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<title>サルーインのブログ</title>
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<title>月読神社本殿に関する一考察</title>
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<![CDATA[ <p>1.序</p><br>月読神社は南九州より移住した隼人の居住地「大住郷」に鎮座している事から、彼らによって祭祀されていた社と考えられる。社地は京都府南西部に位置する京田辺市大住に立地している。社伝によると九世紀創建と伝わる歴史の古さもさることながら、この神社は近年芸能に関わりの深い場所として注目されている。<br>すなわち大住の地に居住した隼人たちが天皇即位式大嘗会のとき演奏した隼人舞や能楽との深い関わりのある場所として、月読神社は地域の住民たちによって現在も大切に守られている。<br><br>2.建築的特徴と沿革<br>月読神社の本殿は東に面する一間社春日造、屋根は銅板葺きの建物で、明治二六年(1893)に名古屋の棟梁の伊藤平左衛門によって設計された。屋根はもともと檜皮葺であったとされている。現在の屋根は銅板葺であるが棟は瓦葺きとなっている。千木・堅魚木は持たない。軒は地垂木と飛檐垂木の二重につくっている。この垂木を二重にする工法によって軒の出を深くしている。<br><br><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/2d/45/j/o0480036012030233385.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/2d/45/j/o0480036012030233385.jpg" alt="photo:01" width="300" height="225" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br><br>背面には華美な装飾は少ないが、正面には若干の装飾がみられる。<br>身舎の正面から前方にはね出した桁は側面側の蟇股と虹梁とによって支えられている。<br>蟇股は曲線を繰り返したもので、側面に絵様を持つ。また彩色のあとがみられるが、ほとんどが褪色しており、わずかに白色が残るばかりである。<br>虹梁は側面に絵様を持っている。渦と若葉から構成されているが、深さも深く幅も広い。渦の形状はやや楕円形であり、若葉の根元には渦に接している。これはこれは十七世紀中頃の形状に近いものである。⑴<br><br><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/bc/38/j/o0480064012030233344.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/bc/38/j/o0480064012030233344.jpg" alt="photo:02" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br><br>正面の虹梁は中央部分を上方に大きく反らした特殊な形状を持ち、さらに木鼻には獏を形取った形状を持つ。この木鼻は、上に斗を乗せさらに上の舟肘木を受けて、連三斗の形状になっている。ここでもまた彩色のあとがみられ、白色のみが残っている。<br><br><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/67/0c/j/o0480036012030233360.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/67/0c/j/o0480036012030233360.jpg" alt="photo:03" width="300" height="225" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>木鼻に龍や象・獏などの具象彫刻は十七世紀前半から徐々に複雑化していき、十八世紀中期にピークを迎える。⑵<br>このように細部の形式を検討した場合、十七世紀の中頃から十八世紀中頃の様式を参考にしていると思われる。<br>また、春日造は奈良の春日大社の本殿の形式である。この形式の本殿を持つ神社は歴史的に春日大社や興福寺との関係があるといわれている。この大住の地は、中世には興福寺領であったのであり、この事が神社本殿の建築様式にも影響を与えているのである。<br>同じ大住地区に位置し、月読神社とも関係が深いとされている天津神社や隣の薪地区に位置している棚倉孫神社の本殿は、一間社流造であり、このことはこの大住地区の中においても月読神社が中世から近世を通して特に興福寺との関係が深かった事を物語っている。『吾妻鏡』によると、「石清水八幡宮与興福寺有確執、(中略)、是薪、大住両庄用水相論之故也云々」とあり、興福寺領の荘園であった大住庄と石清水八幡宮領の荘園であった薪庄との争いの記事がみえている。<br>一方、明治維新の際には石清水八幡宮が戦災を避けて一時的に月読神社に遷座した事もあった。現在では絶えているものの、この時の報酬として毎年神饌料として玄米一俵を八幡宮から月読神社へ納めていた時期もあった。<br>このように、月読神社が中世より興福寺との関係が深かった事が文献上からも確認する事が出来るが、それ以外にも八幡宮との関わりも見出す事が出来る。<br>九世紀には創建していたと思われるが、中世に度々兵火によって焼失を繰り返しており、その社殿形式は古代のものを伝えているとは言い難い。<br>現在の社殿形式のルーツを考察する手掛かりとして、境内の鳥居に記されている享保一九年(1734)の銘文も参考になる。ただし、この銘文だけでは本殿がこの時に同時に再建されたとの確証にはならない。