<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>なぜ生きる？『幸福』説否定派　ayanami-ryoくんのつぶやき</title>
<link>https://ameblo.jp/ayanami-ryo/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/ayanami-ryo/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>「なぜ生きるのか。」という質問に対し、仏教やキリスト教などの宗教に属する者は口を揃えて『幸福』と答える。そんな『幸福』説肯定派の皆様に、よく憤りを感じる事がある。「差別」「非道」「非普遍性」キレそうになった時にたまに彼らにツッコミを入れていくブログ。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>スタートラインの私の正体</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span><font size="3">前々回のブログでは、<span>ゴールという人生の目的を目指す、スタートラインの私が一体どのような状態にあるのかを考えるきっかけを作ってきました。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>今日は、僕の考える「スタートラインの私」の正体を、お伝えしようと思います。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>スタートラインの私、すなわち”通常の自分の状態”を導くのは凄く簡単です。その通常の状態が、通常でなくなる時の自分の状態を考えれば分かるからです。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>この自分自身を、全てにおいて違う自分に変えてしまう事象…、それは『<strong>外的刺激</strong>』ですよね。（※『<strong>五感</strong>』とも言い換えられる)</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>いわゆる「視覚情報」・「嗅覚情報」・「味覚情報」・「聴覚情報」・「触覚情報」のこれら刺激をきっかけにして、通常の自分ではなくなります。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>≪具体例≫</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>*眩しくない→眩しい　(視覚)</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>*臭くない→臭い　(嗅覚)</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>*辛くない→辛い　(味覚)</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>*煩くない→煩い　(聴覚)</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>*痛くない→痛い　(触覚)</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>このような移り変わりが、通常の状態をそうでない状態に仕立てるでしょう。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>となれば、通常の状態の正体はまず「<strong>無刺激</strong>」と仮定できます。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>しかしながら我々人間には<font color="#ff0000"><strong>ココロ</strong></font><font color="#000000">がありますよね。</font></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>当然ながら「眩しい・臭い・辛い・煩い・痛い」の<strong>刺激</strong>が速やかに不幸でもないし、場合によっては幸福にも感じられます。この移り変わりが心地よい時もあれば、心地悪い時もあるのです。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>すなわち、この<strong>無刺激</strong>状態に<font color="#ff0000"><strong>ココロ</strong></font>が入り込みますから、僕はこれを「<strong><font color="#0000ff">無感動</font></strong>」と表しました。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>よって、通常の状態である「<strong><font color="#0000ff">無感動</font></strong>」をスタートラインにして、そうでない状態がゴールですから、「人生の目的」は「<font color="#ff0000"><strong>感動</strong></font>」であると考えられるのです。</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span>前に掲載させて頂いた哲学者の名言で</span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><br></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。<u>肝心なのは望んだり生きたりする事に飽きない事だ</u>。」　