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<title>minamiのブログ</title>
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<description>いろんな本を読んで複眼的思考を身に付けたいです。</description>
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<title>本日の読書part30 21世紀の国富論 原丈二</title>
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<![CDATA[ <p>21世紀の国富論 平凡社 原丈二<br><br></p><br><p><br><br></p><br><p>行き過ぎた市場万能主義、会社は株主のものとは一体どういうことなのか？今まで何気なく接してきた会社と株主の関係を見直す著書だ。</p><br><p>確かにここ数年、アメリカに始まり、ユーロも金融状態は疲弊しきっている。</p><br><p>これだけのことが起きてもまだ、資本主義のやり方をはっきりと改めないのは、理論上おかしいと認めるべき時期に来ているのではないか。</p><br><p>原氏は、ここまでの話しを学者として研究するのではなく、ベンチャーキャピタルCEOとして活躍しながら改善しようとしている実務家だ。それゆえに説得力がある。</p><br><p>著書の第二章からは原氏が推し進めているポストIT時代における大風呂敷に発展する。しかし、原氏の功績をつらつらと読んでいくと決して現実から乖離しているものではないと実感する勢いや息遣いが感じられるのが原氏ならではだ。</p><br><p>また、これらで世界中の中流層が増えることを祈る原氏のバックグラウンドが「考古学を発展させたいから」という子供心からというのも原氏への愛着を増幅させる。</p><br><p>原氏こそ、人生を「楽しんでいる」人間の姿の究極像ではないだろうか。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11083627179.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Nov 2011 01:17:32 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part29 会社はだれのものか 岩井克人</title>
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<![CDATA[ <p>会社はだれのものか 平凡社 岩井克人<br><br></p><br><p><br><br></p><br><p>企業と会社は違うんだよ。</p><br><p><br><br></p><br><p>産業資本主義からポスト産業資本主義になると、人材がより重要になる。ということは、金がものをいう世の中からシフトしていく。</p><br><p><br><br></p><br><p>この岩井氏の意見に対して、対談相手である小林氏から鋭い指摘が飛ぶ</p><br><p>「しかし、金を支払えば、よい人材、知能を呼び集めることだってできるんじゃない？」</p><br><p><br><br></p><br><p>岩井氏「しかし、金にある程度満足している人材は、仕事環境や、同僚を重視するようになっていく。よって、金にものを言わせて短期利益だけを求めるやり方は通用しなくなる。」と切り返すわけだ。</p><br><p><br><br></p><br><p>非常に面白い作品ではあるが、会社という存在に目を向けている作品だけあって、「人材」それ自体をどう育てていけばよいのかに視点はあたっていない。</p><br><p><br><br></p><br><p>会社の存在意義を「株主」「マネージャー」の視点から眺めるにはとてもためになる著書である。</p><br><p><br><br></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11083493718.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Nov 2011 22:58:28 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part28 嫌われ者の流儀 著者 堀江貴文×茂木健一郎</title>
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<![CDATA[ <p>「嫌われ者の流儀」 小学館 著者 堀江貴文×茂木健一郎</p><br><p>理論的に考えることの重要性を茂木氏が堀江氏の意見を聞きながら探っていくような作品。理論的に考えて、茂木氏、堀江氏がバッシングされる理由を対談形式で語っている。</p><br><p>「失敗したからって人格否定していたら、人間なんて育たないでしょ。」堀江氏</p><br><p>「自分たちの信じる者が｛絶対善｝ですからね。さっきの話に出たネクタイやスーツを着ることも絶対善、年功序列や終身雇用も絶対善。」堀江氏</p><br><p>「理論で善悪や可否を判断するのではなく、｛ルールでこう定めているからそれに従う｝というのはもう情緒以外の何物でもない。ものすごく単純化したたとえ話にすると、｛赤信号でわたってはいけない｝というのを｛法律で禁止されているからいけない｝と理由づけしてそこで思考停止してしまうのが情緒的反応で、｛赤信号のときは車に轢かれる可能性が高いから渡らないほうがいい｝と理論で考える人が増えてほしい」茂木氏</p><br><p>この本を読んでいくうちに、今まで自分自身はいつも客観的、理論的に問題をとらえていただろうか？