しかし、この銘文は先に述べた本殿虹梁の木鼻の形状から推定される建築時期が宝暦前後(一八世紀中頃)であるという事実と一致する。ただし、虹梁側面の渦と若葉の図様は一七世紀中頃の形状に近いものであるから、十八世紀の改修の時に絵様は継承されたものと思われる。<br><br><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/b6/af/j/o0480064012030244697.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/b6/af/j/o0480064012030244697.jpg" alt="photo:04" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>つまり、現在の本殿は中世に焼失を繰り返した後に、十七世紀中頃に再建され、その後、十八世紀中頃にも修復を加えられたものと私は考える。<br>社伝による中世の月読神社の興亡にも触れておきたい。<br>建久六年(1196)に、源頼朝が上洛した際に神馬を献上されるとともに、松井及び河内、交野郡招提を神領として寄進されている。さらに、貞応二年(1222)に鴨武隅命の嫡子の葛野家友によって社殿が再興されている。<br>しかし、元弘元年(1331)に、後醍醐天皇が幕府に背いた時に、大住一族が天皇側に味方した為に、大住の地は戦乱に巻き込まれ、月読神社も兵火にかかったとされている。<br>貞治三年(1365)に葛野氏によって再び復興されるが、またしても至徳三年(1387)に兵火にかかっている。<br>康応元年(1390)に再び社殿は修復され、天文十一年(1542)に大住城主等がこの月読神社において勧進能を行ったとされている。<br>しかし、この後の記録はみられず、先に述べた虹梁の図様から現在の社殿のルーツを探る他ない。<br>このほか、明治八年頃の古図によれば、この時には既に春日造の本殿がみえ、社殿が明治二六年の修築以前から春日造の本殿であった事がわかる。さらに、この古図によれば、現在の神社と明治八年時点との相異点も見えてくる。<br><br><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/78/a5/j/o0480034812030244722.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/78/a5/j/o0480034812030244722.jpg" alt="photo:05" width="300" height="217" border="0"></a></div><br clear="all"><br>⑶<br><br>現在本殿の南側に位置している、薬師堂跡地の石碑が立てられている所には、四間×三間の入母屋造瓦葺の薬師堂が存在していた。この薬師堂は明治の神仏分離の際に取り壊されてしまった。しかし、この薬師堂には月読神社の創建時期を知る手掛りとなる文化財が残されていた。この薬師堂は木造薬師如来立像を本尊としていたが、この仏像は薬師堂が取り壊される際に同じく京田辺市大住に位置する両讃寺に移されている。この仏像は平成八年度から京田辺市教育委員会が市内の寺社を対象として行った仏像を中心とした美術工芸品調査によって、平安時代前期(九世紀)の精神風土と造形の関連を持つ作品とされている。⑷<br>この事実は月読神社が、平城天皇が大同四年(八○九)に譲位後に、宮殿を平城京に移して平安京を廃止する詔勅を出した折(薬子の変)に、造宮使がその途において大住山に霊光を拝し、この地に神殿を造ったとされる時期に矛盾しない。『三代実録』貞観元年(八五九)正月二七日条に叙された諸神の一つに「樺井月読神」がみえ、『延喜式』神名帳には「月読神社 大、新嘗 月次」がみえる。明治初年までに廃亡したが、この薬師堂を含めて月読神社は、江戸時代末までは神宮寺の法輪山福養寺が管理していた⑸。貞観元年(八五九)までに月読神社と呼ばれるようになる当神社の神宮寺である福養寺の薬師堂に九世紀の特徴を持つ仏像が伝えられていた事は重要な意味を持つと言えるだろう。<br>さらにもう一点触れておきたい。先述の古図によれば、明治八年時点で月読神社の本殿は赤く塗られている。先にみた蟇股や木鼻の褪色あとの白色は赤色が褪色したものと考えて良いだろう⑹。明治の修築の際にも赤く彩色が施されたものと考えられる。<br><br>まとめ<br>これまで見てきたように、月読神社は九世紀頃に創建され、その後何度も兵火にかかりながら廃絶する事無く、現在まで再興を繰り返しながら伝えられてきた神社である。<br>それはこの月読神社が時の権力者だけでなく、この大住の民衆に身近で大切な存在であり続けたからに他ならない。<br>それを示す事例として、当神社には民衆に身近な芸能にまつわる伝承が残されている。<br>大住の地は天武天皇の頃に鹿児島の大隅の地より隼人が移住した場所とされている。その隼人等が天皇即位の大嘗会の時に奉納した隼人舞は、その後宮中において奉納される事は無くなるが、月読神社には奉納され続けてきたとされている⑺。<br>また能楽にもゆかりの深い場所とされている。この京田辺の地は一説では大和の金剛座以外の能楽の発祥地とされ、月読神社は宝生座発祥の地とされている。現在、神社境内には宝生座発祥の碑が建てられている。<br>このように月読神社は芸能との関係が深い。特に「隼人舞」は近年再現され、毎年十月十五日の例祭に奉納され継承されている。<br>古くから大住の住人達によって守られ、伝えられてきた月読神社は、隼人舞と共にこれからも大住の住民によって大切に守られ伝えられて行く事であろう。<br><br><br>註<br>⑴文化庁歴史的建造物調査研究会『建物の見方・しらべ方 江戸時代の寺院と神社』、ぎょうせい、1994<br>⑵註⑴に同じ。<br>⑶京都府立総合資料館蔵「延喜式内並国史見在神社考証」。<br>⑷京田辺市教育委員会編『京田辺市の仏像』、明新社、2007。<br>⑸西田直二郎『京都府綴喜郡大住村史』、田辺町大住出張所、1951。