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<title>稲のブログ</title>
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<description>主イエス・キリストと聖書に依拠する</description>
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<title>よく噛む</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>こんにちは。<br><br>突然ですが皆さんはよく噛んで食事をしていますか。昔(子供の時）から親、または学校の授業で『よく噛んで食べなさい』と耳に胼胝ができるほど言われてきましたが、不肖はその勧めを侮りよく嚙まずに食事を摂ってきました。恥ずかしながらつい最近になって食事の際によく噛むということがものすごく重要で蔑ろにしてはいけないことなのだと理解したのでそれを皆さまにも共有したいと思います。<br><br><br><u style="text-decoration:underline;"><b style="font-weight:bold;">よく噛むことによる利点</b></u><br><br>其の🈩‣少量でお腹いっぱいになる<br><br>其の🈔‣食事後の倦怠感が軽減<br><br>其の🈪‣食事の量が減り食費が浮く<br><br><br><u style="text-decoration:underline;"><b style="font-weight:bold;">一、少量でお腹いっぱいになる</b></u><br><br>これは痩せたい人にとって必見ではないでしょうか。食事制限中なのに食事の量が抑えられないなんて方はまず普段の食事をよく噛んでみてはいかがでしょうか。そうすれば自然と自分の体に必要な分だけの食物を摂り入れることが出来ます。大食いの方は食事をあまり噛まずに飲み込みます。これによりお腹にたくさんの量の食べ物を詰め込んだとしても嚙まないので視床下部にある満腹中枢から「お腹が一杯になった」という感覚を得られないのでいつまでも食べることが出来るわけです。逆に言うと噛めば噛むほど少量でもお腹いっぱいになることが出来るのです。噛むことで満腹中枢が刺激され少量でもお腹いっぱいになったと思えるように体の構造はできています。なのでこの体の構造を理解し十分に活かしてあげなければ勿体ないですよね。柔らかい食べ物だと噛み応えがないのでできるだけ硬めの食べ物(歯ごたえのある物)を食べるのがお勧めです。例えば玄米やオートミールなどでしょうか。それも生のままで食べるのが最高に美味しいのです。最初は味がなく紙を口に咥えているような気分になりますがよく噛んでいくうちに食べ物本来の味が生まれ、口の中で香ばしさが広がっていきます。このような新たな発見も見つかるので、挑戦できそうな方は実際に今日の食事から始めてみてはいかがでしょうか。<br><br><br><b style="font-weight:bold;"><u style="text-decoration:underline;">二、食事後の倦怠感が軽減</u></b><br><br>これはよく噛むことで得られる一番のメリットといっても過言ではないです。これは想像ですが一般会社の社員が昼飯を食べに牛丼屋に駆け込み、炭水化物を好んで食べたとします。その直後は幸福感に浸れますが少し時間がたつと頭が次第に重くなりぐったりと横になって寝転んだり、頭がぼーっとするのでその後にしなければならない課題や仕事を放棄したくなると思います。これは食事をした結果起こるもので、皆さんも一度はこのような(不肖の妄想ではありますが、)体験をしたことがあるのではないでしょうか。自分自身学生の時に同じような経験をしました。不肖は普段からコツコツと勉強するタイプではなく追い込まれてから初めて勉学に取り組む学生だったので毎回食事をした後に起こる脳の倦怠感に悩まされました。期末試験が始まる前日、今食事を摂れば眠くなるから明日の試験勉強に集中出来なくなると分かっているにも関わらず食欲に抵抗することが出来ず敗北し、涙ながら食事を摂ったあげく眠くなって寝てしまい次の日のテストで赤点を取るという結果に陥りました。この食事後の倦怠感が起こらなければと何度学生時代の時に思ったことか。しかしこれはよく噛むことで改善できたのです。今このブログを読んでくださっている方で学生のお子さんがいる親御さんは是非食事の際よく噛むことをお子さんに勧めてください。それを行った学生さんは授業中に眠くなることが軽減されるので成績が上がるかもしれないですよ。皆さまによく噛んだ後の体の状態といいますか、食べ終わった後の心地良い満腹感、胃の中に溜まったものがないというこの気持ち良さを味わってもらいたいのです。食事後の倦怠感がなくなれば頭の中が聡明のままなので一日の時間を有効活用して有意義に過ごすことも可能になります。<br><br><br><u style="text-decoration:underline;"><b style="font-weight:bold;">三、食事の量が減り食費が浮く</b></u><br>&nbsp;</p><p>これも相当な利点であるといえるでしょう。不肖は牛丼が好きなので(最近は肉食にも疑問を抱き始めております)お昼にすき家に行くことが多いのですが、よく噛むことの重要性を知る以前には牛丼メガ盛り(八百五十円)を注文して食べていました。しかし最近会得した技術『よく噛む』を意識して食べてみたところ牛丼並盛(四百円)でも十分に満足できるまでに体が変化しました。よく噛むだけで何と一日の食費が今までの半分以下になったのです。これは不肖の中で革命が起こったも同然の出来事であり、すき家の中で一人ガッツポーズをするほど嬉しかったです。<br><br>&nbsp;</p><p>このようによく噛むことの利点を三点紹介したのですがネット(ダックダックゴー)で調べるとまだまだいろんな効果が期待できると書いてありますので気になる方は調べてみてください。</p><p><br><br><b style="font-weight:bold;">「よく噛むことのメリットは分かったけど実際にはどれくらい噛めばいいんだ」</b>と疑問に思う方もいる筈です。</p><p>&nbsp;</p><p><u style="text-decoration:underline;">ここからはよく噛む程度を紹介します。</u>ネットで紹介されている記事の多くは一口当たり三十回噛むと良いと言われます。もちろんそれでも十分なのですが、不肖はそれよりもさらに多く噛んでいます。よく噛むというよりは【最後まで噛む】と言ったほうがしっくりくるかもしれません。最後とは完全な液状になるまで噛むことであり、一切の固定物感がない状態のことを指します。食べ物によっては三十回噛んだとしても固定物が残ってしまうので不肖はそれ以上に毎回よく噛んでいます。