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<title>泉旻藏（いずみいくぞう）のブログ</title>
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<title>古代史の検討(23)　よくわからない流れ その1</title>
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<![CDATA[ <p>韓国国定歴史教科書は、本来は初学者のための韓国史入門の役割を果たすべき社会的役割をもっているはずである。</p><br><p>しかし、読んでみてわかることだが、全体的に歴史の流れがつかみづらく、とくに古代史は流れがつかみづらい。それには理由がいくつかありそうだが、ひとつには時代区分が整理されていないためであろう。</p><br><p>ひとつの流れとしては、旧石器時代→新石器時代→青銅器時代→鉄器時代、という考古学的時代区分が一応採用されており、それぞれ、</p><p>*旧石器時代…約70万年前から</p><p>*新石器時代…氷河期の終わるころから（紀元前6000年頃から）</p><p>*青銅器時代…遼東半島では紀元前10世紀から、朝鮮半島では紀元前7世紀から</p><p>*鉄器時代…紀元前4世紀から</p><p>ということになっている。</p><br><p>それと並行して、文献からくる時代区分があり、それによれば、古朝鮮時代→三国時代→統一新羅時代・南北国時代、という流れになっている。</p><br><p>「古朝鮮時代」に関しては、韓国史では13世紀の檀君説話を「歴史的事実」として採用しているところから、紀元前2333年から開始することとなっている。そこから紀元前108年までの2225年間を「古朝鮮時代」と位置づけているようだ。ところが、「<font color="#9370db">檀君神話は長い歳月を経て伝承され記録に残されたものである。…しかしこの記録は青銅器文化を背景にした古朝鮮の成立という歴史的事実を反映しているのである</font>」という記述があるところから、考古学的時代区分とはうまく整合しないのである。考古学的には「新石器時代」に属するはずだが、「青銅器文化を背景にした」ことになっているわけである。そこは、誰がみても支離滅裂な状況にある。</p><br><p>古朝鮮時代は、一応次の3つの時代に分かれるようである。</p><p>*檀君朝鮮…紀元前2333年から紀元前12世紀ころまで、または紀元前194年まで</p><p>*（箕子朝鮮…紀元前12世紀ころから紀元前194年まで）</p><p>*衛氏朝鮮…紀元前194年から紀元前108年まで</p><br><p>ここには神様もおり、中国人もいて、実のところ「古朝鮮」などと一括できるものなのかという疑問は生ずるのだが、そのあとの「三国時代」への移行も実はよくわからない。「ただ、何となく、いつの間にか三国時代になってしまっている」という印象を受けるのである。</p><br><p>というのも、紀元前108年に漢の武帝が衛満の朝鮮国を滅ぼして楽浪郡等を設置したことをきちんと教えていないからである。</p><br><p>つまり、「<font color="#9370db">古朝鮮が滅亡すると、漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置し支配しようとしたが、地域土着民の強力な反発にあう。しかしその勢力もやがて衰退し、高句麗の攻撃を受け消滅してしまう（313）</font>」とあるように、紀元前108年から紀元後313年までの約420年間を一文で済ませてしまっているからである。ここは、いわば「歴史の空白」になっている。</p><br><p>通常、三国時代のはじまりは、高句麗によって楽浪郡の滅ぼされた313年から、中国の史書に初めて百済・新羅が登場する346年・356年あたりまで、すなわち4世紀前半に求められるであろう。ただし、この時代にあっても高句麗の本拠は中国の丸都城にあるわけだから、いまだ朝鮮半島の政権とはいえない。高句麗の平壌遷都すなわち427年から、朝鮮史における本格的な三国時代が開始したとはいえそうである。とはいえ、この時点でもまだ半島南端の伽耶諸国（任那）があり、済州島も依然「耽羅」という独立国なのである。いわゆる「三国の抗争」は伽耶滅亡の562年以降に激化し、耽羅は新羅一統時代を通じて独立を保つ。この複雑な時代を「三国時代」の名で呼称することは、本来的には困難さをともなうものと考えられる。「五国時代」とか、「四国時代」と称しても間違いではあるまい。伽耶と耽羅は、初めから「三国」から除外されているわけであるが、果たしてそれでよいのだろうか。</p><br><p>とりあえず、旧来の言い習わされた呼称である「三国時代」を採用するとして、以上述べたような事象を正確に説明していくためにも、三国時代のはじまり（4世紀前半）については、明確に記しておかなければならないはずである。しかし、例の「歴史の空白」のために313年以前についても、しばしば「三国時代」と拡張解釈されることが多いのである。これは、魏志韓伝などにみえる小国分立の状況と矛盾する。したがって、「歴史の空白」の時期に関しては「楽浪郡時代」あるいは「楽浪三韓時代」「小国分立時代」といった、きちんとした時代名称をあたえるべきではないだろうか。4世紀前半を境にして、半島は激動期に入るわけである。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11880469694.html</link>
<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 04:42:10 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討(22)　文化伝播論について その3</title>
