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<title>深川屋物語</title>
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<description>和菓子屋深川屋のお餅菓子が本の形の箱に入っている商品「深川屋物語」。毎年たった300箱を高島屋お歳暮カタログから販売している。「深川屋物語」2018年の新刊から綴られた物語をこのブログで紹介していきます。</description>
<language>ja</language>
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<title>深川屋物語2021は10月発売！</title>
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<![CDATA[ <p>高島屋お歳暮カタログのみの発売になります。<br>ただ今　鋭意執筆中！</p>
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<link>https://ameblo.jp/aki19640421/entry-12594819929.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2020 15:27:40 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2020   5</title>
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<![CDATA[ <p>父の代になり、担い箱を一体だけ、店頭に飾るようになった。店内の一番京都寄りの壁を、担い箱専用に空け、螺鈿が光るようにライトを当てている。<br>そして2019年、この担い箱が、旅をしていた時代と繋がる出来事があった。<br>平成の時代が終わり、202年ぶりの上皇様の誕生である。<br>前回の上皇様、光格天皇様が御暮らしになっていたのが御室御所御用所。まさに担い箱をお届けしていた時の御所なのだ。光格天皇様が関の戸をお召し上がりになっていたかどうかは、定かではないが、私にとって、当時に思いをはせる元号改正　令和の始まりとなった。<br><br>御室御所は、真言宗御室派の総本山「仁和寺」として、今もたくさんの観光客が訪れている。京都で一番遅咲きの「御室桜」の林が広がり、樹高は2〜3mと低いのが特徴。<br>「わたしゃお多福　御室の桜　<br>鼻（花）が低ても　人が好く」と詠われている。<br><br><br><br>深川屋物語2020終わり</p>
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<link>https://ameblo.jp/aki19640421/entry-12594819461.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2020 15:25:34 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2020   4</title>
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<![CDATA[ <p>そこにあったのは、螺鈿細工の朱塗り箱だった。縦横が二尺程の大きさで、壁際の床の間にいくつも積み上げられ、ずらりと並んでいた。勿論、その時の私は、螺鈿細工の言葉も知らない。ただその美しく見事に光る立派な箱に驚き、幼心にも「宝物」として捉えていただけだった。<br><br>祖母が話し出した。<br>「このお箱はなぁ　担い箱ゆうて　むかぁし　天皇様に関の戸をお届けした時に　つこうとったお箱なんよ。ほれ　ここに菊の御紋が施してあるやろう　この御紋は天皇様の　御印でなぁ　この中に関の戸をいっぱい入れて　京都まで担いでお届けしたんやに」<br>そう言うと、祖母は担い箱の一つから、四段重ねの器を取り出した。それは、総螺鈿細工の　そのまた上を行くような、言わば総々螺鈿細工の菓子器だった。<br>「光っているのはな　蝶貝や青貝でな　真珠の貝みたいに光るんよ　それを一枚一枚朱塗りの箱に貼って作った菓子器なんよ　天皇様の御印があるお品やから　人目に触れてはあかんから　この部屋にしもうてあるんやに」<br>江戸時代、上皇の御所であった、京都の御室御所へ、この担い箱でお届けをしていた関の戸。特別誂えの道中着を纏い、二体の箱を天秤棒で肩に担い、多い時は、十日に一度の頻度で、十九里半の東海道を、鈴鹿峠を越えてお運びしていたと、祖母はわかりやすい言葉で私に教えてくれた。その部屋に並んでいた十二体の担い箱は、所々が傷つき、いくつかは壊れ、旅の工程の過酷さを物語っていた。</p><p><br></p><p><br></p><p>5へ続く</p>
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<pubDate>Tue, 05 May 2020 15:01:14 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2020   3</title>
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<![CDATA[ <p>薄暗いその部屋は、何とも言えない匂いがした。開けた扉から差し込んだ光で見えたのは、いくつもの長持や箪笥が並び、畳がみえないほど、行李や木箱が積み上げられた細長い空間だった。祖母が先に進み、蛍光灯の紐を引っ張ると、更に奥に細長い部屋が見えた。<br>何かが光ってる。それも無数の小さな光が一番奥の部屋の壁一面に広がっている。目を凝らして立ちすくむ私を措いて、祖母は奥の部屋の雨戸を開けた。</p><p><br></p><p><br></p><p>4へ続く</p>
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<link>https://ameblo.jp/aki19640421/entry-12594809700.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2020 14:40:21 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2020   2</title>
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<![CDATA[ <p>中学に上がる頃だっただろうか。ある日、私はその扉の前に立ち、中に入りたい衝動に駆られていた。多分祖父や父も不在だったのだろう。恐る恐る大戸にてをかけ力を込めたが、びくともしない。どこかに鍵があるのかと探してみても見当たらない。諦めて戻ろうとしたその時、後ろから祖母の声がした。<br>「あっちゃんや　その部屋に入りたいんか？」<br>恐らく私の行動の一部始終を見ていた祖母は<br>「もう大きなったから　入ってもええやろ」<br>と大戸の上部にある細い添木を右に動かした。そんなところが動くんだ・・・。<br>右に動かした後、直角に接続されていたもう一つの添木を下に引き、更に最初に動かした添木を、今度は左に動かし、もう一段下に動くようになった添木を、そのまま引き抜いた。この扉は、こうして開け方を文字に書いてもわかり難く、ちょっとやそっとでは開けられない、からくり扉だった。<br>「重い扉やから　あっちゃん開けてくれやんか？」<br>私は無言のまま、何年も入ってはいけないと、言われ続けてきたその部屋の扉に、両手をかけ、ゆっくりと開けた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>3へ続く</p>
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<pubDate>Tue, 05 May 2020 13:04:21 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2020   1</title>
