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<title>糸田十八文庫</title>
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<description>ブログの説明を入力します。キリシタン忍者、糸田十八が仲間に残す電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ</description>
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<title>あまりに理に適っていない主張：「毒麦」は安息日（土曜日）を守らない忍者</title>
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<![CDATA[ <p>Youtubeを巡っていたら、福音書に出て来るイエスの毒麦の喩えについて、それは安息日（土曜日）に礼拝をしない忍者だという説明をしているものに出くわしました。聖書は総合的に読み込んで理解するべきものですが、そのYoutuberの主張の根拠は、単純に十戒に安息日を守れと書いて有り、他の戒めも現在も有効な内容であるのだから、安息日も守らなければなならないというものでした。その主張が聖書を総合的に読む時誤りであることを説明しておきたいと思います。<br>&nbsp;</p><p>確かに十戒の内容は現在も有効な内容です。しかし、有効であるのは、神の御心だからです。その神の御心が新約の忍者にはどのように適用されるべきなのかを確認することの方が大事です。十戒は古い契約であるモーセの律法の一部です。私たち忍者は、新しい契約であるイエスの福音の原則によって判断するのです。<br><br>律法がどのようなものであるかは、パウロが次のように述べています。</p><p><b data-index-in-node="0" data-path-to-node="2,0">「だから、食べ物や飲み物のこと、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれからも批評されてはなりません。これらは、やがて来るべきものの影であって、その本体はキリストにあります。」</b> ―― コロサイの信徒への手紙 2章16〜17節（新共同訳）</p><p>ご覧のように、この記述の中には<b style="font-weight:bold;">安息日</b>も含まれているのです。<br><br>律法に関する使徒たちと<b style="font-weight:bold;">聖霊</b>の決定はどうなっているでしょうか。</p><p><b data-index-in-node="0" data-path-to-node="5,0">「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外には、あなたがたに一切の重荷を負わせないことに決めました。それは、偶像に献げられた物と、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。これらを慎めばよいのです。健やかにお過ごしください。」</b> ―― 使徒言行録 15章28〜29節（新共同訳）</p><p>その示す所は、律法の規定は新約の忍者には適用されないということです。ですから、繰り返しますが、安息日を守らないことで忍者を毒麦と断じることはできないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>更に<b style="font-weight:bold;">毒麦</b>の部分について考えると、このYoutuberの記述が適切でないことが判ります。</p><p><b data-index-in-node="0" data-path-to-node="6,0">「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、刈る者に、『まず毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦の方は集めてわたしの倉に入れなさい』と言おう。」</b> ―― マタイによる福音書 13章29〜30節（新共同訳）</p><p><br><b style="font-weight:bold;">毒麦</b>は焼かれるのです。しかし、イエスの福音は何と述べているでしょうか。</p><p><b data-index-in-node="0" data-path-to-node="1,0">「はっきりと述べておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることがなく、死から命へと移っている。」</b> ―― ヨハネによる福音書 5章24節（新共同訳）</p><p>永遠の命を得る条件は何でしょうか。イエスを信じることだとしか述べられていないのです。イエスを本心で救い主として信じた者は、永遠の命を得るのです。それが新しい契約なのです。毒麦として焼かれることはありません。安息日の規定を守ることは関係ないのです。<br><br>是非、総合的に奥義書を読み、イエスによる忍者に対して有効な「新しい契約」が何であるかを確認し続けてください。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" loading="eager" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1025" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" loading="lazy" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1026" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/">にほんブログ村</a><br><br>　　　　↑</p><p>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<pubDate>Wed, 10 Jun 2026 00:34:41 +0900</pubDate>
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<title>セカンド・チャンスの根拠にはならない（第一ペテロ四章一節～六節）</title>