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<![CDATA[ <p>再び、文化伝播論について。以下は、中学校用の国史教科書。</p><br><p><font color="#9370db"><strong>三国（百済、高句麗、新羅）は、互いに対立し競争する中で活発に文化を交流させた。中国とも交流しつつ独自の美術を発展させる一方で、海を渡って日本に文化を伝え、彼らの文化の基礎を固めた。百済では阿直岐（あじつき）と王仁（わんいん）が日本に渡って儒学を教え、段楊爾（たんやんい）、高安茂（こうあんむ）らも学問を教えた。聖王の時代には仏教を伝えてやり、百済と高句麗の僧侶も多数、日本の仏教界を指導した。儒学や仏教以外にも、美術、音楽、歴史、医学や農業などさまざまな技術を教えた。ことに曇徴（たむじん）は紙、筆、墨、硯（すずり）の作り方を初めて日本人に伝え、法隆寺の壁画も残した。日本が飛鳥文化を興し、古代王朝へと発展することができたのは、三国の文化が伝えられたからである。</strong></font></p><br><p>細かい点で間違いが多いのは以前指摘した通りだが、結局は「<font color="#9370db">海を渡って日本に文化を伝え、彼らの文化の基礎を固めた</font>」の部分、そして最後の一文「<font color="#9370db">日本が飛鳥文化を興し、古代王朝へと発展することができたのは、三国の文化が伝えられたからである</font>」と言いたいのである。これが、日本人にとってはひじょうに不快な代物であることは言うまでもない。ここで言及されているのは、韓国史の話題ではなく、むしろ日本史、それも「貶められた日本史」の話題になっていることも指摘した。もっと言えば、歴史教育ではなくてむしろ韓国優位の政治宣伝にすぎないものである。</p><br><p>日本人としては、縄文文化や弥生文化もまた愛着をもって語る「われわれの歴史」であって、心底誇らしいものである。「誇り」というのは、結局「われわれにつながっている感覚」であろう。ことに、採集段階にあって世界に例をみない高度な建築や日本列島という自然環境をフルに利用した生活、土器装飾や土偶にみる美的センスの前衛性など、縄文文化の豊かさは現代日本人を魅了する。金属を知らない時代ではあるが、しかし、それゆえにこそ原日本人の素晴らしさが光るのである。</p><br><p>こういう感覚は、もしかしたら韓国人はわからないかもしれない。何せ、「半万年前から自前の国家がある」「殷の時代以前から金属器を知っていた」という虚偽の記載が誇りなのであるから。もし5000年前から大帝国があったなら、確かに「スゴイ」のかもしれないが、それを「誇り」と思う感覚はよく理解できないのである。そんなものは、現代の韓国人の生活には何らつながっていないのではないかという気がするのである。</p><br><p>道具に改良を重ねてきた旧石器時代や縄文時代があるからこそ現代生活があるというふうに、われわれは考える。外国人からみれば決して「偉大」ではないかもしれないが、日本人からみれば「われわれの歴史」なのである。何もことさら飛鳥文化だけが素晴らしいのではない。旧石器時代や縄文時代は確かに文字のなかった時代ではあるが、そこにおける高度な知恵の数々はわれわれに多くの啓示をあたえるものである、われわれの先祖でもあり、日本列島の住人としては大先輩にあたる縄文人のライフスタイルには今もって学ぶことが多い。韓国人の文化伝播論（文化施恵論）では、ことさら旧石器・縄文・弥生のわれわれにつながる文化そのものが馬鹿にされた気持ちになるのである。</p><br><p>日本人からすれば、そもそも「三国文化」は韓国文化なのかという発想がある。これらはどうみたって中国文化なのではないだろうか。「中国とも交流しつつ独自の美術を発展させる」とあるが、それは楽浪郡・帯方郡があって、直接中国から支配されたからではないかと思うわけである。そして、それを「独自」というなら、どう独自なのかを具体的に書かないと到底「三国文化」などとは言えないわけである。</p><br><p>韓国史としては、本来的には「三国文化」（そんなものがあると仮定しての話だが）の三国のそれぞれの特徴がどのように統一新羅の文化に継承されたかを描写していかなくてはならないはずだが、そこについては研究が進んでいないらしく、教科書にはそこは何ら言及されていない。文化というものは、日本人にとっては他の影響も受けながら連綿とつづくものだが、韓国人にとってはその時代その時代ごとの突発的なできごとであり、また、他者に対して自慢するもののようである。そういう発想が、裏付けのない、馬鹿げたウリジナル史観につながるのであろう。</p><br><p>結局のところ、「三国文化」もまた現代の韓国文化や韓国人の生活とは全然つながっていないのではないかと思われるのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11879382644.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Jun 2014 06:34:27 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討（21) 中国の史書にみる韓と倭　その2</title>
