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<title>La Vie d'Un Etranger</title>
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<description>徒然なる文学研究と読書の日々</description>
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<title>研究会発表と論文投稿</title>
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<![CDATA[ <p>前回の日記からずいぶん時間が空いてしまいましたが、授業と研究で多忙な日々を送っていました。</p><p>年内最後の講義を前にインフルエンザになり、現在は家族にパンデミックという大変な状況ですが（苦）、一通り仕事が終わってからだったことが不幸中の幸いです。</p><br><p>まず今月上旬に東北大学の日仏文化交流史研究会で研究発表を行いました。</p><p>テーマは堀辰雄の夢想の主題とプルースト受容の関連性について。</p><p>堀辰雄作品全般に見て取れる夢想の主題が、プルースト読書前後で性質を変えていることに着目し、レアリスムを仮想敵とするプルーストの文学を受容することで堀作品の夢想の位置づけが変化したという考察を提示しました。</p><p>堀自身、流行していた私小説やプロレタリア文学といったレアリスムに染まることなく、自らの主観性を手がかりとした小説作品を作り続けた作家だったのですが、その問題意識がプルーストの取り組みと呼応したように思えるのです。</p><p>ただし、堀の参照した文学作品は、プルースト以外にもモーリヤック、ラディゲ、コクトー、リルケ、ジッドと非常に多彩であり、さらに日本文学の影響も根強い。</p><p>今回のテーマが「夢想」というジェネラル（バナル？）なものであっただけに、他のテクストとの相互関係も十分に調べ上げねばならないという課題が残りました。</p><br><p>今回の発表は、小林秀雄を研究している友人と一緒に行ったのですが、堀辰雄と小林は同世代であり、昭和10年代には実際の交流もあったため、考察が重なり合う部分も多かったです。</p><p>小林の『私小説論』は、意識的に反私小説という態度をとり続けた堀の文学を考える上でも必読の文献であると感じました。</p><br><p>発表のあとは所属研究室の紀要への投稿論文の準備です。</p><p>テーマはプルーストとボードレールの比較分析。内容的には昨年の同時期に京都大学の関西プルースト研究会で発表した考察が下敷きになっています。</p><p>昨年の研究会発表は、自分の中ではプルーストとボードレールの比較研究の集大成として準備したつもりでしたが、今読み返すと考察が粗くて失笑です（笑）</p><p>問題提起の妥当性を再検討するという基礎的作業から始まり、考察対象のテクストをしぼり込んで、特にボードレールの『1846年のサロン』を中心としてプルーストの美学との関連性を語彙レベルで探っていきました。</p><p>プルーストは主に『悪の華』や『パリの憂愁』への収録作品に言及しており、サロン評、あるいは後年の『現代生活の画家』については具体的な発言がないのですが、草稿の記述にはかなり似通った表現を見つけることができ、『失われた時を求めて』の創作においてボードレールの美術批評が何らかの役割を果たしていることは明らかです。</p><p>その具体的な創作プロセスの解明には、作品生成過程を丹念にたどることが必要とされるのですが、今回の分析は関係テクストの特定にとどめております。</p><p>ともあれ、これまでさほど指摘されることのなかった『1846年のサロン』との関連性を指摘できたのは、自分にとって一つの前進でした。</p><br><p>今年はフランス語教育にウェイトを置かざるを得ない状況でしたが、一年の後半に駆け込みのように研究を行うことができたのは、いくぶん救いではあります。</p><p>少ない時間の中で、フランス文学研究と日仏比較文学研究という二分野を形にしていくことは非常に困難なのですが、これからも機会を見つけて少しずつ発表していこうと思います。</p>
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<pubDate>Sat, 27 Dec 2014 23:17:13 +0900</pubDate>
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<title>卒論と文学</title>
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<![CDATA[ <p>大学生の頃から文学研究を続けていますが、大学院に進学する前には当然ながら卒業論文というものを書きました。</p><p>修士号取得者がずいぶんと増えたとは言え、やはり現在も卒論のみで学問を終える人が大半でしょう。</p><p>卒論レベルは研究に値しないという意見もありますが、とはいえ学士号取得の必要条件となるれっきとした学位論文であることは確かなので、僕はあえて卒論を「学生が初めて研究に向き合える貴重な機会」と捉えようと思います。</p><br><p>文学研究においては、卒論で一人の作家を論じるのが一般的でしょう。</p><p>当たり前ですが、卒論を書く前には作家と作品を選ばなければなりません。</p><p>おそらくフランス文学研究の卒論の題材として選ばれる作品第一位は、サン＝テグジュペリの『星の王子さま』でしょうね。</p><p>僕が把握しているだけでも、何人もの学生が『星の王子さま』で卒論を書いていました。</p><p>そういえば遠い昔の学部時代、先輩がやはり『星の王子さま』で卒論を書いて卒業していったような記憶があります。