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<title>ca dépend des jours～子どもとファッション、エトセトラ</title>
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<description>毎日の素敵な一瞬を忘れないための忘備録に。子ども、ファッション、色、音楽、、仕事、Paris。ゆるーい感じで爽やかに朗らかに生きる！ca dépend des jours!</description>
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<title>今日のスタイル～le style d'aujourd'hui</title>
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<![CDATA[ <br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130903/12/amyfab-m/71/d4/j/o0480064012671319046.jpg"><img border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130903/12/amyfab-m/71/d4/j/t02200293_0480064012671319046.jpg" alt="マルコムラボのエッセイ&amp;amp;レポート～ca dépend des jours-紺に茶は好きな組み合わせの一つ"></a><br><br>“まだまだ暑い！”は9月の常套句だけど、今年は本当に暑い！！<br>記録的な猛暑、はまだまだ続きそうです。<br><br>長男も学校が再開しました。<br>今日は昼頃少し出かけてデジタル環境の変更をし、その後長男を迎えに行ってお稽古事に連れて行くという、ゆったりしたスケジュールです。なので、服装もカジュアルにTシャツに麻のスカート。<br>暑いし、大好きな麻はまだまだ着たい！<br><br>Tシャツはあまり着ないけれど、遊びのあるデザインで胸の開きもいい感じなこのTシャツはお気に入りです。紺の中に茶が入っているのも、マチュアな感じで好き。<br>
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<pubDate>Mon, 02 Sep 2013 12:01:01 +0900</pubDate>
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<title>お誕生日パーティー</title>
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<![CDATA[ <br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130903/14/amyfab-m/aa/4d/j/o0640048012671380254.jpg"><img border="0" alt="マルコムラボのエッセイ&amp;amp;レポート～ca dépend des jours" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130903/14/amyfab-m/aa/4d/j/t02200165_0640048012671380254.jpg"></a><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130903/13/amyfab-m/73/3d/j/o0480064012671370762.jpg"><img border="0" alt="マルコムラボのエッセイ&amp;amp;レポート～ca dépend des jours" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130903/13/amyfab-m/73/3d/j/t02200293_0480064012671370762.jpg"></a><br><br>娘のお友だちのクレアちゃん3歳のお誕生日パーティーに家族みんなで行ってきました。<br>いいお天気だけど暑い！！この日は9月だというのに36度もあったそう。<br>歩けば10分以内の距離なのに、家を出て数分で汗だくになってしまいました。<br><br>クレアちゃんのパパはフランス人、ママは日本人の美男美女カップルです。<br>そしてもうすぐ弟クンが誕生…楽しみですね！！<br>この日は集まった子どもたちもたくさんいて、賑やかなパーティーでした。<br>国籍はいろいろ…でも、子どもたちの会話は日本語！<br>日本人の子はもちろん、パパママが外国の子たちも『僕は日本人だ!』と、日本語しか話したくないようでした！<br>日本で生活しているというプライドのようなものが、子どもたちにもしっかりあるんですね。