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<![CDATA[ <p>前回は、『後漢書』と『魏志』を引用し、古代朝鮮半島の南部が倭人の進出した土地であった事実を立証した。『魏志』｢韓伝｣にはまた、次のような一節がある。</p><p><br><font color="#fa8072">（韓の）国に鉄を出す。韓、穢（わい※）、倭、皆（みな）従いて之（これ）を取る。諸市買（かうに）、皆（みな）鉄を用う。中国に銭を用うるが如（ごと）し。又、二郡に供給す。</font>（『魏志』韓伝）</p><br><p>すなわち、「韓」は朝鮮半島南部の農耕民、「穢」は、朝鮮半島の北西方面に活動した狩猟民、「倭」は日本列島をふくむ海からやってくる民であり、この三民族は洛東江流域で産出される鉄を取りあっていたというわけである。これは、同書の「韓が帯方郡の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と陸続する」という記載を補強する。朝鮮半島南端部に進出していたからこそ、倭は鉄の争奪戦に参加できたわけである。</p><br><p>鉄は、政治的統合を進めつつあった北東アジアの国々にとっては喉から手が出るほどに欲しい必需品であった。鉄は、他の素材にくらべ武器としても、農耕具としても、工具としても優秀だからである。</p><br><p>逆にいえば、倭や穢は鉄資源獲得という強い動機があって韓半島南部に進出したということになる。鉄は自国の富強を約束する物質だったわけである。韓についていえば、少なくともみずから産する鉄資源の独占には成功していないことが明白である。それゆえ、新羅による韓半島統一には何百年もの長い時間を要したのである。</p><br><p>そして、任那（伽耶・加羅）の地が鉄を産出していながら小国分立状況が長く続き、最後まで大勢力に成長しなかったことは、謎といえば謎であったが、上記のような状況をふまえれば、それゆえにこそ小国分立がつづいたと言えるだろう。つまり、任那は今日でいう産油国のようなもので、それゆえ列強の干渉を招きやすかったと把握すれば、決して謎ではないのである。</p><br><p>｢諸市買（かうに）、皆（みな）鉄を用う｣というのは、この地域の人びとは、市場でものを買うときに、鉄で支払ったということである。そして、韓半島・日本列島における鉄は、あたかも中国における貨幣のようだと述べている。最後の「二郡」とは、韓半島北東部に漢王朝から続いていた楽浪郡・帯方郡のことである。つまり、洛東江の鉄は、はるか日本列島から、韓半島北部から中国東北地方におよぶ森林の民、あるいは遼東半島から朝鮮西北部に勢力を拡大した中国人の間でも使われていたということであり、きわめて広域に流通していたことがうかがえるのである。</p><br><p>4世紀から5世紀にかけての任那の地の王墓が規模が小さいながらも、副葬品などにおいては優品・美品が多いと評価されるのも、その支配が強固であったとか、その王国が広大であったとかという理由よりはむしろ、鉄資源産地であったこと、あるいはそれにより北東アジアの物資の集散地であったことが理由となるだろう。任那は必ずしも軍事強国ではなかったが、しかし、少なくとも金満国家ではあったとは考えられる。ここは一種の租界であり、出島のような存在だったのではないだろうか</p>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11877928091.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 16:37:19 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討（20) 中国の史書にみる韓と倭　その1</title>
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<![CDATA[ <p>中国の史書『後漢書』および『魏志』を虚心坦懐にながめれば、2世紀から3世紀にかけての韓半島南部は倭人の地であったことが明白である。 </p><br><p><font color="#fa8072">大倭王は邪馬臺国に居住している。楽浪郡の（南の）境界は邪馬臺国から1万2,000里も離れており、倭の西北と境界をなす狗邪韓国から7,000余里離れている。</font>（『後漢書』倭伝） </p><br><p>漢は魏に先だつ王朝であるが、『後漢書』の成立は『魏志』よりも遅く、南北朝時代の宋王朝の432年ころと考えられる。なお、ここにある「狗邪韓国」はのちの伽耶・加羅と呼ばれた地域であり、慶尚南道金海郡周辺に比定されている。この記述において、狗邪韓国は、倭の領域に組み込まれていたことが明確に語られているのである。 </p><br><p><font color="#fa8072">馬韓は（半島の）西にあり、54国ある。（馬韓の）北は楽浪と、南は倭と接している。（中略）…弁辰は辰韓の南にあって、これまた12国ある。（弁辰の）南は倭と接している。 </font>（『後漢書』韓伝） </p><br><p>これは、同じ『後漢書』の「韓伝」からの引用であるが、「海と隔てて向き合う」「海を隔てた隣」という書き方ではなく、「接する」という書き方をしており、しかも「北與樂浪、南與倭接」すなわち北接する楽浪郡に対するのと同様に倭とは南接しているということであるから、倭国とは陸地で接していることが確認できるわけである。これは、あくまでも「倭伝」ではなく「韓伝」収載の一文である。 </p><br><p>両者を総合すると、少なくとも倭人は朝鮮半島南端部に進出し、半島南端部は倭人が支配・居住する倭地と理解されていたことがうかがえる。ただ、後漢の滅亡が西暦220年とされるものの、後漢書成立は432年頃ということなので、半島南部を倭国が支配しているという状況は2世紀ないし3世紀前半のことではなく、それよりも年代が下り、4世紀ないし5世紀前半であるという可能性も、あるといえばある。ただし、その場合であっても、馬韓の接するのが「帯方郡」（204年成立）ではなく、あくまでも「楽浪郡」としているなど、後漢時代のこととして叙述しているのである。 </p><br><p>次に、『魏志』より引用する。</p><br><p>（<font color="#fa8072">帯方）郡より倭に行くのは、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓の国々を経て、あるいは南に、あるいは東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。（この間の距離は）7,000余里である。</font>（『魏志』倭人伝） </p><br><p><font color="#fa8072">（韓は）帯方（郡）の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と（境界を）接している。