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<title>なぜ殺してはいけないのか？　――今を生きる私たちの道徳――</title>
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<description>善と悪を考える、哲学エッセイ</description>
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<title>第3章　18節　道徳哲学者として――積極的快楽主義――</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　もっとも、エピクロスが批判する、私たちの心の平安を乱して不快や苦悩をもたらす各種欲望とは、私に言わせれば、偽の利己主義に囚われた（＝誤った）欲望であり、真の利己主義に適った欲望を追求する限り、私たちは利益（＝喜び、快楽）を獲得するのみで、不利益（＝苦悩、不快）がもたらされる（＝快楽主義のパラドクスに陥る）ことはないはずなのですが……。<br>　ただし、この世から悪（＝真の不利益・不幸・不快・苦悩……）をなくし、善（＝真の利益・幸福・快楽・喜び……）で満ち溢れさせるためには、全ての人が、いついかなる時と場合においても、どうすることが自分にとって真の利益であるか――ならびに、どうすることが自分にとって真の不利益であるか――を、正しく見極めなければならないわけですが、私たち人間は全知全能の神ではないのだから、そのようなユートピア的人格の実現は不可能だとされたのでした。<br>　すなわち、もし仮に私が、真の利己主義という理念に沿った実践行為の、限りなく理想的な体現者たり得るとしても、世の人々の多くは、偽の利己主義に囚われた愚かな行為選択ばかりしているのです。すると、どうなるかと言えば、偽の利己主義に囚われた愚かな行為選択を私がほとんどせず、逆に真の利己主義に適った賢い行為選択ばかりするのを見て、世の多くの人々は、その愚かさ故に自分たちにはできていない善行ができている私に、激しい劣等感を抱くはずです。そして、その劣等感を自ら慰めるために、圧倒的多数派という集団（＝衆愚）の力によって、私をバッシングし始めることでしょう。それは、陰湿・陰険なイジメの様相を呈するはずです。いつの時代も圧倒的少数の賢者は、圧倒的大多数の衆愚によって弾圧されるというのが、世の常ではありませんか！<br>　すると、やはりエピクロスの言うように、世の人々との社会的交流からはなるべく身を遠ざけ、ただ一人、安心立命の境地（＝アタラクシア）を求めて、山奥にでも引きこもって仙人のような生活をすべきだというのが、私のように真の知性を獲得してしまった賢者にとっては、唯一の正しい生き方なのかもしれません。なんとなれば、世の人々の多くは、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念が真理であることを、【理解】はできても【実践】はできない（＝実践するだけの真の知性がない）からです。<br>　しかし、私は道徳哲学者なのですから、やはり浮世離れした仙人のような生き方をすべきではないのです。なぜならば、「道徳」とは【社会的な倫理規範】のことだからです。すなわち、道徳哲学は社会（＝人倫）を前提してこそ、その学問的存在意義があるのです。俗世間との交流を絶って、山奥に一人引きこもって自足するを良しとする仙人のような生活は、道徳的とは言えません。いや、そもそも他者との交流が全くない状態で、ただ一人で生きている人には、「道徳」という言葉は、もはや何の意味も持たないのです。<br>　ですから、やはり私たちは、エピクロスが奨励するようなアタラクシア（＝安心立命）主義（＝消極的快楽主義）ではなく、波乱万丈主義（＝積極的快楽主義）であるべきなのです。ただし、ここで言う「積極的快楽」とは、あくまでも真の利己主義という理念をイデアとして憧れ、その不完全な影像を実践し続ける努力に矛盾しない快楽であることを忘れてはなりません。他者を不幸にする独りよがりな快楽は、偽の利己主義に囚われた快楽ですから、私が唱える積極的快楽主義とは全く相いれません。</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12110757094.html</link>
<pubDate>Sun, 27 Dec 2015 11:16:11 +0900</pubDate>