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130903/14/amyfab-m/74/ea/j/o0320024012671394898.jpg"><img width="204" height="152" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130903/14/amyfab-m/74/ea/j/t02200165_0320024012671394898.jpg" alt="マルコムラボのエッセイ&amp;amp;レポート～ca dépend des jours"></a>   <a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130903/14/amyfab-m/6e/e3/j/o0320024012671397502.jpg"><img width="206" height="154" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130903/14/amyfab-m/6e/e3/j/t02200165_0320024012671397502.jpg" alt="マルコムラボのエッセイ&amp;amp;レポート～ca dépend des jours"></a><br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 01 Sep 2013 21:50:48 +0900</pubDate>
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<title>ママはいつも</title>
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<![CDATA[ アイフォンをなくした。携帯電話をなくしたのは初めてである。<br>落とした、またはとられた場所はわかっている。いずれにしても自分の不注意なのだが、喪失感がハンパではない。本気で涙が出た。２歳の娘が生まれて以降の写真、数千枚分はある。いくらかはパソコンに保存していたとしてもこの１年分くらいはパァだろう。<br>ポケットに手を入れたりコンセントを見たりするたびに『無い』という実感に押しつぶされそうになるので、割り切って新しい機種を購入した。幸いアドレス帳は残っていた。写真は…やはりゼロであった。パソコンにはどこまでが残っていてどこから消えているのか、怖くて確認できない。<br>「あーあ、思い出がみんななくなっちゃった」タメ息をつくと、すかさず６歳の息子が「ママ、ぜんぶなくなっても新しい思い出またいっぱいつくればいいよ！　泣かないで」と言って慰めてくれた。娘もまねて「ママ、泣かないで」とわたしにひっついてくる。ゴメンね、ケイタとカレンの写真きえちゃった…。<br>新しいのを購入しても、ついタメ息ばかりでメソメソしていたら、息子がママに手紙を書いた、と持ってきた。<br>『ママへ　あいふぉんなくしてもわらっていてね。いつもだよ。それがわかったらいっしょにちょきんしようね。そしたらゆうえんちにいこうね。それからいつまでもわらっていっしょにたのしくすごそうね。だいすきだよ』<br>胸がジリリ…と熱くなって、別の涙が出てきてしまった。くすん、ゴメンね、ありがとうケイタ。<br>いつもわらっていてね、というのは子どもの一番のホンネなんだろうな、と思う。<br>子どもは親の怒る顔はキライだろうが、落ち込んだり泣いたりする姿も同様に見たくないものなのだ。わかっているのに、どうしようもないことも、ある…今日みたいに。そしていつも子どもたちに慰めてもらっている。情けない母だ。<br>リビングではしゃぐ子どもたちの写真を何枚か撮って、待ち受け画面に変えた。電源を入れたときに表れる二人の子どもに、ようやく少し、気持ちが落ち着いた。<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130809/14/amyfab-m/70/35/j/o0800099012640483226.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130809/14/amyfab-m/70/35/j/t02200272_0800099012640483226.jpg" alt="マルコムラボのデイリーレポート～ca dépend des jours-いつも笑顔で…" border="0"></a><br>
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<pubDate>Fri, 09 Aug 2013 14:22:10 +0900</pubDate>
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<title>カラー1～色への関心</title>
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<![CDATA[ <font size="2">大人気のインテリアストアIさん。<br>大型店舗で店名を伏せるまでもないが、<br>あいかわらず週末ともなると店内は家族連れやカップルで大変な混雑ぶりである。<br>驚きの低価格があってこそだけど、<br>25㎡一人暮らし、とか85㎡２LDK、といったショールーム的な見せ方が、<br>来店者の心理をうまい具合に刺激する。<br>「同じくらいの限られたスペースで安い家具なのにオシャレなのはなぜ！」<br>「うちの部屋もインテリア、こんな風にしてみようかな…」と<br>レジ手前の小物類を通る頃にはすっかりインテリア意欲が高まっている。<br>内向き志向と節約傾向の波にも乗って、日本のインテリア業界に新風を吹き込んだのは間違いない。<br><br><br>しかしホントウになぜ、超が付く低価格でありながら、<br>第一印象が「オシャレ」と感じるのはなぜか。<br>デザイン、配置、いろいろあるけど、一番の違いは「色」であるとわたしは思う。<br>見た瞬間の印象が、赤だったり青だったり緑だったりピンクや水色だったり<br>とにかくとても“カラーらしい”カラーなのだ。<br>カラーがあると、楽しさや動きを感じさせ、部屋に臨場感が出てくる。<br>日本は、もともとは自然の色、季節の色を尊重し、暮らしの中にも取り入れてきたはずだと思うのだが<br>最近はマンション、壁白、収納流行りのせいか、この“色への意識”が低くなってきたのではないか。