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<title>Ah！そうなんだ</title>
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<description>あんな話、こんな話、思い出しながら綴ります</description>
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<title>〇秀吉の煎り豆</title>
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<![CDATA[ <p>　小田原の北条が降り天下は秀吉のもとですっかり平定されました。</p><p>何の伝統も持たない秀吉は、箔を付けようと北条時頼にあやかって諸国行脚に出ると</p><p>言い出したのです。側近が何と言って宥めればいいかと思案に暮れているとき、</p><p>秀吉のお伽衆の一人、曽呂利新左衛門が秀吉に語り始めました。</p><p>&nbsp;</p><p>「近頃、清滝のあたりで諸国より集まった人々が賭博場に集まり賑わっています。</p><p>　一人の山伏が張るたびに勝ち、負け知らずの独り勝ち、その他の衆は素寒貧に。</p><p>　山伏が言うには、</p><p>　『自分は妙術を心得ているのでばくちに大勝するのは当たり前、それどころか</p><p>　術により愛宕山のように体を大きくすることも出来れば、煎り豆のように小さくも</p><p>　できるのだ』と言うのです。</p><p>　ばくちに負けた一人が『それなら煎り豆になって見せてくれ』と言うと山伏は</p><p>　たちどころに一粒の煎り豆になりました、その途端男がそれを摘まんでカリカリと</p><p>　食べてしまったそうです。」</p><p>&nbsp;</p><p>　これを聞いた秀吉は、話の真意を悟り</p><p>「うい奴よ、我は天下を持つと言えどもその位にあればこその威光であるのに、</p><p>　ただの秀吉になればどんなことが起きるやもしれず、諸国行脚は取り止めじゃ」</p><p>としみじみと言ったそうです。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Fri, 03 Nov 2023 19:30:01 +0900</pubDate>
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<title>〇バーナード・ショーを口説いたら</title>
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<![CDATA[ <p>　バーナード・ショーは、アイルランド出身の文学者・劇作家・評論家 (1856–1950)、</p><p>本名は、ジョージ・バーナード・ショーなのですが、本人は「ジョージ」を毛嫌いし</p><p>執筆は、バーナード・ショーで通しました。</p><p>　バーナード・ショーは皮肉屋としても知られていました、こんな逸話があります。</p><p>&nbsp;</p><p>　米国の著名なバレリーナのイサドラ・ダンカンがバーナード・ショーに</p><p>「あなたの頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたらどんなにすばらしい事でしょう」</p><p>と言い結婚を申し込みました。</p><p>&nbsp;</p><p>　ショーは答えて曰く</p><p>「私の肉体とあなたの頭脳を持った子供が生まれたらどんなに不幸かお考え下さい」</p><p>と答えて拒絶してしまいました。</p><p>ショーは生涯独身で、1950年に94歳でロンドン郊外で永眠しました。</p><p>&nbsp;</p><p>　この話は遺伝学・人類学の入門書や雑文などで時おり引用されています。</p><p>相手はイサドラではなく、舞台を中心に活動していたフランスの大女優で、</p><p>サラ・ベルナールだとする説もあります。</p>
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<pubDate>Tue, 31 Oct 2023 19:05:21 +0900</pubDate>
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<title>〇武士の意地</title>
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<![CDATA[ <p>　越前北庄藩（福井藩）主松平忠直は、徳川家康の次男結城秀康の長子です。</p><p>家中で大騒動を2回も起こしたり、関ヶ原で用兵を失敗したり、酒色におぼれたりと</p><p>評判が芳しくない藩主でしたが、三宅庄之助と言う家臣がいました。</p><p>&nbsp;</p><p>　庄之助が15歳の時に父の庄左衛門が他界しその家督を継ぐことになりましたが、</p><p>藩では庄之助がまだ若年と言う理由で父の禄高250石の半分の相続を認めました。</p><p>これを腹に据えかねた庄之助は、藩重役へその理由を正そうとするのですが重役は</p><p>「何事も君の思し召しによる」の一点張りで全く要領を得ませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>　そうこうするうちに、庄之助が主君松平忠直に初お目見えする日がやってきました。</p><p>庄之助は腹をくくり定めの紋服はそのままに、肩衣と袴を半分にちぎった片方だけの</p><p>出で立ちで登城しました。</p><p>　重役や近習がこれに気づき着替えさせようとした時はすでに遅く、主君の御前に</p><p>進み出てしまいました。忠直は異様ないで立ちに驚き「乱心者か」と鋭く咎めますが</p><p>庄之助は落ち着き払って言上しました。</p><p>&nbsp;</p><p>「恐れながら申し上げます。庄之助こと父庄左衛門より半分しかお役に立ちませぬ者故、</p><p>　この度禄高半分のご沙汰を頂きましてございます。</p><p>　しかるに、この肩衣も袴も共に亡き父が私に残したものなれば、これを全部着用いたし</p><p>　ましては、上は殿様を偽り奉るのみならず、泉下の庄左衛門に対しても申し訳なき</p><p>　私儀と心得まする。今後、父同様にお役に立つまではなにとぞこのままにいたし</p><p>　おかれますよう、願い奉ります。」</p><p>&nbsp;</p><p>　絶対君主に対し切腹覚悟の言上に、さすがの忠直もその非を認め庄之助の禄高を</p><p>旧に復したといいます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aplicom/entry-12826334322.html</link>