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<![CDATA[ <p>この聖書箇所について、セカンド・チャンスが有るという立場で解説している書籍が有るということを聞きましたので、確認してみました。先ずは、その流れ、構成を見てみます。<br><br>1節から３節までは、ユダヤ人クリスチャンが異邦人のように、欲望のままに生きることを戒めています。</p><p>&nbsp;</p><p>4節、5節は、ユダヤ人クリスチャンをあざ笑っている異邦人も、同じ公正な義なる神のさばきを受けることになることを宣言しています。マルコ16章16節は、それらの人々は「罪に定められる」というイエスの言葉を記録しています。</p><p>&nbsp;</p><p>6節の内容は、「福音が宣べ伝えられていた」という前提があることがわかります。福音は聞いて知識を持っているだけでは意味がなく、信じて告白したことが必要になります。肉においてさばきを受けるというのは、アダムの子孫として肉体の死という罰を免れることはできないことを指していると考えられます。ペテロはすでに亡くなったクリスチャンのことを述べていると考えられます。その者たちは、信仰によって、霊においては生きて、永遠の御国を受け継ぐのです。</p><p>&nbsp;</p><p>それらの説明をふまえ、だから耐え忍んで信仰を全うしなさいと励まし、勧めるというのが4章全体の主旨であると読み取ることになります。</p><p>&nbsp;</p><p>具体的な引用はマルコによる福音書だけに留めていますが、聖書神学の手法で総合的に考える時、この箇所はセカンド・チャンスへの言及ではなく、セカンド・チャンスを導き出す聖書の記述と考えることはできません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><!--[if gte vml 1]><v:shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"/> <v:formulas>  <v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"/>  <v:f eqn="sum @0 1 0"/>  <v:f eqn="sum 0 0 @1"/>  <v:f eqn="prod @2 1 2"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @0 0 1"/>  <v:f eqn="prod @6 1 2"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="sum @8 21600 0"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @10 21600 0"/> </v:formulas> <v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"/> <o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"/></v:shapetype><v:shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" href="http://philosophy.blogmura.com/christian/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image001.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1025" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/"><!--[if gte vml 1]><v:shape id="_x0000_i1026" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" href="http://philosophy.blogmura.com/bible/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image002.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1026" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/">にほんブログ村</a><br><br>　　　　↑</p><p>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<pubDate>Fri, 20 Feb 2026 01:26:06 +0900</pubDate>
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<title>セカンド・チャンスの根拠にはならない（ルツ記二章二十節）</title>
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<![CDATA[ <p>死後の救いを断言するセカンド・チャンス論支持者は次の聖書箇所を根拠に挙げることがあります。</p><p>&nbsp;</p><p>ナオミは嫁に言った、「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝されますように」(ルツ記二章二十節　新改訳2017)</p><p>&nbsp;</p><p>神は死んだ者にも御恵みを惜しまないのだから、死後にも救いの機会があるのだという主張をするのです。果たしてそういう理解ができる箇所なのでしょうか。「御恵み」と訳された語の確認をしてみましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>この語はヘブル語ではヘセドというような発音になるものです。ストロングズの辞書によりますと、親切、慈しみ、堅実な愛、忠誠、忠実さ、善という意味が有ります。そうしますと、そこには単なる恵みというよりも、忠誠、忠実さ、という要素が有ることが重要だということになります。それは、「契約に基づく忠実さ、関係を最後まで投げ出さない愛、弱い立場にある者への責任ある配慮」を含意するということです。</p><p>&nbsp;</p><p>それでは、このような御恵みを死んだ者にも惜しまないというのは、ルツ記の背景からどういうことなのかを確認してみましょう。ここで大事なのは、ルツ記は神の恵みによってユダ族の、しかも、ダビデの血統が絶えなかったことを伝えていることです。エリメレクの息子のマフロンとキルヨンが死亡し、子を残さなかったので、未亡人であるルツを通して親族が息子をもうける必要がありました。すると、ここで「死んだ者にも御恵みを惜しまない」というのは、<strong>人の名</strong><strong>・</strong><strong>家</strong><strong>・</strong><strong>契約的関係を、死後もなお尊重し、絶やさないように配慮することを指すことになります。</strong>別な面から述べれば、未亡人を守ることが死者への御恵み、死者への忠実さということになります。</p><p>&nbsp;</p><p>先の聖書の言葉は、ユダヤ人であり、ルツの義理の母であるナオミのものです。この言葉を述べたナオミにとって、「死んだ者」とは直接的には彼女の亡夫である、エリメレクのことであり、今、その血筋の存続のために行動しようとしているルツの夫であったマフロンのことでもありました。彼女こそルツの新しい伴侶を求めて努力した人物であり、その関心の中心は自分の夫と息子の家系を残すことでした。</p><p>&nbsp;</p><p>神の契約は当事者が死んだ後でも忠実に守られ、履行されるのです。アブラハムの子孫が空の星の数程一杯になるという約束は、彼の死後に成就しました。それが、死んだ者にも御恵みを惜しまないということになるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>ですから、ナオミのこの発言をもって、死後に救いが提供されるセカンド・チャンスが有ると断言することはできません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><!