<br>パッと見でお洒落とか素敵と感じる一番わかりやすい要素は色である。<br>インテリアストアIの人気の理由について考えたことも、<br>わたしが色そのものへの関心を持って調べるようになったきっかけのひとつだ。<br><br>次号へ続く…<br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20111124/16/amyfab-m/74/46/j/o0478064011631099704.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111124/16/amyfab-m/74/46/j/t02200295_0478064011631099704.jpg" alt="$マルコムラボのデイリーレポート～ca depend des jours" border="0"></a><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20111124/16/amyfab-m/5f/f2/j/o0640047811631096841.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111124/16/amyfab-m/5f/f2/j/t02200164_0640047811631096841.jpg" alt="マルコムラボのデイリーレポート～ca depend des jours" border="0"></a><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20111124/17/amyfab-m/29/19/j/o0478064011631122167.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111124/17/amyfab-m/29/19/j/t02200295_0478064011631122167.jpg" alt="マルコムラボのデイリーレポート～ca depend des jours" border="0"></a><br></font>
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<pubDate>Thu, 24 Nov 2011 16:38:55 +0900</pubDate>
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<title>ブランド</title>
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<![CDATA[ <font size="2">日本人はブランドが好き、とは昔からよく言われている。<br>たしかに、、、街を歩けば、ハイブランドのバッグを持つ人の多いこと！<br>バッグの次にわかりやすいのは車だろうけど、<br>都心では特に、本当に高級外車が多い。<br><br>ブランドを持つ理由はいろいろあったりなかったりするんだろうけど、<br>ひとつは「そのブランドを持っている」ということを周りに認識されることである。<br>だから誰もが一目でそれとわかる、記号ともなっているようなブランドの人気が高いのはとてもわかりやすい。ステイタスシンボルとも言えるものだろう。<br>そのステイタス性のかたちは、世代や環境、見せたい（理解してもらいたい）相手によっても変わってくるけれど。<br><br>それでも車もそうだがファッションであれば、オシャレが好きとか、美しさ、というものへの意識を持たない人が、ブランドを持つ姿にはどうしても違和感を持ってしまう。<br>わたしは大学時代に「とりあえずヴィトンちゃん」とイラストを描いて友だちの共感？！を得たことがある。それは実在のモデル（たち）がいて、ルイヴィトンのバッグを持っているが、ネコが好きだという理由からネコのイラストのトレーナーを着て（前見頃はネコの正面のイラスト、後ろにはネコの後姿のイラストが）、ロングスカートを履いている、という女の子。おおよそルイ・ヴィトンのバッグに合うとは思えないファッションだが、それでよいという。<br>オシャレへの関心が高いというわけではないのに、なぜハイブランドのバッグを持つ？しかも多くの人が持っているものを？明らかにそのバッグだけが浮いている。イジワルな見方みたいだけど、本当である。<br>人にキャラと呼ばれるような個性があるように、ブランドには個性がある。<br>素材・デザイン的な個性、感性的な個性、経済的な個性、歴史的個性、いろいろである。<br>だから、ブランドを持つ場合は、自分がそれらの個性を好きかどうか、自分に合うのかどうか、ということを考えることは大事だろうと私は思っている。ブランドに合わせるのではない、自分に合わせて選ぶ感覚に近いと思っている。<br><br>大人になって、経済的に買えるようになったとしても、なにか合わない…というものはある。<br>ブランドとして長い間支持され残ってきたものだからこそのブランドなのだから、その個性は強烈である。その強烈な個性をエッセンスとして入れていいブランド、自分じゃないブランド、きっとあるはず。だから大人でも、その人はそれが好きで持っているのか、そうだとしてもどうも違和感を感じる組み合わせは妙に目につく。経済的に合っても、その人に合ってないのだ。ブランドも恐ろしいもので、誰もを受け入れない姿で見せてしまうところが、ブランドがブランドたる所以でもあるのだろう。<br>今ではブランド側がマーケティング戦略で、そうしたところを敢えて上手く隠して調整しているようなところもあるが…。<br><br>そういうわたしも好きなブランド、憧れブランドはある。上記の自論をひっくり返すようなコテコテの老舗ブランドではある…。