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<title>第3章　17節　アタラクシア――幸福でも不幸でもない境地――</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念は、幸福になるための、ならびに不幸でなくなるための道徳理論です。確かに、不幸であることは反道徳的であり、不幸でなくなることは道徳的だと言えるでしょう。そして、当然のことながら、幸福であることは道徳的であり、幸福でなくなることは反道徳的です。しかし、「不幸でなくなること＝幸福になること」ではないし、「幸福でなくなること＝不幸になること」でもないことに注意が必要です。というのも、「不幸でも幸福でもない境地」というのがあり得るからです。古代ギリシア時代の快楽主義哲学者エピクロスは、その境地をアタラクシア（＝心の平静、平安）と呼び、アタラクシアを実現してこそ、私たちは唯一にして真の幸福（＝消極的快楽）を獲得できるとしました。<br>　エピクロスに言わせれば、私たちがなぜ不幸になるかというと、それは私たちが幸福を追い求めてしまうからであり、逆に、私たちがなぜ幸福を実感できるかというと、それは私たちが不幸を経験したことがあるから（orこの世に不幸があることを知っているから）だということになります。<br>　それは、たとえて言うならば、私たちが光という言葉の意味を理解するのは、暗闇の存在を知っているからであり、暗闇という言葉の意味を理解するのは、光の存在を知っているからだというのと同じです。暗闇の存在を理解せずに、光の存在のみを理解するということはあり得ませんし、光の存在を理解せずに、暗闇の存在だけを理解するということもあり得ません。<br>　幸福と不幸はこのように、相即不離の関係にあるのですから、幸福であるのみで全く不幸ではないということはあり得ませんし、あるいは、自分は幸福であるのみで全く不幸ではないとしても、その代償として必ず誰かが不幸になっているというのが、この世の摂理だとエピクロスは言うのです。であるならば、私たちが道徳的に正しく生きようとするなら、できることは一つしかありません。<br>　幸福を充実（＋）、不幸を欠乏（－）と考えるならば、幸福でも不幸でもない状態（±０）を目指すべきだということになります。なぜならば、幸福（＝快楽）追求にこだわると、かえって不幸（＝不快）を招いてしまうというのが、この世の摂理（＝快楽主義のパラドクス）なのであり、幸福追求から完全撤退してこそ、私たちが不幸に苛まれることはなくなるはずだからです。<br>　具体的には、幸福になりたい、ないし快楽を追求したいという私たちの各種欲望は、外界からの刺激、特に人間関係を機縁として惹起されるのですから、それら人間関係の煩わしさをなるべく避けるべく、隠者として生きよというのがエピクロスの教えです。<br>　もっとも、現代日本のような高度に発達した資本主義社会で隠者として生活するのは、よっぽどの大金持ちでもない限り、とても無理でしょう。それともエピクロスは、いわゆる「ひきこもりニートになれ」と言っているのでしょうか？　しかし、ひきこもりニートがアタラクシア（＝心の平静、平安）の境地に達しているとは、とても思えません。<br>　エピクロスが唱道したような、アタラクシアの境地で生きることが現実問題として可能かどうかには、議論の余地があるでしょう。しかし少なくとも、その境地を一つの理想型として考察することには、道徳哲学的に意義があると思います。というのも、この思想（＝アタラクシア主義）によってこそ、「自殺は善だ」と言える可能性が出てくるからです。<br>　自殺志願者は、積極的に幸福になろうとして、あるいは幸福になれると思って自殺するのではなく、生き続ける限り、そこから逃れる術がない（と信じ込まれている）不幸から脱却する（＝不幸をゼロにする）ために、究極の実存投企として自殺を選択するのでした。なんとなれば、死ぬことによって自殺者は、不幸でも幸福でもなくなるはずだからです。それは、究極的にして完全なるアタラクシアの境地と言えるのではないでしょうか？　しかも自殺者は、その境地を自らの主体的意志で選択し、確実に獲得（＝実現）するのです。エピクロスに言わせれば、自殺者こそがアタラクシア主義者の鑑（＝最も道徳的に完成された人間）ということになりましょう。<br>　対するに、私のように真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念（＝人倫の合目的的性理念によって規定される善／悪）に囚われ過ぎるのは、エピクロスに言わせれば、アタラクシアを乱す「悪しき（＝自らを不幸にする）生き方」ということになるはずです。なぜならば、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念は、明確な幸福ないし快を普遍的な善として奨励し、明確な不幸ないし不快を普遍的な悪として抑圧・排除する道徳理論なのであって、アタラクシアのような、幸福ないし快（＝善）でもなければ不幸ないし不快（＝悪）でもない、無欲・無感動・無価値の（＝悟りを開いた仙人のような）境地は、道徳的価値判断の対象として度外視されているからです。（その意味で、エピクロスのアタラクシア主義は、逆転の発想としての幸福論です。）</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12110402728.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Dec 2015 10:34:46 +0900</pubDate>
