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<title>ルチュセールのブログ</title>
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<title>しきたり</title>
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<![CDATA[ <p>しきたり、儀礼作法、マナーというものは伝統ある場だけでなく、日常生活どこにでも見られる光景である。</p><br><p>それは、地域を異にすれば、もっとわかりやすく国をまたげばわかることだが、</p><p>限定された空間において発動するものである。</p><br><p>共有することで活動を滞りなく行えるようにする潤滑油である。</p><br><p>ところが、場そのものを崩壊させる要因にも傾くものである。</p><br><p>　それらはあくまでも形式的に。形骸化してもだめだが、内容に重きを置きすぎてもだめである。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11202503692.html</link>
<pubDate>Sat, 24 Mar 2012 20:30:45 +0900</pubDate>
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<title>民主主義と独裁</title>
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<![CDATA[ <p>両者は二律背反ではない。</p><br><p>民主主義とは大衆の政治への参加であり、</p><p>独裁とはひとりもしくは少人数による統治である。</p><br><p>つまり、民衆によって選ばれた人が独裁をすることはあり得るのである。</p><p>ナポレオンやヒトラーを。</p><br><p>この時ポイントは、選んだ後の民衆は参加ではなく服従である。</p><br><p>しかし、もっとも注意すべきはどうやって選んでいるのか？である。</p><p>たとえば、選ぶときに行う行為は判断である。</p><p>判断には勉強、知識、そしてそのための時間が必要である。</p><br><p>世界で、国民の大半が政治について熟考してる国はあるのだろうか？</p><p>あれば、教えを乞いたいものである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11201228134.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Mar 2012 14:42:03 +0900</pubDate>
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<title>殺人はなぜ「罪」か？</title>
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<![CDATA[ <p>日本において、故意であれば100パーセント罪に付される殺人。</p><p>ところが、死刑制度が根強く、死刑廃止の運動が兆候すら見られないのも当の日本。</p><br><p>殺人が罪なら、死刑制度も廃止しろ。という意見ではないことを先に言っておく。</p><p>殺人の良し悪しはあまり重要ではない、むしろ、下の考えに対して障害にさえなる。</p><br><p>殺人において外せないのが、道徳観・倫理観である。</p><p>しかし、道徳的に悪いから法の規制が行われるわけではない、言い換えれば道徳＝法という風に直結しないということである。例えば、嘘をついてはいけない。</p><p>道徳はあくまでも法や秩序を正当化するための指針でしかない。</p><br><p>法をルールと解するなら、スポーツを例に挙げるのがここでは適当だろう。</p><p>スポーツはルールを守らなければならない。これでは回りくどい。</p><p>スポーツはルールを破るとスポーツそのものが成り立たない。</p><br><p>だから、なぜ殺人はだめなのかは、罪だから罪だというトートロージーでオッケーであり、</p><p>むしろ、なぜ殺人は罪でなければならないのか？が適切な命題なのである。</p><br><p>王権・封建国家においては、殺人の許容は、恐怖政治に簡単に陥り、恐怖政治は長く持たず、秩序形成において駄案である。</p><p>また市民社会においては、競合者同士の殺し合い、債務者による債権者の殺害が横行し、これまた市場原理が成り立たない。</p><p>つまり、殺人を「禁止」することが、秩序形成において最良の案なのである。</p><br><p>ここで、図式化すると「個人」と「社会(秩序）」の対置である。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11198386984.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Mar 2012 16:20:17 +0900</pubDate>
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<title>わかる</title>
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<![CDATA[ <p>わかるという言葉がある。</p><p>しかし、そこには二つの違いがある。</p><br><p>・理解する</p><p>・納得、得心がいく</p><br><p>上は、原因や前提を知り、立場から生まれる論理を知ることであり、</p><p>下は、直感や感覚、生理的に、などが含まれる。</p><br><p>たとえば、日本に住む人がゴキブリを食べるということの捉え方を見ればわかりやすい。</p><br><p>不衛生で見るのも嫌なゴキブリを食すというのは一見理解できないかもしれない。</p><p>しかし、食べ物がないという前提や、調理すれば体に害はないということがわかればあり得るのである。</p><p>上記の意味では、確実に誰でも「理解」することは可能である。</p><p>しかし、これまでの生活や習慣をもとに生きている人間は、理解できても受けつけないことがある。</p><br><br><br><p>人間は分かり合えるのか？</p><br><p>これは分かり合えるという立場の人は理解しあえるという意味で、分かり合えないという人は納得はしあえないという意味で実は対立していないのである。</p><p>そして、理解はできるけど、納得はいかないことを否定せず、保留するという意味での</p><p>「寛容」</p><p>こそ、全体主義に個人主義が抗うための手段である。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11150545193.html</link>