もっと幅を広げると、バーバリーとかマルベリーのイギリス的なトラッドはわたしがもともと「好きな世界（＝トラッド）」。フランス臭をぷんぷんさせるようなソニアリキエルは大人になってから好きになったフレンチの世界観、プッチのグラフィカルな世界もとにかく美しく楽しく「どうしたって惹かれてしまう世界」である。いずれも、歴史感や土地感があったり、匂いを感じさせるようなブランドには惹かれる。その背景にやられてしまうのである。<br><br>ただ、実際自分が持つこととなると、少々話は複雑。<br>小柄だからアイテムも限られるし、公共の交通機関を使いながらハイブランドをもつのは今一つ美しくない。<br>そう！ブランドはそれぞれの美しさを表現したもののはず。美しくあるべき世界のもの。<br>言葉でも身なりでも行動でも、美しいかどうか、ということを自分の行動基準にあてはめて、<br>自分ならではの美しさや皮膚感覚に合うブランドを、楽しむような生き方が素敵だと思っている。<br><br><br><br><br><br></font><br><br><br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20111130/18/amyfab-m/d2/31/j/o0259019411643638256.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111130/18/amyfab-m/d2/31/j/t02200165_0259019411643638256.jpg" alt="マルコムラボのデイリーレポート～ca depend des jours" border="0"></a><br>そういうことじゃないんだけど、世界中で見かけるある種の“世界”…
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<pubDate>Tue, 15 Nov 2011 14:08:37 +0900</pubDate>
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<title>ためらわない、めげない</title>
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<![CDATA[ 前回、数少ないわたしの信条（？と呼べるかどうかはさておき）<br>“人生はタイミング”と“「距離感」の感覚”について書いた。<br>長いことそのふたつのまま進歩もなく来たわけだが、<br>二、三年あたり前から、いよいよもう一つ、どちらかというと目標のようなものが加わった。<br><br>「ためらわないことと、めげないこと」<br><br>これが年を取ればとるほど一層難しい。<br>もともと、ためらわないように見えて何かをする際に人一倍ためらいがちな性格である上、<br>「気にすることないよ」という励ましを人一倍しているにも関わらずこれまた意外にめげるタイプであるからである。<br>しかし、ストレスなく前向きに進んでいくうえでこの二点の実践の意味は大きい。<br>何かをするとき、気を使ったつもりでためらわない、<br>相手の反応が自分の期待より低かったくらいでめげない。<br>これだけでもう少し生きやすくなるんじゃないかな、と思ったわけである。<br><br>ためらうことというのは、実際の現実とは関係なく自分の頭の中に勝手に描く不安材料によって何かをするのをやめる、何かをしない、ということである。<br>起こる前に悪い可能性を予測としてたてるというのはあまり素敵な行為ではない。<br>ならばためらいなんて捨ててしまおう！<br>そして、ためらわず何かをした際に自分に向かってくる予想を下回る結果。<br>すぐにめげてしまうが、これも実際に起こる前に勝手に期待したことが原因である。<br>いずれも「現実」とか「実際」に関わらず、勝手にそれも瞬時に描いてしまう予測という名の不安や期待が原因なわけだから、こうしたものは一種の呪縛かもしれない。<br><br>何かをしようとするときの純粋な感性を瞬時に止める「ためらい」と、<br>相手への過度な期待が生む「めげる」。<br>この二つとそろそろサヨナラするタイミングかもしれない、と心に留めて早二年半。<br>ためらわない、めげない、って、書くとこんなにシンプルで大したことじゃない言葉に聞こえるのに、<br>なんて難しいんだろう。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20111115/13/amyfab-m/5c/41/j/o0105013711612725087.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111115/13/amyfab-m/5c/41/j/t01050137_0105013711612725087.jpg" alt="$マルコムラボのデイリーレポート～ca depend des jours" width="105" height="137" border="0"></a>「めげちゃう！」…「そんなことでいちいちめげてちゃ生きていけないぞ！」<br><br><br>日々それを実感する毎日である。<br>
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<pubDate>Tue, 15 Nov 2011 13:53:01 +0900</pubDate>
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<title>タイミングと距離感</title>
