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<title>秋灯灯すのブログ</title>
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<description>満州で生まれ育ち、引き揚げまでの戦中戦後の思い出を綴ります。</description>
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<title>1945年8月15日の私</title>
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<![CDATA[ 　終戦の詔勅を聞いて駆けつけた親友の家は既に留守。 頭の中は 呆然として、 街角に突っ立って眺めた空の 澄み切った深い青さ、 紺碧の色。あの光景は一生忘れない 思い出の一つです。<div>　 対照的に街の中をゆく現地人は普段通りでした。 それ以後私はどうしたか 全く記憶がありません。</div><div>　 当時住んでいたチチハルは、ソ連参戦の8月9日以後戒厳令が敷かれ一般人は外出禁止。しかし現地人は相変わらず出歩いていました。 私は中学生ながら日本刀を背負って学校警備に出かけました。ソ連軍が攻めてきたら死を覚悟で一戦を交えると悲壮な誇りを持って、車道の中央を闊歩していた軍国少年でした。</div><div>　 8月15日朝のラジオで、正午に重大発表があるから聞くようにとのことで、 朝から自宅で待機しておりました。</div><div>　正午、昭和天皇の敗戦の詔勅のラジオ放送は、ガーガーと雑音多くよく聞き取れないので、 近所の人に 聞いたら、日本は負けたんだよと言われてびっくり仰天 。早速駆けつけた 親友は既にどこかへ避難していたのです。</div><div>　彼に前々から、 現地人たちは日本は負けるぞ、早く日本に帰れと言っていたと聞いてそんなバカなと思っておりました。&nbsp; 現地では 5月頃から 日本はもう戦争に負ける、アメリカ軍が来たら背広を着なくてはならないから闇値が上がっている、早く日本へ帰れと言われた とも話しておりました。 最後まで日本をの勝利を信じて、 敗戦など考えもしなかったのはどうも日本人だけだったようです。<br></div>
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<link>https://ameblo.jp/akiakari1220/entry-12618045419.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Aug 2020 11:33:20 +0900</pubDate>
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<title>学徒動員と516部隊③</title>
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<![CDATA[ 　学徒動員の方は、1945年7月頃からもう行かなくてもいいということになりました。<br>　敗戦を見越して部隊の撤退と証拠隠滅を図るためだったのでしょう。<br>　 8月上旬頃、ガスボンベを積んだトラックが自宅近くの道路を横切って、市内を流れる大きな川「ノン江」方面へ行くのを見かけました。 あれはガスボンベを川に捨てに行くのだと直感しました。 <br> 　戦後の研究でやはりそうでした。<br> 敗戦前にトラックや鉄道の引き込み線を使って、ガス弾やガス容器を川の中へ捨てただけでなく、チチハル市内や周辺のあちこちに穴を掘って埋めたとのこと。<br>　 後日現地の人たちが埋められたガス弾や容器などに触れて、 多くの死傷者を出したとのこと。 遺族が日本政府に損害賠償の訴訟を起こしたりしております。<br>　よく魚釣りに行ったあのノン江に捨てられたガス類は、泥の中深く沈んだまま未だに回収されていないそうです。 きっといつかは容器が腐食して川が汚染されることでしょう。<br>　日本政府は、 戦後年数が経ってやっと毒ガス遺棄の事実を認め、日中共同での処理が始まっていますが、中国全土に 数10万発と言われた遺棄量の半分あまりしか処理が進んでいないようです。 もちろん処理費用は全部 我々の税金です。この負の遺産が 今後も続くのです。<br><br>　追記<br>　中国語のブログによると、 516部隊は<br>　　　　 第一課 　毒ガスの探測や毒物の合成研究<br>　　　　 第二課　 毒ガスの防護研究<br>　　　　 第三課　 毒ガスによる障害や医学の研究<br>　　　　第四課　 化学剤の研究<br>　　　　　　(その他省略)　　　　　　とあります。<br>　<br>　　　　 また 516部隊で十数回の生体実験により、590人以上の 死者を出した という記録もあります。
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<link>https://ameblo.jp/akiakari1220/entry-12617832782.html</link>
<pubDate>Fri, 14 Aug 2020 18:16:41 +0900</pubDate>
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<title>学徒動員と516部隊②</title>