</font>（『魏志』韓伝） </p><br><p>狗邪韓国は「その南岸」ではなく「その北岸」である。要するに、ここでは狗邪韓国が倭に服属していることが明示されているのである。また、韓（三韓）の東西が海をもって境界とするのに対し、南は「倭と接する」すなわち、南方は海を境界としておらず、倭と接しているとハッキリ書いているのである。つまり、韓半島南部が倭人の地であることは中国の史書を読む限りは疑いのないところであり、それは『日本書紀』における任那関連の記事や韓倭関係の諸記事の内容とよく符合する。 このようにみてくると、任那（伽耶・加羅）の歴史に関しては、『日本書紀』に依拠するのが、方法論として正しいという結論に至るであろう。</p><br><p>いわゆる「任那日本府」ということであるが、戦後の韓国の歴史学界では、民族主義歴史観の影響が強く、朝鮮半島南部に倭の統治機関としての任那日本府があったことに対しては否定的であり、『日本書紀』自体を日本中心の歴史観で書かれたものとして、資料的価値のない文献であるとして無視する傾向が強かった。 倭国の朝鮮南部支配について、韓国の国定教科書はスルーしつづけてきたのである。 しかし、もしそうであるならば、いわゆる「文化伝播論」もそのほとんどすべてを『日本書紀』に依拠しているのであって、ここにはきわめて自分勝手なダブルスタンダードがみてとれる。『日本書紀』に資料価値がないのであれば、文化伝播論に関しても沈黙しなければならないはずである。しかし、双方はむしろ互いに補強しあう事実であろうと考えられる。</p><br><p>三韓・百済の人びとが倭国に文物をもたらしたのも、倭国の朝鮮南部支配と深いかかわりがあると見なさなければならない。それは、互いに相互補完的な事象なのである。 </p><br><p>三国から倭への文化伝播だけは正しくて、倭国の朝鮮支配は誤っているという理屈は成り立たない。都合のよい箇所だけのつまみ食いでは歴史研究とは言えないのである。</p>
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<pubDate>Wed, 11 Jun 2014 21:54:27 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討（19) 古代史叙述と資料価値について</title>
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<![CDATA[ <p>「歴史認識の共有」といった場合、近現代史については現時点において同じ主権国家であり、しかも片やアジアで唯一自力で近代化に成功した独立国家であるのに対し、片や清国の属国からは抜け出たものの1910年以降35年もの間、日本の植民地だった地域であったわけだから、当然のことながら歴史そのものも異なるし、現代の立場も異なる。したがって、「歴史認識の共有」は困難であり、もっとハッキリ言うと不可能であり、さらに言えば不必要でもある。</p><br><p>それに対し、古代史に関していえば、資料そのものが少なく、日韓関係にとっては第三者ともいえる中国の歴史書がベースとならざるを得ないわけだから、「歴史認識の共有」については、ある程度可能性が高いと言えるであろう。</p><br><p>もとより、中国の歴史書が日本や韓国の古代史を忠実に記録しているとは言えない。叙述にあたっては、古代中国人にとっての関心事が最大限優先されるのは言うまでもないことである。したがって、朝貢記録など中国にかかわりのある事項については詳細に記すであろうが、朝貢をしなかった国や地域については、記述が簡素であったり、野蛮視されて描かれたりということは当然あるわけである。</p><br><p>とはいっても、古代中国人がことさら倭国を巨大に、三韓を卑小に描かなければならない理由もないわけであり、倭韓の相互関係については、少なくとも当事者よりは客観的に描いている可能性がある。それにまた、8世紀以前の同時代資料は、日本にも韓国にも存在しないわけであるから、さしあたって中国の資料価値は相対的に高いとみなければならない。</p><br><p>次に重視されるべきなのは、日韓の歴史書である。現存する日本の歴史書としては720年成立の『日本書紀』があり、ついで797年の『続日本紀』、840年の『日本後紀』など、いわゆる六国史がつづく。現存する韓国の歴史書の最古は1145年の『三国史記』であり、統一新羅の滅亡から200年以上も経過したものである。三国時代すなわち4世紀から7世紀にかけての記録となると、『三国史記』執筆時点から数えて500年も800年も昔の話なのであるから、資料的価値としてはそれほど高くないとみなければならない。</p><br><p>当然のことながら、『日本書紀』は日本中心、『三国史記』は朝鮮中心の記述になりがちであり、それは古代史にあっては当然のことでもあるから、そこは割り引いて見ていかなくてはならない。</p><br><p>考え方としては、『日本書紀』と『三国史記』とが食い違う場合は『日本書紀』を優先し、両者が一致している場合は逆にほぼ史実と見なしてよいだろうと考えられる。</p><br><p>つまりは、中国の史書をベースにしながら『日本書紀』等日本の史書も加味して歴史叙述をおこない、時には『三国史記』も参考にするというような研究姿勢ならば、国によってそれほど結論が大きく違わない可能性がある。</p><br><p>それならば、「歴史認識の共有」も、あるいは可能であるかもしれない。 </p>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11876343396.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Jun 2014 21:00:23 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討（18） 倭国は百済の属国なのか</title>