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<![CDATA[ あまり人生のモットーとか座右の銘とか、<br>そういうものは持たないノンポリシーのわたしであるが、<br>なんとなく大事にしている感覚、というようなものはある。<br>ひとつは「人生はタイミング」もうひとつは「距離感」という感覚である。<br><br>前者の方は、大学時代のあるときにさかのぼる。<br>（きっかけはおおかた恋人と別れたとかのことだったと思うが）<br>人に聞かれてもうまく理由を説明できないような選択をしながらわたしたちは日々生きている、<br>理由よりも“それはそういったタイミングだった”というタイミングの力の方が大きい、<br>人生はタイミングなんだ…と。<br>以降、唯一の人生訓のようにわたしのなかに居続けている。<br><br>ただこのタイミングというものに関して、多くの人はちょっと鈍感というか、<br>軽視しているような感じを受ける。<br>タイミングって大事、という稚拙な言い方しかできないのは、<br>上手く説明できることより上手く説明できない力によって動かされていることの方が<br>わたしたちには多いからなんじゃないか、と思っている。<br>その分、謙虚に、タイミングだと思えたら逆らわずに身を任せるのがわたしの方針である。<br><br><br>そして後者の「距離感」は、距離がある、ということではなくて、<br>大事な人でもあえて距離感を保っておいたり、そのまた逆もあったり、<br>人や場所への思いや、時間によって違う距離感に対する感性といえるだろうか。<br>けっこう昔からぼんやりと自分の中に持っていて、<br>好きというか、まあ大事ににしている感覚のひとつである。<br><br>不思議とこの距離感というものに対する捉え方の意識があるかないかによって<br>その人の感性というか感度といったようなところが分かる気がしている。<br><br>こういったことは自分のなかの芯というか軸のような部分の感覚であって<br>この言葉で支えられました、教えられました、というものではない。<br>ほぼ無意識になされる判断基準になっているものかもしれない。<br><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20111115/13/amyfab-m/41/6f/j/o0200015011612717123.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111115/13/amyfab-m/41/6f/j/t02000150_0200015011612717123.jpg" alt="$マルコムラボのデイリーレポート～ca depend des jours" width="200" height="150" style="clear:both;float:left;" border="0"></a><br><br><br><br>距離感て言っても、遠いわけじゃないのよ…<br><br>
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<pubDate>Tue, 15 Nov 2011 13:47:05 +0900</pubDate>
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<title>笑顔も自己防衛のアメリカ</title>
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<![CDATA[ 　ハワイに行って思うことの一つに、子ども（子ども連れ）に優しいということがある。日本では赤ちゃんを抱っこして長男をストローラーに乗せて押していても、お店のドアを開けてくれることも道を譲ってくれることも待ってくれることもあまりないが、ハワイではどんなチンピラ風な兄ちゃんも、必ず自分を後にして先に行かせてくれる。これには本当にうれしい気持ちでいっぱいになる。<br><br>　そして日本との大きな違いの一つは、そうしたドアや道の譲りあう場面でなくても、すれちがうときに控えめながら笑顔の軽い交し合いがあることだ。笑顔の大きさは人にもよるが、子どもを連れている場合は8、9割はかわいいお子さんね、といった表情を浮かべ、笑顔を見せる。きちんと相手に伝わる程度の表情がある。これはとても素敵な慣習だし、わたしも、どちらかというと笑顔という顔で日ごろからいようと思っている。<br><br>　もちろん、日本でもそうした笑顔の交差はあるし、小さな子どもを見て微笑む日本人だって大勢いる。ただその割合がちがうだけだ。アメリカではほぼみんなと言いたくなるくらい、圧倒的多数なのである。今回は子ども一人がアクシデントから車いすの生活となっていたが、車いすに乗った子どもに対しての表情はさらに優しく、９割どころではなく１００%、一言二言、かわいそうに、不運ね、とユーモア交じりの慰め言葉を浮かべてくれた。こうしたことは日本ではあまりない。この違いは、レディーファーストや弱者には優しくあれという西洋文化的な背景もあるとはいえ、なにかもっと日本人にはない何かが、アメリカ人（または西洋人）の根底にあるのではないか、と考えた。<br><br>　ひとつは、笑顔の軽い会釈がごく頻繁に自然に交わされるのは、「わたしはあなたの敵ではないですよ」という意思表示でもあるだろうということ。この意思表示はすなわち自己防衛にもつながる。多種多様な人種、民族と文化を背景にする人たちが共存していく環境では、自分が相手に対して危険な存在ではないことを知らせておくことは、相手も安全であることを知るのと同様、第一の安全確保作業であるはずだからだ。<br><br>　そして小さな子ども、体が不自由な状態の人へのさらに優しい笑顔は「わたしは弱者に対して優しい人間です」という、これまた自己表現の一端でもあるのはないだろうか。決して穿った見方をしているわけではない。アメリカはすべて表現してなんぼなのだ。弱者に対して手を差し伸べる優しさを持っていないと思われることは、日本とは比較にならないほど軽蔑の対象となるようである。「世界のリーダーとしてのアメリカ」であらねば、ということ姿勢は、建前としても相当強くアメリカ人に根付いているのだろう。　　　<br>　<br>　だからこそそれは表現することで安全を確立するためのコミュニケーションともいえるのではないだろうか。アメリカでは自分を優しいと表現することも自己防衛のひとつなのかもしれない。<br>