普通に言われるようなよく噛むというレベルではなく、完全な流動食状になり食べものの跡や形は残らず膨らんだ自分の唾液だけをずっと噛んでいる状態がいつまでも続く感じです。<span style="color:#7cd300;"><b style="font-weight:bold;">そこまで噛むのです。</b></span></p><p>&nbsp;</p><p>しかしよく噛むことにも欠点があり、この文章をここまで読んでいただいた方は何となくお察しできているのではないでしょうか。そうです、食事の時間が長くなってしまうことです。今まで一食の食事時間が平均して十五分ほどだったのに対し、今では四十五分掛かるときがあります。しかし食後の状態を想像してもらえれば、たとえ十五分という短時間で食事を終わらすことが出来たとして、時間がたつにつれ倦怠感が脳を襲い後の貴重な時間を無駄に過ごすとしたらどうでしょうか。それに比べて多少時間はかかっても食事後も脳が重くならずに自分のやりたい作業に没頭できることのほうが非常にメリットがある選択だと思います。また、現代人の多くは食事を楽しみに日々を生きているという方もいると聞いたのでそのような方にとっては食事時間が増えることはメリットなのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>最後に<b style="font-weight:bold;"><u style="text-decoration:underline;">過去の偉人たちが残した食事に関する言葉</u></b>と<b style="font-weight:bold;"><u style="text-decoration:underline;">聖書の聖句</u></b>を紹介します。</p><p>&nbsp;</p><p>プラトン（古代希臘の哲学者）</p><p>創造主は人間の体に栄養を補給するために植物を創造した。肉食は暴力、不幸につながる。</p><p>&nbsp;</p><p>アインシュタイン（独逸の理論物理学者）</p><p>菜食主義の食生活への進化ほど、人間の健康に利益をもたらし、地球上の生命が生き残るチャンスを増やすものはない。我は肉も魚も取らずに生きている。けれども、この心地よい感覚は何であろうか。こんな感覚に浸るたびに人間は肉食として生まれたのではないような気がするのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>創世記一章二十九～三十節</p><p>「見よ、全地に生える種を持つ草と種を持つ実をつける木をすべてあなたたちに与える。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」</p><p>&nbsp;</p><p>箴言十五章十七節</p><p>肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。</p><p>&nbsp;</p><p>コリント一十章三十一節</p><p>あなた方は食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を現すためにしなさい。</p><p>&nbsp;</p><p><br>今回はこのへんで終わりたいと思います。稚拙な文でところどころ分かりにくい箇所があったと思いますが最後までお読みいただき誠にありがとうございました。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/ams154549/entry-12767036024.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Sep 2022 20:11:50 +0900</pubDate>
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<title>肉食の話</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>こんばんは。<br>今回は肉食に焦点を当てブログを書こうと思います。<br><br>まず最初に下記の聖句を見てください。<br><br>創世記一章二十九〜三十節<br>神は言われた。「見よ、全地に生える種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなた達に与えよう。それがあなた達の食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなどすべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。<br><br>神は命あるものには食物としてすべての青草を与えられ、そんな創世記の時期には人間も含め創造されたすべての生き物が果実や青草を食べていたとこの聖句から想像することができます。なんとこの時点で神は食料として肉を与えられていないのです。ここでふとある疑問が浮かび上がりました。「肉食動物のライオンも昔は草食動物で肉を食らうことがなかったのではないか」と。さっそくネットで調べてみるとユーチューブ上にある一つの動画を見つけました。それは肉を食べないライオン（リトル・タイク）のお話です。</p><p><br><img src="https://qph.cf2.quoracdn.net/main-qimg-76c19283a74ccc8cbf379a0b2f23d551-pjlq"><br>&nbsp;</p><p>動画の内容を説明します。【千九百四十六年にリトル・タイクという雌のライオンが生まれ、タイクはあらゆる種類の動物の周りで育ち、肉を嫌う性質を持っていました。それにより彼女の大好きなゴムでできた玩具を屠殺された牛の骨に取り替えると激しく怒り出したとのこと。タイクの奇妙な振る舞いを心配した飼育員らはどのように肉を彼女の食事に導入するかを思いめぐらし、牛の血をミルクに混ぜて与えてみたり、牛乳と肉入りハンバーガーを差し出しますがどちらも顔を背け食事を退けてしまいまったく肉に興味を示しません。そんなある日、一人の若い訪問客が創世記にある聖書の言葉を知らないのかとタイクを飼育するジョージに語り掛け、創世記一章三十節の聖句を伝えます。その聖句を見たジョージはそれ以降タイクの食事について心配することをやめます。ここから彼女に肉ではなく穀物と牛乳を軸に食事を与えるとタイクは喜んで食べたそうです。他にも彼女には小猫・子羊・小鹿など多くの友達がいたことでも知られていて、中でも雛鳥を口に入れて戯れる光景はイザヤ十一章六節を彷彿とさせ、普段滅多に見れるものではなく現実とは思えない光景に見えたそうです。タイクはその評判から番組依頼も多く殺到し番組の撮影中に肺炎で無くなりますが、彼女の功績は今現在も多くの人に語り告げられているとのことです。】<br>&nbsp;</p><p>このユーチューブ動画を見て思ったのですが肉食動物は本来肉を食べたり、共食いをするように創造されていなかったのだと思います。