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<title>勉楽(べんがく)                                    読書には人を変える力がある</title>
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<description>「学ぶことは面白い」と私が思ったのは26歳のときです。      そして、それは私に多くの生きるヒントをもたらしてくれます。      タイトルの言葉は、吉田松陰の、    読書最も能く人を移す     畏るべきかな書やから引用しました。</description>
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<title>人間はコンフォートゾーン（私にとって心地いい領域）の制約を受ける　その２</title>
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<![CDATA[ 　その１で、コンフォートゾーンについて説明しました。<br>ほとんどの場合、私たちは自然に自分のコンフォートゾーンの中で生きようとします。<br><br>　<font color="#00BFFF">その２では、コンフォートゾーンと自己嫌悪の関係について、私が気付いたことを書きます。<br></font><br>　私は、「怒らない、イライラしない」という実践をしています。何のためにそんなことをしているのかについてはここでは触れないこととします。<br><br>　１０年くらいそのような実践をしていますが、実際にはイライラしてしまいます（少しずつイライラしない方向に進んでいるとは思いますが）。<br><br>　つい最近も、４歳の娘相手にイライラしてしまいました。<br><br>　<font color="#00BFFF">そしてそのとき、とてつもない自己嫌悪におそわれました。</font><br><br>　<font color="#00BFFF">自己嫌悪からは逃げなくてもいいです。</font>自己嫌悪を感じている自分を受け入れる、認めるということでしょうか。<br><br>　<font color="#00BFFF">自己嫌悪を感じるということは、「イライラする私」は私にとって心地よくないということです。</font><br>つまりコンフォートゾーンの外にある、ということです。<br>　<br>　<font color="#00BFFF">私の心は、コンフォートゾーン（イライラしない私）を自然に選ぶようになります。</font>ですから、イライラしない方向へ進んではいるだろう、と考えることができるのです。<br><br>　私は、仕事で、児童虐待の問題とやや関わっています。自分に解決する力があるわけではありませんが、同じ子育てをしているお父さんやお母さんが、自己嫌悪から自分を過剰に責めたり、自己否定の方向へ行かないことを祈っています。<br><br>参考文献<br>「すべてを味方　すべてが味方」（小林正観著　三笠書房）<br>　<br><br>
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<pubDate>Tue, 20 Jan 2015 16:41:17 +0900</pubDate>
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<title>人間はコンフォートゾーン（私にとって心地いい領域）の制約を受ける　その１</title>
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<![CDATA[ 　今週の少年ジャンプで読んだ「食戟（しょくげき）のソウマ」が面白かったので紹介します。<br><br>「食戟のソウマ」は、主人公のソウマが、天才料理人である父を越えるべく強者たちと戦いを繰り広げその中で成長をしていく、という物語です。<br><br>　今回の話で面白かったのは、その父がソウマを評して言ったある言葉です。<br><br><font color="#00BFFF">「彼には普通の人が持っているある感覚が欠けている。それは、『<font color="#00BFFF"></font>父には負けても仕方がない。彼は天才なのだから』という感覚である」</font>※<br><br>※記憶で書いているので台詞は正確ではありません<br><br>　普通の人は、適当なところで言い訳をして自分の自尊心を保とうとします。そしてそれ以上は考えないようにします。<br><br>　ところが、ソウマにはその言い訳がありません。自分に足りない部分について、あっけらかんと考え続けることができます。<br><br><font color="#00BFFF">「そうやってソウマは一歩ずつ俺に近づいている」</font><br><br>と、ソウマの父親は言います。<br><br>この話を読んだ瞬間、私に甦ってきた記憶がありました。<br><br>　20代の頃、喫茶店で久しぶりに中学校のときの同級生に出会い、しばらく交友を続けました。当時の私はフリーター。彼は自由業で、年収は「中小企業の社長くらい」とのこと。