がどの曲に使われたかはgooglで「王道コード」検索してもらえば誰でも知っているミリオンヒットがいくらでも出てくる。また音楽業界もこのことは承知しており1990年から2000年頃にかけては王道コードのみで次々に新曲が生み出された。誰でも魔法のコード進行を使えばヒットソングが書けるのである。しかし、印象には残らない。アルバムをリリースしても王道コードを使う楽曲が凄すぎて他のオリジナルソングが陳腐化する。おなじコードを使って量産すると飽きられやすいなど問題点もある。メジャーレーベルのトップセールスをするバンドでもアルバム収録曲の2曲程度に抑えていた。ヒットソングは誰でも書ける。しかし用法を間違えば一発で終わる。主体的な音楽活動をするグループにはその心得があった。しかし、2000年代、歌い手をフルプロデュース時代が到来し、業界全体がこのコードを使って作曲し次々に新ユニットを発表した。その結果JーPＯP全体が陳腐化したことも事実である。<br><br>　筆者もガルポプとかJーPOPを主体に活動していたので、楽器を弾くとそのスジのスケールが手癖になっていて新しい音楽創作の妨げになる。手癖だけでなく脳による思考過程すら束縛されているのではないかと思える程である。わざとピッチやチューニングを変えたり、あるいはチューニングそのものをデタラメにしても、残念ながらその固定されたスケールが出て来るのである。思春期の頃に恩師がクリムゾンやクリームのアルバムを貸してくれた。それまでポップソングや商業的なロックが全てだった私自身の音楽概念が根底から変えられた。同時期にマーク・ロスコの絵画を見たときに同じような音が聞こえ鳥肌がたったことを覚えている。しかし、長年の歳月によってその感動は薄れ、刷り込まれた手法が新たなる創作を邪魔するのである。<br><br><br>「結論」<br><br>　ここまで書いて構図に対して導かれる結論であるが、それは読者に委ねる。筆者としては構図は意識する必要があるし、事業や商業的なデザインには欠かせない手法であるため、そのような分野では大いに研究されるべきである。しかし、表現において何よりも優先すべきかどうか？表現主体に考えれば違う手段もあるのかも知れない。<br><br><br><br>「あとがき」<br><br>　若干脱線するが、先日BELLRING少女ハートのLIVEに行ったときのこと。このグループは、先に説明した王道構図、王道構成を否定した音楽である。キッチリと作りあげられた音楽が氾濫する日本において、彼女たちの音楽はオアシスのように感じる。つたないキーで歌われる楽曲は彼女たちの世界を映し、それは決してプリミティブや稚拙ではない。あるいは作られた安っぽい嘘でもない。刹那げな少女達のリアリティーを感じる。都会を生きるカラスと都会の雑踏のなかを生きる少女達の心象がオーバーラップして世界観を構築する。夜明けの歌舞伎町を徘徊している虚しさにている。その感じ方は、その人の生きた人生によって変貌するであろうし、それだけ想像の幅を持ったコンテンツである。<br>　この混沌とした空間に決められた構成や演出はない。全てが需要者側の感性に委ねられている。私は、快楽的な彼女たちのファンタジーのなかに、少し人生の苦い思い出をイメージした。しかし時が経つにつれ、楽しく刹那な彼女たちのおとぎ話が私の心傷を埋めて行ったのである。<br><br>　<br>　<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-12027457144.html</link>
<pubDate>Sat, 16 May 2015 22:49:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第９回　明度と彩度について</title>
<description>
<![CDATA[ 　明度と彩度について<br>　「人間の目は一様に同じようにみえていて世界を感じているのだろうか」<br><br>　思春期の青年が抱く感情のようであるが、今回はこの問題について取り上げる。<br><br>　私の描く絵は原色を多様する。ブログのタイトルバックの絵もコバルトブルーとカドニュームレッドという目に刺さるような絵の具をほぼ原色で使っている。影も明度を落とさず色相環を２０度程ずらした色（黄色ならピンク、ブルーならライムグリーン）で色彩によって陰影を表現している。これは日本のアニメーションでも多用される手法であるが、海外の作家が使うことは殆どない手法である。これについては各界から賛否両論がある。<br>　以前作品をコンペなり公募展に出品したとき好評会で所謂大先生と言われる大御所に「君は混色を憶えなさい」と言われた記憶がある。イエローオーカーを中心としたミディアムパレットを多用する先生である。原色を真剣に扱ったことないのであろうか　「参ったな」　技術的な議論に達する前の段階である。閉口するばかりであった。<br><br>　現在私は北海道で活動している。出身は九州の方で関東の画家の方とも交流がある。この中で環境の差を考えるとかなり緯度の差がある。この緯度の差で明度と彩度の好みの差が明確に違うのである。<br><br>　北欧の古い建築物に入ると薄暗く石造りで窓は高く狭い。室内の大半は暗く夜も煌煌と電燈をともしたりしない。およそバウハウス以前の建築物は殆どがそうである。また印象派以前の西洋絵画も暗く一点にのみスポットのあたるように描かれた作品が多い。こんな薄暗い部屋にと思うが、彼らにとってはそれが心地いいのである。彼らは明度差に敏感で形を明度で理解している。逆に南米やアジアでも華南より南の方、国内でも九州や沖縄の方で好まれるデザインの色彩の強烈さを感じることがある。町並みは原色の看板が並びラスターカラーやビビットな色の服装。原色に埋もれた店舗商品の山。同じ目でこの差はなんだろう。また、以前、北米の方がこられて、もてなしで着物の着付けと写真撮影に行ったことがある。参加者の誰しもが薄いブルーや薄いピンクの地味な着物を喜んで試着されていた。私は折角の京友禅であるし柄のきれいな着物を選べばいいのにと思っていたが、薄い色の着物がすばらしデザインであると絶賛されていた。少し考えてみたが、これは個人的な好みの問題ではないようである。<br><br>　これについて、高緯度に住む人々は光量の少ない世界にいること、また狩猟や牧畜といった生活基盤で繁栄してきたこと、横穴から石作り住居生活を基盤としていたこと、などから考えると暗闇に強く、明度を繊細に感じ形を認識する。逆に低緯度の光量が多い地域に住む人は明度で形を捉えるよりも彩度で十分に判別できるため色面で形を判断する傾向が強い点がある。人間は暗闇では殆ど色の見分けが効かなくなる。