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<title>第3章　16節　自殺しようとしている人へ</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">　では、自殺志願者に対して私たちは、どのように接したら良いのでしょうか？<br>　まず、これまでの議論から明らかなように、自殺志願者にとって自殺は、究極の実存投企なのかもしれない――ここで私が問題にしている自殺志願者には、開き直った犯罪者、すなわち一生をかけてダラダラと無自覚的に自殺している馬鹿は含まれません――のですから、彼（女）の「自殺したい」という気持ちを、頭ごなしに否定することだけは、絶対にしてはならないと思います。なぜならば、究極の実存投企である自殺を考えるほどまでに苦悩するということは、彼（女）が、生きることの意味を、それだけ真剣に考えている証拠だからです。それは、彼（女）が【主体的】な自己（＝人生観）を確立しているということでもあります。主体的に生きることこそが人生の本義だと思っている人に、「とにかく自殺してはいけない」とか、「命を大切にしましょう」などというステレオタイプな、すなわち非主体的な定型文句を頭ごなしに言っても、世界に対する彼（女）の絶望を一層深める（＝自殺促進）効果しかないからです。<br><br></span><span style="font-size: 14px;">　この本は、自殺志願者のためのカウンセリング本ではないので、端折って結論を述べてしまいますと、要は心の問題ということになるかと思います。自殺はもとより、その他の死についても、それが私たちにとって不幸であるのは、死が人の心の問題として捉えられているからです。自然現象としての人間の死そのものは、幸福でもなければ不幸でもありません。特に自殺が究極の不幸であるのは、自殺という現象そのものよりも、自殺するまでに追い込まれた、その人の心の苦悩・苦痛が究極の不幸だからです。<br>　もしも、自殺問題の核心が、自殺という行為（現象）にのみあるならば、すなわち自殺という行為（現象）を止めることができさえすれば、それで良いというのであれば、問題解決はそれほど難しいことではありません。自殺志願者の全身を拘束し、舌を噛み切れないように猿ぐつわをかまし、鼻からチューブを入れて流動食を胃に直接流し込み、大人用オムツで排泄物の世話をしてやれば――すなわち自殺したくても絶対に遂行できない状態で無理やり生かし続ければ――それで良いということになるからです。しかし、そのようなやり方は、どう考えても人権侵害であり、人道に反しています。<br>　自殺問題の核心は、自殺という行為（現象）ではなく、自殺を真剣に考えるほどまでに苦悩している、その人の心にあるのですから、彼らの心を救うことこそが最重要課題のはずです。では、彼らの心を救うために、私たちには何ができるかといえば、自殺を考えるほどまでに苦悩しているその心に寄り添い、その苦悩に共感しようと努力するしか、私たちにできることはないと思います。<br>　ただし、それはあくまでも【努力】に留まります。なぜならば、自殺志願者が人生に真剣に悩んでいるように、自殺しようとしない人たちもまた、それぞれの人生と日々、格闘しているのだからです。自殺念慮のあるうつ病患者を、毎日のように診察している精神科医やカウンセラーだって同じです。ですから、自殺志願者の心に寄り添って、その苦悩に共感するとはいっても、私たちにできることには限界があります。自殺志願者の心に寄り添い、想像力を最大限に働かせて、その苦悩に共感しようと努力することは、全ての人間にとって【より善】であることは間違いありませんが、それは問題に対する完全無欠な解答（＝解決策）にもなり得ないのです。<br>　以上を踏まえた上で、自殺志願者に対して私に言えることがあるとしたら、それは以下の通りです。<br>　まず、自殺は不幸なので、できたら止めて欲しいというのが、私のワガママな感情的欲望です。自殺が不幸だというのは、もちろん【私が不幸になる】ということですが、なぜ私が不幸になるかというと、見ず知らずのあなたが、今この瞬間にも地球のどこかで自殺しているのだと思うと、あなたが自殺という最悪の選択をするまでに経験したであろう、とてつもない苦悩・苦痛に、否応なく想像力が働かされてしまい、私の心が慄然とさせられるからです。これは、私に限らず、まともな想像力のある大人なら、他者の自殺という不幸に対して、誰もが同じ思いのはずです。<br>　もしも、あくまでも【自分のできる範囲内で】、見ず知らずの自殺志願者を一人でも救うことができる――単にその場の自殺行為を物理的にストップさせるということではなく、その人をして自殺を真剣に考えるまでに至らしめた、精神的ないし物質的状況を解決ないし改善させることができるという意味です――ならば、圧倒的大多数の大人が、躊躇うことなく、その人を救うべく、【自分にできる限りのこと】を実行するはずです。<br>　もしかしたら、あなたの周りには今、あなたの苦悩・苦痛を理解してくれる人がいないのかもしれません。