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<![CDATA[ <p>既に述べたように、韓国国定歴史教科書には、根拠もなく「百済は九州に進出した」というふうに書いており、南朝の史書に遼西に「百済郡」があることを根拠に百済盛強を印象づける工作がなされている。韓国人のなかには、倭国には仏像が百済経由でもらされたこともあって、「倭国は百済の属国」というふうに考えている人も多いようである。</p><br><p>「倭国は百済の属国」というのは、インターネットの翻訳掲示板などで実際に韓国人と接してみると、意外に多くの韓国人が信奉している説である。というか、漠然と自国史を学ばせられた韓国人は大抵、自然とそのように考える傾向にあるようだ。</p><br><p>ところが各種の資料を検討してみると、むしろ、その逆だったのではないかという実態が浮かび上がる。</p><br><p>まずは、高句麗好太王碑文に「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡破百殘■■新羅以為臣民」とあり、辛卯年（391年）以降、倭国が百殘（百済）と新羅を臣民と為すとの記述がある。これは、ツングース系貊族による金石文。</p><br><p>次に、『三国史記』の百済本紀には、397年に百済が倭国と国交を結び王世子の腆支（てんし）を人質に送るという記事がある。これは、韓族による朝鮮半島の史書。ちなみに新羅本紀には、402年に新羅が倭国と通好し、王の子未斯欣（みしきん）を人質に出すという記述がある。</p><br><p>そして、5世紀後半から6世紀半ば築造されたとみられる前方後円墳が韓国の西南部から14基も見つかっている。これは、韓半島内の考古史料。ちなみに、前方後円墳は倭国で3世紀に成立し、5世紀には大形化・全国化していったことが明らかである。</p><br><p>さらに、中国の歴史書『宋書』倭国伝には、倭王「珍」が438年に宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求めたという記事、451年には倭王「済」が「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加号され、477年には「昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげた」という上表文を書き、翌年にはやはり「六国諸軍事」の称号を得ている。これは、漢民族による中国の歴史書。</p><br><p>これらはいずれも、朝鮮半島における倭国の強盛ぶりを伝えており、しかも、漢族・韓族・貊族いずれの史料・資料からも「倭国が百済に服属している」とは言えず、逆に「百済が倭国に服属している」であろうことが確実に言えそうなのである。ここではあえて日本の史書を根拠にしなかったが、日本の史書でも百済から倭に対する人質や朝貢に関する記事があり、むしろ、中国・朝鮮における資料との整合性がみられる。七支刀も仏像も五経博士も、百済からの「献上」と記されているのである。</p><br><p>4世紀から6世紀にかけての、朝鮮半島における倭国のプレゼンスは疑いようもない。あるいは、これがあるからこそ、当時としては、新羅が倭の勢力を半島から追い出したことが半島統一の覇者たることを可能にしたという見方ができるのである。</p>
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<pubDate>Sat, 07 Jun 2014 01:40:00 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討（17） ダレの指摘</title>
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<![CDATA[ <p>韓国人たちは、よく日本人に対し「歴史を直視しろ」といい、まるで自分たちが歴史を大切にしてきた民族であるかのように振る舞う。しかし、実際には韓国人は自分たちの歴史をきわめて蔑ろにし、軽視してきたのであり、豊富な歴史資料が残り、あらゆる分野や単位で歴史が編まれてきた日本とは異なり、残っている歴史記録はきわめて僅少なのである。もとより、高麗・李朝時代の識字率の低さや学問の不振も原因ではあるが。</p><br><p>1919年の三・一運動以前において、朝鮮半島では普通学校の教育において自国にかかわる歴史教育は行われてこなかったのである。</p><br><p>この理由について、独立後の韓国では「日帝が朝鮮の歴史を抹殺しようとした」とされてきたのであるが、そもそも近代以前において、韓国史は朝鮮半島の人びとにまったく顧慮されてこなかったのである。</p><p>『朝鮮事情』のなかでシャルル・ダレはこう述べている。</p><br><p><font color="#fa8072">漢文で書かれた様々な朝鮮史の本は、それらを一読した人によると、誇張された朗読用のテキストに使われるため、多かれ少なかれ想像上の事実の雑多な寄せ集めに過ぎないということである。朝鮮の学者たち自身も、これらの文献になんらの信用もおいておらず、中国の歴史書だけを読むことにしている。（中略）学者たちはといえば、それを聴いて見ることさえも恥辱だと思っている。</font></p><br><p>韓国人による本格的な自国史学習は、東北帝国大学初代総長だった澤柳政太郎らが朝鮮史を指導するよう朝鮮総督府に求め、総督府によって朝鮮史のテキストが編集されたことをはじまりとしている。</p><br><p>韓国国定歴史教科書を読んで残念なのは、韓国が日本から独立して半世紀以上も経過しているのにもかかわらず、「想像上の事実の雑多な寄せ集めに過ぎない」というレベルにとどまっていることである。</p><br><p>総督府による朝鮮史教科書（『朝鮮史のしらべ』）を所有しているが、その実証性においては、実はいまの教科書よりよほど高いレベルにあるといわざるをえない。<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11871773077.html</link>