Ｂｙロマン・ロラン</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span><br></span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>というのがありました。</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span><br></span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>この文面で今、下線部に記されている事がいわば、人生の目的が「感動」であると捉える事も出来るかと思います。</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span><br></span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span><br></span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>≪まとめ≫</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>●通常の状態をそうでない状態に仕立てる時、必ず外的刺激が関わる。</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>●与えられた刺激が、即ち不幸または幸福かは決まらない。決めるのは<font color="#ff0000"><strong>ココロ</strong></font>。</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>●僕は人生の目的を「感動」だと考えている。</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span>●次からのブログでは、「感動」だと考える事についての特徴やメリットを中心に書かせて頂きます。</span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span><br></span></span></font></span></p><p><span><font size="3"><span><span><br></span></span></font></span></p><span><p> <img alt="３人生の目的図解.png" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fks.c.yimg.jp%2Fres%2Fchie-0%2F170%2F442%2Fi2%2F________.png"></p></span>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ayanami-ryo/entry-11783332763.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Feb 2014 21:21:36 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>結晶物語</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="FONT-SIZE: small">皆さんは「結晶物語」(著者：江本勝)という本をご存じでしょうか？</span></p><span style="FONT-SIZE: small"><p>もしかしたら誰もがどこかで聞いたことがあるかもしれません。</p><br><p>水に「ありがとう」と語り続けるとその水はキレイな結晶を見せ、「ばかやろう」と語り続けると結晶すら見せてくれないという有名な実験が掲載されています。</p><br><p>この他に、炊いたばかりのご飯を３つの瓶に入れ、一つ目の瓶には「ありがとう」と書いて、二つ目の瓶には何も書かず、三つ目の瓶には「ばかやろう」と書いてそれぞれの腐敗の仕方を見る実験があります。</p><p>結果は、まず何も書かれてない瓶のが初めに腐敗し、次に「ばかやろう」の瓶、そして最後が「ありがとう」の瓶と書かれていたんですね。<br></p><p>(前に、「笑っていいとも」でさとう珠緒が「水に、『おいしくなあれ、おいしくなあれ、おいしくなあれ』って言うと本当においしくなるんですよ～」って言ってたアレと似てるかもしれませんｗ確か、これ長井秀和がエンタの神様でもネタにしてたような…)</p><p><br></p><p>ある宗教団体の信者に、この話をした際に、「それはデマだ、誤った情報で読者を惹きつける洗脳行為だ。」という返答を受けたことがあります。</p><br><p>まあ確かにね。自分で実験したわけじゃないから信じるに足りるものではありませんわねｗ</p><br><p>だから本気で実験する事にしました。</p><p>とはいえ、僕がこの実験を今すぐしようと思うに至った一番の動機は、このブログにも書いている、「人生の目的」が幸福ではない事を証明する材料として必要だったからです。</p><br><p>※「結晶物語」と「人生の目的」の繋がりは、また後ほど…。</p><br><p>で、実験道具を揃えた場所が、創価企業のダイソーという皮肉っぷりｗ</p><br><p>①まずはじめに、三つの同じ形の瓶に、それぞれ炊き立てのご飯１杯分を三等分し、蓋で密閉しました。</p><p>②そして油性の黒マジックを用い、ガラス面に直接、１つ目は「ありがとう」、２つ目は何も書かず、３つ目は「ばかやろう」と、誰でも読めるような一般的な字で記しました。</p><p>③その後、お互いのご飯が隣りあわせの「ありがとう」や「ばかやろう」に影響されないようにコピー用紙で仕切りを作り、放置してきました。</p><br><br><p>≪放置１か月後≫</p><p>「結晶物語」の本の中では１か月もすれば、「ばかやろう」の瓶は真っ黒に腐敗すると書かれていました。