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<title>秀頼生存!⁉️鹿児島に残されたその証</title>
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<title>大阪の陣の意趣返し⁉️明治維新の真相</title>
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<![CDATA[ <p><br></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20231227/01/atsumune0813/70/06/j/o1080144015381977540.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20231227/01/atsumune0813/70/06/j/o1080144015381977540.jpg" border="0" width="400" height="533" alt=""></a></div><p><br></p><p></p><p>大阪の陣は豊臣贔屓からすると納得がいかない家康の所業です。方広寺の鐘の刻印は本当に秀頼の思惑で刻まれたものなのか？二条城での面会の家康への立ち振る舞いは現在まで語り継がれています。そのような秀頼ですから彼の意思でこのような文字を刻んだとは思えなない、これが私の見解です。おそらく家康にとって秀頼の存在はただただ脅威であったのでしょう。二条城での面会で家康自身秀頼を高く評価しています。秀忠に将軍職を譲ったとしても天下は豊臣家に戻ると危惧したのではないでしょうか。。大阪の陣の結末は秀頼ファンにとっては何とも歯がゆい結末です。</p><p></p><p>もしその後に豊臣家が存続していたとしたら臥薪嘗胆いつの時代かその仇を打つというのは世の常！そんな思いから徳川家が政権を失った明治維新の中に何かその仇討ちの要素が隠されていないかを検証してみました。</p><p>維新は薩摩藩士が中心に行ないその中心人物はご承知の通り西郷隆盛です。慶喜を大阪城から追い出し江戸で討とうとしていました。無血開城に至るまでの西郷はいつになく執拗に慶喜を追いました。その時の資金を捻出し西郷の後ろ盾となったのが大阪留守居役の</p><p><br></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20231224/12/atsumune0813/6d/c6/j/o1080144015380795381.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20231224/12/atsumune0813/6d/c6/j/o1080144015380795381.jpg" border="0" width="400" height="533" alt=""></a></div><p><br></p><p></p><p>木場伝内であったというのは何とも不思議な巡り合わせです。(写真は海音寺潮五郎の西郷隆盛の一説)</p><p></p><p>以前も紹介しましたが五七の桐が政府の家紋として使われているのは単なる偶然なのか必然なのか、皆さんはどのように思われますか？</p><p><br></p>
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<pubDate>Sun, 24 Dec 2023 09:21:22 +0900</pubDate>
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<title>南洲墓地にある木場氏のお墓</title>
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<![CDATA[ <p>鹿児島市にある南洲墓地の中に木場守義という人物のお墓があります。どうやら田原坂の戦いでなくなりここに埋葬されたようです。西南戦争初期に亡くなっていることから西郷隆盛が存命中に埋葬されたものではないかと想像します。</p><p>先ず注目したのはこのお墓の置かれている位置です。西郷隆盛のお墓の真後ろに位置し、一番後方の列の真ん中に位置しています。墓石の高さはその列の中で最も高いものとなっています。。更に墓石に彫られている家紋が桐(写真)である事です。これらが偶然なのか必然なのか何とも興味をそそられる木場氏のお墓です。鹿児島の南洲墓地をお参りされる際に是非、このお墓の位置まで足を運びお参りください。</p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20231119/12/atsumune0813/7a/c7/j/o1080144015366285407.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20231119/12/atsumune0813/7a/c7/j/o1080144015366285407.jpg" border="0" width="400" height="533" alt=""></a></div><p><br></p>
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<pubDate>Sun, 19 Nov 2023 12:26:15 +0900</pubDate>
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<title>秀頼が最も感謝すべき家とは誰か？</title>
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<![CDATA[ <p>大河ドラマの影響もあって家康ブームの折、豊臣家存続の裏付けを追い求めながらブログを書き続けているなんて、何とも空気が読めないブロガーだとお思いでしょうが、このようなタイミングだからこそ豊臣家も記憶に留めておいて頂きたいと思い書き続けています。引き続きお付き合い頂ければと思います。</p><p>さて、次に挙げる支援者はなるほどと皆さんに何の疑いもなく首を縦に振って頂ける人物だと思っています。</p><p>古文書内の家房、家明。初代二代目の両名に使われているこの「家」はよほど大きな恩義を感じた重要人物に違いないと思われます。この「家」の名がつく人物を誰かと想像した時、瞬時に頭にひらめいたのが島津家です。秀頼を薩摩で匿い生活を手厚く支援したその時の藩主ではないかと考えました。秀頼が薩摩に入ったであろう時代の薩摩藩主が島津家久である事に気付いた時、多少の興奮を覚えましたがこれまでの命名書内の人物と同じく秀頼の家臣でもある事から間違いないと考えます。</p><p>家康との関係悪化の可能性をも顧みず薩摩に迎え入れた薩摩藩主島津家久(忠恒ともいう)に対する恩義はかなり大きなものだったに違いありません。薩摩という地に住み続けることになる子孫のことを島津家に託すという意味でも最も大切な支援者であった筈です。その証拠に木場家の代々当主には本名とは別にセカンドネームがあります。現在の当主も家継という名を持っているということです。このようなセカンドネームを持つ家系は非常に珍しいと思われますが、これは島津家に対する敬意と感謝の気持ちを表わすものなのでしょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/atsumune0813/entry-12818202776.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Aug 2023 12:16:33 +0900</pubDate>