これは目の細胞に色を認識する錐体細胞と微細な光を感知する桿体細胞の使われ方に由来する。狩猟動物の生態を考え、薄明薄暮時期に活動する動物を狩るためには形は桿体細胞を使い形を認識する必要がある。また十分な光量がないと錐体細胞は働かないため、色に対して明度差を利用して判別できる機能が必要になる。逆に光量の十分にある低緯度の地域であると、色彩によって形を鑑別することが容易にでき、より情報量の多い錐体細胞を積極的に使った判別が有利になる。カメラでISOとFの関係と似ている。<br><br>　つまり北国に住む人たちは明度で形を判別し、南国に住む人たちは彩度で形を判断している。<br><br>　これは作品にも明確に現れ、ピクサーアニメと日本の作品を比較すると一目瞭然であるが『<span style="text-align: left;" dir="ltr" class="irc_su">メリダとおそろしの森』は殆ど陰影で形を表現し、色彩は色面ではなく、あくまで陰影と一環でグラデーションで扱われる。日本人には違和感を感じるかもしれないが、２時間も見ていると馴れてしまい、逆に日本の作品を見ると色彩が強烈でどっきりする。ドリームワークスの『マダガスカル』も子供向け動物の映画なのに夜のシーンが多く、殆どが陰影によって形を表現している。日本の作品はドラマであっても赤い傘を色面として移動させてみたり色彩のコントラストや色面の構成を丁寧に作っている。これは前述した『マダガスカル』に馴れてしまった目で見ると「なんでこんなトーンを配置するんだ？」と違和感を感じてしまう程である。<br><br>　陰影表現については、日本でも１５世紀には西洋絵画が輸入されている。しかし狩野派の絵師もそれを見て影響を受けたということもなく、葛飾北斎であっても試し書き程度で継続していない。色面構成のダイナミックな作品やデザインとも取れるような平面的な作品が日本の絵の主流である。現代の日本のアニメーションでも色面構成を重視しており、金髪の髪の毛影の部分は、明度を落とした金色ではなく彩度を抑えた金色やピンクを、また肌色の影の部分は、明度を落とした肌色ではなく、明るいブリリアントピンクなどを用いて全体を明るく描いている。<br><br>　「なぜ日本人は明度傾向に走らなかったのか？」<br>　仲のいい美術研究家と話したことがある。<br>　「単純に日本人に影は汚れてみえるからでしょ」<br>　<br>　あっけない結論である。ミッキー顎に描かれた黒い影がヒゲにみえてしまうのである。実際、国内のミッキーマウスのイラストには陰影が付けてないが海外のMickeyのイラストには深い陰影が書き込まれている。日本人は陰影で形を認識するよりも、輪郭で形を認識することが得意な種族でそれは数千年変わっていないようである。<br><br>　もちろん陰影が不得意であったり、形を輪郭で認識することを非議しない。ことさら日本のもつ輪郭線の文化、日本画において針金、鉄線描という技法。線一本で、形や奥行き重さや質感さえ表現してしまう技法。さらに近年のアニメーションでは線描で立体や奥行きを見事に表現している。村上隆氏はこの現象をスーパーフラットとして展開されているが、これは我々日本人の持つ高度な文化であり、西洋のデザイナーや建築家、印象派画家に与えたカルチャーショックは、文化そのもを変える程のものであったであろう。<br><br>　「陰影に強い人は形に強く、色に強い人は色面構成に強い。また逆は弱点である」<br><br>　美大の研究室でもよく言われる言葉であるが、どういうことだろう？<br>　これは、日本が縦に長い地域特性を持ち、前述した明度で形を判断する人と、色面で形を判別している人が同居しているということである。以前、カルチャースクールの講師に絵を見せたとき「陰影を付けて表現した方がいい」といわれ、わざわざ鉛筆で形を描いた後に指で擦って陰影表現の手本なるものを見せてくれた。好意を否定するつもりがないが、色彩研究して陰影を日本人の持つ感性的な色に置き換えて表現している身としては辛いものがあった。<br>　色々なタイプの描き手に会って感じるのだが、色彩で形を表現する行為は、陰影で形を認識している人に理解できない世界のようである。逆に、関西の彫刻科の教授がデッサンはいらない。クロッキーの線を見ただけで形態把握の才能はわかると言う方もおられた。関東以南ではクロッキーの線をもの凄く大切に扱う場面を多く見てきた。日本画でも同様に線に全神経を置き換える。<br><br>　先の講師先生は、日本画の展覧会の後にフォーブ以降の西洋絵画展覧会があったとき、鏑木清方や上村松園よりもキスリングなどを見た方が勉強になると言ってられて、なるほどと得心した。このかたは形を陰影として見ている。しかし、上村松園の線については絹本に書かれた一本の線で、あれだけ豊かな表現をできる人間は今後出てこないであろうと言う程、精緻でこの世のものとは思えない線である。しかし、これは色面で形を捉えている者にしかわからない世界なのであろうか、この点は疑問が残る。<br><br>　結論としてまとめると、明度と彩度は絶対値で判断している訳ではなく、個々の相対値として認識している。そればかりか、形態を陰影によって、あるいは色面によって認識している違いがある。それは緯度による変化と比例する。人間の目の構造や生活環境、光量の問題で分化してきたと考えられる。それらは文化であるり、どちらも明度や色面に特化した優れた作品を生み続けている。相容れない意見の相違は、この齟齬にあると言っていい。また、今後お互いに理解できれば、作品の良さや、地域展開を考慮した作品を生み出すことができると考える。<br><br>　今回は、明度と彩度について書いた。この地域性については、緯度だけではなく、細分化して書いていく必要があると考えている。私自身は線描によるフラットな表現を研究している。相容れない世界との交流は大変であるが、これは、このような種の分化の過程の問題もあるため、自分の感性を信じて追求して行く方を強く薦める。それは、表現とは他人の意見によって変えられた世界ではなく、自分が信じて追求したその先にしか真理がないためである。<br></span><br><br>　次回はサブカルと毒について触れてみようと思う<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11937618329.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Oct 2014 17:54:16 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第８回　濡れと乾きの色の差</title>
<description>