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<![CDATA[ &nbsp; &nbsp;学徒動員で、1945年4月から配属された満州第516部隊については、当時はもちろんその存在も場所さえも知らず、戦後色々な資料によって、あの悪名高い731部隊と悪魔の兄弟と言われた250名程度の小規模の秘密研究部隊であったのを知りました。<div><br><div>　当時部隊への通勤は、指定された場所に部隊へ通う軍人や軍属(軍人ではなく軍隊の仕事をする人)が集まって、荷台に幌を被せた外からも中からも見えないトラックに一緒に乗リ込みます。&nbsp;2、30分ほど揺られて兵営に着きます。</div><div>&nbsp;だからどの道を通ってどこへ行くのか全然分かりません。 着いてトラックを降りたら、配属場所へ。</div><div>&nbsp;　私の配属された部署の5科は左の方の建物で、ガス研究の3科は右の方です。</div><div><br></div><div>&nbsp;　毒ガスは第1次世界大戦で ドイツが使用して以後、国際条約で使用禁止を決められたのですが、 戦争になるとまた使われるであろうということは一般常識でした。</div><div>　 だから日本陸軍の兵士の軍装の中には毒ガスマスクがあったし、一般家庭にも普及し、我が家にも一組のセットが有りました。ゴム製のお面の口先にホースでつながったガス吸収缶の入ったカバンがありました。装着の講習もありました。</div><div>　また産業博覧会などでも何種類かの毒ガス液やガス弾が展示されたりして 、誰もが知っていました。 だから初めにここの部隊では戦争に毒ガスが使われた時にはどのように守るかを研究してると言われても当然のことと受け取りました。</div><div><br></div><div>「部隊内で見聞きしたことは親兄弟にも決して話してはならぬ。友達同士の話題にもしてはならぬ。部隊の門を出たら全部忘れよ！」と指導教官に厳しく言われたことも納得でした。 実際は守るためより、攻撃するための化学兵器としての研究が主にされていたのでは？気象研究も、毒ガスや細菌を効率よく撒き散らすためにもされていたのではと思います。</div><div>　</div><div>　3 科の建物には近づく事も出来ませんでしたが、時々嫌な臭いが漂ってきました。</div><div>3科に配属になった級友に、 図書室だけは学生が入ることが許されるというので、内緒で入れてもらったことがあります。平屋の建物の横の入り口を入ってすぐに図書室がありました。一般小説や雑誌などは学生も閲覧可能ということでしたが、他の書架や机上には 、秘密、機密などの書類やら本が並んでいて、番兵が見張っていました。そんなところで本など読む気にならないので早々に退散しましたが、 図書室に続く奥の方の部屋は、学校の教室のように研究室が並んでいる感じでした。<br></div><div>平屋建てで細長く外壁が白くあったような記憶しかありません。&nbsp;</div><div><br></div><div>　戦後、516部隊を訪れた若田豪氏撮影の写真に、似たような建物が写っています。 何に使われていたか不明とありますが、平屋で、左横の方に入り口の跡があるのが 3科の建物の記憶に合います。</div><div>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　③へ続く</div></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/akiakari1220/entry-12616677137.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Aug 2020 10:21:37 +0900</pubDate>
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<title>学徒動員と516部隊①</title>
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<![CDATA[ <br><br>　私は1943年(昭和18年)に、 生まれ育った南満州公主嶺(現中国東北部)から、西北へ 千数百 km 離れたチチハル市に引っ越しました 。<br> 通っていた学校も、 新京第一中学校からチチハル中学校へ転校。(どちらも日本人学校)<br>　<br>　太平洋戦争の末期 1945年の4月、私は中学四年生になり、「学徒通年動員」の名のもとに、 学校での授業はなくなり、工場や軍隊などに勤労奉仕に通うことになりました。 これは戦時中の措置として国の法律で決まったものです 。<br>　我がチチハル中学校は小規模校で、 4年生は2クラスで80名が40名ずつ、かたや陸軍の満州第516部隊(通称516部隊)、かたや満鉄鉄道工場へ配属され、敗戦直前まで通勤することになりました。<br>　私は516部隊に配属されましたが、更にそこから「機甲訓練」という自動車技術者養成の講習に、４、5月の2か月行き、6月から516部隊へ 通うことになりました。<br>　516部隊に配属された40名は、 10名が「３科」、30名が「5科」と称するところに分けられ、(1、2、4科があったかどうかは知りません)。<br>　私の配属は５科で、 敷地内で気象観測をしたり、 手書きで書かれた沢山の観測データを算盤で計算して平均を出したり、毎日単純で退屈な仕事でした。しかし指導教官には、「 これはアメリカへ風船爆弾を飛ばすための気象観測で 、大事なお国の仕事の一つだ」と言われておりました。 ラジオゾンデによる 高空気象観測の様子なども 見せてもらいました。<br><br> 　以前に NHK テレビで 気象キャスターの倉嶋厚さんが 、「敗戦まで 気象観測をやっていたのは 満州では ここだけだ」と チチハルの当たりを指していました。<br> 516部隊がやっていたのかチチハル地方気象台がやっていたのかはわかりません。(516部隊の気象観測の実態資料が見当たらないので)<br>　 今は生活上欠かせない天気予報も戦時中は秘密で一般にはあまり詳しく知らされませんでした。<br>　　②は3科の話です。
