<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>akitsurinzoのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/akitsurinzo/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>鉛の走馬灯Katsuzo Murakami</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>理由の系列としての哲学史（４）</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第四節　哲学史の往復</p><p>　現代という時代のなかで我々は何をなすべきなのか。このこと摑み取るためにも、大きな時代の流れのなかで我々のおかれている時代とはどのような時代であるのか知らなければならない。そのためにはさまざまな批判的見地をもっていなければならない。自分の生きている時代に巻き込まれ、流されながらも、そこから身を引き離し批判的に捉え直すことができる「ものの見方」を手に入れなければならない。批判的見地を提供してくれるさまざまな「ものの見方」を手に入れるためには哲学史を遡ったり、哲学史の流れを追ったりしながら自分の思索を鍛えなければならない。現代を頂点とする進歩的歴史観では身動きのできない閉塞を招くだけである。進歩的歴史観という思考の慣わしを可能な限り薄弱にして過去の哲学的思索を捉え返すためには、そのさらなる過去から当該の過去へと往路を辿るだけではなく、より近くの過去から遡っていっそう過去の思索の意義を確かめるためには遡行的な探求が必要になる。哲学史を理由の系列として往復してみるならば、我々の生きざるをえないこの現実から蒙る価値観の抑圧を軽くすることができる。さまざまな事実の歪曲を通して修正され、にもかかわらず当然のごとく語られ、そして映像化され見せられる修正された歴史の一つの結果を鵜呑みにしてはならない。現実社会からからさまざまなチャンネルを通して蒙る感情的共同性への同調圧力を緩和したり、対象化しなければならない。そのためには現代を、歴史の必然的帰結としてではなく、さまざまな時代の一つとしてさまざまな観点から捉えなければならない。そのためには古い時代は野蛮な時代であるというような、それこそ「野蛮」な態度は捨てなければならない。「現代」が最も進んだ世界であるという「野蛮」を脱するためにも、哲学史の報復が必要になる。</p><p>　今のありさまのなかで、我々は大きな時代の流れがどこに向かっているのかと想う。何億年か先には、今の私たちが「地球」と呼んでいる物理的な統一体はなくなっているであろう。それ以前に私たちが「世界」と呼んでいる人間的な統一体はなくなっているのかもしれない。さらに何億年か先に、無数の偶然が偶然に重なり合って私たちが再現するかもしれない。このように時間の尺度を極限にとってみても、私たちの行動の指針が浮かび上がってくるわけではない。未来についての指針は「今」をも含めた過去から与えられる。私たちは過去を離れながら未來に向かっているのではなく、過去を未来へと投げかけている。アウグスティヌスによれば、過去はもはやない、未来は未だない、あるのは今だけである。しかし、知るという観点から見れば、過去は知られたものとして既にあり、あり続けている。その過去の智慧倉を懐に、眼前の感覚世界と応答しながら何を為すべきかを選び取る。こうして私たちは未だない未来を切り拓いて行く。この選び取る能作だけが今の証である。そこにはさまざまな工夫がある。原始からのすべての歴史を自らのうちに感じとり、それを未来に返す。これも一つの工夫である。幾たび、幾千度、幾万度、この今を生きようとも、同じく生きるように生きる。これも、もう一つの別な工夫である。何もしないという工夫の可能性はない。何もしなくとも私たちは何もしないという一事を為している。そして「あなた」が「思い・為す人」であることを誰でもである「私」は知っている。この既知のありさまは智慧蔵の宝物、個々人の経験を智慧にまでもたらした膨大な内容によって相互に異なる。しかし、「私」も「あなた」も「思い・為す人」であることを「私」も「あなた」も知っている。ここに未来に対する態度の機微があり、工夫の材源もある。</p><p>　いずれにせよ、この工夫が内実をともない、時空化され、この私の行為として、自らの営みとして結実するに至るには、あるいは、幾千度の「同じ」を「違う」から識別しなければならず、あるいは、全人類史をそのまま自らのうちに宿さねばならない。たとえ、それらが思慮、<ruby>慮<rt>おもんぱか</rt></ruby>りの上に立って為されていなかったとしても。どちらにせよ「時の流れ」と呼ばれる事態を離れて支点・視点をもたなければならない。このようにして、茫漠たる時空の広野のなかで、自分が引き受けつつ選びとる、あるいは、選びとりつつ引き受ける私だけの持ち場を、私たちは探してゆくのである。そして賢慮を身に付け、智慧に生きることができるようになる。さりながら現状の我々の有り様はどのようだろうか。我々が眼前にしている現実の世界のなかでは、無数に折り合わされて錯綜を極める網の目が既にして張り巡らされ、誰でもである「私」という個体としての特質は見失われ易く、歴史のなかでの、社会のなかでの自分の役割を見出すことが難しくなっている。網の目を遊泳するなかで、私はさまざまに変身し、あたかも私を始め直すことができるかのように錯誤し、直前の「私」と今の「私」とをつなぐ糸を失い、私は「私」という身分証明書を紛失する。私は世界中を駆けめぐり、世界中に分散し、それと同時につながりをなくし、孤立し、引き篭る。その最果では共同体は幻想としての集合体、制度としての幻想として現出する。