<![CDATA[ 　１２歳の頃はじめて油絵の具と出会って以来、絵の具の緑色が嫌いで、特に花や植物を描くとか森や風景を描いた油絵も嫌いで馴染めないというか<br>　あるとき植物と身体という実技課題があり、制作があまりにも苦痛で教授に人体はともかく緑色は好きじゃないと言い切った記憶がある。<br>　油絵の具で描くがゆえゴムの葉のような質感と油の塊である人体のコントラストがたまらなく嫌だった。他の学生も積極的に緑で表現しようと試みている人がいなかったように感じる。森に佇む少女などは実際絵になるし映画や写真作品、イラストレーションなどは多く存在する。ただ油絵の具で描かれた植物の異質感がたまらなく違和感を憶えるのである。<br>　<br>　この異質感についての答えは出ている。<br>　それは濡れと乾きの問題だ<br><br>　実際に森に佇み周囲を散策するとわかるが、葉の表面は乾いており木の幹も乾いている。土の表面も乾いており枯れ草も乾いている。森の中に濡れているものはほとんどない。雨の日も同様に森の中に入り込むと、ほとんどの雨は覆われた木々の葉によって森の中までは到達することがなく落ち葉で覆われた地表も木々の幹も葉の裏も乾いている。葉の表面に落ちる雨の雫も反発し流れ落ち濡れているというものではない。葉が濡れ色になるためには南国の広葉樹お除く日本の森林では、鍋で熱湯によって茹でる以外に自然界ではほとんど存在しないかと思われる。<br><br>　油絵の具は濡れ絵の具である。<br><br>　油絵の具に使われるのは顔料と定着材としての油。顔料と練り合わせられるリンシードオイルは空気中の酸素と重合し堅牢な皮膜を作る。利点として濡れた状態にある絵の具が乾燥しても油の屈折率から濡れた皮膜が残り殆ど乾燥による変色を計算しなくてよい。日本画などで使われる膠を定着材とすると顔料そのものが発色するため別紙に試し書きしながら乾燥後の発色を計算しながら作業を進める必要がある。また顔料そのものがメデュームの皮膜に覆われるため耐水性、堅牢性があり盛り上げて描くことも可能にし、油の酸化重合による乾燥の遅延時間はグラデーションを多用する西洋画技法に向いているといえる。<br><br>　問題はこの油による濡れという発色の特徴である。<br><br>　日本画の技法で花や葉を描くとその発色の素晴らしさに感動する。水彩絵の具もアラビコガムを定着材に使っているので乾き色に仕上がるが、顔料特に岩絵の具の持つ発色の力強さにはかなわない。緑の色顔料だけでも群緑、松葉緑青、淡口焼緑青、濃口焼緑青、柳葉裏、白翠末、緑瑪瑙、碧玉、黄碧玉、杉葉色など種類が多く日本人の緑色の感覚に合致している。人種による色彩感覚の差は別途、後述するが日本人がおよそ文献が残っている移行でも日本の風土で1200年試行錯誤してきた色合いは素晴らしい以外の言葉が見つからず感歎とする。油絵であっても日本画であっても顔料そのものに違いはない。定着するための材によって濡れた顔料になるか乾いた顔料になるかの違いが生まれる。<br><br>　少なくとも日本の風土に油絵の具の重厚な発色は似合わない。そう思わずを得ない程、花や植物を描いて油絵の緑の美しさを見たことがない。唯一美しいとするならば<span style="text-align: left;" dir="ltr" class="irc_su">ジョン・エヴァレット・ミレイ</span>作の「オフィーリア」などあるが大量の水をかいて濡れを演出したためとも言える。<br><br>　油絵の具ばかりを扱うと塗れと乾きという問題に着目しないが表現手段として重要な問題である。<br>先の授業で緑は嫌いだといった教授は「作品を見るといっても結局のところ顔料を見ている。顔料そのものが感動的で抵抗力を持った存在でなければその上の表現も陳腐なものになる」といってられた。また日本画は水の仕事である。水の速度で作業速度は決定し水の速度で画面上の顔料は流れて行く。それらが乾いて定着したときより日本の気候風土に合致した作品が生まれる。油絵の具を否定しているのではなく、そのものの限界も知る必要もある。そのとき日本人の始祖が極めてきた日本画技法がこの国にあることに心から感謝したい。<br>　<br>　今回は塗れと乾きについて述べた。水と油の違いによる仕事や仕事の速度については後述したいと思う。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11934489000.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Oct 2014 21:54:45 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第７回　美術の意義 ２</title>
<description>
<![CDATA[ 　前回の美術の意義では人類の持つ破壊と創造の破壊の部分について触れた<br>それでは人類にとってこの破壊と創造の意義とはなにか？<br><br>　定義「生物学的に種の繁栄のために繰り返される行為」<br><br>　人間は危機意識を持ち続け、常に擡頭する種を滅ぼしてきた。これまで被食者となる害獣はもちろん、あまたの敵、ウイルスから天災に至るまで人類に危害を及ぼすものはことごとく駆逐し現在の繁栄をみた。現代社会にいて女性や子供が夜間の帰宅をすることに何の危害もない。日本において狼は絶滅し危害をもたらす熊は害獣として駆除されている。最近では野犬の歩く姿すら見る機会がない。武器を持たない生身の人間であれば到底これらの狼や熊といった猛獣と対峙することはできないはずであるが、一人がやられてもわれわれは集団で組織的に戦う術をもっている。<br>　我々人類は強い。およそ歯向かう的は集団で返り討ちにしてきた。それはこの人類の種としての維持機能である。過剰な危機意識と被害を受けたときに行う絶対敵攻撃性の恩恵である。今後、未来永劫続いて行くであろうし、およそ戦争とは関係のない平和な国であっても危機的な討論番組やニュースメディアはもてはやされ、危機的な状況から脱出する映画ばかりが消費され続けている。これは我々人類が存続するために身につけた機能としかいえない。必要悪というべきか、将来宇宙人とでも戦うための備えというべきなのか、機能として認めざるを得ない以上、これを否定するつもりは毛頭ない。<br><br>　文化はこの対極にある。<br>　破壊と創造とは全く逆のベクトルに存在する。<br><br>　種の存続の機能としての攻撃性、未知への危機意識とは逆のベクトルである種の繁栄のための「創造」　我々は人類は繁栄のために愛を紡ぎ、表現し、伝え、住みよい社会を創造してきた。一言で言い換えれば、それらをデザインしてきた。そしてどれだけ繁栄のために工夫し、デザインしてきたであろう。