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<title>ジジイ47歳、小説家を目指す</title>
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<description>小説を書き、応募にいたるまでの日々を同時進行で綴りますです、はい。</description>
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<title>夜に書くのはやはりダメだ</title>
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<![CDATA[ 周りが暗く、集中できるのを良いことに、いい気になって書いてきたらこんな時間。<br>集中できるのは良いけれど、どうしても物語が内に内に向かってしまう。<br><br>物語にはポジティブな何かがないと、僕はダメだと思っている。<br>希望のない小説には存在理由がない。<br><br>変なテンションになるのを好調と勘違いしているだけで、つまり、夜中に書くのはやはりダメということだ。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11086564199.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Nov 2011 03:53:43 +0900</pubDate>
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<title>図面を書く、地図を書く</title>
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<![CDATA[ 天気の良い日曜日。<br>図書館まで散歩しつつ、今日は資料を横に室内の図面と小説で出てくるエリアの地図作りをしていた。<br><br>場面がある程度限定されるような ―― 例えば森林の山小屋で起きた密室殺人とか ―― 内容であれば室内図面を用意すればある程度カバーできるのかも知れないけれど、時代劇となると地図と室内図面は欠かせない。<br>なにせ今の東京とはまったく違う。<br>品川から上野まで「山手線で１５分」と、瞬間移動させるわけにはいかない。<br>各時代の地図を見比べ、どこに何があって、どれぐらいの距離だったかを測り、移動にどれぐらいの時間がかかるのかをメモする。<br>図面や地図を作ってから小説を書いてるわけではなく、書いている途中でこんがらがってきたから作り始めたのだが、実際にコリコリと地図や図面を描いていると、想像では気付かなかったことが見えてきたりする。<br>これがけっこう面白い。<br><br>小説なんて娯楽と言えば娯楽だけれど、僕はそういう部分の現実味にはこだわっているからこそ、読む人がのめり込んで読んでくれるのだと信じている。<br>もちろんその物語が面白ければ、という条件付きだけれど。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11084516855.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Nov 2011 22:19:10 +0900</pubDate>
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<title>習う効果ってあるのだろうか？</title>
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<![CDATA[ いま小説書きとは関係のない市民講座を受講している。<br>写真に関する講座なのだが、これがなかなか面白い。<br><br>写真は文章書きと同じくらい長く続けている僕にとっても重要な趣味の一つだ。<br>撮り溜めて、機会があるごとに仲間と写真展をやったりしている。<br><br>誰かに習ったというわけでもなく、ほぼ独学で続けてきたが、塵も積もればなんとやらで、30年も続けているとそれなりに詳しくもなる。<br>そんな背景がありつつ市民講座に参加してみたので、講義中に登場する写真的な知識はほとんどがすでに習得していたりする。つまらないと言えばつまらない。<br>でも、僕が持っているものはどこまでいっても独学で得た知識であって、講義の中でそういう断片的な知識にお墨付きが得られたり、体系化されると「ああ、間違ってなかったんだ」と安心できる。<br>これが誰かに習うという最大の効果なのかもしれない。<br><br>世には文章作法という本や文章講座というものがある。<br>僕はその類いを読んだことも参加したこともないのだけれど、写真講座を受講してみていちばん感じることは「その類いで上達することはない」ということだ。<br>講師の教えるままにやったところで、講師の劣化コピーができるに過ぎない。<br><br>だからと言って「無駄」ということは決してなくて、自分の作ったものが他者の目に晒される、フラットな評価を聞くことができる、自分の引き出しが増えるという点では参加する意味は深く、多い。<br><br>写真なら写真展という機会もあるが、残念ながら小説にはそういうパブリックな機会はないし、文章講座などでプロの文章書きの批評をもらうということも必要なのかもしれない（まあ周りの人に無理矢理読ませても良いのだろうけれど）。<br><br>ふと思ったのだけど、写真展みたいにアマチュアが集まって「小説展」なんてのをやったらかなり面白いんじゃないだろうか。<br>全部を読んでもらうのは時間がかかるから、粗筋やプロット、第一章だけを張り出して、壁新聞のように読んでもらうとか。日替わりで朗読をするのも良いだろう。<br>そうして自分の目の前で他者の目に晒すことで得るモノはきっと多いと思う。<br>これだけはネット越しでは得られないものだ（たぶん）。<br><br>いや、ふと思っただけです。