責任の所在は網の目と虚焦点としての集合体の維持に解消される。これはどこかおかしい、と我々は感づいている。自分の平衡が保てないということに気づいている。</p><p>　誰でもである「私」まで喪失して何が残るのか。残るのはその都度、その都度の快と不快だけである。「私」が虚焦点としての＜私＞として残り続け、昨日の快は今日の不快になり、昨日の不快は今日の快になる。いや、今の快が次の瞬間に不快になる。今の不快が次の瞬間に快になる。誰でもである「私」が消失して、この私が世界において役割を持たない、その意味で無としての＜私＞に頽落する。この細分化された変化の末に、人間という生命体の自然的に変様してゆくリズムの、越えてはならないの閾値｛いきち｝を越えてしまう。感情が不安定になる。感情が不安定になればなるほど、今の、この瞬間の快を追い求める。ついには生命体のリズムが崩壊し、もとに戻らなくなる。感情は鈍麻し、無表情になり、意欲を失う。反面、別の時には、一つのことにこだわり続け、どこかで停止がかかるまで、同じことをやめることができない。これで生きているということになるのだろうか。誰でもである「私」は私をしっかりした拠り所として確保しなければならない。「私」という身分証明書を確認したい、取り戻したい。まず、「私」は昨日何をしたのか。思い出してみる。朝起きて朝食のパンをかじった。電車に乗って友達のところにいった。そのような行為をしたのが私である。思い出して、振り返ってみなければ、「私」は見つからない。今、現に人々のざわめきのなかでものを思う。それが「私」である。仕事が終わってから何をしようかと考えている。それが「私」である。昨日朝起きて、食事をし、それから電車に乗って、友達にあって、大したことではないけれど、楽しく時を過ごし、今日も朝起きて、食事をして、電車に乗って、今、仕事に行く。その「私」が、これからのこと、未来のこと、将来のことを考える、構想する。私は「私」さえも、時間と言われている流れの往来のなかで、歴史のなかでの往復しながら「私」を探し、「あなた」の承認を求め、得ながら、こうして「私」を獲得する。</p><p>　そういう私は事の初めから世界という何かとかかわりながら生きてきた。人間として生きてゆくということは、世界とかかわりつつ時を過ごすということを含んでいる。だから、私とは何であるのか、私探しをする場合に、私のしてきたことを整理し直すだけでは足りないのである。私は世界のなかにあって、態度をとり続けてきたし、とり続けている。時代のなかで、歴史のなかで自分の財産を調べなければならない。そうしなければ私が他の「私」であるあなたや彼女や彼とどこを共有し、どこが違うのかという事がわからない。同じところと違うところがわかってはじめて私が見えてくる。個性を見つけることができる。長い歴史のなかでの現代の位置、現代という時代のなかでの自分の位置、これを測らなければ、私が私を自分のものにしながら、一貫性をもって行為し続けることはできない。歴史という何かが「語られた事柄res historiae」と「為された事柄res gestae」との葛藤のなかで残されて行く、遠くから見れば判明で、近くからは見えない、航跡のようなものであるとするならば、哲学史はそれらとは別に「理由の系列」をもつ。この区別の根底に存するのは、私が＜誰でもである「私」＞を再獲得する不可避性である。理由の系列としての哲学史が提供するのは「私」を再獲得する道筋である。その理由の系列のなかで現代はどのような哲学史的位置を占めるのだろうか。そのことは近代哲学ないし近世哲学について考えてみることを通して浮き出してくる。</p><p><b>&nbsp;</b></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12971074890.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Jun 2026 17:27:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>理由の系列としての哲学史（３）ー真理について</title>
<description>
<![CDATA[ <p>第三節　哲学史探究の特質</p><p>真理について</p><p>　私だけではなく私たちが共有する歴史のなかに私たちの財産を探し出す。こうして獲得された財産は共有性に向かって開かれた私固有の財産になる。そのときに私は普遍的に適用可能な「ものの見方」を手に入れる。哲学は地域性、土着性を出発点にしながらも、普遍的に成り立つ知の構造を探り出す。二五〇〇年も昔のソクラテスの智恵は、私たちが為すべきことを<ruby>慮る<rt>おもんばか</rt></ruby>ときに、今でも変わらぬ威力を発揮する。矛盾律は、どのような時代であれ、どのような地域であれ、成り立つとされている知の法則の一つである。哲学史を振り返り、私たちの現状を捉え返すために不変的で普遍的な「ものの見方」を探して身につけようとする。そう考えれば、哲学史的探究とは何よりも真理の発見過程の探索である。「真理ほど古いものはない」と言われることがある。言語が変わっても文化が変わっても真理は変わらない。真理は進歩も退歩もしない。なぜならば変わらないということが真理の一つの証になるからである。それゆえ私たちが恐れなければならないのは真理の変質ではなく真理の忘却である。先達が多大の労苦と生涯とを賭けて見出した真理を忘れてしまってはならない。一度見出された真理を学び知り我がものにするのは、見出した時に払った労力に比べるならば、はるかに微少な努力で済む。なぜならば先達がそこへと至った道筋を辿ればよいからである。「真理ほど当たり前のものはない」とも言われる。普遍性も真理の一つの証である。