神が本来意図しておられた秩序とは上記に挙げた聖句のとおりすべての生き物が青草や果物を食べて生きていくものだったのではないでしょうか。またイザヤ六十五章二十五節には「獅子は牛のように藁を食べる」とあります。この聖句は動物たち本来の様子を描いており、後の世には肉食は存在しないのかもしれません。<br>&nbsp;</p><p>次に日本人の肉食事情について取り上げていきます。驚かれる方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、昔の日本人は肉食ではありませんでした。「日本書紀」によると飛鳥時代の天武四年（六百七十五年）に天武天皇が牛・馬・犬・猿・鶏を食べることを禁じる日本最初の肉食禁止令である「肉食禁止令の詔」を発布したと伝えます。その原文の日本語訳が下記の通りです。</p><p>&nbsp;</p><blockquote><p>十七日、諸国に<ruby>詔</ruby>して、<br>「今後、漁業や狩猸に従事する者は、檻や落とし穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。四月一日以後、九月三十日までは、隙間のせまい<ruby>梁</ruby>を設けて魚を獲ってはならぬ（稚魚の保護）。また牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならぬ。それ以外は禁制に触れない。もし禁を犯した場合は処罰がある」と言われた。</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p><p><a href="https://kodainippon.com/2019/08/15/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E3%80%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B7%BB%E3%80%80%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E4%B8%8B/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">引用【日本書紀・日本語訳「第二十九巻 天武天皇 下」</a></p></blockquote><p>&nbsp;</p><p>その後明治四年までの約千二百年間日本では肉食を忌避する文化が続き、そうした中で人々の心の中には「肉＝生き物の死骸であり不浄なもの」という観念が刻み込まれていくことになります。よく昔の日本人は強かったと言われますが、肉を食べない食文化が少からずとも影響していると思われます。明治期までの日本人は今と比べてとてつもない力と体力を持っていた証拠として、当時日本を訪れた独逸帝国医師ベルツが自分の日記に記しています。ベルツはある日東京から日光まで百十キロある道のりを人力車に乗って移動したのですが、その間ベルツを乗せた車夫は交代なしに車を引き続け十四時間余りで目的地までついてしまったとのこと。この車夫の体力はいったいどこから来るのだろうかと疑問に思い、ベルツは車夫に食事について質問すると「玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵」との返答が返ってきます。また平素の食事も米・麦・栗・じゃがいもと低タンパク低脂肪食でありその中に肉は入っていませんでした。そこでベルツは独逸の進んだ栄養学を適用すれば今よりも倍の力が出せるだろうと考え次のような実験を試みます。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">二人の車夫を雇い一人に従来通りのおにぎりの食事、もう一方には肉の食事を摂らせて毎日八十キログラムの荷物を積み、四十キロの道のりを走らせるというものです。</b></p><p>実験の結果、肉料理を与えられた人はすぐに体力が尽きて三日で走れなくなり、「もとの食事に戻してくれ」とベルツに懇願する程でした。その一方普段の食事を摂った者はそのまま三週間も走り続けることができました。この実験からも昔の日本人は現代人よりも強くたくましかったと分かります。そしてダニエル書にはこれと関連するような興味深いことが書かれています。<br><br>ダニエル書一章八節<br>ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心する。<br><br>上記の聖句からダニエルは肉を食べることで自分の身体が汚れると思っていたようで、これは昔の日本人にあった「肉食＝悪しきもの」とする考え方と一致します。また十日間野菜と水を摂ったダニエルは宮廷の食べ物を受けている他の少年たちよりも顔色と健康が良かった（ダニエル一章十五節）ともあり、健康の秘密は肉を食べないことにあるのかもしれません。またベルツの日記とダニエル書から分かる共通点としてどちらも粗食であるということです。現代の日本は飽食の時代と呼ばれ多くの人が、その日その時に食べたいものを自由に選んで食べられますがそれが現代日本を堕落させている一つの原因でもあるのではないでしょうか。食事に関する聖書の聖句を見てみます。</p><p>&nbsp;</p><p>箴言二十三章二節</p><p>あなたが食欲旺盛な人間なら自分の喉に短刀をあてよ。</p><p>&nbsp;</p><p>箴言二十三章二十～二十一節</p><div><table id="MainContent_mainTable"><tbody><tr><td>酒にふけり、肉をたしなむ者と交わってはならない。酒にふける者と肉をたしなむ者とは貧しくなる。<br><br>詩編百十九編七十節<br>彼らの心は肥え太って脂肪のようです。しかし我はあなたの掟を喜びます。<br><br>また、古代イスラエル人は肉を食べたいと泣き言を言い最終的にはその貪欲ゆえに主によって滅ぼされたことからも（民数記十一章四～三十三節）大食いはやめるべきです。</td></tr><tr><td><p>&nbsp;</p><p>ここまでずっと肉食に焦点を当てて書いてきて肉食の悪い部分しか取り上げませんでしたが、マルコ七章十九節で主イエスは「すべて外から人の体に入るものは人を汚すことが出来ない。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り外に出され、こうしてすべての食べ物は清められる。」と発言していますので決して肉食が悪いことではないと心にとめておいてください。ただ上記に書いたように暴食になることがないように自分の食欲を自制することが大切です。また最終的に人間はパンだけで生きるものではなく、主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる（申命記八章三節、マタイ四章四節、ルカ四章四節）ことを忘れてはならないことを胸に刻み込まなくてはなりません。</p><p>&nbsp;</p><p>今回はこのへんで終わりにしたいと思います。最後までお読みいただき誠にありがとうございました。</p></td></tr><tr><td>&nbsp;</td></tr></tbody></table></div>
