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<title>思想的バベルの塔建設予定地～神の思想に踏み込むまでの軌跡～</title>
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<description>なんか暇人がやりたい放題やるそうです勢いで書くことに熱が乗ると考えているため、推敲とか校正はほとんどしません。</description>
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<title>あいまいの美学</title>
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<![CDATA[ <p>優柔不断は最高で最低の精神だと思うっていう話。<br><br><br>とある人に話そうと思ったけど、長いので文面に向かないためにこちらに書いておこうと思います。<br><br>この世には境界の不明瞭なものがたくさんあります。今回は私たちのうちの一人が高校生時代に説いた「光度」についての文系的な表現と理系的な表現についてお話します。<br><br>文学的な表現で、光度示す簡単な言葉として、「明るさ」という言葉と「暗さ」という言葉があります。文学的表現は多様で他にも比喩を用いることで無数の光の表現があります。しかしながら、端的に光の強さのみを端的に記した言葉は「明るさ」と「暗さ」しかないのではないでしょうか？<br><br>まずは簡単に文学的な光度の「明るさ」と「暗さ」について掘り下げましょう。私にこの話をしてきた人は明るさとは日の光や電気の光対してする表現で、暗さとは光がないものが照らされている時に使われているといっていました。<br><br>実際に、三省堂の大辞林によると、「明るい」は「光が十分にある状態である。また、そのように感じられる状態である。 」とあり、「暗い」は「光の量が少なく、物がよく見えない状態である。明るさが足りない。」とあります。<br><br>辞書の結果から、実際に光がある・光があるように見えるものに対して「明るさ」と使い、光がない・光が少ないように見えるものに対して「暗さ」と先人たち・私たちの多くは表現していたことがわかるかと思います。<br><br>雑に表現してしまえば、「光」があれば明るさ。「光」がなければ暗さ、なのでしょう。<br><br>では、理系的な光度の表現はなんなのでしょうか？　理系とは常にパラメータを大事にします。常に答えが一つのような印象がありますが、面白いことに光度の単位は２つあります。<br><br>何が面白いのか？　と思われると思います。長さの単位だって、複数あるじゃないか？　キロメートルとメートル、オングストロームのように長さように複数の単位があるじゃないか。<br><br>光の単位は少し様子が違います。光の単位の有名なものとして、ルーメンとルクスがあります。ルーメンとルクスは長さのように、「xメートル= yキロメートル」と表せず、そもそもの概念が違います。<br><br>端的に言えば、ルーメンとは光自体の単位。ルクスとは照らさている場所の光の強さの単位。<br><br>まだ話が見えないかと思います。そこで、このタイミングでこれを先ほど引用した文学的な表現に落とし込んで考えてみたいと思います。<br><br>ルクスが表現する照らされている場所の光の強さの単位。「照らされている」つまりは照らされないと光がないものに対する単位……いわば、「暗さの単位」と言えるのではないでしょうか？<br><br>逆に言えば、ルーメンは光自体の単位。ルーメンは光を発さないものに対しては使えない単位。つまりは、ルーメンを使うときは必ず光がある単位……いわざ、「明るさの単位」と言えるのではないしょうか？<br><br>何が言いたいのか？　理系の単位もまた文系の微妙な言葉を表現していることがあるということです。<br><br>私はこの話を聞いてから、理系と文系をわける必要はどこまであるのかと思うようになりました。<br><br>皆さんはどこかで、理系ははっきりしてて、文系はぼんやりとしている。理系は非情緒的、文系は情緒的のように対立項にしているような気がします。私もそうでした。<br><br>しかし、実際は境界はあいまいなのかもしれません。光度という目で測れないモノに対して、一方は言葉と表現を用いて、もう一方は単位と数字を用いて、具体物として表現しているだけなのではないでしょうか？<br><br>昔書かせていただきましたが、かつての哲学は今でいう、文系としての哲学と理系としての科学の両方を包括しているものでした。（<a href="https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12298767661.html">https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12298767661.html</a>）<br><br>文系と理系は、「いったい何なのか」という何かしらの疑問について、時に異なるプロセスで、時に同じプロセスで考えているだけで、向かう方向は同じで明確に区別する必要がないのでは？　というのがこの記事の要旨になります。<br><br>私たちはこれをあいまいの美学だと思います。あいまいさとは時に思考の広がりを生み、相反すると思われていた二つの概念（今回は理系と文系）を結びつけます。<br><br>何かを考えるときは、あえて「あいまい」にしてみるのはどうでしょうか？　また別の記事で書くかもしれませんが、考えるときはあいまいでいいんです！　なぜなら、あくまであなたの脳内だからだれにも迷惑かけないですから。大事なのはあいまいな回答を出さないこと。思考段階ではあいまい「でも」いいんです。<br><br><br>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12426974549.html</link>
<pubDate>Wed, 19 Dec 2018 17:01:05 +0900</pubDate>
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<title>選択肢を広げるのは良いけど、結局は削ることになる</title>
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<![CDATA[ <p>綺麗事って、すべてが綺麗なのではなく汚いところが見えないだけって話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>お久しぶりです。今回は「お勉強の話」です。</p><p>&nbsp;</p><p>とある番組（島田紳助の「深イイ話」）で、とある娘さんが島田紳助さんに言った言葉が一時期話題になりました。橋折りますが、要点だけ抑えるとこんな感じです。</p><p>&nbsp;</p><p>「勉強することで、将来の幅が広がる」</p><p>&nbsp;</p><p>ということです。私も感銘を受けましたが、最近おやおやって思うようになりました。理由は選択肢を広げるのは良いけど、人間って優柔不断な生物じゃん、ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>勉強をしています。そして、選択肢は広がっていきます。じゃあ、いつまで勉強し続けられるのか？　いつまで選ばずに済むのか？　実は難しい所がここにあります。そこを掘り下げていきましょう。（便宜上、大学卒業を仮定にします）</p><p>&nbsp;</p><p>選択肢が増えていくのは良いです。小学校、中学校、高校と勉強していくのは良いでしょう。ではそのあとは？　実は大学に入る段階で、特殊な大学でもない限り、理系・文系のいずれかまたは学部を選ばないといけません。もちろん、東大のように一般教養課程が学部の最終決定要素にならない場所もありますが、ほとんどの大学が転部や再受験をしない限り、学部の変更はできません。</p><p>&nbsp;</p><p>実はですね、勉強して好成績をとる、世間で出来る自分の幅を広めることを純粋にできるのは高校生までなんです。大学に入るタイミングで、突然絞られる。そして、就職すると遂に選択肢の幅が広がるどころか、自身の立場が固定されます。</p><p>&nbsp;</p><p>全国の勉強をしている人々を馬鹿にしているわけではありませんが、選択肢を広げるのは良いけど、どこかで選択しなくてはいけなくなる。その選択する時に選択肢が多いと処理するのも実は大変。ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>先日、テレビで紹介されていた方で、ジュノンボーイで東大で医学部で司法試験に受かっている方がいました。とてもすごいことです。