私たちは大気に重さのあることを、いや、重さとは重力であることをいともたやすく知っている。</p><p>　自然落下における加速度という現象も、虹も一七世紀以前には謎めいたことであった。この場合に重力や加速度や虹という現象が変わらないのでも、普遍的なのでもない。重力は場所によって異なり、加速度も空気の密度によって変化し、虹の出ない日は多くある。しかし、重力を物体間の関係に基づいて考察したり、加速度を仮想的な真空を基準に考えたり、虹を光の反射と屈折に引き戻したりする見方は一度確立されると変わらない真なる「ものの見方」になる。一つの考え方が世界の見方を一変させてしまうことがあっても、それも一つの考え方（ものの見方）に他ならない。変わらない「ものの見方」として完成の域に達したものでも、だからといって同一と想定されている或る現象に対する他の「ものの見方」を排除するわけではない。たとえば、天動説にせよ、地動説にせよ、どちらも考え方としてはいつの時代でも成り立つ。理論系の単純性、生産性において、地動説は天動説を上回っている。言い換えれば、私たちの生活の役に立つ技術知という点では、そして一七世紀以降二一世紀までという時点を設定すれば、地動説の方が天動説よりも優越した位置にある。しかしながら、たとえば、技術が生活の便宜、経済効率など共通の尺度をもちうるにもかかわらず、それと同じような仕方でアリストテレスの哲学よりも現象学が優越しているという尺度を見いだすことができない。この場合には、比較するための共通の尺度を見いだすことができないからである。もし、「見つけた」と主張されるならば、その尺度に選ばれた第三のものが、当の尺度であることの理由を与える第四のものが必要になる。かくて無際限に陥る。どこまで進んでも尺度は見つからない。</p><p>&nbsp;</p><p>真理は進歩しない、進歩したら真理ではない。</p><p>　自動車が発明され、鉄道網が展開され、高度の通信網が張り巡らされ、巨大な記憶媒体も開発され、機械的な計算能力は百年前に比べて何兆倍という水準にあるのではないだろうか。ホッブズは理性の仕事は計算することであると考えた。遠くから人が近づいてくる場合に、単なる物体と見える状態から、人間として識別されるまで、加法に準じて認知が説明される。しかし、知識は進歩しない。そもそも三角形という一つの知が進歩して、四角形になるということはない。加法が進歩して積分計算になるということはない。ここでも選択肢がふえるということだけである。同じ目的のために二つの計算方法が用いられるというのではない。足し算の代わりに引き算が、掛け算の代わりに引き算が用いられるならば、たとえば検算のためというように何かしら狙いが異なるであろう。ラムダ計算にせよ、特有な表現手段であり、その意味で他の計算法とは質的に異なると言える。先にも述べたように「真理」という概念に「いっそうよくなる」つまりは「進歩」は含まれていない。もし、真理が進歩するならば、そう考えた途端に進歩前の真理と進歩後の真理が生じることになる。「真理」という概念の中には変わらないということ、不変性が含まれている。知識は進歩しない。</p><p>　私たちは全知ではない。一つのことについてさえ「すべて」を知ってはいない。もし、すべてが終わるという全体に向けて現在どの段階にいるか知っているならば、知識について進歩を語ることもできよう。しかし、この全体であるすべてを知ることはできない。なぜならば、どれだけが「すべて」かということを、私たちは知ることができないからである。これで「すべて」知ったと言い放った途端に、その外側に知られていない領域が開けてしまう。そういうわけで「進歩する真理」という表現は形容矛盾なのである。</p><p>　新しいことが真理として見出される。真理とされる事柄の数がふえるということはあるかもしれないが、真理が進歩するわけではない。そもそも、進歩とは何か。私たちは「先に進み、しかもよくなること」を進歩と呼ぶ。悪くなることを進歩と呼ぶ習慣はない。進歩とは変化するだけではなく、その概念のなかに「いっそうよい」ということを含む。しかし、科学技術の進歩から「悪いこと」が結果として生じることもある。科学技術の進歩が私たちにとってよいと思われている事態をもたらし、しかし、自然環境にとってよくない結果をもたらすということもある。科学技術の弊害は自然への悪影響に留まらない。科学技術の進歩は私たちにとって或る面ではよいことをもたらすのだが、別の面からすると弊害をもたらす。科学技術の進歩が及ぼす自然への悪影響は一方では私たちに便利さを提供すると思われている。それでは自然界への悪影響をもたらしてでも、私たちの得たい「よいこと」とは一体何なのだろうか。このときに「私たちにとってよい」と思われていることを一般的に表現するならば、「便利さ」になる。それでは私たちにとっての便利さとは結局のところ何であろうか。この便利さは、或る装置や機械、機構を使えば、用いないときに比べて、時間と手間をかけずに目的を達成できるという点に落ち着くであろう。手で洗うよりも、洗濯機で洗った方が、時間も手間もかからない。便利である。手で洗っていた時代に比べて、随分と進歩したものだ、と私たちは言う。ところが、科学技術の進歩が諸刃の剣のように、片方で人類の滅亡を推進していることを私たちは知っている。哲学史探究において求められていることは生活上の便宜ではない。さまざまに展開されて来て、いつの時代でもそこから考えてみることによって現象の異なる姿が現出するような見方、「ものの見方」である。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12971074489.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Jun 2026 17:23:37 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>梟は夕べに羽ばたく</title>