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<title>秀頼支援の明は明石掃部⁉️</title>
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<![CDATA[ <p>明石掃部(全登)の最初の主君は宇喜多直家、次に宇喜多秀家、そして最後の主君が豊臣秀頼です。掃部の妻は宇喜多直家の娘であり、従って掃部にとって宇喜多秀家は主君でもあり義理の兄弟でもある訳です。</p><p>掃部の行方は大阪の陣が終わってから不明です。私はこの写真の「秘録島原の乱」に書かれているように、秀頼の大阪城脱出劇に大いに関わり、秀頼と共に薩摩に入ったと想像しています。この小説を読んだことで、なおさら脱出劇に関わっていない筈はないと考えるようになりました。</p><p>主君であった宇喜多秀家は関ヶ原の戦いのあと徳川家康によって改易さました。そののち薩摩に逃れ一時薩摩藩によって匿われたことは有名な話です。掃部自身もその時の経緯は十分に知っている筈で、掃部の立場を鑑みた時、この件に関与していなかったと考える方が不自然なくらいです。掃部と島津氏はこの一件でかなり関係が深かったのではないでしょうか。秀頼を島津家のもとに掃部主導のもと、導いたことについては疑う余地はないと考えています。</p><p>掃部は敬虔なクリスチャンでもありました。クリスチャンであるが故に秀頼に自害を避けらよう説得したのではないでしょうか。</p><p>この「秘録島原の乱」著者の加藤廣氏も、私と同様に掃部が秀頼大阪脱出に大きく関わったと創造し、この小説を書いたに違いありません。</p><p>この小説に書かれているように天草四郎は秀頼の子であると言われています。掃部のそばで幼少期から育ち、掃部の影響を大いに受けたとすれば、クリスチャンとなり島原の乱て勇敢に戦ったことは十分頷けます。</p><p>やはり命名書内の明は明石掃部(全登)に違いありません❗️</p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230629/12/atsumune0813/01/06/j/o1080144015305877722.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230629/12/atsumune0813/01/06/j/o1080144015305877722.jpg" border="0" width="400" height="533" alt=""></a></div><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/atsumune0813/entry-12809946210.html</link>
<pubDate>Thu, 29 Jun 2023 12:11:58 +0900</pubDate>
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<title>命名書内の房、秀頼支援の房は相良頼房⁉️</title>
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<![CDATA[ <p>木場家に人吉藩相良家の家系図が当家の家系図として残されています。1600年までの相良家当主が歴代記され、1600年中盤以降から突然木場を名乗っているという流れです。これは何とも不可解な流れです。この貴重な相良家の家系図が木場家に残されていること自体に大きな意味が隠されていると考えるのが自然です。</p><p>秀頼が薩摩まで逃れたとしたらおそらく着の身着のままで辿りついたに違いありません。身分を証明するものなど持ち込んでいる筈もなく浮浪者の状態です。身分証明書のようなものを持って移動することは自身の身を危険に晒してしまうことにもなり考えられない行為です。そう考えると木場の身分を保証出来るのは秀頼が存命中に限られた薩摩藩の上層部だけであり木場家の将来を保証できるものは何もなかったということになります。</p><p>そのような中で木場を保証できる当時最も近くに住む島津以外の家臣は相良頼房であった筈です。何かのおりに秀頼と会っていたと考えるのはごく自然な流れです。その際、木場家(豊臣家)の将来を考え藤原南家を祖とする相良家家系図を提供したとしても不思議ではありません。</p><p>私の勝手な臆測ですが相良頼房は一時期豊臣姓も名乗っています。木場家に残された相良家系図を見ると相良義陽が最後に記されています</p><p><br></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230611/08/atsumune0813/e4/7d/j/o1080081015297244581.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230611/08/atsumune0813/e4/7d/j/o1080081015297244581.jpg" border="0" width="400" height="300" alt=""></a></div><p><br></p><p></p><p>。木場家が始まった年代を考えると頼房が家系図に載っていてもおかしくありません。頼房が書かれていないのは何かの暗示なのでしょうか。即ち豊臣が隠れていると…。</p><p></p><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230610/10/atsumune0813/24/10/j/o1080081015296827746.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230610/10/atsumune0813/24/10/j/o1080081015296827746.jpg" border="0" width="400" height="300" alt=""></a></div><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/atsumune0813/entry-12807042261.html</link>
<pubDate>Sat, 10 Jun 2023 10:20:54 +0900</pubDate>
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<title>門外不出と伝わった名刀❓妖刀⁉️村雲</title>