真似は出来ません。ただそこまでする必要はあったのかなとは漠然と思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、それだけの技能がある人間が「医師になる事確定して司法試験の勉強時間分も医学を勉強すれば……？」または「弁護士になることを心に決めて、判例をなどを医学的知識の代わりに覚えまくれば……？」　結果は出ている訳ですから、そこを考えるのは無意味ですがそう思うとどうでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、一概にいくつかの分野を極めることが悪いとは思いません。マルチな側面を求められるのが今の世の中です。医療訴訟が問題になる面で医師という資格があり医療知識を持つ人間が弁護士を行う、または法学に通じる人が医療活動を行うことで患者との衝突が避けれる。悪くはありませんが、そんな単純でもありません。</p><p>&nbsp;</p><p>例をいくつも出すと長いので割愛して、医師という資格があり医療知識を持つ人間が弁護士を行うことのみを言及すると、説得力は増すかもしれませんが、弁護士として意外にも医師としての責任が問われたり、そもそも裁判長や裁判員が医療について十分な知識を持っていなければ響かない可能もあります。</p><p>&nbsp;</p><p>勉強することは悪くない、実際に選択肢が増える。しかし、増えた選択肢から選ぶことも重要ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>また私はその選択肢を選ぶ作業または選択肢を一本化する作業として、「研究」を推奨します。</p><p>&nbsp;</p><p>研究とは自身の得意分野を広げるのではなく、掘り下げることです。選んで掘り下げるとその部分は深くなり、自ずと自身の進みたい、進むべき分野が明瞭化されていきます。またわざわざ選ばなくても研究していくと勉強してきたことが繋がっていき数か所に収束していくことも多分にあります。</p><p>&nbsp;</p><p>私は思うのです。大人とはズルい。勉強させたいだけに、勉強の良い側面しか教えない。勉強をすることのデメリットを教えない。選択肢を広げることのデメリットを教えない。選ぶことの重要性や研究することの素晴らしさを教えない。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ決して、勉強がダメとは言いません。ただどんなことも良いことは、どこかで悪いことがあると言って、過言ではありません。勉強に限らず、何かをするときにはその代償はなんなのか？　その代償は今払うのか、未来に払うのか？　その代償の対処法は考えるようにするjことを勧めます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12424653802.html</link>
<pubDate>Sat, 08 Dec 2018 22:45:53 +0900</pubDate>
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<title>死にたいってなんだろうか</title>
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<![CDATA[ <p>言葉の重みって時代とともに変わりゆくものなんだねって話。</p><p>&nbsp;</p><p>今回は元自殺志願者・樟木ジュウさん監修。</p><p>&nbsp;</p><p>言葉の重みとは書きましたが、今回は実のところ、「死にたい」という言葉についてです。</p><p>&nbsp;</p><p>昔（幼少期）は「死にたい」なんて言葉を聴くのは非日常的で、誰かが発したのなら親も教員も総動員でバックアップしていました。しかし、いつからでしょうか？　「死にたい」という言葉が重みを失ったのは、辛いことや悲しいことがあったり、そもそも何もなくてつまらないことが続いたりしただけで、人は「死にたい」という言葉を発するようになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>では、幼少期の「死にたい」とその後の「死にたい」にはどんな違いがあるのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>幼少期の「死にたい」は……正しくは本当の「死にたい」とはどんなものなんでしょうか？</p><p>答えは文字通りに「死にたい」のでしょう。死を願う思いが如実に表れている。実際、こちらの「死にたい」は単純ですので、もう一つの「死にたい」を引き合いにあとで解説します。</p><p>&nbsp;</p><p>ではもう一つの「死にたい」の意味はなんでしょうか？</p><p>もはや感嘆句に近いです。疲れた・辛い・悲しい・つまんない、それらを網羅的に持っている。嬉しすぎる時に「死にたい」と口にする人もいるので、感覚としては「ヤバイ」という言葉に近いですね。幼少期は感受性が豊かに毎日が楽しいことが多いため、こんな言葉を口にしないため大いに心配されますが、現代の成人が放つ「死にたい」は本当は「死にたい」とは思っていないため、重みがありません。</p><p>&nbsp;</p><p>では、なぜそう私は思うのでしょうか？　（正しくは多くの一般人も同様に「死にたい」を本気にしないのはなぜでしょうか？）</p><p>もっと言えば、「本当に死にたい人」はどんなことをするのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>現代人は「死」に対して謎の憧れを抱いています。どこかで人々は「死」を解放と考えている節があります。つまらない・悲しい・辛い、そんな生からの解放こそが「死」だと思っています。日本人は特に「死」を無ととらえている人や「天国」と考えている人が多くいるように思います。世界的に見ても、地獄という考えもありますが、割と死んだ後はハッピー系か無系が多いように思います。つまりは、死ねば今のそんな負の生からの脱却だと思っているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>つまりは現代人の「死にたい」≒「（現状から）逃げたい」と同義と思っています。では、簡単な鑑別をしましょうか？　「本当の死にたい」と「逃避を意味する死にたい」の違いはなんでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>そこは実際に自殺を考えた人の意見を採択しながら考えていきたい。</p><p>実際は複雑に絡まっていて難しいですが、簡易的に「死にたい」っていう言葉を４つのレベルで考えていきましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>①ファッション死にたい</p><p>②苦しい死にたい</p><p>③余裕のある死にたい</p><p>④本当に死にたい</p><p>&nbsp;</p><p>と分けてみます。では、①から順番に、もちろん下に行くほど重篤です。</p><p>&nbsp;</p><p>①の「ファッション死にたい」はその名の通り、ファッションです。みんなに心配されたいから、別にこれっぽっちも死にたいなんて思っちゃいないけど言うセリフです。まあぶりっ子がTwitterに「辛い……しにたいお……」って呟いて、取り巻き男が「大丈夫、俺が付いてるよ！」みたいな時の死にたいです。対して心配しなくて大丈夫です。死への思いは低く、心配されるという事象に憧れているタイプです。このタイプの人は直近で自殺はしません。</p><p>&nbsp;</p><p>②の「苦しい死にたい」は先ほど話したタイプに最も近い「死にたい」です。辛いことや悲しいことがあって、死にたくなる。つまらないことや恥ずかしいことがあって、死にたくなる。それをなんとなく口から零してみた程度です。確かに一過性に（一瞬は）「死にたい」とは本気で思っていますが、時間が経てば・事柄が過ぎたり解決したりすれば、自ずと回復します。もちろん、人の助けがあった方がいい時もありますが、こちらの例も自殺はしません。</p><p>&nbsp;</p><p>③の「余裕のある死にたい」は④に比べて大事余裕があるという意味です。辛いことや悲しいことが重なったり、楽しいと思えることが無かったりすると思う人が多く、割と重度ですが、まあ自殺はしません。このタイプの「死にたい」は自殺方法を具体的にするようになります。「どこで」「いつ」「どのように」死ぬのか等の方法論を検討し始めるが、まだまだ余裕です。②よりは長いですが、所詮は一過性です、自殺しません。理由はあとで書きます。</p><p>&nbsp;</p><p>④の「本当に死にたい」はマジでやばいです。もしも友人でこのタイプがいるなら、誰かが助ける又はその人の変化が起きないと、あと一年以内に死ぬことになります。