</p><br><p>さてこの「星の王子さま卒論」ですが、あまりにも選択する人が多いため、一部の大学の仏文科では「星の王子さま禁止令」が出ているようです（笑）</p><p>このブログで以前に述べたことがありますが、『星の王子さま』はサン＝テグジュペリの遺書のような作品であり、人生上の様々な重要テーマが反映しています。とても語り尽くせぬほどの深い主題を内包しており、非常に難解な小説であると言えるでしょう。</p><p>ですが物語の構成が児童文学風であることや、わが国の最初の翻訳者である内藤濯がつけた『星の王子さま』というタイトルおよび童話風の訳文のせいで、「簡単な小説」であると誤解されることもしばしばです。いやむしろ誤解している人の方が多いのではないでしょうか。</p><br><p>※なおこの小説の原題は<em>Le Petit Prince</em>という。Petitはフランス語で「小さい」を表すため、直訳すると「小さい王子」となるのだが、この語には幼いもの・かわいらしいものに対しての親しみの意もあるので、『王子ちゃま』あたりが妥当かもしれない。</p><br><p>「星の王子さま＝児童文学」というイメージで本書に接するということも、一つの文学体験として尊重せねばならないでしょう。</p><p>ただし、子どもがこの作品を読んで感動できるかというと、疑問も残ります。もっと正確に言うと、大人になってから本書を読むことで理解できる主題が多すぎるのです。</p><p>有名なバラやキツネの挿話、「大切なものは目には見えない」「君がそのバラを大切に思うのは、そのバラのために時間を費やしたからだよ」といった有名なセリフは、それなりに人生経験を積んでからでなければ理解しがたいのではないでしょうか。</p><p>最低限、『星の王子さま』を論じる場合には、「星の王子さま＝児童文学」のイメージを捨て、大人のための文学作品であるという認識のもとで本作を分析する必要があるでしょう。</p><p>それをしなければ、サン＝テグジュペリの様々な思想を、紋切り型な「童話の格言」に押し込めてしまいかねません。</p><br><p>さて、「星の王子さま＝児童文学」の発想で書かれた卒論が次から次と出てくるのであれば、教員も食傷気味になり、最後には「星の王子さま禁止令」も出されてしまうかもしれません。</p><p>しかしそれでもなお、僕自身は作品の選択に制限をつけることは反対です。</p><br><p>僕の卒論は、今の専門と変わらずプルーストの『失われた時を求めて』でした。</p><p>選択こそ大作家プルーストでしたが、当時の僕の読書はずいぶんと幼かったと思います。</p><p>若い頃に抱えていた人生上のテーマが、大学二年生の頃に講義で紹介されたプルーストの小説世界とリンクしたゆえの選択でした。</p><p>以来、プルーストを読み続けて今に至りますが、僕の研究はごく主観的な発想での文学読書がスタートです。これは、子どもの『星の王子さま』読書とさほど変わらない解釈レベルでしょう。</p><br><p>ですが、そのような稚拙な読書体験の中に、プルーストを専門として研究を続けている今現在においても変わっていない、本質的な理解がありました。</p><p>プルーストから得たその発想を上手く表現できぬまま、何とか言葉にしようともがいていたのが、自分の卒業研究だったような気がします。</p><br><p>卒論での作品選択は、それまでの人生で「論ずるに足る」「論じてみたい」と心から願うものであるべきでしょう。それゆえ、その選択が『星の王子さま』であってもまったく構わないと思います。</p><p>人生のある時期に読み、心に残り続けた作品を、自分が専門とする学問として論じてみたい気持ちは、決して否定できるものではないでしょう。</p><p>卒論で『星の王子さま』を論じたいなら、堂々と論じればよい。それが「人生の一冊」なのであれば。</p><p>そこまでの気持ちがあるならば、稚拙な読書の中に、その人だからこそ気づいた『星の王子さま』の本質的テーマが潜んでいるはずです。</p><p>指導教員の厳しい指導や批判に耐え、自分の個人的読書の妥当性を教員に少しでも感じさせ、納得させることができれば、その学生の「文学“研究”体験」は充実したものとなるのではないでしょうか。</p><br><p>大学生活の通過儀礼である卒論は、それまでの人生を象徴する一つの作品に真っ向から向き合う貴重な機会となるかもしれません。</p><p>学生には、人生にまたとないこの得がたい機会を十分に活かすために、読書はもちろん、絵画、映画、音楽など様々な芸術文化に積極的に触れてほしいと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11948716634.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Nov 2014 00:52:54 +0900</pubDate>
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<title>文化的渇望感</title>
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<![CDATA[ <p>大学での第二外国語の講義は国際文化研究の基礎であるという理解です。</p><p>語学の専門的な議論はもちろんですが、できることならば学生たちには語学を窓口としてフランス文化、フランス社会など、より広い領域に関心を持ってもらいたいと願っています。</p><p>そのため僕の講義では、単元の内容に関連した文法を含む音楽、映画などの紹介も意欲的に行うようにしています。</p><p>語学が実際に文章や詩として用いられる例を見せたいというのが第一ですが、単純に学生にフランス文化を知ってもらいたいという気持ちも強くあるゆえの取り組みです。</p><br><p>後期日程がスタートし、毎回のアンケートで学生の要望を調査すると、少なくない学生が「映画を見たい」と訴えてきます。