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<![CDATA[ <p>木場家が豊臣直系であることを証明する古文書以外の何らかの品物が残されていないかを調査したところ、残念ながらそのような品物は残されていないことを知り多少の失望感に苛まれていました。</p><p>そのような中、戦前まで残されていた日本刀の存在の話を聞くことができました。前々当主の早逝により木場家は困窮を極め、生活費に充てる為に仕方なくこの日本刀を手放すことになったそうで残念ながら今は残されていません。その日本刀は先祖代々伝わっていたもので木場家の中では門外不出と受け継がれ、更に妖刀と恐れられ箪笥の中にそっとしまい込まれてていたそうです。この刀を万が一にも誰かが持ち出し手にしてしまうと鬼気迫る様相で容赦なく振り回してしまう、何かの魂が乗り移っているかのようなそれはそれは恐ろしい日本刀であったとのことです。</p><p>そのような妖刀であったからこそ、その銘を記憶していたようで「村雲」と刻まれていたとのことです。</p><p>この刀の存在は豊臣家末裔であるかどうかの手がかりになりうるに違いありません。実物が今どこにあるのか興味は尽きません。</p><p>ところで写真の徳利は木場家に代々伝えららた古文書以外の唯一の品物とのことです。口元の状態からかなり古いものであるかは間違いありません。</p>
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<pubDate>Sat, 03 Jun 2023 11:30:58 +0900</pubDate>
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<title>豊臣国松を引き取った❓日出藩木下延俊</title>
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<![CDATA[ <a href="https://dot.asahi.com/wa/2015082800017.html?page=1">https://dot.asahi.com/wa/2015082800017.html?page=1</a><p></p><div class="ogpCard_root"><article class="ogpCard_wrap" style="display:inline-block;max-width:100%" contenteditable="false"><a class="ogpCard_link" href="https://dot.asahi.com/wa/2015082800017.html?page=1" target="_blank" rel="noopener noreferrer" data-ogp-card-log="" style="display:flex;justify-content:space-between;overflow:hidden;box-sizing:border-box;width:620px;max-width:100%;height:120px;border:1px solid #e2e2e2;border-radius:4px;background-color:#fff;text-decoration:none" contenteditable="false"><span class="ogpCard_content" style="display:flex;flex-direction:column;overflow:hidden;width:100%;padding:16px"><span class="ogpCard_title" style="-webkit-box-orient:vertical;display:-webkit-box;-webkit-line-clamp:2;max-height:48px;line-height:1.4;font-size:16px;color:#333;text-align:left;font-weight:bold;overflow:hidden">「敗軍の将」の末裔が明かす大名家に伝わる極秘の言い伝え〈週刊朝日〉</span><span class="ogpCard_description" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;line-height:1.6;margin-top:4px;color:#757575;text-align:left;font-size:12px">歴史には、表もあれば裏もある。だが、その語り部は常に勝者側で、敗者側の話はほとんど表に出てこない。今夏は太閤・秀吉が築いた豊臣家が滅んだ大坂の陣...</span><span class="ogpCard_url" style="display:flex;align-items:center;margin-top:auto"><span class="ogpCard_iconWrap" style="position:relative;width:20px;height:20px;flex-shrink:0"><img class="ogpCard_icon" alt="リンク" loading="lazy" src="https://c.stat100.ameba.jp/ameblo/symbols/v3.20.0/svg/gray/editor_link.svg" width="20" height="20" style="position:absolute;top:0;bottom:0;right:0;left:0;height:100%;max-height:100%"></span><span class="ogpCard_urlText" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;color:#757575;font-size:12px;text-align:left">dot.asahi.com</span></span></span><span class="ogpCard_imageWrap" style="position:relative;width:120px;height:120px;flex-shrink:0"><img class="ogpCard_image" loading="lazy" src="https://dot.asahi.com/S2000/upload/2015082800017_1.jpg" alt="" data-ogp-card-image="" width="120" height="120" style="position:absolute;top:50%;left:50%;object-fit:cover;min-height:100%;min-width:100%;transform:translate(-50%,-50%)"></span></a></article></div><p></p><p>さて、ブログは秀頼大阪脱出の際に支援した家臣達の話に戻ります。