傾向として、自暴的で自虐的、そして、死に対して具体的な案を挙げるのは③と同様ですが、もはや方法論なんて考えていません。どれだけ早く死ぬかに執着しており、唯一死なない理由は「人に迷惑をいかにかけないか？」です。こちらも解説はしていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>①と②は重篤度が低く、そのままで特に問題がないので、③と④の違いに焦点を置いて話していきましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>③と④は繋がっていますが、大きな差があります。人とは良くできた生物で、「死にたい」と思うような経験をして、「死にたい」と実際に口にしても、一般に他のナニカのせいにします、現実にはそうであってもそうでなくても。</p><p>運・タイミング・相手・仲間・敵・家族・時代……それは多岐にわたります。</p><p>なので、①～③のタイプではどこかで、これらのせいにしています。但し、④だけは違う。例外はありますが、④だけはその経験を「自分自身」のせいにします。</p><p>&nbsp;</p><p>④のように自分自身のせいにすると、何がまずいかと言うと、逃げ道がないのです。自分が悪いければ、自分を改善する必要がある。だったら、問題は外には出て行かないため、ふさぎ込んで他人とかかわることをやめて、勝手に死に向かっています。何が言いたいか？　本当に死にたい人物とは、ひっそりと消えていくもので、誰とも連絡を取らなくなる・趣味やストレス発散法をやっている様子がない、などが上がってくるとまあやばいです。彼らの発想は「どーせ死ぬんだから」で終わっていて、人との関りも意味がない・別に溜まるストレスも止めなくていい、と思うため、行動は単調になりどれだけ早くそれだけ人に迷惑をかけずに死ぬか、のみが思考の中心になります。</p><p>&nbsp;</p><p>対して、③はだいたいが割と死ぬ理由をナニカのせいにしています。アイツでのせいで、今の時代が、そんな風に考えている余裕があるやつは死にません。死に方を具体的に考える？　そんな暇は④の人にはない。死に方に拘る余裕もないのが④です。③の人は精神的に弱い人がなる傾向が強いです。精神が弱い人間は自分自身で弱いため、人に依存している節が強い。つまりは本能的に依存、つまり他のナニカに頼る、他のナニカのせいにする人が多いから、③の「死にたい」で止まることが多いです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>正直に言うと、全ての「死にたい」は心配してもいいと思います。但し、無駄になる「死にたい」への心配が多すぎる。本当に案ずるべきは④の死にたいです。全ての人からの連絡が段々と取れなくなり、趣味やストレス発散をしている様子がない。本当にまずい兆候です。④の状態だったと思われる人はそのような兆候が見られ、強迫性障害のような症状になり、「すべてのモノが自分を殺す道具に見えて、実際にそれで自殺している様子が頭に流れる」と言っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>もしもそんな人があなたの近しい人物だったら、全力で助けてあげてください！</p><p>助け方は試行回数の多さが大事（自分自身のせいだと思ってしまうたびにする）で、具体的にその人が自分のせいにしている事柄を他のナニカのせいするように誘導することです。そうしてあげれば、③の人と同様な状態に持ち込めて、いつかはまた元気なその人に戻れる可能性があります。</p><p>&nbsp;</p><p>大切な人を守るために、またはいらぬ心配をかけてくる心配をかけてくる知り合いを人生から減らすために、「死にたい」を見極めることは大事だと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12384262297.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Jun 2018 02:24:55 +0900</pubDate>
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<title>趣味が合うのになんで友達になれないの？</title>
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<![CDATA[ <p>人間関係ってウザいほどにめんどいな、って話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ブログを書くのは現実で思いを発散できない以上の思いがあるときなんだなって思って、投稿しない自分を肯定化している希哲学者です。今日のネタも友人から勝手に着想を得ました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>たまにいませんか？　全くと言って趣味が違うのに続いているカップルがいる。</p><p>経験ありませんか？　趣味や性格が一緒だから仲良くなれると思って紹介したのに続かない自分の友人同士。</p><p>&nbsp;</p><p>私は未だ愚者なので、人間関係とは趣味や性格が一緒だったら、仲良くなれるんだろう！　って思っていました。ただそれは間違いでした。実は人間関係における構築因子・継続因子・強化因子とは違う物なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>かみ砕いて言えば、友達関係になるための条件・友達関係が継続するための条件・友達関係を深めるための条件は違うのです。（もちろん、友達という人間関係以外、恋人や家族、師弟などもまあまあ該当すると思います）</p><p>それぞれに解説していきます。</p><p>&nbsp;</p><p>・強化因子（つまり友達関係を深めるための条件）</p><p>順番が前後しますが、まあ分かりやすいモノから話していきましょう。これがいわゆる性格や趣味、思考とかです。おいおいさっきと言ってること違くね？　と思うと思います。ただ私が言ったのは「何故か続くカップル」（継続因子）・「何故か友達にならない二人」（構築因子）のことを指しました。趣味や性格の相性が良ければ、それはわかりやすく当たり前に関係は深くなっていきます。相手を理解しやすくなりますし、相手と話すことも尽きないわけですからね。</p><p>&nbsp;</p><p>・構築因子（つまり友達関係になるための条件）</p><p>構築因子はズバリ「欲望の一致」・「欲望の共存」です。同じような欲望を持っている２人だったり、ぶつかり合わない欲望を持っている２人だったら、関係は構築されます。さっきの例で言えば、「何故か友達にならない二人」はどう説明するか。それはどちらか一方でも今友達を欲していない場合（友達が欲しいという欲望がない）はどうなるのでしょうか？　それはまあ別にそっちからすればわざわざ話す必要もなくて、そうすればもう一方も諦めて形成できません。逆言えば、お互いに友達になりたいという欲望があれば、友人関係は成立します（欲望の一致）。</p><p>もう一方の欲望の共存ですが、（分かりやすい代わりに俗的な）例として「男側は性的関係を求めて」、「女側は社会的ステータスを求めて」成立したカップルがいたとします。二つの欲望は一致はしてはいませんが、共存が可能です。つまりお互いに関係構築に対する欲望があって、共存できれば関係が構築されます。</p><p>&nbsp;</p><p>言わば、そもそもその相手と関係を構築したいという「欲望」が「存在する」ことが前提で、その欲望が一致または共存できれば（逆に言えば欲望がぶつかり合わなければ）関係は構築される。</p><p>&nbsp;</p><p>・継続因子（つまり友達関係が継続するための条件）</p><p>継続因子は「欲望が衝突しないこと「・「欲望が無くならないこと」です。これは構築因子とつながります。この仮説を下敷きすると、人間関係がある時点では「欲望」はあります。しかしそれが無くなればどうなるのか？　自然消滅です。昔はそれなりに仲良かったけど、気付いたら連絡先リストでした方に埋まっている昔の友人とかいませんか？　そういう人にはわざわざ連絡を取ろうと思ったりはしない気がします。つまり、別にその人間関係を構築したいという欲望が無くなってしまえば人間関係は自然消滅します（欲望が無くならないこと）。</p><p>ただ欲望があり続けても欲望の変化によって関係にヒビが入ることがあります。さっきの例を出すと、「男側は性的関係を求めて」、「女側は社会的ステータスを求めて」⇒「男側は性的関係のみを求めて」、「女側は社会的ステータスのみを求めて」になったら？　「のみ」という限定がついたことで関係が成立しなくなります。今の例では二人とも変わりましたが一方の変化でも成立しません。もっとわかりやすい例は恋人から結婚です。