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<title>akiのdiary</title>
<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/</link>
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<description>映画のレビューや舞台の感想、日々の出来事などダラダラ書いてます。</description>
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<title>信仰と科学の間</title>
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<![CDATA[ 前に見たもののDVDレビューを書いてないのに、今日見たもののレビューを書くというのもどうかと思うんですが、印象が強かったのでf^_^;<br>今更ですが、『エミリー・ローズ』を見ました。怖いシーンに抵抗があって見なかったんですが、ホラーではないらしいので借りてみました。詳細はコチラ→<a href="http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD8312/index.html" title="エミリー・ローズ - goo 映画" target="_blank">エミリー・ローズ - goo 映画</a><br><br><br>確かに怖いんですが、信仰の問題（悪魔の存在の是非）を考えさせられる作品でした。<br>エミリーは果たして悪魔憑きだったのか精神疾患だったのか。常識的に考えれば精神疾患に落ち着くところでしょう。実際モデルとなったクリンゲンベルク事件のアンネリーゼはてんかんを病んでいたそうです。<br>作中、保護責任者遺棄致死が問われているわけですが、実際はそうなったものの、本当は家族も悪魔払いを行った神父も彼女を必死の思いで助けようとし、一心に神の救いを求めた。けれどそれは現代のパラダイムの中では非科学的な行いで罪としてとらえられる行為だったわけで。<br>神父の抑制した語りとエミリーの悲劇を悼む姿から、彼が本当にエミリーを救おうとしていたのが伝わってきます。それが非科学的であろうと、エミリーも神父も家族もそれが悪魔の仕業と信じ、そしてそれと戦っていたのだということがわかります。<br>キリスト教を信仰していない者が理解するのはとても難しいことではありますが、悪魔とはそもそも何なんでしょうか。<br>神に敵対するもの、人間を堕落させるもの－。京極夏彦の『絡新婦の理』で京極堂は自分が悪魔であるという少女にこう言います。<br>「君は悪魔悪魔と云うが、それは悪魔（デヴィル）なのか？魔王（サタン）なのか？それとも悪鬼（デーモン）か？冥王（ルシファー）かな？それらは皆違うものだ。起源が違う役割が違う属性が違う。尤も現在では完全に混同されてしまっているがね。」<br>この後に彼はキリスト教における悪魔について語っていますが、かなりわかりやすくかみ砕いてくれていて面白いです。<br>ヨブ記にもあるように、サタンとは神の試練を与える者であり、本来は神の僕であった者。それが一神教であるキリスト教が異教の世界にも広がる過程において他宗教の神を否定し悪魔とされていくわけですが、一神教においては神は全ての創造主でなければならず、悪魔ですらも神の創造物であり神に敵対しながらも神を超越することのできない存在。けれど敵対する存在が軟弱であるならば、それを映して輝く神もまた弱体化してしまう、そこで悪魔を強大な力を持つ神の敵対者と想定すれば神もまた偉大な存在となるが、その悪魔も神が造ったのだから、強大な悪の根源もまた神だ、という二律背反する葛藤をキリスト教は抱えている、というのがかいつまんだ京極堂の論旨です。<br>なんだか論理学の講義を思い出してしまいますがf^_^;クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったぐらいぐるぐるしそうな話ですよね。<br>そういった部分をえいやっと除けてしまって、本質の信仰心を試す者としての悪魔、神の存在をしらしめる為の悪魔と、とらえた上での結論をエミリーは選択し、神父に手紙を書くのですが…苛酷かつ壮絶な結論だと思います。あくまで彼女は悪魔と戦い、善、信仰の勝利を信じて死んでいったのだと思います。<br>不可知論者だと言っていた女性弁護士の最終弁論が印象的です。悪魔の存在は本当に否定しきれるものなのか、信仰の問題を果たして法で裁き得るものなのか。それを静かに問う彼女の姿が心うちます。<br>迷信的かもしれない。前近代的かもしれない。けれど神を信じ信仰する者にとって神の創造物である悪魔の存在を否定することは神をも否定することであり、悪魔は厳然として存在するのです。そして悪魔に与えられる苦しみは神の試練であり、それは戦うべきものであるのでしょう。その思いを否定することはたとえそれが相手を救わんする行為であったとしても、その人の信仰を冒涜することであり、そんな権利は誰も持たないのではないでしょうか。そんなことを考えさせられた映画でした。