</p><p>先般のブログでも取り上げましたが北政所<span style="caret-color: rgb(51, 51, 51); color: rgb(51, 51, 51); font-size: 16px; -webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0.05); -webkit-text-size-adjust: 100%; background-color: rgb(255, 255, 255);">、ねねの実家の日出藩木下家に秀頼、国松の脱出劇が一子相伝という形で現在まで語り継が</span><span style="caret-color: rgb(51, 51, 51); color: rgb(51, 51, 51); font-size: 16px; -webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0.05); -webkit-text-size-adjust: 100%; background-color: rgb(255, 255, 255);">れています。この一子相伝の内容については木下家19代当主木下崇俊氏のインタビュー記事として紹介されています。是非記事に目を通して頂ければと思います。</span></p><p><font color="#333333"><span style="caret-color: rgb(51, 51, 51); -webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0.05); -webkit-text-size-adjust: 100%; background-color: rgb(255, 255, 255);">この記事を読むと木下延俊の名が木場家の命名書に欠かせない人物であることを確信することができます。</span></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/atsumune0813/entry-12801445373.html</link>
<pubDate>Thu, 04 May 2023 10:48:37 +0900</pubDate>
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<title>この紋所が目に…❗️第二次長州征伐出兵拒否書</title>
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<![CDATA[ <p>五七の桐の家紋は豊臣家が使用したのものとしてとても有名ですね。この家紋が現在の政府家紋として使われるようになったのは明治維新直後からのようです。今ではごくごく当然のことで、この家紋の使用について不思議に思う人はいないでしょう。この家紋を明治政府が使用した背景は何だったのか？都市伝説的に私なりに勝手な解釈をしてみました。</p><p>江戸末期の幕長戦争の最中、幕府は長州を征伐しようと出兵準備をしていました。その出兵に異議を唱えたのが薩摩藩です。薩摩藩は大阪留守居役木場伝内の名でが徳川家に対して第二次長州征伐出兵拒否書を提出しています。この木場伝内も豊臣末裔と称する木場家の一族と思われます。</p><p>時代が大きく変わるきっかけとなったこの出兵拒否の背景に豊臣木場家の意向が大きく関わっていたとしたらなかなか興味深い出来事です。都市伝説的な話となってしまいますが大阪の陣の敵討ちとしての可能性が無いとは言い切れません。出兵拒否はある意味徳川家に対する宣戦布告とも言える出来事です。この出兵拒否書に五七の桐の印籠が添えられていたとしたらどうでしょう。250年の時を経て「この紋所が目に入らぬか❗️」とドラマのような光景が目に浮かびます。外様として冷遇され続けてきた薩摩藩、長州藩、その他諸藩にとってなかなか爽快な出来事だったに違いありません。</p><p>明治維新での木場伝内の関わりはまたの機会に紹介していきたいと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/atsumune0813/entry-12800836578.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Apr 2023 08:31:33 +0900</pubDate>
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<title>日出藩木下家に残る秀頼生存説</title>
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<![CDATA[ <p>豊後国日出藩(現在の大分県速見郡に位置)の藩祖は豊臣秀頼の正室•高台院の兄、木下家定の三男である木下延俊です。その子孫である木下家19代当主木下崇俊は「豊臣秀頼、国松は大阪城から脱出し薩摩に落ち延びた」という一子相伝の言い伝えが木下家にあると語っています。この言い伝えは木場家に伝わる一子相伝に付合する内容であり、特に興味深い共通点は大阪から同行した家臣が一般的な秀頼脱出の言い伝えでは真田幸村だと語られている中、嫡男の真田大助が同行したと伝わっている点です。</p><p>言い伝えでは延俊は薩摩にいた国松を日出藩で引き取り、後に木下延由と名前を改めてさせ石を与え立石藩をつくらせたということです。これが事実だとするとこれほど手厚い処遇はある意味異例のようです。</p><p>木下延俊は秀頼の大阪脱出、豊臣家の存続に際して大きな役割を果たした家臣の一人だと言えます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/atsumune0813/entry-12799742291.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Apr 2023 07:48:55 +0900</pubDate>
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<title>秀頼薩摩へ脱出の支援者達⁉️</title>
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<![CDATA[ <p>木場の苗字の由来からこの書状の名が秀頼を救済した人物で成り立つことが容易に想像できます。この事実を踏まえて想像できる人物を挙げてみました。</p><p>家　島津家久</p><p>房　相良頼房</p><p>明　明石掃部</p><p>伊左衛門　真田幸村</p><p>伊太夫　木下延俊</p><p>このように想像してみました。実はこれらの人物は全て豊臣秀頼の家臣であり薩摩への脱出劇があった時期に大きく関わっていてもおかしくない人達です。次回のブログから一人一人の関わりについて私なりの勝手な理論を論じたいと思います。</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/atsumune0813/entry-12798786760.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Apr 2023 10:48:18 +0900</pubDate>
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