<description>
<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/15/akitsurinzo/9c/bc/j/o1280090915792809300.jpg"><img alt="" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/15/akitsurinzo/9c/bc/j/t02200156_1280090915792809300.jpg"></a></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12970903316.html</link>
<pubDate>Fri, 26 Jun 2026 22:52:57 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>円環の鳥</title>
<description>
<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/15/akitsurinzo/cb/c9/j/o1024102415792809510.jpg"><img alt="" height="420" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260614/15/akitsurinzo/cb/c9/j/o1024102415792809510.jpg" width="420"></a></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12969650611.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Jun 2026 15:24:04 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>理由の系列としての哲学史（２）ー 歴史について</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　或る時代が終わり、次の時代が始まる。終わりがあるためには始まりがなければならない。世界はいつか始まり、いつの日にか終わる。アウグスティヌスが明確にしたように、このように世界には創造という始まりがあり、絶滅という終わりがあるのだろうか。私たちは世界が始まって終わると幾分かは思っているであろう。アウグスティヌスのように神が世界を創造したとか、世界の絶滅の後に最後の審判が下るというようには考えていないかもしれない。しかし、私たちは終わりに向かって進んでいるというように感じているだろう。「終末論Eschatology」（死とか、最後の審判とか、天国とか、地獄について論じる議論を纏めてこのように呼ぶ）的な気分、あるいは世紀末的な気分、あるいは末法的気分を、これも幾分かは抱いているであろう。私たちは世界の終わりについてのかなりの感受性をもっている。</p><p>　別の見方もあるだろう。ギリシャ的と言われ、東洋的とも言われる輪廻という見方である。この考えに従えば、時はぐるぐる廻る車の輪である。時は、走馬燈に喩えられ車輪に喩えられることも多い。今は何度目かの今であり、何度目かの明日を迎える。ニーチェの言葉を借用すれば「永遠回帰」ということになる。それだからこそこの一瞬の重みを引き受けなければならないという逆転をニーチェの思想のなかに読みとることができる。消極的ニヒリズムから積極的ニヒリズムへの転回と言われていることである。そのように、私たちは「永遠回帰」ということを一種の倫理的規範として受けとめ、自然が変化してゆく姿を「永遠回帰」としてはあまり捉えていないであろう。</p><p>　ぐるりと廻って今に至る。そのように考えるよりも、ニュートンの言う「絶対時間」という捉え方のほうが、ずっと私たちの思いに染み込んでいる。すべての事象は一つの方向にだけ流れてゆく。ゼロ時からはじめて時を刻み続ける。あたかも時間軸が既に設定されているかのように歴史を考えることに私たちは慣れている。時間や歴史が大きな輪であるとは考えにくい。私は生まれ、そして死んでゆく。この限りで流れは一つの方向しかもっていない。もう一度「あのとき」に帰りたいと思っても、帰れない。「あのとき」を引き出しから取り出してくることはできない。思い出は引き出しには入らない。引き出しに入るのは画像であり動画であり文字であり音声である。私の人生というものを考えるときには、円環を閉じるというようには考えにくい。スフィンクスの謎かけのように、四足から二足になり三足になって終わる。生まれたときは小さく、大きくなり、小さくなって灰になる。私たちは「今」を二度繰り返すことはできない。いや、もっと精確に言わなければならない。私たちは「この今」を二度繰り返すことはできない。私たちは「今」ばかりを通り越してゆく。時の流れのなかでは反復というものがないと私たちは思っている。私を超えて、私たちが、人類の一人一人が連なり合いながら、始元に戻ってゆくということをリアルに思い浮かべるのはかなり難しい。私の遠くの祖先と遠くの子孫とが手を取り合う場面を私はほとんど想像できない。想像するためには、この想像を支えるロゴス（考えの道筋）を鍛えなければならない。もちろんこのようなロゴスを構成することが不可能というのではない。しかし、普通大抵には、私が生まれてなくなるのと同じように、世界もこの地球も生まれてなくなると私たちは思っている。</p><p>　時は一つの方向にしか流れないと考えるとき私の老衰は世界の老衰である。しかし、時がぐるっと廻って元に戻ると思うならば、私の終わりは次の何かの始まりである。