結婚が視野に入るだけで、一方に結婚欲が合ってもう一方にないと結婚前に別れることになります（欲望が衝突しないこと）。</p><p>&nbsp;</p><p>つまりはですね、「欲望」が「存在しない」状態になった時に関係は衰退し終わるし、「欲望」が合っても「衝突」すれば関係は終わる。</p><p>&nbsp;</p><p>長く続いているけど趣味や性格が合っていないカップルにはこういう秘密があったわけです。お互いに欲望があって、それが衝突しないから続いている訳だったんです。ていうか、趣味や性格があっていても、お互いに欲望があって、それが衝突しないから続いているのです。</p><p>もちろん、恋人への欲望として趣味の一致を含んでる人が居れば、それが構築因子or継続因子にそれが含まれるわけですから、趣味などが理由で付き合ったり別れたりするでしょうが、それもこの仮説の上では例外とはなりません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>どうでしょうか？　皆さんは皆さんの持っている人間関係の相手にどんな欲望を持っていますか？　その相手はあなたにどんな欲望をもっていますか？　それを失った瞬間、それを失わせた瞬間に関係は終わります。大事にしましょう、その欲望を。</p><p>まあ終わりにしたい関係だったら、それを失うことが重要なんでしょうね(笑)</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12377254875.html</link>
<pubDate>Sun, 20 May 2018 00:43:37 +0900</pubDate>
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<title>群れって考え方によっては食べ放題？</title>
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<![CDATA[ <p>弱者って群れるっていうけど、強くなったわけでは無いよねって話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「強者は群れない。弱者は群れる」みたいなことって言いますよね。また動物の中には群れを成すことで、生存競争に勝ち残ろうとする生き物っていますよね。それって、本当はどうなのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>まあ正直言うと、強者が群れなさいとか弱者が群れるとかが自然界でどうこうとかはどうでもいいんです。そりゃトラやチーターの強い肉食獣は群れを成さないし、弱い草食獣であるシマウマは群れを成すかもしれない。でも、強い肉食獣であるライオンは群れを成すし、弱いとされる草食獣でも群れない場合もある。今回は人間がグループを作る理由についてです。</p><p>&nbsp;</p><p>先に結論から言いましょう。</p><p>「弱いものが集まってできた群れは雑魚い」</p><p>以上です。</p><p>&nbsp;</p><p>理由ですが、自然界の生物たちは自分たちが弱いから群れているのではない。強い弱いじゃなくて、生き残りやすい方法が群れか単独かで生きているのです。ただ人間の群れはそれとは違う場合があります。仕事でないプライベートな部分でそれはよく生じます。</p><p>&nbsp;</p><p>ではわかりやすい例を出してみましょう。学校を思い浮かべて欲しいです。</p><p>確かに趣味や部活が同じことでできるグループや仲の良さや気の一致から形成される群れもありましょう。しかし、学内で地味とか弱いとかで考えた時に思い浮かぶグループって仲が良いのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>実はですね。弱者がグループを成すのは弱者であるからであって、群れると強くなるからではない。動物のように群れることが最善だからではない。</p><p>&nbsp;</p><p>次に冷静に弱者とはなぜ弱者なのでしょうか？　答えは弱いからです。じゃあ、弱い奴がグループを作ったらどうなるのでしょうか？　答えはこれも簡単で、粗悪品ばかりで組んだ機械がうまく動かないと一緒で結局は酷いカタチになります。</p><p>&nbsp;</p><p>何が言いたいのか。群れることは達成したい「目的」のために「結託」したグループや群れは強いのです。どんなメンバーがいても。そして、それがないグループや群れはどんなメンバーがいても弱い。</p><p>&nbsp;</p><p>よくよく考えてみたら、あんなに学校や会社などの社会でもカリスマ性のある人で集まってるのにちょっとしたいざこざで壊れちゃうグループとかありませんでしたか？　それはそこに目的がないからです。</p><p>&nbsp;</p><p>目的は何でもいい。明文化されている必要もない。単純に「仲良くしたい」っていう目的があれば、もっと壮大に「学校で人気者になりたい」、商業的に「このプロジェクトを成功させたい」っていう目的でも、なんでもいい。あれば強い。なければ弱い。以上です。</p><p>&nbsp;</p><p>つまりはですね。弱者が集まってできたグループなぞは強い側からすれば、捨て石に出来る踏み台の集合でしかなく、それこそ食べ放題状態なわけですよ。ですから、我々が「弱者であること」を理由に群れていけない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>なぜ弱者は弱者になってしまったのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>私が思うに依存こそが弱者を生むんだと思うんです。</p><p>&nbsp;</p><p>正しくは強者は依存しない。依存ではなく、分配や協力をするのが強者な気がします。そうすれば、先ほどの話も裏付けができます。依存する者同士が集まっても、依存できるような柱がないため、結局は共倒れする。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>まあ何が言いたいかと言えば、意味なく群れると良くないよってことですね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12355020494.html</link>
<pubDate>Thu, 22 Feb 2018 23:30:05 +0900</pubDate>
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<title>世界の中心にいるあなたに</title>
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<![CDATA[ <p>冷静に考えてみると、そうなっちゃうよねって話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これからブログを使って、今好きな人に告白します！　っていう記事ではないです。なんかどっかの売れない恋愛の小説の一説みたいですが、そうではなく、自分の世界において中心はあくまで自分だよね話です。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>よく「あいつは自己中心的だ。世界は自分中心で回ってると思ってる」みたいに揶揄されますが、それを聴いてたまに当たり前やん！　って思うことがあります。だって、その人にとって、誰もが自分が中心なのだから。</p><p>&nbsp;</p><p>話をまとめていきます。自分にとっての自分の世界とはいったい何なのでしょうか？</p><p>それはきっと、自分が経験したことや見たこと・聞いたことによって形成されていくものだと思います。それって、あくまで自分が主体な経験なわけで、つまりは自分の世界ってやっぱり自分が中心に形成されていくもの。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>当たり前ですが、でもなんか自分が中心のように生きてるって悪口に使われがちですよね。では、掘り下げとして、自分中心じゃない世界観の持ち方ってなんなのでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>自分が主体でなければいいので、とりあえずは他人の世界観とかは自分中心ではないとは言えそうですが、でも結局はそれはその他人という一定の誰かが中心になっている。そうなると、誰にとっても主体でない世界観を持たないと「世界は自分中心で回ってると思ってる」って言われてしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>では、『誰にとっても主体でない世界観』ってなんなのでしょうか？