<br><br>　<font color="#00BFFF">とても居心地のわるい日々でした。</font><br><br>　フリーターがわるく自由業がいい、という話ではありません。ここでは、「フリーターである自分を惨めに思っている私の心」を問題としています。<br><br>　そんな私が自分に言い聞かせていたこと、それは、<br><br><font color="#00BFFF">「彼は親が社長だからそのコネだろう」</font><br><br>でした。<br><br>　彼は、学生時代から自分の生きる道について真剣に考えていました。友人をとても大切にしていたことも覚えています。そんな彼にとってふさわしい職業に就いていただけでしょう。<br><br>「食戟のソウマ」通りに、「彼は天才だから・・・」と思ったわけではありませんが、いずれにせよなぜ私がそのような言い訳をしたか、それは、<font color="#00BFFF">「自分が何も考えずに惰性で生きてきたこと」</font>を見つめたくなかったからです。簡単に言うと、彼と一緒にいることで自分が「ダメな人間」に見え、それを見つめたくなかったのです（現在では、そういった過去もすべて私の人生、と肯定的に捉えています）。<br><br>　一方で、同じ時期に別の同級生とも出会いました。彼は、私と同じ境遇（公務員に就職したもののすぐに辞めフリーター、親から疎まれている）でした。彼との交友はとても心地がいいものでした。<br><br>　ここからは、「コンフォートゾーン」について説明します。<br><font color="#00BFFF"><br>「コンフォートゾーン」というのは、文字通り、「私にとって心地よい領域」のことです。</font>私について言えば、自由業の友人はコンフォートゾーンの外（一緒にいて心地よくない）、フリーターの友人はコンフォートゾーンの中（一緒にいて心地がいい）にいます。<br><br>　<font color="#00BFFF">このコンフォートゾーンを決めているのが、セルフイメージです。私が私自身に抱いているイメージです。</font><br><br>　当時の私のセルフイメージはこのようなものだったかもしれません。<br><br><font color="#00BFFF">「私は社会をドロップアウトして今はフリーターをしている。社会に対して斜に構えて生きるのが俺の人生だ」<br></font><br>　このセルフイメージでどのように生きていたかというと、１年に１回は死にたくなるほどの虚無感におそわれていました。いっそのこと世界が破滅してくれたら、と考えたこともありました。<br><br>　現在は、社会に対して斜に構えて生きているわけでも、虚無感におそわれるわけでもありません。<br><br>　おそらく、自分が好きなこと（読書とそこから広がる世界）をやり続けていること、が理由だと思います。<br><br>　コンフォートゾーンそのものに良し悪しはありませんが、<font color="#00BFFF">もし自分が何かを目指しているがそうならない場合、コンフォートゾーンが邪魔をしている可能性があります。</font><br><br>　私が自由業の友人と出会ったときに、自分もそこを目指す、と思ったとします（無意識の中では実際に思ったかもしれません）。すると、私のコンフォートゾーンが、「お前はそうじゃないだろ」と邪魔をします。そうして、「彼は親が社長だからそのコネだろう」と自分に言い聞かせ、自分は今までどおりの自分に留まろうとします。<br><br>　もし私が、コンフォートゾーンの制約を受けることがなければ、彼を心から賞賛できただろうし、自分も彼に近づけるよう考え続け、アドバイスをもらうなどできたでしょう。<br><br>　コンフォートゾーンを克服する方法については、私もマスターしているわけではないので、興味がある方は参考文献をあたってみてください。<br><br>　ちなみに、有名人の中で、「この人はコンフォートゾーンの制約を受けていないなあ」と私が思っている方は、サッカーの本田圭介さんです。<br><br>参考文献<br><br>「週間少年ジャンプ『食戟のソウマ』」（集英社）<br>「AFFIRMATION「言葉」があなたの人生を決める」（苫米地英人著　マーク・シューベルト監修）<br><br>　<br><br><br><br><br>　<br><br>　
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<link>https://ameblo.jp/bengakuenjoy/entry-11979146952.html</link>
<pubDate>Mon, 19 Jan 2015 17:09:55 +0900</pubDate>
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<title>小説「身投げ救助業」</title>