<br>⑹註⑴に同じ。<br>⑺大住隼人舞保存会編『大住隼人舞の由来』、2003。<br>中村明蔵『隼人の古代史』、平凡社、2001。<br><br><br><br>・補足<br>両讃寺の木造薬師如来立像について<br><br>明治時代まで月読神社内の福養寺にあった木造薬師如来立像は、現在は、京田辺市大住八河原に秘仏として安置されている。<br>木造薬師如来立像は、木造(カヤ材か)の一木造り、彫眼、素地仕上げである。頭体のほとんどと台座蓮肉とそこから下に伸びる心棒を、木心を前方に外した一木から造り、両手首先を矧ぐ。頭髪、ひげ、瞳には墨、白目部分に白、唇に朱を彩色する他は素地であるが、現状では衣文の溝に黄色の顔料が少々残る。<br>頭は螺髪をつけた痕跡が見られず、もとから素髪であったと思われる。<br>細面で細い鼻梁で強い表情を持つ。薬壺を持つ左手、掌を前に向ける施無畏印の右手は、ともに後補であるが、当初から同じ構成であったと思われる。着衣の縁の折りたたみは複雑であり、深い衣文は左胸脇や脚間にＵ字形の繰り返しをつくる。<br>こうした特徴は、京都の神護寺薬師如来像などにも見られる特徴であるり、平安時代前期(9世紀)の精神風土と造形の関連をうかがわせる。<br><br><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/ca/4b/j/o0480064012030244741.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120616/10/augustus525i/ca/4b/j/o0480064012030244741.jpg" alt="photo:06" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br><br><br><br><br>参考文献<br>1.京田辺市の仏像、京田辺市教育委員会、平成19年。<br><br>2.日本仏像史、水野敬三郎、美術出版社、2001年。<br><br>3.奈良・京都の古寺めぐり、水野敬三郎、岩波書店、1985年。
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11277735772.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Mar 2023 21:53:01 +0900</pubDate>
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<title>松井横穴群</title>
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<![CDATA[ 2015年1月15日、京都府京田辺市松井にて、古墳時代後期～飛鳥時代の群集墓である松井横穴群の現地説明会がありました。<br><div><div><div>横穴(おうけつ)とは素掘りの横穴であり、</div></div><div></div><div>近畿ー大阪府柏原、奈良県橿原市、奈良市北部、京田辺市松井などに分布している。<br></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">木津川左岸は、石材があまり取れないので、石を使用しない横穴を作るようになったのかもしれない。</span><div id="{8E35A759-6F0B-41BD-8917-2BB7602EB22B:01}" style="text-align:left"><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20150207/16/augustus525i/90/2d/j/o0480064013211133153.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150207/16/augustus525i/90/2d/j/o0480064013211133153.jpg" alt="{8E35A759-6F0B-41BD-8917-2BB7602EB22B:01}" width="300" height="400" border="0"></a></div></div><br><div id="{5E68D539-7D5A-4581-A82E-0A7EA677352D:01}" style="text-align:left"><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20150207/16/augustus525i/4d/49/j/o0480064013211133094.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150207/16/augustus525i/4d/49/j/o0480064013211133094.jpg" alt="{5E68D539-7D5A-4581-A82E-0A7EA677352D:01}" width="300" height="400" border="0"></a></div></div><br><div id="{E68B9BE1-2549-413E-B115-75EA31F2CC23:01}" style="text-align:left"><div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20150207/16/augustus525i/19/ab/j/o0480064013211133117.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150207/16/augustus525i/19/ab/j/o0480064013211133117.jpg" alt="{E68B9BE1-2549-413E-B115-75EA31F2CC23:01}" width="300" height="400" border="0"></a></div></div><br><br></div><div><br></div><div>松井横穴では、武具などの副葬品はなく、あまり身分の高くない人々の埋蔵が想定されます。