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<pubDate>Fri, 26 Aug 2022 23:54:12 +0900</pubDate>
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<title>兄弟の集いの場に参加するまでの過程とその勧め</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p><mark style="background-color:#ffffff;color:inherit;">こんばんは。</mark><br><u>今回は兄弟の集いの場に参加するまでの過程について書いていければと思います。<br>稚拙な文章ですが、少しでもこの記事を通して集いの場に興味をもっていただきたいのと、併せて門を叩く手助けになれば幸いです。</u></p><p>&nbsp;</p><p>この記事を読んでいる皆さまの中には、聖書を手に取って読み、その内容を深く知りたいとネット検索をしてミカエルさんに出会ったという人や、ニューエイジ思想の欺瞞やコロナ問題から抜け出し、この世の真相をある程度理解した上で心理の探求を進めていくうちにミカエルさんの記事に巡り合ったという方がいるのではないでしょうか。そしてミカエルさんの記事を読んで主イエスの真理を悟り、神の律法遵守と安息日の重要性を理解して行動に移そうと努力している方は少なからず存在していると思います。例えば、(金曜日の日没から土曜日の日没までの安息日を守るためにゲームや世俗の趣味に時間を費やすことをやめて聖書を読むようになった)などです。不肖も、ミカエルさんの記事を初めて読んだ時以来、記事で学んだ律法を守るため、普段の生活で体現していこうと努力し、少しずつではありますが安息日であったり、普段の衣装を和服に変えたり髭を生やすなどの外見上の身なりの部分から心の思考まで変化させてきました。しかし、律法を完全に遵守するためには主イエスが新たに授けてくださった掟である<b>兄弟同士で愛し合いなさい(ヨハネ十三章三十四節)</b>と言う律法が守れないと思い、その時決心して集いの場の門を叩かせていただきました。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで注意したいところが律法を守る前提としてその動機が永遠の命に入るためであったり、地獄に落ちて苦しみたくないから等の利益信仰や本当は嫌だけど仕方なく守るという義務信仰も良くないことです。このことも、<b>【真の聖書福音と預言】</b>過去記事「<a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12396572763.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">神の御心を行う</a>」で戒められております。一部引用させていただきます。</p><p>&nbsp;</p><blockquote><p><u>真のクリスチャンは、誰からも強制されずに言われなくても、自分から進んで喜んで行い、逐一周りに報告して自慢しないはずです。何もしていないと偽り者だから何かしないといけないと思って、心の中では嫌々だったり、義務感を感じて無理に善い行いをしたり、周囲の人から善い人だと思われたくてこれ見よがしにするのは偽善者です。</u></p><p>&nbsp;</p><p><u>引用<a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12396572763.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">【真の聖書福音と預言（神の御心を行う）】</a></u></p></blockquote><p>&nbsp;</p><p>残念なことに不肖は集いの場に参加した当初、このような気持ちが心の奥底に住み着いており、兄弟同士で日々信仰を高めあったり、励まし合うために会話するのではなく、律法を守りたいがために会話するというような律法主義に陥っていました。これは主イエスが言われた<b>放蕩息子の例え</b>(ルカによる福音書　十五章十一～三十二節)の中に登場する<b>兄</b>のような心の状態で、所謂利益信仰でありファリサイ派の人々と何ら代わりありませんでした。それを集いの場にてミカエルさんにご指摘を頂き不肖は自分の過ちに気づきました。恥ずかしながら利益信仰はいけないことだと上記提示した「<a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12396572763.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">神の御心を行う</a>」(真の聖書福音と預言)の記事を読み、理解していたつもりでいましたが何も学べていなかったのです。集いの場にて、たとえ参加したとしても自分を取り繕って見かけ以上のことをしようとしたり、少しでもミカエルさんや兄弟達から認められたいと思い虚栄心を働かせ自分をひとかどの人物と思わせようとする動機が悪で根本から間違っていることを学ばせていただきました。</p><p>&nbsp;</p><p>旧約聖書　サムエル記上　十六章七節　</p><p>人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。</p><p>&nbsp;</p><p>上記の聖句より人の心の中の思いを見通す神にも義とされません。</p><p>&nbsp;</p><p>このことはパウロが十二使徒に憧れて自分も同じように使徒となって大勢の人から認められたいと思うことと、似通っている部分があると思います。ここでも真の聖書福音と預言から「<a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12705718578.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">偽使徒パウロの反キリスト教義 二</a>」より一文を抜粋してご紹介いたします。</p><blockquote><p>&nbsp;</p><p><u>パウロ自身は僭越にも「事実、我があの使徒たちよりも大きく劣るのは何も無いと思う。」（コリント二 十一章五節拙訳）と言い、同書十二章十一節でも繰り返し述べて自己評価を高くしており、同じ手紙で二度も自分自身を十二使徒と肩を並べることを言う高慢さが見える。まったく謙虚やない。