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<title>華風（ホワフォン）八木章のブログ</title>
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<title>取り越し苦労</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20261007/04/bamu9158/d1/56/p/o0501033915829160494.png"><img alt="" height="284" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20261007/04/bamu9158/d1/56/p/o0501033915829160494.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　香港が中国に返還されることが決まったとき、わたくしは、あることで妙な焦りを感じていました。</p><p>　北京大学で中国文学を専攻していたわたくしにとって、当時の中国で禁書扱いされていた『金瓶梅』や『二拍』などの文学作品は、どうしても気になる存在でした。これらの本は、わたくしたち留学生なら北京大学の図書館で借りて読むことができましたが、一般の中国人学生が自由に手にすることはできません。まして本屋などで買うなど、考えられないことでした。</p><p>　しかも、文革前に中国で出版された本であっても、性的な描写など問題とされた箇所は削除され、その部分には「○○文字削除」といった注意書きが入っていました。それでもその部分を外しても、作品の全体像を掴むことができます。</p><p>　一方、台湾で出版されたものには、さらに驚かされました。削除された部分を単に省くのではなく、前後の流れを汲み取って、段落そのものを編纂してしまうのです。これでは原作の形が崩れ、もはや原作者が書いた作品とは言えません。わたくしにしてみれば、中国大陸の「○○文字削除」のほうが、まだましだと思ったものです。とはいえ、その削除量はかなりのもので、作品によっては三百字以上に及ぶこともありました。</p><p>　そこで思い出したのが、留学時代、ほかの留学生が香港から買ってきた本でした。それらは一切改ざんされていませんでした。</p><p>「そうだ。香港返還の前に、香港で買っておけばいい」</p><p>　そう考えたわたくしは、仕事で香港を経由して中国へ出張するたびに、本を探すことにしました。</p><p>　ところが、当時の広州と東京の間には直行便がなく、香港経由で帰国する場合でも、ほとんどが空港での乗り継ぎか、せいぜい一泊する程度です。そんな貴重な時間を利用して香港の街へ出かけ、本屋を探して歩き回りました。</p><p>　しかし、土地勘がなかったこともあり、「香港には本屋が少ないなあ」と実感しました。それに、幼いころ香港に立ち寄った際の印象も手伝って、標準語がほとんど通じない香港を、わたくしは最近までどうも好きになれなかったのです。わざわざ香港旅行をする気にもなりませんでした。</p><p>　ところが、時代は変わりました。</p><p>　いまでは中国大陸でも、こうした作品を完全な形で簡単に買うことができます。さらに最近では、さまざまな古典文学がインターネットを通して無料で読めるようになりました。</p><p>　人間というのは不思議なものです。</p><p>「いつでも買える」と分かった途端、今度は欲しくなくなる。</p><p>　結局、わが家には、あのころ香港まで出かけて探し回った『金瓶梅』がありません。</p><p>　香港返還を前に、あれほど焦っていたのはいったい何だったのでしょう。</p><p>　いま思えば、まったくの――取り越し苦労でした。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 07 Oct 2026 04:38:41 +0900</pubDate>
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<title>1972年の高校入学</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20261003/04/bamu9158/7d/d2/j/o0600078215827835654.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="287" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20261003/04/bamu9158/7d/d2/j/o0600078215827835654.jpg" width="220"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>　1970年初めに中国から帰国した我が家は、最初の半年間、江戸川区の引き揚げ寮「常盤荘」で暮らした。都営住宅の空きを待っていたためで、私は葛西中学校に通った。</p><p>　半年ほどして葛飾区西亀有の都営アパートに移ると、近くの青葉中学校へ転校した。葛西中とは違い、坊主頭にしなくてもよく、体育の授業も短パンではなく白いトレーニングパンツ。これだけでも私は大喜びだった。</p><p>　ただ、日本の学校で初めて目にしたものもあった。不良グループがいて、「番長」と呼ばれる存在がいた。