</p><p>これについての見解は少し意見が分かれるかもしれません。</p><p>大半の人は、「学生は大変な語学の勉強ではなく、楽しい映画を見て息抜きしたいのだろう」と思うでしょう。</p><p>じじつ、映画を部分的に見せることは講義のブレイクタイムにもなるので、学生としても一休みすることができます。</p><br><p>しかし僕は、学生の「映画を見たい」という要望が単なる「サボり目的」であるとはどうしても思えないのです。</p><p>彼らは大学という世界に入り、20代前後という多感な時期にフランス語という異文化と接し始めました。</p><p>その非日常的な体験が、異文化を積極的に吸収したいという欲求に発展しているような気がします。</p><p>つまり、学生たちは心の底からフランス映画を求めているように思えるのです。</p><br><p>少なくとも僕は、大学生の頃にプルーストを知ったときから、あるいはそのもっと前から、功利的な発想からも遠ざかり、フランス文学の研究を通じて経済の物差しでははかることのできない価値のようなものを追い求めてきました。</p><p>講義ではその価値観を全面に押し出して、他者の言語を習得することの意義や、異文化を受容することの素晴らしさを語っています。</p><p>そんな人間が、大学という空間には何人もいる。われわれのような人文系教員は、学生たちがそれまでの人生で出会ったことのない人種であることは確かでしょう。</p><br><p>僕自身も経験がありますが、高校を出て大学に入ると、周りの大人たちが自信たっぷりに「現実の社会」を語る声を耳にします。</p><p>功利的な価値観は大切なものだとは思いますが、それだけを前提とした「社会論」が学生たちの前に並び立てられる。</p><p>結果として学生たちは「世間知らず」のレッテルを貼られ、「実学」という言葉を身にまとった「カネになる勉強」が推奨されていく。</p><br><p>昨今の「L型／G型」に通じる話題かもしれませんが、職業に直結した専門性のトレーニングを否定するつもりはありません。</p><p>しかしそれは「一つの価値」でしかない。決して「唯一無二の絶対的価値」ではないのです。</p><br><p>フランス語・フランス文学という「カネにならない学問」の背後には、「カネには換えられない価値」が潜んでいる。</p><p>その価値の一つひとつについては、これまでもブログで語ってきましたし、今後も語り続けていきます。</p><p>そしてまだ若い学生たちは、功利的発想とは別の価値の大切さに無意識のレベルで気づいている。</p><p>その思いが、フランス語の授業を受けることで強化され、文化的なものを渇望する姿勢となって表出しているのではないでしょうか。</p><br><p>文化への道を示してくれる年上の人間が身近にいるという幸運な学生は、果たしてどれくらいいるでしょうか。</p><p>学生たちの「映画を見たい」という欲求は、われわれ人文系教員に文化的なものへの導きを願う切実な思いであるような気がします。</p><p>もちろん、音楽でも映画でも知りたければ自分で模索すればよい、と突き放す選択もあるでしょう。</p><p>ですが、四年という特別な時間を少しでも充実したものにするために、自分の価値観に基づいた良作を紹介するというのも、われわれが成すべき仕事であるかもしれません。</p><p>語学から文化へ――教員には学生の発展を支えるために、その渇望を満たし好奇心を刺激するような取り組みが求められるでしょう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11945726440.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Oct 2014 01:00:45 +0900</pubDate>
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<title>個別授業と集団授業の差異と共通点</title>
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<![CDATA[ <div id="id_5437f0fbdfc271421311411" class="text_exposed_root text_exposed"><p>しばらく更新を休んでいるうちに、後期日程がスタートしました。</p><p>これまでの勤務先に加え、後期から新たに二学で講義を担当することになりました。</p><p>早いところでは九月に講義がスタートし、10月に入ってからは宮城・岩手・山形の三県を飛び歩く教師生活です。</p><br><p>今年の四月に大学の非常勤講師としての仕事を始め、様々な事情から一気に七コマの講座を持ち、新人でありながらも新人であることを言い訳にできないような厳しい状況に身を置きました。</p><p>おかげでこの短時間ですっかり教師家業にも慣れてきたのですが、考えてみれば僕は教師がまったく初めてというわけではありません。</p><p>大学教員としての仕事は今年が初めてでしたが、大学生の頃から個別指導の塾で教師として働いてきた経験があったのです。</p><br><p>しかし、もちろん個別塾と大学の授業は違う。まず「個別」と「集団」の違いがあります。</p><p>僕は個別指導の塾では長期間にわたって働いていたわけですが、集団授業の経験はありませんでした。</p><p>そんな時期は、よく集団授業をしている方に「個別と集団は別物だよ」と言われておりました。</p><br><p>そんな僕でしたが、昨年とても残念な形で勤めていた個別塾を去ることになりました。</p><p>他方で今年になってから大学の教壇に立つという幸運を得て、図らずも「個別とは違う集団授業」を実践することになったわけです。<br>もちろん、「一対一の個別授業」と「一対多の集団授業」はまったく別のものだったわけですが、僕にとって幸運だったのは、自分がむしろ集団授業に向いていたこと（少なくとも集団の方が好きであること）でした。