パウロは大いに高ぶっており、これでは主イエスの「但し、自分を高めようとする者は低くされ、自分を低くする者は高められるだろう。」（マタイ二十三章十二節拙訳）の教えを守ってるとは到底言えへん。</u></p><p>&nbsp;</p><p>引用<a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12705718578.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">【真の聖書福音と預言（偽使徒パウロの反キリスト教義 二）】</a></p></blockquote><p>&nbsp;</p><p>今もそのようなの邪な心や高慢さが現れようとするので素直に自分の罪を認めて清い心をつくり、正しい霊が与えられ、不義を悉く拭い去ってくださるように主イエス・キリストに祈ることは欠かせません。祈りの聖句を引用します。</p><p>&nbsp;</p><p>ヨブ記　二十二章二十七節　</p><p>あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。</p><p>&nbsp;</p><p>詩編　五十章十五節</p><p>悩みの日に我を呼べ、我はあなたを助け、あなたは我を崇める。</p><p>&nbsp;</p><p>詩編　六十六章二十節</p><p>神をたたえよ。神は我の祈りを退けることなく慈しみを拒まれません。</p><p>&nbsp;</p><p>箴言　十五章八節</p><p>正しい者の祈りは彼に喜ばれる。</p><p>&nbsp;</p><p>マタイによる福音書　二十一章二十二節</p><p>また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられる。</p><p>&nbsp;</p><p>ヤコブの手紙　五章十三節</p><p>あなた方の中に、苦しんでいる者があるか。その人は祈るがよい。</p><p>&nbsp;</p><p>ヨハネの手紙一　五章十四節</p><p>すなわち、我が何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さる。</p><p>&nbsp;</p><p>ヤコブの手紙　五章十六節～十七節</p><p>だから、互いに罪を告白し合い、また癒されるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、我等と同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈りをささげたところ、三年六か月の間、地上に雨が降らなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>祈りによる効果は絶大です。使徒言行録十二章一から十六節に使徒ペトロを殺傷するためにヘロデ王が牢屋に監禁しましたが、ヘロデが策略する計画は遂行できませんでした。その理由として五節に<b>「教会では彼(ペトロ)のために熱心な祈りが神にささげられていた」</b>とありその祈りが神の御前に届き、神が御使いをペトロのもとに遣わされペトロは救われました。この箇所から祈りには絶大な力があると分かり、どんなに大きな権力があったとしても創造主である神には逆らえないことがはっきり分かります。パウロ書簡の一つ、エフェソの信徒への手紙六章十八節に「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目を覚ましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りなさい」とあることからもキリスト者として常に祈ることは重要なのですが、祈り求める時にも上記に上げた悪い動機で祈ることは禁物です（ヤコブ四章三節）。</p><p>&nbsp;</p><p>話を戻します。不肖自身集いの場に直ぐに参加したのかと言われればそうではございません。聖書を手にとってから、一年半の時を費やし初めて門を叩かせていただきました。ではなぜ、これほどまでに多くの時間を浪費してから門を叩いたのかといいますと、原因は大きく分けて二つございます。一つ目の原因が聖書一回目の通読を後回しにし、その他世俗的なことに時間を費やしていたこと。二つ目の原因として集いの場に参加したいけれども今の自分がまだそこまで成長できていないと判断していたからです。まず<a href="https://ameblo.jp/ams154549/entry-12745202329.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">前回記事</a>の過程で聖書を手に取ったものの読み進めるための努力が著しく欠如しておりました。創世記や出エジプト記までは物語形式で書かれているので、楽しく聖書を読み進めることができたのですが、レビ記あたりまで読み進めていくと内容が物語形式から罪の規定、人口調査や務めの内容にかわるので読む気力が失われて一時期停滞してしまいました。焼き尽くす捧げ物の話や、穀物の捧げ物など初めて読んだときの感想として、「堅苦しくて聖句に書かれている内容も上手く頭で想像できないからこれは読むのに時間がかかりそう」でした。二回目の聖書の通読を終わらせた不肖の感想としてこのときの自分に何か言えるとしたら、「レビ記や民数記などのモーセ五書には罪についての規定が事細かく書かれているからもっと真剣になって読んでくれ」とこのように声をかけると思います。しかし、これは聖書を通読して内容を大まかではございますが一通り理解しているから言えることなので読み始めたころの自分に勧告しても伝わらないのかもしれません。ですが聖書の中でも序盤に記載されていることから、レビ記や民数記といった書は極めて重要で決して読み飛ばしてはならないのです。もちろん最初に記載されていないからといって他を蔑ろにしてもいいなんてことではありません。さて、そんな停滞期でも学べたことはございます。それは聖書を読むにしてもただ単に字面を追っているだけでは何も頭に入らず、読んでいて苦しいということ。学校での国語の授業で物語や小説などを読みましたが、やはり楽しい内容のものは直ぐに頭に入ってきて、その時のテストの点数も高い傾向にあり、逆に複雑で頭の中で想像するのが難しい評論文の場合は飽きがきて、その内容を理解しようと努める努力を怠りその結果テストの点数も低かった印象があります。今回の事象に当てはめてみると、創世記と出エジプト記まではアダムとエヴァの誕生からモーセを筆頭にイスラエルの民をエジプトから救出する内容なので比較的その当時の場面が想像しやすく、スラスラ読み進めることができたのですがレビ記に突入したあたりからは、国語の授業で言う竹取物語のように古文を現代語訳で訳してからでないと、内容や意味が理解しづらいのと似たような印象を持ちました。しかし、古文も単語や文法が理解できるようになればその内容を想像して読めるのと同じで聖書も古文と同じようにまずはその言葉の意味だったり特性を理解して頭のなかでその現象や物が上手く想像できるようになることが聖書理解の基礎なのだと思います。