</p><p>答えはきっと難しいと思います。誰もが中心じゃない。この世にいる70億人の視点すべての中心に主体を置く？　それともどこかにいるかもしれない未知の知的生命体も加味する……？　いやいや、生物以外のことも加味するべき？　単純に距離的な意味で、どこからも無限に遠い無限遠からの観測を行う？　どれでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>どれがもっとも適切な答えかどうかは置いておいて、どれも観測するのが無理に近い。ここから何が言いたいかといえば、結局私たち人間は特定な誰か、原則的に自分が主体の世界観を持って、決断しなければならないということです。</p><p>&nbsp;</p><p>では、上記のようなことが言えるのに、「世界は自分中心で回ってると思ってる」とはなぜ良くない揶揄として使われているのか。それは文字通りの意味じゃないからでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>おそらく「世界は自分中心で回ってると思ってる」とはあくまで「独善的」とか「自分の利益しか興味がない」ということなのでしょう。</p><p>そうすれば、この言葉が悪口で言われることがわかるような気がします。私はかねてから思うことがあります。「独善的」って悪いことなんでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、自分が良い人と認められたいからボランティアに参加している人は「独善的」でしょうか？</p><p>例えば、自分がボランティアをすると満たされるからボランティアをしている人は「独善的」でしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>実はどんな行動も結局は「独善的」なのです。福祉などはどこかで自分に見返りがあるから成立するもので、完全なる自己犠牲とはほとんどありません。動機不純と思われると思いますが、でも心の本当の真意とはわからないことの方が多い「です。</p><p>&nbsp;</p><p>「世界が自分が中心」という考えも「独善的」も悪くない。結局は人は自分にとって、不利益なこと、言わばメーワクなことをされると、まるで自分以外の人間も被害にあってるんだ、と言いたげに「あいつは独善的だ」と言うのです。もちろん、実際に迷惑なことをしている場合もあるので、それがダメとも言わないですが。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この世の中は結局は批判する側も批判される側も自己中心的な世界観を持っています。どちらかに賛同する人達、どちらにも賛同しない人達、彼らもまた自己中心的な世界観を持っています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>だから私達は割り切って、「自己中心的な世界観」の何が悪い！　って敢えて言いましょう。</p><p>はっきり言います、耳をかっぽじってよく聞いて欲しいです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:2.74em;"><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">「あなたの世界はあなたが中心です」</span></span></span></p><p>&nbsp;</p><p>まあたまにはこんなよくわからない記事の中に更によくわからない記事があってもいいのではないでしょうか？(笑)</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12353727505.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Feb 2018 00:21:48 +0900</pubDate>
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<title>希哲学者流心の治療法</title>
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<![CDATA[ <p>そろそろ精神科が賑わう季節の変わり目だから、こんな話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>題名通り、『心の治療法』について書きます。</p><p>そもそも治療が必要な状態とは、どんなものなんでしょうか？</p><p>&nbsp;</p><p>今回は心を「柱」に比喩して、話を展開しましょう。</p><p>心を柱として考えれば、、、治療が必要な状態とは</p><p>・柱にヒビが入った状態</p><p>・柱の一部が欠損した状態</p><p>・柱が折れた状態</p><p>に大別できると思います。なんとなく察しがつくとは思いますが、下へ行くほど重篤です。ちなみにスポーツや医療にかかわりがある人にわかるように例えるなら、亀裂骨折・剥離骨折・閉鎖骨折といった感じです。また、悪化するとより下の状態になる場合が多分にあります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>１、ヒビの直し方</p><p>他の二つとは異なり、柱の構成要素は何も失っていない状態です。心の整理が付いていないだけの場合が多いです。例としては、未知の環境に入った時・緊張状態などが上げられます。フレッシュマン・マリッジブルーの心が病む原因がこれのような気がします。</p><p>&nbsp;</p><p>→治療法は至って簡単。心の整理をつけることです</p><p>何も失っていないのだから、そのヒビを接着剤のようなもので接着すればよい。その接着剤が心を整理することです。</p><p>&nbsp;</p><p>具体的には誰かに対して現状を話す・文章化やチャート化によって具現化。それらによって、今の状況を明確化してあげる。明確化されると、現状に変化がなく焦りを感じる必要がないことが分かり、心が整理され、ヒビは直ります。</p><p>ちなみに、急性期（急ぎの場合）は心の整理が付いている部分や自分が理解している現状のみに目を向けて、疑似的に現状のすべてを理解している状態を作ることで、ヒビを補修できます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>２、欠損の直し方</p><p>心の一部が欠損して、正常な状態ではない状況のことをさします。何かを失ったときによく置きます。例としては、恋人や友人、家族の消失・変化などが上げられます。恋人との別れや両親との死別で起こりやすいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>→治療法は大別して三つあります。</p><p>欠損部を元に戻す・補完する・心を停止させる</p><p>&nbsp;</p><p>・元に戻す……失った部分をもう一度手に入れる方法。</p><p>例を挙げるなら、恋人と別れたのならその恋人ともう一度付き合いなおす、です。</p><p>特徴として、短期では満たされますが、長期的には満たされにくい傾向があります。つまりは、元に戻した直後は欠損部が戻ってきた安心感を感じますが、時間が経つとその欠損した部分が一般には欠損する理由があって欠損したがゆえに欠損したわけで、また欠損が起きやすい。この方法ができない場合もある。</p><p>例に戻るなら、恋人と付き合いなおしたが、同じ理由でまた関係が悪くなり別れたり苦労したりする。</p><p>&nbsp;</p><p>・補完する……失った部分と似た要素で埋める</p><p>例を挙げるなら、恋人と別れたので違う恋人と付き合う、です。</p><p>特徴として、「元に戻す」とは違い短期では満たされにくいが、長期的には満たされることがある。つまりは、補完した直後は元との違いに戸惑い苦労しますが、時間が経てば馴染み始めて安定する。まあ欠損部をうまく補完できずすぐに欠損状態に戻る可能性はありますが。</p><p>例に戻るなら、異なる恋人と付き合い始めて、昔の恋人の苦労を忘れていく。</p><p>&nbsp;</p><p>・心を停止する……失った部分の時をとめてしまう。厳密に言うと治療法ではない。</p><p>例を挙げるなら、恋人と別れたので恋愛のことを忘れて他の趣味に目を向ける、です。</p><p>特徴として、先述通りに現状は変わりません。欠損部に目を向けないようにすることで状況を悪化させない。急性期に役に立つ温存療法のようなものです。ただ根本的な回復は時間経過では見込めないので、何かしらの因子が必要。そうじゃないと、悪化して心が折れる場合もある。もちろん、目を向けない放置によって自然治癒することもある（実際は何か小さな要因がいくつか起こって補完されていることが多い）。