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<title>aoieno2のブログ</title>
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<description>ブログの説明を入力します。</description>
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<title>よしながふみさんの作品</title>
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<![CDATA[ <p>すぐ書き直す。</p><br><p>よしながふみさんの持つ繊細さで</p><p>時間を飛ばすとどうなると思う？</p><br><p>人の生きることそのものが現れるんだよ！</p><br><p>点が2つあって、すごく離れているんだけど、</p><p>ただそれぞれの点がすごくよくできていて、</p><p>その点をつないでしまうようになっているんだよ。</p><br><p>読む者の中でキャラクターが生まれてしまっている。</p><br><p>これはすごいよ。</p><br><p>その抽象性からすると意外な言い方だと思われるかもしれないが、</p><br><p>もはや圧倒的ですらある。</p><br><br><p>抽象性ということから言えば、手塚治虫や萩尾望都さんの表現はかなり高度だ。</p><br><p>そこは及ばないかもしれない、が、魅力的かどうかということから言えば、</p><br><p>それを補って余りある新しさが、よしながふみさんの作品にはある。</p><br><p>抽象性と情念というか…、愛？</p><br><p>具体的な愛の表現というか。</p><br><p>『こどもの体温』、『彼は花園で夢を見る』、『ジェラールとジャック』、</p><p>『1限めはやる気の民法』、『愛すべき娘たち』、『それを言ったらおしまいよ』、</p><p>『執事の分際』。</p><p>いや、ほんと好みはあるかもしれいなけど、上で言った観点からすれば、</p><p>「よしながふみの中では『大奥』が面白いよね」とか、「えっ？」って感じ。</p><p>いや、『大奥』もたしかに面白いんだけど、かなり複雑になっていて、</p><p>もっとシンプルなものの方がガツンと来るよね。</p><p>それかもっと咀嚼できれば、『大奥』の素晴らしさがさらに分かるのかな。</p><p>う～ん…。</p><p>もっとちゃんとした記事をまた書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aoieno2/entry-11484811939.html</link>
<pubDate>Wed, 06 Mar 2013 20:48:27 +0900</pubDate>
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<title>古谷実『ヒメアノ～ル』6巻</title>
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<![CDATA[ <p>人格が備える性質についての話。</p><br><p>『ヒメアノ～ル』の最終巻において森田は、</p><p>終生変わることないだろう自分の性質に絶望する。</p><p>厳密には過去に絶望したことを思い出す。</p><br><p>たしかに、森田の性質は反社会的であり、</p><p>社会で何らかの役割を担うこと自体に適応していない。</p><p>ここで言う社会とは人間の間で生まれる関係性一般のことだ。</p><p>そんな森田は不幸だ。</p><p>反社会的な性質を有してしまい、</p><p>それを実現せずにはいられないという点で、</p><p>少なくとも、そう言える。</p><p>社会に適応できるような形で</p><p>自分の性質を昇華ないしガス抜きできればよいが。</p><p>森田がそうできるよう努めたかというところが、</p><p>人道的な観点からは問題になってくるところだろう。</p><br><p>或る性質を備えるということにおいて、</p><p>人格に問える責任はどれほどだろうか。</p><p>全くないという気はさらさらないが、</p><p>どれほどだろうと疑問が生じる場合は多々ある。</p><br><p>例えば性的な嗜好。</p><p>人格は何らかの性的な嗜好を備えるが、</p><p>それはどこから来るのだろう。</p><p>私が思うに、性的な嗜好は向こうから来るんだと思う。</p><p>つまり、或る事態を目の当たりにしてしまったり、</p><p>それに巻き込まれたりして目覚めさせられるということ。</p><p>元からそのような性質を備えており、</p><p>それが現れただけだという意見はあるだろう。</p><p>たしかに、人格によって、或る事態に引っ掛かるかどうかという違いはある。</p><p>ただ、それも事態に対する単なる感受性の豊かさの違い、</p><p>鋭さの違いなのではないかとも言える。</p><p>つまり、性的な嗜好とはこのようなものだという枠にとらわれず、</p><p>経験によって嗜好が生まれるのを阻害しないということ。</p><p>全く先天的なものであるという意見もある。</p><p>まゆつばだが、絶対的に否定できるものでもない。