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<pubDate>Wed, 19 Oct 2011 10:42:56 +0900</pubDate>
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<title>知るということ～Does the body rule the mind?</title>
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<![CDATA[ 現代社会、どちらかというと頭と体を別物として捉えるのが一般的になっている感があるが、<br>この二つは表裏一体、かつ、体の一部が頭であるからして、<br>わたしは体を使ったことが優先する、という意識を持っている。<br><br>Does the body rule the mind or does the mind rule the body-I don't know--<br>という歌がその昔好きなミュージシャンの曲のひとつにあり、大いに同意したわたしであった。<br>それは肉体と精神が…という純文学の一大人気テーマのひとつのようでもあり、<br>実際、些細なことで大いに悩みがちなわたしごときの精神が期待するほど、<br>肉体というのは柔でも弱くもない、ということを20代前半にひしと感じた経験もあり、<br>この二つのバランスや関係性には少なからず関心を持って見ていたためである。<br><br><br>わたしたちの意識や感情、理解、行動、といったものは、<br>基本的にはすべて体を実際に使うことを通したうえでの必要性に優先性が与えられるべきである、と思っている。<br>知る、わかる、理解する、ということを簡単に言う人が多いけど、<br>知るって重いことだな、と思うことの方が多い。<br>出かけたり、話をじかに聞いたり、実際何かに触れて、体感することを通して得られることは、<br>ときにあまり知りたくない現実を直視することになる。<br>だから、本当に何かを知る、ということをためらったり、避けたりしたくなることも多い。<br><br>わたし自身、年とともにそういったところがヤワになってきて、あるいは現実の怖さを知るという好奇心や勇気が薄れてきて、知るという機会を遠慮することも多くなったと自覚している。これは自分や環境に誠実に生きていく上では反省すべき点だと、日々自責するところでもある。<br><br>昔に比べたら、情報自体はこんなにも増えて簡単にアクセスしようと思ったらできるというのに、<br>皮肉なものである。<br>現代の情報の多くは体を通していないものであると思う。<br>体を通していない情報は、基本的にはフィクション、幻想と同じである。<br>もう少し若かった頃の勇気を引っ張り出して、現実に関わって真に『知る』ということにいま一度きちんと向かっていきたいと思っている。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/amyfab-m/entry-10989460161.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Aug 2011 00:55:06 +0900</pubDate>
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<title>山の顔</title>
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<![CDATA[ とりたてて自然派でも山好きでもないが、<br>山梨の山の景色はわりと好きである。<br>どっちを向いても山が見えるといった、田舎の山の風景にはそれほど心地よさを感じないのだが、<br>山梨の山はもう少ししっくり自分の中に入ってくる。<br>ひとつには、祖父母の家があった山梨への親近感が大きいだろうけれど、<br>それを差し引いても、山梨の山々の景色に対して肯定的なのはなぜだろうと考えた。<br><br>東京から近いということが山の顔に表れている気がする。<br><br>首都東京に近いところに位置し、<br>多くの人が避暑や秋の紅葉見物に訪れる。<br>そういった「人に見られる」ことに、もう長い間、山自身が慣れているように感じられるのだ。<br><br>そうした見られ続ける立場にあった時間の蓄積が、山の顔に表れているのかもしれない。<br>それは江戸時代の頃からか、もっと前なのかはわからないが、<br>日本一人々に愛されている山、富士山を持つ土地の個性や優越性さえも、山梨の山々には根付いているのではないだろうか。<br><br>つい先日の中央高速から眺めた景色に始まり、どうにかたどり着いたわたしの（山梨の）山論である。
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<link>https://ameblo.jp/amyfab-m/entry-10968415184.html</link>
<pubDate>Thu, 28 Jul 2011 23:03:25 +0900</pubDate>
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