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11083142493.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Nov 2011 17:14:30 +0900</pubDate>
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<title>原稿用紙換算の謎</title>
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<![CDATA[ 今日は身体が重く、動く気にもならなかったのを良いことに、終日、パソコンに向かって原稿を書き続けていた。<br><br>僕は普段、Wordの設定を４０字３０行に設定している。<br>もうちょっと行数を増やしても良いのだけれど、進む老眼のせいで文字サイズをある程度の大きさにしたいこともあって、１行の４０字というと字間がかなり詰まった状態になる。<br>その上行間まで狭くなると息苦しくなるので、行数を少なめにしているというわけだ。<br><br>今日はこの設定で20枚ちょっとの量を書いた。<br>ラフすぎて後々手を入れなければどうしようもないくらいだけれど、最初は細かいところよりもスピード優先である。<br>まるでスケッチのようにディテールは気にせず、とにかく書く。<br>書くと言うよりも書き取るといった感じに近いか。<br><br>さて40字30行を30枚。これを原稿用紙に換算するとおおよそ60枚だ。<br>この「原稿用紙換算」というものが僕は以前から疑問で、400字詰め原稿用紙に換算するというのは、1マス目から400マス目までを、改行を無視してぎっちり詰め込んだ形で換算するのか、はたまた「なるほどねー」と8文字で改行した残りは空白マスとして換算するのか、いまでも良くわからない。<br>前者と後者では換算した枚数が全く違ってくる。<br>もちろんわからないことを逆手に取って、都合良く使い分けるのだけれど、どっちかはっきりとして欲しいと密かに思っている。<br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11082659862.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Nov 2011 02:08:49 +0900</pubDate>
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<title>書くためにいちばん必要なこと</title>
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<![CDATA[ 小説書きにいちばん必要なものは発想力でもなければ知識でもない。<br>風邪薬のコピーみたいだけれど、１に睡眠、２に体力だと思っている。<br><br>発送というのは知識と知識を繋ぐ糸みたいなもので、それは知識が蓄積されて、それらが正しく整理され、配置されていれば必然的に触覚のように伸びていく。<br>こう書いてしまうと知識が一番なのではないかとも言えるのだけれど、高度情報化社会の中では知識なんてそこら中に転がっている。リテラシーは不可欠だが、探し回る度合いは昔とは比較にならないほど恵まれている。<br><br>小説を書く作業というのは形を伴っていないものを文字という伝達手段を使って、第三者に受け渡す行為だ。<br>自分だけ判っていれば良いというものではない。<br>こちらが意図したこと、想像したことがもれなく、的確に伝達され、共有されなければ、小説としての意義はかなりの部分で損なわれる。<br><br>物語が損なわれないようにするためには書き手自らが物語の中に没入して、想像の中で進んでいく物語を注意深く観察し、書き留めなければならない。<br>これは思っているよりも遙かに体力のいる作業なのだ。<br><br>村上春樹がマラソンランナーとしていくつものレースに出ているのは有名だけれど、あそこまでストイックに自分を律することが共通して必要かどうかはともかくとして、物語の奥に入り込んでいくためにはやはりしっかりとした睡眠と体力が要る。<br>村上春樹がよく使うの「壁ぬけ」や「井戸の底に降りていく」という比喩は、それ自体が小説を書くという行為を実に判りやすく表していると同時に、当人の体力によって潜れる深さ、通り抜けられる壁の厚さに違いがあるのだ、ということも表している。<br><br>形をなぞっただけの小説のようなものは別として、重厚な小説をものするとか、多作するためには体力と睡眠がいちばん必要なんだろう。<br><br>と思って、昨日久しぶりにジムでトレーニングをしてきたのだけれど、トレッドミルで30分走り、ウェイトトレーニングを２セットやったところで膝とアキレス腱がパンパンになってしまった。<br>なんだか根本的なところがまず足りていないことを思い知らされた感じだ。<br>しかも今日は筋肉痛でひたすらぎこちない。<br>なんとも情けないハナシである。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11081880099.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Nov 2011 09:44:20 +0900</pubDate>
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<title>現実性に踏みとどまる</title>