</p><p>ただ、それにしたって人格の責任で済む問題でもないだろう。</p><p>「そのような性質を備えて生まれたお前が悪い」とでも言うのか。</p><p>「先天的」と「悪い」が矛盾している。</p><p>と、このように人格の性的な嗜好を非難する場面があるが、</p><p>他人に迷惑をかけなければいいんじゃないかという話。</p><p>まぁ、そうするとどこからが他人に迷惑かという話にもなる。</p><p>性的な嗜好が合法的なものであるという前提に立った上の話で、</p><p>「そんな性的な嗜好を持つ人がこの世にいるということ自体が</p><p>私には迷惑」という話には取り合わなくていいとしても、</p><p>「そのような性的な（嗜好の）情報について私は聞きたくない」という話は</p><p>尊重されるものでもある。</p><p>むやみに表現するのは止めておこうというところか。</p><br><p>性質を備えるのはしかたがないところがあるが、</p><p>その実現の仕方を選ぶことについては</p><p>努力が必要な場合があるということ。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/aoieno2/entry-11447199771.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Jan 2013 03:51:27 +0900</pubDate>
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<title>三浦健太郎『ベルセルク』　三代目J Soul Brothers「花火」</title>
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<![CDATA[ <p>グリフィスという大きな炎に</p><p>自分の火をあるいは自分という火を投げ入れる。</p><br><p>たしか、そんな記述があった。</p><br><p>自分を誰かに、何かに託すということ。</p><p>俺には分からない感覚だ。</p><br><p>その誰かが、あるいは何かがまだ見つかっていないのかもしれない。</p><p>ひょっとしたら自分の子どもが生まれたときに分かるんだろうか。</p><p>自分の子どもがその「誰か」にあたるんだろうか。</p><p>ただ、たとえ自分の子どもとはいえ、</p><p>別の人格と接するのだという意識は忘れずにいたいが。</p><p>親が自分の人格を子どもの人格と同一視すると、</p><p>子どもがうまく自立しないんだよね。</p><p>かと言って、ほったらかすのは良くないし。</p><p>いや、むしろうまく自分の自我の同一性、一貫性を保っているということが</p><p>子どもの人格と同一視しても大丈夫ということになるのかもしれない。</p><p>ありていに言えば、自分のことを本当に大事にする親は</p><p>子どものことも大事にする、というような。</p><br><p>今、三代目J Soul Brothersの「花火」を聴いている。</p><p>職場の人からリクエストされたので、覚えようかなーと。</p><p>「パッと咲いてシュンと散って」を聴いて、</p><p>覚えようとする気が少し小さくなったが、</p><p>でも、よく観ると面白いところもある。</p><p>ミュージックビデオの5分6秒あたり、</p><p>花火を表現していると思われるダンスは面白い。</p><p>あと、付き合う直前とか、付き合いたてのときの情感は</p><p>ロマンティックに表現できているかなぁと。</p><p>ある程度、一つの形にはなっているかなぁと。</p><p>ただ、ロマン主義的なものに自分は決してcommitしないが。</p><br><p>ロマン主義的なものにcommitするというのも、</p><p>自分という火の投げ入れ方の一つだ。</p><p>ロマン主義にかかわらず、主義というものがそのようなものか。</p><p>人間は主義にcommitすると、典型が生まれる。</p><p>保守、革新、右翼、左翼などの呼称の下で、</p><p>それと自分を同一視すると、或る典型が生まれる。</p><p>天皇陛下を仰ぎ、日米軍事同盟に賛同し、</p><p>原子力発電所を存続ないし増加させようとする、とか。</p><p>共産主義的な社会体制を目指し、chinaを応援し、</p><p>原子力発電所を減少させようとする、とか。</p><p>そのような典型が生まれる。</p><p>それぞれのことで考えたり、また考えを保留したりするのが</p><p>本来ではないかと思うんだけど。</p><p>そこまで分かりやすく典型になっている人はいないかもしれないけど、</p><p>そういう場合もあるんじゃないかって話。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aoieno2/entry-11446486239.html</link>
<pubDate>Fri, 11 Jan 2013 00:57:13 +0900</pubDate>
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<title>ももいろクローバーZ「サラバ愛しき悲しみたちよ」</title>