<br>今年は複数の大学でフランス語の講義を担当させていただくことになり、非常に充実した日々を過ごしております。</p><span class="text_exposed_hide">...</span><div class="text_exposed_show"><p>最近になって気がついたのは、長年培ってきた個別授業の経験が集団授業に生きてきていることです。</p><p>個別授業では、生徒と一対一で、テキストをじっくりと読み込んでいきます。<br>生徒の理解に合わせ、テキストの内容を解説し、必要に応じて過去に戻る。<br>現在の単元で使用されている単語や文法が、過去にすでに習っているということを、テキストをあちこちめくりながら説明していく。</p><p>個別授業では当たり前のこの手法ですが、集団授業にも取り入れることが可能なのです。<br>学生と一緒に教科書をめくればいい。<br>でも、どうするか？複数人の学生の隣に行き、全員の教科書を一緒に読むことは不可能です。</p><p>答えは簡単。<br>書画カメラを使い、教科書を講義室のスクリーンに映してしまえばいいのです。<br>そして、あたかも個別授業のように、レーザーポインターで指示しながら、学生と一緒に同じ教科書をその場で読み、内容を一つずつ確認していく。<br>学生たちの方を向きながら、僕はつねに一人の抽象的な「生徒」を想定します。その「生徒」が躓きそうな単語や文法は、前のパートを映して説明する。<br>「自分が今目にしているものをそのまま学生に提示する」という手法が、個別と集団を一本の線でつないでくれます。</p><p>授業に王道はないでしょうから、いかなる方法を用いても、メリットとデメリットが存在するものです。<br>ですが、個別での長い経験を持つ自分のオリジナリティは、個別風の集団授業にある。<br>その効果は学生たちからのリアクションで少しずつ実感しつつあります。<br></p><p>自分が持つ経験を活かし、個別エッセンスをいかにして授業に反映させるか――それが最近自分が模索している教育のあり方です。</p></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11937338475.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Oct 2014 23:46:09 +0900</pubDate>
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<title>教師としての特性とは</title>
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<![CDATA[ <p>4月から大学の非常勤講師としてフランス語教育に携わりましたが、ようやく前期の終了も近づいてきました。</p><br><p>僕はこれまでの人生で集団授業というものの経験がほとんどありませんでした。</p><p>塾でのアルバイトはほとんどが個別指導であり、教員免許もないために教育実習の経験もありません。</p><p>勉強会でのフランス語の指導や、ゼミでのコメント、論文添削などの経験はありますが、「1対他」の指導というレベルではなかったです。</p><br><p>しかしながら、仕事を始めた4月当初は毎日が大変でしたが、気がつけば講義にも慣れ、準備を含めて楽しい日々が続いたという印象です。</p><p>質問カードを使用して、学生たちの質問や批判を毎回のように集めていたのですが、どれも勉強になるものばかりでした。</p><p>現時点では「教師」という仕事に心からのやりがいと誇りを感じております。</p><br><p>ふと考えてみたのですが、教師としての特性とはどのようなところではかられるのでしょうか？</p><p>専門テクニックや経験、好印象をもたらす容姿をしていること、聖職者としての意識を持つこと……世間には様々な言説が溢れています。</p><p>そういった一般論は決して外れではないでしょう。ですが自分が教育の現場で気づいたことは、それとは少し違うことでした。</p><br><p>おもしろいことに、自分の抱える日常生活のマイナス点は、教壇に立つとプラスに変わることがあるのです。</p><p>たとえば僕であれば「声が大きい」「よくしゃべる」「目立ちたがり」といった、日常のコミュニケーションでは得てして衝突や批判を生むような要素が（笑）、授業の中ではとても役立つ。</p><p>授業では、よく通る声でなければ学生に伝えることができません。そして集中力や注意喚起のための雑談力は有効なテクニックです。また「俺を見ろ」といった顕示欲がなければ、学生に不安を伝えてしまいます。</p><p>結局のところ、そういった欠点を含めた「自分らしさ」のようなものが、教師人格の要素となっていく。「指導法」などのテクニックは、自分のキャラクターを無視しては成り立ちません。</p><br><p>さらに、留学期間が短く、フランス語そのものに今ひとつ自信を持てないということすらもプラスに働くのです。</p><p>自分の語学に自信がないからこそ、学生と一緒に勉強し、自分が理解したプロセスを提示することが可能となる。これが学生の理解を深めていくのだということにも気づきました。</p><br><p>教師とは、学生たちとの関わりの中で、自分のコンプレックスをプラス展開できる不思議な職業なのです。</p><p>「Let It Go」ではありませんが、自分という人間をいかに素直に表現していくかが問われる。その「自分」が、教育手法と合致したときに、はじめて教師としてのユニークな特性が生まれていくのだと思います。</p><br><p>もっとも、これは人生一般に言えることかもしれません。</p><p>欠点を脱構築し、自分が属する社会の中でプラス展開していくことこそが、自分自身の成長に欠かせないのだと思います。</p><p>だからこそ、学生たちを評価する際も、性急で画一的な判断だけはしたくない。</p><p>少なくとも、そういうことの重要性に気づかせてくれたフランス語教育という現場は、自分にとってとても大切なものとなりました。</p><br><p>授業を通じて学びを深め、成長すべきは、まず教師の側である――そのような意識を持ち続けて、後期以降の授業にも臨んでいきたいと考えております。</p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11904105605.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Aug 2014 11:03:34 +0900</pubDate>