私たちは、私の前と、私の後についてどのように考えたらよいのであろうか。私が生まれる前の世界と、今呼吸を整えている私とはどのようにつながり、私がいなくなった後の世界を私はどのように臨み見ことができるのだろうか。私は世界の衰退に立ち会っているのか、それとも世界の再生に立ち会っているのか。自分を超えた時の流れの連続性を、あるいは、時の流れのなかで生起する事象の継起を、時の流れに埋め込まれた私はどのように見ることができるのだろう。私の静止する視線の前を馬が疾走し、月の輪熊が夜に吠える。運動と静止のずれ、これが私たちにとって事物を見ることの可能性の条件である。悠久たる山野が静止するとき、私は小さく鼓動しつつ震える。願うべき思いもないまま夜空の星を観るとき、流れ星は私の静止を告げる。しかし、私と対象とのずれを超えて、私は自分の意志を発し、私の何であるかを時代のなかで捉える視点をもつ。この意志の発動に応じて私を超えた時代の運動を見、私を超えた世界を動かす。そこに歴史という意識が生じる。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12969556647.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Jun 2026 19:25:48 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>みらいは未だ来ない</title>
<description>
<![CDATA[ <p>遠い未来をふり返ると</p><p>&nbsp;</p><p>そのまた先の未来が見える</p><p>&nbsp;</p><p>未らいはまだまだ来ていない</p><p>&nbsp;</p><p>まだない時を君に見せたい</p><p>&nbsp;</p><p>ひげ面の君が見ている未来の君を</p><p>&nbsp;</p><p>みんなが子供のようにはしゃぐ未来を</p><p>&nbsp;</p><p>みんながすずめのように浮き立つ未來を</p><p>&nbsp;</p><p>ジーンズのあなたが見ている未來を</p><p>&nbsp;</p><p>まだない時を君に見せたい</p><p>&nbsp;</p><p>未らいはもうもう来てしまった</p><p>&nbsp;</p><p>みんなでつくりあげる未來が</p><p>&nbsp;</p><p>遠い未来をふり返ると</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12969556191.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Jun 2026 19:20:13 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>異国の空の雲の下</title>
<description>
<![CDATA[ <p>異国の空の雲の下</p><p>&nbsp;</p><p>異国の空の雲の下</p><p>野原の中の椅子の上</p><p>かわら乞食の浮浪人</p><p>あては、あなたの預かりもの</p><p>きたねい心の唯中に</p><p>すみれ咲かすというけれど</p><p>どこかおかしな片隅に</p><p>ばかげた広がり眺めわたす</p><p>ゆらーり、ゆらーり、どす、どす</p><p>不変の樹木恋しきを</p><p>変化の性に映しつつ</p><p>どこか知らねえ、あてはねえ</p><p>行為のはてになにもなく</p><p>食べた牛肉、豚の骨</p><p>とんちき、とんでも</p><p>羽根もなく</p><p>地面引きずる、ぬれ雑巾</p><p>パノラマウィンドウてなもんさ</p><p>きたないものばかり</p><p>どこまでもへばりつく</p><p>そのいやらしさ、</p><p>&nbsp;</p><p>異国の空の雲の下</p><p>俺はやっぱり</p><p>芥、一粒の</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12969335819.html</link>
<pubDate>Thu, 11 Jun 2026 19:37:09 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>はるかなあこがれ</title>
<description>
<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">はるかなあこがれ</b></p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">第一の巻</b></p><p>むかしむかし、ウサギとカモがいました。</p><p>カメではありません。カモです。</p><p>カモはフランス語でカナルといいます。</p><p>ウサギは亀田くんといいます。</p><p>カモは川島さんといいます。</p><p>ウサギの亀田くんは買い物に行きます。</p><p>急いでいても、急いでいなくても、</p><p>ぴょんぴょんと飛んで行きます。</p><p>後ろ足を右と左というように、</p><p>かわりばんこに出すことができないからです。</p><p>それで急いでいても、急いでいなくても、</p><p>ぴょんぴょんと行きます。</p><p>カモの川島さんは、急ぐときには</p><p>飛んで行きます。</p><p>近くにゆっくり行くときには、</p><p>ちょこちょこ行きます。</p><p>&nbsp;</p><p>ある日、亀田くんが川の近くの野原を、</p><p>いつものようにぴょんぴょんしていると、</p><p>川のなかを泳いでいる川島さんの声が聞こえました。