そして驚いたことに、生徒たちから最も恐れられている先生が、そんな彼らに媚びていたのである。</p><p>　三年生になると進路を決めなければならない。すぐ上の兄が工場で働いていたので、私も卒業したら働こうかと思っていた。しかし両親は高校進学を強く勧めてくれた。家庭の事情を考え、公立高校を受験することにした。</p><p>　因みに、中国では英語を教える先生が少なく、学校ではロシア語を学んでいたため、英語は大の苦手だった。帰国後の成績も数学と体育以外は、ほとんど「2」と「3」。それでもテストだけは要領よく、そこそこの点を取ることができた。</p><p>　高校選びの条件は単純だった。公立で、且つ交通費もかからない自宅から遠くなく、しかも都心とは逆方向――つまり朝のラッシュでも空いていること。そこで綾瀬から千代田線で二駅先の金町にある都立本所工業高校を選んだ。</p><p>　担任の先生は「本所工業は都立工業高校では二番目に難しいから、滑り止めに私立も受けたほうがいい」と両親に勧めた。だが私は、「落ちたら働く」と言って断った。</p><p>　受験科目は国・数・英の三科目。幸い数学が得意だったので、どうにか合格した。両親も先生も大喜び、もちろん私自身も大喜びだった。</p><p>　そして高校生活が始まった。</p><p>　当時は「飛び出せ！青春」という青春ドラマが大人気で、担任の若い先生も、まるで主人公になったように熱血教師を演じていた。その先生には妙なこだわりがあり、年五回のテストの平均点ベスト10を毎回発表し、教室の壁に貼り出した。</p><p>　第一回目の発表で、私はまったく関心がなかったが、</p><p>　ところが先生が、「一番、篠崎。二番、八木……」と読み上げた。</p><p>　「えっ、何かの間違いじゃないの？」</p><p>　私は耳を疑った。</p><p>　中国時代には「三好学生」などで表彰されたこともあったが、日本に帰ってから中学では成績が散々だった。すっかり自信を失い、「成績なんてどうでもいい」と開き直っていたからだ。ところが、その後も不思議なことが続いた。三年間、トップと三位以下は毎回入れ替わるのに、なぜか私はずっと二位だった。まるで、往年の阪神タイガースのように――。</p><p>　ちなみに、私は阪神ファンだった。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/bamu9158/entry-12980458895.html</link>
<pubDate>Sat, 03 Oct 2026 04:20:37 +0900</pubDate>
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<title>華風舞台・中国のラブ・ロマンス『梁山伯と祝英台』</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20261002/07/bamu9158/83/e3/p/o1024055915827554349.png"><img alt="" height="229" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20261002/07/bamu9158/83/e3/p/o1024055915827554349.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　中国で「誰もが知っている恋物語」といえば、『梁山伯と祝英台』があります。いわば中国版『ロミオとジュリエット』です。ただし、この物語には最後に、二人が蝶になって天国へ旅立つという、いかにも中国らしい幻想的な結末が待っています。</p><p>　古代中国のあるところに、裕福な家に生まれた聡明で美しい少女・祝英台は、17歳になると学問を学びたいと親に願います。しかし、女性が学校へ通うことなど許されなかった時代だったので、彼女は男装し、杭州の学校へ向かいます。</p><p>　旅の途中で出会った18歳の青年が梁山伯でした。</p><p>二人は意気投合し、学校では三年間、机を並べて学びます。ところが、梁山伯は最後まで祝英台を男性だと思ったまま。祝英台だけが、友情ではなく恋心を抱いていたのです。</p><p>　別れの日、祝英台は「私の家には自分と瓜二つの妹がいる。君がその気なら、ぜひ家へ来て求婚してほしい」と、精一杯の暗示を送ります。しかし、あまりにも生真面目な梁山伯には、その意味が伝わりません。</p><p>　やがて梁山伯が祝英台の家を訪ね、初めて彼女が女性だったことを知ります。ところが父親は、貧しい梁山伯との結婚を頑として認めません。二人の恋は引き裂かれ、梁山伯は悲しみのあまり病に伏し、亡くなってしまいます。</p><p>　祝英台は別の男性との結婚を承諾する代わりに、「嫁入りの日には、必ず梁山伯の墓の前を通ってほしい」と父に頼みます。</p><p>　そしてその日。墓前で泣き崩れる祝英台を待っていたかのように、突然、黒雲が空を覆い、雷鳴が轟きます。大地が揺れ、墓が大きく裂けると、祝英台はその中へ吸い込まれていきます。やがて風雨が収まり、墓の周囲に色鮮やかな花が咲き始めます。そして墓の中から、一対の美しい蝶が舞い上がり、花々の間を飛び交いながら、空の彼方へ消えていった――。</p><p>&nbsp;</p><p>　中国語の「梁山<a name="_Hlk241816513">伯」</a>の「伯」は、『水滸伝』「梁山泊」の「泊」と発音が同じです。日本語では混同を避けるため、私はこの物語を「りょうざんはく」と読むことをお勧めします。