<pubDate>Mon, 30 Jan 2012 19:19:03 +0900</pubDate>
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<title>感覚</title>
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<![CDATA[ <p>感覚とは本能ではない。</p><br><p>少なくとも、感覚の尺度は後天的に決まる。</p><br><p>ではどうやって決まるのか？</p><br><p>それは周りの意見を取り入れる過程にある。</p><p>周りと感覚が違っていると、押しつぶされて生きていくには窮屈になっていくからである。動物は環境に適合するだけだが、人間は周囲の人間にも適応していく必要がある。</p><p>これが人間が社会的動物といわれるゆえんである。</p><br><br><p>一番短絡的な例を挙げると、「花」が一番わかりやすい。</p><p>親は幼い子供に対して花を見せる時なんて言葉をかけるだろうか？</p><p>　「ほら、花だよ。きれいだね。」</p><p>つまり、花はきれいといわれているからきれいなのである。ただし、これは特に花に思い入れのない人の場合でもなぜきれいだと感じるかについての回答である。いわゆる芸術家は別のアプローチをすべきである。</p><br><p>つまり、周りに合わせると、感覚まで同じになっていくのである。すると、周りに合わせているつもりはないのに、周りと同じ意見になっていく。これは、個人主義を掲げる現代において大きなパラドックスとなっている。</p><br><p>周りの意見は参考にしても、決して気にするな。</p><p>周りの意見を取り入れないと、押しつぶされ孤立してしまう。しかし、気にしすぎると、今度は没個人てきになってしまい他者との区別を必要としない取り替え可能な人になる。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11148514694.html</link>
<pubDate>Sat, 28 Jan 2012 17:18:09 +0900</pubDate>
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<title>決断と選択</title>
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<![CDATA[ <p>結論から言うと、決断をプラスで表し選択をマイナスにしようと思う。</p><br><p>決断とは決断をするということ。</p><p>選択とは選択肢から選ぶということ</p><br><p>与えられた選択肢の中で自分の意志で選ぶすること、これが法律でいうところの「自由」だ。</p><p>しかし、選択肢に意図を与える意思があるのなら、それは選ばされているといえるだろう。</p><br><p>そして、与えられた「条件」の中で、自分で選択肢を想像・創造し、決定を下すのが決断。</p><p>これに必要なのは、自分の現状を把握する状況分析力、思考を働かせる勇気である。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11112705747.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Dec 2011 02:48:43 +0900</pubDate>
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<title>マルクス主義と労働者</title>
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<![CDATA[ <p>ちょっと知っている人なら○○と答えるだろう、という言葉遣いがあるが、</p><p>タイトルに関してはどっちになるのだろうか？</p><br><p>つまり、</p><p>マルクス主義は労働者を絶賛している</p><p>もしくは</p><p>マルクス主義は条件付きで擁護している</p><br><p>もちろん僕の考えでは後者が正しいのであり、両者の間には深淵な溝があるといっていいだろう。</p><p>違いを簡単に言えば、労働者はそのまま労働階級ということにはならないということである。</p><p>階級対立を自覚して初めて政治に参加できるのである。民主主義の基本になるのかもしれない。</p><p>権利を与えても行使する能力・環境が整ってなければ、それは豚に真珠・猫に小判・宝の持ち腐れである。</p><br><p>与えられた仕事を淡々とこなしていく。それは大変なことであることは疑いようもないが、サーカスの動物もしていることである。教えられた芸を覚え餌をもらう、しかしサーカスの運営に関しては何も知らない。</p><br><br><br><p>労働者が政治について考える、ましてや参加するなど、今の労働時間で可能なのか？</p><p>こんな単純な考えはみんなしてるのだろうか？</p><p>してれば、…・。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11108007665.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Dec 2011 22:20:03 +0900</pubDate>
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<title>能力</title>