</p><p>川島さんの声は、カモですから、ぎゃーぎゃーと聞こえます。</p><p>亀田くんが立ち止まって川島さんを見ていると、</p><p>川島さんも泳ぐのをやめて、</p><p>亀田くんの方を見ています。</p><p>でも、カモとウサギですから、</p><p>見ているだけです。</p><p>ウサギはぎゃーぎゃーとお話することは出来ないのですから。</p><p>亀田くんはもうちょっと近くで川島さんを見たくなりました。</p><p>実はそんなに遠くをはっきり見ることができないのです。</p><p>河面をゆらりゆらりとただよっている川島さんを、</p><p>何だろうと思ったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、ウサギですから、</p><p>亀田くんは泳げません。</p><p>カメだったらよかったのに、と思っても、</p><p>亀田くんはウサギなのでカメではありません。</p><p>それで仕方がないので、</p><p>どうして仕方がないって、</p><p>お話しをすることも、近づくこともできないのですから、</p><p>仕方がないのです。</p><p>仕方がないので、亀田くんは、</p><p>やっぱり、ぴょんぴょんしかできなくて、</p><p>それでもときどき立ち止まって、</p><p>川島さんの方を見ていました。</p><p>&nbsp;</p><p>カモの川島さんには何匹かの仲間がいました。</p><p>カモですから、だいたいにおいて団体行動をするものです。</p><p>一匹が飛び立つとだいたいみんなが飛び立ちます。</p><p>でも、一匹がぎゃーぎゃーないても、</p><p>みんながなきだすことはありません。</p><p>亀田くんが見ているのに気がついて、</p><p>川島さんは、どうしてだか自分でもわからないまま、</p><p>ぎゃーぎゃーといってしまいました。</p><p>そういってから、ちょっと考え込んでしまいました。</p><p>どうして自分はぎゃーぎゃーとないてしまったのだろうか。</p><p>考え直してもわからないので、</p><p>川島さんはもう考えないことにしました。</p><p>それでも、飛んでみる気にもならないまま、</p><p>ゆらり、ゆらりとゆれていました。</p><p>亀田くんがときどき立ち止まりながらぴょんぴょんするのを見ていました。</p><p>&nbsp;</p><p>ちょっと、一緒に行ってみようかなあ、と川島さんは思ってみたのですが、</p><p>カモとウサギですから、</p><p>どうにもならないなあ、と思いました。</p><p>そう思ってから川島さんは、何でどうにもならないと考えたのか、</p><p>不思議に思いました。</p><p>だって、どうにもならないと思ってしまうのは、</p><p>ほんのちょっとでも、どこか心の片隅では、どうにかなるという思いが、</p><p>うっすらとひそんでいるからでしょう。</p><p>でもすぐそういう思いもなくなってしまいました。</p><p>だって、カモですから、そんなに考え深くはありません。</p><p>亀田くんもウサギですから、</p><p>もの思いにふけるのはほんの一瞬です。</p><p>うつむいてとぼとぼ歩くこともできません。</p><p>やっぱりぴょんぴょんすることしか、</p><p>ウサギの亀田くんにはできません。</p><p>&nbsp;</p><p>そういうふうにして、</p><p>亀田くんは川上にぴょんぴょんと跳んで行きました。</p><p>川島さんは流れのままに川下の方にゆらりゆらりです。</p><p>ウサギとカモは、ウサギとカモですから、</p><p>そういうふうにぴょんぴょんとゆらりゆらりです。</p><p>川島さんと亀田くんは、</p><p>それぞれにそれぞれです。</p><p>何せ片方はぴょんぴょんですし、</p><p>もう片方はパタパタとちょこちょこですから。</p><p>夕日が迫ってきて、</p><p>川島さんはパタパタとお家に帰ります。</p><p>亀田くんもぴょんぴょんとお家に帰ります。</p><p>そして河は何も知らぬ振りをしていつものように流れ、</p><p>野原も何ごともなかったように風に揺らいでいます。</p><p>そういうふうにして夜が来るものです。</p><p>夜とはそのようなものです。</p><p>みんなが隠れることのできるものです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">第二の巻</b></p><p>川島さんと亀田くんのお話、</p><p>まだおぼえていますか。</p><p>二人がどうなったのか気になりませんか。</p><p>夜が終わって、朝になって、</p><p>ウサギの亀田くんと、カモの川島さんは</p><p>次の一日をどのように過ごしたのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>そう次の一日も、たったの一日です。</p><p>カモの川島さんはやっぱりカモですし、</p><p>ウサギの亀田くんはやっぱりウサギです。</p><p>でも、亀田くんはお買い物のついでに、</p><p>川のほとりでじっと流れを見ています。</p><p>小さな葉っぱが流れて行くのも見逃さないように、</p><p>なぜそんなに熱心に見ているのでしょう。</p><p>亀田くんにはわかりません。</p><p>でも、どうしてだかわからないのですが、</p><p>気がつくと何かを探しています。</p><p>そういうふうにして、</p><p>今までにはない習慣ができて行くのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>カモの川島さんにしても、</p><p>何だか野原を動くものが気になります。