<pubDate>Fri, 06 Jun 2014 07:45:20 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討(16)　百済の盛強?</title>
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<![CDATA[ <p>宮脇淳子氏によれば、あるアメリカ人の歴史学者が日本、中国、韓国の歴史教科書を調べたところ、「日本の教科書はヒストリーだが、中国はプロパガンダ。韓国のそれはファンタジー」という結論に至ったのだそうだ（『歴史通』2012.1月号「歴史がないから韓元気」）。これは、それぞれの国の歴史認識のありようを端的に示していると言えるだろう。</p><br><p>国定国史教科書（「第7次」）から引用する。</p><br><p><font color="#9370db"><strong>百済は4世紀半ば近肖古王のときに大きく発展した。このときの百済は馬韓の勢力を征服し、全羅道の南海岸に達し、北には黄海道地域をめぐって高句麗と対決した。また、洛東江流域の伽耶に対しても支配権を行使した。</strong></font></p><br><p><font color="#9370db"><strong>征服活動を通して蓄積した軍事力と経済力を土台に百済は水軍を整備して、中国の遼西地方に進出し、ついで山東地方と日本の九州地方にまで進出するなど活発な対外活動をくり広げた。</strong></font></p><br><p>ここで「遼西地方」「山東地方」「九州地方」という、まったく脈絡のない三地方が登場する。その脈絡のなさは、まさにファンタジーと言ってよい。ちなみに、5W1Hのうちでも、とくに歴史記述において重要だと思われる"When"については一顧だにされていない。</p><br><p>状況としても、高句麗と対決しておりながら、なぜ遼西や山東に進出しなきゃならんのかということが不思議でならない。伽耶を自領化しておらず、耽羅（済州島）も支配していないのに、なぜ九州に進出できるのか。進出して何のメリットがあるのか?　</p><br><p>進出したにもかかわらず、結局百済は新羅に滅ぼされてしまう。ということは、いつの間には撤退したわけである。ならば、いったい、いつ撤退したのか?</p><br><p>にしても、新羅・高句麗と陸続きで対峙していながら、こういうふうに兵力を分散させるというのは、「よっぽどのお馬鹿さんですね」と言いたくなる。逆に、「百済水軍」がそんなに盛強ならば、どの時点で朝鮮半島を統一してもおかしくないはずである。</p><br><p>そもそも、これらの記述が何を根拠に書かれているのだろうか。この教科書にはしばしば出典が書かれていないが、この記述も御多分にもれない。引用をつづける。</p><br><p><font color="#9370db"><strong>こうして百済の王権は次第に専制化し、父子相続による王位継承が始まった。枕流王のときには仏教を公認して中央集権体制を思想的に支えた。</strong></font></p><p><strong><font color="#9370db"><br></font></strong></p><p>とまあ、こんな具合なのであるが、先ほどの近肖古王の在位期間は346年から375年までということである。枕流王は在位は384年から385年までの足かけ2年にすぎないということなので、遼西・山東・九州に進出したというのは、近肖古王か、その次の近仇首王（在位375年-384年）ということになろう。</p><br><p>しかし、この頃の百済は中国南朝の東晋に朝貢し、倭王に七支刀を献上して同盟を結び、南朝・百済・倭のラインで高句麗と対決しようという時期なのであり、同盟国である倭国に出兵する理由もなければ、華北に出兵する余裕もないはずである。</p><br><p>どうやら、南朝系の史書に遼西に「百済郡」があることが理由らしい。しかし、百済を名づけた郡があるからといって、それが軍事的進出によるものだとは絶対にいえないし、そもそも遼西を有していた北朝系の史書にはまったく記載がないのだから、「百済郡」の存在さえあやしいものである。まして、山東と九州に関してはまったく証拠がない。これらは、「遼西経略説」を補強するダシのようなものかもしれないが、まあ、ファンタジーをファンタジーで糊塗するというのはいかがなものか。</p><br><p>どうやら、韓国の歴史教科書には史実は関係ないらしい。韓国人にとって歴史とは「つくるもの」らしいのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11870672736.html</link>
<pubDate>Wed, 04 Jun 2014 20:22:57 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討(15)　日本＝弟　なのか?　</title>
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<![CDATA[ <p>韓国史で、さかんに「文化伝播論」が説かれるのも、一国の歴史を家族主義的に理解しようという意志の現れなのだろう。つまりは、中国が父であるとすれば、韓国が兄、日本が弟という図式である。「弟のくせに生意気だ」「弟は常に兄の言うことを聞かなくてはならない」という家族的モラルでもって自国民を洗脳し、日本に対してもそのような態度で振る舞う。</p><br><p>韓国の歴史教育は、このような姿勢で一貫しているようにみえる。</p><br><p>しかし、日本は本当に韓国の弟なのだろうか?</p><br><p>確かに、日本は古代中国の大文明から漢字はじめ大きな影響を受けた。しかし、仏教を受け入れても、それに先立つ民族古来の宗教である神道を結局捨てなかったのであり、仏教を受容するかどうかに際しても論争があり、それが豪族間の抗争にまで発展したのである。