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<![CDATA[ <p>能力・実力主義はいい傾向なのだろうか？</p><br><p>これを考えるには前提を確認すべきだろう。</p><p>つまり、望まれている能力を持っているのに、発揮する環境にあるのか否か。</p><br><p>簡単に、身分社会か？自由社会か？</p><br><p>前者から後者への過渡期においてこそ、まぎれもなく実力主義はプラスの意味を持つことになる。</p><p>できる仕事なのに、家柄や経歴が考慮に入れられ、やる前に門前払い。これをなくすために叫ばれている考え</p><p>方なのである。</p><br><br><p>ところで、能力があるのを判断するのは誰だろうか？</p><p>それは自分ではなく、他者、もっといえば社会である。なので、実力があるというのはすでに必要とされていることができるか否かであり、それは自分の意志の前段階・手前であり、</p><p>自由に能力を発揮するその仕事内容はすでに当たられた条件をのみこんでいるのであり、そこには自分の意思はない。</p><p>だからこそ、SFにあるような遺伝子やなんやで適材適所にあてがわれるという発想が生まれるのである。</p><br><p>自由に仕事をするということは、すでに与えられた檻の中で自由に走り回っていいということである。</p><br><p>そういう意味では、身分社会も自由社会もあまり変わらない。つまり、社会における事故を顧みずに、ただ与えられた仕事≒自分に合った仕事をやるのだから、その人が</p>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11093303149.html</link>
<pubDate>Wed, 30 Nov 2011 03:22:31 +0900</pubDate>
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<title>いい加減</title>
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<![CDATA[ <p>いい加減をプラスととらえる人にとって、その反語は真剣ではなく、勤勉である。</p><p>勤勉とは与えられた仕事などに対して、自分の気持ちを後回しにして仕事そのものを優先することである。</p><br><p>真剣と勤勉の共通項は取り組む姿勢である。やると決めたことをやりきることである。</p><br><p>その判断基準が内部にあるのか外部にあるのか？</p><p>生活・世間体・周りの薦め、どれもこれも外部のものである。そして、そんなものではなく、自分の気持ち・信念で持って決める人が真剣にそして、全力になれるのである。</p><br><p>問題はそれは不可能に限りなく近いということである。生活に関して言えばその仕事をするしないが生きる死ぬにかかわるのであれば、真剣も勤勉もくそもない。選択肢がないのだから。</p><p>さらに、世間体という言葉で表しているがこれも強力なものである。なぜなら、人と社会は切り離し不可能であり、人によって社会に適合することをアイデンティティにしているからである。精神構造と社会構造をセットで考えない、学問があれば少し距離を置かなければならない。それは新興宗教に近いにおいがある。イデオロギーを精神的なものだけでなく物質的なものとしても考えなければならない。</p><br><p>自分がやることに常識を当てはめて生きることは楽である。それはサーカスの動物が芸を覚えることについて何の疑念もなくこなし生きるのに等しい。</p><p>サーカスの動物は調教師にとってどんな意味を持っているのか。コントロールしなければならないと同時にその人にとって必要不可欠な存在である。一蓮托生</p><br><p>最近の子は夢がないという。それは秩序体にとって願ったりかなったりである。</p><p>すべての人が従順になるからではなく、少数の夢人と大多数の従業員という構成が出来上がるからである。</p><p>極端に言うと夢とは社会形成と同義語といえる。だからこそ、生きることつまり、社会従順・社会貢献しかはなから頭にない、考えられない人が夢というのは考えたくても考えられないのである。新興宗教にはまっている人に、その経典から外れることを話しても聞き入れてもらえないのに似ているのかもしれない。</p><br><p>話を戻すと、いい加減であることは夢に近づく第一歩ということである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11088943691.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Nov 2011 17:44:44 +0900</pubDate>
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<title>捨てる</title>
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<![CDATA[ <p>ごみを捨てる、思い出を捨てる、考え・価値観を捨てる</p><p>子供・親を捨てる、選択肢を捨てる、人生を捨てる、故郷を捨てる</p><br><p>つまり、いらなくなったものを自分から切り離すことをあらわす言葉</p><br><br><p>例えば、学生手帳を思い浮かべてみる。それは学生の間のみ必要なものなので、人によっては卒業とともに捨てる人もいるだろうし、思い出の品として大事にとっておく人もいるだろう。</p><p>ここから、一つのものであろうと、必要の意味は多岐にわたり人によっても違い、さらに複数の意味を持つことがわかる。</p><br><br><p>捨てるかどうかはさして問題ではない。そこにはその人の考え次第であり、考察するのは難しい。</p><br><p>そして、考えたいのは、</p><br><p>捨てるということはそれまでその人の身に引っ付いていた</p><p>モノの価値とは人とモノの関係にある</p><br><p>ということである。つまり、捨てるとは自分のものだと考えていたものを、必要でないと判断するということなのである。そこからは、物質と精神を切り離して考えることがある視点からはとても素晴らしい思い付きではあるけれども、人間一人一人にとっては、とてももったいないことである。</p><br><p>なぜなら、自分（決して、外部と切り離すことはできない）について考えることを不可能にするからである。</p><br><p>続く、</p>
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<link>https://ameblo.jp/aruchuse-ru/entry-11088902963.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Nov 2011 16:40:58 +0900</pubDate>
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