<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>どうでもいい雑記</title>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/behmemmahren/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>なんということはない「どうでもいい？雑記」のブログです。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>1946年ザルツブルク音楽祭　オーストリア/1946年</title>
<description>
<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260506/16/behmemmahren/6d/28/j/o1167164315779247316.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="450" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260506/16/behmemmahren/6d/28/j/o1167164315779247316.jpg" width="320"></a></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#00afff;">Salzburg4 1/8/46 SALZBURGER FESTSPIELE(ザルツブルク音楽祭)</span><br><br>貼られている切手は1946年発行の風景シリーズの中の1枚でザルツブルク旧市街地からみたホーエンザルツブルク城です。台紙はザルツブルク音楽祭のもの。特印の図案もホーエンザルツブルク城です。<br><br>局名の<u style="text-decoration:underline;">Salzburg4局</u>は、ザルツブルク市の北東部のザルツァッハ川の東側の鉄道線路沿いの住宅地郊外地区にあるグニグル局。<br><br>ということは、お察しの通り、Salzburg1局からSalzburg3局もザルツブルク音楽祭を特印を使用しています。<br><br>Salzburg1局は市内中心部の本局、Salzburg2局はザルツブルク中央駅構内郵便局、残りのSalzburg3局は、ザルツブルク市の北部の中央駅のさらに北のイツリング局。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260506/16/behmemmahren/f5/cb/j/o0800059915779247957.jpg"><img alt="" height="314" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260506/16/behmemmahren/f5/cb/j/o0800059915779247957.jpg" width="420"></a><br>-Salzburg2局/ザルツブルク中央駅構内郵便局<br><i style="font-style:italic;">※画面奥の茶色の建物です。駅構内郵便局と聞くと小さな郵便局を思う浮かべますがオーストリア国内でも有数の規模を誇った大きな郵便局でだったそうです。道理でSalzburg1局にない機械印があったわけだ。現在はザルツブルク中央駅の向かい側のショッピングセンター内に小さな支店の形になっています。</i><br><br>なお、Salzburg1局は特印の図案が異なります(別途、紹介予定)。4局の特印を揃えたいところですが<u style="text-decoration:underline;">Salzburg1局とSalzburg4局は見つかります</u>が、それなりにあるはずなのに<u style="text-decoration:underline;">なかなかないのがSalzburg2局、Salzburg3局はそうそう目にせず希少</u>です。<br><br>本局でないのによく見かけるSalzburg4局は特印を通常の郵便でも使用しており、音楽祭後も数日使用した記録が残ってます。それに対してSalzburg1局は記念印として押印が多かったんですよね。</p><p>&nbsp;</p><p>なので、Salzburg4局の特印押印のものは多いです。<br><br>以下のような資料があるので掲載しておきますね。<br><br>■ 8月13日（初日）<br>Salzburg 1：◯<br>Salzburg 2：◯<br>Salzburg 3：△（稀）<br>Salzburg 4：◎（大量に存在）<br><br>■ 8月14日～16日（使用ピーク）<br>Salzburg 1：◯<br>Salzburg 2：◎<br>Salzburg 3：△（少ない）<br>Salzburg 4：◎（最も多い）<br><br>■ 8月17日～18日（中盤）<br>Salzburg 1：△（急に減る）<br>Salzburg 2：◯<br>Salzburg 3：△<br>Salzburg 4：◎（依然として多い）<br><br>■ 8月19日～20日（終盤）<br>Salzburg 1：×（ほぼ見ない）<br>Salzburg 2：△（少ない）<br>Salzburg 3：△（稀）<br>Salzburg 4：◎（最後まで使用された）<br><br>実は、戦前のザルツブルク音楽祭の特印の調査の中間報告をアップしようと思ったのですが(しつこく調査してました。特印の範疇じゃなくて･･･)、記事が長くなったので別の機会に記事をアップします。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12965298876.html</link>
<pubDate>Wed, 06 May 2026 16:50:48 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>THE SOUND OF MUSICの消印　オーストリア/1964年</title>
<description>
<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/30/3b/j/o1820251215776570013.jpg"><img alt="" height="580" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/30/3b/j/o1820251215776570013.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/ce/d6/j/o0886040215776570302.jpg"><img alt="" height="191" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/ce/d6/j/o0886040215776570302.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#00afff;">THE SOUND OF MUSIC IN SALZBURG STADT DER MUSIK/SALZBURG2/15.10.64</span><br><i style="font-style:italic;">※SALZBURGにはこの当時はSALZBURG1(市内中心部の本局)とSALZBURG2(ザルツブルク中央駅構内郵便局)がありました。</i></p><p><br>東ドイツの往復葉書返信片のオーストリア差し出しで往信片付きのまま返信。往復葉書の返信時の往復片付きについて欧米ではよくみかけますが、日本では珍しいんですよね。この辺りの話も面白いのですが、別の機会にしましょう。<br><br>この消印の<u style="text-decoration:underline;">「THE SOUND OF MUSIC」は英語、オーストリアはドイツ語圏</u>です。ずばり、映画のサウンド･オブ･･ミュージックの事で間違えありません。ただ、映画の宣伝ではないんですよね。</p><p>&nbsp;</p><p>なお、標語の後半の「Stadt der Musik」はドイツ語で音楽の都の意味で、ザルツブルク市の公式キャッチフレーズで使われています。<br><br>消印の日付であることに気が付きましたか？。気が付いた方は凄いです。1964年10月の時点では映画はまだ公開されていません。映画の公開は1965年。しかし、ロケ地としてザルツブルクはすでに世界的に注目されていました。<br><br><span style="color:#009944;">映画のロケは、1964年3月にロサンゼルスの20世紀フォックススタジオで始まり、マリアの寝室、修道院の回廊などが撮影されて、ザルツブルクへ。ザルツブルクではモントゼー教区教会で結婚式のシーンの撮影から始まり、映画の戸外の撮影のほどんどが主にザルツブルクで行われました。映画の冒頭のマリアのシーンと一家が山を超えるシーンはドイツのバイエルンで行われています。その後は7月初旬から再び20世紀フォックススタジオで撮影。撮影完了は9月1日です。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/fb/60/j/o0500066715776571631.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="387" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/fb/60/j/o0500066715776571631.jpg" width="290"></a><br>-ノンベルク修道院、マリアが奥から手前へと歩いてくる場所<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/2e/7a/j/o0960057615776572535.jpg"><img alt="" height="252" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/2e/7a/j/o0960057615776572535.jpg" width="420"></a><br>-遠足で訪れたモーツァルト小橋<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/75/cf/p/o0500037515776572618.png"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/75/cf/p/o0500037515776572618.png" width="420"></a><br>-ドレミの歌のシーンの撮影地(ザルツァッハ川渓谷のヴェルフェン)<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/6a/2c/j/o2400180015776573071.jpg"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/6a/2c/j/o2400180015776573071.jpg" width="420"></a><br>-結婚式のシーンで使われたモントゼー教区教会<br><br>ほとんどがザルツブルクでの撮影だったこともあり、ザルツブルク観光局は映画公開前から“THE SOUND OF MUSIC”を観光ブランドとして使用したんですよね。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、映画会社（20世紀フォックス）や映画公開と連動した公式キャンペーンではありません。ついでに、ドイツ語圏ではサウンド･オブ･･ミュージックは評判がよくなかったんですが･･･。<br><br>ビックリですね。映画公開前からいまでいう聖地巡礼的な企画していたんですから･･･。映画公開後から現在にいたるまでザルツブルクではサウンド･オブ･･ミュージックのロケ地ツアーや周年記念イベント、関連商品の販売などなど行われています。<br><br>ザルツブルクの観光統計を見ると映画ロケ地巡りをする訪問観光客の国はというとアメリカ・イギリス・オーストラリア・アジア(特に日本人らしいです)が多いそうです。<br><br>なので観光業界では「THE SOUND OF MUSIC」は、映画タイトル、ツアー名、観光パンフレット、ロケ地ガイドで使用されていて英語表記が国際標準になっています。ドイツ語だと「Meine Lieder - Meine Traume」ですが使われていません。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/47/e6/j/o1786127615776573478.jpg"><img alt="" height="300" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260429/16/behmemmahren/47/e6/j/o1786127615776573478.jpg" width="420"></a><br>-ザルツブルクで売られていたサウンド･オブ･･ミュージックの絵葉書<br><br>THE SOUND OF MUSICの消印はザルツブルク当局が観光用で外国人観光客向けに使用された消印でした。個人的にはサウンド･オブ･ミュージックは大好きな映画なので、THE SOUND OF MUSICの消印を作ってくれて<span style="color:#ff007d;">ありがとう！！！</span>とお礼を一言･･･エヘヘ･･･<br><br>最後に郵趣的な話をしておきましょう。<br><br><span style="color:#ff0000;">◇消印に大きく4つのタイプがあります。</span><br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">①1964年型：スタンダードタイプ</mark><br>&nbsp;</p><p>文言：THE SOUND OF MUSIC in SALZBURG - STADT DER MUSIK<br>図案：なし<br>使用局：SALZBURG2<br>※映画公開前のもの。このブログで取り扱ったアイテムです。<br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">② 1965年型：図案入り</mark></p><p><br>文言：THE SOUND OF MUSIC in SALZBURG - STADT DER MUSIK<br>図案：右側に ザルツブルクの山並み or 城（Hohensalzburg）案<br>使用局：SALZBURG1、SALZBURG2&nbsp;<br>※映画公開後に登場。映画ロケ地としての視覚的訴求が加わる。現存数はこれが一番多い。<br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">③ 1966年型：文字配置が変更されたタイプ</mark></p><p><br>文言：THE SOUND OF MUSIC in SALZBURG - STADT DER MUSIKと同じで配置違い<br>※THE SOUND OF MUSICが上段中央に強調配置<br>※Stadt der Musikが下段に移動<br>図案：なし<br>使用局：SALZBURG1<br>※映画の国際的ヒット後に“THE SOUND OF MUSIC”を強調した再デザイン。<br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">④ 1967年頃の後期型：③の変化印</mark></p><p><br>文言：THE SOUND OF MUSIC in SALZBURG - STADT DER MUSIKと同じ<br>※in Salzburgの位置が異なる。<br>図案：ありとなしの両方が存在すると言われています。<br>使用局：SALZBURG1&nbsp;<br>※キャンペーン末期の簡略化版。数が非常に少ないです。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12964546373.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Apr 2026 17:00:08 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ドイツ再統一の日に東西ドイツを航行したピータパン号記念カバー　ドイツ/1990年</title>
<description>