<pubDate>Sat, 28 Oct 2023 13:26:48 +0900</pubDate>
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<title>〇艦砲射撃の命中率</title>
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<![CDATA[ <p>ミサイルの時代になった今、あまり意味のない命中率ですが昔を振り返ってみましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　日本が外国軍と戦争をして記録に残す大勝利を明治38年5月27日に記録しています。</p><p>ロシアバルチック艦隊と対峙した日本海海戦です。大勝利の要因は色々あるようですが</p><p>艦砲射撃の命中率もその一つです。日本海海戦を描いた絵画には軍艦の周りに水柱が</p><p>立っています。これは、相手の砲弾が命中せず海へ落ちたことを表しています。</p><p>水柱の数からして命中率がかなり低いことを想像させます。</p><p>　射程距離6,000メートルで日本艦隊の命中率は3％、対するロシアは2％でした。</p><p>この1％の差が勝利をもたらしたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　命中率があまりにも低いのには驚きます。その後、照準器の進歩で次第に高まり、</p><p>第一次世界大戦のユトランド沖海戦の時には射程距離8,000～10,000メートルで</p><p>ドイツが5％、英国が3％の命中率でした、良くなってもこんなもんです。</p><p>&nbsp;</p><p>　日本海軍は太平洋戦争の直前、射程30,000メートルで16％を誇っていました。</p><p>飛躍的に良くなってもこの程度のなんです。</p><p>大和、武蔵に至っては46㎝砲を備え射程40,000メートルで16％を上回っていました。</p><p>米国の戦艦の射程は30,000メートルでしたので、艦隊決戦があれば日本海軍は</p><p>圧倒的優位に立てたでしょう。日本得意の大艦巨砲主義全盛の頃です。</p><p>&nbsp;</p><p>　ところが米国は航空戦力の時代になったと空母主力に戦術を転換していました。</p><p>奇しくも真珠湾攻撃で米国の戦術が正しいことが証明されましたが、大艦巨砲主義を</p><p>踏襲した日本は艦隊決戦が行われることなく終戦を迎えることになりました。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aplicom/entry-12825548140.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Oct 2023 14:19:47 +0900</pubDate>
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<title>〇結びコブの魔力</title>
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<![CDATA[ <p>　女癖の悪い亭主の浮気に悩む若い人妻が思い余って物知りな老婆に相談しました。</p><p>老婆はしばらく考えて曰く</p><p>「とっておきの方法があるよ、ご亭主のあそこを結んでコブにしてごらん</p><p>　もし、今夜できなかったら明晩、明晩できなかったら、あさっての晩とね</p><p>　諦めずにやるんだよ、くれぐれも諦めちゃいけないよ、分かったね」</p><p>若い人妻はそんなことでと半信半疑で老婆にお礼を言って帰りました。</p><p>&nbsp;</p><p>　その晩さっそく旦那のあそこを引っ張り出して、結ぼうとしますが、結べません。</p><p>亭主は「痛いじゃないか、何するんだ」とはじめは怒ったものの、女房が一心不乱に</p><p>結ぼうとするのを見てゲラゲラと笑っているうちに臨戦態勢になってしまい、</p><p>思わず女房にかじりついてしまいました。</p><p>　こうなると結びコブどころじゃなくなるので、女房は一回終わるのを待ちました。</p><p>その後、老婆に言われたように結びコブを作ろうとしますが、再び臨戦態勢で中断。</p><p>そんなことを繰り返してその夜は明けました。</p><p>　次の晩もコブを作ろうとしますが、一向にコブは作れません、次の晩も、次の晩も、</p><p>いつまでも結びコブはできませんでしたが、亭主の浮気はピタリと止んだそうです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aplicom/entry-12824739911.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Oct 2023 12:03:38 +0900</pubDate>
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<title>〇女性の切腹</title>