世界は愛と文化に満ちあふれている。<br><br>　創造とは幸せの原型であるかも知れない。　<br><br>　安易に危機意識を煽るような討論を繰り返すより、町中に花を植えた方が効果的である。収穫を祝う感謝祭や繁栄を祝する結婚式も素晴らしい。それは創造の力である。詩や音楽を作ったり演奏して歌ったり、絵を描いたり、ものを作ったり、料理を工夫したり、家や道路や橋を作ったり、町や暮らしをデザインしたり、日常的に行われているあらゆる工夫、創造の行為はすべて破壊的衝動を相殺する力である。この創造の行為は誰に否定される物であってはならない。ちいさな子供が飾るためにとってきた花も、飾るために拾ってきたビンもこの世界を支える立派な創造の力である。これに必要なのは専門家でも評論家でもなく、単純にこの行為に対して感動できる心を我々が持つことである。<br><br>　ジョンレノンのイマジンの歌詞にイマジネーションというワードについて考察している。<br><br>　創造とは物を作らなければ創造にならないのか？創造しなければ幸せは訪れないのか？<br>全ての物事はイマジネーションから始まる。全ての創造的な行為は人々の心の中のイメージから始まる。<br>行為に対する結果をイメージすることは重要で幸せな結果をイメージすることが創造の始まりといえる。<br>　自分の主義主張を通すために暴力に訴えたとしても幸せな結末は望めない。これはイマジネーションの欠如である。全ての破壊的行為はイマジネーションの欠如によるものと考えてもいいだろう。<br>　我々の心は常に種の繁栄のために幸せを求めている。その機能として結果をイメージするイマジネーションと幸せをデザインする機能を持っているのである。<br>　生まれたときから愛のない破壊の渦中にある子供達に幸せをイメージすることは不可能かも知れない。それでも人としていくらかの機能はあると信じたい。危機意識は商業的にも売れる。しかし、それと対極のものを創造し発信することは、幸せを知る人間にとって重要な行為である。<br><br>　幸せな行為に感動できる心はこの世界を支えていることを理解し尊重すべきであると考える。<br>そして、それらの行為は全ての人類が創造できる行為なのである。<br><br><br>　　<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11934279801.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Oct 2014 13:43:53 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第６回　美術の意義 １</title>
<description>
<![CDATA[ 　第５回の美術の起源では、美術の起源は人間の社会的な営みの創造のために生まれたと結論した。また、それは略奪や殺戮といった非社会的行為とは正反対の行為と記した。<br>　今回はこの意味を踏襲しつつ、その美術の意義について考えてみたい。<br><br>　美術とは「人が意志を持って創造し、視覚媒体を使って伝え、そして機能するもの」と定義した。この中で美しい物を創造してとは定義していない。それは低俗なものでも醜悪で猥雑な物でも機能すれば美術として認めていい。単純に拡大解釈している訳ではない。それは美術、あるいは芸術とは人間の営みをつなぐ媒体になっているからである。美術の起源で定義したように美術は人間の社会的な営みのために創造された。またそれは略奪や殺戮といった非社会的行為とは正反対の行為である。しかし、この相反する種の繁栄と、種の自滅ともいえる殺戮といった破滅的行為は、同じ人間の営みであり対局する世界の中庸な部分に暮らす我々人類のもつ最大のジレンマかもしれない。<br>　なぜ戦争はなくならないのだろうか？このブログではネオゴシックを提起して人間の尊厳を表現しようとしている。そのため宗教的あるいはイデオロギー的な要素を多く含む。主義者と誤解されるかもしれないが決してそれではない。人間は生物学的に優しさや思いやりといった種の繁殖の部分と略奪や他種の殲滅といった暴力的な繁栄の部分を同時にもっている。我々はその両極の中間に生きていて、どちらかに傾むくと平和になったり逆に傾くと凄惨になったりする。その事実を認めないことには人間のもつ尊厳が見えてこない。主義主張を繰り返されている方々もこのジレンマについては気がついているだろう。<br><br>　人はなぜ戦争をするのか？フロイトの著書で有名な話であるが、それ以前にもクラウゼヴィッツの『戦争論』また、古くはフロイトの『国家』など、古来より随分研究されて来た命題である。５万年前の古代人の遺骨に戦いで傷を受けた痕跡があることから、そのころの人々も同じ命題について悩んでいたといえる。この問題は現代でも解決されず正戦論として正義か悪かと国際的な司法の場で議論されている。現代の平和論とは、不戦条約は一時的な条約でしかなく、この世界の平和は一つの封建的中央集権のもつ圧倒的な権力（国連）の機能によってもたらされると決着している。歴史の教訓では親の受けた恩は孫の代で忘れられるというが、それは戦後に生まれる不戦条約は孫の代までいくと、その不平等ばかりが目について再び争いが起こるということである。王制でなくとも政治家同士の会話を聞いているとこの概念が理解できる。日本における戦後７０年とは子供の代を超え孫の代になりつつある過渡期である。現代人は化石燃料を使うことで奴隷制度もなければ工場生産的な畜産、農業、漁業があり我々は飽食の時代に生きている。が、本質的な部分は変わっていない。それらが枯渇したり不平等が発生すれば利権をめぐって争いは繰り返す。今の日本は一時的な安寧の中にあると考えてよいだろう。しかし、それを煽って過剰な危機意識を持つ必要もない。あくまで人の営みの行為である。<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11643601726.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Oct 2013 19:55:40 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第５回　美術の起源</title>
<description>