<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/c8/4b/j/o1943137915774101917.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="369" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/c8/4b/j/o1943137915774101917.jpg" width="520"></a></p><p><br><span style="color:#00afff;">DEUTSCHE SCHIFFSPOST/MS PETER PAN/3.10.90/TT-LINE/ROSTOCK-TRAVEMUNDE</span><br><i style="font-style:italic;">※消印のDEUTSCHE SCHIFFSPOSTはドイツ船内郵便のことです。ドイツ船籍のいろいろな船でも使われています。MS PETER PANが船名です。</i><br><br>このカバ－は<u style="text-decoration:underline;">ロスットック(東ドイツ)とトラヴェミュンデ(西ドイツ)をドイツ再統一の日に「東から西へ自由に航海できるようになった」ことを象徴する記念航海</u>という歴史的な意味を持つカバーです。<br><br>ピーター・パン号は1986年2月6日にトラフェミュンデ(東ドイツ)～トレレボルグ(スウェーデン)航路で運航を開始したフェリーです。その後、船主や船名を変えること5回。現在は、デンマークの海運会社DFDS Seawaysが所有・運航するMSプリンセス・シーウェイズでイングランドのノースシールズとオランダのアイマウデンを結ぶ航路に就航しています。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/13/behmemmahren/0a/97/j/o0960072015774096437.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="165" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/13/behmemmahren/0a/97/j/o0960072015774096437.jpg" width="220"></a><br>-MSプリンセス・シーウェイズ<br><br>記念公開したピーター・パン号は2代目です。現在もピーター・パン号は運行していますが、なんと6代目で別の船です<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/13/behmemmahren/7a/00/j/o0960054015774096817.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="124" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/13/behmemmahren/7a/00/j/o0960054015774096817.jpg" width="220"></a><br>-6代目ピーター・パン号<br><br><span style="color:#ff0000;">◇ピーター・パン号の当日の様子</span><br><br>消印はピーター・パン号の船内で差し出されたものですが、ピーター・パン号に船内郵便局はありません。この日のために船内に設置された臨時郵便局です。<br><br>ピーター・パン号には、東西ドイツの市民や報道関係者などが多数乗船。再統一記念の小規模セレモニー、ショップでは統一記念グッズ販売、船内郵便局での押印と差し出し、船長が再統一を祝うアナウンスを行うなど「海の上で祝う再統一」という特別な雰囲気だったそうです。<br><br><b style="font-weight:bold;">それだけ、ドイツ市民にとってドイツ再統一は悲願であり特別なものだったのでしょう。</b><br><br><span style="color:#ff0000;">◇なんで再統一なの</span><br><br>ところで、再統一という言葉を使っていますがなんででしょうか。統一じゃんと思った方もいるのでは。</p><p>&nbsp;</p><p>一般的に日本だと東西ドイツ統一をドイツ統一といいますよね。まぁ、そうなんですが、歴史及び政治見地からみるとドイツ統一のいうのは、<br><br>1871年にばらばらに乱立していたドイツの各王国、公国、侯国、自由都市などをまとめてプロイセン王国国王ヴィルヘルム1世がドイツ帝国を成立させたことを「ドイツ統一」といいます(この部分ですが超ざっくり書いています)。ドイツ語ではDeutsche Einigung、英語ではUnification of Germanyになります。<br><br>このドイツ統一と明確に分けるために歴史用語及び政治用語として東西ドイツ統一は「ドイツ再統一」といいます。ドイツ語ではDeutsche Wiedervereinigung、英語ではGerman reunificationです。<br><br>ドイツ語と英語の言い方の違いじゃんとか1871年の方は統一じゃなくてドイツ帝国成立でしょと思った方もいらっしゃると思いますが･･･、表現の仕方の違いなのとドイツに従って統一と再統一で覚えておきましょう。柔軟に使い分けて下さね。<br><br>最後に郵便からみた再統一を見て終わりします。<br><br><span style="color:#ff0000;">◇郵便からみた再統一</span><br><br>1990年6月12日：東ドイツ国名表示(東ドイツマルク建て)最後の切手発売。<br>1990年7月1日：西ドイツの通貨であったドイツマルクが東ドイツに導入される。<br>1990年7月2日：東ドイツで西ドイツマルク建ての建造物切手9種が発行される。<br>1990年10月2日：東ドイツマルク建ての切手の使用有効期限。西ベルリン切手の新切手発行終了(実際は9月27日発行の切手が西ベルリン最後の切手)。<br>1990年10月3日：ドイツ再統一。ドイツ再統一記念切手発行。額面違いで2種発行。<br>1990年12月31日：西ベルリン切手の販売終了。<br>1991年3月31日：旧東ドイツ地域の特別低料金措置最終日。<br>1991年12月31日：東ドイツ発行西ドイツマルク建ての切手及び西ベルリン切手の使用有効期限。<br>1992年1月1日：西ドイツ切手のみ有効に。</p><p>1993年7月1日：ドイツ再統一による郵便番号5桁化</p><p>おまけ：西ドイツマルク建ての切手は西ドイツのEU加盟により有効期限は2002年6月30日です。<br><br><i style="font-style:italic;">※東ドイツで発行した西ドイツマルク建て切手は建造物切手以外にもあります。また、発行予定だった慈善切手は西ドイツマルク建ての額面加刷しての発行されています。<br><br>※西ベルリン切手がいきなり出てきましたが、西ベルリンは法的にはWWII終了後英米仏の共同管理下にありました。西ドイツに属していたわけではないので西ベルリン独自の切手が発行されました･･･といっても西ドイツと似たような切手が多いですが･･･</i><br><br><i style="font-style:italic;">※ドイツ再統一時の郵便料金(書状)は<u style="text-decoration:underline;">旧東ドイツ地域は50pf、旧西ドイツ地区は100pf</u>でした。旧東ドイツ地域の方が安い理由は東西ドイツでの経済格差もありますが、社会主義国では一般的に公共料金は安く抑えられています。ドイツ再統一前の旧東ドイツ地域の郵便料金は20pfでした。それを踏まえて時限的な特別低料金措置がとられたことで旧東ドイツ地域の郵便料金は安く設定されました。<br><br>※郵便番号は、再統一後の措置としてそのままだと東西ドイツで重複する番号が存在するために、旧西ドイツへの郵便物には「W＋4桁の数字」、旧東ドイツへの郵便物には「O＋4桁の数字」の方法で区別しました。しかし、東西の区別をなくして全ドイツで統一的な郵便番号にすることになり1993年7月1日に郵便番号は5桁の数字の番号に変更されました。</i><br><br>東ドイツ、西ベルリン、西ドイツのこの時期の郵便の変遷を辿って収集すると面白いかなと思います。たまに、このあたりの郵趣品関連品がまとまってがebayに安くでていますよ。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/85/ec/j/o0200011715774098197.jpg"><img alt="" height="117" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/85/ec/j/o0200011715774098197.jpg" width="200"></a><br>-東ドイツ国名表示(東ドイツマルク建て)最後の切手。全4種の1種です。</p><p>※国名表示はDeutsche Demokratische Republik(DDR)です。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/d7/0b/j/o0140012015774098043.jpg"><img alt="" height="120" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/d7/0b/j/o0140012015774098043.jpg" width="140"></a><br>-西ドイツマルク建ての建造物切手。全9種の1種です。</p><p>※国名表示はDeutsche Postです。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/44/22/j/o0139016515774098455.jpg"><img alt="" height="165" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/44/22/j/o0139016515774098455.jpg" width="139"></a><br>-西ベルリン最後の切手。この切手以外に慈善切手3種も同日に発行されています。</p><p>※国名表示はDeutsche Bundespost Berlinです。ちなみに西ドイツはDeutsche Bundespostです。</p><p><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/7b/4d/j/o0220013315774098594.jpg"><img alt="" height="133" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/7b/4d/j/o0220013315774098594.jpg" width="220"></a><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/0c/cb/j/o0220013215774098522.jpg"><img alt="" height="132" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260422/14/behmemmahren/0c/cb/j/o0220013215774098522.jpg" width="220"></a><br>-ドイツ再統一の切手。50pfは旧東ドイツ地域用、100pfは旧西ドイツ地域用。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12963807977.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Apr 2026 14:28:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>1947年ザルツブルク音楽祭　オーストリア/1947年</title>
<description>
<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/f2/00/j/o1779131715771682612.jpg"><img alt="" height="311" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/f2/00/j/o1779131715771682612.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#00afff;">Salzburg 23/8/47 SALZBURGER FESTSPIELE(ザルツブルク音楽祭)</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/d1/60/j/o0763051815771682709.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="149" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/d1/60/j/o0763051815771682709.jpg" width="220"></a><br><br>1947年のザルツブルク音楽祭の特印。特印の図案はザルツブルクのホーエンザルツブルク城とザルツブルク市章。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/79/11/j/o0586039515771682826.jpg"><img alt="" height="283" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/79/11/j/o0586039515771682826.jpg" width="420"></a><br>-ホーエンザルツブルク城<br><br>この葉書は絵葉書で、<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/b3/16/j/o1311177215771683230.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="365" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/b3/16/j/o1311177215771683230.jpg" width="270"></a><br><br>ザルツブルク音楽祭の記念絵葉書です。<br><br><span style="color:#0000ff;">◇郵趣としてのザルツブルク音楽祭</span><br><br>郵趣の観点からは<u style="text-decoration:underline;">特印と周年記念切手の収集</u>ですね。当ブログでは少しづつ取り上げていきます。ザルツブルク音楽祭は戦前から開催されていますが、特印も切手も戦後からです。<br><br>切手はカタログ見れば戦前のものはないのがわかるのですが、<mark style="background-color:#ffe57f;color:inherit;">特印はありそうな気がして調べたところ戦前のものはないようです。</mark></p><p>&nbsp;</p><p><mark style="background-color:#ffe57f;color:inherit;">最初の特印は1946年のものです。もし、戦前のものがあるよ～という方がいらっしゃいましたらご一報ください。</mark></p><p>&nbsp;</p><p><i style="font-style:italic;">ちなみに1946年の特印は記事を書き終えた時にドイツから到着。後日、アップします。</i></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#7cd300;">※黄色部分について、現在、引き続き調査続行中です。ある程度まとまったところで新記事としてアップします。</span><br><br><span style="color:#0000ff;">◇ザルツブルク音楽祭の簡単な歴史</span><br><br><u style="text-decoration:underline;">ザルツブルクはモーツァルトが誕生の地</u>です(これが重要)。1842年にモーツァルト音楽祭、1856年にモーツァルト生誕100年記念音楽祭が開催。1877年にウィーンフィルがウィーン以外ではじめての公演。1887年にザルツブルク音楽祭（Salzburger Musikfest）が始まり、これが現在の音楽祭の原型です。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/c3/4f/j/o0250034515771683738.jpg"><img alt="" height="345" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/c3/4f/j/o0250034515771683738.jpg" width="250"></a><br>-妻コンスタンツェによるとモーツァルトにもっともよく似た肖像画<br><br><span style="color:#000000;"><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">ザルツブルク音楽祭初期</mark></span><br><br>1917年に演出家マックス・ラインハルトが現在につながる音楽祭の実施を考て祝祭劇場協会を発足。