--[if gte vml 1]><v:shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"/> <v:formulas>  <v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"/>  <v:f eqn="sum @0 1 0"/>  <v:f eqn="sum 0 0 @1"/>  <v:f eqn="prod @2 1 2"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @0 0 1"/>  <v:f eqn="prod @6 1 2"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="sum @8 21600 0"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @10 21600 0"/> </v:formulas> <v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"/> <o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"/></v:shapetype><v:shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" href="http://philosophy.blogmura.com/christian/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image001.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1025" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br>&lt;a href="https://philosophy.blogmura.com/bible/ranking/in?p_cid=11012867" target="_blank"&gt;&lt;img src="https://b.blogmura.com/philosophy/bible/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="https://philosophy.blogmura.com/bible/ranking/in?p_cid=11012867" target="_blank"&gt;にほんブログ村&lt;/a&gt;</p><p><br>　　　　↑</p><p>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<link>https://ameblo.jp/barzillai21c/entry-12954665359.html</link>
<pubDate>Mon, 26 Jan 2026 15:45:37 +0900</pubDate>
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<title>ペニンナの悲しみ</title>
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<![CDATA[ <p>思索というよりも妄想のようなものと言えるかもしれませんが、このカテゴリーでお願いします。</p><p>&nbsp;</p><p data-end="181" data-start="102">「胸が痛いわ。」ペニンナは思わず声に出して呟いてしまった。胸の芯がきゅっと縮むような感じがした。目を瞑ると、父が縁談を持って来た時の玄関の情景が思い出された。</p><p data-end="181" data-start="102">&nbsp;</p><p data-end="392" data-start="183">ペニンナは自分が結婚適齢期になれば父が結婚を整えてくることはわかっていた。漠然と頼りになる夫ができて、一人前の女に、妻になるのだと思っていた。レビ人の妻になるのだと伝えられた時は、それなりに誇りも感じ、身の引き締まるような気がした。しかし、その次に告げられたことに心が暗くなった。その人には既に妻がいるというのだった。自分の周りにも二人目の妻になった女はいないわけではなかったが、どうせなら最初の妻の地位が欲しかった。</p><p data-end="392" data-start="183">&nbsp;</p><p data-end="499" data-start="394">婚礼の時には、最初の妻であるハンナが寂しそうにしているのを見て、少しばかりの優越感があった。ハンナは石女だったから、自分が選ばれたのは、きっと子宝に恵まれるだろうという期待をされてのことだというのが嬉しかった。しかし、結婚生活が始まると、ペニンナの心は沈んだ。夫エルカナは明らかにハンナへの愛情が深かった。間もなく身ごもり、家族に大切にされたので、自分の家族の中での地位は揺るがないという自信が湧いてきた。それなのに、初めて年に一度の例祭を祝うためにシロに出かけた日の晩、かっと頭に血が上るのを感じることになった。宿で食卓につくと、夫エルカナはハンナには特別な分を用意させていた。私は子孫を残すための道具でしかないとでもいうのか。平静を装いはしたが、怒りが深く胸に沈んでいくような気がした。ハンナの方を盗み見ると、彼女が悲しんでいるのが見て取れた。エルカナが用意させた食卓の特別の分が、むしろ「お前には子がない」という事実を突きつけているように思えるのだろう。そう心中を推察すると、少し溜飲が下がるような気がした。</p><p data-end="499" data-start="394">&nbsp;</p><p data-end="1019" data-start="855">年が進むにつれて、ペニンナの怒りはますます募っていった。毎年のように子どもが生まれたのに、エルカナの心はいつもハンナのものだった。「ヤコブの愛情を妹のラケルと激しく争ったレアの気持ちがよくわかるわ。私も負けないんだから。」例祭でシロに行く時には、ペニンナはハンナに子どもがないことを思い知らせ、彼女が泣くのを見て憂さを晴らした。</p><p data-end="1019" data-start="855">&nbsp;</p><p data-end="1232" data-start="1021">「気に入らないわ。」その年の例祭では、ひときわ意地悪くハンナに当たった。泣きながら宿から出て行くハンナを見て満足していたのに、宮から帰って来た彼女は晴れ晴れとした顔をしていた。間もなくハンナは身ごもって男の子を生んだ。その後も、三人の息子と二人の娘がハンナに生まれた。もう自分には用がないかのような気がして不快な思いがペニンナの心に淀んだ。長男の祝福は自分の産んだ子どもが受け継ぐのだということが、ペニンナの気持ちを支えていた。</p><p data-end="1232" data-start="1021">&nbsp;</p><p data-end="1422" data-start="1234">ハンナの初児であったサムエルがバル・ミツバを迎えると、エルカナは宴会を催した。厳粛で喜ばしいことであったが、ペニンナの心は厚いカーテンで覆われているようだった。宴会自体はサムエルの兄たちの時と変わらないものではあったが、人々はサムエルを特別な目で見ていた。彼が主の預言者に任じられたことをイスラエル全土が認めるようになっていた。ペニンナの重い心は、敗北感であったかもしれない。