という気持ちが湧いてくる。純粋に二人の話を見ていると、論理的であり、矛盾がない。そういった人間の意見を「～というレッテルを持っているから」と断裁することはできない。</p><br><p>これは、もしかして堀江氏の考え方も入っているかもしれないが、検察では有名人をうまく裁いた人間が出世するらしい。そのうまく裁いた「状況」だけを伝えるメディア。特に裏は取らないメディア。</p><br><p>事実と真実をいかに客観的に見るのかが大切だということだろう。</p><br><p><br><br></p><br><p><br><br></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11043573603.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Oct 2011 11:26:45 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part27 プリンシプルのない日本 著者 白州次郎</title>
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<![CDATA[ 「プリンシプルのない日本」 新潮文庫 著者 白州次郎<br><br>題名通り「プリンシプル」とは何か。また、プリンシプルを政治家、況んや国民が持つ重要性を説いている作品。<br><br>「プリンシプルとは、日本語では原理や筋を通すといった言葉である。プリンシプルのない妥協は妥協ではなくて、一時しのぎのごまかしに過ぎないのだと考える。」とある。<br><br>私の見解から言えば、何を要素（根拠というとおかしくなる、自分が持っている根本的な考え方とでも言おうか）にその問題を見ているのか、ということだと思う。<br><br>イデオロギー、事大主義にも白州氏は言及している。<br>「責任をもって、やれないからやめますといった人を聞いたことがない。これは日本の昔からの、泣く子と地頭には勝たれぬという、東洋的な事大主義の現れなのである。・・・彼らにとってイデオロギ－というものは単なる道具なのだ、自分じゃ思想だと思っている。・・・だからここで落ち着こう、ここまで認めるがここまでは譲れないというような議論はあり得ない。両方で別の事を言い合っている。だから論争になれば、感情的な喧嘩のほか何も無い。お互いに言いっぱなしだもの。」<br><br>おそらく言いたいことはこういうことではないか。事大主義的に行動したり、責任転換のことばかり考えているうちに、イデオロギーもプリンシプルも自分の身体から抜け落ちてしまうと。<br><br>イデオロギーもプリンシプルもいわば、自分という存在にのみ付随するものであり、それを形作るものもなにもない。そのいわば「思想」をどうやって養っていくのか。<br><br>白州氏は、答えを出さない。それは、出さないのではなく、自らの行動を持ってのみ示せるということなのであろう。（その例として吉田松陰を挙げている）<br><br>よく最近本などを読んでいると見かける言葉がある。「好きなことを精一杯やれ。」「自分が無意識的に思う事をやることが良い。」など、努力や自分の感情に従って行動せよ、ということである。<br><br>まだ私の知識不足で、この問題がどう「プリンシプル」と「イデオロギー」などに値するのかが分からない。ただ、少なくともこの意見が、関わっていることだけは「無意識」的に分かる。<br><br>勉強不足だ。なんせ読みたい本が隣に何十冊もあるんだから。<br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11042850170.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Oct 2011 16:51:17 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part26 不可能を可能にするビジネスの教科書 著者 藤原和博</title>
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<![CDATA[ 「不可能を可能にするビジネスの教科書」 筑摩書房 著者 藤原和博<br><br>「商品（教える内容）×教師の技芸＞１コマの費用」を超えるものを常に作り上げなければならないというビジョンを基に全てを改革していく元校長の話しである。<br><br>私の結論は、彼のコンサルタント的な力も学校の仕組み作りには必要であろうといった感じだ。<br><br>ただ条件がある。それは、「教育という存在を研究したきた人と共存しながら」教育を変革していく必要があるということだ。<br><br>なぜか、。<br><br>彼が学校の「顧客」と思っている人間は「生徒」なのか「親」なのか分からない。校長室を開いたり、学業に勤しむ環境を作っているのはわかる。その他にも「地域のつながり」なども進めていることはわかる。しかし、勉強も思考も進んで行っているのは「生徒」だ。「生徒」から目を離してはいけない。なんでもバランスだとは思うのだが、一人で進めず、あくまでも教育者と共に改革を進めれば、「革命」を起こす事が出来る。それだけのことができる素晴らしい感性を持った人間であることは間違いない。<br><br>もうちょっと教育研究者と共に歩いていってほしい。教育は、生きる「核」を育てるのが仕事だ。知識だけではない。でなければ、有能な人材が腐っていると揶揄される「官僚」などに埋もれてしまう。<br><br>みんな、一緒に協力しよう。教育研究者にも彼にも言えることだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11037223798.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Oct 2011 18:22:34 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part25 日本辺境論 著者 内田樹</title>