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<![CDATA[ 「身投げ救助業」は菊池寛の小説です。<br><br>　主人公の老婆は、多くの自殺志願者たちを助けてきたことを誇りに思っていました。<br><br>（本文より）老婆は投身者を助けることを非常にいいことだと思っている。だからよく店の客などと話している時にも「私でもこれで人さんの命をよっぽど助けているさかえ、極楽へ行かれますわ」というていた。<br><br>　こんな老婆にも不満に思うことがありました。<font color="#00BFFF">それは、助けてやった人たちがあまり老婆にお礼を言わないことです。<br></font><br>　その後、その老婆自身が自殺を試みます。<br><br>（本文より）老婆はある晩、例の橋の上に立った。<font color="#00BFFF">自分が救った自殺者の顔がそれからそれと頭に浮んで、しかも、すべてが一種妙な皮肉な笑いをたたえているように思われた。</font>しかし多くの自殺者を見ていたお陰には、自殺をすることが家常茶飯（かじょうさはん）のように思われて、大した恐怖をも感じなかった。老婆はふらふらとしたまま、欄干からずり落ちるように身を投げた。<br><br>　彼女は、ある男性によって助けられます。<br><br>（本文より）<font color="#00BFFF">老婆は、その男が自分を助けたのだと気のついた時、彼女は掴みつきたいほど、その男を恨んだ。</font>いい心持に寝入ろうとするのを叩き起されたような、むしゃくしゃした激しい怒りが、老婆の胸のうちにみちていた。<br><br>　その出来事があってから老婆は自殺志願者を助けることをしなくなった、というのがこの小説の結末です。<br><br>　私は、あるカウンセラーの女性（以下Aさんとします）の講演会で、この小説について知りました。Aさんは、多くの方の悩み相談にのり、感謝されてきました。その中には、自殺願望がある方も多くいらっしゃったそうです。<br><br>　<font color="#00BFFF">ただ、Aさんは、「自分は人を救っている」とは思わないそうです。「自分がやっていることが正しいことかどうかわからない」と、常に悩みながらやってきたそうです。</font>この小説の老婆のように、「人助けをしてきた」と、誇りに思う気持ちもないようでした。<br><br>　<font color="#00BFFF">「自分はいいことをやっている、正しいことをやっている」という思いは、怒りや憎しみに通じています。</font><br><br>　老婆は、自分が自殺者の立場に立ったときに、「助けられてうれしい」とは思いませんでした。<font color="#00BFFF">助けられたときの老婆の激しい怒りは、「自分はいいことをやっている」と誇りに思ってきた老婆の人生を表しているのかもしれません。</font><br><br>　もしこの小説の続きを私が書くとすれば、老婆は「正しく生きること」ではなく「楽しく生きること」に人生を切り替えた、という話にしたいです。<br><br>参考文献<br>「身投げ救助業」（菊池寛著　青空文庫）<br>「この世の悩みが０になる」（小林正観著　大和書房）<br><br>　<br><br>　<br>　<br>　
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<pubDate>Wed, 14 Jan 2015 17:37:15 +0900</pubDate>
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<title>お金儲けは卑しい？という思い込み</title>
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<![CDATA[ 　江戸時代に田沼意次（たぬまおきつぐ）という政治家がいました。田沼は江戸幕府９代将軍家重と１０代将軍家治に重用された人物です。<br><br>　私には、田沼意次＝腐敗というイメージがあります。学校でそのように教わったからですが、ここで取り上げたいのは、<font color="#00BFFF">なぜ田沼にはそのようなイメージがあるのか？</font>という問いです。そして、<font color="#00BFFF">商売は卑しいという思い込みがそのようなイメージを作った</font>、という結論を導きたいと思います。<br><br>　江戸時代の経済はお米が中心でした。当時は国の規模を表すのに石高（こくだか）という単位を用いました。石高はお米の単位です。もちろん現代はお金で国の規模を表します。<br><br>　<font color="#00BFFF">田沼がやろうとしたこと、それはお米中心の社会からお金（商売）中心の社会へ移行することでした。</font><br><br>　江戸幕府の財政は年貢（農民から徴収するお米）で成り立っていましたが、田沼は商業を盛んにし、そこからも税金を取り、幕府の財政を立て直そうとしたのです。<br><br>　ところが、田沼は失脚をします。その後に政権を握ったのが松平定信です。これも学校でそう教わったからですが、松平定信＝正義というイメージがあります。田沼意次の腐敗を松平定信が正したというストーリーはどうしてできてしまったのでしょうか。<font color="#00BFFF">それを解く鍵が「朱子学」です。</font><br>　<br>　朱子学は江戸幕府初代将軍徳川家康が奨励した学問です。朱子学に「士農工商」という言葉があります。