<![CDATA[ 　前回の美術の定義で美術とは「人が意志を持って創造し、視覚媒体を使って人に伝え、そして機能するもの」と定義した。人はいつから視覚媒体を使って人に意思や感情を伝えようと思ったのか、残そうと思ったのか？<br>　今回はその美術史、美術の起源について考えてみる。<br><br>　最初に、美術史の意義であるが、美術という関係で作品を見たり作ったりするために美術史は必要である。案外軽んじられるが美術鑑賞のために美術史の知識を学び。又は、クラシック音楽、ジャズ、近代音楽鑑賞などに音楽史を学ぶ必要がある。<br>　もちろん作品単体でも楽しめるのであるが、日本の近代以降の美術教育は最近まで印象派一辺倒であった。西洋音楽もクラシックといえばモーツァルト、ベートーベンといった古典派音楽が中心だろう。これらの芸術域の歴史を学ぶことは美術鑑賞、音楽鑑賞に必要ではあるが、学校教育において鑑賞の比率が少ないことや、次回後述するが日本では印象派、後期印象派を中心に西洋美術論として教育されてきたことが原因になっている。しかし、近年、この流れの矛盾を修正しようと教育において指導要綱が改訂されているので、次世代は正常な美術概念に戻ると期待したい。<br><br>　では一言に美術史と言って何から学べば良いかというと、美術大学の図書館に行っても膨大な美術書の殆どは外国語の本で、日本の本の少ないことに気がつく。他にも国内の大型書店に行っても美術のコーナーに純粋に日本で編纂された美術書の少ないことにも気がつくであろう。日本は世界でも先進的な文化大国であるが、意外と美術は大衆の興味のない分野であるといえる。<br>　日本で美術史の独習は無理なのかと思われるかもしれないが、国内で危惧した人たちが『世界美術大全集　西洋編（小学館）』という採算度外視な本を作っている。他に『世界美術大全集　東洋編』と合わせて市立図書館や美術館には必ずあるので読破してもらえば、美術に対して正常な評価、考察ができるようになり、これまでの美術の世界観も大きく変わるはずである。図版が多く、図書館などで手に取りやすく、入門からでも入りやすいので一読を勧める。<br><br>　その美術史の最初の巻は先史時代として１５０００年前のラスコー洞窟の壁画が紹介されている。顔料とメディームから作られる絵の具、筆の使用、写実的、遠近法の使用など、現代人の絵画の概念が完成されている。また２２０００年前のヴィレンドルフのヴィーナスもデフォルメ、誇張を取り入れ、創造性にとんだ意志的な作品である。人類の芸術的な概念は宗教とともに中石器時代の３５０００年前に始まったとされている。<br><br>　それ以前はどうだったであろうか？人間は社会を構成し集団で狩猟を行い生活していた。多死多産で親の模倣や社会の教育によって人格形成されていく。人間にとって社会性やコミュニュケーション能力は先天的要素ではなく社会で学ぶ必要があり、生きるために必要不可欠な要素になっている。このコミュニュケーション能力であるが、例えば全く知らない言語圏に一人で行ったとして意思を伝えるために何をするだろうか？言葉を発してみるが通じない。それではゼスチャーや擬音を使って表現してみる。多少相手の興味を引くが明確に伝わらない。もしこのときポケットに紙とペンがあったらイラストや図をしめして意思を伝えようとするであろう。また、その方法が非常に有意義であると感じるはずである。先史時代、石器時代において、いやそれ以前の時代の人々も地面に石や木を使って視覚的に意思を伝えようとしたはずである。それらは簡単には伝わらず、媒体である地面も雨とともに消えるため記録のためには工夫が必要になる。おそらく言語の発達と同時かそれ以前からこの視覚伝達は早くから行われ簡略した記号も使われていたであろう。<br>　小林登志子氏の書かれているシュメール関連の書籍の中でチグリス、ユーフラテスを中心に栄えたメソポタミア文明は豊かな川の魚貝とともに湿地特有の粘土があったためそれで家を造り、儀式のための像を造り、神殿を創っていったさまが記述されている。水粘土（泥）に触れた経験を思い起こしてもらえばわかりやすいが、指先から手のひら全部まで粘土に触れることによって、人間の手の触覚はこれほどにあるのかと驚かされる。それは脳を刺激して創造力をかき立てる。この時代、粘土版に文字を残して記録保存した。これほどまでの文化の急速な発達は粘土を触ったことによる刺激とする説にも納得できる。日本においても縄文土器など粘土を触れる地域の文化発達が早いことも一つの要因であろう。<br>　しかし、前述したように意思伝達のために人類は言葉以外にも絵や記号を使っていた。音素文字以前に象形文字、ピクトグラムの原型は使われていたであろうし、それ以前に高度な視覚伝達をしていたことは中石器時代の遺跡からも明らかである。<br><br>　古代人が好きな人へ採ってきた果物などを贈る。美しく見せるために葉を織って籠を作る。盛りつけに工夫をする。花をそえる。きれいな石や貝でネックレスを作って贈る。やがて二人には子供が生まれてその子が喜ぶようなおもちゃを粘土細工をする。子供に地面に絵を描いてまだ見ぬ世界を教える。親族が亡くなると悲しみ立派に飾って埋葬する。その人が生きた痕跡を石積みなどで残す。<br>　人が営みとして行ってきた行為そのものに美術がある。それは非破壊的な社会性と密接に結びついている。人間が人間としてある根幹的な要素である。<br><br>　現代では非常に高価で希少的価値のあるプレミアムアートのみが美術として語られることが多いが、美術の起源から考える美術の根本はもっと身近なところにあって、しかし万人の影響になる物というと非常に難しい問題である。<br><br>　よく、「絵を買いたい。家に飾るのにどんな絵が良いのだろう」と相談を受けるが、そのときは「お子さんの絵などはとっていませんか？」と聞く。<br>　どんな家庭にでもある絵であるが、その子が込めた思いを家族で鑑賞する。美術教育には最も重要な要素である。また親にとってもこの世界で最も素敵な絵であることは間違いない。美術の起源から考えても絵や造形作品などは人間の社会生活、営みの根幹であり、社会の最小単位は家族であるからその絵は間違いなく機能するのである。<br><br>　美術の起源は人間の社会的な営みの創造のために生まれたと結論する。<br>　それは略奪や殺戮といった非社会的行為とは正反対の行為である。<br><br>　今回はここまでであるが、今後、人の美しいものに対する欲求の側面からも美術の起源を考えてみたいと思う。<br>　<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11636090652.html</link>
<pubDate>Sun, 13 Oct 2013 19:50:17 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第４回　美術の定義</title>
<description>