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<title>わが子の誕生</title>
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<![CDATA[ <p>7月5日の午後、待望の第一子が誕生いたしました。</p><p>とても元気な男の子です。</p><br><p>当日の深夜1時頃から妻が違和感を訴え、すぐに産院に行き、入院させました。</p><p>徐々に陣痛が厳しくなり、苦しそうな妻を前に、僕は腰をさするくらいのことしかできず、時間が過ぎていきました。</p><p>分娩室まで立ち会い、わが子が出てきたときには、知らぬうちに涙が流れ、産声よりも早く父親である僕が泣いてしまうという始末（笑）</p><p>これまでの自分の幸せ体験などすべて消し飛んでしまうほどの幸福感でした。</p><br><p>息子の顔に触れ、抱いて体温を感じ、自分の子どもが生まれたという信じられない事実をゆっくりと消化しています。</p><p>子どもが生まれて思ったことは、長い間の妊婦生活に耐え、陣痛にも負けずに子どもを産んでくれた妻への感謝です。</p><p>次に、そんな子どもと妻を見て、自分自身が「生きていてよかった」と心から思うと同時に、両親への感謝が湧いてきました。</p><p>今日さっそく青森から両親がやってきたのですが、恥ずかしくて感謝の気持ちを直接言うことができなかったので（笑）これからゆっくり親孝行をしていきたいとおもいます。</p><br><p>以前、プルーストの文章を分析し、眼前に広がる海のうねりが空や陸と一体化していくさまを、「新たな世界の絶えざる誕生の瞬間」と論じました。</p><p>慣れ親しんだ光景が変化し、新たな様相へと姿を変える瞬間は、『失われた時を求めて』の主人公に奇跡的な美を感じさせます。</p><p>プルーストの作品とは対象が異なりますが、息子の誕生は僕自身が慣れ親しんだ世界を一変させる、奇跡に満ち溢れたものでした。</p><br><p>この世界にようこそ。</p><p>そして、僕を新たな世界へ連れてきてくれた君に、心からの感謝を告げます。</p><p>生まれてきてくれてありがとう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11890013505.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Jul 2014 23:17:44 +0900</pubDate>
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<title>ノンフィクション</title>
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<![CDATA[ <p>先日Eテレで立花隆の「猫ビル」が紹介されており、噂に聞く蔵書のすさまじさを目の当たりにしました。</p><p>立花隆には『僕はこんな本を読んできた』というエッセイがあり、無類の勉強好きが明かす独学の方法や、書籍収集のコツ、知識を得ることの喜びが書き綴られています。</p><p>立花的なジェネラリストがそれぞれの学問分野においてどのような位置づけに置かれているのかは不明ですが、あの読書量と勉強への熱意には素直に敬意を表します。</p><br><p>大学3年生の頃だったか、ジャーナリズム論という講義で教員がノンフィクションの面白さを切々と語り、若い頃にありがちな知的欲求・ジェネラリストへの憧れから、ずいぶんといろいろな本を読んだものです。</p><p>その中にはもちろん立花隆の作品もありましたし、政治経済系や犯罪系のノンフィクションなども幅広く読んだ記憶があります。</p><p>あの頃の自分は、文学を研究しながらも、ジャーナリズムというものに強い興味を抱いていたように思います。</p><br><p>時は流れ、フランス文学研究者という「スペシャリスト」として社会に出ることになりましたが、ノンフィクションへの興味は相変わらずであり、定期的に読んでしまいます。</p><p>個人的に、「誰かに向けて発表する」ということを目標としなければ勉強がはかどらないタイプなのですが、最近になって自分の講義での雑談用の話題を探し始めたときに、またノンフィクション熱が再燃してしまいました。</p><br><p>高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』は、久々に面白い作品だった。</p><p>ソマリアの中に国連が認めていない「自称・独立国家」のソマリランドがあり、海賊で有名なプントランドや、イスラム過激派が介入したモガディショを含め、作者が自分の目で見た実態を紹介する滞在ルポタージュです。</p><p>その他、科学、生物、数学といった理系分野の作品や、風俗史などのノンフィクションも合わせ読みしていますが、小説とは別の楽しさというか、「知る喜び」が読書欲を突き動かしていきます。</p><br><p>今年度に実施する予定の研究は、堀辰雄におけるプルースト受容であり、現在はそこまでなじみがない日本文学についての知識を習得しているところです。