本来の意味でこれが身分制度を表したのかどうかはわかりませんが、江戸時代の武士たちが、士（江戸時代では武士のこと）が尊い存在で商人が卑しい存在、と思ったとしても不思議ではありません。<br><br>　<font color="#00BFFF">田沼を失脚させた一派は、「武士が商売のような卑しい行為はできない、ましてそれで幕府の財政を立て直すなどできない」と思ったのではないでしょうか。</font><br><br>　現代において、商売で成功した人間がいたとき、「きっと何か汚いことをして儲けているに違いない」と何の根拠もなく思ってしまうとしたら、それは士農工商によってそう思い込まされているだけかもしれません。<br><br>　昔、ご飯を食べるとき、「農家の人に感謝しなさい」と言われた記憶がありますが、ここで取り上げた思い込みから開放された今、<font color="#00BFFF">「お米を作る人、それを運ぶ人、それを売る人、つまりそこに関わるすべての人やものに感謝」</font>と言うことができます。<br><br>参考文献<br>「常識」の日本史　歴史の嘘と真実を見抜く（井沢元彦著　PHP）<br>　
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<pubDate>Sun, 11 Jan 2015 00:11:58 +0900</pubDate>
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<title>お金儲けは愛？の行い　その２</title>
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<![CDATA[ かつてドイツに、フッガー家という、世界の富の１割を所有していたのではないか、と言われたファミリーがありました。フッガー家は、「フッガライ」という共同住宅を設立して、貧しい人々に提供しました。フッガライは世界最初の福祉施設だと言われています。<br><br>フッガライに入居するには条件がありました。それは、「フッガー家の人々の魂が救済されますように」と祈ることです。<br><br>その１で書いたように、自分が救われるかどうかはわかりません。しかも、聖書では利潤追求は禁止されています。その「自分が救われるかどうかわからない」という不安が、フッガー家を、福祉へと駆り立てました。喜ばれるようにお金を使うことで救われようとしたのです。<br><br>その１で説明したカルヴァンの予定説においても富の追求は否定されました。お金儲けはよろしくない、となったわけです。<br><br>ところが、この「予定説」の信者にとっては働くことは喜びでした。<br><br>「天職」という考え方は、この予定説、プロテスタントから生まれたという説もあります。予定説においては、「自分の職業も神さまによって予定されたもの」と考えられます。ですから、自分の職業（それがどんな職業であれ）を一生懸命こなすことが、神さまの意思に適うことであり救われる道だ、と信者たちは思ったのです。<br><br>「聖書では利潤追求は禁止されている」と書きましたが、それは「暴利をむさぼってはいけない」ということです。労働そのものも救いへの道ですが、それは同時に他人が求める商品やサービスを提供する「隣人愛」でもあります。このようなプロテスタントの実践としての労働により多くの利益を上げること、それがより救いに近づくこと、これらがお金儲けのモチベーションとなったのです。<br><br><font color="#800080">現代日本の話ですが、田舎の方に児童擁護施設のような福祉施設があったりしますね。それらの中には、もともとそこの大地主だったような方たちが作ったものがあるそうです。その動機は、税金対策だったり、家族の就職先の確保だったりするそうですが、「自分と家族の得のため」という点でフッガー家に似ています。<br><br>「神さまはこの行為を喜ばれるのではないか」というひとつの説があります。なぜなら、そこに「喜ぶ人」がいるからです。多くの行き場のない子供たちが、そういう方たちの行為により（動機が本人たちの損得であれ）生活の場を確保することができているのです。</font><br><br>参考文献<br>「世界最強の商人」（オグ・マンディーノ著　山川鉱矢・山川亜希子訳　角川文庫）<br>「日本人のための憲法言論」（小室直樹著　集英社インターナショナル）<br>「神さまが教えてくれた幸福論」（神渡良平・小林正観著　到知出版社）<br>
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<pubDate>Mon, 05 Jan 2015 16:48:35 +0900</pubDate>
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<title>お金儲けは愛？の行い その１</title>