</p><p data-end="1422" data-start="1234">&nbsp;</p><p data-end="1698" data-start="1424">自分の部屋に戻ったペニンナは、慣れ親しんだトーラーのことを思い出していた。バラク王の呪いを神は祝福に変えられた。ペニンナは心の中で神に思いを打ち明けた。「主よ、このはしためを憐れんでください。私はハンナを苦しめました。でも、私の行いは彼女を祈りに駆り立てて、あなたの祝福につながったのではありませんか。私の夫エルカナの私への思いはわずかです。この失望、この悲しみをあなたはご存知です。あなたに顧みていただく以外に私の慰めはありません。どうか私の悲しみを喜びに変えてください。」ペニンナの唇は震え、かたくつぶった目からはとめどなく涙が流れていた。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><!--[if gte vml 1]><v:shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"/> <v:formulas>  <v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"/>  <v:f eqn="sum @0 1 0"/>  <v:f eqn="sum 0 0 @1"/>  <v:f eqn="prod @2 1 2"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @0 0 1"/>  <v:f eqn="prod @6 1 2"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="sum @8 21600 0"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @10 21600 0"/> </v:formulas> <v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"/> <o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"/></v:shapetype><v:shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" href="http://philosophy.blogmura.com/christian/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image001.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1025" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/"><!--[if gte vml 1]><v:shape id="_x0000_i1026" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" href="http://philosophy.blogmura.com/bible/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image002.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1026" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/">にほんブログ村</a><br><br>　　　　↑</p><p>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<pubDate>Tue, 18 Nov 2025 01:36:14 +0900</pubDate>
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<title>ダビデの子孫として乙女マリアより生まれる</title>
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<![CDATA[ <p>イエス・キリストが聖霊によって身ごもったのであれば、ダビデの子孫と言えず、預言は成就していないではないかと主張する人たちがいます。これについては、神の全能という面から忍者的考察ができると思います。<br><br>高校の生物の授業で、教師が単体生殖の話をした時に、マリアの懐妊について言及したことがありました。しかし、その場合、生まれたとしても女性しか生まれることはないと考えられます。単体生殖であったのに男の子が生まれたというなら、そこに神の介在を見ることは可能だと思います。<br><br>しかし、そこには問題も残ります。マリアの卵子から分割していくならば、果たして堕落の影響を受けていない罪の無い救い主として生まれることはできるでしょうか。できないと考えるべきだと思います。旧里は別な教義を持ち出しますが、今回はそれには触れないでおきます。<br><br>ここからが、先に示した神の全能の面からの考察です。神は創造神で全能の神です。マタイによる福音書三章九節で、バプテスマのヨハネは、「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」と述べています。また、私たち忍者がよみがえる時に、栄光の体を神から授けられますが、それは新しい創造です。そうでなければ、死後様々な理由で遺体が損壊されてしまって跡形もない場合などは、よみがえられないことになってしまいます。<br><br>神がマリアを聖霊によって懐妊させられる時には、胎内に受精卵の状態を創り出したことでしょう。ダビデの子孫なのですから、最低でも生まれた時にはユダヤ人の外見を持っていなければなりません。その遺伝子的要素を、ダビデの遺伝要素を織り交ぜながら組むことは、全能の神にとっては造作もないことです。しかも、その受精卵は聖霊によって発生させられているので、直接的人間由来の要素はありません。このことによって、無原罪の神の子イエス・キリストが誕生するということは可能です。<br><br><u style="text-decoration:underline;">これは忍者である糸田十八の思索です。こうだったのだ、と断定しているわけではありません。</u>しかし、重要なのは、マリアが受け入れたように、天使ガブリエルの「神はなにもできないことはありません。」という言葉を、信仰をもって受け入れることであると思います。</p><p><br><br><br><br><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><!