</p><p>この作業も新たな世界の扉を開くようで、非常に刺激的なのですが、そのような本業の研究にも似た快楽がノンフィクション読書にはつきまといます。</p><p>ソマリランドの事情や、数学のフェルマーの最終定理、辞書作成の悲哀といった知識、さらに近代日本におけるフランス文学の受容史といった専門知識ですら、社会生活をしていく上では何の役にも立たないものかもしれません。</p><p>しかしそういった未知のものを摂取し、異質な世界を知る圧倒的な喜びは、「役に立つ／立たない」といった単純な二分法で納得することの不可能なものです。</p><p>いや、自分が得た知識は感覚や言葉を磨き、様々なシチュエーションにおける会話を充実したものに換えていく――無駄に見えるものが実は一番役立つものであるかもしれないという思いすら生まれてくる。</p><br><p>そんなことを考えながら、今日も暇を見つけては研究をし、合間にノンフィクションを読んでしまいます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11880292189.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 20:38:24 +0900</pubDate>
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<title>英語偏重と複言語主義</title>
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<![CDATA[ <p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">今に始まった話ではないですが、文科省は国立大学での英語による講義を推奨しており、下手をすれば将来は第二外国語を英語で教えるということも起こりかねません。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">また、大学内には第二外国語そのものを削減しようとする勢力もあるようです。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">そのため第二外国語の教育に理解ある役員の先生方は、つねに多大なプレッシャーを強いられている。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">これは国立大学で授業を持たせていただいている自分にも深く関係する問題です。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica; min-height: 13.8px;"><span style="font-size: 12pt;"></span><br></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">サイエンスの共通言語は英語であるという考えもありますし、ある種の講義を英語で行うことに反論するつもりはありません。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">茂木健一郎氏などは「日本語のみの講義はガラパゴスだ」とか言いそうですし、海外の専門家を招聘して講義を行うことも確かに意義深いかもしれません。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;"><br></span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">かくいう僕も学部時代は英語による講義を複数受講しました。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">十分に理解はできないながらも、今思うと貴重な経験だったと思います。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">しかし、グローバル社会だからといって英語のみをことさらに偏重するのは、実はとんでもない反グローバルなのではないでしょうか。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica; min-height: 13.8px;"><span style="font-size: 12pt;"></span><br></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">たとえばEU圏内では母国語に加えて二つの言語を持つことを推奨されています。</span></p><p style="margin: 0px; font-family: Helvetica;">外国語を日常生活などで使用できるレベルを「B2」と言い、一つの指標になっているようです（参考までに僕のフランス語スキルはB2の上のC1です。資格の話ですが）</p><p style="margin: 0px; font-family: Helvetica;"><br></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">一人の人間が複数の言語を学び、文化を習得することを「複言語・複文化」と言います。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">言語習得は、日本語にはない形で世界を切り取り、新たな視点を養うことに繋がります。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">言語習得は新たな自分を作ることに他なりません。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">そのような複眼的な眼差しで世界を捉えることこそが、グローバル時代に求められるスキルではないでしょうか。