<![CDATA[ 今回は美術の定義について考えてみたい。<br><br>　まず「美術」という言葉であるが、学校の授業、美術の教科、美術部、美術研究所、美術大学、美術サークル、雑誌の美術手帳や公共の美術館などパブリックで多く使われている誰でも知っている言葉である。しかし、その美術の定義を訪ねると殆どの人は閉口してしまう。かの定義編纂大好きのwikipediaですらかなり曖昧模糊として正直何が書いてあるのかわからない状態である。その現在におけるwikipediaによると美術史はラスコー遺跡から始まり宗教とともに発展。イラストレーションやデザインは応用美術でアニメや映画は大衆芸術であって極めて隣接しているが別な物。陶芸は美術で工芸は美術と隣接した別物である記されている。何のことやら<br><br>　この記載によると美術＝ハイアート、ハイカルチャーであって大衆芸術、大衆娯楽はローカルチャーとでも区分したいのだろうか？区分するメリットはなんだと問われると、端から見て美術という一定擁護のもとにヒエラルキーを構築したい連中が美術を区分しているようにみえてならない。<br><br>そもそも美術に区分なんてない。<br>極めて隣接してそれでも異種というなら、その違いを明確に説明できなければ異種とは言えないだろう<br><br>　例えば国内だけでも長谷川等伯は現代の視点からみるとスーパーデザイナーであり尾形光琳をはじめとする琳派などはスーパーデザイナー集団であろう。鈴木春信の描く版画は当時ファッション紙として親しまれ、写楽の歌舞伎役者の誇張した表現は自己表現というよりは歌舞伎小屋の集客目的として描かれている。また優れた工芸作品は芸術であるが、素朴な美術を探求した柳宗悦の民芸運動も立派な美術といえ、日本民芸館でそのイズムを感じてもらえれば歴然とすることである。<br>　少なくとも宮崎アニメなどに代表される心をとらえ息をのむような風景は美術ではなくて、町内会の美術サークルで描かれる野暮ったい油絵が美術と定義されるなんてことがあれば、美術そのものにいくらの価値があるといえるのだろうか？<br><br>　ここで美術を定義すると現代芸術家などは「モダニズムまでの美術とは色と形で意思を表すこと」とよく言っている。モダニズム以降、現代ではプロジェクターを用いたメディアアートなどが全盛であるため音や光なども重要なファクターになっている。そのため前述の定義では少し足りない。<br><br>　そこで、このネオ・ゴシック美術論で使う美術の定義としては<br>「視覚を利用して人が人に意思、感情、を伝えるため表現を工夫する行為」とする。<br><br>　例えば好きな人に「好き」って気持ちを伝えるために部屋を片付けて花を摘んで飾ったり、食器のレイアウトや食事の盛りつけを工夫したりする行為は美術といっていい。<br>　以前、沖縄のひめゆり学徒隊の記念館の写真で人間性を失った凄惨な現場であっても少女達は小さな薬の瓶を整然と美しくならべ、そこは女性らしい、かわいらしい工夫が洞窟内の資材の置き方にも一つにも工夫があって、地獄のような現場で戦傷し死を身近に迎える兵隊にとって、それがどれだけ生命を感じさせ癒されたのか計り知れないであろう。そういった心配りなどを人間は美しいとして来たのではないか。人間のもつ社会性が美という感情を育て育くんでいると考える。<br><br>　人は美しく健康的で明るい社会を望んでいる。それは個人の周辺だけではなく人に伝え合うことによって機能する。美術は生活を豊かにしようとか、人を幸せにしようとか、安らぎを与えようとか、逆に驚かせようとか、素敵（残酷）な世界を伝えようとか、それらの思いを視覚によって表現・伝達する行為である。そこには人の意思が必要であり伝達された側が受けて何らかの機能をしたとき美術が成立する。<br>　夕日を見てきれいだねって共感し共有し合う親子の会話も美術鑑賞であるし、部屋の中にお気に入りの物を工夫してディスプレーする行為もキュレーショニズムと言っていい。<br>　また美術が機能したことを考えると、無人で誰にも見せることなく表現行為のあとで跡形もなく痕跡を消してその後誰にも言わなければ機能したとはいえない。カルチャーセンターで趣味のために描いて描き終わったら処分する油絵なども機能している言いがたい。人に対して表現してある程度機能することを考えて工夫するのことも美術の要素である。<br><br>　<br>　今年の美術手帳６月号に初音ミクが特集された。雑誌で初音ミクは美術作品として捉えられている。冒頭にも書いたが映画を制作する人、漫画家、デザイナーやクリエイターの人たちは美術と言う言葉は使わなくても誰にでも機能する優れた表現をする。逆に美術という言葉を多用する団体はその権威とヒエラルキーを使って擁護、担保しているようにみえる。なんども言うようだが、日本画や油絵を描くことが高尚であるとかペンやタブレットで漫画を描くことが低俗であるとかは一切ない。ただ描画材が違うだけのことである。問題はその表現が伝わり機能したかどうかということである。逆に油絵でイラストを描いたり、水粘度と石膏やブロンズでフィギュアを作っても多くの人に機能すれば立派な美術作品であろう。<br><br>ネオゴシックでは中世の名もなき修道士たちの思いを現代に蘇えさせようと活動をしている。<br>そこにある美術の定義は「視覚を利用して人が人に意思、感情、を伝えるため表現を工夫する行為」である。<br>疫病や長引く戦いから人々を本気で救済しようと考えて描いた修道士の思いは届いたのだろうか<br><br>この美術論が造形的手法よりも表現にこだわる理由はここである。<br><br>　　<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11626688943.html</link>
<pubDate>Thu, 03 Oct 2013 00:35:30 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第３回　人は他人の絵に興味がない</title>
<description>