</p><p>&nbsp;</p><p>第1回は1920年8月に開催(第1回は演劇のみ)。第2回からコンサート、第3回からオペラも上演され、その後は世界の著名な指揮者が参加する音楽祭へと発展していきます。<br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">戦間期の発展</mark><br><br>モーツァルト作品を中心に国際的評価が急上昇。ヨーロッパ文化の中心的フェスティバルへ成長します。1930年代後半頃から政治情勢の影響が強まります。<br><br><i style="font-style:italic;">1935年の音楽祭における大衆歌手コンテストで<u style="text-decoration:underline;">サウンド・オブ・ミュージック</u>で知られるトラップ家のマリアと子供達が合唱として参加して優勝。これを契機にトラップ室内聖歌隊としてヨーロッパ全域を回ってコンサート活動。のちにアメリカへ亡命してトラップ・ファミリー聖歌隊→トラップ・ファミリー合唱団と改名。なお、映画のような理由(亡命のため)で出場したわけではありません。詳しくは別の機会に。</i><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/5c/76/j/o0960072015771684468.jpg"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/14/behmemmahren/5c/76/j/o0960072015771684468.jpg" width="420"></a><br>-フェルゼンライトシューレでのコンサート<br><i style="font-style:italic;">※フェルゼンライトシューレは馬術学校裏の岩盤を利用した劇場で1926年からザルツブルク音楽祭に使用されています。サウンド・オブ・ミュージックの映画でも使用された場所ですよ～。</i><br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">ナチス時代（1938年から1944年）</mark><br><br>1938年の併合後から政治色が思いっきり強まります。音楽祭は継続されますがユダヤ人音楽家やナチに反対する音楽家は去っていきました。</p><p>&nbsp;</p><p>1940年にはナチスの干渉で「ドイツの"音楽祭"はバイロイトだけで十分だ」という上から目線の理由で「ザルツブルク、音楽と演劇の夏」という名前に。内容もいろいろと制限を受けます。<br><br>1944年の音楽祭は直前のヒトラー暗殺未遂事件や空襲の危険などが理由で計2回のコンサートと新作歌劇だけ開催して中断。<br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">戦後の再出発（1945年から1950年代）</mark><br><br>1945年はアメリカ軍政の後押しで文化復興の象徴として開催。しかし、本来の音楽祭とはほど遠いもので小規模なコンサートが開かれただけ。<u style="text-decoration:underline;">公式では1945年は中止扱いです。</u><br><br>1946年から、オーストリア本来の「文化による復興」の象徴として音楽祭を開催。この時期以降は音楽祭の再建期にあたります。<br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">国際的黄金期（1960年から1990年代）</mark><br><br>カラヤン、ベーム、バーンスタインら世界的指揮者が参加。世界最高峰の音楽祭として地位を確立されました。モーツァルト中心のレパートリーが核となりました。<br><br><mark style="background-color:#7cd300;color:inherit;">現代（2000年代～現在）</mark><br><br>歌劇・演劇・コンサートを総合した巨大フェスティバルへ。伝統と革新の両立を掲げた世界最大級のクラシック音楽祭として開催されています。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/15/behmemmahren/7d/b8/j/o0960072015771686662.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="240" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260415/15/behmemmahren/7d/b8/j/o0960072015771686662.jpg" width="320"></a><br>-祝祭大劇場外観<br><br>ザルツブルク音楽祭については立派なホームページがありますので、興味のある方は覗いて見て下さいね。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12963087367.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Apr 2026 15:11:25 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>飛行船ヒンデンブルク号のベルリンオリンピック記念飛行　ドイツ/1936年</title>
<description>
<![CDATA[ <p><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/ff/5c/j/o1786127015769550496.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="370" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/ff/5c/j/o1786127015769550496.jpg" width="520"></a><br><br><span style="color:#00afff;">BERLIN-ZENTRALFLUGHAFEN(ベルリン中央空港局) 1/8/36<br>Flug und Flug-und Luftfchiffhafe/FRANKFULT(MAIN) 1/8/36</span><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">◇ヒンデンブルク号のオリンピックスタジアム(ドイツ語：オリンピアシュタディオン)での記念飛行</span></b><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/29/54/j/o0246039415769550586.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="352" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/29/54/j/o0246039415769550586.jpg" width="220"></a><br>-ベルリンオリンピックのポスター<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/63/e4/j/o1677109215769551240.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="306" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/63/e4/j/o1677109215769551240.jpg" width="470"></a><br>-ベルリンオリンピック参加国<br><br>1936年のベルリンオリンピックで、ヒンデンブルク号は開幕日の8月1日にベルリン・オリンピアスタジアム上空を飛行。操縦室部分に五輪旗を掲げていました。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/90/9d/j/o0120012615769551290.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="242" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/90/9d/j/o0120012615769551290.jpg" width="230"></a><br>-オリンピックスタジアム上空のヒンデンブルク号<br><br>オリンピックの開会時刻は15時。ヒトラーがオリンピックの開会を宣言した後、観客で埋め尽くされたスタジアムの上空を低空飛行。<br><br>この葉書の赤紫のスタンプはオリンピック記念飛行としてヒンデンブルク号で運ばれた郵便物に押印されたものです。搭載された郵便物は10万通以上と記録されています。<br><br>飛行ルートは<span style="color:#ff0000;">フランクフルト発→ベルリンオリンピックスタジアム上を旋回→フランクフルト着の周回飛行</span>です。<br><br>ベルリン中央空港局の消印が押されていますが、飛行船はベルリンに降りてはいません。<u style="text-decoration:underline;">ベルリンに飛行場はありますが飛行船用の係留マストがないんですよね。</u><br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">◇ベルリン中央空港局の消印はなんで押されているの</span></b><br><br>それなのにベルリン中央空港局の消印が押されているのはなんででしょうか？<br><br>それは、五輪期間中にベルリン中央空港(テンペルホーフ)に臨時記念郵便局があって、飛行船に搭載したい郵便物に押された引き受け印を兼ねた記念印です。</p><p>&nbsp;</p><p>押印された郵便物はベルリン空港からフランクフルトに空輸されました(所要時間2～3時間)。<br><br>朝一でベルリンの<!--StartFragment -->ベルリン空港の臨時局<!--EndFragment -->が準備して間に合いませんよね。事前に<!--StartFragment -->郵便物の集配や仕分けは8月1日以前から準備されていたようです。<br><br>フランクフルトでヒンデンブルク号に搭載されてオリンピック記念飛行。フランクフルトに戻り、郵便物は降ろされて宛先に配送されました。<br><br>とはいえ、なんとも忙しい話ですがベルリンオリンピックにおける大事な演出(ナチス政権による航空技術の誇示とドイツ航空産業の宣伝etc)の一つなので、準備期間を含めて普通にこなしただけかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>なお、飛行船に搭載された郵便物が全てベルリン経由のルートではありません。フランクフルト発のものもあります。<br><br>ところで、ベルリンオリンピックで初めて実施されたことが、おおきく2つあります。<br><br><b style="font-weight:bold;"><span style="color:#0000ff;">◇ベルリンオリンピックから初めて実施された聖火リレーと記録映画</span></b><br><br>１つ目は<span style="color:#ff0000;">聖火リレー</span>。オリンピック発祥地であるギリシャのオリンピアで聖火を採火した松明を開会式のオリンピックスタジアムまで運ぶ聖火リレーを実施されました。</p><p>&nbsp;</p><p>聖火リレーを実施したのはプロパガンダの一環。ゲルマン民族こそがヨーロッパ文明のギリシャの後継者であるということ示したヒトラーの思想からです。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/05/a2/j/o0789055615769551768.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="296" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/05/a2/j/o0789055615769551768.jpg" width="420"></a><br>-聖火リレー</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/a5/9d/j/o1281179515769551863.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="449" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/a5/9d/j/o1281179515769551863.jpg" width="320"></a><br>-聖火リレーのルート<br><br>ベルリンオリンピックの次の東京オリンピックは中止。戦後初のオリンピックは1948年のロンドンです。ロンドンオリンピックでも聖火リレーは実施されていますが、ベルリンオリンピックと主旨が違います。<br><br><u style="text-decoration:underline;">戦後の復興と平和を象徴する大会</u>としてギリシャのオリンピアで採火されてロンドンへ運ばれました。1951年のIOC総会にて聖火リレーが公式に『オリンピック憲章』に組み込まれ平和と友情の象徴とされました。<br><br>２つ目は<span style="color:#ff0000;">記録映画</span>。女流映画監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の「オリンピア」が撮影されました。この記録映画は好評でヴェネツィア国際映画祭金賞を受賞したほど絶賛されました。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/67/09/j/o0800053215769554406.jpg"><img alt="" height="279" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260409/14/behmemmahren/67/09/j/o0800053215769554406.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>-移動カメラで撮影するリーフェンシュタール</p><p>&nbsp;</p><p>この結果を受けてIOCはオリンピック大会で組織委員会に記録映画の制作を義務づけました。<br><br>そもそも、ベルリンオリンピックの開催にヒトラーは乗り気ではなかったのですが、世界への大きなプロパガンダ効果が期待できると説得されて開催されたもの。</p><p>&nbsp;</p><p>そのようなオリンピックの中で2つ挙げたもの以外にもいくつかの試みが実施されています。思惑や思想など関係ないオリンピックがなせる不思議な業なのかもしれませんね。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12962460988.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Apr 2026 14:32:53 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>素晴らしきエーデルワイスの切手　オーストリア/1948年</title>
<description>