</div><div><br></div><div>松井横穴群は全体で300～400基あると想定されますが、今回は70基が調査されました。</div><div>付近1.5キロには、松井横穴群のほかに、女谷・荒坂横穴群もあり、<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">交通の要衝でもあるために、木津川の左岸だけでなく、もっと広い範囲から有力者が葬られた関西でも最大級の集団墓地であった可能性も考えられる。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">ちなみに、今回調査の70基は、同じような標高に並んで作られている。また、追葬がおこなわれたものもあり、3体の遺骨が入り口に頭を向けて葬られていたものもあった。</span></div><div></div><div><br></div><div></div><div>発見された遺物として、<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">陶棺や耳環、須恵器、釘などもあった。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">陶棺は、普通2mくらいであるが、ここでは約80センチくらいである。</span></div><div>釘は、木製の棺のものかと考えられる？<br></div><div></div><div><br></div><div></div><div>続日本紀においては、近くの内村(<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">八幡市内里)</span>に土師部がいたとの記述もあるとの事。</div><div></div><div><br></div><div></div><div><br></div><div></div><div><br></div><div></div><div>古墳時代の終末期には、群集墓が増加する傾向があり、それは古墳を築ける階級が拡がってきたことと関係があるのかもしれない。</div></div>
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11986859395.html</link>
<pubDate>Sat, 07 Feb 2015 15:57:28 +0900</pubDate>
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<title>信長の夢の跡ー安土城と地震考古学</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130317/07/augustus525i/a7/fb/j/o0480036012460645164.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130317/07/augustus525i/a7/fb/j/o0480036012460645164.jpg" alt="photo:01" width="300" height="225" border="0"></a></div><br clear="all">織田信長が天下布武の過程で建造したあまりにも有名な城、安土城。<br>滋賀県安土町には、現在もその城跡が開発によっての破壊を免れて、かなり良好な状態で残存している。<br><br>写真は、天守閣跡から西方に位置する琵琶湖の西の海を臨んだものであるが、琵琶湖岸が城からかなり後退した位置に見て取れる。<br>建造当時の安土城は、西方を琵琶湖に接する形で建造されていたが、現在では、琵琶湖に近接していない。<div>明治時代に入ってから干拓作業が行われた結果である。</div><div><br>ところで琵琶湖は、周囲から川を介して土砂が長年の間に堆積していく。</div><div><br>実は、琵琶湖の周囲には多くの活断層があり、特に西岸の琵琶湖西岸活断層の運動が活発であり、西の京都との県境の山側が隆起し東の湖側が沈む活動を繰り返している。<br>琵琶湖は世界的にも有数の古い湖であるが、この地震活動が土砂の堆積にも琵琶湖が消滅しなかったメカニズムであったのである。<br>最も新しいものは、寛文2年(1662)の大地震(『玉露叢』)であり、それ以前には新旭町針江浜遺跡にその痕跡が残る弥生時代中期、その他縄文時代前半などである。<br><br>参考:『発掘を科学する』、１９９４</div>
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11492066387.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Mar 2013 07:28:08 +0900</pubDate>