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<![CDATA[ 「世界最強の商人」という本があります。その中に次のセリフがあります。<br><br>「私は愛をもって売り上げを100倍にし、そして偉大なセールスマンになるのだ」<br><br>私（ブログを書いている私です）にとって「愛」と「商売」は結びつかず、そこに違和感を感じてしまいます。そのような「なぜそこに違和感を感じてしまうのだろう？」「違和感を感じない人はなぜ感じないのだろう？」という私の疑問に答えてくれたのは、「資本主義はプロテスタンティズムから生まれた」という説です。<br><br>その１では、カルヴァンの「予定説」についてお話をします。そして、その２では、プロテスタンティズムが資本主義を生み出したこと、故に商売（お金儲け）は、神に背くような行いではない（ですから、タイトルを「お金儲けは愛？の行い」にしました）という、そのような結論になります。<br><br><font color="#EE82EE">今後も繰り返し言うようになりますが、このブログは、私個人の意見や感想や思想を述べたものではありません。あくまで、「この本にはこんなことが書いてある」という情報を述べるよう留意しているつもりです。ただ、このブログのテーマは「学ぶ面白さ」ですから、私が感じた疑問や、理解できたときの感想（感動）などは盛り込まれています。<font color="#EE82EE"></font></font><br><br>プロテスタンティズムは、キリスト教の一派という理解でここではいいと思います。「プロテスト」という言葉は「抗議する」という意味ですから、それまでのキリスト教の教えに「抗議する」人たちの集まり、そして思想がプロテスタンティズムです。<br><br>AさんとBさんがいます。Aさんは清く正しい生活を行い人々から好かれ、Bさんは自己中心的で人々から嫌われる、そんな人生を送りました。さて、どちらが神に救われるでしょうか。ちなみに、清く正しい生活とは何か、救いとは何か、という問いはここではおいておきます。<br><br>正解は「わからない」です。なぜなら、それは神、全知全能で私たち人間の理解をはるかに超えた存在の判断だからです。<br><br>カルヴァンは考えました。「そもそも神は、その人がどのような人生を歩んだかを見て救おうか救わないかを判断しているのではない。全知全能だから、その人がどのような人でどんな人生を歩むかなんてすでに知っているはずだ。だから、誰を救うか救わないかということはすでに決めているはずだ。つまり、それは予定されていることだ」。これが「予定説」です。<br><br>この「予定説」は多くの信者を生み出しました。「すでに救われるかどうか決まっているのならばどんな生き方をしても同じだ」と自棄を起こした人もいるかもしれませんが、それは、多くの勤勉、勤労な人々も生み出したのです。<br><br>私は「凡人」の立場にならすぐになれますから、「なぜ予定説が多くの勤勉、勤労な人々を生み出したか」を理解することはできました。<br><br>「私が救われるかどうかはわからないが、それはすでに決まっている。ひょっとして、自分が神を信じているのは救われる運命にあるからではないか。そして、自分は働くことが好きである。それも、自分は救われる側の人間だからこんなに働くことが好きなのではないか」。こう思えたら、とても幸せを感じることができるのではないでしょうか。そして、幸せを感じることができれば、怠けているよりも働いたほうが幸せ、ということになります。<br><br>つまり、「救われるために信仰をしたり、働いて人々に喜ばれる」という論理ではなく、「私はすでに救われる運命だから、現在信仰をしたり、働いて人々に喜ばれているのだ」という論理になるのです。<br><br>こういう心理だったのではないでしょうか。　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く<br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/bengakuenjoy/entry-11970132039.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Dec 2014 17:13:44 +0900</pubDate>
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<title>祖父殺しのパラドックス</title>
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<![CDATA[ 「タイムマシーン」という小説について書きましたが、ここに出てくる命題は、本物の？物理学者たちが考えてきたことなのです。<br><br>T君にタイムマシーンの話をしたとき、「君は今、物理学者たちが考えてきたことと同じことを考えている」と、彼のエフィカシー（自信のようなもの）を上げたことを覚えています。<br><br>「祖父殺しのパラドックス」という命題があります。「タイムマシーンで過去に戻り、自分のおじいちゃんを殺したら、自分は存在しない」という命題です。「天才科学者が、タイムマシーンで過去に戻り恋人を助けたら、タイムマシーンは発明されない」という話を思い出してもらいたいと思います。<br><br>「祖父殺しのパラドックス」については、ぜひ考えてみてください。絶対的に正しい正解はないのですから、リラックスをして考えてほしいと思います。<br><br>「バック　トゥ　ザ　フューチャー」という映画があります。主人公はタイムマシーンで過去に行くのですが、そこには結婚する前の主人公の両親がいます。そこで、自分の母親になるはずの女性が主人公に惚れてしまいます。