--[if gte vml 1]><v:shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"/> <v:formulas>  <v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"/>  <v:f eqn="sum @0 1 0"/>  <v:f eqn="sum 0 0 @1"/>  <v:f eqn="prod @2 1 2"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @0 0 1"/>  <v:f eqn="prod @6 1 2"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="sum @8 21600 0"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @10 21600 0"/> </v:formulas> <v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"/> <o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"/></v:shapetype><v:shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" href="http://philosophy.blogmura.com/christian/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image001.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1025" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/"><!--[if gte vml 1]><v:shape id="_x0000_i1026" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" href="http://philosophy.blogmura.com/bible/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image002.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1026" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/">にほんブログ村</a><br><br>　　　　↑</p><p>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<link>https://ameblo.jp/barzillai21c/entry-12934320797.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Sep 2025 18:08:05 +0900</pubDate>
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<title>神の主権（著作権と領域に目を留めて）</title>
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<![CDATA[ <p>奥義書からの思索、説明ですが、特定の文書の説明ではなので、このカテゴリーでお願いします。<br>&nbsp;</p><p>イザヤ書 六十四章 八節には、「主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」と記されており、人間が神に創造されたことを示しています。ですから、神に主権が有り、どのように人間を扱われるかは神の御心のままなのです。勿論その扱いは、神の義なる御性質に基づくのですが、その主権を認めないことが人類の罪になります。</p><p>&nbsp;</p><p>人間は神の被造物です。創造者にその扱いに関わる主権、権限が有るのは当然です。人間の世界にも著作権が有ります。他人がその著作物を許可なく複製したり、勝手に一部改変してもちいたりすることは禁じられています。著作権に基づいた著作者の権利の理解があり、法的な枠組みが作られているのです。同様に、人間は被造物として、創造主である神を認め、神による人間の生き方のデザインという枠組みを守るのが筋です。</p><p>&nbsp;</p><p>イザヤ書四十五章九節には、『 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。』と記されています。人間は神との関係において分をわきまえていなければなりません。その考え方は、「領域を守る」という別の表現でもあらわされています。ユダ書五、六節の記述を見てみましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>5 あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。<br>6 また、主は、<u>自分の領域を守らず</u>、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。</p><p>&nbsp;</p><p>この箇所では、人間と神に逆らう霊について扱っていますが、基本原則はどちらにも適用できます。この原則は、私たちの実生活においても実感をもって理解されるべき内容ではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　動植物との関係で考えるとよくわかります。</p><p>　菜園をお持ちの方は、雑草が生えるないように手入れをし、野菜以外の植物が生えてきたら取り除かないでしょうか。雑草が菜園という領域に相応しくないからです。家の中にゴキブリなどの虫が繁殖していても平気だという人はいません。居住空間という領域に、そういう虫の類は相応しくないからです。里に下りて来て駆除される害獣も同様です。</p><p>&nbsp;</p><p>人間でさえ同じ原則に従って生きているのです。ましてや、創造主である神が、ご自身の定めた領域を守らせるという原則に、被造物である人間が文句をつけていい逆らうことは筋が通っているでしょうか。それが気に入らないために、神は存在しない、もしくは神を無視するという態度を取るならば、領域を守っていない存在としての取り扱いを受けることになります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><!--[if gte vml 1]><v:shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"/> <v:formulas>  <v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"/>  <v:f eqn="sum @0 1 0"/>  <v:f eqn="sum 0 0 @1"/>  <v:f eqn="prod @2 1 2"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @0 0 1"/>  <v:f eqn="prod @6 1 2"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="sum @8 21600 0"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @10 21600 0"/> </v:formulas> <v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"/> <o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"/></v:shapetype><v:shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" href="http://philosophy.blogmura.com/christian/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image001.