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<![CDATA[ <p>私が小学生の頃、夏休みには必ず、父の手伝いという大儀で仕事場に連れられ、一日中、餡場や作業場で過ごしていた。十歳に満たない子どもの視野に映る、迷路のような間取りや、その頃、すでに骨董品と言える道具類の数々は、私の幼心をくすぐり、まるで冒険でもいていたような錯覚を、今でも鮮明に覚えている。<br>東海道の南側に建つ深川屋は、通り沿いの店舗の奥行きが四十八間程もある、いわゆる「うなぎの寝床」で、建物の東側には、通り土間が続き、西側にはたくさんの部屋が連なる。明かり取りの中庭をいくつか挟んで、一番裏に作業場と餡場、そして納屋があり、大裏の扉を開けると、そこには田園が広がっていた。冒険は飽きることがなく、色々な部屋から屋根裏に入れたり、壁の向こうに入れる隙間があったり、開けると行き止まりの、意味のない扉や、二階の部屋の畳を上げれば、一階へと下りられる抜け穴もあった。そう、まるで忍者屋敷のような・・・。<br>しかし、たった一ヶ所だけ、決して入ってはいけない部屋があった。祖父から毎回言われる開けてはいけないその扉は、家の中にあるのに厚い大戸で仕切られていて、細腕ではとても開けられそうになかった。<br><br><br><br><br>2へ続く</p>
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<pubDate>Tue, 05 May 2020 12:52:03 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2019   4</title>
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<![CDATA[ <p>「私たち業界が東京に橋を架ける時、皇居へ向かう上りの欄干にはひらがなで橋の名を彫ります。下りは漢字です。今までその意味を解らないまま表記してきたのですが、今朝の記事を読んで納得したのです。東海道をルーツに江戸時代から脈々と受け継がれてきた決まり事だったのかと、とても驚きました。知らずしらずとはいえ旧套墨守（きゅうとうぼくしゅ）も時には良いですねえ・・・」<br><br>旅人に優しかった東海道庵看板の決め事が、400年もの時間を経て、形を変え残っている。この電話がなかったら決して繋がらなかった二つの決まり事。驚きや感動を共感し合いながら電話を切った。<br>「旧套墨守」・・・古い習慣やしきたりを改めようとせず、頑なに守り続けようとする様。深川屋には少し厳しい響きの言葉かもしれない。しかし、370余年受け継がれてきた旧套墨守の深川屋だからこそ、江戸の文化を伝承できていると信じている。<br><br>「ひらがなの　庵看板　京を指す」<br>（関宿かるたより）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>深川屋物語2019終わり</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/aki19640421/entry-12594772618.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2020 11:43:05 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2019   3</title>
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<![CDATA[ <p>元々歌舞伎看板として登場した庵看板は、上方からの下り役者を表していた。その上下を用いて、幕府は東海道全ての宿場の庵看板表記を、ひらがなを見て歩く方向は上り「京へと続く」、漢字ばかりが見えていれば下り「江戸への道」と定めていた。当時の旅人の多くは地図の概念など全くなく、それどころか、文字も読めない人々が往来していた東海道。しかし、ひらがなと漢字の区別は容易にできた事を利用し、誰もが判りやすい決まり事を定めたのだ。旅籠玉屋から早朝、旅人が出発する時、深川屋の庵看板の文字「關能戸」を見て江戸へと下り、「関の戸」のひらがなを確認して京へ歩き始めたのだろう。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>4へ続く</p>
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<link>https://ameblo.jp/aki19640421/entry-12594768589.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2020 11:23:58 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2019   2</title>
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<![CDATA[ <p>江戸時代、伊勢神宮へのおかげ参りの大ブームで、人々は一生に一度は旅をしたいと東海道はとても賑わった。ここ関宿も、一日の往来客が一万人を超えていたと記録に残る。深川屋の主人が、お向かいにある旅籠玉屋への用事の折、たった二間半程の道幅なのに「半とき道を渡れず」と困惑した文書を記している。そんな東海道で、この庵看板は、旅人にとっての大切な道標だった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>3へ続く</p>
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<link>https://ameblo.jp/aki19640421/entry-12594766660.html</link>
<pubDate>Tue, 05 May 2020 11:15:13 +0900</pubDate>
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<title>深川屋物語2019   1</title>
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<![CDATA[ <p>「私は◯◯建設の会長をしております◯◯と申します」<br>突然、誰もが知る大会社の会長様からの電話に驚いた私は、一瞬のうちに、ありったけのお詫びの言葉を探していた。関の戸に何か不都合があったのかも・・・<br>「実は、今朝の朝刊に掲載されていた御社の庵看板の記事を読んでお電話差し上げた次第です。」<br><br>創業当時から深川屋の象徴「庵看板」。天明3年（1783）の関宿大火の折も、隣の旅籠萩屋からの類焼を案じて、何より優先して、丁稚たちが屋根に上がり、看板を外し守った程と、その大切さは語り継がれている。唐破風の屋根を乗せ、専用に焼いた小さな瓦を葺き、左右には阿吽の獅子が飾られている。中央に吊るされた木板には金文字で施された「関の戸」の文字。旅人が遠くからでもその存在に気付くように、街道に垂直に掲げられている。現在では、東海道五十参次の宿場町で現存している庵看板は殆ど無くなり、その看板の持つ隠された意味に共感した新聞社が、全国紙に掲載した日の電話だった。<br>「庵看板の決まり事を、私たちは今も、受け継いでいることに気が付きました。発祥は東海道だったんですね。」<br><br><br><br><br>2へ続く</p>
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<link>https://ameblo.jp/aki19640421/entry-12591500457.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Apr 2020 11:35:44 +0900</pubDate>
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