<u>それと、一回目の通読時点では時間をかけるべきではなく早めに通読を終わらせて全体像を把握することが重要です。</u>不肖は一回目の通読の時点で内容を事細かく理解しようとしたために読むスピードが格段に遅くなり、その結果通読するのに時間が大幅にかかってしまいました。上記にも書いてある通り一度で内容を理解しようと思わずにまずは聖書全体像を把握して、ある程度知識がついてから再び読むことにより聖句内でわからない部分を別の箇所と照らし合わせることもできますし、ミカエルさんの記事の解説をより正しく解釈することが可能になるのだと思います。その他にも聖書を読むことを妨げようとする自分の中の自我が沢山あり、聖書を開くと毎度のようにその欲が襲ってきます。例えば、ゲームをしたいだったり、ユーチューブ動画をみたい等です。このような欲を自制して聖書を読む時間を作ることも不肖にとって大変な苦行でした。</p><p>&nbsp;</p><p>以上のような理由で通読時間が多くかかってしまいました。それでも、一回目の聖書を通読できたときの達成感は大いにありました。今まで生きてきた人生で聖書ほどに内容の密度が濃く、情報量が多い書物を味わったことがなかったので感動したのを覚えています。その一方で聖書を通読したはいいものの自分の不信仰故にまだまだ集いの場に参加する資格がないだろうと思い、もう少し自分で納得が行く水準にまで成長したら門を叩こうと言い訳して集いの場を避け、自分独りよがりの信仰に甘んじていました。そのほうが格段に楽で、思い煩いも少なくて済むと思っていたのです。ですがそんなある日のこと、心の奥底で「このままで本当にいいのか」と疑問が湧いてきました。自分一人で信仰を続けることはほぼ不可能に近く例え間違った思考や解釈をしていたとしてもそれを指摘してくれる人もいないので自己陶酔し、高慢に陥り道を踏み外す可能性も否めませんでした。そしてようやく決心がつき、集いの場に参加するため個別宛メッセージをミカエルさんに送信しました。このような経緯で不肖は集いの場の参加に至りました。集い場にきてからも、自分が想像してた以上に大変でいかに今まで自分の信仰が怠惰で不足していたのかも痛感しました。ここでは書ききれませんが他にも集いの場で学んだことは沢山あります。</p><p><br>もしかしたら、皆さまが集いの場の門を叩く勇気が得られない理由として、ミカエルさんの厳しい説教を過去記事のコメント等でみて、自分がもしこのような愚かな質問をしてミカエルさんに怒られたらどうしようなどの思いを抱き、兄弟の集いの場に参加したくてもメッセージを送ってもし怒られたらどうしようと臆病な気持ちがあり、メッセージを送るまでに至っていない方がいるのではないでしょうか。不肖もつい二ヶ月前まではそうでした。もしこの記事を読んでいる方で過去の不肖と同じように集いの場の門を叩く勇気がでない方がいらっしゃいましたらそれは非常にもったいないことです。集いの場でのミカエルさんの言葉を引用します。「現代人の多くが叱責されることを嫌うてる。これは傲慢不遜である証拠や。自分が正しいと思い込んでる証拠でもある。叱責や注意を受けてるうちが華やで。」また、聖書の聖句を引用すると<b>「愚か者は知恵と矯正を酷く嫌う」（箴言一章七節　ミカエルさん訳）「不遜な者は懲らしめられることを嫌い知恵ある人のもとに行こうとしない」（箴言十五章十二節）</b>とかかれております。不肖も含め現代人の多くが叱責されることを過剰に避けたり、敏感に反応して逆ギレをおこしたりする人が頻繁にみられますがこれも高慢なのだと気づきました。いつまでたっても怒られることを避けていたら、もし自分が間違っていたとしてもそれを指摘してくれる人がいないので罪を犯し続けることになり、その人自身のためにもならないのです。叱責されるからこそ、自分の誤っている点を見つめ直し悔い改めることができますし、何よりも客観的に見た自分を知ることができます。客観的に見た自分の姿を教えてもらうことで、今まで気付かなかった自分自身について意識する機会も増え、視野を増やすことにも繋がるのではないでしょうか。自分の高慢さを取り除くためにも集いの場に参加することは非常に重要だと思います。そこでは様々な貴重な体験であったり、助言をいただけ、自分の誤っている思考や考えを客観的に指摘してくださるのでどこが間違っていたのだろうかと自分を見つめ直す機会が圧倒的に増えます。なので、自分勝手思考が改善されると思います。参加しなければいつまでも傍観者のままで一向に成長できません。<br><br>そして最後に、最初にも取り上げましたが再度注意していただきたいことがございます。集いの場に参加すると言っても掟だから交流しないといけないと思い義務感で入ることはお勧めしません。そのような動機で参加したとしても、後々辛くなり、脱落する羽目になると思います。兄弟と交流しないといけないではなく自然と交流したいと思う動機も非常に大切です。それと、世の教会と同じように楽しく交流するために集いの場に来ることもお勧めしません。主イエスは<b>「お互いに愛しなさい」</b>（ヨハネ十三章三十四節、十五章十七節）とご命令され、<b>「楽しく交流しなさい」</b>とは一言もおっしゃいませんでした。<span style="color:#69b300;"><u><b>最も重要な掟は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛する」</b></u></span>（マタイ二十二章三十七節、マルコ十二章三十節、ルカ十章二十七節、申命記六章五節）ことなので<u>、集いの場に参加する目的が「楽しむ」であってはならない</u>のです。これも集いの場にてミカエルさんから教わった内容です。また集いの場だけで留まらずその先の教会を目指す者でなければならないことも肝に命じておいてください。</p><p>&nbsp;</p><p>以上になりますが、集いの場で成長できる点は数多くあるので是非決心がつき、全てを捨てる覚悟ができた方は集いの場の門を叩いてみてください。以下に集いの場の手続きの詳細を載せて置きますのでそちらをよく熟読してください。</p><p><a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12439524604.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">「兄弟の集いの場」に関する告知</a>・<a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12584132076.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">兄弟の集いの場に関する告知 再掲</a></p><p>&nbsp;</p><p>行動しなければ何も始まりませんし、変化もないので大損です。</p><p>不肖もそうですが行いが伴う信仰が日々全うできますように。最後までお読みいただきありがとうございました。</p>