</p><p>しかし、家で実験中の瓶にはまだそれと言った変化はありませんでした。</p><br><p>≪放置２か月後≫</p><p>ついに変化が起きました。「ばかやろう」の瓶のご飯が変色を始めたのです。しかし、それは本当に微々たる変化です。醤油を１～２滴垂らしたくらいの変色でした。</p><br><p>≪放置３か月後≫</p><p>あれから徐々に「ばかやろう」の瓶のご飯が変色を進めてきました。</p><p>しかし不思議な事に、初めに腐敗するはずの何も書かれてない瓶に未だに変化がないのです。「ばかやろう」だけが変色しています。</p><br><p>≪放置６か月目≫</p><p>まさに今現在ですね。相変わらずなんです。</p><p>何という事でしょう。「ありがとう」の瓶と何も書かれていない瓶のご飯が、炊きたてのほぼあの時の白さを保ったまま、瓶の中にいるではありませんか。</p><p>「ばかやろう」も、他の二つに比べれば茶色みが強いのですが、「結晶物語」の本に掲載されている写真並みのどす黒さを感じないのです。</p><br><p>僕の部屋にはいったい何が棲みついているというのでしょうかｗ</p><br><br><p>ともあれ、「ありがとう」と「ばかやろう」の文字が書かれたそれぞれの瓶のご飯には変化が現れました。</p><p>これはすごい事です。ご飯、または水が、この我々人間の創り出した文字を認識し、理解しているのですから。</p><br><p>これを大きな意味で捉えると、結論として≪物質には意思がある≫という仮定が得られます。</p><p>当然ながら意思もないモノが、文字や言葉を理解できるはずがありません。</p><p>ともすれば、我々人間も１００％の物質の集合体でありながら、意思を持って生きている存在です。これは確実性があり、間違いありません。</p><br><p>空気中の気体のそれぞれにも確実に意思はあるでしょう。</p><p>その空気を呼吸で取り入れる、あるいは気体(水蒸気)が液体(水)になり、これを沢山体に取り込んで生きている動植物を食すことで我々は生きています。</p><br><p>「結晶物語」で協力してくれた「お水」さんと「お米」さんも４６億年以上の長い間地球に棲んできた物質の集合体ですから、何度も生命の中を通過しています。</p><br><p>人間の一人一人の人生の中での意思を記憶し、「ありがとう」や「ばかやろう」の意味を把握していなければ、こんな結果にはなりませんよね。</p><br><p>キリスト教などには創造論という概念があります。</p><p>創造論者にとって唯物論は、部品を撒いてそのまま奇跡的にジェット機を創り出してしまうほどの凄く低い確率の理論であるため、これを信じることが出来ません。</p><p>しかし、その部品(物質)一つ一つに意思があったとしたらどうでしょう。互いにコミュニケーションを取り合い、合体ロボットのようにほぼ１００％の可能性でジェット機(今の世界)が創り上げられます。</p><br><p>これならば、神様を中心とした宗教は否定する事も出来ますから、彼を中心にした「人生の目的＝幸福」理論は覆されます。</p><br><p>また一部、仏教も含めてこれを主体とした新興宗教には「魂」の概念が付属している教義もあります。これもまた不適切です。物質そのものには元々から意思は存在しているので、これにプラスして更に意思を持つパイロットが乗り込む必要はありません。</p><br><p>この世界は創造主として神様がいるとは考えられません。</p><p>しいて創造主をあげるならば、それは物質なんです。物質が支配者なんです。</p><br><p>創造主の有無は抜きとしても、しかしながら「ありがとう」って本当に素晴らしい事なんですね。今まで頑張って生きてきた自分の心と、ちゃんとついてきてくれた自分の体に、たまには「ありがとう」って感謝の言葉をかけてみてはいかがでしょうか。</p></span>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ayanami-ryo/entry-11780603823.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Feb 2014 14:41:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>スタートラインの私</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span>やはり、「幸福」を人生の目的として掲げてしまう思想は、私たち人間だけでなく他の生命たちに対しても、彼らを差別的、区別的にとらえてしまう悪の温床であることが気づかされました。</span></p><span><p><br>では、僕らは何を人生の目的とすることが適当なのでしょうか。</p><p>それを知るにはまず、その目的を今こそ達成しようとしている貴方の、今この瞬間の状態を単語１つで表す事です。それさえ表現する事ができれば、以前にも記しましたが、あとはその自分の状態の対し、そこに否定接頭辞をくっつけて、或いははずして、対義語にしたその単語が本来の目的となるからです。</p><span><p><br></p><p>そうは言っても、「幸福」を目的と信じてきた方々には、なかなか出せる答えではないかと思います。</p><p>そもそも、「幸福」が目的であるとした時、その対義語である「不幸」が私たちの通常の状態でなければなりません。</p><p>しかしながら我々は今、そうとも言い切れない状態を保っています。何かこう、幸福っちゃあ幸福だし、不幸っちゃあ不幸って感じのような…。</p><br><p>色々と調べてみると、こんな名言を残している哲学者もいました。</p><br><p><span>「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりする事に飽きない事だ。」　Ｂｙロマン・ロラン</span></p><p><span><br></span></p><p><span>確かにそうだなあって思います。