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<![CDATA[ 三浦しをんの『風が強く吹いている』を再読。<br>再読も３度目ぐらいになるだろうか。<br>相変わらずあっという間にストーリーに引き込まれて、一気に読み切ってしまう。<br>小説の中心になっている長距離走者のように軽やかでありながら、実はものすごいスピードで。<br><br>まだ読んでいない人もいるだろうから話の筋には触れないが、ざっくり言ってしまえば「荒唐無稽」な話である（批判という意味ではないのでご注意を）。<br>偶然のような出来事から唐突に話が始まり、滑稽なほどに非現実的な展開を見せ、素晴らしく盛り上がりながら感動的なエンディングへなだれ込んでいく。<br>まさに小説の醍醐味を全部詰め込んだような物語である。<br><br>この物語を「非現実的だ」とか「あり得ない」と切り捨てるのは簡単なことだ。<br>どれだけ冷静に考えても、この物語のようなことが現実に起きる可能性はほとんどない。<br>だが、これは小説である。作家が資料や取材から生み出した空想のお話であって、ノンフィクションではないのだ。<br><br>のめり込み度合いの差はあれ、この小説を読んだ人の多くが物語に引き込まれただろう。<br>何故か。<br>この小説は「非現実的」ではあったとしても「現実味のない話」ではないからだ。<br>現実にこんな話が起きる可能性はほぼゼロに等しい。だがゼロではない。<br>なぜなら、この物語が現実性に踏みとどまっているからだ。<br>これぞ小説なのだ。<br><br>カフカの「変身」では朝起きたら主人公のザムザは巨大な虫になっている。<br>突飛で、非現実的だが、虫になる可能性は果たしてないのだろうか。昆虫にならずとも、唐突に虫けらのように扱われる可能性は？<br>この物語も非現実的でありながら、それ以外についてはことごとく現実的だ。<br><br>小説は自由である。開いた冷蔵庫のドアの中に相撲取りのような巨漢が当然のように入っていったとしても、その先がスカンジナビア半島の公衆便所に繋がっていたとしても、それはそれで良い。<br>だがそうして作られる非現実的な物語は、すべからく現実味を伴わなければならないのだ。<br>そうしなければ読む人を捉えることはない。<br><br>僕は時代小説を書いている。<br>とうに過ぎ去った過去の時代を仮借している。<br>記録・文献は残っていても、当時がどうだったのかを知る人はいない。<br>そういう意味ではどんな風に作ってしまっても構わないのだが、そこに読者が現実味を考えられないようでは、小説としては欠陥品であろうと思う（読まれないことを目的とするならそれでも良いのかもしれないが、読者を想定しない小説とはいったい何者であるのか、僕にはよくわからない）。<br><br>少々トリビアルな話だし、少々詳しい人なら理由はご存じだろうが、時代劇・時代小説の中で、江戸の町にそびえる江戸城の天守閣が描写されていたら、それはすべて嘘である。<br>江戸城の天守閣は明暦の大火で消失して以降、再建されていない。<br>文化・文政期を描くことが多い時代劇では江戸城の天守閣は、本当は見えてはいけないものなのだ。<br>だがそれは現代社会で時代小説を読む人がもっている誤った常識にはなっていない。<br>彼らにとっては江戸城の天守閣は江戸の町にそびえているものであって、なければオカシイものなのだ。<br><br>あり得ない話を書くことはすべてを事実に即して書くこととは違うようだ。<br>現代社会で通用する現実味を備えつつ、そこに極めて非現実的な空想を織り込む。<br>それを平然とするのが小説書きの腕の見せ所であろう。<br><br>いやはや難しい。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11078716976.html</link>
<pubDate>Mon, 14 Nov 2011 20:59:11 +0900</pubDate>
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<title>書く環境</title>
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<![CDATA[ 小説書きの魅力的なことの一つに場所を選ばないということがある。<br>自宅だろうが喫茶店だろうがファミレスだろうがノートPCなりなんなりを広げられれば、そこは即仕事場に早変わり。<br>ラッシュもないし、通勤時間のロスもない。<br>こんなに美味しい商売もない。<br><br>僕も例に違わず自宅やら喫茶店やら図書館やらでコリコリと書いているのだけれど、静かすぎるところよりも適当にざわざわしているところの方が進みが良いような感じがしている。<br><br>あと、願わくば天井がある程度高く、手元にスポットライトのような灯りが落ちていたら最高だ。<br>そういう場所を近所に見つけておくことも重要な作業なのだ。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11077465399.html</link>
<pubDate>Sun, 13 Nov 2011 18:43:12 +0900</pubDate>
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<title>夢に見たこと</title>