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<link>https://ameblo.jp/ams154549/entry-12753624505.html</link>
<pubDate>Sat, 16 Jul 2022 00:08:59 +0900</pubDate>
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<title>聖書を手に入れるまでの過程</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>皆様、始めまして、こんにちは。稲と申します。</p><p>&nbsp;</p><p>今回不肖が聖書を手に取るに至るまでの過程を書いていこうと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>過去に遡り、太陽暦二千二十年一月のある夜、不肖は録画していた某都市伝説番組を見ていました。その時の内容は、人間と宇宙人の子である「<span style="color:#404040;">ヒューメイリアン</span>」なるものが存在しており、人類は宇宙人が創造したという衝撃的な内容だったと思います。その番組内で某タレントさんが「過去に多くの人間から称賛されたり、偉人と呼ばれるような人物は宇宙人と人間のハイブリッドである可能性が高い」と発言しており、当時の不肖には脳内に激震が走ったのを覚えています。番組を見終わると同時にヒューメイリアンや宇宙人について沢山ネット検索して調べました。宇宙人関連でツイッターで調べているとスクロールして止まった画面に「<span style="color:#404040;">スピリチュアル</span>」という文字がありそれが不肖の目に留まりました。スピリチュアルという言葉言葉自体初めて聞いたものだったので興味があり検索していくと、この世は物質世界と目に見えない霊的世界が存在することを学びます。そこから精神世界とニューエイジ思想に引き込まれていき、独学で勉強を始め、瞑想、宇宙語、チャネリングを行い益々その世界にのめり込んでしまいます。その道を進むにつれ今まで起こらなかった現象が不肖の周りに起こります。例えば、空を眺めると雲の形がすべて龍雲なのです。有ろうことか自分が移動するとその場所の雲が龍雲へと変化するのです。雲の色は白、灰、稀に赤でした。今思えば霊的存在（悪霊）が雲を操っていたとしか考えられません。他にも車に乗っていると耳鳴りが発生し、隣から見知らぬものに囁かれているような体験もしました。その当時、チャネリングを行っており、ハイヤーセルフと繋がることが目標だったので、奇妙な現象が起きても自分が高い次元に進んで成長出来ているんだという恐ろしい勘違いの上このまま上手くいけば自分は神になれるとまで思い込んでいました。不肖は小さな頃から宇宙や人類起源に興味関心があり、この世の真理を突き止めたいと思うことがしばしばあったので、ようやくその一歩をニューエイジ思想を通じて踏み出せると心が躍っていたのだと思います。その当時、不肖の様子は思い出すだけで恐ろしく、寝る時にも一人でぶつぶつと呟いたり明らかに悪霊に取りつかれている様だったと実感しています。そんなある日のこと、ユーチューブ上で大地平面説を扱った動画に出会います。大地は平面であり、ドームで囲まれていて、宇宙など存在しないという内容でした。この動画を視聴した不肖は、今まで信じてきた宇宙論や宇宙人は一切存在せず、スピリチュアルの世界とは真逆だったので脳天を撃ち抜かれたかのような衝撃でした。そこから大地平面説を調べれば調べるほど真実性が高まります。NASAのロゴにある赤い二本線の正体は蛇の舌であることや、NASA（米国航空宇宙局）は、ヘブライ語で嘘、騙すという意味があることも学び、極めつけは国際宇宙ステーションの映像がスタジオで撮影されたものであるという動画を見つけ大地平面説は真実なのだとこの時確信したのを覚えています。次第にニューエイジ思想への関心は全く無くなり逆に忌み嫌うようになります。不肖の中で今までの価値観が一変し真逆に向かったのだと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>大地平面説が不肖にとってこの世の現実を知る入口材料となり、そこから枝分かれしていき、世の支配層のこと、新世界秩序（NWO）、食べ物の危険性、ケムトレイル、ワクチソの有害性を独自に学びました。それから半年たった頃、世の権力者について知識を深めようと思い検索したところ<span style="color:#404040;"><b style="font-weight:bold;">ミカエルさんの記事「</b></span><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;"><a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12634742441.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">支配層に取り込まれるな</a></span><span style="color:#404040;">」</span></b>がでてきて初めてミカエルさんに出会います。記事内容に一通り目を通し、聖書と主イエス・キリストの重要性に気づき、衝動的に聖書をいち早く手にしなければならないと心の中で感じたので、その翌日には本屋に聖書（口語訳）を買いに行きました。不肖は幸いなことに聖書を手に入れるきっかけとなったのがミカエルさんの記事なので世の諸教会だったり、プロテスタント、カトリック、ユーチューブ上に投稿されている牧師の解説動画とは無縁であり、聖書知識がまっさらな状態からミカエルさんの記事を読んだので、記事内容を嫌悪することなく、周りの人より抵抗なく受け入れることが出来たのだと思います。このような経緯で主イエス・キリストまたミカエルさんに出会い聖書を手にすることが出来ました。</p><p>&nbsp;</p><p>二か月間あれだけニューエイジ思想にどっぷりと浸かっていたにもかかわらず、大地平面説の動画を偶然見つけ、その内容を否定せずに素直に受け取ることができ、最終的に聖書へと導かれたのは主イエスのお導きと考えずしてほかに何がありましょうか。</p><p>イスラエルの神、<b style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">主は全知全能の神</span></b>であり、人間のように滅びることも朽ちることもありません。被造物である人間が創造主である神になれるなどと畏れ知らずの思いを抱くこと、つまりニューエイジ思想を信仰することがどれほど危険なことであるのかが聖書を手にしてもらいその内容を確かめれば理解できると思います。