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<![CDATA[ 「日本辺境論」 新潮社 著者 内田 樹<br><br>日本人としてのアイデンティティの核を成すものはない。だが、核を成さずしてここまでやってきたのが日本人（辺境人）であるといったような概念が内田氏が伝えたいことではないかと思う。<br><br>では、その辺境っぷりを変えるべきなのか？？？<br><br>内田氏は、無理だし、また変える必要はないと言う。しかし、日本人が自らが辺境人（つまりアメリカ人などと根本から考え方が違う）ということを理解することが、日本人たるものを理解することに繋がるという思いでいるようだ。<br><br>このことを詳しく解説していくためにさまざまな辺境っぷりの例を取り上げるのだが、中華皇帝と邪馬台国（日本）の話しが面白い。その頃の日本人は自らが辺境人であることをおそらく自覚しているのだ。例えば、聖徳太子が「日出づるところの天子、書を、日没するところの天子に処す」という文章や、明治維新以後、「皇室」などという言葉（日本が中華皇帝国の下司にあたる場合には皇室及び天皇が日本にいることになり得ない）を記述したりする場面だ。日本はおそらくわかっていてもそういうことをある種のメリットのためにするのだ。しかし、いつ何時でも言い訳は一緒なのである。<br><br>「情報に疎くて・・・無知なもので・・・辺境人なので・・・」<br><br>こうやってフラフラと今までの多難を乗り越えてきたこの才能こそ「日本人」たるアイデンティティなのではないかという話しだ。<br><br>確かにそうである。<br><br>憲法９条と自衛隊の関係にせよ、沖縄基地のことにせよ、誰の責任なのかさっぱり分かったもんじゃない。それは「なんだか分からないけどこっちのほうがよさそうだ。」と今までやってきて、議論がまとまりそうになったとき（コンセンサスを得ることが確実になった際）の行動力が半端じゃないためにあるものに巻かれていく生き方に長けているわけである。<br><br>これはあくまでの日本人とは何かという問題を明らかにさせてくれる本であるため、なかなか難解である。よって私の発言も「・・・のようだ」という書き方にしないと苦しい。（おそらくしばらく経ってもう一度読む事になるであろう）<br><br>しかし、日本人の性格を他国との比較、歴史の流れを持って解明していく明快さ、ロジカルさには圧倒される素晴らしい作品であることは間違いない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11035890375.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Oct 2011 13:54:57 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part24 なぜ日本人は落合博満が嫌いか？ 著者 テリー伊藤</title>
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<![CDATA[ 「なぜ日本人は落合博満が嫌いか？」 角川書店 著者 テリー伊藤<br><br>「鳩山さんが嫌いという人は党内にはほとんどいない。どこでもいい顔をしてしまうからだ。鳩山さんの弱点は、いい人すぎて、人に嫌われるのを怖がっているところだ。」この一文が今回の作品の伝えたいことを物語っている。<br><br>明確な目標、強い意思を持っている人は人に左右される時間すらない。<br><br>そんなことがこの作品から流れ出ているように感じられた。<br><br>話しは大きく脱線する。<br><span class="st">蓮舫氏が「２番じゃいけないんですか？」と事業仕分けの際におっしゃっていた。<br>彼ら政治家は、ディベート能力が欠如しているのではないか。<br><br>小泉元総理など、蒼々たる多弁家はディベートという存在をよく研究していたという。<br><br>もちろん、政治たるもの、政治戦略が一番大切なのかいうまでもないが、戦略の中にディベート研究ももっと取り込む（特に海外からコンサルタントなどを雇って）ことで、よりよい討論になるのではないか。<br><br>話しを戻すが、２５歳まで社会人として働きながら、社会人野球をしていたという落合氏、ボーリングが好きでプロになる直前までいったという落合氏。彼に悲壮感が感じられないのは、常に孤独に自分を生きていたからであろう。そんな落合氏の苦悩も少しだけ、見る事ができる、唯一の作品かもしれない。<br></span>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11034780653.html</link>
<pubDate>Sat, 01 Oct 2011 11:48:47 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part23 悟りの教科書 著者 荒 了寛</title>