<![CDATA[ 　第１回で「人は他人の絵には興味がない」という話を書いたが、今回はその興味がない絵をどのようにして興味のある絵にするかについて考えてみる。<br><br>　最初に絵とは関係のない話であるが、私が以前、女性ボーカルのロックバンドのバンマスをやっていたときの話である。バンマスというのはマネジメントもかねるのでその視点で話を進める。そのバンドにはコンポーザーがいたので曲を作ってコンテストやコンペに応募して、ホールでやったり、そのうちラジオやテレビからイベント出演が決まったりとそこそこの感触を得ていた。<br>　しかし、そこからは鳴かず飛ばずで客は増えず「こんなに時間を裂いて練習してもなぜダメなんだろう」「人にメッセージを届けるにはどうすべきか」「どうすれば大衆の心が動くのか」「メジャーバンドとの違いはなんだ」などと本気で幾晩も考えていた。<br><br>　考え喘いだ挙げ句、その中で一つの結論がでた。<br>「大衆は天才の歌う楽曲を欲している。しかし、我々は天才ではない」<br><br>　ニーチェの言うところの遠近法に例えると子供の絵は愛おしく感じるが、親族を離れ、さらに赤の他人の絵となると殆ど興味がなくなるだろう。しかしメディアに紹介されていたり世間が「凄い、素晴らしい」と評価される絵であれば、知らなければ時流に乗れないと興味が出てくる。<br>　人の興味における遠近を考えると、才能もない一般市民が努力しているだけの音楽や絵は興味の対象にはならないのである。<br>　しかしながら絵描きという人物を見ていると、その殆どが自己の才能に自身をもち、自分がいちばん上手いと考えている。それはそれで自己同一性を保ち制作のエネルギーとなるからそれでいいのだが、多少かじった程度で、あるいは十分な美術の研究をしないまま謂わば自惚れでやってられる方も多い。ただ指導的立場におられる方は生徒のためにも造形的な観点だけでなく自己自身の客観的な評価と美術教育の研究もわすれずにやってもらいたい。<br><br><br>　では、その興味のない作品で如何にメッセージを伝えるかという方法論について<br><br>（１）生まれながらに天部の才能を持ちその才能を究極まで磨く<br><br>　単純に研ぎすまされた才能と技術は人の心を動かす。美術大学などで数百人の学生を観察しているとまれに天才と呼ばれるタイプがいる。しかしそれは一つに終極された物ではなく、切り裂くような線でアウトラインだけで立体の構造、重量、質感、意思までも捉える人、また常人がまねできない鋭い色彩感覚、色面感覚をもつ人がいる。しかし、前者は色彩に弱く、後者は形に弱い特徴をもつ。この件については後術する。それとサヴァンと呼ばれるタイプの描き手。これらの天才タイプの人たちは幾日も寝ないで食事もとらず制作できる集中力ももつ、コミュニュケーション能力が低かったり少々人間性に欠ける人たちも多い。一般人は単純に人知を超えた技術に驚愕し魅了されるだろう。<br><br>（２）造形学を学ぶ<br><br>　言葉に人を引きつける能力を持つ人、音楽でも、詩でも、文章でも、絵でもそうだが天才にとって、学理や造形学は無用の長物、あるいは学ぶことで足かせになるかもしれない。この種の人たちはクロッキーでも油でも日本画でも彫塑でもデザインでも必ず魅力的な作品を毎回１００％出力する。これができない一般人は造形学を学ぶことになる。しかし前述したように描き手は自分が一番、天才だと思い込んで描いている。その勘違いをしたまま造形学に頼って制作をして行くと最終的に目的が造形学になってしまう。<br>　カルチャースクールなどの講師で「これは何を表現したいの」と聞いてくるの人は本質的な部分を理解していると思う。しかし、いきなり「構図、色彩、陰影、ボリューム、マチエール、空間」などと造形用語ばかり持ち出してくる人は要注意である。表現のために造形学を学ぶのであって、優れた構図や優れたマチエールは決して目標ではない。天才に届かない人が人の心をつかむために天才の造形を学んで、自己の表現という目標を達成させるために造形学はあるのである。<br>　その造形的な方法論であるが具体的には「差異をつくる」「ストーリー性」「対比構造」「時間構造」「カオス」「抽出」など組み合わせて種々あるが、これについては次回以降展開して行く。<br><br>（３）自分の美しいと思うもの（惚れ込んだ物）に全身全霊を注ぎ込む。<br><br>　最初にコアなことを書くと、仲のいいの美術評論家が「他人がせっかく時間を割いて見てやるんだから作家は死ぬ気で描け」と言っていた。<br>　今年の６月に森美術館のLOVE展に行った。その前にBABYMETALという新しいジャンルの音楽を創出しようかと勢いのあるメタル・ダンスユニットのコンサートに行った帰りであったため、かなり客観的な視点で観覧することができたと思う。どちらもサブカル・ゴスロリの要素を持っているのだが本気で惚れ込んでやっている熱量がまるで違う。ゴスロリの写真の展示で吉永マサユキ氏には申し訳ないが表現量としてまるで違う。コンサートスタッフが本気で惚れ込んで作り出してる演出、楽曲。スピーカーが吹き飛ぶ寸前までボリュームを上げるPA、数ミリも違わなくシンクロする照明、おそらく日本最強のテクニシャンを集めたメタルバンド、最新のメタルシーンを取り入れた楽曲、数々のコンテストを幼少の頃から勝ち上がって来たボーカル、サイドダンスユニット、一流のそれらが自分の限界まで表現する。自分の信じる美学を具現化する情熱と熱量が生み出す空間。これとゴスロリという社会的事象を捉えた写真とではまるで比較にならない。<br>　物体が落下する運動が美しいと思ったなそれを、あるいは立ち続けることが美しいと思えばそれを、寝ているだけでも、表現としてはなんでもいい。人が何を言おうが、とにかく全身全霊をかけて、生涯をかけて、人生を、命をかけて表現する。人はそれに足を止め表現に対して本気で鑑賞してくれるだろう。いいかえれば、そこまでしなければ凡才の作品なんて足を止めてくれない。最初の遠近法でいったが、あなたに興味がある人なんて親族友人でもなければいないと考えていいのである。<br><br>（４）メディアを利用する。<br><br>　遠近法で遠い鑑賞者と作家の距離をメディアに露出することで近くしてしまうやり方。ギャラリストである小山登美夫氏の著書の中に村上隆氏のメディア戦略について書いてある。また、XJAPANの回顧録に激しいビジュアルを武器にテレビを使ったメディア露出をインディーズ時代に積極的に行っている。つまり初期段階でマスに認知してもらうこと。これが作家と大衆の距離を近づけ作品を見てもらう機会をあたえる。それを積極的に活動することである。雑誌のコンテストやコンペの投稿による入選もこのマスに認知してもらう行為の一つといえる。<br>　これらをマスメディアに直接売り込みに行ってもかまわないが、現代であればソーシャルメディアや投稿型ウェブサイト、自己配信サイト、ブログなども活用できる。例えばPixvやyoutubeなど作品をデジタルや動画に置き換えてでもユーザー数を考えるとやはりやる価値はある。その露出の仕方であるが、DJぷりぷり氏は金太郎の格好をして街を歩き、それを見た人がTwitterでアップしたところにフォローするというやり方でフォロアー数を延ばして認知された。意外とネットワークは仮想社会に見えるかもしれないが現実世界と密接に結びついている。ソーシャルネットワーク時代の到来は、イメージ戦略と合わせアイデアを出し実践することで短期に認知してもらえることが可能な時代になったといえる。