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10205795930.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Feb 2009 23:40:55 +0900</pubDate>
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<title>Confession</title>
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<![CDATA[ さてさてほったらかしにしているDVDレビューです。<br>吉田喜重監督、『告白的女優論』。<br>反映画の旗手、吉田監督の作品は粗筋を説明するのがとっても難しいので、こちら<a href="http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19624/index.html" title="告白的女優論(1971) - goo 映画" target="_blank">告白的女優論(1971) - goo 映画</a><br>をご覧下さいf^_^;<br>主演は岡田茉莉子、浅丘ルリ子、有馬稲子という錚々たる顔ぶれです。<br>更に脇に三國連太郎、赤座美代子、大地喜和子、月丘夢路、峰岸徹、原田芳雄、細川俊之などなどものすごい面子がそろってます。<br>とにかく主演のお3方がものすごく綺麗！女優オーラが出まくってます。<br>女優が女優を演じているんだから当たり前かもしれませんが、最近の女優さんには出せない風格だと思います。ただ立っているだけで、座っているだけで、「あたくし、女優ですのよ」と主張しているかのような存在感（←どんなんだｗ）<br>個人的には有馬稲子がかっこよくてツボでした。<br>話としては以前見た『エロス＋虐殺』よりわかりやすい感じですね。フロイト的にそれぞれの“性”を語らせて最終的には“女優”というアイデンティティにたどりつく、っといったような…。<br>彼女達の根底に“女優”というアイデンティティを見出だせるのはやはり彼女達が女優らしい女優だからだと思います。娯楽性に欠けるので、吉田作品がリメイクされることはないでしょうが、これだけ“女優”としての存在感と説得力を持つ面子が今の女優さんを見渡してもなかなかいないので（←何様）今作るのは不可能な作品じゃないでしょうか。<br>特に有馬稲子演じる伊作万紀子の恋人の台詞、「君にとっては死ぬことすら演技なんだ。君が女優である以上、自殺することはできない。」という言葉に説得力を持たせることのできる女優がどれだけいることか、と思わされます。<br>仕掛け、というか演出的には舞台にしても面白そうな感じですが、テーマとしてはいささか古臭く感じるかもしれません。まだ性と思想を結び付けて語ることのできた70年代らしい作品かなぁ、とも思います。<br>それでも女優達が個人、私人としての自分をさらけ出し、葛藤する姿はすごく印象的です。そして本来核であるべき個としての自分の向こうに女優である自分を発見する。その時のそれぞれの演技がまた秀逸です。<br>3人が並んで歩き始めるラストシーンはなかなかに印象的だと思うのですが…。<br>楽しめる、という映画ではありませんが面白い映画だと思います。
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10197005028.html</link>
<pubDate>Sat, 24 Jan 2009 23:19:40 +0900</pubDate>
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<title>瑕疵</title>
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<![CDATA[ 本日は『サッドヴァケイション』。『Helpless』、『EUREKA』に続く青山真治監督の“北九州サーガ”の第三作です。<br>中国人の密航を手助けした健次（浅野忠信）は、中国人マフィアから逃げるため運転代行に転職しています。ある日、泥酔客、間宮（中村嘉葎雄）を送って行った先は、若戸大橋を真近に見上げる小さな運送会社・間宮運送。そこで健次はかつて自分を捨てていった母・千代子（石田えり）を目にする。借金取りに追われている後藤（オダギリジョー）かつてのバスジャック事件被害者の梢（宮崎あおい）ら、様々な過去を持つ流れ者たちで構成される間宮運送で働き始めた健次。千代子への復讐の機会を窺いながら一緒に暮らす健次ですが、日増しに大きくなる千代子の母性に翻弄され飲み込まれていきます。。<br>『Helpless』、『EUREKA』を見ていなくても一応わかるような作りにはなっていますが、この前2作を見ていなかったらあんまり面白くないかもです。<br>『Helpless』の主人公、健次のその後の物語なので、『EUREKA』は必ずしも見なくても大丈夫ですが、見た方が楽しめるシーンがあるので、その辺は微妙ですね～。なんせ『EUREKA』、長いですし…。<br>『Helpless』は壊れていく人生を、『EUREKA』はアクシデントによってどこか人生が狂ってしまった人達の心の再生を、『サッドヴァケイション』は人生にもがく者達を強烈な強さ（母性）が搦め捕っていく様を描いていると私は思ってるのですがどうでしょう？<br>ちなみに中上健次の紀州サーガのオマージュでもあるので、3部作読んでから3本を見てもまた面白いですよ～。