</p><p>　この物語には京劇もありますが、女性役を女性が演じる越劇のほうが、こうした恋物語にはよく似合います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>京劇</p><p>https://www.youtube.com/watch?v=cesUN0LrgLY</p><p>&nbsp;</p><p>越劇</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=LBakpr43NsQ">https://www.youtube.com/watch?v=LBakpr43NsQ</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　そして、この物語を中国中に、いや世界に広めた大きなきっかけがありました。それが、何占豪氏らによる名曲、バイオリン協奏曲『梁祝』です。</p><p>&nbsp;</p><p>中国フィルハーモニー交響楽団が演奏する『梁祝』</p><p>https://www.youtube.com/watch?v=Ebf3h-o4xiw&amp;t=127s</p><p>&nbsp;</p><p>　実は私、1990年代の上海東方電視台のスタジオで、何占豪氏に一度だけお会いしたことがあります。私が日本と中国の共同制作番組を企画していた時のことでした。</p><p>　中国には素晴らしい音楽が数多くあります。しかし、世界的に知られる作品となると、それほど多くはありません。その中で『梁祝』は、二人の悲恋を美しい旋律に変え、国境を越えて愛される作品となりました。</p><p>　物語の中では蝶になった二人が空へ飛び立ちます。『梁祝』の音楽もまた、その二匹の蝶のように、中国から世界へ羽ばたいていったのです。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/bamu9158/entry-12980370411.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Oct 2026 07:03:50 +0900</pubDate>
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<title>華風テレビドラマ『知否知否応是緑肥紅痩』（明蘭～才媛の春～）</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20261002/04/bamu9158/c9/88/p/o0727058015827540012.png"><img alt="" height="335" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20261002/04/bamu9158/c9/88/p/o0727058015827540012.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　このドラマは2018年12月25日、湖南衛星テレビで放送された全70話の大作です。最近ではJ:comなどのケーブルテレビでも放送されています。</p><p>　原作は関心則乱氏の同名小説で、私はYouTubeで偶然この作品に出会ったのですが、見始めると止まらなくなり、とうとう徹夜で且つ早送りして一気に見終えてしまいました。それほど夢中にさせる作品です。</p><p>　中国語のタイトル『知否知否応是緑肥紅痩』は、宋代を代表する女流詞人・李清照の「如夢令・昨夜雨疏風驟」の一節から取られています。</p><p>　「知否」とは「ご存じか」、「応是」は「きっと～でしょう」という意味。そして「緑肥紅痩」とは、緑の葉が生い茂る一方、赤い花が散っていく春の情景を表しています。</p><p>　直訳すると「ご存じでしょうか、緑の葉は茂り、花はすでに痩せていることを――」という意味になります。</p><p>　人間の世界でどれほど争いが起ころうとも、季節は何事もなかったかのように移ろっていくという、そんな人生の無常が込められているのです。</p><p>　閑話休題、物語です。</p><p>　主人公は、宋代中堅役人・盛家の六女、明蘭です。彼女は幼いころから聡明で美しい娘ですが、身分の低い第三夫人の娘だったため、母親とともに冷遇されます。</p><p>　やがて母は、第二夫人の策略によって難産に追い込まれ、明蘭の懸命な努力もむなしく、母子ともに命を落としてしまいます。わずか八歳で母を失った明蘭は、心の奥底に深い憎しみを抱き、密かに復讐を誓います。</p><p>　そんな彼女を引き取ったのが、盛家の頂点に立つ心優しい祖母でした。</p><p>　明蘭は、表面上は争いを避け、物静かで従順な娘に見えます。しかし、その内面には鋼のような芯の強さがある。中国語でいう「柔中有剛」（柔らの中に剛あり）そのものです。</p><p>　やがて明蘭は、その知恵と美しさによって王侯貴族の世界でも頭角を現し、ついには宮廷を揺るがす皇位継承争いにも巻き込まれていきます。</p><p>　中国の時代劇には、単なる恋愛や勧善懲悪だけでは終わらない、人間の心の機微と社会の奥深さがあります。これもまた、私が中国の映画やドラマから離れられない理由の一つなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>日本語の番宣</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=H6DVJ0UPuE4&amp;list=PLVmBIuKUNzuITztm0J6xKvCTsBl5sBp6q">https://www.youtube.com/watch?v=H6DVJ0UPuE4&amp;list=PLVmBIuKUNzuITztm0J6xKvCTsBl5sBp6q</a></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Fri, 02 Oct 2026 04:34:42 +0900</pubDate>