<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/48/6e/j/o2758126815767737882.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="285" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/48/6e/j/o2758126815767737882.jpg" width="620"></a></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#009944;">BREGENZ 15/6/48</span><br><br>貼られている花の切手は1948年5月14日発行の慈善切手でカバーにセット10種全貼のアメリカ宛航空便です。差出地のブレゲンツはオーストリア西部のボーデン湖畔の都市。ブレゲンツ音楽祭が有名です。<br><br>この時期のオーストリアは、戦後復興や社会福祉などを目的にいろいろな種類の慈善切手を発行しています。<br><br>貼られている切手は以下になります。<br><br><span style="color:#7f7fff;">10+5g　&nbsp;ニオイスミレ(Viola odorata)<br>20+10g &nbsp;ヤブイチゲ(Anemone nemorosa)<br>30+10g　クロッカス・ヴェルナリス(Crocus vernalis)<br>40+20g　プリムローズ(Primula vulgaris)<br>45+20g &nbsp;セイヨウオキナグサ(Pulsatilla vulgaris)<br>60+30g　シャクナゲ・ヒルシュタム/アルペンローゼ(Rhododendron hirsutum)<br>75+35g　イヌバラ(Rosa canina)<br>80+40g　シクラメン・プルプラセンス(Cyclamen purpurescens)<br>1s+50g　ゲンティアナ・アカウリス(Gentiana kochiana)<br>1.40s+70g　&nbsp;セイヨウウスユキソウ/エーデルワイス(Gentiana kochiana)</span><br><br>数多く発行されている花の切手の中でこのシリーズの切手はもっとも芸術性が高く気品がある切手と言われています。特に、エーデルワイスの切手は最高峰と言われています。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/c7/14/j/o0402051815767738405.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="283" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/c7/14/j/o0402051815767738405.jpg" width="220"></a><br><br>エーデルワイスの切手はヨーロッパを中心にそれなり種類の切手が発行されています(そのうち紹介しますね)が、この切手を超える切手はありません。<br><br>このシリーズの未使用切手はお手頃価格で入手可能。日本では少し難しいですが使用済みもお手頃価格。難関はFDCカバーで数はそれなりにあるはずなのですが入手難です。<br><br>戦後1948年発行なので数が多いというわけではない＋人気があるせいでしょう。実逓カバーは初日でなければそれなりにあるので入手出来ます。<br><br>ただ、このシリーズの切手は発行枚数も多くて人気があるせいか発行後だいぶ後まで使用されたました(1960年代ごろまである･･･)、なのでこのシリーズの切手を使用されたカバーや葉書が多数というかやたら見受けられます。特に、1950年代が多いですね。<br><br>アップしたカバーはFDCカバーではありませんが発行1ヶ月後使用なのでそれで満足しています。<br><br><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1em;">◇エーデルワイスについて簡単な解説</span></span><br><br>学名はLeontopodium alpinum。一般的にはエーデルワイスの名で知られていてヨーロッパでもっとも有名な高山植物です。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/4f/61/j/o0250016815767740578.jpg"><img alt="" height="168" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/4f/61/j/o0250016815767740578.jpg" width="250"></a><br><br>エーデルワイスの名前の由来はドイツ語の「edel(高貴な、気高い)＋weis(白)」。<br><br>自生地では古くから消化器及び呼吸器疾患に対する処方薬として民間療法で使用されていました。種や苗はは入手可能ですが、野生の中で自生するエーデルワイスは乱伐、家畜の食害、観光開発などで個体数は激減していると言われていて見つけるのは難しく、多くの地域で採集禁止です。見ごろは5月中旬～6月中旬です。見つかればの話ですが。<br><br>エーデルワイスの亜種は多く存在していて日本ではハヤチネウスユキソウなどが近縁種。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/e9/4a/j/o0250033315767740794.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="293" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260404/13/behmemmahren/e9/4a/j/o0250033315767740794.jpg" width="220"></a><br><br>エーデルワイスといえば映画「<span style="color:#ff007d;">サウンド･オブ･ミュージック</span>」が思い浮かぶところですが、映画の話は別の機会にしましょう。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12961928266.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Apr 2026 13:34:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>カール＝マルクス＝シュタットってどこなの？・・・ケムニッツのことです</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="color:#009944;">東ドイツで</span><span style="color:#ff7f00;">1965年に発行されたカール＝マルクス＝シュタット800周年の切手</span><span style="color:#009944;">です。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/b5/e6/j/o1929135815061032004.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="296" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/b5/e6/j/o1929135815061032004.jpg" width="420"></a><br><br><span style="color:#009944;">｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">カール＝マルクス＝シュタット(Bezirk Karl-Marx-Stadt)</span></span><span style="color:#009944;">｣は、東ドイツ時代の1953年5月10日に｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ケムニッツ(Chemnitz)</span></span><span style="color:#009944;">｣が改名された名前です。<br><br>ケムニッツはドイツの↓にあります。エルツ山地の山麓の近くに位置するドイツ連邦共和国のザクセン州の都市の独立市です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/e8/e5/p/o0188023515061032344.png"><img alt="" height="235" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/e8/e5/p/o0188023515061032344.png" width="188"></a><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/77/ef/j/o0800053315061040893.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/77/ef/j/o0800053315061040893.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－現在のケムニッツ</span><br><br><span style="color:#009944;">カール＝マルクス＝シュタットを訳すと｢カール・マルクスの都市｣の意味ですがマルクスとケムニッツは関係ありませんが、ケムニッツにはかっての街の象徴であった</span><span style="color:#ff7f00;">カール・マルクスの記念碑</span><span style="color:#009944;">が残っています。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/62/dd/j/o0800106715061032527.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="333" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/62/dd/j/o0800106715061032527.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">-カール・マルクス記念碑</span><br><br><span style="color:#009944;">それでは、なぜ、変更したかというと</span><span style="color:#ff7f00;">｢ケムニッツの労働者運動の強い伝統｣と｢戦後に荒廃したケムニッツ市内の伝統的な建物の再建の成果｣</span><span style="color:#009944;">を印象付ける政治的なプロパガンダ。<br><br>当時の東ドイツ首相だった</span><span style="color:#ff7f00;">オットー・グローテヴォール</span><span style="color:#009944;">の声明では、</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/e4/7b/j/o0758080015061033105.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="264" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/e4/7b/j/o0758080015061033105.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">－オットー・グローテヴォール</span><br><br><span style="font-style:italic;"><span style="color:#ff7f00;">ここに住む人々は振り返らず、新しくより良い未来を楽しみにしています。彼らはドイツ国民の最も偉大な息子で社会主義教義の創始者に対する愛と献身をカール・マルクスに向けています。私はここに政府の決定を果たします。私は街の名前を変更する厳粛な行為をを宣言します。これからこの都市の誇りとしてカール＝マルクス＝シュタットとします。</span></span><br><br><span style="color:#009944;">と述べています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/dc/19/j/o0220016515061037694.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="188" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/dc/19/j/o0220016515061037694.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">－カール＝マルクス＝シュタットの町の入り口の看板</span><br><br><span style="color:#009944;">東ドイツ時代に改名されたカール＝マルクス＝シュタットですが</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ドイツの再統一の流れの中であっさりとケムニッツに戻ります。</span></span><span style="color:#009944;">この時に先に写真で紹介したカール・マルクスの記念碑を取り壊すか激しく議論されています。<br><br>ソ連が経済危機に伴う国力の低下によって東ヨーロッパ諸国での影響力を弱まり1989年から市民や労働者によって共産主義政権が次々に打倒されていきます。このことを｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">東欧革命</span></span><span style="color:#009944;">｣といいます。東ドイツもその流れに呑み込まれました。<br><br>ベルリンの壁崩壊までに至る東ドイツ国内の流れは話がとっても長くなるので割愛しますね(^^;<br><br>1989年11月9日にベルリンの壁の崩壊(11月9日は国境検問所の開放。ベルリンの壁の撤去作業は翌日から始まります)。1989年12月1日に東ドイツ憲法第1条からドイツ社会主義統一党による国家の指導を定めた条項が削除されて一党独裁制が終焉を迎えます。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/82/fd/j/o0661049815061033943.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="263" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/82/fd/j/o0661049815061033943.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－ベルリンの壁の崩壊</span><br><br><span style="color:#009944;">1990年3月18日の東ドイツの自由選挙でドイツ統一を主張する保守連合｢ドイツ連合｣が勝利、5月18日に西ドイツと通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約の調印および発効。<br><br>同年8月23日に東ドイツの人民議会で西ドイツへの加盟を決議、8月31日ドイツ再統一条約の調印、そして東西ドイツの統一へと進みます。ちなみに</span><span style="color:#ff7f00;">法律的には東ドイツの全州が西ドイツに加盟したとするのが正しい考え方</span><span style="color:#009944;">だそうです。<br><br>その流れの中の一つとして、</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">1990年4月23日に市の将来の名前に関する国民投票が行われ有権者の76%が旧名ケムニッツに投票。1990年6月1日をもって正式に｢ケムニッツ｣に戻りました。</span></span><br><br><span style="color:#0000ff;">ここでいきなり問題です。<br><br>チェコスロバキアでも1989年11月共産政権が打倒されました。革命の過程で大きな流血に至るような事態が起こらずに穏やかに革命が進んだことから｢軽く柔らかい生地(←ヒント)｣に例えて｢〇〇〇〇革命｣と呼ばれています。〇に入る文字はなんでしょうか？。</span><br><br><span style="color:#009944;"><span style="font-weight:bold;">ケムニッツ800周年の切手なので、ケムニッツの歴史に簡単につまんでみますね</span>。<br><br>11世紀ごろまではケムニッツは未開拓の地でした。1136年に神聖ローマ皇帝ロタール3世がケムニッツ近郊にベネディクト会修道院を設立して町がゆっくりと形成されていきました。</span><br><br><span style="color:#ff7f00;">1170年頃に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王/バルバロッサ)によって町の権利が与えられました。ケムニッツ800周年の切手はこのあたり数えてということでしょうね。</span><br><br><span style="color:#009944;">13世紀に入るとケムニッツは交易のための商業拠点として発展を遂げます。14世紀に繊維産業の中心的な地位を得て大きな町へと発展。