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<![CDATA[ <p>自我を愛するということ。</p><br><p>自我と世界は全く別のものではない。</p><p>自我とは、自我と世界との関連性のもので浮かび上がるものだから。</p><p>ただ、痛みなどの「この感じがある」という圧倒的な特異性が、</p><p>すなわち主観が自我には備わっているが。</p><p>表象が生じ、言語などの記号体系と混ざり、論理や連想によって、</p><p>自我と世界に様々に展開していく。</p><br><p>さて、単一の状態から自我と世界が分化したことについては、</p><p>すなわちそれぞれの世界が生じたことについては、</p><p>E＝フッサールの発生的現象学において述べられているところである。</p><p>単一の状態とは、自我と世界が分化する前のものである。</p><p>主観と客観が未分化であると言ってもよいだろう。</p><br><p>元は単一のものから自我と世界が分化したのだから、</p><p>自我と世界は常に関連し合っている。</p><p>つまり、今私たちの誰にも備わっている自我と世界という構造において、</p><p>その間に決定的な断絶はない。</p><br><p>「意識の島」と言ったのはB=パスカルが『パンセ』においてだったっけ。</p><p>たとえ私たち一人一人の意識が島だったとしても、</p><p>それは言わば海で一体だったところから浮かび上がったのだろうし、</p><p>海で他の島とつながっている。</p><br><p>本当に自我を愛するということは、</p><p>巷で言われるような「自己愛」とは全く異なる。</p><p>愛とは、ただ内的に生じるのみの情動ではない。</p><p>愛とは、外的にも把握される行為であり、</p><p>発せられることばであり、表現そのものである。</p><p>まぁ、それが明らかになる前の潜在性を否定することはしないが。</p><br><p>つまり、本当に自我を愛するとは、ひいては世界を愛することである。</p><p>その正当性は自我が、</p><p>自我と世界が単一から生じたものであることによる。</p><p>ただ、自我を愛するとは、様々な事態に自我を晒すことによって</p><p>自我を際立たせることによるもので、</p><p>一般的な価値観からすれば、それはしばしば苦しいものだと思われがちだ。</p><p>自我を際立たせるとは</p><p>様々な他の自我との差異を明らかにするということと</p><p>同義ではない。</p><p>そうではなくて、むしろ、自我の本質である、</p><p>筒であるということにどれだけ近づけるかということだ。</p><p>筒とは、インプットとアウトプットを通すものであるということだ。</p><p>ただ、インプットとアウトプットを滞りなくし、その精度を高めること。</p><p>自我の本質は、主体としての自我に拘ることよりもむしろ、</p><p>手段としての自我を高めることである。</p><p>それにおいて、個々の自我の特性、いわゆる個性が明らかになる。</p><p>高まりがなければ、差異は生まれない。</p><p>主体としての自我に拘るのではないということは、</p><p>しばしば自分を投げ出しているようにも見えるが、</p><p>それが自我の在り方を表現するということになる。</p><p>それは自我を愛し、世界を愛することであり、</p><p>しばしば勇敢なことだと言われる。</p><br><br><p><em>サラバ、昨日をぬぎすてて</em></p><p><em>勇気の声を振り絞れ</em></p><p><em>「じぶん」という名の愛を知るために</em></p><p>作詞　岩里祐穂</p><p>作曲　布袋寅泰</p><p>唄　　 ももいろクローバーZ</p><p>「サラバ、愛しき悲しみたちよ」によせて</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/aoieno2/entry-11445148967.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Jan 2013 23:15:08 +0900</pubDate>
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<title>よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』1～4巻</title>
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<![CDATA[ <p>1/5午後4時ごろから、高島屋にて。</p><p>小林よしのり『ニセモノ政治家の見分け方』\1,575、</p><p>よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』（1）～（4）合計で\2,184。</p><p>アンダーパンツそれぞれ、</p><p>vivian westwood3着、emporio armani1着、paul &amp; joe1着、</p><p>セール品含め合計で\14,280。</p><p>vivian westwoodのシルエットがアシンメトリーのシャツ1着\16,800。</p><p>セール品。</p><br><p>4か月前、恋人にfendiの\57,000前後のブレスレットを買ったので、</p><p>そのときのポイントを使おうと高島屋に行った。