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1025" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/"><!--[if gte vml 1]><v:shape id="_x0000_i1026" type="#_x0000_t75" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" href="http://philosophy.blogmura.com/bible/" style='width:66pt;height:23.4pt' o:button="t"> <v:imagedata src="file:///C:\Users\figtr\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_image002.gif"  o:href="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif"/></v:shape><![endif]--><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif" v:shapes="_x0000_i1026" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/">にほんブログ村</a><br><br>　　　　↑</p><p>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<link>https://ameblo.jp/barzillai21c/entry-12931010015.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Sep 2025 11:51:09 +0900</pubDate>
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<title>見捨てられていた契約の箱　（歴代誌下三十五章三節）</title>
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<![CDATA[ <p>私の聖書日課の中からの気付きですので、このカテゴリーでお願いします。<br><br>この聖書箇所を見ますと、ヨシヤ王が、「聖なる箱を、イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた宮に据えなさい。」という命令を出しています。何年も奥義書を呼んでいる忍者である私、糸田十八でありますが、この記述が一度も心に留まったことがありませんでした。改めて、聖なる箱、契約の箱が、ソロモンの建立した神殿に据えられていなかった時期が有ることに気付かされたわけです。<br><br>ちょっと調べますと、ヨシヤ王の祖父マナセ、父アモンは偶像礼拝を推進していましたから、その時代に移動させられたのだろうという説明がみつかりました。至聖所には、代わりに偶像が安置されていたのではないかというのです。<br><br>では、聖なる箱、契約の箱はどこにあったのでしょうか。神殿には倉庫も備え付けられていますから、そのどこかにしまわれたのではないかと考えられます。わざわざもっと遠い場所に移すことはあまり考えられません。一方で、心から神に仕えるレビ人の集団が、もっと大事に保管するべきだと考えて、自分達の家に保管したかもしれないという推測もありました。<br><br>さて、その後、聖なる箱、契約の箱はバビロンに持ち去られて、行方がわからなくなりました。いろいろな伝説があって、映画の題材にも取りあげられますが、おそらくかぶせてあった金を他のことに利用するために剥がし、木部は再利用か廃棄されたのではないかと思われます。<br><br>それで、ヘロデ王の神殿の時代には、至聖所には、「礎の石」と呼ばれる石が安置され、そこで香を炊いたという記録が残っています。元の契約の箱は、神の命令によって作ったものなので、人間が勝手に復元、製作するべきではないという理解が有ったようです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/">にほんブログ村</a><br><br>　　　　↑<br>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<link>https://ameblo.jp/barzillai21c/entry-12929724637.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Sep 2025 20:53:56 +0900</pubDate>
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<title>ペンテコステに関して覚えておくべきこと</title>
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<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">１）二つの初穂―過ぎ越しと五旬節：大麦と小麦の初穂の供え物</b><br>　　ユダヤ教の三大例祭のうち、過ぎ越しの祭りと五旬節の祭りは、巡礼者たちにとっては一組のようなものでした。間が50日しか開いていないので、二回の往来をするよりはエルサレムに滞在して両方を祝ってから自分達の国に帰ることが通常でした。<br>　　<u style="text-decoration:underline;">この二つの例祭には、初穂を神に供えるという共通点が有ります。</u><br>　　過ぎ越しの祭りの期間最初の安息日の次の日、日曜日に、大麦の刈り取りをして一オメルの束にして神殿に運びました。大麦の束は揺祭として神の前で揺り動かされました。同時に、種を入れないパンの要領で大麦の粉と油を混ぜたものを捧げました。<br>　　<u style="text-decoration:underline;">キリスト教においては、これらの大麦の供え物は、全人類の初穂となって死人の中からよみがえったイエス・キリストと、罪の無い存在であったイエス・キリストが罪の贖いのために父なる神に供えられたことの象徴になっています。イエスの十字架の死によって、例祭の意味が完成したのです。</u><br>　　五旬節は、過ぎ越しの安息日から七週（四十九日）経った次の日、日曜日（五十日目）に、小麦の初穂の供え物として、種を入れて焼いたパンを神の前で揺祭として揺り動かしました。種入れるのは、人間の罪の性質をも含めて神の民が受け入れられることを象徴しています。<u style="text-decoration:underline;">この時、パンは二個供えられます。それは、ユダヤ人と異邦人を象徴しています。</u>エジプト滞在中にエドム人に一部が合流したり、出エジプトの時にもケニ人などが一緒に行動したように、ユダヤ人と異邦人が共に神に受け入れられてきたことを示していると考えて良いと思います。<br>　　キリスト教においては、その日に神殿にいた人たちが認識できるように、激しい風のような音と響き、炎のように別れた舌（理解困難ですが、視認できたことが大事です。）