<br>で、本題の今作『サッドヴァケイション』。<br>けぶるような薄い紗のかかったような画面、演技っぽくないトーンで話す登場人物達。浅野忠信がやはり素晴らしいですね～。淡々と演じながら鬱屈した感情を爆発させる彼の暴力がなぜか哀しい。恋人、冴子（板谷由夏）や義理の妹、ユリ（辻香緒里）、中国マフィアの手から奪ったアチュン（畔上真次）、守るべき者達にむける優しい眼差しと対象的に、千代子に対して向けられる暗く苛立ちと怒りをたぎらせた眼が印象的です。<br>そしてその眼を受け止め、どこか飄々としながらも自分のエゴを通そうとする千代子もまた印象的。ここで描かれる母性は美しくもなければ優しくもありません。ただただしたたかでたくましい女、そして母。間宮との息子、勇介（高良健吾）が気に入らなかったり思うようにならなければすぐに健次に頼りにしている、間宮の後は健次に継いでほしいと言う自分勝手さ。健次を傍に置くために彼が大切にしている者を自分の側に取り込み彼を搦め捕る狡さ。どうしようもなく勝手でどうしようもなく周りを傷つける彼女。けれど結局は彼女のたくましさとしたたかさが全てを捕らえてその内に取り込まれていくやるせなさ。<br>彼女がこの哀しい物語の原因でありながら「男の人達は勝手にしたらええんよ」と言うエグさ、健次がそれを望んでいるはずもないのに「みぃんなあんたを待っとるけんね」と言う残酷さ。彼女を傷つけようと、復讐しようとしてきた健次の行動はいとも簡単に彼女に飲み込まれて無意味なものにされてしまいます。<br>千代子だってそれまでに傷ついたり哀しんだり様々なことがあったには違いありません。けれど彼女だけはそれらのあったに違いない様々なことに捕われずにエゴイスティックなほどに前を向き生きています。それはもしかしたら過去に捕われている者からすれば苛立たしく感じるものでありながら同時に癒しでもあるのかもしれません。<br>およそ母親らしくない千代子ではありますが、それはごくごく当たり前の目線から見た場合であり、紛れも無くこの映画は強烈な母親の物語になっています。<br>誰もが傷や歪みを抱え、けして明るい物語でもなくストレートな希望が持てる結末でもありません。それなのになぜか惹きつけられます。<br>人は完璧なものよりもどこか欠けていたり傷があったりするものの方が愛着を感じたり惹かれたりすることがありますが、それに似た感覚かもしれません。<br>誰もが心に傷を持ち、そして多かれ少なかれそこに捕われないようにもがいています。それは哀しくて少し滑稽で。それでいてその姿がそれぞれに不思議に魅力的で。<br>そしてそれらを軽々と超越し、奇妙な揺るぎなさと強さを持つ母になぜか救われる気がしてしまいます。<br>一応は完結編となるこの作品ですが、彼らの傷はまだそこにあり続けるし、物語も終わってはいません。この先の彼らを見たいような気がしますが、終わっていないからこそ魅力的な物語なのかもしれません。
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10190201059.html</link>
<pubDate>Sun, 11 Jan 2009 23:52:00 +0900</pubDate>
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<title>極彩色の暗い夢</title>
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<![CDATA[ たまっているDVDレビューにそろそろ手をつけようと思いますf^_^;<br>とりあえず書き終えた物というか印象の強かった物から。<br>本日は鈴木清順、『夢二』。<br>1917年、金沢。駆け落ちを約束した恋人、彦乃（宮崎萬純）を待つ竹久夢二（沢田研二）は、隣村で妻と妻の愛人を殺した殺人鬼（長谷川和彦）が山へ逃げたという噂を耳にします。約束の恋人は現れず、モデルにしてほしいとやってきたお葉（広田玲央名）となんとなく彦乃を待ち日々を過ごす夢二。芸術家としての苦悩にも悩まされていた夢二は、湖上で夫（原田芳雄）の遺骸を探す人妻、巴代（毬谷友子）に出会い、逢瀬を重ねますが…。<br>極彩色に彩られた幻影の世界はそのままに、沢田研二の飄々とした独特の色気が軽やかさを加えています。<br>山の屠殺場から血を湖に注ぎ込む禍々しいホース、山に響く銃声、死神の鎌のような凶器を持ち山に潜む男。死んだのか生きているのか、現れてはまた姿を消しゆっくりとゆっくりと得体の知れぬ不気味さで夢二を搦め捕る男。<br>純粋に夢二に恋し、それ故に幻想の暗い世界に引き込まれていく彦乃、時に嘲笑するように、時に全てを見通すかのように嬌声を上げて夢二を見つめるお葉、暗い暗い夢を生み出しその夢に自らが捕らえられているかのような巴代。3人の女に翻弄されながら暗い夢の中に堕ちていく夢二。<br>エロティックでグロテスクで、好奇心と少しの嫌悪を感じながらも覗き見始めればもう清順の世界に搦め捕られてしまう。そんな不思議な映画です。<br>前2作（『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』）が平衡を失わせ眩暈を起こさせるような眩惑の世界だとすれば、『夢二』は万華鏡のような次から次へと極彩色の世界が現れて取り巻かれていくような感じだと私は思ったのですが、どうでしょう？