母親は父親に惚れて結婚する予定ですから、主人公に惚れてしまっては未来が変わってしまう（主人公は生まれない）。そこで、母親が予定通り父親に惚れて結婚するように主人公が奔走する、という物語です。<br><br>確かに、主人公の両親が結婚しなければ主人公は生まれない。ただ、主人公が生まれなければ、タイムマシーンで過去に戻って両親の恋を邪魔する？ことはない。ということは主人公は生まれる。このようにパラドックスが起こってしまいます。<br><br>さて、この映画の主人公の未来は、本人の短気な性格から、悲惨なものになる予定でした。ところが、タイムマシーンでの冒険により成長し、彼の未来は明るいものに変わります。最後のシーンで、主人公の彼女が、タイムマシーンを発明した発明家に、「博士、未来が変わりました」という内容のことを言いました。すると、その発明家は、「Of course.Your future is whatever you make it.」(もちろん、未来は君たちがつくるものさ)と言いました。何度見ても、いい映画です。<br><br>主人公の未来は変わった、とも言えるし、変わることもすでに決まっていた（変わっていない）とも言えます。未来はシナリオによってすでに決まっているのでしょうか、それとも自分で作るものでしょうか。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/bengakuenjoy/entry-11967478377.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Dec 2014 06:02:16 +0900</pubDate>
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<title>タイムマシーン</title>
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<![CDATA[ 　H.G.ウェルズの小説「タイムマシーン」。<br><br>　主人公である科学者は、恋人が殺害されたことがきっかけでタイムマシーンを発明します。そして、過去に戻って恋人を助けることを考えます。ところが、何度やってもうまくいきません（タイムマシーンがありますから、失敗したら、また過去に戻ってやりなおすことができます）。助けることはできますが、結局、別の理由で恋人の命は奪われてしまいます。さて、なぜでしょうか？<br><br>　それは、「恋人の命が奪われなかったら、主人公はタイムマシーンを発明しない。タイムマシーンを発明しなかったら、恋人の命を助けることはできない」からです。つまり矛盾（パラドックス）が起きてしまうのです。<br><br>　恋人が殺害された→主人公はタイムマシーンを発明した→過去に戻って恋人を助けた（恋人は殺害されない）→タイムマシーンを発明しない。このように原因と結果が矛盾してしまいます。<br><br>　この小説においては、過去を変えることはできませんでした。しかし、過去の捉え方、を変える方法はあります。<br><br>　この小説の主人公は、恋人の死をバネにして、タイムマシーンを発明するという偉業を成し遂げました。そのためには恋人の死、それだけではなく自分に起きたすべての出来事が必要であった、と思うことができれば、主人公は悲しみを受け入れることができたのかもしれません（本編のあらすじは違いますが）。<br><br>　これは、そう思うべきだ、そう捉えるべきだ、という話ではありません。<br><br>　あなたが「幸せだ」と思ったとします。すると、その瞬間、あなたの過去のすべてが幸せな出来事になります。なぜなら、それらの過去を歩んできた結果としてその「幸せ」があるのですから。<br><br>　逆に、「あの出来事があったから私は今、不幸だ」と思い続けている限り、幸せを感じることはありません。「今、不幸だ」と思い続けているかぎり、過去はずっと不幸なままです。<br><br>　結局、今どう思うか、幸せを感じるか、不幸を感じるか、だけの問題のようです。タイムマシーンで過去を変える必要はないようです。<br><br>　どちらにせよ、この小説はとても面白いです。<br>　<br><br>参考文献<br>「タイムマシーン」（H.G.ウェルズ　創元SF文庫）
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<link>https://ameblo.jp/bengakuenjoy/entry-11966333271.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Dec 2014 06:16:38 +0900</pubDate>
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<title>スコトーマ</title>