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;"><br></span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">確かに英語は様々なシチュエーションで公用語となり得る言語です。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">その一方で英語も一つの言語に過ぎない。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">英語偏重はともすると世界の多様性を一つの言語文化で塗り尽くしてしまう。これは暴力的であるとすら思います。</span></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica; min-height: 13.8px;"><span style="font-size: 12pt;"></span><br></p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">もちろん現代では複言語主義そのものが批判対象となるのかもしれません。</span></p><p style="margin: 0px; font-family: Helvetica;">抽象的な文化観よりも、ビジネスでの成功を重視するべきかもしれず、そのためには力のある言語である英語を特に強化する必要があるかもしれない。</p><p style="margin: 0px; font-family: Helvetica;">しかし、様々な他者を意識し、尊重することは、世界の真の豊かさを気づかせてくれる。</p><p style="margin: 0px; font-family: Helvetica;">目に見えるものと目に見えないもの、どちらの価値観に身を置くか。いずれが真に役立つか。それは誰にもわかりません。</p><p style="margin: 0px; font-size: 12px; font-family: Helvetica;"><span style="font-size: 12pt;">僕自身は他者の言語を学び文化を習得することこそが真のグローバル社会の構築に繋がるという信念を持ち、自分なりのフランス語教育に取り組もうと思います。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11871691443.html</link>
<pubDate>Fri, 06 Jun 2014 00:51:46 +0900</pubDate>
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<title>授業における脱・功利主義は可能か？</title>
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<![CDATA[ <p>マイケル・サンデルが提示した二択、「五人を犠牲にすることと、一人を犠牲にすること、どちらを選ぶ？」という質問の背後には、ベンサム的な功利主義への問いかけが潜んでいます。</p><p>すなわち「最大多数の最大幸福」。より多くの人が幸福を得るべきであるという考えに立てば、「一人を犠牲にして五人を救う」という選択が導き出されます。</p><p>サッチャー元英国首相による障害者堕胎の推進に典型的なように、功利主義には少数派の犠牲が不可避的につきまとってしまう。</p><p>もちろん、より多くの人の幸せを目指すという信念から、社会福祉の道が開けたことも否定できません。</p><br><p>しかし少数派の人間もまた自由な思想を持つ一個人であり、「比較すると少ない方だから」という意見でその声を封殺してしまうことは、「暴力的」という批判を免れ得ないと思います。</p><br><p>僕は青森の弘前大学の頃、予備校の個別指導の仕事を始めました。</p><p>個別は「一対一」あるいは「一対二」という、徹底的に「対個的」な業種です。</p><p>そこにはマイノリティもマジョリティもなく、ただ一人の人格を持った生徒一個人がいるだけでした。</p><p>僕は縁があって、学部を卒業して大学院に入学した後も、個別指導という業務を長期にわたって続けることができました。</p><p>また、予備校での小論文の添削業務も続けていますが、一枚ずつ答案にコメントをつけるという作業もまさに「一対一」の連続です。</p><p>また、大学院時代の「演習」といわれるゼミ形式の講義も、学生一人ひとりに向き合う場所でした。</p><p>思えばこれまでの人生ではつねに「一対一」という正面対峙が普通だった感があります。</p><p>こういった業種では、功利主義が発生する余地はありません。</p><br><p>以上のような経歴に反するように、今年から大学で複数の講義を担当することになりました。</p><p>そこでは当然ながら「一対多」という形式が基本となります。</p><p>初習外国語の講義では、60人を超える学生と対峙し、フランス語の授業を行います。</p><br><p>新米講師ながら、ここまでの授業はおおむね好評で、学生からは身に余るほどのコメントをいただいております。</p><p>僕としても、自分の専門であるフランス文学に関係する技術（＝フランス語）を多くの人に教えることができ、毎日が充実しています。</p><p>自分が楽しく教え、学生が楽しく聞いてくれるというのは、本当に幸せなことだと思います。</p><br><p>しかし、大半の学生が満足していても、250人以上の学生のうちの何％かは不満を抱えることがあるものです。</p><p>そういった学生の声を「少数派」と無視することももちろんできます。