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<![CDATA[ 小説の描き方は徹頭徹尾文章で構成していく文章派と、頭の中に浮かんだ映像を文章で描写していく映像派に分かれると聞いたことがある。<br>この分類でいくなら僕は後者だ。<br><br>昨晩寝る直前まで、ベッドの中で全体を映像化して欠落や不備を想像していたら、明け方に夢を見た。<br>欠落や不備を見つけている夢ではなく、映画館で時代劇を見ている夢だった。<br><br>もちろん夢だから支離滅裂だし、途中は記憶からすっ飛んでいるのだけれど、それを差し引いてもなかなか面白いものだった（ただあの映画に1800円出すかというと少々の疑問はあるが）。<br>自分の頭の中にああいう展開をするような素材があったのかと気付いて、目が覚めて慌ててメモをした。<br><br>物語は非現実的なものだ。<br>それを非現実の枠組みの中に放り込んでも作り手の妄想にしかならないのではないかという恐怖感がある。<br>夢も妄想のうちだけれど、妄想で片付けるには惜しすぎる。<br>であれば夢を組み込むために周りを一層現実味のあるもので固めるしかない。<br><br>神は細部に宿る。<br><br>
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<pubDate>Sun, 13 Nov 2011 13:32:57 +0900</pubDate>
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<title>今日は下調べ</title>
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<![CDATA[ 良い天気の土曜日。<br>今日は図書館に籠もって資料を探しまくる。<br><br>私小説を書くなら周りを注意深く見ることから初めても良いのだろうが、時代小説となるとそうもいかない。<br>そこそこ詳しい方だとは思うし、いまはネットでもいろんな資料を探すことはできるけれど、持ってる知識とネットの情報だけだとなんとなく平面的な感じがする。<br>そこに奥行きを与えるのが小説書きの醍醐味だと言えば言えるのかも知れないけれど、想像で適当なことを書いてしまっては現実感が希薄になりそうで（平成のいま書かれた時代劇に現実感もへったくれもないんだけれど）、まったくの虚構を乗せるためには、土台は可能な限り現実に即していた方が薄っぺらさが消せるのではないかと思うのだ。<br><br>資料探しには独特の「予感」みたいなものがあるんだけれど、これは上手く表現できない。<br>あえて言うなら「匂う」ってことぐらいか。<br>「あ、これは関係あるぞ」という匂いを感じて掘り下げてみると、だいたい「アタリ」であることが多い。<br>そういう枝葉末節のことというのはたいがいにおいてトリビアルであり、知っているだけではただの雑学でしかないのだが、そういう枝葉末節の積み重ねが現実社会であるとも思うので、僕はわりとこだわっている。<br><br>もちろん仕入れた細部の知識を文面にもれなく使うということではなく、想像のリアリティを増すための小道具であったりもする。<br>正しく理解しないと勘違いが増えるだけになってしまうので、その辺は手間でもあるのだけれど、一度取り込んだ知識は消えないから、無駄はないのだと言い聞かせている。<br><br>今日も面白い資料にぶち当たると良いな。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11076097335.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Nov 2011 11:11:47 +0900</pubDate>
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<title>ユニットで作る。</title>
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<![CDATA[ えーと、ユニットと書いてしまうと、誰かと共作？というように見えますが、そうではなくて。<br><br>ここ２日ほど集中してやらなければいけない作業があって、小説書きの方は滞留中。<br>それでも頭から完全に消してしまうと、また物語の中に入っていくのが大変なので、何かいい方法はないかと考えた結果、書いている物語のパーツを作ってしまおうと思いついた。<br><br>パーツと言っても物語の流れの中の一部というわけではなく、主人公や登場人物の名前、性格、背景はそのままに、彼らを適当な場の中にポンと放り込んで、そこから起こるであろうことを３０００字分ぐらいで書いてしまう。<br>３０００字と言っても行に換算すれば８０行ほどのものだから、地の文と会話を合わせればすぐに書けてしまう。<br>そういうユニット化したものをいくつも作っておけば、作ったユニットを使える方向に物語が展開するかもしれないし、ユニットごとを結びつけるためにどんな橋渡しをすれば良いかも見えてくる。<br>物語とは直接関係のない場面なので、そのまま使えるかどうかは判らないが、一日に一度、そうして短時間でも物語の中に入り込むことは重要な予感がしている。<br><br>最初から順番に書いていかなければならないというルールがあるわけでもなし、最終的に物語が落ち着くところへ落ち着けば良いのであって、「こういうやり方だってあるのさ」というような気楽さで、思いつきのような「場」を書いている今日この頃である。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ash-novel/entry-11075916782.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Nov 2011 03:03:20 +0900</pubDate>
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