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<![CDATA[ 「ライオンは英語でlion、サルは英語でmonkey、ではカッパは英語で何というでしょうか？」<br><div>答えは「raincoat」です。</div><br><div>前半の「ライオンは英語で…」という情報を聞いてしまったがために、この問題を「河童は英語で…」と思い込んでしまい、「合羽」の可能性もあることに気が付かなくなります。「合羽」が盲点になり見えなくなる、という意味で、これを「スコトーマ」と言います。</div><br><div>私は、初めてこの問題を見たとき、すぐに「河童は英語で…」と思いましたが、20秒くらいして、「待てよ、合羽のことか」とわかりました。</div><br><div>ただ、これは、そういう問題を集めた本に載っていた問題ですから、「何か引っ掛けがあるはずだ」ということはわかるわけです。</div><br><div>人生においては、「何か引っ掛けがあるはずだ」とすら思わないまま、スコトーマによって見えなくなっているものがあるはずです。</div><br><div>子どもと関わる仕事をしているうちに、子どもを見ると、「この子はどんな問題を抱えているのだろう」という色眼鏡で見てしまい、スコトーマができてしまいます。</div><br><div>私の対処法は、スコトーマがあることを常に意識することと、人の話を聞くこと(子どもとの関わりがない方の意見が参考になることがあります)です。</div><br><div>参考文献</div><div>「まずは親を越えなさい！」(苫米地英人著 フォレスト出版)</div><div>「考える力が身につく！大人のクイズ」(逢沢明著 PHP)</div>
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<link>https://ameblo.jp/bengakuenjoy/entry-11966152753.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Dec 2014 18:33:05 +0900</pubDate>
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<title>光には速さがある</title>
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<![CDATA[ <div id="{AEC0B454-8F7D-4C83-8118-02EE850839FE:01}" style="text-align:left"><div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20141217/18/bengakuenjoy/e4/bc/j/o0480063913161526503.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20141217/18/bengakuenjoy/e4/bc/j/o0480063913161526503.jpg" alt="{AEC0B454-8F7D-4C83-8118-02EE850839FE:01}" width="300" height="399" border="0"></a></div></div><br>太陽の写真です。14:08分に撮りました。ということは、この写真に写っている太陽の姿は大体14時頃のものです。<br><div>なぜでしょうか？今、写真を撮っている私は現在にいるはずなのに、写っている太陽は約8分過去ということが、私にはとても不思議に思えます。</div><br><div>それは、光には速さがあるからです。</div><br><div>太陽から発せられた光が「私」に届くまで約8分かかります。それを視覚、つまり目で捉えて、見えたと言えるのです。ですからそれは8分過去の太陽の姿なのです。</div><br><div>「光年」という単位があります。これは「光のスピードで◯◯年かかる距離」を表しています。</div><br><div>ちなみに光のスピードはとても速い。あまりにも速すぎるので、私たちは光に速さがあるとすら思わないのです。</div><br><div>それを、「光には速さがあるのではないか」ということに気が付いた天才？がいて、実際にそれを計測した天才？がいたのですから人間てすごい、と思います。</div><br><div>1光年離れた星からの光は1年かかって地球に届きます。残念ながらそれを肉眼で感知することはできませんが、もしできるとしたら私たちはその星の1年前の姿を見ることになります。</div><br><div>逆に、もしその1光年離れた星に人間(宇宙人)が住んでいるとしたら、彼らは地球の1年前の姿を見ている、ということです。</div><br><div>では2500光年離れた星があり、そこに人間がいるとすると、彼らは2500年前の地球の姿を見ているのです(非現実的ですが、そこには釈迦がいるのかもしれませんから、彼らに聞いてみたいものです)。</div><br><div>この「光の速さ」の性質が、物理学のテーマのひとつです。いずれまた。</div>
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<pubDate>Wed, 17 Dec 2014 07:27:45 +0900</pubDate>
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