</p><p>例に戻るなら、恋人と別れて趣味に没頭していたら趣味の重要度が上がって、さらにはその趣味でより良い恋に発展しうる友人を見つけてしまった（放置による自然治癒の一例）。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>多くの心の強い人間、つまり柱が丈夫な人々は心にヒビが入ってもより強固にするヒビの直し方や欠損部の埋め合わせを実行しているため、強い場合が多いです。元から強いというのもありますが、それ以上にこれらのことを無意識にやって、後天的に強い人が多いです。</p><p>&nbsp;</p><p>以上が心の治療法です！　と言いたいですが、まだ話していませんね。柱が折れた時のことについて、ここからは難しいです。ではでは。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>３、折れた時の直し方</p><p>心が折れてしまい、支えていたものを失い「欠損した時」以上に正常な行動が見込めない状態。基本的には前者二つを放置したことによる悪化により起こりうる。いきなり折れる場合もあるが、それらのほとんどは極短期間の「ヒビ状態」や「欠損状態」を踏まえていることが多い。この状態になった人が精神病になったり、それに近い状態になる。</p><p>&nbsp;</p><p>→治療法は人それぞれ。</p><p>心が折れたきっかけも人それぞれ。ただ共通して言えることは柱を作り直す必要がある。あと重要なのは折った原因はどういうものなのか？</p><p>&nbsp;</p><p>折れた心の治療は難しいです。ただいくつかの例とともに直し方を書き記しましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>ケースA：柱の一部が残存していた例１</p><p>柱の下部は残っていて、上の部分が折れて崩れ落ちた状態。原因はいじめ。このときは、外的要因があり理由が明確である。そのため、環境を変えて、新しい学校に通い新しい友人関係を一から作り直す。柱の一部が残っていたため、社交性や友人を作るスキルが残っていたため、新しく柱を作り上げた。</p><p>&nbsp;</p><p>ケースB：柱の一部が残存していた例２</p><p>柱の株は残っていて、上の部分が折れて崩れ落ちた状態。原因はいじめ。例１に酷似しているが、直し方が異なる。例１は残存部分を元に新しい柱を作ったが、折れた無くなった部分を補完するべき部分だと考え、折れた心をいじめをしてきた人間への復讐心で補完し、学校に通い続けて相手の不快な存在で居続けると同時に、彼らの行動を学校に公表させいじめっこの居場所を喪失させた。しかし、復讐が終わったあと、復讐心という補完物がなくなってしまい心が折れかけるが、自分はいじめに立ち向かった業績への自身により折れなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>ケースC：柱が完全消失した例</p><p>柱が完全になくなり、廃人化した状態。原因はストレス（職場での環境要因）。柱が完全消失する場合はほぼ確実に柱の一部が残った状態で無理矢理現状に立ち向かっている場合が継続して、その残った柱もすり減りなくなった場合が多く、この例もそれ。幼児に施すような社会性を身に着ける訓練の繰り返しでなんとか柱を作り直すが、完治無理。専門機関が必要。このような例が躁うつ病やパニック障害の一部があたると思っている。</p><p>&nbsp;</p><p>ケースD：柱じゃなくなった例</p><p>心を柱に例えて置いて、こういうのもなんだが柱が折れて壊れて、もう柱ではないが柱の残骸とも言えない他のナニカになった状況。例を具体化するとかなりえぐいので書かない。統合失調症や解離性性同一性障害などがこの状態だと思っている。もちろん、専門機関が必須。</p><p>&nbsp;</p><p>ケースE：何も要素を失ってないけど折れた例（超特殊例）</p><p>柱にヒビが入っても欠損もしてないのに折れた……正しく自分の意思で折る特殊例。前述の通り、柱が折れた状態になる前にほぼほぼヒビや欠損がある。ヒビは欠損が生じうる状態で、欠損はまさに欠損した状態。その状態で折れるから治療が大変なのだ。折れる前に、なんならヒビや欠損が入る前に、自分の意思で心を折る。そうすると、心の構成要素は減っていないのでまた組み立てるだけで良い。その時に同時に心を補強して強くする。本当に一部の天才のみができる心の補修手段である。試行はおススメしない。</p><p>&nbsp;</p><p>以上な例がある。本当に折れた場合の治療法は多岐にわたって、どの方法も個人個人に特化した物なので合うかどうかは不明である。直すためには「直したい」という自己の意思は必須で、場合によって他人や環境、専門機関が必要になる。ただここまで追い込まれる人々はマイノリティーに分類できるし、ヒビや欠損を直していればこの状態にならない。だから、我々はヒビや欠損に気をつけるべきである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>最後に、これらの治療法はヒビや欠損、折れが発覚した場合に使うことができる。折れに関しては自他すぐにわかるが、ヒビや欠損は知らず知らずの時がある。だから、自分の心の検査をある程度の頻度でしっかりと調べて、場合によっては定期カウンセリングを受けたり、自分をよく知る友人や家族が自分に「疲れてるの？」ってかける声に耳をよく傾けたりして、自分じゃないからこそ気付ける心のヒビや欠損を早期に発見することが重要である。そうじゃないと、治療法も実践できないしね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>今回は真面目テーマで行きました。皆さんも心のメンテナンス・心の異常の早期発見・心の治療法をお忘れずに。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12353481669.html</link>
<pubDate>Sat, 17 Feb 2018 02:49:56 +0900</pubDate>
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<title>昨日はバレンタインデーだったらしい</title>
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<![CDATA[ <p>最近、ネタがないから時期にネタを頼ろうっていう話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>バレンタインデーとは面白い習慣ですね。クリスマスが誰にでもプレゼントをするのに対して、バレンタインデーは女性が主体とか。かと思えば、逆チョコという謎風習もアリで、期限をたどればバレンタインって言う司教が処された日（？　詳細はよく知らない）らしいですね。謎は深まる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>恋愛にまつわる日ですので、その話は少ししたいのですが、その前に恋愛を抱合している人間関係についての小ネタから話していこうと思います。</p><p>・人って好きな人と一緒にいたがるよねって話</p><p>・長く悩むということは難しいっていう話</p><p>の二つです。</p><p>&nbsp;</p><p>では、人って好きな人と一緒にいたがるよねって話</p><p>当たり前ですが、人は好きな人と一緒に居たがります。恋人にしても、友人にしても、しかし私が思うにこの考えは捨てた方がいいと思います。理由ですが、「好き」という感情は我慢を生みます。我慢するのは間違いではない。しかしながら、我慢はエネルギーを多分に使う。だから、よろしくない。私が思うに好きな人ではなく「長く一緒に居れる人」と一緒にいた方が良いと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>理由ですが、長く一緒に居れるということは、「好き」っていう感情が表層ではなく深層まで沈んでいて、相手に気を使いすぎることがない証拠だと思います。そういう人間と一緒にいることは我慢というストレスが溜まることはなく、楽でいられる。</p><p>&nbsp;</p><p>私が思うのは「『我慢できるくらい好きな人』と一緒にいるのが幸せ」ではなく、「『我慢しないで済むくらい信頼している人』がそばに居る幸せ」を大事にして欲しいですね。まあ理想ですし、実際は諸所の問題が発生しますが。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>次は、・長く悩むということは難しいっていう話</p><p>誰かとの人間関係を構築or進展させる場合、もしも長く悩むようならやめた方がいいことですね。