</p><p>当初は大き目のネクタイピンを買うつもりだったのだが、</p><p>これといったものが見つからず。</p><p>本以外のものに関しては、恋人の勧めもあり、いろいろ買ってしまった。</p><p>ちなみに小さ目のネクタイピンはpaul smithのものを持っているが、</p><p>少し大き目のも欲しいかなぁと。</p><p>1/22まで使える\2,000分の商品券をもらってしまう。</p><p>は～、これはまた行ってしまうな。</p><p>fred perryのアウターで気になるものがあったしな。</p><br><p>よしながふみさんの『西洋骨董洋菓子店』を読み終えた。</p><p>素晴らしい。</p><p>『大奥』、『きのうなにたべた』、『flower of life』も読んだが、</p><p>どれも面白い。</p><p>なんというか、清々しい気持ちになるよね。</p><p>幸せな話や笑える場面だけじゃなくて、</p><p>残酷なシーンや悲劇的な物語もあるんだけど、作品としての完成度が高い。</p><p>すなわち、そこに世界が在る。</p><p>そしてその世界において、たとえ徒労に終わっても、</p><p>懸命に生きようとする愛らしい人格（キャラクター）がいる。</p><br><p>『西洋骨董洋菓子店』は生きる意味についての話だね。</p><p>主人公の橘にとって、幼いころの事件は</p><p>自身の生の意味に重大な影響を与える。</p><p>つまり、彼の生を方向づけ、彼もまたそれを自覚している。</p><p>生の意味を大きくするのは、一貫性であり、彼もまた同様である。</p><p>つまり、「そのこと」をどれだけ忘れなかったか。</p><p>「そのこと」のためにどれほど努力してきたか。</p><p>もちろん、そこには自分だけでどうすることもできない要素がある。</p><p>運と呼ばれるものがそうだろう。</p><p>ただ、「そのこと」を軸にした一貫性は、「そのこと」が失くなってしまっても、</p><p>「そのこと」が解決したり、解決しなかったり、</p><p>また、そのこと自体を忘れてしまっても、生の意味を大きくする。</p><p>ラストシーンは象徴的だ。</p><p>素晴らしい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aoieno2/entry-11443034503.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Jan 2013 01:22:29 +0900</pubDate>
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<title>羽海野チカ『3月のライオン』8巻</title>
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<![CDATA[ <p>3月のライオン</p><p>この将棋はどこまで行けるんだろう</p><br><p>コミュニケーションの最中に思う</p><p>喜びで我を忘れそうになるが</p><p>ことば</p><p>記号でありながら、内容を持つ</p><p>内容が大きい</p><p>直観と概念</p><p>「どこまで」とは或る意味での「正解」のようなもの</p><br><p>ただ、その「正解」とはすでに在るものということではなく、作りだすといったような感じ</p><br><p>数学のように正解が決まっているわけではないと言うが、</p><p>厳密に言えば、数学だって正解が一つだと決まっているわけではないのだ</p><br><p>公理、公準、定理、あるいは概念の枠組みそのものが違っても正解は違ってくる</p><p>つまり、条件に過ぎない</p><p>この状況ではこれが正解になりますと</p><p>1＋1＝2とは、それぞれの記号がそのようになっているということが前提されている</p><p>ただ、事態を表現するものになっている場合はある</p><p>だから、様々な面で応用可能なんだ</p><br><p>ことばでだって似たようなことができる</p><p>定義を決めて、論理的に進めていけば、結論は得られる</p><p>ただ、論理的に進めていく内に定義自体を問い直していくのが面白い</p><p>つまり、概念が直観によって洗練される、またはその姿がより鮮やかに現れる</p><br><p>客観性に近づく</p><p>それはより普遍的なもの</p><p>例えば時代を超える芸術はより客観性に近づいたものだと言える</p><p>様々な主観に共有、共感されるものになる<br></p><p>G=ライプニッツ曰く喜びがその標となるとかなんとか</p><p>たしか『汎神論』だったっけ</p><p>客観性に近づける</p><p>その時代風に言えば、「神」なんだろうが</p><p>喜びそのものに近づこうとしてなくていいよね</p><p>ただの標っていう</p><p>真・善・美に至るあるいは近づくために生きているんじゃないの</p><p>というか、そこに近づけるのがより善い生というものなのでは</p><br><p>としたら、俺もやった方がいいんだろうなぁ</p><p>善いんだろうなぁ</p><br><p>生きる意味とは喜びではない</p><p>楽しむということが意味ではない</p><p>それはただの標であり、絶対的なものではない</p><