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<![CDATA[ <p>　切腹は武士の作法ですが、切腹で果てた女性がいます。</p><p>室町時代は八代将軍足利義政の乳母、今参（いままいり）の局です。</p><p>&nbsp;</p><p>　義政は、兄の死により思いがけなく八代将軍を継ぎますが、後見となるべき生母の</p><p>重子よりも育ててくれた今参の局を慕い、常に身近においてその意見を聞くのでした。</p><p>（側室だったと言う説もあります）</p><p>面白くないのは重子、重子の今参の局に対する憎しみは日ごとに増してゆきます。</p><p>&nbsp;</p><p>　そして、義政の妻は悪名高き富子です。</p><p>富子は子に恵まれませんでしたが、3年目で授かった第一子が産後すぐ死んでしまいます。</p><p>義政の側室の子は元気よく育ち富子は怒り心頭、義政の側室を全員追放してしまいます。</p><p>そして重子は富子に、子が死んだのは呪詛によるもので今参の局の仕業と吹き込みます。</p><p>富子は今参の局との対決を決意し、巫女を抱き込んで偽の証拠を準備し偽証させます。</p><p>&nbsp;</p><p>　義政は惑わされ易い性格で、真実を確認することも無く、今参の局に琵琶湖沖ノ島への</p><p>流刑を申し渡します。富子は死罪を主張、使者に死罪を伝えさせてしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>　今参の局は唐崎まで来たときに追手の気配を感じ近くの寺に入ります。</p><p>追手に斬られる前に自裁することを決意、その方法はなんと切腹だったのです。</p><p>作法に則り腹を切ったときに追手がやってきました。</p><p>「おめおめ汝らに殺されて我一門を辱めようや、わが死にざまをとくと見よ」</p><p>と言い放ち息絶えたと言います。</p><p>&nbsp;</p><p>　その後、</p><p>重子は足腰が立たなくなる重病に罹り、富子は毎夜今参の局の亡霊に悩まされました。</p><p>富子周辺のトラブルはその後も続き、終いには今参の局の祟りを鎮める怨霊の末社を</p><p>歓請して今参の局の怒りを鎮めることになりました。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aplicom/entry-12824267932.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Oct 2023 21:20:13 +0900</pubDate>
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<title>〇切腹の起源</title>
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<![CDATA[ <p>武士の自裁手段である「切腹」ですが、その起源は平安時代まで遡ります。</p><p>&nbsp;</p><p>　源為朝は、常人の５倍の強度の弓を軽々と使いこなすと言われた猛者で</p><p>子供の頃からやんちゃで父の源為義も持て余し、13歳で九州に下向させられました。</p><p>　16歳の頃には大宰府を制圧し、更に九州を制圧し<strong>「鎮西八郎」</strong>と自称しました。</p><p>後白河天皇方と崇徳上皇方が争った保元の乱（1156年7月）で京都に戻り、</p><p>父為義とともに上皇方で参戦しましたが破れて伊豆大島に流されます。</p><p>　その際、二度と弓が引けなくなるようにと、腕の腱を切断されたそうです。</p><p>しかし、恐るべきことにそれを乗り越えて、再び強弓が引けるまでに復活します。</p><p>そして次々と伊豆の島々を制圧し、「為朝王国」なるものを作ってしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>　それに危機感を覚えた朝廷は、伊豆諸島へ征伐軍を派遣し為朝征伐に乗り出します。</p><p>自身に対する討伐軍が向けられたことを知った為朝は、勝ち目のないことを悟り</p><p>最後は自裁することを選んだそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>　征伐軍との戦いで数には勝てず館へ逃げ帰り、柱を背にして腹を切りましたが</p><p>死にきれず悶えているところへ、討手の加藤次郎景康が背後から忍び寄り為朝の首を</p><p>落としました。これが武士の切腹の始まりとされています。</p><p>腹を切ったくらいじゃ即死する訳じゃなし、その苦痛は想像を絶すると思います。</p><p>首を落とすことでその苦痛から解放されますが、ある意味武士の情けでしょうか。</p><p>　以降、切腹は武士の面目を保つ自裁手段として、横一文字や横縦十文字などの方法も</p><p>作法として整えられてゆきます。そして、為朝の首を落とした故事から「介錯」も加え</p><p>江戸時代には切腹の作法が完成していたようです。</p><p>&nbsp;</p><p>　その作法の中には、「扇子腹」と言うのがあって、身分の高い武士が切腹の作法の</p><p>乱れを恐れ考案されたもので、切腹の短刀を腹に立てる真似をすると介錯人がその首を</p><p>落とすと言うものです。赤穂浪士で有名な浅野内匠頭の切腹は「扇子腹」でした。</p><p>&nbsp;</p><p>　切腹の伝統は明治維新後は軍人に受け継がれ太平洋戦争の敗戦まで続きました。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/aplicom/entry-12822710076.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Oct 2023 09:24:33 +0900</pubDate>
