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<title>bari1021のブログ</title>
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<title>自殺権を認めよ！　その2</title>
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<![CDATA[ <p>　前回に続き「自殺権」についての意見です。皆さんのご意見をお待ちしています。いただいたご意見は刑務所に収監されている知人に郵便にて必ず届けます。当然のことですが、刑務所内ではインターネットが使えないのです。</p><p>以下。</p><p>&nbsp;</p><p>　人間は特別なものだと思っていた。自分が悩んだり苦しんでいるのは自分が駄目な人間だからで、事件を起こせば、特別な人たちに助けてもらえると思った。普通の人たちは悩むことも苦しむこともないんだろうと。勘違いに気づいたのは裁判のときだった。</p><p>　被害者は言った。事件のせいで引っ越さないといけなくなって、近くにスーパーがなくてコンビニしかないから、生活費が高くなって大変だ。妻は外に出るのが怖くなって引きこもりがちになった。精神科に通って薬を飲むようになった。テレビを見ているとき等に事件のことがフラッシュバックすることがある。病気の老人の寝込みを襲うなんて卑怯だ。同じ目に遭わせてやりたい。一生施設に入れるとか、極刑にしてほしい。</p><p>　私は一瞬、被害者が羨ましいと思った。検事にも裁判官にも、私の弁護士にも付き添いの警官にも、傍聴席の記者にも社会の皆から同情されて。私は同情も何もされなかった。でも何かおかしいと思った。私が不幸なのは私が駄目な人間だからで、まともな人は幸福だと思っていた。被害者、まともな人だ。検事も「被害者には何の罪もない」といった。皆から同情されている。それなのに苦しんでいる。これは一体どういうことなのか。生活費が高くなって困る(貧乏で困る)のは努力せず怠けているからで自己責任ではなかったのか。</p><p>　引きこもりになるのは甘えているからで、叩き出せば良いのではないか。私は薬が欲しかった。病名は何でも良いからとにかく苦痛を取り払って欲しかった。人類の英知である近代科学文明や心理学の成果が、苦しんでいる人に効かない薬を与えることなのか、人生に充実感がないのは、未知の世界に踏み出す勇気がなくて家でテレビを見ているような平凡な生活をしているからだ。愛情も欲しかったけど、被害者は夫婦なのに苦しんでいた。恋愛をして愛されると苦しみが癒されるんじゃなかったのか。助けて欲しかったのは評論家や学者みたいな人たちだ。</p><p>　大きな事件が起きるとこの事件の背景にはこういう事情があって、行政の無能さや社会のシステムが悪いと言っていた。自分が不幸なのは無能なせいで、事件を起こせば優秀な人たちに助けてもらえると思った。被害者が苦しむとしたらそれは被害者が無能だからで、被害者は社会的に同情されて優秀な人たちに助けてもらえるから大丈夫だと思った。でも、被害者は苦しんでいて、それを癒すのは私(普通の社会生活を送れない無能者)の責任らしかった。そういうわけで、私は引きこもりで悩んでいるのではなく、悩んだり苦しんだりして生きていくことが嫌だったことがわかった。ただ、死にたかっただけだってことが。</p><p>　全国民に安楽死薬を配布するのは財政的に難しいかもしれないが、飛び降り自殺や電車等への飛び込み自殺でのバラバラになった死体の清掃費や、自殺に巻き込まれる被害者(電車の乗客に死傷者が出た事例がある)、自殺を目撃したことによるPTSD(心的外傷後ストレス障害)、子供が被害を受ける可能性もある。電車の運行が止まることによる経済的損失、自殺者への人道的配慮(人生の最期に苦痛ではなく安らかな死を)等を考慮すれば、非現実的とも言えないのではないか。</p><p>自殺は精神的・身体的強者にとってはそれほど難しくはない。自殺権の恩恵を受けるのは、自力では自殺の計画や行動のできない難病や障害を持っている人や、社会に貢献できず負担になっているような弱者だ。自分は死にたいのに家族の意思等で無理な延命治療をされている人とかも。</p><p>　社会や家族の負担になっているからと、重度障害者を虐殺した事件があった。私は社会の負担になっているものを殺せと言ってるいのではない、自分の人生の決定権は社会や家族ではなく、本人にあるべきだと言っているのだ。</p><p>苦痛から逃れたがっている人を苦しめるために使っている金や労力は生きたいのに困窮している人のために使えば良いのではないか。介護、子育て、生活保護等の財源に。社会の負担になるような人間は死ねば良いと思っているような人もまずは自殺権のことから考えるべきではないか。殺されなくても自分から死にたいと言っているのだから。本心ではクズども死ねと思っていたとしても、社会や家族によって苦しめられている人を本人の意思を尊重して苦痛から解放するという人道的な主張ができるのである。