<br>　しかし、露出したところで本物でなければ人々は反応しないし、量を継続して提供できなければ飽きて忘却されるであろう。これは、ある程度体制を作り本物を継続して提供できる段階からのステップである。<br><br>（５）所謂大先生に褒められるように描く<br><br>　作家、クリエイターとして真に表現を求めているのか？と問われそうなことであるが、国内の美術作品の殆どは各美術団体の主催する公募展と、一部賞金のでるコンテスト・コンペである。<br>　この公募展に出品して決められた規格の枠の中で、所謂大先生達のメガネにかなう絵を描く、そのことで入賞、会員、キャリア、地位などを確保してその美術団体ブランドとして鑑賞者との距離感を詰め作品を見てもらう手法。<br>　注意すべき点として、この手の団体は造形主体であるし、排他的傾向が強い。例えば今年の図録と２０年前の図録を見比べても入選作品の内容、傾向に差がない。現代美術はアースアート全盛からメディアアートへと媒体だけでも随分進展した。だが美術団体の作品展はほぼモダニズム以前の所謂輸入された西洋画が主体になっている。それでも作品を見に行くと数１００点のうち１点ほどは斬新な物がある。しかしそれは偉い先生に講評会で揶揄され消えて行く運命にあるのだろうと推察する。第１回でも触れたが７０代の偉い絵描き先生がいうことが正しい風潮では一般の美術愛好家や市民鑑賞者が思う作品が残る訳でもなく、大先生の派閥とその方のイデオロギーに従って作品が排他されるのが現状であり、そのことは大衆の関心のなさと数十年間変わらない作品傾向が如実に表していると言っていい。<br>　この方法で所謂大先生を目指すなら、最初から権威のある美術団体に属して、一番力のある大先生を支持し、会の運営のために切磋琢磨することである。いくら才能がありいい作品を提出したとしても会の風潮に合わなかったり一匹狼では排他される危険性をもっている。　<br><br>　以上、１～５まで列挙してみたがどうだろうか？<br><br>　創作活動は自分が信じたものを死ぬ気でぶれずにその形を生涯をかけて求め続けることである。<br>　少なくとも審査員の傾向や売れることを考えて作っているようでは終わっている。<br>　そのことは自分が鑑賞者に置き換わったときに感じる感覚と同じことと言えるのではないだろうか。<br><br>　今回は自戒の意味を込めて辛辣なことを書いた。<br>　次回以降は表現からみた（２）の造形学について考えてみる。<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11623113405.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Sep 2013 22:40:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>神の黙示　REVELATION</title>
<description>
<![CDATA[ <br><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/akariryu/4a/ff/j/o0800054812685026091.jpg"><img border="0" height="260" width="380" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/akariryu/4a/ff/j/o0800054812685026091.jpg" alt="くろすけのしっぽ"></a></div><br><br>ブログタイトルにも使っている絵の紹介です。<br><br>アルキド系の樹脂を用いた、油彩・油絵です。<br>深い宇宙を表現するために、ラピスラズリ風のブルーを何層も重ねて描いてみました。<br><br><br><br>作品のタイトルは「神の黙示　REVELATION」<br><br>ちと、重そうですね。<br>中心に立つのは、神様の御身使いである大天使ミカエルさまです。<br><br><br>天使ミカエルは、剣と天秤を持ち、神の制裁を代行して死後の魂を天秤にかけて裁きます。<br>良い魂は天国へ昇り、不浄な魂は地獄へ送られます。<br><br>また勇敢な戦士でもあり、堕天使ルシファが龍に変わり天界や人を欺き荒らしたときも<br>剣をとって戦い、コキュートスの地獄に封印しました。<br><br>受胎告知で、ゆりの花を持つ天使ガブリエルがメッセンジャーであれば、<br>ミカエルは力と制裁の剣士です。<br><br><br><br>新約聖書にはヨハネの黙示録という項がありまして、人類の終末が書かれています。<br><br>神様の教えを聞かず、あらゆる退廃に包まれた世界を見て激怒され、<br>その怒りが収まらず、天使たちに命令して、この地上を何度も焼き払い、<br>悔い改めない人を次々に殺してしまう、壮絶なお話です。<br><br>この中で天使たちは、忠実な神様の使いとして命令を断行していきます。<br><br>普段、私たちを見守っている天使たちとは思えない形相で地上を焼き続けます。<br><br><br>人類の終末について語られることは、歴史の中で何度もありました。<br>そのたびに悔い改めて、町を国を守ろうという運動がおきました。<br><br>そういった意味で、秩序を守る約に貢献してきたと思えます。<br><br><br><br><br>しかし、最近、世界の歯車が少し変です。<br><br><br>地球の資源は人間のエゴにより無作為に消費され、<br><br>地球上のあちらこちらで争いが起きて、住む家や家族を失い、<br><br>今日、食べるものが無くてたくさんの人が死んでいき、<br><br>その一方では食べきれないほどの食べ物を腐らせ捨てている。<br><br><br>一部の潤った人間は、地球の環境を悪化させ、<br><br>動物たちの住む環境を奪っている。<br><br><br><br><br>神様が見ていたら御怒りになっているでしょうね。<br><br><br>怒りが満ちる前に変えなければならないのは、私たちの意識なのでしょうか・・
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akariryu/entry-11614660519.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Sep 2013 01:43:52 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