それは、あなたの対人関係能力に原因があって、周囲に上手くメッセージを発信できていないということかもしれないし、あなたの周囲には、たまたま想像力の貧しい人しかいないということかもしれません。いずれにせよ、もしそうだとしても、世の中には、見ず知らずのあなたが自殺を真剣に考えるほど苦悩していることに想いを馳せ、涙する人が少なからずいるというのもまた、厳然たる事実なのです。それは、仮にあなたが一生涯、そういう人に出会う機会に恵まれないとしても、そうなのです。そのことに対して、あなたにも想いを馳せて欲しいというのが、私のワガママな希望です。<br>　しかし、それでも、どうしても自殺するしかないというなら、あなたのその主体的な選択を私は、肯定はできませんが尊重したいと思います。真剣かつ不器用に生きたあなたの、真剣かつ不器用な死の選択を、尊重したいと思います。<br>　一つだけ、お願いがあります。あくまでも、私のワガママなお願いですから、強制はしません。というか、できるわけがありませんが……。<br>　それは、自殺する前に、『遺書』を書いて欲しいのです。そこには、あなたがなぜ、死を選択するに至ったのか、その理由・苦悩を、できるだけ事細かに、正直に書いてください。あなたが自殺を決意するに至った経緯、理由、他人や世の中に対する憎しみ、恨みつらみを、あなたの主観で構わないので、徹底的に書き連ねて下さい。文章は下手くそで構わないのです。あなたの主観的意見を、他人に認めて（＝肯定して）もらおうなんて思う必要もありません。どうせあなたは、これから死ぬ（＝この世からいなくなる）のですから、死んだ後に（＝あなたのいない世界で）、あなたのワガママな主張が世間からどれだけバッシングされようと、【まだ生きている今のあなた】には、どうでもいいことのはずだからです。<br>　遺された人を思いやって取り繕ったり、嘘を吐いたりだけは絶対にしてはいけません。あなたを愛する人は、あなたの嘘を鋭敏に嗅ぎとり、ますます救われない気持ちになってしまうからです。<br>　あるいは、家族が原因で自殺する人もいるでしょう。その場合は、家族に対する恨みつらみ、憎しみを、正直かつ徹底的にぶちまけてください。それがあなたの、家族に対する憎しみという名の愛だからです。<br>　もしも、あなたが天涯孤独の身の上ならば、不器用なあなたを受け入れてくれなかった世の中に対する恨みつらみ、憎しみを、正直かつ徹底的に吐露してください。それがあなたの、世の中（＝人間）に対する憎しみという名の愛だからです。</span></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Thu, 24 Dec 2015 10:17:03 +0900</pubDate>
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<title>第3章　15節　開き直った犯罪者（悪人）</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　ところで、私は今、「自殺以外の全ての悪事に手を染めることは、自分自身にとってこそ最大の不利益だから止めるべきだ」という理屈には、悪事に手を染めようとする人を思い止まらせるだけの、あるいは、すでに悪事に手を染めてしまった人を真摯に反省させるだけの、充分な説得力があると言いました。では、自分のやっていることは他者に不利益をもたらすのみならず、自分自身こそを最も不幸にする、偽の利己主義に囚われた愚かな行為選択だと理解した上で、それでも敢えて悪事に手を染める、開き直った犯罪者（＝悪人）がいることは、どう説明されるでしょうか？<br>　まず、開き直った犯罪者（＝悪人）は、自分が偽の利己主義に囚われていることを、【本当の意味では理解していない】という解釈が可能です。なんとなれば、それが自分にとって不利益でしかないと本当に理解した上で、それをする（＝それが悪だと本当に理解した上で、悪いことをする）のは、私たち人間には、【やろうとしても絶対にできない】ことだからです。<br>　なぜ、できないかと言うと、それが自分にとって不利益でしかないと本当に理解した上で、それをする（＝それが悪だと本当に理解した上で、悪いことをする）のは、【純粋な自己否定】になってしまうからです。私たちには、純粋な自己否定は絶対にできません。純粋な自己否定とは、自己否定観念で自らの精神を充満させることです。「悪」は否定観念ですから、それが悪だと本当に理解した上で、主体的な行為選択として悪を為すのは、純粋な自己否定になってしまうのです。<br>　もしも、私たちに純粋な自己否定能力があるならば、その能力を発揮した瞬間に、私たちの生命活動は停止してしまうはずです。すなわち、心で念じるだけで自殺できるはずです。しかし、誰でも知っているように、そのような「超能力」は私たちにはありません。いや、私たち人間に限らず、この宇宙内に存在し得るあらゆる生命体には、念じるだけで（＝精神力のみによって）自殺する能力などないのです。なぜならば、純粋な自己否定とは生命原理そのものの否定になるわけですが、私たち生命体は、能動的に生きているのではなく、受動的かつ盲目的に生かされているのだからです。