</p><p>　拡大自殺を抑止できるのは自殺件だけだ。拡大自殺の本当の動機は自殺権の確立だ。拡大自殺は自分の大切な人を殺されるような苦しみでも、一瞬で癒せるような特別な人たちに自分を苦痛から救ってもらうために事件を起こすものだ。しかし、苦痛から解放された人間は存在しない。解放されたかったら死ぬしかない。死にたいなら人を巻き込まずに1人で死ねばいいと思うなら、自殺権を認めるべきだ。自殺が社会に規制されていて、個人の自由にならないから、他人を巻き込むわけだ。</p><p>　人類滅亡戦争。自殺権の反対勢力は人類滅亡を手助けする平和人道に対する犯罪者だ。人間は自分たちの大切なものを守るために戦争をして殺し合うことはあっても、核戦争をすることはできない。自分たちの大切なものまで滅びてしまうよりは、どんなに憎い相手とも共存することを選ぶ。だが死にたい人間は人類の滅亡を望む。人類が滅亡すれば、自分のような死にたいのに死ねずに苦しむ人間も生まれなくなるからだ。自分の思想を隠して核戦争を起こせるような立場になって核戦争を引き起こすわけだ。自殺権があれば、社会は死にたいなら人を巻き込まずに1人で勝手に死ねばよいと言えるが、それがなければ個人は社会に自分の人生におけるあらゆる苦痛の責任を転嫁できる。</p><p>　重い病気でないのに自殺するのは良くない。この意見に反論。私は重い病気でなくても本人が死にたいほど苦しいと思っているなら自殺を認めるべきだと思う。精神的苦痛も、身体的苦痛と同じように扱われるべきだ、近年は個人の精神的苦痛を尊重する流れになっている。精神的負担を理由にアスリートがオリンピックの決勝を棄権したり、テニスの大坂なおみ選手がインタビューを拒否しても社会は容認している。こうした行動は一昔前なら批判されていたものだ。大きなプレッシャーやインタビューが負担にならない人間もいるだろう。しかし、負担になる人間もいるのだから、自殺は個人の意思に委ねるべきだ。</p><p>　なぜ自殺権が必要なのか、自殺は最大限の苦痛から逃れる最後の手段だ。どのような理由であっても死にたいほど苦しいのに死ねないでいる全ての人に自殺権が認められるべきだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　以上です。</p><p>　ご意見よろしくお願いします。</p>
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<link>https://ameblo.jp/bari1021/entry-12777850913.html</link>
<pubDate>Mon, 05 Dec 2022 11:33:32 +0900</pubDate>
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<title>自殺権を認めよ！</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;"><span style="font-size:1em;">　ぼくの知人に刑務所に入所している人がいる。その人から、自分の自殺権についての意見をいろんな人に読んでもらい、意見を聞きたいという要望が伝えられた。それで彼に代わって彼の意見をブログに上げることにした。興味を持たれたら意見をお聞かせ願いたい。その意見を彼に郵便で伝えることにする。以下、彼の意見（文章）をそのままアップする。</span></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p align="left">　難病で苦しんでる人の自殺を手助けした医者が逮捕された事件があった。「自殺したいなら勝手に死ねば良い」という人もいるけれど、自分の力では死ぬことができないから、こういう事件が起きた。本人が死にたいほど苦しいと思っているのに、社会が自殺をできないようにしておいて「勝手に死ねばよい」というのはおかしいと思う。自分の人生の決定権は社会ではなく個人にあるべきだ。これは難病の人に限らない。自殺をするのはとても難しい。計画性や行動力や決断力が必要だ。死にたいと思うほど苦しんでいるのに死ねないでいるすべての人に自殺権が認められるべきだ。(スイスでは安楽死が合法化されている。難病等の社会的に自殺をしても仕方ないと認められるような理由があり、必要経費を支払えれば、薬を飲んで眠るように死ねるのである。</p><p align="left">このような薬が無条件で全ての国民に配布されることが私の目標である。このスイスの安楽死制度には大きな問題がある。普通の社会制度(税金等)では、強者ほど制限を受けて弱者ほど優遇されるようになっている。しかし、このスイスの制度では、必要経費を払えるような経済的に余裕のある人や社会的な多数派。(弱者から見れば強者)だけが自分の人生の決定権を与えられているのだ。自分が耐えられる苦痛の限界を自分で決めて苦痛から逃れることができるのである。