</p><p>空を飛んでいても、川に浮かんでいても、</p><p>魚を探して川のなかに潜っていても、</p><p>何だか向こうの方が気になります。</p><p>そうなのです。</p><p>いつも向こうの方なのです。</p><p>こっちの方ではないのです。</p><p>そこは何だか違うところなのに、</p><p>違うところが気になるのです。</p><p>でも川島さんはカモですから、</p><p>どうしてそんなことになるのか、</p><p>わかりません。</p><p>不思議だとも思いません。</p><p>そういうふうにして、</p><p>今までにない習慣ができて行きます。</p><p>&nbsp;</p><p>川島さんが空気を前足でつかみながら、</p><p>おっと、川島さんには前足しかありませんが、</p><p>その前足で空気をおしながら、</p><p>ひゅーっと河面に下りてきます。</p><p>足の裏でサーフィンをしながら、</p><p>静かに着水します。</p><p>何か気になっていることが、</p><p>気にされていることに気がつきます。</p><p>ふっと、首をまわしてみますと、</p><p>亀田くんの視線を見ました。</p><p>視線と視線とが交差して視線が視線を見たのです。</p><p>一瞬のことでした。</p><p>でもそれは静かな大きな湖に木の葉が一枚落ちたときのように、</p><p>最初はびくっと、それからはおだやかにおだやかに</p><p>全身に脈打つ波が伝わって行きます。</p><p>&nbsp;</p><p>新しい習慣は新しい喜びをもたらします。</p><p>それはまた欠如ということを教えることにもなります。</p><p>満たされたことがなければ、欠けているということもありません。</p><p>嬉しいことがなければ、悲しいこともありません。</p><p>川島さんも亀田くんも新しい習慣をもたなかった方がよかったのでしょうか。</p><p>でも、でも、そんなこと誰が言えましょうか。</p><p>視線が視線に出会う喜びがなかったのならば、</p><p>もともと新しい習慣なんかできなかったのです。</p><p>川島さんも亀田くんも遠くからお互いを思ってしまったときに、</p><p>今までにない喜びを感じてしまったのです。</p><p>そのときにはウサギでもカモでもなかったのです。</p><p>ただの川島さんと亀田くんが惹かれ合ったのです。</p><p>そこに欠如が生まれました。</p><p>喜びを見ないことの苦しみが生まれました。</p><p>&nbsp;</p><p>皆さん、こう思いませんか、</p><p>もし、苦しいのならば、見なければいいのにって。</p><p>嬉しいのならば、ずっと見ていればいいのにって。</p><p>でも、本当にそうなのでしょうか。</p><p>川島さんがカモで、亀田くんがウサギなので、</p><p>ずっと見ていられないので、</p><p>そんならいっそのこと、もう金輪際見なければ、</p><p>苦しいこともないだろうに。</p><p>そうして元のウサギとカモに戻ればいいのに。</p><p>いやいや、一度起こったことは起こらなかったことではないのだから、</p><p>元には戻れないよ、そう皆さんはおっしゃるかもしれません。</p><p>でも、川のほとりを通らない習慣や、</p><p>野原の方を気にしない習慣を身につけることはできるでしょう。</p><p>そうすれば欠乏の苦しみもなくなるでしょうに。</p><p>もちろん、嬉しいことも一つ減ります。</p><p>でも、別の何かを探せばいいのです。</p><p>そんなもの見つからない、いや、</p><p>見つからないなんてことはない</p><p>そのことを、川島さんも亀田くんも知っています。</p><p>時の流れのしわしわが、すぐにでも隠してくれるのを、知っています。</p><p>&nbsp;</p><p>明日になれば、亀田くんは川沿いの小道をぴょんぴょんしないのでしょうか。</p><p>川島さんは何だか気になっても探しはしないのでしょうか。</p><p>もしそうならば、きっと、最初から何も起こらなかったでしょう。</p><p>何かが起こってそれが今日だけではなく、</p><p>明日に、そしてその明日にと受け継がれて行きます。</p><p>欠けていたものが満たされ、満たされていたものが欠ける。</p><p>皆さんならば、どちらを選びますか。</p><p>満たされる方ですか、それとも欠ける方ですか。</p><p>喜びのなかの悲しみですか、悲しみのなかの喜びですか。</p><p>難しいかもしれませんね。</p><p>カモの川島さんとウサギの亀田くんはどちらを選ぶのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">第三の巻</b></p><p>川島さんと亀田くんがどちらを選んだか、知りたいと思いますか。</p><p>喜びのなかの悲しみか、悲しみのなかの喜びか。</p><p>でも、考えてみたら、どっちもおなじですね。</p><p>でも、考えなくても、川島さんはカモで、</p><p>亀田くんはウサギなのですから、</p><p>選ぶことはないのです。</p><p>そう、選らんでも選ばなくても、</p><p>悲しいときは悲しいし、嬉しいときは嬉しいのです。</p><p>何が悲しくて、何が嬉しいのでしょうか。</p><p>むこうがわです。</p><p>こっちがわではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>河の向こうとこっち。</p><p>川島さんはあっという間に飛び越すことができるのに、</p><p>何で渡ってしまわないのでしょう。</p><p>何で渡らないで、悲しみ、</p><p>渡らないで喜んでいるのでしょう。</p><p>亀田くんだって自分では泳げなくても、</p><p>船に乗ることはできるでしょうに。</p><p>でも、あっちとこっちなのです。</p><p>カモとウサギのようにあっちとこっちなのです。</p><p>みなさんは悲しいことだと思いますか。</p><p>でも、川島さんも亀田くんも喜んだり悲しんだりしているのです。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12969334729.html</link>