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<title>平重衡公の墓</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120722/07/augustus525i/8f/dc/j/o0480064012091921965.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120722/07/augustus525i/8f/dc/j/o0480064012091921965.jpg" alt="photo:01" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>京都市伏見区醍醐の日野は、平重衡の北の方の大納言佐局が平家没落後に身を寄せていた所と伝えられている。<br>捕らわれていた平重衡は、鎌倉から奈良へと送られる途中にこの地に立ち寄り、大納言佐局との別れを惜しんだという。その情景は、付近の合場川や琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。<br>木津川河原で斬首された重衡の遺体は、般若寺に首を晒された後に引き取られ、火葬ののちにこの地に葬られたと言われる。<br>この場所には現在も室町前期の銘が入った墓石と、地元住民が９０年近く前の大正前期に建立した石碑が公園内に立つが、法要などは営まれておらず、訪れる人も少ない。<br><div><br></div><div>アクセス:〒601-1345 &nbsp;&nbsp;</div><div>&nbsp; &nbsp; 京都府京都市伏見区醍醐外山街道町13-5</div><div><br></div><div>最寄駅:京都市地下鉄東西線石田駅</div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11308700687.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Jul 2012 19:46:03 +0900</pubDate>
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<title>近衛基通墓</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120715/11/augustus525i/f2/ef/j/o0480048012079807243.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120715/11/augustus525i/f2/ef/j/o0480048012079807243.jpg" alt="photo:01" width="300" height="300" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>近衛基通は永暦元年(1160)に、藤原氏直系の近衛家の始祖の基実の子として生まれた。<br>基実は、先に紹介した悪左府頼長の兄の藤原忠通の子である。<br>ただし、父が若くして亡くなった為に当時7歳であった基実は摂関を継承できず基実の異母弟が中継ぎとして継承している。<br>継母が平清盛の娘であった事から、治承3年(1179)に左近衛中将から内大臣関白となる。安徳帝が即位すると従一位に進み、摂政となる。<br>その後、源平の争乱に巻き込まれ罷免、就任を繰り返す。<br>承元二年(1208)に出家、法名は行理。<br>貞応元年(1222)に京都府京田辺市に移り住み、普賢寺殿、普賢寺関白とよばれる。天福三年(1233)に亡くなった。<br>近辺で火葬の後は、高野山に納骨するだけで追善葬家はしない事が遺言であったという。<br>地名の御所の内は、基通の隠棲地であり、現在の観音寺である普賢寺の伽藍再興に子とともに尽力した。<br>昭和62年(1987)に現在の基通墓より100メートル南の火葬地伝承地(明治15年/1882に整備)の発掘調査が行われたが、火葬の痕跡は見つからなかった。<br>古くから普賢寺周辺では、法楽山の頂の古墳が近衛基通の墓と伝わっていたのを明治15年に近衛篤麿が買上げ、御廟としたのが始まりである。<br>因みに、元の地点は道路整備の為に山が削られたものであるが、現在はそのままに放置されている。本当に元々の墓を移動する必要があったものか疑問である。<br>さらに墓は草が伸び放題でとても大切にされているとは言えない。また、その場所も案内板も無く、非常に分かりづらい。京田辺市の文化財に対する姿勢の現れであろう。
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11302967631.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Jul 2012 11:01:05 +0900</pubDate>
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<title>宇治悪左府 藤原頼長 供養塔</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120715/07/augustus525i/41/80/j/o0480064012079578241.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120715/07/augustus525i/41/80/j/o0480064012079578241.jpg" alt="photo:01" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>藤原忠実の次子の藤原頼<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">長(1120～56)</span>は、日本一の大学生(だいがくしょう)と呼ばれた俊才であった。<br>17歳で内大臣、29歳で左大臣となるも、崇徳院に仕え、源為義らと保元の乱を起こす。乱の首謀者とされるが、乱の最中に流れ矢が首に刺さり、奈良興福寺まで逃れ落命する。<br>この時、追求を恐れた父の忠実には面会を拒否されたという。<br>般若寺の近く、般若山の近くに葬られるが、京都からの実検使に墓を暴かれて捨て置かれたとされる。<br>享年37歳。その供養塔が、奈良県般若寺にある。<br>墓は、京都市の相国寺にある。