<br>　あるいは、自殺との関連で言うと、開き直った犯罪者（＝悪人）は、【一生をかけて自殺している】のだという解釈も可能です。というのも、普通の意味での自殺者が、自殺遂行過程において自分自身こそを最も不幸にしていると自覚しながらも、それでも敢えて自殺するのは、自殺遂行に伴うこの上ない不幸はあくまで一瞬であり、死ねば全ての苦悩・苦痛から解放されると信じているからですが、それと同じことが、開き直った犯罪者（＝悪人）についても言えるからです。<br>　すなわち、開き直った犯罪者は、悪事に手を染めることによって、自分自身こそが最も不幸になるという人倫の合目的的メカニズムを理解しているのだとしても、あくまでもそれは生きている人間にとってのみ妥当する真理であり、どうせ死ねばみんなチャラだという人生観（＝厭世観）でもって、刹那的な欲望に身を委ね、敢えて悪事に手を染めているのだという解釈です。それはまさに、【一生という長い時間をかけた自殺】なのであり、普通の意味での自殺との違いは、自殺という進行形行為の遂行時間が長いか短いかだけだということになります。<br>　哲学者（？）の中島義道が、「どうせいつか死んでしまうのに、なぜ今、死んで（＝自殺して）はいけないのか？」と言っています。これは、彼独特の自閉症的厭世観を表現した言葉なのですが、開き直った犯罪者は、次のような人生観（＝厭世観）で生きているに等しいのです。<br>　「どうせいつか死ぬことができるのに、なぜ今、死に急ぐ（＝自殺する）必要があるのか？」<br>　もちろん、開き直った犯罪者（＝悪人）は、私に言わせれば【ただの馬鹿】ですから、以上のような実存主義的思想の自覚的な実践者として、犯罪行為（＝悪事）に手を染めているわけではないでしょう。しかしそれは、あくまでも自覚していないだけであって、深層心理レベルないし理論的には、開き直った犯罪者（＝悪人）は、一生に亘る長い時間をかけた進行形行為としての自殺を、主体的（＝実存主義的）に実践しているのだという解釈も可能なのです。<br>　だとすると、「自殺という進行形行為の、まさにその瞬間において自殺者は、自分自身を不幸のどん底に叩き落とすことになるから、自殺は止めるべきだ」という【正論】には、自殺志願者を思い止まらせるだけの充分な効果がないとされたのと同じく、「犯罪（＝悪事）に手を染めるという進行形行為の過程において、犯罪者（＝悪人）は自分自身こそを最も不幸にしているのだから、犯罪（＝悪事）は止めるべきだ」という【正論】にも、開き直った犯罪者を改心させるだけの充分な説得効果がないことになります。なぜならば、開き直った犯罪者（＝悪人）は、【もとより人生に絶望している】が故に、なるべく早く死にたい（＝人生を早く終わらせたい）と思いながらも、かといって積極的に自殺するだけの勇気（＝潔さ）もないので、人様（＝社会）に迷惑をかけまくると同時に、自分自身こそを、よりいっそう不幸にしながら、ダラダラと消極的な自殺をしているのだからです。</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12109316170.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Dec 2015 11:50:53 +0900</pubDate>
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<title>第3章　14節　理論理性を超えた宗教の知恵？</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　自殺に話を戻します。<br>　自殺が、他者のみならず、自分自身をも不幸のどん底に叩き落とす極悪であることは、疑いようがありません。それどころか、あらゆる悪事の中で、悪性度が最も高い人間的所業ではないかとすら思います。しかるに、自殺以外の悪事に手を染めようとする人に対しては、「そんなことをすると、他者のみならず、あなた自身【こそ】が最も不幸になるから止めなさい」という論法は充分な説得力を持つと思いますが、生き続けることに伴う、この上ない不幸からの解放（＝解脱）を目的とした、究極の実存投企である自殺をしようとする人に対しては、この論法は充分な説得力を持たないように思われるのです。なぜならば、自殺という進行形行為によって自殺者が最悪の不幸を体験することになるのだとしても、それはほんの一瞬であり、その後には、あらゆる不幸（＝苦悩・苦痛）からの解放が待っているはずだと自殺者は信じているからです。<br>　あるいは、宗教家なら次のように言うかもしれません。<br>　「自殺だけは、どんなことがあっても絶対にしてはならない。なぜならば、神がそう命令しているからだ。神が絶対にしてはならないと命令していることに違反するのは、決して許されない極悪なのであり、自殺者は必ず地獄に堕ちて、永遠の苦しみを味わうことになるのだ」<br>　しかし、当然のことながら、宗教家のこの主張内容は実証されてもいなければ、それが正しいという理論的根拠も示されていません。