</span></p><p><span>人は何かあればしきりに幸福だ不幸だなんて言っているけれど、結局は”</span><span>おおむね幸福とも不幸とも言えない何とも微妙で中途半端な自分”を保っているんですよね。</span></p><p><span>幸福とも不幸とも言えない状態が私達のベースになっているのですから、当然人生の目的に相応しい言葉も幸福や不幸の尺度で測れるものではありませんよね。…って事ですｗ</span></p><p><span><br></span></p><p><span>ゴールという人生の目的を目指す、スタートラインの私が今どのような状態にあるのか。</span></p><p><span>尺度を変えて、ものさしを変えて、見つめなおしてみてはいかがでしょうか。</span></p><p><span><br></span></p><p><span><br></span></p><span><p><span>≪まとめ≫</span></p><p><span>●目的は今この瞬間の自分の状態を知って、その対義語を導けばいい。</span></p><p><span>●私達は自分で思うほどには実は幸福でも不幸でもないもの。</span></p><p><span>●幸福や不幸の尺度で測るものさしを捨てて、今の自分を見てみよう。</span></p></span></span></span>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ayanami-ryo/entry-11766859329.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Feb 2014 14:29:05 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>人間以外の生命体の立場</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span>悲しいかな、宗教と言うのは非道極まりないものです。</span></p><p><span>あらゆる差別を生み出しているそれであるのに、なぜ支持され続けてしまうのか。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>人生の目的は幸福とした宗教は、多くの場合、題目や聖書などの<strong>文書読解力</strong>、日本人なら日本語という<strong>言語能力</strong>、物事の欲望を控える<strong>理性</strong>、神仏に対する<strong>信仰心</strong>を必要とします。</span></p><p><span>これってマジでおかしくないですか？</span></p><p><span>だって宗教は「普遍的」「真理」を謳っている学問でしょう。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>一般的な「真理」、即ち法則や定理などは、万物に対して平等に行われているものです。</span></p><p><span>地球上の引力や摩擦力、慣性の法則、三平方の定理などのごく一般的な「真理」は誰にでもあり得ます。</span></p><p><span>全生命体に区別・差別無く行われているのです。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>しかしながら、宗教はどうでしょう。</span></p><p><span><strong>文書読解力</strong>、<strong>言語能力</strong>、<strong>理性</strong>、<strong>信仰心</strong>は人間のみのそれです。結局のところ、知性ありきでこの宗教と言う学問は出来上がっているのです。</span></p><p><span>これらかねてより必要とするものを、時に動物たちの身で起きた時、いったいどうせよと言うのでしょうか。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>置いてけぼりです・°・(ノД｀)・°・</span></p><p><span>仮に幸福が目的だとするならば、家畜としてただ食べられる為だけに、人間に無理矢理産み育てられトサツされていく彼らの目的も幸福であるはずです。彼らは知性を持っておらず、結局彼らを置いてけぼり状態のままで、人間どもはそそくさと絶対的な幸福の居場所へ大移動していくのです。</span></p><p><span>全生命体を一つの家族くくりとするならば、それは言葉が通じない障碍者として生まれた子供に対し、育児を故意に放棄して、自分のしたい事をしているバカ親みたいなものです。言葉が通じなければ、彼らの基本的人権を無視していいのでしょうか。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>そもそも、僕は人生の目的となるものが、常に意識下にあり、意識して結果を残していくものである必要はないと考えています。</span></p><p><span>当然の事です。</span>私たちがこの世界に降り立った時、間違いなく「無」だったんですから。</p><p>そこでは言葉を把握する能力もなければ、目に映るものが何であるかも理解出来ない状態からスタートしたんです。この分では、この身の生前や生まれた瞬間に第三者に目的を告げられたとしても、それを理解することはできません。幸福という目的があったとしても、それを知るのはせいぜい物心がついた頃でしょう。</p><p><span>そうなれば周りに何もない空間で育ったり、知能が発達できない体で生まれてしまった場合も含め、その目的を自覚する時が来るまでの時間がおのずと無駄になってしまいますよね。</span></p><p><span>その間に何かあって目的が達成されないまま死んでしまう事があれば、もはや無駄死にならぬ「無駄生まれ」が起きてしまう訳です。