<br><br>17世紀に三十年戦争で市の人口は4分の1未満に減少するという壊滅的な打撃を受けましたが繊維産業で再興を遂げます。<br><br>かなり飛ばして、19世紀にケムニッツはドイツで最も重要な工業都市の1つに発展してドイツの機械工学の中心地となり世界でも指折りの都市に発展しました。<br><br>第一次世界大戦のころまでに博物館、オペラハウス、新市庁舎、劇場広場などの文化施設や行政施設などケムニッツを代表する建物が建てられました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/eb/9c/j/o0800058715061035476.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="257" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/eb/9c/j/o0800058715061035476.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－1910年頃のケムニッツ</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/81/d7/j/o0800053315061039171.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/81/d7/j/o0800053315061039171.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－1910年代に作られた劇場(第二次大戦の空襲で破壊されました)</span><br><br><font color="#009944">1920年代に新しいスタイルの住宅団地やさまざな施設がの建設が進み、1930年代に入ると自動車産業が活発になります。ナチス政権下では軍需産業も盛んになります。</font><br><br><font color="#009944">第二次世界大戦中にケムニッツは連合軍の空襲の標的となります。最初の空襲は1940年で1944年から1945年には頻繁に空襲を受けました。</font><br><br><font color="#009944">特に1945年2月6日から4月11日まで米英軍による激しい空襲では27,000の住宅(アパート)、167の工場、84の公共の建物、市内の多数の文化的建造物が完全に破壊されました(市内中心部では80%が壊滅)。</font></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/a1/b5/j/o0792052815061034782.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/a1/b5/j/o0792052815061034782.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－空襲を受けたケムニッツ</span><br><br><span style="color:#009944;">特に3月6日の空襲では3700名の死者を出し、行方不明者や負傷者は数が不明と言われています。連合軍から｢死んだ都市｣と言われました。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/85/be/j/o0800060015061037087.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="263" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/85/be/j/o0800060015061037087.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－ケムニッツ空襲の慰霊碑</span><br><br><span style="color:#009944;">戦後はソビエト軍の占領下におかれます。東ドイツ建国は1949年、東ドイツの政権下で古いケムニッツの重要な文化的な建物が復元されました(後に経済政策によって取り残される結果となります)。<br><br>ケムニッツの本格的な再建は計画の遅延などありましたが、市内中心部では新たな計画の下で大規模な建設工事を行われ、住宅や行政の建物に加えて中央駅やバスステーションなどのインフラ施設も整備されました。再建作業は1970年代まで行われています。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/d9/ef/j/o0800058515061038379.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="256" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/d9/ef/j/o0800058515061038379.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－1970年後半の街並み</span><br><br><span style="color:#009944;">ケムニッツの工業分野も復活を遂げて東ドイツの工業生産の20％を請け負うまで復興しました。工業分野の復興は社会主義国家における国策の一つでしたがケムニッツの再建が進んだことは確かなことです。<br><br>東西ドイツ統一後は、東ドイツ下での技術力を生かす形で1995年以降ケムニッツに7000社以上の新会社が設立されています。現在でも自動車およびそのサプライヤー産業、情報技術分野、機械工学、金属加工などはケムニッツの重要な産業の一つとなっています。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/af/fc/j/o0800060015061039871.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="263" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/af/fc/j/o0800060015061039871.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－ケムニッツにあるフォルクスワーゲン社</span><br><br><span style="color:#009944;">また、工業一辺倒から様変わりして、文化及び芸術面で博物館、美術館、オペラハウス、図書館などが再建や新設され、街の中心部には多くのショップや巨大なショッピングセンターなどが作られました。ドイツの中でも指折りの経済活動が活発な都市となっています。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/26/b3/j/o0800053315061040496.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/26/b3/j/o0800053315061040496.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－ケムニッツ中心部/右側の高いビルはケムニッツで最も高い建物であるメルキュールホテル</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/11/behmemmahren/0a/6e/j/o0800053315061044601.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/11/behmemmahren/0a/6e/j/o0800053315061044601.jpg" width="350"></a><br>－オペラハウス</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/11/behmemmahren/64/ff/j/o0800053315061044876.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/11/behmemmahren/64/ff/j/o0800053315061044876.jpg" width="350"></a></p><p>－ケムニッツも市庁舎(旧市庁舎と新市庁舎)</p><p><br><span style="color:#0000ff;">ところで、問題の答えはわかりましたか？。｢ビロード革命｣でした。ビロード革命のその後を少しだけ。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/eb/b6/j/o0726040115061042077.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="193" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220114/10/behmemmahren/eb/b6/j/o0726040115061042077.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－デモを行うチェコスロバキア市民</span><br><br><span style="color:#0000ff;">チェコスロバキアはチェコ人の｢チェコ｣とスロバキア人の｢スロバキア｣の連邦国家です。共産主義政権打倒後にチコスロバキアを単一国家とみなすチェコ側とチェコとスロバキアを対等な連合国家とみなすスロバキア側の認識の相違が表面化して対立することになります。<br><br>1992年の連邦議会総選挙後に｢チェコ｣地域と｢スロバキア｣地域でそれぞれの民族の率いる政党が第一党になったことから連邦解消をめぐる議論が活発になります。<br><br>それぞれの党のトップの会談を経て1993年1月1日にチェコ共和国とスロバキア共和国に平和的に分離しました。これを｢チェコスロバキア解散もしくは分離｣というのですが、ビロード革命になぞらえて｢ビロード離婚｣と言われることがあります。</span><br><br><span style="color:#a68500;">最後に雑学のお時間です。ビロードはポルトガル語です。英語では｢ベルベット｣、フランス語だと｢ベロア｣、和名は｢天鵞絨(てんがじゅう)｣です。天鵞絨って聞いたことありますか？。<br><br>日本にビロードがはいってきたのはポルトガルからで16世紀頃。天鵞は白鳥のことで伝来した当初は絹製の白い生地だったことから天鵞絨と言われました。</span></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12721223521.html</link>
<pubDate>Fri, 14 Jan 2022 11:08:50 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>アントワーヌ･ペーヌ・・・フランス生まれでドイツで活躍したロココ美術の代表的な画家</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="color:#ff7f00;"><span style="font-weight:bold;">西ベルリンで1983年に発行されたアントワーヌ･ペーヌ生誕300年</span></span><span style="color:#009944;">の切手です。外国切手は人物切手が多く発行されていて、｢どちらさまでしょうか？｣という切手によくぶつかります。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/85/0a/j/o1943114015053187033.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="292" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/85/0a/j/o1943114015053187033.jpg" width="500"></a><br><br><span style="color:#009944;">アントワーヌ･ペーヌの話の前に｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">西ベルリン</span></span><span style="color:#009944;">｣の話を少し。</span><br><br><span style="color:#ff7f00;">西ベルリン</span><span style="color:#009944;">は、第二次世界大戦終戦後</span><span style="color:#ff7f00;">1949年から1990年まで｢アメリカ・イギリス・フランス｣が占領したベルリン西部の地域</span><span style="color:#009944;">のこと。周りを東ドイツに囲まれていたので｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">赤い海(共産主義諸国)に浮かぶ自由の島</span></span><span style="color:#009944;">｣と言われていました。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/30/37/p/o0800094715053200769.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="296" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/30/37/p/o0800094715053200769.png" width="250"></a><br><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#000000;">－黄色が西ドイツ、赤色が西ベルリン</span></span><br><br><span style="color:#009944;">西ベルリンは外交と行政などを</span><span style="color:#ff7f00;">ドイツ連邦共和国(西ドイツ)政府が代行</span><span style="color:#009944;">するという協定を結んでいたので実質的には</span><span style="color:#ff7f00;">西ドイツの飛び地</span><span style="color:#009944;">です。西ベルリンをめぐるさまざまな出来事や立ち位置などなど話は尽きないのですが別の機会に。<br><br>さて、話を戻しましょう。｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">アントワーヌ･ペーヌ(Antoine Pesne)/1683年5月23日-1757年8月5日</span></span><span style="color:#009944;">｣をご存知ですか？。<br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/d6/f5/j/o0467060015053187737.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="322" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/d6/f5/j/o0467060015053187737.jpg" width="250"></a></span><br><span style="color:#000000;">－アントワーヌ･ペーヌ</span><br><br><span style="color:#009944;">ペーヌが生まれたのは日本だと江戸時代のころ、｢天和の大火｣が発生した年です。</span><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ペーヌはフランスのパリ生まれの画家</span></span><span style="color:#009944;">です。なぜ、ドイツで切手が発行されたかってなりますよすね。手っ取り早くいうとタイトル通りでございます。<br><br>ペーヌは肖像画画家であった父親と叔父のルイ14世の宮廷画家で｢王立絵画彫刻アカデミー｣の会員であった｢シャルル・ド・ラ・フォッス｣に絵を学びます。<br><br>シャルル・ド・ラ・フォッスは現在もあるフランスの高等美術学校｢エコール・デ・ボザール｣の教授も勤めています。歴史を感じますね。<br><br>アカデミーの奨学制度で1705年から1710年の間はイタリアに留学。ローマで静物画家デュブイソンの娘と結婚。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/49/67/j/o0800095815053193224.