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<![CDATA[ 「悟りの教科書」 集英社インターナショナル 著者 荒 了寛<br><br>弟子から「死後の世界はあるのか」と聞かれた時の釈迦の言葉。「もし、毒を塗った矢が飛んできて身体に刺さったとしたら、そのとき『この矢はどこから飛んできたのか』『この毒の種類は何だろうか』『誰が射たものだろうか』などと考える前にやるべきは、その矢を身体から抜く事です。」この言葉が人生を物語っている。生きるとは、生きる意義とは。そのような意味を科学的、仏教的に苫米地氏と考え抜いていく作品になっている。<br><br>キリスト教が、「仕事は罰である」という話しは有名だ。しかし、ウパニシャッド哲学における、「罰、カースト制度」の有り方、神の非存在を「不確定性原理」などを用いることにより証明すること、など極めて衝撃的な内容が非常に分かり易く大雑把に理解できる。また、これほどまでに宗教が人間の行動を支える大黒柱になっているのかということにも深い意味を感じる。<br><br>荒氏、苫米地氏の結論は極めてシンプルである。<br><br>「自分の煩悩（やりたい事）を肯定するということです。煩悩を徹底的に肯定し、自分の中にある煩悩をもっと大きくしていこうとすれば、それはおのずから周囲の人々や社会への貢献になる。最初から社会貢献をしようとしていたら、やがて自分が苦しくなって行き詰まってしまいます。」<br><br>生きる意味を証明することは「不確定性原理」で明らかである。ではどう生きるか。「今」を生きるしかないのだ。<br><br>おそらくしばらく経ってもう一度読み返すときがくるであろう。それほど、勉強になる、作品だ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11034758773.html</link>
<pubDate>Sat, 01 Oct 2011 11:20:06 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part22 「脱・退職金」改革 著者 上田浩</title>
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<![CDATA[ 「従業員が歓迎する！{脱・退職金}改革」 牧歌舎 著者 上田浩<br><br>退職金ってなんであるの？そんな疑問を感じたときに読む入門本をいう感じだ。<br><br>「退職金とは企業の債務であり、労働基準法第１１条に基づくものである。」<br>「労働基準法２４条の支払い規制が及ぶ。また企業規定も大きく関わる。」<br>この本では、法律のことにも極めて優しく触れており、抽象的な概念を味わいながら、読むことができるようになっている。<br><br>また、あまり聞き馴染みのない、「適格年間」「401k」の話しなども大雑把に理解できる。<br><br>年金のことを詳しく知らない人が読めば、いい導入本になるであろう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11033722106.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Sep 2011 10:04:34 +0900</pubDate>
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<title>本日の読書part21</title>
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<![CDATA[ 「ハートで感じる英文法」 NHK出版 著者 大西泰斗<br><br>英語の仕組みって意外と解明されていない。<br>前回読んだ「前置詞がわかれば英語がわかる」と合わせて読むとそう感じられる。<br><br>例えば。両著者には「for」という前置詞の感覚に違いがある。<br>１、<span class="st">刀祢氏<br>「本来の意味である願望の方向から目的（それ相応の対価）に発展していく」<br>２、大西氏<br>「本来の意味である求めているから求めている範囲に目を向けているに発展していく」<br><br>これだけの研究者でも考え方が異なる。つまりどういうことか。<br><br>高校の先生でも中学校の先生でもいい。彼らの教え方に縛られないということが大切だと思う。結論から言うと、それぞれの感覚に合う覚え方で覚える方法が一番いいのだということだ。先生との考え方に合わなければ先生に訪ねればよい。そこから得られるものは数知れないだろう。そういった相互関係の重要性がこの両本を読んでいてフワッと感じた事である。実際に大西氏の考え方に「？」が付くものが３、４点あった。毎週水曜日に英語を習う時間があるのでその先生に聞こうと思っている。つまり、本を最初から信じ込まない。それは自分で考えるという作業が大切だと考えているからだ。（そう思っているのは、自分の感覚（＝クオリア）が一番大切だと様々な本を読んで感じているため）<br><br>そんな感情が吹き上がってきた本。一つの情報は少なくとも２方向ぐらいから検証しなければならないということを実感した。<br></span>
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<link>https://ameblo.jp/being-oneness/entry-11033707806.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Sep 2011 09:36:47 +0900</pubDate>
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