</p><p align="left">それなのに弱者(社会的少数派や安楽死の費用を払えないような貧しい人々)は、自分の苦痛の限界を自分で決めることも、苦痛から逃れることもできないのである。安楽死が認められる基準は多数派の価値観ではなく、個人的な価値観によって決められるべきだ。</p><p align="left">難病等の社会的に認められるような理由がなくても弱者は普通の人の半分の苦痛で、さらに弱い人は普通の10分の1の苦痛で安楽死が認められるべきだ。日本のような安楽死が認められていない国でも、計画性や行動力や判断力のある社会的な強者は、自分が死にたいと思ったときに自由に自殺できるのに、弱者はこの世界から逃れられないのである。</p><p align="left">いじめられていた中学生が自殺をほのめかして行方不明になり、凍死した事件があった。自殺権が確立されていないからこのような悲惨な事件が起こるのである。まずこの事件の加害者たちがなぜいじめを行ったのかといえば、自分たちが耐えられる苦痛の限界を社会的な権力者によって決められてきたからである。自殺権の確立されていない世界では、自分がどのような苦痛にどこまで耐えられるかは権力者が決定するのである。本人がどれほど苦しんでいて、この苦痛から逃れたいと思っても、（死にたいと思っても)社会的に認められない理由であれば本人の感情は無視されるのである。自殺は最大限の苦痛から逃れるための最後の手段である。自分が最も苦しんでいるときにその苦痛を無視されて、苦痛から逃れることも許してもらえず、何の役にも立たない慰めを受けてお前がどんなに苦しくても死にたいと思っていても、私が死んで欲しくないのだから死んではならないと言われるだ。</p><p align="left">さらに人の意思を無視して苦痛から逃れることを妨害しておいて、（身体拘束したり、全力で蘇生させようとしたり)自殺を止められたと言って喜んでいるのである。自殺権が確立されない限り、加害者たちが反省することはないだろう。</p><p align="left">いつ誰が自殺を止めるの正義といったのか知らないが、最大限の苦痛から逃れようとしている人間の意思を無視して喜んでいるような世界で、なぜいじめ（人を苦しめて遊ぶこと)が悪いことだと思えるのか。</p><p align="left">次に、被害者が自殺してしまったのも自殺権が確立されていないことに原因がある。</p><p align="left">自殺権のない世界では自殺をほのめかすと非難されるのである。被害者が自殺した必殺したい(苦痛から逃れたい)と言ったとき、本人の意思は否定されたのである。慰めてももらっただろうけれど、苦しくてどうしようもないときに味方だと思ってた人たちに拒絶されたのだ。</p><p align="left">自殺権があれば、本人が死にたいと思ったときに死ねるのだから、自殺することに関して議論する必要はない。全てのエネルギーを本人の苦痛を癒すことだけに集中できるのだ。大切な人に自殺して欲しくないと思うのなら、その人の苦痛を癒すことに全力を尽くせば良いのであって、自殺（苦痛から逃れること)するかどうかの決定権は本人にあるべきだ(権利を奪ってはならない)。そして被害者が最期に見た光景について、被害者は凍死するような気温の公園で寒さに震えながら苦しんで死んだのだ。自分の味方になってくれるはずの人たちから遠く離れて(自殺、苦痛から逃れること許してくれなかったから)自分にとって最大限の苦痛から逃れたいという痛切な願いを聞いてもらえなかった。絶望と苦痛の中で死んだのだ。彼女が自殺を決意したのはいじめられて苦しくなったときではなく、自分を受け入れてくれると思っていた大切な人たちに裏切られたときなのだ。自殺権があれば、彼女は自分の部屋の暖かいベッドの中で（大切な人たちのいないときかもしれないが)、眠るように安らかに死ねたのだ。彼女は最期に自分の苦痛とそれから逃れたいという自分の意思を認めてくれた大切な人たちの愛情を感じられただろう。この世界にはいじめをするような残酷な人たちがいて、大切な人たちの生きていてほしいという思いを裏切ってしまったのだとしても、自殺を抑止するのは自分の意思を拒絶された絶望ではなく認めてくれる愛情だろう。自殺権は自殺を推進するものではなく、防ぐものなのである。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">以上。このブログに対するご意見をお待ちしています。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><span style="font-size:1em;">　</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/bari1021/entry-12777790611.html</link>
<pubDate>Sun, 04 Dec 2022 23:00:45 +0900</pubDate>
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