</p><br><p>また、607年の遣隋使では「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」（『隋書』倭国伝）というふうに、大国の隋に対して対等外交を主張しているのであり、これは常に中国の属国であった新羅・高麗・朝鮮とは異なる歴史であったと言ってよい。</p><br><p>律令制においても、新羅では唐律をそのまま利用したのに対し、日本では大宝律令・養老律令という日本の国情に合わせた律令をつくったのであるし、年号もまた朝鮮半島では宗主国である中国の年号をそのまま国内でも使用していたのに対し、日本では独自の年号を使用してきた。</p><br><p>律令といい、年号といい、確かに元来は中国文明の産物である。しかし、日本はそれを国情にあうように独自に改変し、ある意味完全に消化してちゃっかり自分のものにしてしまったわけである。</p><br><p>中国・韓国の関係が父子関係とであったというのであれば、それはそうであろう。韓国は確かに1895年までは中国の一部であった。日清戦争に日本が勝利し、下関条約で朝鮮が「独立国」であることを清国も認めたからこそ、それまでソウルにあった「迎恩門」が取り壊されて、代わりに「独立門」が建てられたのである。それ以前は、父である中国がどんな無理難題を言っても、それに逆らわないのが子としての務めというふうに韓国が考えても無理はない。中韓の関係において、韓国は常に中国文化の長男であると考える分には、韓国人の自由というものである。</p><br><p>しかし、日本人からみれば、古代中国文明は同時代の日本からみて先進的だったことは確かで、その限りで中国が日本の先生だったことは間違いないものの、同時に対等であることも主張しているのである。つまりは、日本人にとって中国は常に「外国」であり「他人」だったのだ。「お前の言いなりにはならん」と言っているわけである。</p><br><p>言い方を変えると、朝鮮は中国の冊封体制のなかにあること、朝貢国であること、中国の一部を誇りとしてきたのに対し、日本は中国の冊封体制外にあること、朝貢国でないこと、中国の一部ではないことを誇りとしてきたのである。ここに大きな断絶、非対称がみられるわけである。</p><br><p>李氏朝鮮時代の朝鮮、江戸時代の日本ではともに「小中華思想」の発達がみられたが、その前提は全然質の異なるものだったのである。朝鮮は清国の属国であったが、日本は清国とは国交を結ばず、長崎で貿易するだけの関係にとどめた。</p><br><p>というのも、中国という国家は伝統的に隣国とのあいだで対等な外交を結ぼうとしたことがなかったためであり、下手に外交関係を結ぶと中国の風下に立たざるを得ないからなのである。例外としては、宋王朝が華北の金とのあいだで対等な外交を結んだことが一度あるが、それでさえ、中国人はそれを恥辱としてきたのであった。</p><br><p>明・清代に入ると、もはや中国は日本にとって「先生」ですらもなくなった。まあ、たとえるなら「幼稚園・小学校時代の先生」「むかし先生だった人」という感じである。その間も朝鮮は中国とのあいだで親子関係つづけていたことは確かな事実ではあろうが。</p><br><p>前にも述べたが、朝鮮と日本は隣国の関係にはあるが、文化面ではたがいに長い間没交渉の状態にあり、日本は美術を学ぶのでも新思想を学ぶのでも東シナ海を横切って直接中国にわたったのであり、その意味では、朝鮮と日本もまた赤の他人といってよい。相互に影響をあたえることはほとんどなかったのである。</p><br><p>何らかのかかわりがあるとすれば、日本にとって朝鮮は「むかし先生だった人の子ども」というぐらいの関係しかない。</p><br><p>中国が日本人にとって親ではなく、先生だったということ、つまり、切っても切れない親子関係ではなく、切ろうと思えばいつでも切れる師弟関係であったことは、結局、近代に入って近代ヨーロッパ文明に出会ったとき、さっさと師匠を乗り換えたことにもあらわれている。これは単に西欧の圧力に屈したということではない。海を隔てているという意味では、日本にとっては中国もヨーロッパもそれほど違いがないわけである。まして、帆船ではなく蒸気船の時代にあっては。</p><br><p>そして、新しい先生は、「主権国家体制」ということ、「主権対等」ということを教えてくれたのである。これこそ、実は飛鳥の時代から日本から追い求めてきたことなのであった。「日本らしさ」もこの体制の中でこそ生きる、明治人はそう考えた。だからこそ、日本はさっさと沖縄を自国領土に編入し、ロシアとのあいだで国境を画定したのであり、江戸幕府の「小中華思想」「日本的華夷秩序」をさっさと放棄して、「外国」として清国・朝鮮に対峙したのである。そして、そのこと自体については、現代の日本人は反省すべき点は欠片もないと思っているし、そうしてよかったとも思っているのである。</p><br><p>そして、「主権対等」という新しい思想・新しいルールを、「むかし先生だった人の子ども」である朝鮮に教えようとしたが、これがなかなか理解されなかったところで日韓の近代史がはじまるのである。残念ながら、韓国では今もなお、「主権対等」が完全には理解されていないようである。それを気にくわないと思っても仕方ないわけで、要するに日韓ともに相手のことなど構わない方がいいわけである。たがいに没交渉だった時代の方が圧倒的に長かったのだから、相手を自分のルールでどうにかしようなどとは考えない方がよい。少なくとも「日本＝弟」などとは考えない方がよいのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11870013911.html</link>
<pubDate>Wed, 04 Jun 2014 05:32:08 +0900</pubDate>
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<title>古代史の検討(14)　単一民族説について</title>