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<title>〇のろまの由来</title>
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<![CDATA[ <p>　動作の鈍いことや、あまり賢くないことを「のろま」と言っています。</p><p>&nbsp;</p><p>　これは、江戸時代寛文年間の操り人形の興業から生まれた言葉です。</p><p>&nbsp;</p><p>　浄瑠璃太夫、薩摩浄雲の高弟、泉大夫が、堺町で操り人形の興業をしたとき、</p><p>人形遣いの野呂松勘兵衛が頭の平たく、青黒い卑しい身なりの人形を使い、</p><p>一方の縑斉佐兵衛が顔立ちも身なりもきりりとした賢い感じの人形を使い、</p><p>両者の賢愚の使い方の狂言が大好評を博しました。</p><p>&nbsp;</p><p>　それ以降、愚かしい人間のことを人形遣いの名を使い、「あいつは野呂松だ」と言い</p><p>いつしか「野呂松」がなまって「のろま」になり定着したものです。</p>
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<pubDate>Sat, 07 Oct 2023 22:09:50 +0900</pubDate>
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<title>〇猫ばばの由来</title>
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<![CDATA[ <p>　「猫ばばを決め込む」とは、返すべきものをそのまま自分のものにすることです。</p><p>　「猫ばば」の元は「猫婆」ですが、IEの漢字変換では「猫糞」と出てきます。</p><p>&nbsp;</p><p>　この由来ですが、</p><p>　江戸時代は宝暦（1751-1764）の頃、本所に30匹を超える猫を飼う老婆がいました。</p><p>その息子は医者で裕福な暮らしをしていました。</p><p>&nbsp;</p><p>　30匹も飼うほどの猫好きで、猫を「猫可愛がり」することで有名でしたが、</p><p>近所の評判は芳しくなく、借りたものや拾ったものを自分のものにしてしまったり、</p><p>よそから何かを貰っても決してお返しをしないことでも有名でした。</p><p>暮らしぶりは裕福なのにと近所からは厳しい視線が向けられていました。</p><p>&nbsp;</p><p>　そこで誰言うともなしに、返すものを忘れたりしていると、</p><p>まるで「猫婆」のようだと引き合いに出されるようになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、不当に物を所有することを「猫ばば」と言うのが定着したそうです。</p>
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<pubDate>Thu, 05 Oct 2023 18:42:37 +0900</pubDate>
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<title>〇ヘソが茶を沸かす</title>
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<![CDATA[ <p>おかしなことを言うと　「ヘソが茶を沸かす」と言われ笑いものになりますが、</p><p>「ヘソが茶を沸かす」とはどういうことでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　おかしくてたまらない、ばかばかしくてしかたがないことの例えで使われる言葉で、</p><p>嘲りの意をこめて用いられることが多いようです。</p><p>&nbsp;</p><p>　「お茶」にまつわる言葉は枚挙にいとまがありません。</p><p>　お茶が気軽に飲めるようになったのは江戸時代になってからのことです、それ以前は</p><p>武士階級で茶道として嗜まれていました。江戸時代中期にはお茶が庶民の飲み物になり、</p><p>お茶にまつわる言葉が多く生まれています。</p><p>「お茶の子さいさい」、「お茶をにごす」、「茶にする」、「茶番」などなど・・・</p><p>&nbsp;</p><p>「へそが茶を沸かす」は、当時の人びとに好まれ、さまざまな文芸作品にも登場します。</p><p>&nbsp;</p><p>　あまりの馬鹿馬鹿しさに大いに笑いコケるときの、腹がよじれて波打つ様子が</p><p>湯が沸き上がるのに似ていることに由来していると言われています。</p><p>　笑い過ぎてお腹が痛くなったとき、おへそのあたりが煮え立つように沸騰するので、</p><p>そこへ茶を沸かす急須でも置くと、お茶が沸くんじゃないかという思いがありそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>　同義語に「へそが笑う」、「へそが捩れる」、「片腹痛い」がありますが、</p><p>どれも笑い過ぎて腹が捩れることに由来しています。</p><p>&nbsp;</p><p>　浄瑠璃の「糸桜本町育」の中に</p><p>『意見するもあんまり阿保らしいて、呆れが舞うて臍がをかしがって茶を沸かす』</p><p>と謳われていて、「へそが茶を沸かす」が広く使われていた様子が伺えます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/aplicom/entry-12822701144.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Oct 2023 19:01:50 +0900</pubDate>
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