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="299" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/49/67/j/o0800095815053193224.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">－ペーヌと娘たち</span><br><br><span style="color:#009944;">1710年にペーヌはプロイセン王国の｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">フリードリヒ1世</span></span><span style="color:#009944;">｣に招かれベルリンに移ります。フリードリヒ1世はヴェネツィアでペーヌの描いた貴族の絵を見て気に入って招いたと言われています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/d3/9d/j/o0800100015053188661.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="311" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/d3/9d/j/o0800100015053188661.jpg" width="250"></a></p><p>－フリードリヒ1世</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">1711年にプロイセン王国の宮廷画家に。</span></span><span style="color:#009944;">日本で言うと御用絵師(お抱えの絵師)という感じですね。</span><br><br><span style="color:#0000ff;">ここでいきなり問題です。<br><br>日本で御用絵師が制度として始まったのは江戸時代からですが、それ以前に｢洛中洛外図屏風｣や｢檜図屏風｣で知られる｢狩野永徳｣を庇護した有名な戦国大名と言えば誰と誰でしょうか。</span><br><br><span style="color:#009944;">1713年にフリードリヒ1世が死去後も宮廷画家は続けました。ただ、次国王｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">フリードリヒ・ヴィルヘルム1世</span></span><span style="color:#009944;">｣は財政や軍制の改革によってプロイセンの強大化に努めた｢兵隊王(軍人王)｣と言われ芸術には無関心だったとか。報酬は半分に減らされたそうです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/c0/48/j/o0800101415053190530.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="317" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/c0/48/j/o0800101415053190530.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">－フリードリヒ・ヴィルヘルム1世</span><br><br><span style="color:#009944;">1715年にデッサウの宮廷、1718年にザクセン選帝侯領のドレスデン宮廷で働き、この間</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">パリの王立絵画彫刻アカデミー会員</span></span><span style="color:#009944;">となっています。1722年には</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ベルリンの美術アカデミーの校長</span></span><span style="color:#009944;">に任じらます。<br><br>1736年から1740年の間は芸術に関心のある皇太子｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">フリードリヒ2世</span></span><span style="color:#009944;">｣のラインスベルク城に滞在。多くの肖像画を残しました。また、宮殿の装飾画も描いています。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/d6/ae/j/o0134017015053189455.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="317" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/d6/ae/j/o0134017015053189455.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">－フリードリヒ2世</span><br><br><span style="color:#009944;">1740年にフリードリヒ2世が国王になった後はベルリンに土地と邸を建てる資材が与えられて亡くなるまでベルリンに在住しました。</span><br><br><span style="color:#ff7f00;">ここまで国王の肖像画を載せていますが、すべてペーヌの作品です。</span><br><br><span style="color:#009944;">ペーヌの残した肖像画は高く評価されています。また、当時の女優やダンサーの肖像画、宮殿や教会の装飾画など多くの素晴らしい作品も残し、美術史に名を残した</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ロココ美術を代表した画家</span></span><span style="color:#009944;">の一人でした。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/ad/7e/j/o0800127415053191126.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="398" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211229/09/behmemmahren/ad/7e/j/o0800127415053191126.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">－バレリーナ</span><br><br><span style="color:#0000ff;">問題の答えは｢織田信長｣と｢豊臣秀吉｣でした。簡単な問題を出すなって怒られそうですね(^^;。</span></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12718206032.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Dec 2021 09:41:01 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>宗教寛容令ってなに・・・ついでに神聖ローマ帝国の啓蒙専制君主ヨーゼフ2世についてサラッと</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="color:#009944;">オーストリアで1981年に発宗教寛容令200周年を記念して発行されたものです。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/9a/c3/j/o1779126315048403087.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="284" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/9a/c3/j/o1779126315048403087.jpg" width="400"></a><br><br><span style="color:#009944;">最初に｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">宗教寛容令</span></span><span style="color:#009944;">｣とはなんでしょうか？。<br><br>｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">特定の宗教もしくは宗派｣について時の君主や政府が｢信教の自由を保証します｣と発令したものです。</span></span><br><br><span style="color:#009944;">だからといって時の君主や政府が特定の宗教もしくは宗派に改宗するということではありません。国として認めてあげますよもしくは黙認しますねということ。<br><br>歴史を紐解くとヨーロッパで発令されたものが多いです。その中で今回はオーストリアの宗教寛容令をみていきますね。</span><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">オーストリアの宗教寛容令は｢1781年10月13日｣に発出されたものです。</span></span><br><br><span style="color:#009944;">当時のオーストリアは｢神聖ローマ帝国｣で国として宗教は</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">カトリック</span></span><span style="color:#009944;">です。帝国内で</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">カトリック以外のキリスト教の他宗派である｢ルター派、カルヴァン派、セルビア正教｣の信教の自由</span></span><span style="color:#009944;">を認めました。いまままで禁止されていた教会の建設、経済活動、教育の制限も撤廃などなどです。</span><br><br><span style="color:#0000ff;">｢ルター派、カルヴァン派、セルビア正教｣ってなに？というかたは文末の｢おまけ１｣をみてくださいね。</span><br><br><span style="color:#009944;">1782年1月2日に</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">2回目の宗教寛容令(ユダヤの寛容に関する布令)</span></span><span style="color:#009944;">が出されています。これはユダヤ人に対するもので</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ユダヤ教まで拡大するとともにユダヤ人に課されていた｢職業制限、服装制限、特別税、移住制限など</span></span><span style="color:#009944;">の法規制｣を撤廃しています。<br><br>この宗教寛容令を発布したのは、当時の</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">神聖ローマ帝国</span></span><span style="color:#009944;">で前皇帝であるフランツ１世の跡を継いだローマ皇帝</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">｢ヨーゼフ2世(Joseph II)</span></span><span style="color:#009944;">｣。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/5a/3a/j/o0627072315048404052.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="289" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/5a/3a/j/o0627072315048404052.jpg" width="250"></a><br><span style="color:#000000;">－ヨ－ぜフ2世</span><br><br><span style="color:#009944;">神聖ローマ帝国は中央ヨーロッパに位置した現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部に位置した大きな国家です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/10/behmemmahren/fa/1c/g/o0687057915048408202.gif"><img alt="" contenteditable="inherit" height="252" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/10/behmemmahren/fa/1c/g/o0687057915048408202.gif" width="300"></a><br><span style="color:#000000;">－神聖ローマ帝国の変遷</span><br><br><span style="color:#009944;">フランツ１世の帝妃でありヨーゼフ2世の母が有名な｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">マリア・テレジア</span></span><span style="color:#009944;">｣です。マリア・テレジアは非常に多くの子供をもうけたのですが、息女が多かったこともあり長男のヨーゼフ2世はマリア・テレジアに非常に愛されていたそうです。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/fc/6b/j/o0800099115048404611.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="310" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/fc/6b/j/o0800099115048404611.jpg" width="250"></a></p><p>－マリア・テレジア<br><br><font color="#009944">そうそう、ヨーゼフ2世の妹の一人にあの｢<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">マリー・アントワネット</span></span>｣がいます。</font></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/ba/ad/j/o0800114115048405264.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="397" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/09/behmemmahren/ba/ad/j/o0800114115048405264.jpg" width="280"></a><br>－マリー・アントワネット<br><br><span style="color:#0000ff;">ここで突然問題です。<br><br>マリー・アントワネットが嫁いだフランス国王は誰？。<br><br>いや～、簡単な問題ですね。え！、マリー・アントワネットって誰だって・・・｢ベルサイユのばら｣ですよ！</span><br><br><font color="#009944">フランツ１世は政治に関心が薄いということと母親からみて息子のヨーゼフ2世に政治を任せれられないということで、フランツ1世の時代からヨーゼフ2世の時代はマリア・テレジアと共同統治(1740年から1780年)だったんですよね。</font><br><br><font color="#009944">マリア・テレジアは内政や外交において積極的に改革に取り組みました。その息子であるヨーゼフ2世もマリア・テレジアの影響を強く受けました。</font><br><br><font color="#009944">さらに、ヨーゼフ2世は｢<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">啓蒙思想</span></span>｣の影響を強く受けていました。