<div><br><div><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">相国寺の</span><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">頼長の墓あるいは首塚と伝える五輪塔は，当初は現在の京都大学熊野寮(左京区丸太町東大路西入)にあったという。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">『拾遺都名所図会』巻二には「桜塚」、宇治悪左府頼長の社の旧地とされる。</span><br></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">　明治21(1888)年、第一絹糸紡績会社が創設され東竹屋町の地に工場を建て、「桜塚」は同工場内に取り込まれた。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">同社は明治35年に同業会社と合同して絹糸紡績会社となり、同44年に鐘淵紡績に合併された。明治40年に工場増築のため塚を発掘、五輪塔を相国寺墓地に移し、経緯を記した碑が建てられたとされる。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br>　碓井小三郎著『京都坊目誌』(上京第二十七学区)によると、桜塚の下から石棺のようなものが発見され、会社はそれを相国寺境内に移したという。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto;">しかし、平安時代末期の人物である藤原頼長の棺が石棺であった可能性は低いのではないだろうか。</span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto;">しかしながら、長く伝えられた伝承が何らかの事実を反映しているのも、また、事実なのかもしれない。<br></span><div><br></div><div><br></div><div>アクセス:<br><table cellspacing="0" cellpadding="2"><tbody><tr style="color: rgb(119, 119, 119); font-family: メイリオ; -webkit-text-size-adjust: auto;"><td width="371"><font color="#000000" face="helvetica"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">奈良県奈良市般若寺町２２１&nbsp;<br><br>最寄駅:近鉄奈良駅</span></font></td></tr><tr style="color: rgb(119, 119, 119); font-family: メイリオ; -webkit-text-size-adjust: auto;"></tr></tbody></table><br><br></div></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11302854305.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jul 2012 19:47:09 +0900</pubDate>
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<title>平重衡卿 供養塔②</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120714/18/augustus525i/0c/e3/j/o0480064012078610499.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120714/18/augustus525i/0c/e3/j/o0480064012078610499.jpg" alt="photo:01" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>先に紹介した、安福寺の供養塔の他にも、平重衡公の供養塔は存在する。<br>それが、写真の供養塔であり、奈良県の般若寺に存在している。<br>治承四年(1181年)五月、以仁王の乱を平定した三位中将重衡は、そのあと12月11日には園城寺を焼き討ちし、25日には奈良へと兵を向けた。<br>これに対し、興福寺衆徒は垣楯、逆茂木を巡らして迎え撃つ。<br>平氏四万に対して、南都勢は七千。<br>夜に入り、「夜戦になって、暗さもくらし、さらば火を出だせ」と命じる。<br>火は般若寺を焼き尽くし、折からの北風に煽られて、東大寺や興福寺など南都の大伽藍を焼き尽くした。<br>後日、一の谷の合戦で捕らわれた重衡は、鎌倉へと送られるが、南都衆徒の強い要望により、身柄を引き渡される。<br>こうして、先に紹介した木津川のほとりにて斬首された重衡の首は、般若寺の門前に晒されたという。(門に首を打ち付けられたともいう)<br>かつては、般若寺の東の山裾に平重衡公の首塚と呼ばれるものがあったとされるが現在は不明。<br>この後、捨て置かれた彼の遺体は妻の輔子のよって引き取られて、遺骨は高野山に送られたとされる。この時に京都市の日野にも墓が作られたとされる。<br>
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11302399423.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jul 2012 17:44:41 +0900</pubDate>