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<link>https://ameblo.jp/akiakari1220/entry-12609945716.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Jul 2020 20:55:32 +0900</pubDate>
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<title>1941年12月8日は太平洋戦争開戦の日</title>
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<![CDATA[ 　当時私は小学6年生でした。<div>　朝の始業時刻が過ぎても、担任の先生は教室へ来ません。</div><div>当番の私が先生を呼びに職員室へ行くと、職員室の中には先生全員が居て、なぜか騒然としていました。</div><div>&nbsp;　「もう少し待っておれ」とのことで、 どのぐらい待ったか、やがて教室へ入ってきた先生は、開口一番、</div><div>「米英と戦争が始まった！今日は授業は無しで、今から家へ帰れ！」　</div><div>　担任は、元海軍軍艦乗組員で、よく戦争や軍艦の話をしてくれました。「そのうちに戦争になるかもしれんぞ」というようなことは聞いていたので、 教室内はどっと湧き、私もわくわく興奮しました。</div><div><br></div><div>　短い話の後、なぜすぐに帰宅するのかよくわからぬままに、既に凍てついていた地面を踏みしめながら、急いで家へ帰り着くと、 一人で居た母親に</div><div>「母ちゃん戦争が始まったよ！」と叫んだのに、その時の母の反応が意外に冷静で不思議だったのが、今でも印象に残っています。</div><div>&nbsp;居間にはラジオがかかっていて、 「我が陸海空軍大勝利！」との"大本営発表"を何回も繰り返していました。</div><div><br></div><div>　77年前の今日は、1945年8月の敗戦に向かってスタートをきった日でした。&nbsp;</div><div>　今年は新聞やテレビでも報じられないようで、もう忘れ去られているのかなあ⁈</div>
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<pubDate>Sat, 08 Dec 2018 21:08:28 +0900</pubDate>
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<title>10月10日は引き揚げ記念日①</title>
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<![CDATA[ 1946年10月10日(昭和21年)は、旧満州(現中国東北部)で生まれ育った私が、九州の博多港へ下り立って、 内地(当時私どもは日本のことを内地=ナイチと呼んでいた)の住民になった日です。　当時私は16歳でした。<div><br></div><div>1945年敗戦の後、当時、旧満州西北部のチチハルでどうにか生きながらえていた私は、1年経った翌年8月27日 、チチハル市第二次引揚団　二百数十名と共に、帰国に向けて、チチハル市を出発しました。</div><div>　</div><div>　以後、 貨車、徒歩での逃避行(？)と収容所暮らしを経て、　一か月後の9月27日、満州南西部のコロ島から、旧日本海軍の駆逐艦を改造した引揚船に乗って、3日後の10月1日、九州博多港に到着。</div><div>　10日間の港外停泊( コレラ等伝染病患者の発生の有無を確認の為)した上で、やっと上陸許可となって、 日本国の土を踏んだ、それが1946年10月10日午前10時過ぎでありました。</div><div><br></div><div>何しろ今から70余年も前の事です。</div><div>当時のメモは見当たらず、薄れた記憶をたぐりながら、少なくなりつつある戦時体験者の一人として、当時をを綴ってみたいと思っています。　　(続く)</div>
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<link>https://ameblo.jp/akiakari1220/entry-12410990756.html</link>
<pubDate>Wed, 10 Oct 2018 18:40:22 +0900</pubDate>
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<title>母の死と731部隊②</title>