このことをマリア・テレジアはこころよく思ってなっかたとか。</font><br><br><span style="color:#0000ff;">｢啓蒙思想｣ってなに？というかたは文末のおまけ２をみてくださいね。</span><br><br><font color="#009944">ヨーゼフ2世は、啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうとした代表的な｢<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">啓蒙専制君主</span></span>｣との一人に数えられています</font><br><br><font color="#009944">絶対主義の皇帝はとても強い権力を持っています。<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">啓蒙専制君主とはその権力で上から啓蒙思想的な改革を行っていこうとした君主</span></span>のことです。</font><br><br><font color="#009944">ヨーゼフ2世が改革を押し勧めたのは母マリア・テレジアの影響ですが、積極的に推進したのはおもにマリア・テレジアの死後です。</font></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#009944">これは、マリア･テレジアの存命中に強い改革を推し進めようするとマリア・テレジアと衝突する結果となって思うようできなかったんですよね。</font><br><br><font color="#009944">その中の改革の一つが｢<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">宗教寛容令</span></span>｣です。当時としてはかなり急進的な考え方でした。急進的な改革ゆえの<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">強い反発</span></span>がありましたが<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">プロテスタントやユダヤ人の商工業者の活動が保証されたことから商工業の発展に寄与した形</span></span>になりました。</font></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/10/behmemmahren/d3/f3/j/o0200028315048410766.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="425" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/10/behmemmahren/d3/f3/j/o0200028315048410766.jpg" width="300"></a><br>－宗教寛容令の発布文<br><br><font color="#009944">また、ヨーゼフ2世はカトリック教会を瞑想的な宗教組織で社会にまったく貢献していないと考えて<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">カトリック組織に関する改革</span></span>も打ち出しました。</font><br><br><font color="#009944">具体的には、オーストリアの聖職者がローマ教皇庁と直接接触することの禁止、教育や病人看護をしないの教団や修道院の解散させその財産は国が没収、聖職者の教育についても教会から取り上げて6つの国立の神学校を設立などなども行いました。面白いのは婚姻特許で婚姻は宗教制度ではなく個人間の契約であると規定しています。</font><br><br><font color="#009944">宗教寛容令とカトリックの改革はカトリックを否定したということではありません。<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">狙いはカトリック勢力の弱体化とローマ教皇から切り離しです。そして皇帝は帝国内の全国民の保護者であるという姿勢を打ち出し主権国家の構築を目指しました。</span></span></font><br><br><font color="#009944">宗教関連以外には、</font><br><br><font color="#009944">当時として画期的な<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">農奴解放令</span></span>。領主貴族の支配下にあった農奴を開放することで国による農民もしくは農地の直接支配、行政と司法の改革及び貴族の特権の一部を廃止。</font><br><br><font color="#009944">そのほかに、新聞検閲の大幅な削減と検閲の権限を地方政府から取り上げて帝国に集権、皇室の領地であったプラーター公園を一般市民に開放、多数の小学校の建築、ウィーン総合病院を開設するなども行っています。</font><br><br><font color="#009944"><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">旧来の権力や権威を持つカトリック勢力や貴族勢力を弱体化させて王権を強化する共に商工業を発達させ国を富ませる→富国強兵ということですね。</span></span>これらをまとめて｢<span style="color:#ff7f00;"><span style="font-weight:bold;">ヨーゼフ主義</span></span>｣といいいます。</font><br><br><font color="#009944">啓蒙思想に基づいた急進的な改革だったために現実とかけ離れているところや細かいところまでくみ取れていないこと、旧来の保守的な勢力の反発が強くて権力や権威を削られたカトリック教会や貴族による激しい抵抗、扇動された民衆の暴動や抗議活動が起き、ヨーゼフ2世はいくつかの政策を撤回せざるおえませんでした。</font><br><br><font color="#009944">ヨーゼフ2世の跡を継いだ弟の<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">レオポルト2世</span></span>は、国内の混乱を鎮めるためにヨーゼフ2世の改革の多くを取り消す反動政治を行いました。<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ただ、宗教寛容令だけは撤廃しませんでした。</span></span>その上で各地方からの要求に柔軟かつ敏感にうまく対応して帝国の統一維持に成功しています。</font><br><br><font color="#009944">最後に、問題の答えは｢<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ルイ16世</span></span>｣でした。</font></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/10/behmemmahren/12/51/j/o0800111615048409984.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="348" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211219/10/behmemmahren/12/51/j/o0800111615048409984.jpg" width="250"></a><br>－ルイ16世<br><br><font color="#009944">ルイ16世について書き始めると終わらないのでここでやめておきますね～。</font><br><br><span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">◇おまけ１<br><br>10秒でなんとなくわかった気になる超簡単な｢ルター派、カルヴァン派、セルビア正教｣のお話し</span><br><br>・ルター派<br>→マルティン・ルターによりドイツに始まったキリスト教の教派。プロテスタントの一派です。<br><br>・カルヴァン派<br>→宗教改革の思想家ジャン・カルヴァンにちなんで名付けられた神の主権を強調する神学体系とクリスチャン生活の実践する教派。プロテスタントの一派です。<br><br>・セルビア正教<br>→セルビア人の間で信仰されている正教会の一派。正教会とはギリシャ正教や東方正教会などとも呼ばれるキリスト教の教派。<br><br>わかりずらいですよね。超簡単な補足です。超大雑把に書いたので細かく突っ込んではいけません。<br><br>ローマ法皇を最高指導者とするのがカトリック(西方教会)、西方教会に含まれますがカトリック協会から宗教改革などで分離した福音主義(ふくいんしゅぎ)を理念とするのがプロテスタント、西方教会に対しておもにスラヴ民族の間で発展していったのが東方正教会(東方教会)。<br><br><span style="font-weight:bold;">◇おまけ２<br><br>10秒でなんとなくわかった気になる超簡単な｢啓蒙思想｣のお話し</span><br><br>啓蒙思想とは何かというと真正面から説明してもとってもわかりずらく、話が多岐に及ぶので簡単に言うと、<br><br>｢あらゆる人間が共通に持っている理性を第一として物事をとらえその普遍性を考えて今までの思想、習慣、制度などで合理的でないものを考え直して実践していこうという考え方｣<br><br>もっと簡単に、<br><br>｢今までなんとなく受け入れてきたさまざまな思想、習慣、制度などを見直して理性に従って合理的に考えていくこと｣<br><br>さらに簡単に<br><br>｢物事を合理的かつ科学的にとらえて考えていこう｣→｢合理的ではない思想、習慣、制度を考え直してみよう｣<br><br>ということです。</span></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12716453210.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Dec 2021 10:15:58 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ドイツのヘルゴランドって知ってますか？　日本ではあまり知られていないドイツのリゾート地です・・・</title>
<description>
<![CDATA[ <p><span style="color:#8f20ff;">↓は西ドイツで1972年に発行された｢観光シリーズ｣のひとつとして｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f7f;">ヘルゴランド</span></span><span style="color:#8f20ff;">｣を紹介した切手です。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/08/b0/j/o1977115415043875621.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="234" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/08/b0/j/o1977115415043875621.jpg" width="400"></a><br><br><span style="font-size:1.4em;"><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f7f;">ヘルゴランド(Helgoland)</span><span style="color:#8f20ff;">は、エルベ川河口から北西約69キロ沖合いに位置する北海にある2つの島です。</span></span></span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/4d/b8/p/o0800094815043876357.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="414" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/4d/b8/p/o0800094815043876357.png" width="350"></a></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;"><span style="color:#8f20ff;">約1平方キロメートル</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f7f;">本島(ハウプティンセル/Hauptinsel)</span></span><span style="color:#8f20ff;">とその東側に位置する開く0.7平方キロメートル</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f7f;">砂丘(デュネ/Dune)</span></span><span style="color:#8f20ff;">によって構成されています。ドイツ本土から船で約2時間。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/5c/4f/j/o0250016215043876566.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="227" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/5c/4f/j/o0250016215043876566.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－ヘルゴランド全景。手間が本島、奥がデュネです。</span><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f7f;">ヘルゴランドというと一般的には本島を指します。</span></span><span style="color:#8f20ff;">島は</span><span style="color:#ff7f7f;">赤色の岩盤の崖</span><span style="color:#8f20ff;">に覆われ一番高い地点は海抜61m、人口は1339人(2020年統計)です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/ab/79/j/o1286014515043877237.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="90" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/ab/79/j/o1286014515043877237.jpg" width="800"></a></p><p><span style="color:#000000;">－赤色の岩盤に覆われた本島</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#8f20ff;">ヘルゴランドには少数民族である</span><span style="color:#ff7f7f;"><span style="font-weight:bold;">フリース人</span></span><span style="color:#8f20ff;">が居住しています。フリース人って誰？だと思いますが、オランダとドイツの北海沿岸のフリースラントに居住していた体格ががっちりして背が高く薄い金髪が特徴の民族のこと。<br><br>デュネに定住者はいませんが</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f7f;">ヘルゴランドデュネ飛行場</span></span><span style="color:#8f20ff;">があります。本島とデュネ間はフェリーで結ばれています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/62/6c/j/o0800053315043878274.