<br>多層的な構造から多角的な横への広がりを持つ世界。清順美学に彩られた世界に底無し沼のようにずぶずぶと引きずり込まれていくような感覚とはまた違って、その世界が広がり気が付くと四方八方を取り囲まれて閉じ込められてしまうような…そんな感覚になります。<br>エロスとタナトス、美と醜、狂気と正気、そして夢と現。<br>極彩色に溢れた画面とは裏腹に暗い暗い夢の世界。男も女もどこか壊れていて、そしてどこか孤独で。ぽっかりと開いた暗いたうろを恐れながらも覗き込まずにいられない。ほの暗い中から見え隠れする妖しく美しい、匂い立つような頽廃的な世界。<br>とっても抽象的な感想になってしまいましたが、この不思議な夢の世界をどう表したらいいのか、すごく難しいです…。<br>明快なテーマやストーリー性を求める人にはオススメできない映画ですが…。<br>でもたまにはこんな混沌とした世界に眩惑されてみるのも面白いんじゃないでしょうか？<br>何より匂いを感じる映画ってのはそうは無いと思います。<br>比べると怒られそうですが、『パフューム』なんかよりよほど生々しく甘い甘い酔うような匂いの立ち上る清順の世界。<br>一度ハマると中々抜け出せないかも…。
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10189763954.html</link>
<pubDate>Thu, 08 Jan 2009 22:40:16 +0900</pubDate>
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<title>Light My Fire</title>
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<![CDATA[ 本日のレビューは反映画の旗手、吉田喜重監督の『エロス＋虐殺』。<br>大正時代と現代それぞれの人間と風俗を対比させて描いています｡年上の男に抱かれても燃えることができず､同年代の青年（原田大二郎）も挑発できない女子大生･束帯永子（伊井利子）｡彼女は大正時代にフリーラブを提唱したアナーキスト･大杉栄（細川俊之）とその愛人・伊藤野枝（岡田茉莉子）に興味を抱き､追い始めます｡<br>と、いうのは一応あるように見えるストーリー。<br>実際にはストーリーなんてほとんどありません。現代と過去のコラージュ、実存の問題、生と性、生と死…。実験的かつ挑発的な映画です。<br>まず小難しいことは脇に置いておきましてf^_^;映像がむちゃくちゃ綺麗です！あえて露出オーバーで撮られた画面、伊井利子の産毛まで見えるほど残酷に全てを浮かび上がらせます。顔だけを映すカット、奇妙な感覚に陥る斜めから俯瞰したカット、38年前に撮られたとは思えないぐらいカッコイイです。<br>そして原田大二郎が意外に美青年ｗどっちつかずで煮え切らない、それでいて何か爆発するのを待っている不安定さをよく出してました。<br>岡田茉莉子はほんっとに綺麗ですね～。ぱっちりと大きな力強い目！女の情念を目で演じてます！<br>伊井利子は小生意気で挑発的でエロティックで、そのくせ渇いて…。一筋縄ではいかない女って感じでかっこいいです！けだるい頽廃的な空気を漂わせながらどこか何かに飢えてる感じが印象的。<br>大杉栄役の細川俊之には撃ち抜かれますｗ若干目バリききすぎですが、もっっっすごいオトコマエです。色っぽ～い！日蔭茶屋事件の楠侑子と小刀を取り合って縺れ合うシーンはものすごくエロティック。パタリパタリと倒れていく襖、殺そうとしているのは自分なのにひどく追い詰められた顔を見せる女、傷を押さえ悶えながら女を捕らえて絡み付く男。逸子、野枝、大杉の3人の視点からそれぞれの事件が浮かび上がり絡み合い交差する不思議な時間。しばらく頭から離れないぐらい印象的なシーンです。<br>そんな印象的なシーンと役者達で作られたこの映画。でもとっっても難解。<br>生きることに価値も意味も見つけられない永子、彼女はどうして唐突に野枝に興味を持ったんでしょう？和田は永子に何を求め何を見ていたのか？<br>大杉の語る自由恋愛は狡い男の言い訳とどう違うんでしょう？自分の主張した自由恋愛が破綻した時彼は何を思ったのか？彼を巡る女達は？甘粕事件、彼らはなぜ殺されなくてはならなかったのか？彼らは思想に殉じたのか？<br>いろんな？が浮かびますが、それはもうほったらかしというかおいてきぼりというか。全く答えの出ないまま終わります。<br>でも元々吉田監督が見るものの解釈に任せる映画として作っているんだからそれは当たり前なのかも。<br>答えを作り上げられる人もいれば見つけられない人もいるでしょうし、ただ何となく説明できない何かを感じる人もいるでしょう。解釈できそうでできない不思議な映画。<br>自分という存在を感じられない永子、死によってしか生に価値は与えられないと言う永子。彼女にとって生とは死とは－。<br>1970年当時のフリー・セックス志向の風俗と大正のアナーキズムが永子と野枝を通して交差する奇妙な空間。<br>見終わった後、繰り返され続けた永子の台詞が耳に残ります。<br><br><br>「あなた、私に火をつけられる？」
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10179907057.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Dec 2008 22:08:44 +0900</pubDate>