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<title>華風文化・中国少数民族の革命歌</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20261002/04/bamu9158/29/7f/p/o1024055915827538959.png"><img alt="" height="229" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20261002/04/bamu9158/29/7f/p/o1024055915827538959.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　文化大革命の時代、中国では映画、演劇、音楽など、さまざまな文化や娯楽が厳しく批判されました。舞台で公然と上演できたのは、事実上、八つの「革命様板戯」（革命模範劇）に限られ、テレビやラジオから流れるのも、毛沢東を讃える歌や模範劇が中心であることは以前からご紹介してきました。</p><p>　ところが当時の文化統制には、「そこまで問題にするのか」と思いたくなるような話もあります。</p><p>　新疆ウイグル族の歌に『共産党の政策は亚克西』があります。「亚克西」（ヤクシ）はウイグル語で「よい」「すばらしい」という意味ですが、この音が漢語「呀，可惜」（やあ、残念だ）に似ているというだけで批判されたといいます。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=esU0-pUB1Zo">https://www.youtube.com/watch?v=esU0-pUB1Zo</a></p><p>&nbsp;</p><p>　さらに際どいのが『薩拉姆毛主席』です。「薩拉姆」は挨拶の言葉ですが、聞く人によっては「殺了毛主席」、つまり「毛主席を殺せ」と聞こえてしまうのです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=DFAsl-kFAqw">https://www.youtube.com/watch?v=DFAsl-kFAqw</a></p><p>&nbsp;</p><p>　もちろん歌の意味はまったく逆です。それでも、文革の時代には、歌詞の意味だけでなく、「どう聞こえるか」までが問題にされたのでした。もともと中国の少数民族の歌曲には、漢民族の歌曲とは異なる独特の旋律があり、文革以前から中国全土で親しまれたものも少なくありませんでした。</p><p>　その宣伝効果に目をつけたのか、文革が始まると、民族色豊かな旋律に毛沢東や共産党を讃える歌詞を乗せた歌曲が次々と作られます。その中には、当時としては少し珍しかった朝鮮族の歌もありました。政治によって歌詞は変えられても、長い年月をかけて民族が育ててきた旋律まで変えることはできなかったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>『延辺（吉林省内にある朝鮮族の自治地域）人民は毛主席を熱愛する』</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=bg-RBq7muS4">https://www.youtube.com/watch?v=bg-RBq7muS4</a></p><p>&nbsp;</p><p>『紅太陽が辺疆を照らす』</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=KYvauBXWaRY">https://www.youtube.com/watch?v=KYvauBXWaRY</a></p><p>&nbsp;</p><p>モンゴル族の歌『毛沢東の長寿を祝う』</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=tPUC5DwY2NU&amp;t=3s">https://www.youtube.com/watch?v=tPUC5DwY2NU&amp;t=3s</a></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/bamu9158/entry-12980364161.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Oct 2026 04:16:08 +0900</pubDate>