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<title>ツタンカーメン展</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120618/23/augustus525i/8b/57/j/o0480048012035561714.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120618/23/augustus525i/8b/57/j/o0480048012035561714.jpg" alt="photo:01" width="300" height="300" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>現在、大阪市の天保山ではツタンカーメン展が行われている。<br>エジプト考古学博物館からツタンカーメンにまつわる選りすぐりの品々１０７点を展示している。<br>ツタンカーメンの属するエジプト新王国第18王朝とは、古代エジプトの絶頂期に当たり、有名なヒッタイトと戦いを繰り広げたラムセス2世の約半世紀前に当たる。<br>それゆえに、ツタンカーメンの遺品の数々は、見事の一言に尽きる。<br>中でも、ツタンカーメンの曽祖母チュウヤの黄金の人型棺、ツタンカーメンのハヤブサ形の黄金の胸飾り、儀式様の短剣、棺形カノポス容器など、神々しい輝きは圧巻である。<br><br>ちなみに鑑賞後の感想は、この展示物の美しさは図録や映像では決して表現出来ないという事であった。<br><br>あまりエジプトの歴史を知らない人でも美術品として必見の内容だと思う。<br><br>ただし、大英博物館のツタンカーメンに関する品々は展示されていない。
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11281172076.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Jun 2012 20:13:28 +0900</pubDate>
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<title>三角縁神獣鏡を持つ古墳③西求塚古墳</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120617/10/augustus525i/01/9a/j/o0480064012032136445.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120617/10/augustus525i/01/9a/j/o0480064012032136445.jpg" alt="photo:01" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>神戸市灘区に位置する西求塚古墳は、全長９５メートルを測る前方後方墳である。当初は墳丘全体が葺石で覆われていたと思われる。<br>埋葬施設は竪穴式石室であり、中国鏡、鉄製剣や刀、槍などが見つかっている。<br>中でもこの古墳では三角縁神獣鏡が発見されており、その形式は京都府の椿井大塚山古墳の鏡よりも古い形式であり、奈良県の黒塚古墳などと同時期の鏡であると思われる。<br>それは、3世紀の後半にすでに強大な力を持った豪族がこの地を支配していた事を意味する。<br>この近辺には、この古墳の西側に順番に処女塚古墳、同じく三角縁神獣鏡を持つ東求女塚古墳が存在し、権力の継承がスムーズに行われた事がわかる。<br>ただし、西求女塚古墳、処女塚古墳は前方後方墳、東求女塚古墳は前方後円墳である。<br>前方後方墳と前方後円墳とは何らかのルーツの違いがある事が想定されており、権力の継承の際には何か一族の断絶か、盟主が入り婿といった形で交代したなどの事件もあったのかもしれない。
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11279596069.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Jun 2012 09:36:31 +0900</pubDate>
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<title>北畠顕家公の墓</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120617/09/augustus525i/45/03/j/o0480064012032096400.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120617/09/augustus525i/45/03/j/o0480064012032096400.jpg" alt="photo:01" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>大阪市阿倍野区には、南北朝時代の後醍醐天皇の忠臣である北畠顕家公の墓がある。<br>北畠顕家は足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した折に陸奥守であったことから、奥州、関東の兵を率いて尊氏を西国に追い落としている。<br>後に九州から勢いを盛り返した尊氏軍を撃つ為に再び奥州から出兵するも、高師直の軍勢に阿倍野の地で破られ命を落とした。享年21歳、花将軍と呼ばれた貴公子であったと伝わる。<br>墓碑は、江戸時代の学者並川誠所の提唱で、１７３３年（亨保１８年）に建てられたものであり、事実関係にはやや疑問も残る。
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<link>https://ameblo.jp/augustus525i/entry-11279577266.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Jun 2012 09:22:11 +0900</pubDate>
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