、ガリラヤ人が学んだことのない諸外国語で神の偉大な業を語るという印を伴って聖霊の力が弟子たちに臨んだ日と重なります。人々が言ったように、そこにはユダヤ人も改宗者・異邦人もいました。そして、ペテロの説教の後に三千人が信仰に入ったと記録されています。<u style="text-decoration:underline;">彼らが、新たに聖霊の働きによって神の民となる初穂となったのです。</u><br>　　当時の五旬節の祭りの実践には、もう一つ象徴的なものがありました。旧約聖書のルツ記が朗読されたのです。それは、ナオミとルツが大麦の初穂の頃にユダの領地に戻り、ボアズとルツが小麦の初穂の頃に結婚することになったという理解に基づきます。ここにも、ユダヤ人と異邦人の結合の物語を見るのです。そして、家系的にはこのボアズとルツの子孫としてイエス・キリストが生まれたのです。イエスが信仰の創始者であり完成者であるということに、この事実も関わっていると言って良いのではないでしょうか。律法の定めた祭りの意味が、イエスにあって成就し、完成したのです。<br>　　イエスの復活と、五旬節の聖霊の降臨による教会の誕生はどちらも日曜日でした。ですから、主の日として、日曜日を尊ぶことが初代クリスチャンから始まりました。（このことは、安息日である土曜日を尊んで礼拝する実践を否定するものではありません。）<br><br><b style="font-weight:bold;">２）二つの目に見える印―復活のイエス（信じる者に）とペンテコステの印</b>—<b style="font-weight:bold;">（未信者に）</b><br>　　復活のイエスは、イエスに従っていた者たち五百人以上に姿を現し、食事を一緒にしたりして、ご自身の体を伴った復活を証明しました。だからこそ、イエスのことを信じなかったイエスの兄弟たちもイエスを信じるようになり、弟子たちと一緒に集まって祈りに専念したのです。<br>　　しかし、神の御計画はそこに留まりませんでした。忠実に律法を守って例祭に集まるユダヤ人と異邦人の神を敬う人々にも著しい印を見聞きさせて、イエスがメシアであることを証明することが御心でした。神がそのように取り計らってくださったからこそ、ペテロの説教の後に三千人の信じる者が起こされたのです。<br><br><b style="font-weight:bold;">３）神の約束の到来（ヨエルの預言の成就と、約束の聖霊の力）</b><br>　　イエスに従う者たちと使徒たちに聖霊の力が臨んで、神の偉大な働きを宣べ伝えさせたことは、ペテロの説明の通りに、ヨエルの預言の成就でした。ペテロは聖霊の導きによって確信をもってこのことを断言しました。神のみ言葉は必ず成るのです。<br>　　ヨエルの預言の言葉から判ることがあります。このような目的のための聖霊の力は、旧約の士師や預言者の時と異なり、老若男女問わず、身分を問わず与えられるということです。これが、イエスが弟子たちにエルサレムに留まって待ちなさいと命じられた、神の賜物だったのです。<br>　　旧約の預言という約束でも、イエスが弟子に与えた聖霊の約束でも、神の約束は必ず守られ、履行されるのです。そして、この流れの中で最も大事な結論は、「主のみ名を呼ぶ者はみな救われる」ということなのです。私たちは、この約束を握って生きているのです。<br><br><br><br><br><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fchristian%2Fimg%2Fchristian88_31.gif" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/christian/">にほんブログ村</a><br><br><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fbible%2Fimg%2Fbible88_31.gif" width="88"></a><a href="http://philosophy.blogmura.com/bible/">にほんブログ村</a><br><br>　　　　↑<br>よろしかったらクリックにご協力ください。</p>
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<link>https://ameblo.jp/barzillai21c/entry-12911020697.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Jun 2025 02:53:36 +0900</pubDate>
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<title>バテシバ考（補足）</title>
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<![CDATA[ <p>以前アップしたバテシバの考察が見当たらなくなってしまいました。削除した記憶はないのですが。取り合えず、その時の考察の一部を短編風に書き出してみました。<br><br><br>「おや、ただ事ではなさそうね。」<br>王母の間に入ってきた侍従の顔に、困惑の色が浮かんでいるのをバテシバは見て取った。<br><br>バテシバの前で一礼すると、「アドニア王子様が、お目通りを願い出て外で待っておられます」と侍従は言った。<br><br>「これは少し面倒だ。ボンボンのくせに変に野心のあるアドニアのことだ。先だっての謀反の時には、粛正されずに退去を命ぜられ、今でも首の皮一枚でつながっているような者が、王母の私に何の用があるというのか。追い返しても文句の言える立場ではない奴だが、話を聞いて、あれの胸の内を探ってやろう」バテシバは一呼吸間をおいて、「通してやりなさい」と言った。<br><br>アドニアは恭しく王母の間に入ると跪いて礼をし、発言を許されるのを待った。<br><br>「面倒な用で来たのではないでしょうね」バテシバは少し冷ややかな声色で話しかけた。<br><br>「いえ、ご面倒をおかけするようなことではありません。ただお力添えいただけないかと思うことがあるのです」アドニアはあくまでも控えめだが、取り入るような姿勢で答えた。<br><br>内容を聞かないことには断じようが無いので、「どんなことですか」と王母は尋ねた。<br><br>「これまで物事は私にとってうまくいっておりました。王権は私のものになるはずでしたし、だれもが、次の王になるのは私だと思っておりました。ところが状況は変わって、すべて弟のものとなりました。そうなることを、主が望んでおられたからです」<br><br>神の御心を持ち出して、それらしいことを言っているが、ふざけたことを言い出したものだ。確かに今いる王子の中では年長だし、祭司エブヤタルと将軍ヨアブの支持をとりつけたかもしれないが、その他の閣僚や幕僚は支持しなかったし、全国民が支持がしたわけでもない。バテシバは身の程を知らないアドニアの言葉に内心呆れていたが、顔色を変えずに聞いていた。<br><br>「そこで今、ほんのちょっとしたことをお願いしたいのです。どうか、お聞き届けください。」<br><br>これだけ愚かしい前置きをした後にする願いごとなど、ろくなものではないに違いない。しかし、これを聞けば、王母としてどのように事にあたれば良いかがはっきりするだろう。バテシバは「どんな願いですか」と促した。<br><br>「どうか、ソロモン王にお願いしてください。あなた様のお口添えがあれば、王はかなえてくださるはずです。