p>標として重要なものではあるが</p><p>だから、喜びも楽しみも少ないけれど、意味の大きい生というものが存在する</p><br><p>話を戻すと、</p><p>このコミュニケーションはどこまで意味の大きいものになるか、</p><p>あるいはできるかということだ</p><br><p>どこまでいけるんだろうという語句の選び方も素敵だ</p><p>自分がするだけではなく、</p><p>いろんなものからできているこのことが</p><p>どこまでいけるかということ</p><br><p>羽海野チカさんの表現の仕方には信仰に近いものを感じる</p><p>つまり、この生き方を自分で選んだということについて、</p><p>すなわちそれが義務であり、</p><p>またその義務を選んだという点で自由だということについて、</p><p>自覚しているということ</p><p>その度合いが強いということ</p><p>素晴らしい</p>
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<pubDate>Sat, 29 Dec 2012 03:56:31 +0900</pubDate>
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<title>萩尾望都『愛の宝石』</title>
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<![CDATA[ <p>休みをとってダラダラした一日を過ごす。</p><p>朝方の04：00ごろまで、今月買ったばかりのスマホでゲームをし、</p><p>寝て、起きたら13：30ごろ。</p><p>燃えるごみを出せない。</p><br><p>起きてお菓子ばかり食べる。</p><p>プチプリン、セコイヤチョコレート、ココアシガレットなど。</p><p>ペリエ（レモン）で水分を摂る。</p><br><p>ペリエを飲むということをお嬢様のすることだとして、</p><p>同僚の女性をいじっていたバカ（デブ）が</p><p>前に俺の近くにいたが、貧困だな。</p><p>ペリエを金持ちの代名詞とする発想力が貧困だし、</p><p>つまりは本当に貧しいということ。</p><p>そのいじり方も面白くなかったし。</p><p>そんなことを思い出して少し笑えた。</p><br><p>youtubeでオードリーのオールナイトニッポンを聴きながら、</p><p>昨夜同様スマホでゲーム。</p><p>ゲームは「actors from RPG」とLINEの「ZOO KEEPER」みたいなヤツ。</p><p>風呂入りながらも同様に。</p><br><p>食べたものを記録。</p><p>昨日からお菓子ばっか。</p><br><p>オナニーも何回か。</p><p>同僚もオカズにする。</p><p>最近始めた。</p><br><p>母への誕生日プレゼントを買った。</p><p>萩尾望都さんの『愛の宝石』だ。</p><p>プレゼントには良い装丁だ。</p><p>話のチョイスも良い。</p><p>母は萩尾望都さんが好きだから、話は全て知っているだろうが、良いだろう。</p><p>特典の内容も知っているかもしれないが、良いだろう。</p><p>母の誕生日は12/14だったから、渡すのには少し遅れている。</p><br><p>萩尾望都さんの漫画が素晴らしいということは俺も分かるが、</p><p>何が素晴らしいかはまだ分かっていない。</p><p>手塚治虫に似たスケールの大きさは感じる。</p><p>ただ、萩尾望都さんと手塚治虫、どちらもあんまり分からないんだよなぁ。</p><p>俺にとってはまだスケールが大きすぎるのか。</p><p>手塚治虫は、『奇子』や『どろろ』は少し分かるが、『火の鳥』はあまり分からない。</p><p>『ブッダ』は小学生のころに読んで以来、20年弱読んでいない。</p><p>ここで言う分からないとはことばでうまく表現できそうにないということ。</p><p>何度か読めば、少しずつ理解していくんだろうが、</p><p>なかなかそういう気にもならないのが不思議なところだ。</p><p>さらっと描いてあるから、さらっと読んじゃうんだよな。</p><p>それでいいんだろうが。</p><p>スマートというか。</p><p>かっこつけずにかっこいいことができてしまうという感じ。</p><p>つまりは本当にかっこいいということなんだが。</p><p>それで俺には見えにくくなっているような気がする。</p><p>その本質が。</p><p>お耽美の究極。</p><p>表現方法の洗練。</p><p>では、その内容は。</p><p>その素晴らしさについてどのように表現すれば良いのか。<br><br></p><p>缶・ビンのゴミを出せたら出そう。</p><p>仕事場の大掃除もしよう。</p><p>簿記の勉強もしよう。</p><br><p>今03：24。</p><p>明日は仕事だ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aoieno2/entry-11435747866.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Dec 2012 01:30:41 +0900</pubDate>
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