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<title>不思議な両親の仲</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260930/03/bamu9158/f0/c9/p/o0600041815826931936.png"><img alt="" height="293" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260930/03/bamu9158/f0/c9/p/o0600041815826931936.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>「お父さん、お疲れ様」</p><p>「おっと、と、と……」</p><p>写真から、そんな声が聞こえてきそうです。</p><p>以前にもご紹介した写真ですが、いつ頃撮ったものなのか、実はよく分かりません。母が着物を着ていること、そして何より「貴州茅台酒」で父にお酌をしていることを考えると、新中国成立直後のものではないかと思います。父たちがむかし住んでいた旧満州では、茅台酒はそう簡単に手に入る酒ではなかったはずです。</p><p>残念なのは、モノクロ写真なので、お膳にどんな料理が並んでいるのか分からないことです。我が家には、子どもの頃から鰹節の削り箱がありました。私は木の枝だと思っていた鰹節が一本だけあり、父に言われてよく削らされたものです。削っても削っても、なかなか減らない。子ども心に、いつまで続くのかとうんざりしていました。</p><p>私たちが暮らしていた外国人宿舎には、中華料理と西洋料理を出すレストランがあり、家で料理をすることはほとんどありませんでした。それでも、日本から客が来ると、母がそうめんやすき焼きを作っていたことは覚えています。すき焼きの味付けは、いつも父がやっていました。</p><p>両親は小さなことでよく言い合っていましたが、仲は良かったと思います。</p><p>晩年、私が二人と一緒に暮らしていた頃も、あまりに口喧嘩が多いので仲裁すると、父は笑って言いました。</p><p>「心配しなくていい。お互いに刺激し合っているだけだから」</p><p>そのとき私は、夫婦には夫婦にしか分からないコミュニケーションの仕方があるのだと思いました。</p><p>父は子どもにあまり小言を言わない人でした。ただ、文化大革命が始まると突然、「毎日、日本語で日記を書きなさい」と言い出しました。間違いがあると、赤鉛筆で必ず直してくれました。帰国するとき、その日記を全部捨ててしまったことを、いまは後悔しています。</p><p>私たち兄弟は、親とは日本語、中国語の両方で会話していました。親は私たちに日本語で話しかけ、私たちは親に中国語で答える――そんな少し変わった親子の会話だったのです。</p><p>母は北京に来たばかりの頃、バスの中で人の足を踏んでしまい、慌てて「謝謝、謝謝！」と謝ったことがあると聞きました。そんな母の姿を思い出すと、いまでも少し笑ってしまいます。</p><p>まあ、外は軟らかく内は剛の父と、外も内も剛の母、そんな二人の仲が、悪かったはずはありません。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/bamu9158/entry-12980171538.html</link>
<pubDate>Wed, 30 Sep 2026 03:56:20 +0900</pubDate>
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<title>華風舞劇『小刀会』</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260929/06/bamu9158/7d/0c/p/o0545024915826644556.png"><img alt="" height="192" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260929/06/bamu9158/7d/0c/p/o0545024915826644556.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　『小刀会』は、清朝末期の上海を舞台にした舞劇です。その背景には、1853年に上海で起きた「小刀会蜂起」があります。</p><p>　小刀会は、清代の秘密結社「天地会」から分かれた組織で、農民、手工業者、商人など幅広い人々を巻き込みながら勢力を拡大しました。1853年、太平天国が南京を占領すると、これに呼応するように各地で蜂起し、上海でも劉麗川、周立春、周秀英らを指導者として大規模な反乱を起こします。</p><p>　小刀会は上海県城を占領し、豫園に司令部を置いて「大明国」を名乗りました。ここが、実に興味深いところです。</p><p>　現在の上海を訪れれば、豫園といえば小籠包や中国茶の店が並ぶ、観光客で賑わう場所です。実はこの豫園こそが170年ほど前に、清朝に対抗する小刀会が本部を置いたところだったのです。</p><p>　舞劇『小刀会』の第一幕に登場する寺院のような建物は、まさにこの史実を意識したものです。</p><p>　その後、小刀会は清軍の攻撃を受け、上海での蜂起は次第に追い詰められていきます。</p><p>　1855年には指導者の周秀英が捕らえられて処刑され、劉麗川も戦死。残った人々の一部は太平天国に合流し、小刀会は歴史の舞台から姿を消しました。</p><p>　舞劇『小刀会』は、こうした史実をもとに、農民や庶民の抵抗と戦いを描いた作品です。</p><p>　ただ、私は昔から悲劇的な舞台を見るのがどうも苦手です。『小刀会』も結末が非常に悲惨なため、実は観劇することを敬遠してきました。そのため、細かな舞台の内容については、正直なところ、あまりよく覚えていません。