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<title>新・ユートピア数歩手前からの便り</title>
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<description>人間が本当に人間らしく生きられる「場所」（理想社会）とは何か。私は今、その問題についての思耕を更に進めていこうとしている。言うまでもなく、現実はなかなか理想通りにはいかないが、多くの人たちとの自由な討論を通じて、何とかして道を切り拓きたいと思っている。</description>
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<title>補足：キレイな生き方</title>
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泥水を啜ってでも生きる。そんなキタナイことをするくらいなら潔く死ぬ。どちらがキレイな生き方であろうか。言うまでもなく、聖化のドラマは前者から始まる。後者は生もしくは死の神聖化にすぎない。いや、「すぎない」と言うのは違う。例えば、踏絵の試練において自らの信仰を貫く。結果、磔にされる。あるいは特高の拷問に屈することなく転向を拒否続ける。結果、虐殺される。凡人には真似のできない神々しい生き方だ。神聖なものに殉じるのは容易ではない。多くの人はその立派な生き方を讃え続けるだろう。それに対して、磔刑への恐怖
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<dc:date>2026-06-10T18:37:59+09:00</dc:date>
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<title>補足：神秘的融即</title>
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レヴィ＝ブリュール（Lucien Levy-Bruhl）は未開人の思惟を神秘的融即と称した。ここで融即と訳されている仏語はparticipationだが、自己を特定の動物や植物だと思い込むような大自然との一体化だと思われる。そこにおいて未開人の人格は大自然に溶け込んでいる。現代人にも「自分は大自然の一部だ」という意識はあるが、自己を失うまでには至らない。人格はしっかりと維持されており、自然を対象化して可能な限り自分たちに快適な自然に改作しようとしている。それは基本的に正しい。自然と一体化している
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<dc:date>2026-06-09T18:01:44+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（１０）</title>
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世俗化は正しい。他律的な支配者と化した神聖な神が死に、人は自律的な個人として生きる。しかし、自律の理想はやがて俗化してエゴイズムに堕していく。自己中心の世界に人が「本当」に生きる意味はない。そこで人は聖なるものとの関係を取り戻そうとする。世俗的な幸福を追求する水平の次元からそれを超越する垂直の次元へ。聖化のドラマのクライマックスは聖なるものとの新たな関係に見出される。もはや始源の聖なるものへの回帰（後向きの運動）はあり得ない。それは依然として大きな魅力ではあるが、私はあくまでも新たな関係の構築（
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<dc:date>2026-06-07T23:43:17+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（９）</title>
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聖なるものは目に見えないし、言葉にすることもできない。従って、厳密に言えば、聖なるものとして問題にすることさえできない。問題にするや否や、それは既に神聖なものに転化している。「語り得ないものについては沈黙せねばならない」とはヴィトゲンシュタインの戒めだが、聖なるものについても沈黙が最も誠実な態度であろう。しかし、それでは話が始まらない。沈黙に徹する物語も可能だが、たとい堕落が不可避でも、私は聖なるものが現実化するドラマを求める。例えば、聖なるものをあらゆる色を超越する純白とするならば、世俗化の泥
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<dc:date>2026-06-06T22:57:43+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（８）</title>
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世俗化と俗化を区別したように、私は聖なるものと神聖なものを区別している。二つの区別は対応している。どうしてそんな面倒な区別をするのか。何事にも肯定面と否定面があるからだ。「人は神なくして生きられない。神を否定すると偶像を拝み出す」とはドストエフスキイの言葉だが、その場合の神が聖なるもので、偶像が神聖なものだと理解してもいい。人は何のために生きているのか。その答えを求める途上で人は聖なるものと出会う。その出会いが聖化というドラマの起点になる。具体的には仏陀やイエスなどの教えを介しての出会いになるが
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<dc:date>2026-06-05T22:36:13+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（７）</title>
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思いつくまま書き連ねているので、支離滅裂な思耕が続いている。「世界の水平化」を上手くイメージ化できず、なかなか聖化にまで辿り着けない。臆面もなく言えば、私はこの腐敗した世界を根源的に変革すべきだと思っている。それが聖化だ。世界の腐敗は俗化に起因している。ならば俗化する以前の世界に戻れば腐敗は解消されるのか。それは違う。話はそんなに単純ではない。俗化と近代化は連動しており、それ以前に古き良き世界があったと想定することはできる。未だ神が生きていて、その恩寵を中心とした伝統を重んじる世界だ。しかし、そ
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<dc:date>2026-06-04T18:05:38+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（６）</title>
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富裕層の生活はキレイで、貧困層の生活はキタナイ。一般的にはそう言えるが、清貧の生活こそキレイで、贅沢で浪費しがちな生活はキタナイ、とも言える。何がキレイで、何がキタナイか。それはその人の生き方による。もとより衛生上の清潔・不潔と無関係ではないが、ここでは生き方としてのキレイ・キタナイを問題にしたい。誰しも（殊に幼い頃は）キレイな生き方をしたいと思う。それは正直で、規範的な生活だ。しかし成長するにつれて、そんなキレイな生き方に疑念を懐くようになる。反抗期の到来。親や教師が押し付ける社会的規範は必ず
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<dc:date>2026-06-03T22:55:13+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（５）</title>
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聖化は究極的には「世界の垂直化」だが、「世界の水平化」とも無関係ではない。むしろ、現実的には「世界の水平化」として展開する。ただし、水平化は均一化ではない。水平先生によれば、世界の腐敗の兆候は貧富の差に見出されるが、人々の暮らしの均一化は愚の骨頂だ。そもそも働き者と怠け者の給料が同一なのは不公平ではないか。貧富の差が生じるのは自然の理に他ならない。強い者が栄え、弱い者は滅びる。それが真実だ。ところが、そうした自然の真実が人間の世界では腐敗の兆候となる。何故か。自然の真実を超越する人間の真理、それ
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<dc:date>2026-06-02T23:55:59+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（４）</title>
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NHKスペシャル『潤日の肖像：日本に向かう中国』を観た。「潤日（ルンリィー）」とは中国の富裕層が日本に移住して良い生活をすることらしいが、その増加は何を意味するのか。私は複雑な思いに駆られている。中国マネーが日本に流れ込み、地方の産業などを活性化させるのは良い。また、中国政府が執拗に反日キャンペーンを繰り返しているにも拘らず、民衆レヴェルでは日本での生活にパラダイスを見出していることには嬉しさや誇らしさも感じている。しかし、よく考えてみれば、日本にパラダイスを見出せるのは富裕層だけだ。日本に移住
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<dc:date>2026-06-01T17:39:43+09:00</dc:date>
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<title>聖化のための覚書（３）</title>
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生きていれば汚れる。汗をかく。垢もたまる。死ねば、もう汗も垢も出ない。しかし、死体がキレイなのは束の間であり、やがて腐敗が始まる。その過程は実に醜い。おぞましい。ただし、微生物に完全に分解され尽くして土に還れば、やっと「本当」の死に辿り着ける。もっと手っ取り早く火葬されて骨になる近道が今では一般的だが、そこでは誰もがキレイになる。善人も悪人もない。もはや生の意味を問われることはなくなり、皆キレイなモノになる。例外はない。 生はキタナイ。死はキレイ。「本当」にそうか。イマドキの若者は原口統三や岸上
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<dc:date>2026-05-31T23:29:13+09:00</dc:date>
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