というか、実証ないし理論的説明を、完全に放棄しています。私は哲学者なので、そのような盲信ではなく、実証ないし理論的な根拠が欲しいのです。それに、「自殺をしたら地獄に堕ちるから自殺は悪だ」という宗教的盲信を認めるなら、「自殺をしたら天国に行けるから自殺は善だ」という宗教的狂信も、同等の権利で主張できてしまうことになります。<br>　もっとも、モーセの十戒に、「汝、自殺するなかれ」という条項がないことや、イスラム過激派の自爆テロなどからも明らかなように、全ての宗教が、自殺したら確実に地獄堕ちだと言っているわけではないのでしょう。しかし、少なくともカトリックでは、自殺者は確実に地獄堕ちであり、その罪が赦される可能性はゼロだとされています。自殺以外の凶悪犯罪であれば、生きている間（＝地獄堕ちという刑罰の執行猶予期間）に、自らの犯した罪を真摯に悔い改めれば、天国に行ける可能性があるとされているにもかかわらず、です。それこそ、ヒトラーやスターリンや毛沢東のような、何百万人もの虐殺に責任のある極悪人ですら、本心から悔い改めさえすれば、天国に行ける――正確には、まずは煉獄で擬似地獄の苦しみを味わい尽くしてから、魂が浄化されて天国へ行ける――というのです。ところが、仮にその人が生前、どれだけ品行方正な「善人」だったとしても、たった一人、自分を殺したらもうそれでアウトであり、地獄堕ち確実だというのです。<br>　カトリックのこの教えを初めて聞いた時、私はどうにも納得いきませんでした。己のわがままな欲望のまま（＝偽の利己主義に囚われて）、何人もの命を奪った極悪人ですら、天国に行ける可能性があるというのに、どんなに品行方正で真面目に生きてきた人であっても――たとえば、あまりにも真面目すぎるその性格が災いして、ストレスから鬱病になり、「あぁ、こんな情けない俺には、もう生きる価値なんてない。これ以上生きても、人様に迷惑をかけるだけだ」と消え入るような思いで自殺してしまったならば、その人は絶対確実に地獄堕ちだというのです。<br>　もちろん、自殺が極悪行為であることは疑うべくもありません。しかし、だからといって、連続殺人鬼ですら天国に行ける可能性があるというのに、自殺者にはその可能性が完全に断たれているというカトリックの主張に対しては、私のみならず多くの人が、「それは筋が通っていないのではないか？」と思うはずです。<br>　しかし、私はこうも思うのです。カトリックのこの教えは、人間の理論理性の限界を超えた“宗教の知恵”なのではないかと。<br>　確かに、理論理性すなわち哲学（＝学問）によって、自殺は悪だと説明することはできても、その説明には、自殺志願者に自殺を思い止まらせるだけの充分な説得力はありません。自殺に関するカトリックのこの教えを、いつ、誰が、どのような経緯で唱え始めたのか知りませんが、もしかして、その人たちは（直感的に）知っていたのではないでしょうか？　自殺以外の全ての悪事は、それをしたら自分自身こそが最大の不利益を蒙るから悪なのだと、理論理性によって説明できることを。そして、その説明には、悪事に手を染めようとする人を思い止まらせるだけの、充分な説得力があることを。あるいは、すでに悪事に手を染めてしまった人を真摯に悔い改めさせるだけの、充分な説得力があることを。しかし唯一、自殺だけは、それが悪であると理論理性によって説明することはできるが、その説明には、自殺志願者を思い止まらせるだけの充分な説得力がないことを。</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12108959989.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Dec 2015 11:18:21 +0900</pubDate>
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<title>第3章　13節　誠実とは何か？</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　さて、真理探究でも、民主主義社会における政策決定（＝意思決定）でも、結論にまで至る思索過程ないし手続きが、徹底的に誠実であることこそが第一義だとされたわけですが、では、誠実とはどういう意味でしょうか？　皆さんは、「誠実」という言葉の意味を明確に定義できますか？　おそらく、できる人は少ないだろうと思います。というのも、世の人々の多くは、この言葉を、その明確な意味をハッキリさせずに、漠然とした褒め言葉として使っているだけだからです。<br>　実のところ、この言葉の意味を明確に定義するのは意外と難しいと気付いている人は少なくないようで、インターネットの質問箱には、「誠実とはどういう意味か？」「誠実な人とはどういう人のことか？」といった質問が数多く見られます。で、それに対する答えとしては、ほとんどの人が「嘘を吐かないこと（人）」「浮気をしないこと（人）」「相手の立場に立って考えられること（人）」……、と言っているのですが、それらはいずれも、少なくとも「誠実とはどういう意味か？」