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<title>ゆっくりと、丁寧に</title>
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<![CDATA[ またまたDVDレビューです。本日は『かもめ食堂』の萩原直子監督＆スタッフの『めがね』。<br>人生の一瞬に立ち止まり、たそがれたい。何をするでもなく、どこへ行くでもない。<br>南の海辺に、ひとりプロペラ機から下り立った女・タエコ（小林聡美）。<br>その小さな島は不思議なことだらけ。見たこともない不思議な『メルシー体操』なるものを踊る人々、いつもぶらぶらしている高校教師・ハルナ、（市川実日子）笑顔で皆にカキ氷をふるまうサクラ（もたいまさこ）、飄々と日々の仕事をこなすハマダの主人・ユージ（光石研）。<br>マイペースで奇妙な人々に振り回され、一度はハマダを出ようとするが、自分なりに「たそがれる」術を身につけていくタエコ。そして、タエコを追ってきたヨモギ（加瀬亮）を含めた5人の間には奇妙な連帯感が生まれていく。しかし、その時間は永遠には続かない……。<br>今回粗筋の説明が難しかったのでウィキペディアから引用させて頂きましたm(__)m<br>与論島で撮影されたそうで、海がものすごく綺麗。ハマダのキッチンなんかもとってもかわいらしくてナチュラルテイストのインテリアや雑貨が好きな人にはたまらないと思います。全てが美しくかわいらしく、映像だけでも十分楽しめます。<br>ちなみにハマダのご飯はどれも素朴で美味しそうで胃袋わし掴みｗさすが『かもめ食堂』スタッフ。<br>ストーリーというほどのストーリーも無く、登場人物達の背景も描かれてはいません。ただ淡々と過ぎていく、でも不思議な時間。ゆったりとゆっくりと。そんな時間の中で心が変化していくタエコと一緒にほっこりと優しい気持ちになる映画です。<br>忙しい日常から離れたのに観光をしたり旅らしい旅をしようとするタエコ。何もないことや自分達のペースで全て進めていくユージやサクラに苛立つタエコ。そんなタエコは日常から逃げてきたつもりが結局は日常に縛られたままなんでしょうか。けれど“たそがれる”ことを覚え始めた時、日常から逃げるのではなく、日常から離れることで日常を眺めそして自分自身の“日常”を愛おしむことができるようになっていったんじゃないかな、なんて思いますf^_^;<br>他の言葉でなく“たそがれる”という言葉なのがキモなんでしょうね、きっと。心を空にするでもなくリラックスするでもなく、自分自身に、人生に思いを馳せゆったりと慈しんで柔らかに抱きしめる。“たそがれる”ことには才能がいる、という言葉に見終わった後妙に納得してしまいました。<br>心にすとんと落ちてくるような不思議な心地良さ。<br>時にはこんな風に自分とゆっくりと気負わずに向き合うのも悪くないかもしれません。
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10175486015.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Dec 2008 23:56:40 +0900</pubDate>
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<title>愛すればこそ</title>
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<![CDATA[ またまたDVDレビューです。本日は『娼婦ベロニカ』。『恋に落ちたシェイクスピア』のスタッフによる16世紀に実在した女性を描いた恋愛映画です。<br>女性は男性の所有物だった16世紀ヴェネチア｡青年貴族マルコ（ルーファス・シーウェル）を愛するベロニカ（キャサリン・マコーマック）は身分の違いから彼との結婚は叶わず､彼を愛する唯一の手段､コーティザン(高級娼婦)の道を選びます｡国王や最高位の男性の相手を務めるべく､洗練された身のこなしから高い教養まで身につけ､魅惑の女性へと変貌を遂げたベロニカ｡愛するマルコの愛人となり他の客をとることを辞め幸せな日々を過ごします。やがてヴェネチアは戦争の危機に巻き込き込まれ､フランス国王アンリ3世を招き援助を求めます｡そこでベロニカは国王直々に指名を受けます｡ヴェネチアの運命を背負い､再びコーティザンとして国王の下へ向かうベロニカ。彼女の、そしてヴェネチアの運命は…。といったストーリー。<br>甘すぎず重すぎず、なかなか上質な恋愛映画でした。華やかな衣装も素敵です。<br>う～ん、でも私の好みではないかな…？もともと恋愛系は苦手なんでそれでかもですが。<br>マルコがねぇ…。あっさりと身分違いを理由にベロニカを袖にするわりに、ラストでえらく頑張るのがどうにも私の中で繋がらないんですよ。ベロニカはフランスの援助を取り付けるんですが、その後の戦いとペストによるヴェネチアの荒廃の中で、コーティザン達は堕落の象徴、神の庇護をヴェネチアから奪った魔女と迫害されます。そんな中ベロニカも魔女として異端審問の場に引き出されるんですが、そこで教会とヴェネチアを敵にまわしてでもベロニカを守ろうとする気概があるなら最初から嫁にしてりゃ良かったんじゃないかと…。