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/62/6c/j/o0800053315043878274.jpg" width="350"></a></p><p><span style="color:#000000;">－ヘルゴランドデュネ飛行場</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#8f20ff;">ヘルゴランドデュネ飛行場にはドイツ本土からドイツ東フリジア航空が小型飛行機で定期便とチャーター便が運行しています(定員8名/1日4便/所要時間約20分)。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/77/be/j/o0800053415043878520.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/77/be/j/o0800053415043878520.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－ヘルゴランドへの定期便の飛行機</span><br><br><span style="color:#ff7f7f;">2つの島は1720年までは砂州で陸続きで一つの島</span><span style="color:#8f20ff;">でしたが暴風雨によって破壊されてしまい分断されました。2011年に本島とデュネを埋め立てて繋げようという提案がありましたが却下されています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/30/a3/j/o0800058915043878945.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="258" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/30/a3/j/o0800058915043878945.jpg" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－陸続きだったころの1625年頃の地図</span></p><p><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/2a/81/p/o0800054515043888891.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="238" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/2a/81/p/o0800054515043888891.png" width="350"></a><br><span style="color:#000000;">－現在のヘルゴランド</span><br><br><span style="color:#8f20ff;">ヘルゴランドには北と南に小さなビーチがあり、</span><span style="color:#ff7f00;">独立した岩柱である｢</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f7f;">ランゲアンナ</span></span><span style="color:#ff7f00;">｣が有名</span><span style="color:#8f20ff;">です。天然記念物に指定されています。登攀しようとしたら警察行きですよ。</span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/59/23/j/o1024049315043879680.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="169" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/59/23/j/o1024049315043879680.jpg" width="350"></a></p><p><span style="color:#000000;">－ランゲアンナ</span><br><br><font color="#8f20ff">ヘルゴランドは北海を横断する鳥のための主要な移動ルートにあたり、1991年には<span style="color:#ff7f7f;">ヘルゴランド鳥類観測所</span>が開設されて鳥の｢<span style="color:#ff7f7f;">バンディング研究</span>(野生の鳥の脚や翼に小さな個別に番号付きの金属またはプラスチックタグを付けて鳥の動きを観察する)｣を通じて鳥の移動について研究が行われています。</font><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#009944;">ここでいきなり問題です。<br><br>ヘルゴランドは↓の鳥の繁殖地としても知られています。この鳥の名前は何？。一発でわかる方はスゴイと思います。もちろん、わたしはわかりませんでした・・・(^^ゞ</span></span><br><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/90/ec/j/o0800053315043882194.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/16/behmemmahren/90/ec/j/o0800053315043882194.jpg" width="350"></a><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#009944;">難しいと思うのでヒントを｢シロ〇〇〇ドリ｣です。〇〇〇には魚の名前が入ります。この魚の都道府県別漁獲量(2019年)の1位は静岡県、この魚で有名な高知県は5位。これでわかりますよね。</span></span><br><br><span style="font-size:1.4em;"><font color="#8f20ff"><span style="font-weight:bold;">ヘリゴランドはリゾート地として親しまれいて、ゆっくり歩いて2時間程度で島を1周できます。</span></font></span></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#8f20ff">ヘルゴランドでは<span style="color:#ff7f00;"><span style="font-weight:bold;">消防車、救急車、パトカー以外の自動車及び自転車の使用は禁止</span></span>されています。唯一の例外としてヘルゴランドデュネ飛行場とフェリー乗り場を結ぶタクシーがあります。</font><br><br><font color="#8f20ff"><span style="color:#ff7f00;">EUの付加価値税(VAT)</span>や<span style="color:#ff7f00;">欧州連合関税同盟(EUCU)</span>の除外地域の<span style="font-size:1em;"><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">免税地区</span></span></span>として知られていて、｢<span style="color:#ff7f00;">たばこ、アルコール飲料、香水</span>｣などが免税品として扱われて島の経済を支えています。また、漁港もあり<span style="color:#ff7f00;">ロブスター</span>が名物だそうです。</font><br><br><font color="#8f20ff">なお、<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">シェンゲン協定の適用除外地域</span></span>でもあります。シェンゲン協定とはヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定のことですよ。</font><br><br><span style="font-size:1.4em;"><span style="font-weight:bold;"><font color="#8f20ff">ヘルゴランドのが歴史をめちゃめちゃ超簡単にみていきましょう。</font></span></span><br><br><font color="#8f20ff">ヘルゴランドは先史時代のころから人間が居住していました。発掘調査や島周辺の海底から火打ち石や銅皿などの遺物が発見されています。</font><br><br><font color="#8f20ff">ヘルゴランドが歴史に出てくるのは697年にフランク王国のピピン2世に敗れたフリジア王国の王ラッドボッドがヘルゴランドへ後退した辺りからです。</font><br><br><font color="#8f20ff">そのあと、大まかにいうと<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">デンマーク→シュレースヴィヒ＝ホルシュタイン公国→デンマーク→イギリス</span>と</span>ヘルゴランドの領有国が変わります。この間の歴史は非常に興味深いのですがパスします。</font></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/12/c7/j/o0154017415043883434.jpg"><img alt="" height="174" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/12/c7/j/o0154017415043883434.jpg" width="154"></a></p><p>－イギリス領時期の切手<br><br><font color="#8f20ff">1820年代からヘルゴランドは海岸のスパとしてヨーロッパの上流階級の人気の観光地になります。また、<span style="color:#ff7f00;">ハインリッヒ・ハイネ、アウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンなど比較的リベラルな雰囲気のアーティストや作家</span>が集まりました。1830年代と1848年のドイツ革命の革命家のための避難所にもなりました。</font><br><br><span style="color:#ff7f00;"><span style="font-weight:bold;">ドイツ領となったのは、1890年のヘルゴランド＝ザンジバル条約です。</span></span><br><br><font color="#8f20ff"><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ヘルゴランド＝ザンジバル条約</span></span>は、当時のイギリス帝国とドイツ帝国の間で結ばれた条約です。<span style="color:#ff7f00;">アフリカにおける両国の権益を認め合うための条約</span>でヘルゴランドはその条約の一部としてドイツ領になりました。</font><br><br><font color="#8f20ff">ドイツ領となり、ドイツは島を海軍根拠地として要塞化しました。第一次世界大戦時には島民は本土に避難して戦後になって島民は帰還しています。同時に軍事施設は撤去されました。</font><br><br><font color="#8f20ff">ナチス政権下では再びヘルゴランドはドイツ海軍の軍事拠点のひとつになり武装化しました。ただし、島民は避難していません。軍事拠点ということから連合軍による爆撃をたびたび受けました。</font><br><br><font color="#8f20ff">その中でも1945年4月18日に行われた<span style="color:#ff7f00;">ランカスター617機、ハリファックス322機、モスキート20機の約1000機の爆撃で海軍基地、飛行場、村は壊滅的な打撃をうけ、ドイツ軍を含めて島民は島から撤退及び避難してほぼ無人島</span>になります。</font><br><br><font color="#8f20ff">1945年から1952年にかけてはイギリスが占領、イギリス軍の爆撃訓練場として使用されます。<span style="color:#ff7f00;">特筆すべきは、1947年にイギリス海軍は島に残された旧ドイツ軍の防御設備を一挙に片付けようとヘルゴラント島全体を破壊を試みました(ブリティッシュ・バン計画)</span>。</font><br><br><font color="#8f20ff">この計画では、第二次世界大戦で余剰した4,061t(一説では6,800t)の弾薬が島の各所に配置され爆破されました。防御設備の大部分は破壊されたましたが島自体は残りました。</font><br><br><span style="font-size:1.4em;"><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">1952年にドイツ連邦共和国(当時の西ドイツ)に返還されてかつての島民は帰還を許可されました。島は修復されて現在の観光地となりました。</span></span></span><br><br><font color="#8f20ff">第二次世界大戦時の爆撃や戦後の｢ブリティッシュ・バン計画｣で島は破壊尽くされ、<span style="color:#ff7f00;">古い時期の建物は残されていない</span>のが残念なところです。</font></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/81/e2/j/o0800059615043886156.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="297" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/81/e2/j/o0800059615043886156.jpg" width="400"></a><br>－1900年頃のヘルゴランドの風景</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/6b/6d/j/o1024053315043886794.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="313" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20211209/17/behmemmahren/6b/6d/j/o1024053315043886794.jpg" width="600"></a><br>－現在のヘルゴランドの風景<br><br><font color="#8f20ff">コロナの影響で簡単に海外旅行に行けませんが、コロナが落ち着きドイツを訪れる機会がある時に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。</font></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff7f00;">ただ、この記事を書いた時点の情報ではコロナの影響でヘルゴランドは入島制限がかかっているようです。</span></span><br><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#009944;">さてさて、問題の答えは｢シロカツオドリ｣でした。<br><br>高知県は｢カツオ｣で有名なのに5位は意外ですね。漁獲量の順位は｢1位静岡、2位宮城、3位東京、4位三重、5位高知｣です。<br><br>3位の東京はおもに八丈島、三宅島なんどの島嶼地域から水揚げです。高知は漁獲量こそ5位ですが、カツオの購入金額や購入量は全国1位。さすがです。<br><br>カツオの薬味というと生姜ですよね。高知県は生姜の生産量全国1位です。わたしも高知県の生姜を愛用しています。生姜って産地によって辛さや味が違うの知ってましたか？。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#009944;">いろいろと試しましたが<span style="text-decoration:underline;">高知県の生姜が辛さが際立って(というか強くて)美味しいな</span>と個人的に思います(*^^*)</span></span></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/behmemmahren/entry-12714767834.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Dec 2021 17:26:32 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