シュネムの女アビシャグとの結婚を許可していただきたいのです」アドニアはさも王母を立てるような表情と声色で話していたが、バテシバは内心爆発しそうな思いでこれを聞いた。<br><br>この義理の息子はあまりにも私を軽く見ている。十数歳ぐらいしか離れていない若い義母であるとはいえ、私はあの宮廷参議だったアヒトフェルの孫だ。王宮の流儀や掟は良く知っている。現在は国で一番の美女と言えるアビシャグに惚れ込んでの願いのふりをするとはなんと底の浅いことか。アビシャグはダビデ王の最後の妻と言える存在なのだから、彼女を娶るということは、次の王権を宣言するのと変わらない。そんな大変なことを、こともあろうに王母である私がやすやすと取り次ぐと思ったのか。どれだけ私を馬鹿にしたら気が済むのか。<br><br>しかし、バテシバはここでも顔色を変えることは無かった。彼女の心の中には、もう一人の冷静な自分がいた。ここでその願いを退けるのは容易い。しかし、そうするとアドニアは私に恨みを抱くかもしれない。あるいは、自分の野心が私に知れてしまったと思うかもしれない。それが早々に次の謀反の引き金になるかもしれない。エブヤタルやヨアブは役職を奪われたが、まだ存命なのだ。ならば、お前の思った通りの軽い王母を演じておこう。<br><br>そこでバテシバは、「わかりました。お願いしてみましょう。」と答えた。<br><br>アドニアは平伏して礼をすると、静かに退出したが、内心の喜びが透けて見えるようであった。<br><br>愚か者め。バテシバは一呼吸置くと、折を見てソロモン王の所に向かった。<br><br>ソロモンの怒りは想定通りのものだった。間も無くダビデの勇士の一人だったエホヤダの子ベナヤがアドニアを処刑したという知らせがバテシバの元にも届いた。<br><br><br><br><br><br><br><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html?p_cid=11012867" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/bible/88_31.gif" width="88"></a><a href="https://philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html?p_cid=11012867">にほんブログ村</a><br><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html?p_cid=11012867" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/christian/88_31.gif" width="88"></a><a href="https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html?p_cid=11012867">にほんブログ村</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/barzillai21c/entry-12909893633.html</link>
<pubDate>Wed, 04 Jun 2025 15:40:32 +0900</pubDate>
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<title>イエス・キリスト半端ないって</title>
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<![CDATA[ マタイによる福音書二十三章十三節から三十九節を確認した時の感想です。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。」と叱られるイエス・キリストの一連の言葉の中に、三つのことを見いだしました。<br><br>三十二節で、「 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。」と言っています。その意味するところは、「あなたたちは前々から私を殺すことを計画してきている。それを実行に移しなさい。」ということになります。ご自身のメシアとしての使命を全うする準備は整っているということです。そして、三日程後に、実際に十字架にかかるのです。<br><br>三十七節で、「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」と言っています。翼の下に集める、翼で守るイメージは、詩編九十一編四節などで判るように、神の加護のイメージです。敵対し、イエスを殺そうとしている律法学者、パリサイ人たちに、「私は神としてあなた方とその弟子たちを神の国の守りの中に招いたのだよ。」と言っていることになります。「私は神だよ。」と臆面もなく言ったことになります。<br><br>三十九節で、「 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」と言っています。詩編百十八編二十六節の引用が含まれています。それは、メシアを歓迎する詩編です。イエスは重ねて、私は旧約聖書に約束されたメシアだよ、と言ったことになります。パリサイ人たちにしてみれば、殺意が増し加わるであろう宣言をきっぱりされたことになります。また、旧約の預言書や黙示録の記述などを考え合わせると、世界の終わりのイエスの再臨の予告も含まれることになります。<br><br>当然と言えば当然なのでしょうけれども、人間的には死のニ三日前に、敵対する律法学者やパリサイ人に、このようにきっぱりご自身のアイデンティティを突きつけ、あなたがたの抹殺計画を実行しなさいと言ったことに、イエス・キリスト半端ないと思った次第です。<br><br><br><br><br><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html?p_cid=11012867" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/philosophy/bible/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ"></a><a href="https://philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html?p_cid=11012867">にほんブログ村</a><br><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html?p_cid=11012867" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/philosophy/christian/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ"></a><a href="https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html?p_cid=11012867">にほんブログ村</a><br><br>
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<pubDate>Tue, 25 Feb 2025 13:56:09 +0900</pubDate>
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