<pubDate>Thu, 11 Jun 2026 19:23:56 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>理由の系列としての哲学史（１）</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　我々が「存在論ontology」の哲学史的解明で目標にしているのはF.&nbsp;スアレス（F. Suárez, 1548 – 1617）の存在に関する形而上学からCh.&nbsp;ヴォルフ（Ch. Wolf, 1679 – 1754）の存在論までの展開である。時代的には一六世紀から一八世紀になる。「存在」思想の展開をこのように限定して考察するのはデカルト哲学の哲学史的位置を問い直し、そのことを通して近・現代哲学への批判的視点を手にするためである。</p><p>　このために、まず哲学史の方法について提起することから始める。哲学史は多くの場合それぞれが生きている自分の時代、つまり、「現代」を終着点にする。その場合に、もっとも「進歩」した時代と思われている現代の哲学がもっとも優秀であるという偏見に染まることが多い。いつの「現代」であれ、現代哲学が最も優れた立場であるという偏見が生じる。私たちが本書においてこれから辿ろうとする哲学史はこのような進歩的観点からのものではない。総じて歴史を進歩観の下に捉えるならば、「今」が最も進歩した時代、歴史上最もよい時代という根拠のない思い込みが生じ、人は傲慢をほしいままにする。というのも「進歩」という概念が「いっそうよくなる」という意義を含蓄しているからである。つまり、現代が「いっそうよくなって来た」最後の時代と評価される。「進歩」という概念が表だっていなくとも、現代を終着点にする歴史はどうしても、暗黙の内にせよその「目的」設定に制約され、その設定された目的にどれほど近づいたのかということを基準に「進歩」という概念が適用される。なぜならば、終わりを設定しなければどこに向けて「いっそうよい」のかわからないからである。</p><p>　こうして現代が歴史の終端に設定される場合にはどうしても進歩主義的歴史観に染まってしまうことになる。そうなると「現代」という時において「今」の欲望が知らず知らずにせよ尺度に選ばれ、それとの相関において目的設定がなされることも多くなる。このような営みが繰り返され、ここから「現代」の過去に対する優位性という共同的幻想も生じる。そして「今」という時代こそ歴史の行き着く先だという見方が一般的になる。或る場合には、力あるもの（組織）、財力のあるもの（組織）が社会に支配的であるのならば、それらの現状肯定への欲望がかつての時代を軽視し、自分達の欲望を未来へと企投し、現状肯定の歴史観を生み出し、それに合わせて過去を編み直すということも生じる。その結果、自らの時代を批判的に反省する視点を失いひたすら自らの倨傲と利己を謳歌せんとする。しかしながら、歴史記述の根幹は出来事の生じた順に記して行くことに存するのだから、時間の流れに即した事柄や理由の展開を記述して行けば、上記のような過誤は怖れるにたらないと思われるかもしれない。しかし、何を事実と認定するのかという点においてさえ批判的精神が要求される。「今」を謳歌し、その「今」をさらに自分に都合のよい未来にしようとする心根はこの批判的精神に圧力を加え、歪めてしまう。所謂「歴史修正主義」の動機的起源はここにあるだろう。このように私たちは「現代」を終着とし、この終着点に向けて歴史を組み替えるという傾向性をもつ。この自己肯定の傾向性を無にすることはできない。それゆえに私たちの課題は、このような傾向性をもちながらも「進歩的歴史観」をどのようにして免れることができるのかということになる。その試みが「理由の系列としての哲学史」である。</p><p>　私たちにとって問われていることは「進歩」的歴史観から受け取る影響をどのように少なくできるのかということになる。このためにどのような手立てがあるのか。その手立ては考えにくいものでも、珍しいものでもない。哲学史を考える上でさまざまな教説の展開を理由に基づいて開き出していけばよい。すなわち、は現実的出来事と時間の流れを或程度捨象できるので進歩的歴史観を抜け出しやすくなる。「理由の系列としての哲学史」という見方に立って哲学史的探索をなせばよい。この方法が何を含み、何と対立するのか、以下に少し論じることにする。しかし、特筆すべきことに、理由の系列として哲学史を捉えることによって哲学史を遡行することができるということがある。私たちが主題とする「神の存在論的証明」は現代哲学においてすっかり否定され、今更問い直す必要もないと考えられていることが多い。それが進歩的哲学史観に歪められた結果であるということを示すことになる。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/akitsurinzo/entry-12968963955.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Jun 2026 17:57:29 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