</p><p>　中国では、太平天国や小刀会、義和団などの農民運動が、長いあいだ「反抗する人民」の歴史として語られてきました。特に毛沢東は、こうした農民運動を比較的高く評価していました。しかし、現在の中国では、私には、少しずつ見直されているようにも感じられます</p><p>　舞台そのものの録画中継ではありませんが、映画化された『小刀会』の映像がYouTubeに公開されていました。悲劇が苦手な私ですが、こうして歴史を振り返りながら映像で見るのも、また一つの勉強になるかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=VL9FU9iNsMg">https://www.youtube.com/watch?v=VL9FU9iNsMg</a></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/bamu9158/entry-12980077867.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Sep 2026 06:32:40 +0900</pubDate>
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<title>8月2日まで安静</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260929/04/bamu9158/58/06/p/o1024055915826633921.png"><img alt="" height="229" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260929/04/bamu9158/58/06/p/o1024055915826633921.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　二年前、2024年7月末に書いた日記です。</p><p>　読み返してみると、あの頃、世の中全体が新型コロナウイルスに神経を尖らせていたことを思い出します。</p><p>　少し気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれませんが、これもまた、私にとっては人生の一ページです。そう思って、あえてブログに残しておくことにしました。</p><p>&nbsp;</p><p>　実は私、新型コロナに感染してしまったのです。</p><p>　最初は、クーラーの冷気に喉をやられたのだろうと思っていました。ところが、しばらくすると熱が出てきました。</p><p>　「これはちょっとおかしいぞ」と、そう思って、慌てて病院へ駆け込みました。</p><p>　抗原検査を受けたところ、結果は陽性。</p><p>　やっぱりコロナでした。</p><p>　解熱剤と咳止めを処方してもらい、「8月2日まで自宅で安静にしていてください」と言われました。</p><p>　自分では、それなりに気を付けてきたつもりでした。</p><p>　外出するときには必ずマスクを着けていましたし、人混みにもできるだけ近づかないようにしていました。それでも、感染するときは感染する。</p><p>　「こんなに気を付けていたのに……」</p><p>　正直なところ、少し情けない気持ちにもなりました。</p><p>　当時は、ニュースなどで新型コロナの治療薬が非常に高額だという話も盛んに報じられていました。健康保険の3割負担でも3万円以上になる場合がある、と聞いて驚いたものです。ただ、治療薬は誰にでも必要というわけではなく、重症化する危険性が高い人や高齢者など、必要と判断された場合に使用されるとのことでした。幸い、私の場合は解熱剤と咳止めをもらって、自宅で休むことになりました。</p><p>　それにしても、病院から帰ってきて、しばらく家の中でじっとしていると、なんとも妙な気分でした。</p><p>　いつものように外へ出ることもできない。人にも会えない。ただ静かに、熱が下がるのを待つ。</p><p>　そんな数日間でした。</p><p>　いま振り返れば、ほんの一時の出来事です。</p><p>　でも、そのときは「自分もついにコロナに感染したか」と、少なからず不安だったことを覚えています。</p><p>　人生には、後から思えば笑って話せることも、そのときには深刻に感じることがあります。</p><p>　この日記も、そんな一ページです。</p><p>　みなさんも、どうぞお気を付けください。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/bamu9158/entry-12980073747.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Sep 2026 04:29:28 +0900</pubDate>