しかし、反功利主義の立場に立てば、そういった声も尊重しなければならない。</p><p>しかし少数派の学生の意見に従った際に、もっと多くの学生が不満を持つかもしれない。当然、その学生たちの一人ひとりが、ユニークな一個人です。</p><p>集団授業にはそういったジレンマがあるわけで、悩んだ末に多数派に立ってしまうこともある。批判対象である功利主義を選択せざるを得ない現実がある。</p><p>今の一番の悩みは、少数派の希望にどう対処するか、ということです。</p><br><p>真っ向から対立する二つの意見をどう処理すればよいか。</p><p>おそらくこういった場面にこそ、弁証法が意味を持つのでしょう。</p><p>少数意見も「一つの意見」として、多数派の「正」に対する「反」として尊重し、そこから「合」を目指す。</p><p>どこまでできるかはわかりませんが、そういった弁証法的な熟考を経ていくことで、自分のまた教師として進化していけるよう心がけねばなりません。</p><br><p>多数決の原理、功利主義的発想は、現実生活の中で無視できるものではないと思います。</p><p>ぎりぎりの選択を強いられると、どうしても功利主義的発想に行き着いてしまうのではないでしょうか。</p><p>その現実を乗り越えるためにこそ弁証法があるのだと思います。</p><p>もちろん「反」のレベルに達していない、単なる我が儘のような意見もある。</p><p>しかしそうではなく、傾聴に値する意見であった場合、たとえ少数派であっても「反」を尊重し、自分なりの「合」を見つけ出していかねばならない。</p><br><p>集団授業が功利主義を完全に乗り越えることは不可能かもしれません。</p><p>しかしたとえ少数であれ、批判や要望があるのでしたら、その意見を真摯に受け止めて自分なりの解答を提示する――新米ならではの「理想の教師」のあり方を思う存分夢に見て、成長を心がける日々です。</p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11869934141.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Jun 2014 23:29:47 +0900</pubDate>
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<title>日仏比較文学の面白さ</title>
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<![CDATA[ <p>5月末の日本フランス語フランス文学会では、久々にフランス文学研究の最先端に触れることができました。</p><p>東北大の後輩たちの発表は非常に興味深く、聞いていて楽しいものでしたし、ロマン主義や象徴主義をめぐる研究発表もとてもおもしろかった。</p><p>同時開催の日本プルースト研究会での研究発表や、ワークショップでの議論も充実したものでしたし、懇親会での他大学の研究者との交流や、OBの皆さんとの再会もあり、フランス文学のことだけを考え続けた二日間でした。</p><p>僕自身の研究発表は昨年のことでしたが、やはり学会という場に研究を提示することはとても意義深く、勉強になることだと思います。</p><p>次回以降、自分も改めて発表をしたいという気持ちを抱きました。</p><br><p>しかしこの充実の学会旅行を経て、今年に限ってはフランス文学研究はひとまずお休みになります。</p><p>今年の秋から三月にかけて、第二の専門である日仏比較文学の研究発表に取り組む予定です。</p><p>研究テーマは「堀辰雄のプルースト受容」。わが国最初のプルースト読者のひとりである堀辰雄の文学世界に、プルーストの影響がいかに反映しているかを探る試みです。</p><br><p>このテーマ自体は数年来の蓄積があるものでしたが、研究として形にしたのは昨年が初めてです。</p><p>『美しい村』から『風立ちぬ』に至るまでに、堀辰雄のプルースト受容がどう進行したかを明らかにするというものでした。</p><p>翻訳のない時代、堀辰雄は苦労して原書を読み解き、丁寧にノートを作りながら、その影響を『麦藁帽子』『美しい村』などの作品に反映させていくのですが、当然ながらその理解は研究者の常識とは異なるものです。</p><p>堀辰雄ならではの解釈、あるいは誤読、恣意的な解釈が、堀辰雄独自のプルーストを形成し、自身の作品に血肉化していく。この過程が非常に刺激的です。</p><br><p>これまでは中期作品までしか扱ってきませんでしたが、今年は後期作品も射程に入れ、堀の全キャリアに目を向けることが目標です。</p><p>『風立ちぬ』での外国文学傾倒は、王朝文学のエッセンスを取り入れる後期には影を潜めたかに見えるのですが、堀の中に根付いたプルーストの美学はその王朝文学の読解すらも独特なものに変化させていく。</p><p>日本文学に回帰しながらも、作風にフランス文学の影響が見事に融合した堀辰雄の作品世界に、「複文化」の典型を探してみるつもりです。</p><br><p>堀辰雄はもちろん、小林秀雄、加藤周一、中村真一郎といった巨人たちがフランス文学を読み、批評し、その後の研究者たちへと道を開き、何十年も研究が蓄積されていった果てに、日本におけるフランス文学研究の今がある。</p><p>フランス文学研究に携わるものとして、日本のプルースト研究者のひとりとして、その先達の姿を追いかけてみたい――そのような気持ちとともに、新たな考察をスタートさせようと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/azusa-etranger/entry-11867338463.html</link>
<pubDate>Sat, 31 May 2014 22:50:27 +0900</pubDate>
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