という質問に対する答えになっていません。というのも、それらはいずれも誠実であることの具体的な実例（＝現象）を羅列しているだけであり、「誠実」という言葉の意味そのものの説明（＝定義）には全くなっていないからです。<br>　それは喩えて言うならば、「悪とはどういう意味か？」という質問に対して、「人を傷つけること」「人のモノを盗むこと」「テストでカンニングすること」……、といった具合に、悪であることの具体的実例（＝現象）を羅列するのと同じだからです。それが「悪」の定義になっていないことは、この本をここまで読んでこられた皆さんには、充分お分かりですよね。「悪」も「誠実」も抽象概念なのですから、「悪」ないし「誠実」の範疇に分類される（かもしれない）具体的な実例（＝現象）をいくら羅列しても、「悪」ないし「誠実」を定義したことにはならないのです。<br>　では、辞書には何と書いてあるでしょうか？　たとえば、『広辞苑』の「誠実」の項目には、「（仕事や他人に対して）真面目で真心がこもっていること。」とあります。では、「真面目」ならびに「真心」の項目には何と書いてあるかというと、「真面目」＝「①真剣な態度・顔つき。本気。②真心がこもっていること。誠実なこと。」、「真心」＝「誠の心。偽りのない真実の心。赤心。」とあります。<br>　いかがでしょうか？　これらの説明を読んで、あなたには「誠実」の意味が分かりましたか？　私にはサッパリ分かりませんでした。というのも、『広辞苑』に書かれていることは、喩えて言うなら、「東はどっちだ？」と訊かれたら、「南の九十度左だ」と答え、「では、南はどっちだ？」と訊かれたら、今度は「西の九十度左だ」と答え、「では、西はどっちだ？」と訊かれたら、今度は「北の九十度左だ」と答え、「では、北はどっちだ？」と訊かれたら、今度は「東の九十度左だ」と答えるのと同じだからです。そのような堂々巡りの説明は、定義とは言えません。<br>　それに、『広辞苑』の定義だと――『広辞苑』に限らず、どの国語辞典も同じだと思いますが――、もしもアドルフ・ヒトラーが、「私は、人類にとって害悪でしかないユダヤ人を絶滅せよという神の啓示に従って、崇高な使命感でもってホロコーストを遂行しているのだ。世界の常識では、私のやっていることは極悪だと非難されるだろうが、それは人類の知性がまだ、私がやっていることの意義を真に理解できるレベルに達していないからだ。いずれ、人類の知性レベルが進歩することによって、私のやっていることは純粋な正義だったと理解してもらえる日が必ず来るはずだ」と、本気で信じ込んでいたのだとしたら、ヒトラーは、「（ホロコーストという）仕事や、（ユダヤ人以外の）他人に対して、真面目で真心がこもっていた」、すなわち「誠実」だったということになるのではありませんか？<br>　あるいは、オウム真理教の教祖・麻原彰晃が、「サリンをばら撒いて、迷える哀れな衆生どもをポアしてあげた。これでみんな天国に行ける。良かった良かった」と、本気の本気で信じ込んでいたのだとしたら、ヒトラーと同じく麻原も、悪人であることは間違いないでしょうが、「誠実」でもあったと言えてしまうのではないでしょうか？<br>　もちろんこれは、おかしな話です。ヒトラーにせよ麻原にせよ、「極悪人」が同時に「誠実な人」でもあったというのは、何かが間違っているとしか思えません。確かに、「誠実」は、そのハッキリとした意味を誰も理解しないままに、テキトーに使われている漠然とした褒め言葉ではありますが、だからといって、「誠実な悪人」というのは明らかに概念矛盾だと思います。というのも、もしも「誠実な悪人」という言葉に意味がある（＝「誠実な悪人」が、少なくとも理論的には存在する）のだとしたら、「誠実」という言葉を漠然とした褒め言葉として一般的（＝日常的）に使うことにすら、意味が全くなくなるように思われるからです。なぜならば、悪人が悪人であるとされる、まさにその悪行によって悪人は誠実であるとされ得るならば、「誠実」はもはや褒め言葉ではなくなるからです。<br>　以上の議論では、アドルフ・ヒトラーないし麻原彰晃が、「（仕事や他人に対して）真面目で真心がこもった」人であった、という仮定で話が進められていますが、「そもそも、それは何の根拠もない仮定なのであり、ヒトラーも麻原も、（仕事や他人に対して）真面目で真心のこもった人ではなかったはずだ」という反論があるかもしれません。しかし、ここで重要なのは、ヒトラーや麻原の【本心】がどうであったか――それは、確認しようがないことです――ではなく、辞書に書かれている定義（モドキ）を認めると、「誠実な悪人」という概念が理論的に可能になってしまうということです。<br>　しかるに、「誠実な悪人」という概念が理論的に可能ならば、そもそも「誠実」に、褒め言葉としての意味がなくなってしまうのです。褒め言葉としての意味を失った「誠実」には、もはや言葉としての存在意義はありません。なぜならば、私たちは「誠実」を、あくまでも褒め言葉として使っているのだからです。<br>　すると、考えられる可能性としては、この言葉には全く意味がないか、辞書に書かれているのとは違う正しい意味があるかの、どちらかです。