どんな人にも多少なりとも問題はあって悩むのは浅はかではないし、良いことだと思います。ただ構築or進展させていい関係って、悩んでる最中に悩むことでもないかってわかるモノだと思うんです。よーするに、悩むくらいならその関係は現状維持安定ということですね。</p><p>&nbsp;</p><p>かみ砕いて話すのならば、皆さんも自分が過去に悩んことを思い浮かべて欲しいです。悩んでも問題が小さければ気にならず簡単にGOサインを出せるはずです。しかし、問題が大きければGOサインはなかなか出せないものです。例え勇気を出してGOサインを出してみても、その問題は付きまとう。チャラそうだなっていう原因で友人または恋人にしたくないと思ったとき、関係が構築されても「チャラいなー」って思ってしまい悩みます。悩むような問題はですね、関係が出来たら悩まなくなるわけがない。</p><p>&nbsp;</p><p>悩むことは決して悪くない。しかし、その悩みが重みを抱えた時にその重い悩みは友人として、または恋人として関係を深くした際に常に悩み続ける原因になります。さっきの話に関連するのですが、悩むことを許容して付き合うことは疲れます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>では最後に恋愛関連の話をします。友人の話を総計すると、思ったことです。</p><p>世間はよくこんなこと言います「男は外見で、女は性格で選ぶ」って。これは大嘘だと思います。私なりの解釈はこうです。</p><p>「男は外見で、女は総合評価で選ぶ、性格で選ぶ奴は損しかしない」</p><p>もちろん、選ぶとは言いますがそれはそういう傾向が強いというだけで、全員がそうとは言いません。では、話をします。</p><p>&nbsp;</p><p>男は外見に関しては特に言いたいことはないです。男という生き物は浅ましいですから、結局顔やら胸やらケツやらを見ています。中にはうなじとかふとももとかもいますが、そんなもんです。但し、言いたいことがあるとすれば、外見以外にも恋愛対象とするメーターはあって、それらの閾値はすごく緩い。ということです。まあざっくり失礼に言うなら、</p><p>「外見という条件さえ容認させてしまえば、あとの追加ポイントは簡単に稼げます」</p><p>雑に言うなら、その人のダメに入ってなければ、料理が出来れば好きになるようになる（程度はどうでもいい）・趣味が合えば好きになる（同様に程度はどうでもいい）・気が使える（程度はry）　のように男性は「ここまでのレベルを要求する」というよりは「その条件の有無」が重要に考えているように感じます。ちなみに不細工も美人も慣れるものです。許容させるのは案外簡単な案件かも知れません。</p><p>&nbsp;</p><p>次の女性が総合評価というのは、女性がよく考えているということです。正しくは色んな側面から見ているということです。よく言えば、思慮深い、悪く言えばセコイです。理由としては世に「美女と野獣カップル」が存在しているからです。ただよく考えて欲しい。そのようなカップルの美女はすごく美女なのか？　彼らは外見は全く考慮していないのか？　ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>一つ目の疑問の私の個人的見地を述べさせてもらえると、そういうカップルは女性は普通より少し可愛いくらい、男性の方は不細工ではあるが不細工の中では特に不細工には入らないレベルな気がします。（実際、ネットの記事とかで取り上げられる美女と野獣は極端な例で自分の周りを見るとこう思います）</p><p>二つ目の疑問は外見は絶対に考慮されているということです。例えば、外見が良い男性は浮気をする可能性が高いので、不細工を敢えて選んでいる。外見に対してのこだわりは「肌が綺麗」意外はないため、選んだ。ブサイクを選ぶ＝外見無考慮っていうわけではないのです。でも、一つ言えるのは男性より外見は重要な要素になることは少ないのかなって思います。ただ絶対に外見も考慮要素になってるのは確信します。</p><p>ちなみに女性はある部分での好きという概念を他の好きという概念で保管しているように思えます。外見がいいから性格はどうでもいい（男性アイドルのファン）。経済力があるから外見を我慢するのように（托卵女子）。</p><p>&nbsp;</p><p>最後ですが、男でも女でも例外的に「性格を重視する人」がいます。彼らは損します（キッパリ</p><p>まず、性格って把握に時間がかかります。外見なら一瞬で、スキルなら有無と程度で。対して、性格は一緒に長くいる事が大事です。一緒にいる密度をあげれば、性格の把握は短期間でも可能ですがそれでも難しいです。密度の話をすれば、性格の把握に必要な要件を「密度×時間」とすれば、この数値が高い場合って……多くの場合で相手の友人に入ってることが多くないですか？</p><p>&nbsp;</p><p>どうやら人間の多くは「時間×密度」が高い人は友人と見なす傾向が強いようです。ちなみに少し心理学的な話をすると、リーの恋愛６類型によると、日本人は「狂愛（マニア）」と「利愛（プラグマ）」が多いようですし、友人からの恋愛発展を見込める「友愛（ストゲル）」は少ないようですし、性格の把握はしているうちに恋愛対象外になっている場合が高いと感じます。あと、単純に時間が長いと相手にお相手ができます( ^)o(^ )</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>まあこんな感じですかね。バレンタイン便乗ネタは(笑)</p><p>&nbsp;</p><p>最後に（恋愛的に）まとめると、（付き合うことをゴールにしないのなら）長く続かせたいのなら、お相手は自分が長く一緒に入れる相手にしましょう。以上。</p><p>あっ、付き合うことをゴールにするなら、この辺全部どーでもいいです！　落とすコツは他の恋愛ブログに書いてあると思うんで、それｗ読んでください。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12352928862.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Feb 2018 01:37:00 +0900</pubDate>
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<title>異世界の人と交信する術？（SFではないです）</title>
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<![CDATA[ <p>世界の見え方が異なる他人と話すのって難しいよねって話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>お久しぶりです。最近は忙しくて、更新をサボっていた者です。ちなみに趣味の小説に書くことが忙しかった感じです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>では本題に。いつも通りタイトルは仰々しいですが、内容は「リア充」と「非リア充」、そして「そこの間における共感」についてですについてです。友人が持ってきたテーマなので、それについて言及していこう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>では経緯を話そう。友人の友人同士の会話で、このようなものがあったらしい</p><p>彼氏のいない女性「最近の非リア充可哀想っていう風潮、嫌い。別に非リア充でも現実は充足してるし、そこに優劣を勝手につけて、哀れに見られたり要努力とみなされたりするのは気に食わない」</p><p>→彼女のいる男性「めっちゃ『同感』する。リア充だって、別に楽しくない人もいるし、そういうテーマの会話を押し付けられると大変」</p><p>→彼氏のいない女性「やっぱりだよねー。どうにもならないことだからお互いに我慢しよう！」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私の観点だけでは正直、不思議な点はない。ただその友人は多角的に見るのが好きで特異な人間であるため、次のような解釈をしたらしい。今回のテーマは次のような解釈から思考が開始される。</p><p>※いつも通りこれは１解釈です。批判ではなく、考え方なので暖かな目で見てください。</p><p>まず定義づけ。「リア充」または「非リア充」とは文字通り、「リアルが充実している人々」だったり「リアルが充実していない人」として使われているわけでは無い。実際のところ、女性が「非リア充でも充実している」と言ったり、男性が「リア充だけどつまらない」のようなコメントをしたりしている。</p><p>ではここでの、いや昨今での「リア充」と「非リア充」という言葉は何をするのか？　簡単である「恋人がいる人」を「リア充」と呼ぶのだ。逆に「恋人がいない人」を「非リア充」と呼ぶのだ。