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<![CDATA[ <p>以下に引用するのは、韓国の「第7次教育課程」の高等学校国定『国史』からである。日本語訳は、2006年に明石書店から出版されており、従来とは異なって通史ではなく政治・経済・社会・文化の分類史の合本というスタイルを採用しており、いっそう歴史の流れがつかみづらくした構成という印象を受ける。</p><br><p>今回は、この「第7次」国定国史の「Ⅰ　韓国史の正しい理解」という単元において、問題となる箇所を見つけたので紹介する。「2. 韓国史と世界史」なかの「韓国史の普遍性と特殊性」の一節である。</p><br><p><strong><font color="#9370db">わが民族は外部世界と頻繁に接触していた満州と韓半島に定着し、生活を営んできた。その後、活動舞台が韓半島に狭くなりはしたものの、国土の自然環境を効果的に活用してさまざまな民族や国家と文物を交流しながら、内在的な変化と発展をなし遂げた。</font></strong></p><p><br><strong><font color="#9370db">このような過程で、わが民族は世界のあらゆる民族がそうだったように、自由と平等、民主と平和など全人類の共通した価値を追究してきた。ここにわが歴史の普遍性そのものを求めることができる。</font></strong></p><p><br><strong><font color="#9370db">一方、わが民族は5000年以上の悠久の歴史を持ち、世界史上まれな単一民族国家としての伝統が続いている。この過程で国家への忠誠、父母への孝行が重視され、トゥレ、契、香徒のような共同体組織が発達することなどわが民族の特殊性が立ち現れた。</font></strong></p><p><br>さて、韓民族は1度も満州を支配したこともなければ、延辺以外には満州に定住したこともないというのに、この教科書では「<font color="#9370db">満州と韓半島に定着し、生活を営んできた</font>」と記す。いいかげん、しつこいと思う。相変わらず、「<font color="#9370db">5000年以上の悠久の歴史</font>」と堂々と書いているが、これは1500年間生きて中国人の箕子に国を譲ったという熊の子「檀君」を「歴史的事実」としたうえでの話である。</p><br><p>ありもしない大帝国「古朝鮮」の捏造、かつて存在したこともない民族「東夷族」の捏造については既に記した。滑稽なまでに壮大な嘘といえるが、一方でこの教科書は、「世界史上まれな単一民族国家としての伝統」が有史以来つづいているとして、「単一起源説」・「単一民族学説」を採用しているのである。</p><br><p>韓国では、もはやどこの国でも採用していないヒトラー的な自民族優越主義を掲げているわけである。現代の韓国人が傲慢で差別的な態度によって世界中から忌み嫌われている状況であることを考えれば、すでに弊害は出ている。韓国が採用すべきなのは、ナチス・ドイツの純潔思想・人種差別的思想ではなくて、むしろ、多文化主義・文化相対主義ではなかろうか。</p><br><p>中国と韓国における歴史認識の問題、いわゆる「東北工程」の問題では韓国以外の諸国は中国の肩を持たざるを得なかった。というのも、韓国の単系説・単一民族説に対し、中国は多民族国家であることを標榜しているからなのであって、極端な話、多民族国家は当の韓民族すら包含できるわけである。それに対し、韓国が単一民族学説を採用する以上、古代三韓の領域外に生活していた諸民族、たとえば高句麗を建国した貊（はく）族を韓民族史に含めることは決してできないのである。</p><br><p>当然のことながら、現代の韓民族は古代の韓民族と同一ではない。三韓に住した農耕民族の韓に対して、高句麗を建国したのはツングース系狩猟騎馬民族の貊族である。日本では韓は「から」、貊は「こま」と呼称を区別してきた全く別の民族である。そしてまた、韓族の住んでいる土地と貊族の住んでいる土地のあいだには400年にわたって中国人が住んでいたのである。</p><br><p>現代の韓国人は古代韓族を中心として、これに沃沮や濊や東濊を含めた雑種民族としてスタートした。さらにそこに、楽浪郡・帯方郡にいた中国人、三韓・三国の時代に朝鮮半島南部に進出していた倭人とも交雑し、高句麗滅亡後は一部の貊族などとも交わってつくられてきた民族である。さらに、元代のモンゴル人、清代の女真人なども朝鮮半島支配者として君臨してきたのだから、そこでも上層部では混血もなされている。また、新羅の王族は倭人との伝説があり、李氏朝鮮王国の王も女真族と考えられている。これは、何ら恥ずべきことではない。韓国の位置を考えれば当然の事実である。</p><br><p>このように、朝鮮史における「単系説」「単一民族説」は無意味なうえに根拠の乏しいものであるが、あえて、このことを国民に押しつけようという意図がよくわからない。</p><br><p><font color="#9370db"><font color="#000000">「</font>わが民族は世界のあらゆる民族がそうだったように、自由と平等、民主と平和など全人類の共通した価値を追究してきた</font><font color="#000000">」とあるが、本当にそうだったのか。「</font><font color="#9370db">ここにわが歴史の普遍性そのものを求めることができる」</font><font color="#333333">というが、本当に韓国史は普遍的なのだろうか。</font></p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/bansoukou0729/entry-11868259427.html</link>
<pubDate>Mon, 02 Jun 2014 07:33:15 +0900</pubDate>
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