<br>最初はただ自分に思いを寄せてくれる可愛い妹の友人ぐらいにしかマルコは思ってなくて、その後コーティザンとして洗練されたベロニカに魅了され2人で過ごすにつれそな思いが成長していったんだろうというのはわかります。<br>でもどうにもこのマルコの男のズルさが…。ベロニカの潔さに比べるとどうも…。ベロニカとマルコはベロニカがコーティザンになる以前にもいい雰囲気だったんですが、家の為にもっといい家から嫁をもらうことになってあっさりベロニカに結婚できないと告げるんですよね。それは当時の上流階級ではよくあることだからさほど不思議でもありませんが、いざベロニカがコーティザンとなっておおっぴらに関係が持てる対象となると今度はマルコからアプローチをします。そのアプローチがなんとも…。「そんな風にしてても俺のこと好きなんだろ？」みたいな傲慢さが見えるんですよね。なんとも勝手な話。もちろんベロニカは簡単には靡かないんですが、そこは惚れた弱味、一旦関係を持つとそのままどっぷりとマルコにハマってしまうんですよね～。で、マルコの為にコーティザンを辞めるけれどヴェネチアの為にアンリ3世の相手を勤めるベロニカをまたこの男は「俺だけのものになると言ったのに！」とかなんとか責めるわけですよ。だったらアンリ3世が彼女を所望した時に「彼女はコーティザンではない！俺の恋人だ！」ぐらいのことを言ったらどうだと。ほんと身勝手な男ですよ。<br>そういう所がどうにも気に入らなくて、そんなマルコを愛し続けるベロニカに共感がなかなかできなかったんですよね。<br>娼婦と蔑まれ、ちやほやされながらも結局は男達の快楽の道具でしかない悲哀を抑え、女として誇り高くあろうとするベロニカはとても魅力的だし、異端審問の場で昂然と顔をあげて語る彼女の姿はとても美しいです。愛する人に愛されながらも公には認められないことに悩みもするし、マルコの妻の怒りや虚しさに触れて罪悪感を感じたり細やかな感情も伝わってベロニカにはとても惹かれるんですが…。<br>その相手がいかんせんマルコ。せめてマルコがただの色男じゃなくて人生を賭けて愛するに足る魅力的な男だったらなぁ…。いや、ベロニカにとってはそれほど魅力的だったわけではありますが。<br>とはいえ、これはこういうタイプの男が嫌いな私の感想なので、その辺が気にならなければ中々魅力的なストーリーです。<br>ベタベタ過剰にならない作りで良い恋愛映画ではありますので…。なによりキャサリン・マコーマックが美しい！ヴェネチアの街もとっても美しく見応えアリです。そしてこんなにけなしておいてなんなんですが、ルーファス・シーウェルも男前ですｗ<br>結局オトコマエってトクなのね…（←違う）
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10170934499.html</link>
<pubDate>Fri, 28 Nov 2008 22:14:39 +0900</pubDate>
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<title>La Reine Margot</title>
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<![CDATA[ さて3本目は歴史大作『王妃マルゴ』。アレクサンドル・デュマ・ペールの小説をパトリス・シェローが映画化したものです。<br>シャルル9世（ジャン＝ユーグ・アングラード）の妹、フランス王女であるマルグリット・ド・ヴァロワ（イザベル・アジャーニ）はユグノー（新教徒）のアンリ・ド・ナヴァール（ダニエル・オートゥイユ）とカトリックとユグノーの争いを鎮める為に政略結婚を結ぶことになります。パリはアンリとマルゴの婚礼に列席するためにやってきたカトリックとユグノーであふれかえっています。そんな中母后カトリーヌ・ド・メディシス（ヴィルナ・リージ）はユグノーの首領格コリニー提督（ジャン＝クロード・ブリアリ）を父とあおぐ国王シャルルの敬愛ぶりに危機感を抱き、コリニーの暗殺を企てるも失敗。ユグノーからの仕返しを恐れたカトリーヌはギーズ公（ミゲル・ボセ）と結託しついに凄惨なサン・バルテルミの虐殺を起こします。襲撃され傷ついたユグノーの青年ラ・モール（ヴァンサン・ペレーズ）はマルゴの庇護を求め、恋に落ちた二人は逢瀬を重ねていくのですが…。<br>これも最初に見たのは10代のころです。ドロドロした愛憎渦巻く歴史大作、という印象でしたがやっぱり歳くってから見るとまた違う印象になるもんですねぇ。<br>寝室を共にしないとはっきりアンリに言うマルゴがなんでアンリの為に一生懸命になるのかとか、まるでわかってなかったなぁ。自分の意志とは関係ないところで人生が決まっていく、生殺与奪を誰かに握られた頼りない孤独な存在であるお互いに、ある種共感があったんでしょうね。愛ではないけれど、お互いに自分を投影しあうような関係だったんでしょうか。<br>奔放なマルゴの哀しさっていうのも今になってようやく少しわかったような気がします。男達に好きなように弄ばれてきた彼女。でも自分を必要とし愛してくれた男はいない。欲望の対象となることでしか孤独が埋められなかったマルゴ。だから「男無しで夜は過ごせないわ。」とうそぶいて誰かに身を任せ続けてきたんじゃないでしょうか。