では、ここからは「リア充」や「非リア充」という言葉を使うのは止めて話そう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>では話を進めていこう。はっきり言うと私も「恋人がいない→不幸せ」や「恋人がいる→幸せ」は間違っていると思う。ここで、明瞭化されるのがこの会話の『同感』が危ぶまれる点である。</p><p>女性は「恋人がいない→不幸せ」が気に食わない。と言っているのに対して、男性は「恋人がいる→幸せ」が気に食わない。としている。</p><p>少し脱線するが、数学の命題における逆と否定と対偶はご存じだろうか？　命題とその対偶は常に真偽が同じであるのに対して、逆と否定は真偽が同じだが逆と命題の真偽は同じではない。つまりには「恋人がいない→不幸せ」や「恋人がいる→幸せ」は対偶の関係にはない。否定の関係にある。何が言いたいか、言わば「恋人がいない→不幸せ」と「恋人がいる→幸せ」は同義ではなく結論が異なる場合もありうる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>小難しくなったので、整理すれば「恋人がいない→不幸せ」と「恋人がいる→幸せ」は似たテーマではあるが、対偶ではない以上一緒に検討してはいないのだ。もしかしたら構造上違うテーマかも知れないから。つまり全く違うかもしれないテーマに同感という言葉を使い関係を見出すのは誤っていると友人は考えたらしい。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>もっとフィーリング的に、簡素にまとめよう。「恋人がいない人間の苦労」と「恋人がいる人間の苦労」は違うものなのだ。だから、違うテーマについて話しているのに共感するのはおかしい。ということだ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>読者の方々には「考えすぎｗｗｗ」と思う人も多いと思うが、そこを掘り下げるのが我ら希哲学者なので容赦して頂きたい。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ただ実は私もその読者と同じ「考えすぎｗｗｗ」で片付けてしまう一人になりかけていた。この話を広げると、人間は実は類似のテーマで実際は異なるテーマを同一と見なして勝手に解釈しているのではないだろうか？　例えば、悩みを持つ友人に対して「私も同じ悩みがあったことがある」と言ったり、そう言ってきた友人に「えっ、そうなの？　だったら、助けてくれるかも」と思ったりなどはその典型ではないだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>では話を戻そう。今回のテーマ名である異世界の話をしよう。私はかねてから思っている経験や現状のステータスの有無は個人の世界観に差異を生む。今回の話においては、「恋人がいることがある・ない」という経験と「今恋人がいる・いない」というステータス、そういう点が世界観の違いを生む今例でも後者の違いがあるし、前者の違いもあるかもしれない。どちらにせよ、世界観が違うのは間違いない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>それこそ、今シーズンであるクリスマスに「負の感情」を持つとするなら、恋人がいない人からすれば「恋人がいなくて寂しいと思われたくない」と思うかもしれない、恋人がいる人からすれば「なんでクリスマスだからと言って交際相手に特別な面倒ごとをしないといけないんだ」と思うかもしれない。では、恋人がいない人は「なんでクリスマスだからと言って交際相手に特別な面倒ごとをしないといけないんだ」と思うか？　おそらくいないのだから思いもしないだろう。もちろん、その逆も然り、重要なのは視野の違い「世界観の違い」なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ここで言いたい。先ほどの「恋人がいない→不幸せ」と「恋人がいる→幸せ」が同義に見えてしまう、それこそがその世界観の違いから生まれたすれ違いなのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私は思うのは気をつけている人間でさえも知らず知らずのうちに、人に自分の世界観を当てはめ同類にしたがるが、実際は大きく違うこともある。ということだ。ちょっと周りを一度、見まわしてみるのもいいのではないか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12337170939.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Dec 2017 01:14:17 +0900</pubDate>
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<title>友人がネタ提供をしてくれたので-1-</title>
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<![CDATA[ <p>友人提供のネタも書こうかな？　って思った話。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>僕の友人にこんなことを言う奴がいる。</p><p>「時の流れを早く感じる奴は人生の見方を見直した方がいい」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これは彼女の意見に過ぎないが、彼女はよく口癖のように言うのは、この言葉だ。この言葉の真意はこうである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>彼女の中で、「時の流れを早く感じる奴」とは毎日がつまらない人であるらしい。彼女の言う通り、子供のころ、小学生のころなんて、一日が長かった。今よりも睡眠時間も長かったのにそう思う。これはどういうことなのか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>曰く、子供の時などは毎日が未体験なことばかりで、見新しくそれが人生がつまる、言い換えれば時の流れを遅く感じさせる要因だという。それは僕も賛同できる。ただ時が過ぎていけば、未体験のものが減り、人生がつまらなくなる、時の流れは早くなるのは仕方がなく思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ただ彼女は述べる。</p><p>「それはいつの間にか知ったかぶりをしているだけで、常にすべてのことが未体験なのだ」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>確かに人生において重複することはない。限りなく似ている場合はあっても、同じものはない。しかし、彼女がいうことはいささか理想主義すぎるとも感じた。人間は成長する生物なのだから、未体験だと思えなくなるのは仕方がないのでは？　それを伝えると彼女は言い返す。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「成長しているのというなら、感性も成長させればいい。人間は経験に頼ることで観察眼や感性を失う。観察や感性の立ち位置から考えれば、人間は退化しているんだ、成長なんかしている奴は一握り」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>随分と否定的な意見ではあるが、これも僕は賛同しかできない。不満そうにうなずく僕に彼女は笑顔で言った。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「でもさ考えてみて！　子どもなんかより活動的で出来ることも増えた大人がすべてを未経験だと思えるようになって、感性や観察眼も経験のように積み重ねて成長させれば、毎日はどうなると思う？　なんてすばらしい日々が続く思わない？　絶対、時は早いなんて感じない！　むしろ年を重ねれば重ねるほど、時は長く、人生はつまるものになるんじゃないかな！　私はぶっちゃけ毎日がすーごく長いしね！」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>もしかすると、僕らは成長と勘違いして退化しているかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/babel-tetsu/entry-12319072798.html</link>
<pubDate>Fri, 13 Oct 2017 00:51:03 +0900</pubDate>
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