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<title>華風舞台・バレエ劇『白毛女』</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260927/03/bamu9158/5b/ce/p/o0682020915825969705.png"><img alt="" height="129" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260927/03/bamu9158/5b/ce/p/o0682020915825969705.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>　</p><p>　中国の「革命様板戯」（革命模範劇）の中でも、ひときわ印象に残る作品がバレエ劇『白毛女』です。</p><p>　この作品の原点は、解放戦争期に創作されたオペラ『白毛女』です。</p><p>物語は地主の搾取に苦しむ農民の姿を描き、土地改革を進める中で農民への宣伝・教育の役割も担った作品でした。</p><p>『白毛女』は新中国成立後の1950年には映画化され、その編集を担当したのが、私の父・八木寛と同じ満映にいた日本人編集者、岸富美子さんです。</p><p>　映画を日本で見た松山バレエ団の松山樹子さんは深く感動し、1955年、日本で初めて『白毛女』をバレエ化しました。その後、この作品は中国にも伝わり、周恩来総理の関心を集めることになります。</p><p>　そして1964年、上海舞蹈学校が松山バレエ団の舞台からも刺激を受け、独自のバレエ劇『白毛女』を創作し、翌1965年には大型舞劇として公演され、後に文革が勃発直前に発表された「八つの革命様板戯」の一つとして選ばれました。</p><p>　物語の主人公は、貧しい農家の娘・喜児。悪徳地主・黄世仁に父・楊白労を殺され、自らも連れ去られます。耐え難い暮らしから逃げ出した喜児は山奥へ身を隠し、飢えと寒さの中で生き続けるうち、黒かった髪が真っ白になっていきます。</p><p>　やがて八路軍の隊長となった許嫁・大春と再会し、八路軍の指導の下で農民たちは地主に立ち向かい、喜児をはじめとする、苦しめられてきた人々が解放されるという物語です。</p><p>　このバレエ劇には歌も多く挿入され、歌劇以来の『北風吹』の旋律が作品全体を貫いています。</p><p>&nbsp;</p><p>北風吹：<a href="https://www.youtube.com/watch?v=ARm8JL9f6W8">https://www.youtube.com/watch?v=ARm8JL9f6W8</a></p><p>&nbsp;</p><p>　私が特に印象深いのは第四幕です。喜児の髪が白くなっていく過程を、複数のバレリーナが次々と引き継いで表現するのです。そして最後、飢えと寒さに耐えながら喜児が山頂に立ち、遠くから昇ってくる太陽の温みを待つ――。</p><p>　冒頭の版画は、劇場で販売されるプログラムの表紙の絵で、まさにその場面を描いたものです。</p><p>　なお、映画では父・楊白労が自ら命を絶つ設定ですが、バレエ劇では娘を守るため地主一味と戦って命を落とすといった農民たちの闘争意識を強調するように脚色しています。</p><p>ここにも、映画以上に強く打ち出された「圧迫される農民の抵抗」という、この時代の創作精神が表れています。</p><p>　この上海版『白毛女』を演じた上海舞踏学校が、その後、上海バレエ団へと発展し、1972年には日本公演も実現しました。</p><p>一本の物語が、オペラから映画へ、そして日本でバレエ舞台に上り、中国の革命様板戯へと育て上げられて行ったのです。</p><p>『白毛女』には、まさに激動の時代そのものが刻み込まれているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>下の動画は、この革命様板戯版『白毛女』を映画化したものです。</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=hVeBHpg3iwM&amp;t=695s">https://www.youtube.com/watch?v=hVeBHpg3iwM&amp;t=695s</a></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 27 Sep 2026 03:42:11 +0900</pubDate>
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<title>新・八木寛の「わが自分史」その２</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260926/18/bamu9158/3e/c4/j/o0507064015825844688.jpg"><img alt="" height="530" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260926/18/bamu9158/3e/c4/j/o0507064015825844688.jpg" width="420"></a></p><p>この写真は恐らく満映時代のものだと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「迫り出し」</p><p>&nbsp;</p><p>　父はまた劇場を持っていた。今治劇場といってあまり大きくはなかったが、二階の観覧席や、回り舞台もあり、迫り出しと言って役者や大道具を下から舞台の上へ押し上げて出す仕掛けまであって、ちょっとしたものだった。</p><p>　この迫り出しでこんなことがあった。子供の頃、役者や大道具の人達に可愛がられていて、よく楽屋や舞台裏に行って遊んだ。役者さんとお喋りをしていたが、急にあたりのざわめきで気が付いた。どうであろう！