淫蕩さと聡明さを持ち合わせ、女としての虚しさと孤独を漂わせ、それでも愛する男に見せるあどけない顔と思いの切なさがすごくいいですよね。イザベル・アジャーニ、大熱演だと思います。ただイザベル・アジャーニが熱演な分ちょっとヴァンサン・ペレーズの影が薄いかなぁ。とっても魅力的な男前ですが、周りが濃すぎたかな？ジャン＝ユーグ・アングラードとか怪演ですしね。シャルル9世気持ち悪かったなぁ。なんかマザコンっぽくて幼稚な所が。強大な母后カトリーヌに押さえつけられて鬱屈したまま大人になった感じです。そのカトリーヌが中途半端だとまずいところですが、そこはさすが大女優ヴィルナ・リージ。画面を支配するかのような圧倒的な存在感。メディチ家の女らしい冷酷な策略家の顔を存分に見せてくれます。が、彼女もまた不遇な結婚を余儀なくされた孤独な女王であったことを思うと…複雑ですね。もちろん映画ではそこまで描かれてはいませんが、ヴィルナ・リージはそれを想像させるような孤高の母后カトリーヌを演じきっています。<br>倦怠と諦観に満ちたようなヴァロワ家の兄弟と対象的にもがき生きようとするアンリ役ダニエル・オートゥイユも印象的です。運命に翻弄され明日をも知れない身ですが、彼はもがくことをやめません。それは力強く、マルゴへの恋に燃えるラ・モールとはまた違った生命力を感じさせるような気がします。<br>一癖も二癖もある人物達。暗い画面、惨たらしい虐殺のシーン、夥しい死体、陰謀と愛憎。単純な悲恋の物語でもなく、人の悲しみや苦しみ、そして残虐さを感じられる重厚なとっても見応えのある映画です。<br>こうなると気になるのはまだ見ていないジャンヌ・モロー主演の『バルテルミの大虐殺』。ちょっとイザベル・アジャーニと見比べてみたい気がします。とっても美しく熱演のアジャーニですが、やっぱり彼女は『アデルの恋の物語』や『ポゼッション』、『カミーユ・クローデル』などなど、壊れゆく女の役が真骨頂だと思うので、マルゴはちょっと物足りない感じなので…。ジャンヌ・モローのファム・ファタールらしさがどんな風に出てるのかとかとっても気になります。運命に弄ばれた悲劇の王妃というには、彼女ちょっと強そうですしねｗ気になります。
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10169271305.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Nov 2008 23:51:05 +0900</pubDate>
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<title>あの頃の私にはわからなかったこと。</title>
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<![CDATA[ なぜかわからないけど急に見たくなって『ベティ・ブルー』を見直しました。<br>10代終わり頃に見てまっったく理解できず、なんでこんなに評価高いの？この映画、と思ってました。<br>ところがどっこい。<br>そこからたいして恋愛経験が増えたわけでもないのに30前の今になって見てみたら、気付いたら泣いてましたよ…。<br>友達に言わせると、恋愛体質とは程遠く、どちらかと言えば理が先にきて枯れた年寄りのようと言われる私なので、ベティのように何も省みない激しい愛は正直言って未だによくわかりません。けど、あの頃見た時には感じられなかった彼らの哀しさと切なさとその愛の深さを感じられるくらいには大人になったようです。<br>ゾルグはベティに振り回されているだけの優男にしか思えなかったけれど、今見ると彼だって十分常軌を逸するほどベティを愛していたことがわかります。<br>目も眩むような幸せで穏やかな日々。ベティはなぜそれで満足できなかったのか。なぜゾルグが作家になることに固執したのか。なによりなぜベティはゾルグでなくては駄目だったのか、ゾルグはベティでなくては駄目だったのか。今でもわからないことはたくさんあります。<br>幸せのすぐ側に絶望の暗い穴が広がっている。彼女達はそこから目を背けて、世間なんて知ったこっちゃないように深く激しく愛し合うのにどうしても破滅にしか向かわない。<br>どこかでこうしていれば、というような仮定すら入りこむ余地のない完全な破滅の愛。この悲劇を避けるにはベティとゾルグが出会わないことしかない。<br>でも彼らは確かに幸せだったと思います。互いの身を擦り減らして、自分達を傷つけようとするものを逆に傷つけて遠ざけて。世界は二人きりで二人のためにしかない。<br>目を背けたくなるほどエゴイスティックな愛なのに、二人の間に漂う愛はひどく優しく、表に現れる激情とはうらはらに澱んだように奇妙に静かです。<br>自分さえも失うことを厭わない、全てを投げ出した愛。その激しさこそがベティそのもので、そのベティを愛したゾルグにとっては彼女の精神の死は彼女そのものの死となんら変わらなかったのでしょう。自分を壊すほどの彼女の愛に答えるには、ゾルグは彼女を殺してやるしかなかった、それがやっとわかった気がします。<br>壊れた彼女を見たくない、そんなゾルグの弱さゆえの結末だと思っていましたが、ゾルグはいつだってベティから逃げようと思えばできたのに、ベティの激しさと向き合い愛し続けたのだから、そんな簡単なことではなかったんですよね。今更気付きました。<br>ベティが欲しいものを与えたくて、できることはなんでもやって、とうとう彼女が望んだ作家への道も見えてきたのに、ベティは手の届かない所へ行ってしまった。彼女を傷つける全てのものから守りたかったゾルグ。でも彼女自身から彼女を守ることはできなかった。彼女を死なせてやること以外ゾルグにどんな選択があったか。<br>ゾルグはそうすることで一生ベティと添うことを選んだんですよね。その暗い幸せにもう意味とか関係なく泣けて泣けて…。<br>比べるのも野暮な話ですが、この二人の愛の物語に比べたら渡辺淳一原作映画なんて甘い。センチメンタリズムなんて甘いものはベティとゾルグの間には入り込む余地はないぐらいの激しい愛の物語。<br>二人の激しさと哀しさに涙しましたが、それでもその愛に恐れを感じるのは私が臆病だからでしょうか…？