今回取り上げたニューエイジ思想の欺瞞をもっと詳しく知りたい方はこちら<b style="font-weight:bold;">「<a href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12269208946.html" rel="noopener noreferrer" target="_blank">巧みな欺瞞と真理</a>」</b>をお読みください。それと聖書を創世記から黙示録まで通読するのと並行して、<b style="font-weight:bold;">ミカエルさんのブログ記事「真の聖書福音と預言」を一番最初から読み進めることを強く勧告致します。</b></p><p>&nbsp;</p><div class="ogpCard_root"><article class="ogpCard_wrap" contenteditable="false" style="display:inline-block;max-width:100%"><a class="ogpCard_link" data-ogp-card-log="" href="https://ameblo.jp/leo085/entry-12246624146.html" rel="noopener noreferrer" style="display:flex;justify-content:space-between;overflow:hidden;box-sizing:border-box;width:620px;max-width:100%;height:120px;border:1px solid #e2e2e2;border-radius:4px;background-color:#fff;text-decoration:none" target="_blank"><span class="ogpCard_content" style="display:flex;flex-direction:column;overflow:hidden;width:100%;padding:16px"><span class="ogpCard_title" style="-webkit-box-orient:vertical;display:-webkit-box;-webkit-line-clamp:2;max-height:48px;line-height:1.4;font-size:16px;color:#333;text-align:left;font-weight:bold;overflow:hidden">『目を覚ませ』</span><span class="ogpCard_description" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;line-height:1.6;margin-top:4px;color:#757575;text-align:left;font-size:12px">こんにちは。&nbsp;普段、あんた方が気にも留めてへんことについて、非常に重要なことを書きます。拙者もこの社会に疑問を持ち、最近になって暴かれた事実を沢山見つけ、確信…</span><span class="ogpCard_url" style="display:flex;align-items:center;margin-top:auto"><span class="ogpCard_iconWrap" style="position:relative;width:20px;height:20px;flex-shrink:0"><img alt="リンク" class="ogpCard_icon" height="20" loading="lazy" src="https://c.stat100.ameba.jp/ameblo/symbols/v3.20.0/svg/gray/editor_link.svg" style="position:absolute;top:0;bottom:0;right:0;left:0;height:100%;max-height:100%" width="20"></span><span class="ogpCard_urlText" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;color:#757575;font-size:12px;text-align:left">ameblo.jp</span></span></span><span class="ogpCard_imageWrap" style="position:relative;width:120px;height:120px;flex-shrink:0"><img alt="" class="ogpCard_image" data-ogp-card-image="" height="120" loading="lazy" src="https://stat.profile.ameba.jp/profile_images/20180803/19/9f/tE/p/o03240530p_1533293665671_qfzq3.png" style="position:absolute;top:50%;left:50%;object-fit:cover;min-height:100%;min-width:100%;transform:translate(-50%,-50%)" width="120"></span></a></article></div><p>&nbsp;</p><p>真理に至る道は聖書と主イエス・キリストであり、それ以外は偽物です。根拠は聖書の聖句にあります。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">新約聖書　ヨハネによる福音書　十四章六節</b></p><p><b style="font-weight:bold;">「我は道であり、真理であり、命である。我によってでなければ、誰も父の御許に行くことはない。」（ミカエルさん訳）</b></p><p>&nbsp;</p><p>不肖ももちろんのこと、どうか一人でも多くの人が真理を見出し、聖書と主イエス・キリストへとたどり着き、行いが伴う信仰ができますように。</p><p>&nbsp;</p><p>以上</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><div class="ogpCard_root">&nbsp;</div><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/ams154549/entry-12745202329.html</link>
<pubDate>Sat, 28 May 2022 16:32:06 +0900</pubDate>
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