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<![CDATA[ 　731(ナナ·サン·イチ)部隊は、戦後森村誠一の著書「悪魔の飽食」を始め、研究者たちによって知られるようになった日本陸軍の、科学戦研究のための秘密部隊 。旧満州のハルピン郊外に広大な施設を作って、中国人他外国人の、女、子供までを監禁して生体実験をしたのでした。その犠牲者3000人とも4000人とも謂われています。<div><br></div><div>　昨年8月、 NHK テレビ報道特集でも報じられましたが、有名大学の医学部の教授たちも招聘されて、人殺しの実験をしていたのでした。 その研究の中に、 コレラ、ペスト、チフスなどの伝染病菌を培養して、生物兵器とするというのもありました。</div><div><br></div><div>　1940年、当時の満州の首都新京にペスト病が大流行。</div><div>その頃、新京から60 km 離れた公主嶺と言う街に住んでいた私は、大人から子供まで伝染を心配していた記憶があります。</div><div>　ペストは、病原菌を吸い込んだ ノミが、人や 小動物、 特にネズミによって広がるので、流行地域は町全体を焼き払うのだと聞いていました。</div><div><br></div><div>　これは日本軍が、ペスト菌を吸い込んだノミをばらまいたのではないかという説が戦後言われております。</div><div>731部隊は、 満州のみならず中国戦において、毒ガスや細菌兵器を使った証拠が数多く見つかっているからです。<br></div><div>　</div><div>　その731部隊の兄弟部隊として、各種の実験研究をしていたのに516(ゴ·イチ·ロク)部隊というのがチチハルにありました。</div><div><br></div><div>　何とまあ1944年当時、私はチチハル中学4年生で、学徒動員で敗戦前の3ヶ月間、毎日通っていたのがこの516部隊だったのです。</div><div>　当時からここは、毒ガスの研究、製造や気象観測をやる秘密特殊部隊と知らされ、 ここで見聞きしたことは親兄弟にも話してはならぬ、話せば死罪だぞと、担当の士官に厳しく言われていました。&nbsp;</div><div>　</div><div>戦後516部隊で研究実験をしていたことを、731部隊で生体実験をしたということを知った時の驚き‼‼</div><div><br></div><div>1945年敗戦直前、ガスボンベを積んだトラックが、街を流れる河の方へ行くのを見て、「 あれは毒ガスを河の中に捨てに行くのだ、 やがてボンベが腐ったら 被害が出るだろう」と思いました。</div><div>　その通り、戦後チチハル他あちこちで、捨てられた毒ガスによって中国人が被害を被った事件が起きております。 被害者が日本に裁判を起こしたりもしています。</div><div><br></div><div>　戦後旧満州へ旅行して、 中国の造った「日本731部隊罪証記念館」を見学した時、516部隊の写真をもちゃんと展示してあリ、そこで改めて当時の一端を知りました。</div><div><br></div><div>　話は戻りますが、1944年にチチハルで発疹チフスが大流行し、母が感染して死んだのは、516体部隊で培養していた保菌シラミの拡散によるものではないか⁈　</div><div>&nbsp;　証拠はありませんが、可能性は否定できません。私はそう信じております。</div><div><br></div><div>　サリン事件を起こした オウム真理教の麻原彰晃等13人は 死刑の判決を受けましたが、 731部隊関係者は たちは 戦時中の悪魔のような犯罪を問われることなく、 全て無罪で日本へ帰ってきました。</div><div>&nbsp;これは 研究資料をアメリカやソ連に渡すことによって自分たちの罪を免れたと言われています。 そればかりか、 研究者たちは大学へ戻って教授や製薬会社の役員、社長にまでなったようです。</div><div><br></div><div>平時なら人一人殺すと殺人罪。戦爭、軍隊となれば大勢殺すと英雄。再びそんな時代になりませんように！！</div>
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<pubDate>Fri, 16 Mar 2018 15:21:31 +0900</pubDate>
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<title>3月10日は何の日？</title>
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<![CDATA[ 　1945年 3月10日は 東京大空襲のあった日。<div>　 米軍の無差別爆撃によって10万人の死者、100万人の罹災者を出した、 広島、長崎に次ぐ米軍の大量殺人行為が行われた日です。 戦争の残酷さを考える日です。</div><div><br></div><div>　 戦前、この日は「陸軍記念日」と呼ばれていました。</div><div>1905年、日露戦争 で日本陸軍が勝利した日を陸軍記念日に制定し、 各種の行事が行われたようです。&nbsp;</div><div>　戦時中 、旧満州 に住んでいた私は、小学生当時(1940年代)、この日を記念した陸軍の大演習を見たことがあります。</div><div><br></div><div>&nbsp;　紅白に分かれた軍隊が、 公園の広場で最後の決戦(白兵戦)をやるのを見る為に、 学校から引率されて行きました。</div><div>　 3月といっても気温が零下10°から20°の寒さにもなる中で、1時間も2時間も立って待っている辛さ。</div><div>　やっと両軍が現れて決戦を終えた後、寒さから解放されて家へ帰る時の嬉しさだけが強く印象に残っています。</div><div><br></div><div>　明治時代以来、 軍国主義の道をひた走った日本、 その挙句が大量の戦争被害に繋がったのでした。</div>
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<pubDate>Sat, 10 Mar 2018 20:04:17 +0900</pubDate>
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<title>母の死と731部隊①</title>