これでは人生の目的、即ち人間の生きる目的という意味ではやはり不平等性が生まれてしまうのです。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>動物たちに差別無く、時間も無駄にならない目的の真の状態は、産まれたままのその時から、無意識に無自覚にそれを達成しているのだと考えるべきではないでしょうか。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>ともすれば、それは今の生活空間以上に人間的な何かしらの努力を以て、得ていく何かである必要もないわけです。</span><span><br></span></p><p><span><br></span></p><p><span><font size="3"><br></font></span></p><p><span><span>≪まとめ≫</span></span></p><p><span><span>●人間のみに適用され、他の生命体に適用されない幸福が主体の宗教は、真の意味で普遍的とは言えない。</span></span></p><p><span><span>●人生の目的が無意識かつ無自覚に達成できるものであれば、そこに差別を生み出さない。</span></span></p><p><span><span>●人間間でも「無駄生まれ」を生み出してしまう宗教が、果たして普遍的と言えるか。</span></span></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ayanami-ryo/entry-11758034089.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Jan 2014 08:21:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>選択して導かれている幸福。これって目的？</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span>僕らは、例えばモノを購入しようとした時、そこにある商品は自分にとって買って得なのかそうでないのかに悩むものです。</span></p><p><span>いわば、<font color="#ff0000">幸福</font>と<font color="#0000ff">不幸</font>を頭の中で<strong>選択・決定</strong>しようとしているわけですね。そしてもし、自分にとってそれを購入する事が金銭面であったり、位置的なものであったり、家庭的事情であったりなどで自分を不幸にさせるものであったならば、購入を諦めるものです。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>しかしながら、<u>その商品自体に幸福や不幸の要素はありません</u>。</span></p><p><span>好き嫌いやアレルギーを引き起こす商品で、それが自分にとっては不幸の要素であったとしても、他の人にとっては大好物で人生の醍醐味には欠かせないものであったりします。</span></p><p><span><u>幸福や不幸の要素は、自分で選択し、決定している</u>のです。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>このように、幸福と不幸は今の自分から選択されていくものです。</span></p><p><span>そのうちの幸福と言う選択肢を棚に上げて、これを「目的」と言い切れるのでしょうか。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>そもそも、目的というのは、通常そこに選択肢などは存在せず、唯一無二でなければいけません。</span></p><p><span>マラソンを例に上げれば簡単な事です。</span></p><p><span>スタート地点にいる私たちにとって、目的となる場所はゴール地点という唯一無二の所です。</span></p><p><span>仮に、ウルトラクイズのように○と×の二つの選択肢があったとしても、自分にとってのゴール地点を予め決めて、そこにめざすのですから同じです。正直、選択肢に迷っている最中で、目的は存在する事は出来ないのです。</span></p><p><span>私たちの一番のスタートラインは胎児です。<strong>人生の目的</strong>という意味では、何の選択肢も無い唯一無二のそれが、初見で存在してやっと目的の地と結論付けることができるものです。決して、選択肢のあるものをそれとしません。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>また、多くの場合、否定接頭辞を用いたものをスタート地点として、その対義語にあたるものを目的に設定するものです。</span></p><p><span>例えば、「大学未合格」からの「大学合格」、「資格未取得」からの「資格取得」、「無感動」からの「感動」、「非常識（人）」からの「常識（人）」などです。</span></p><p><span>しかも、未合格者・未取得者・無感動者・非常識人はそれぞれの合格・取得・感動・常識の要素を完全に持っていません。つまり、「１００％の否定接頭辞状態が含まれた事象を持つ」事を全てにおいてスタートラインとしているのです。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>だとすれば、ここでもおかしなことが起きています。</span></p><p><span>この視点から見ると…、「不幸」からの「幸福」？？</span></p><p><span>あれ？僕らは赤ちゃんの頃、お母さんとお父さんの愛の結晶として生まれてきたはずですよね。</span></p><p><span>少なからず、その愛に育まれてきました。これって「不幸」なんですか？しかも１００％の…ｗ</span></p><p><span><br></span></p><p><span>まあ、家庭環境によっては、ごくまれにそういう人がいます。