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10158343423.html</link>
<pubDate>Fri, 31 Oct 2008 00:44:00 +0900</pubDate>
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<title>Il Nome della Rosa</title>
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<![CDATA[ ジャン・ジャック・アノー監督が同名のウンベルト・エーコの小説、『薔薇の名前』を映画化したのを久しぶりに見ました。昔ビデオ版で見て、コメンタリーと特典映像付きでDVD化されてたっていうのは知ってたんですが、見てなかったのでそれ目当てに借りてみました。結局3日かけて本編まで全部見ちゃいましたよ～f^_^;<br>1327年､北イタリアのベネディクト修道院にフランチェスコ派の修道士、バスカビルのウィリアム(ショーン・コネリー)とその弟子メルクのアドソ(クリスチャン・スレーター)が､フリードリヒ美王の特使としてフランチェスコ会とアヴィニオン教皇庁との清貧論争を調停するためにやってきます｡しかしそれぞれの代表が到着する前に不可解な修道僧の死が相次ぎ、ウィリアムは究明に乗り出すことになるのですが…｡<br>原作は学生の頃に読んだんですが、何度も挫折しましたねぇ。一応それ系の学科にいたにも関わらずほんとに難解で理解できず…。ちゃんと最後まで読んだのは3回生の時です(&gt;_&lt;)<br>が、ちゃんとは理解できてないなぁ…多分。<br>ミステリーの部分はとてもエンターテイメント性に溢れているんですが、ちりばめられた喜劇論、異端論議、普遍論争などなど、この辺が難しいんですよねぇ。<br>映画版の方はこの辺を思い切って簡略化して（そうしないと物凄い長編になっちゃいますよねｗ）ミステリーの部分に焦点を合わせて描いたものです。<br>でも暗黒の中世の雰囲気を物凄く良く出していてとってもいい映画になっています。監督が細部までこだわって作ったセットと小道具は見応えたっぷりです。ショーン・コネリーの重みと迫力のある切れ者の修道僧ぶりもすごくいいし、クリスチャン・スレーターの清潔な少年らしさ、村の娘役のヴァレンティナ・ヴァルガスの存在感も素晴らしくて、とてもよくできた映画です。ミステリーとして優れているし、何よりその壮大さを原作では実感し辛かった迷宮図書館が映像で見事に再現されていることに感動です。<br>キリスト教世界最大の図書館、知の宝庫を前にウィリアムが子供のようにはしゃいだ声を上げるシーンは印象的です。ラストでこの知の財産が失われる様を呆然と見つめうろたえる姿がなんだかとてもかわいらしいです。<br>ただ字幕はなんかビデオ版より不親切になってるような…。けっこう重要な台詞である「ペニテンツィアージテ！（悔い改めよ！）」がラテン語のまんまで訳が付いてないんですよね～。これはちょっとまずいかな。<br>あとビデオ版ではラストに｢薔薇は神の付けたる名にして､我らが薔薇は､名も無き薔薇なり｣というタイトルの元になった詩の一部が入るんですが、DVD版ではカットされてるのがものすご～く残念です。これがないとラストのアドソの独白がちょっと軽くなっちゃうし、この作品の意味合いも貧弱になっちゃう気がします。<br>それでも映画としては一級品です。でもやっぱりキリスト教史の大体の知識が無いと犯人の動機が腑に落ちないかもしれないですが…。<br>知は罪なのか。笑いとは、堕落とは。<br>原作よりはしょられてるから解り辛いけど、原作は知識が膨大に詰め込まれているのでそれに翻弄されてぐるぐるになっちゃうんですよねぇ…。<br>でもまた読んでみようかな！ということでamazonに注文しちゃいました。（以前読んだ時は図書館で借りてたんでf^_^;）<br>脳みそが年々劣化してるのでまた挫折したりして…(&gt;_&lt;)
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<link>https://ameblo.jp/aki-diary1/entry-10157525119.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Oct 2008 00:31:33 +0900</pubDate>
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