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<![CDATA[ 　3月7日は私の母の74回目の命日でした。<div>　母は当時住んでいた、中国東北部(旧満州)北西方の都市チチハルで、35歳の若さで死にました。「発疹チフス」死です。</div><div><div><br></div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180308/20/akiakari1220/ce/f1/j/o0720096014145664922.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180308/20/akiakari1220/ce/f1/j/o0720096014145664922.jpg" width="100%"></a><div><br></div></div><div>「 発疹チフス」は、今の日本ではほとんど聞かれない病名ですが、 当時は、かかったら死ぬ恐れが多いと怖がられていた伝染病の一つで、病原体を持った人の血を吸ったシラミに刺されると感染発病します。</div><div><br></div><div>1944年の冬、チチハルで発疹チフスが大流行、多くの人が死んだそうです。</div><div>　 その年の2月中旬、日頃丈夫な母が熱を出して寝込んで、2、3日後病院へ。即日入院させられました。</div><div>「黒いシラミがいたよ」と 入院前の母の一言 。</div><div>　普通白く透き通っているシラミが、発疹チフス患者の血を吸うと黒くなると、当時私ども子供も聞いていました。</div><div><br></div><div>　まさか!‼⁈　やっぱり!!!!!</div><div>　隔離病棟で家族の面会も禁止されたまま、2週間であの世へ行ってしまいました｡</div><div>　 母の顔を見たのは、臨終間際の死に水を取ることを許されて入室した数分間のみ。暗く冷たい壁の病室でした。</div><div></div><div>　死後、棺 は火葬場の焼却炉の中へ直送、直ちに火葬。</div><div>何とかまどの点火は中学3年の私がさせられたのです。(父に)</div><div><div><br></div><div>それにしても私どもの家族にはうつらなかったのはなぜか、今もって不思議です。 シラミは日常、誰の衣服にもくっついていましたから。</div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20180308/20/akiakari1220/b7/4c/j/o0720096014145664927.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20180308/20/akiakari1220/b7/4c/j/o0720096014145664927.jpg" width="100%"></a><div><div><br></div><div><br></div></div></div><div>　若くして 両親を亡くし、女中勤めで明石から満州へ｡</div><div>こちらも親無しで、小僧をして働いていた大阪から満州へ渡リ、薬屋の店員をしていた父と、18歳で結婚、20歳で私を産みました。</div><div>&nbsp;　貧乏暮らしの中で、 自分の無学と周囲の人たちとの境遇の違いから、働き者と言われながらも、いつも日陰者のように控えめに振る舞っていた母のあっけない死でした。</div><div>　 近年、33歳の頃の母の写真を見ると、体格の良いなかなかの美人だったなと思います。</div><div>　その母の死が、あの悪名高い731部隊とどう関係があるのかそれは次回に……。</div>
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<link>https://ameblo.jp/akiakari1220/entry-12358665997.html</link>
<pubDate>Thu, 08 Mar 2018 18:21:52 +0900</pubDate>
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<title>「福は内、鬼も内」</title>
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<![CDATA[ 　今日は節分、 炒り豆を買ったけど撒くのはやめて 、食べるだけにしました｡　歳の数より一つ多く食べると厄落としが出来るんだそうですね。<div>　袋からザラリと出して数えると、 1回目は50粒、2回目は39粒。エーッ！合わせてぴったりだ‼　こりゃあ今年は良い事有りそうだ。でも一遍には食べられないから、分けて食べなくちゃ。</div><div>　「福は~~内。鬼も~~内~‼」</div><div>「オーイ、追い出された鬼たちよ！ウチへ来ないか。一緒に餅でも食おうよ。オレの他には誰も居ないから遠慮はいらないぞ！」</div><div>「おっと、福の神は先に来てくれよ。」</div><div>というわけですが、明日の立春からまた寒くなるそうで気をつけましょう。</div>
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<pubDate>Sat, 03 Feb 2018 21:45:49 +0900</pubDate>
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