</span></p><p><span>でも、<strong>少なくとも宗教は「普遍的」「真理」を謳っている学問</strong>です。</span></p><p><span>つまり、１００％の民が普遍的(広く一般的)にそうでないと辻褄があわないのですよ。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>宗教に侵されている人はそれでも、「不幸」がスタートだったと言い切る人がいるかもしれません。</span></p><p><span>相対的幸福の概念が刷り込まれていますからね。</span></p><p><span>でも、相対的幸福って言葉からも、１００％の不幸じゃないって事実が映し出されているじゃないですか。</span></p><p><span>今ある幸福が長続きしないと思っていることは、目的を幸福に置く根拠だとは思えません。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>目的は「幸福」や「不幸」の尺度では表せないのだと考え、目的もまた、「幸福」や「不幸」では表せない言葉で表わせられるのだと考えていいはずです。</span></p><p><span><br></span></p><p><span><br></span></p><p><span>≪まとめ≫</span></p><p><span>●自分を幸福または不幸にさせている対象物そのものに、幸福や不幸の要素は含まれていない。</span></p><p><span>●否定接頭辞を用いた対義語関係のもので目的を決める際、１００％の否定接頭辞状態をスタートにせねばなない。</span></p><p><span>●１００％の不幸でない者が、幸福を目的にはできない。</span></p><p><span>●「幸福」や「不幸」では表せない目的の存在</span></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ayanami-ryo/entry-11757788580.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Jan 2014 21:44:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>幸福の意味分かってますか？</title>
<description>
<![CDATA[ <span><span><p>「<font color="#000000">幸福</font>」という単語の意味をもう一度理解しなおしてみましょう。</p><p>辞書によっては異なる見解もあるでしょうが、私が持っている大辞泉にはこう記されています。<font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><span>「<strong>満ち足りている</strong>こと。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。」</span></p><p><span><br></span></p><p><span><br></span> </p><p><span>簡潔に言えば「<strong>満ち足りているさま</strong>」という事になりますよね。</span></p><p><span>という事は、この「満ち足りている」状態を作る以前には「全く満ち足りていない」空っぽの状態が存在するはずなのです。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>空っぽの入れ物を満ち足りさせる為には何が必要ですか(*^▽^*)？</span></p><p><span>『<font color="#ff0000">満ち足りさせるべき何か</font>』を入れてあげることですよね( ´艸｀)</span></p><p><span><br></span></p><p><span>つまり、「全く満ち足りていない」状態での目的というのは『<font color="#ff0000">満ち足りさせるべき何か</font>』ではないでしょうか。</span></p><p><span><br></span> </p><p><font size="3"><span><br></span></font>特に、我々の知っている元々の幸福は満ち足りた状態をキープできない存在です。</p><br><p>小さな穴の開いたグラスを想像するといいでしょう。</p><p>このグラスは最初から穴が開いている為 、用途的にはまず「溜める」為に存在するのではないと考えることが出来ます。</p><p>ということは「満たされて流れていく」為か、もしくは「濡らす」為に存在すると考えられますね。</p><br><p>仮に「濡らす」為であれば、『<font color="#ff0000">満ち足りさせるべき何か</font>』を作り出し、そのグラスに注ぐだけでいいのです。</p><br><br><p>≪まとめ≫</p><p>●幸福…………『<font color="#ff0000">満ち足りさせるべき何か</font>』が満ち足りた状態（『満杯』とほぼ同意）</p><br><p>●目的の対象…『<font color="#ff0000">満ち足りさせるべき何か</font>』</p><br><p>●目的はこれを『満杯』にさせるためにあるものではない</p><p></p></span></span>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/ayanami-ryo/entry-11749504402.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Jan 2014 23:35:12 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