花道の真ん中あたりに、自来也に扮した役者さんが巻き物を口にくわえ蝦蟇に跨って迫り出してきたのに、そのそばに僕がきょとんとした顔で一緒に迫り出したので、大騒ぎになったという訳だった。</p><p>　当時、中村<a name="_Hlk90805163">雁治郎</a>という名優がいた。大阪の役者で、今治のような田舎にはなかなか呼べないのを、父親が無理をして呼んだ。賭けだったが、その二日間は稀に見る大雨、嵐だった。芝居見物どころではない。客は全然入らない。丸々の大損。菊池寛の『籐十郎の恋』という小説を歌舞伎にした意欲的な役者で、そういう役者に目をつけた父親をちょっとばかり尊敬したりした。雁治郎さんも、よっぽど気の毒だと思ったのだろうか、次の興行先から土産を送ってくれたことがあった。</p><p>　その当時の切符がそのまま残っていたのを、子供たちと一緒に何時までも芝居ごっこに使っていたが、親にして見れば思い出したくもない思い出を、何時までも見せつけられていたことになる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>◆後書き</p><p>　父は和菓子製造業を営む家に生まれ、幼少期は比較的裕福な環境で育ちました。</p><p>　父から自分の幼少期の話を聞くことはあまりありませんでしたが、生前、一度だけ「中村鴈治郎」（「雁」ではなく正しくは「鴈」）の話を聞いたことがあります。また、実家が「今治劇場」を所有していたことも聞いていました。</p><p>　父が自分史に残した劇場の描写を読むと、それは単なる田舎の芝居小屋ではなく、歌舞伎を上演するための回り舞台や花道など、さまざまな仕掛けを備えた本格的な劇場だったことがうかがえます。</p><p>　祖父はその後、時代の変化を敏感に感じ取り、和菓子製造という本業だけにとどまらず、セメントや石灰の生産など多方面の事業へも乗り出しました。現代風にいえば、先見性を備えた起業家だったのでしょう。温厚で穏やかな気質の人が多いといわれる愛媛では、なかなか珍しい存在だったのではないかと思います。</p><p>　その祖父とは対照的に、父は実に控えめな人でした。中国語でいう「低調」という言葉が、父ほど似合う人はいません。人前で目立つことを嫌い、感情を表に出すこともほとんどありませんでした。</p><p>　家では、いつも母に小言を言われているように見えたため、周囲からは恐妻家と思われていたかもしれません。しかし実際にはそうではなく、重要でないことはすべて母に任せ、自分は一歩引いて家族を見守る──そんな人だったように思います。</p><p>　もっとも、年齢を重ねるにつれて少しずつ我慢が利かなくなり、ときには感情を露わにして激怒することもありました。それでも、父の根底にあった穏やかな性格が変わることはありませんでした。</p><p>　一方の母は、父とはまったく正反対でした。</p><p>　若い頃から剛直で裏表がなく、相手が誰であろうと、言うべきことは真正面から言う人でした。変化球など投げず、いつも全力の剛速球で勝負するような性格でした。</p><p>　そんな母だったからこそ、早産で生まれ、医師から「もう助からないだろう」と告げられた私を、文字どおり意地で育て上げることができたのではないかと思います。</p><p>　もっとも、その強さの一方で、おっちょこちょいな一面もありました。</p><p>北京へ渡ったばかりの頃、中国語がほとんど話せなかった母は、混み合ったバスで人の足を踏み、「対不起（ごめんなさい）」ではなく、「謝謝（ありがとう）」を何度も繰り返していた、笑ってしまいそうなエピソードを残しています。</p><p>　雪国育ちにもかかわらず肌はやや浅黒く、十日町では「女黒傑」の一人と呼ばれていたという話も、いかにも母らしい思い出です。</p><p>　数日前、中国国際広播電台（CRI）の番組で紹介されていた「八木病院」の話も印象に残りました。</p><p>　私は以前、李順然先生のエッセーを読んで、この話は李先生ご自身だけの思い出だと思っていました。ところが番組では、多くの若い局員たちが「八木病院」の世話になったと紹介されていたのです。</p><p>　病気になると、おかゆと茶碗蒸しが出てくる──その場面を聞いた瞬間、それは間違いなく母のことだとわかりました。</p><p>　幼い頃、私が風邪で寝込むたび、母は決まっておかゆと茶碗蒸しを作ってくれていました。その家庭の味を、そのまま北京放送局の若い人たちにも振る舞っていたのでしょう。</p><p>　父は静、母は動。</p><p>　父は柔、母は剛。</p><p>　まるで正反対の二人でしたが、不思議なほどよく釣り合っていました。だからこそ、長い人生をともに歩んでこられたのでしょう。</p><p>　北京放送局では、日本人同士でも互いを名字で呼び合うのが普通でした。しかし、私の両親だけは例外で、誰もが「おじさん」「おばさん」と呼んでいました。</p><p>　それは、父と母が北京放送局にとって最初の日本人局員だったからなのかもしれません。</p><p>　その呼び名は、まるで永久欠番のように、ほかの誰にも受け継がれることはありませんでした。</p><p>　私も子どもの頃から、その呼び名を何の違和感もなく聞いて育ちました。「おじさん」「おばさん」と呼ばれる二人は、北京放送局のみなさんにとって、本当の家族のような存在だったのだと思います。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sat, 26 Sep 2026 18:20:20 +0900</pubDate>
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