もしも、意味がないならば、私たちは即刻、この言葉を使うのを止めるべきです。意味がない言葉モドキを、意味があると錯覚して使い続けるのは、馬鹿だからです。<br>　もしも、この言葉にはちゃんとした意味があるが、多くの人はその意味を正しく把握していないし、辞書にも正しい定義が記されていないというならば、道徳哲学者として私には、この言葉の意味を正しく定義して、世の人々に教え広める責務があります。なぜならば、「誠実」という言葉に意味があるならば、それは道徳哲学的に、とても重要な概念のはずだからです。<br>　そして、事実、「誠実」には、褒め言葉としての確かな意味があるのであり、それは、至極端的かつ明快に定義できるのです。というか、改めて説明するまでもなく、この本をここまで読んでこられた皆さんには、「誠実」という言葉の正しい定義は、もうお分かりのはずです。<br>　そうです。「偽の利己主義に囚われた行為選択を避け、真の利己主義に則った行為選択をするよう、常に【努力】し続ける姿勢」。これが、「誠実」という言葉の端的にして明確な定義です。<br>　ただし、あくまでもそれは、「努力し続ける姿勢」に過ぎないことを忘れてはなりません。なぜならば、イデア（理念）としての「誠実」を永遠の憧れの対象として崇め、生きている間に、その境地に一歩でも近づこうと努力するのは善ですが、完璧な「誠実」の実現を目論むのは、人間としての分を超えており、かえって私たちを不幸にする悪だからです。それは、ユートピアの実現を目論む善意の完璧主義が悪だとされたのと同じ理由で、悪なのです。</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12108592926.html</link>
<pubDate>Mon, 21 Dec 2015 10:38:19 +0900</pubDate>
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<title>第3章　12節　民主主義は本当に正しいのか？</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　民主主義に関する以上の論考には、哲学的に【ある】重大な欠陥があります。それは、民主主義は正しい（＝善である）と無反省に前提されている点です。ある思想は正しい（＝善である）という無反省な前提の下に議論を進めるのは、道徳哲学とは言えません。なぜならば、何が善であり、何が悪であるかという具体的価値観を主張する――それは哲学ではなく思想です――のではなく、そもそも善とは何であり、悪とは何であるかを解明するのが道徳哲学の課題だからです。道徳哲学のこの根本問題が解明されてこそ、人倫界における具体的場面に応じて、どうすることが善であり、どうすることが悪であるかは、理論理性によって全て演繹されるのです。そして、そもそも善とは何であり、悪とは何であるかを原理的に説明する理論として私が提唱したのが、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念だったのです。<br>　では、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念によってなら、民主主義が正しいことは理論的に演繹されるかというと、そう簡単にはいかないことに、私たちは気付かされます。というのも、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念（もしくは進化倫理学）によって、民主主義の善／悪を確認するためには、そもそも民主主義とは何か？が輪郭明瞭に定義されていなければならないわけですが、実は、民主主義を輪郭明瞭に定義できた人は、未だかつて誰もいないからです。<br>　なぜ、民主主義の輪郭明瞭な定義は難しいのでしょうか？　それは、民主主義は人倫の集団文化だからです。<br>　リチャード・ドーキンスは「ミーム」という概念によって、人間文化もまた、ダーウィニズム的に進化することを洞察しました。民主主義は人間文化の賜物です。すなわち、それは常にダーウィニズム的に進化し続けるものであり、スタティック（静的）ではなくダイナミック（動的）なものとして捉えられるべきものです。そして、その存在のし方が動的（ダイナミック）であるとは、輪郭が“不定形”であるということですから、民主主義とは何かを輪郭明瞭に定義しようとしても無理なのです。<br>　それはちょうど、生命とは何かを定義しようとしても、生命現象は種族レベルでも生態系レベルでも常に進化し続けているのだから、普遍的な意味での生命現象そのもの、すなわち生命とは何かを輪郭明瞭に定義しようとしても無理だというのと同じです。（科学的事実として、生物学者は未だに生物ないし生命とは何かを定義できていません。この世に存在することが確認されている、あらゆる生命体【とされている】モノどもに共通する属性を記述することをもって生命体の定義としようとしても、必ず例外生命体が見つかりますし、同じ属性が非生命体【とされる】現象の中に見られたりもするからです。）<br>　民主主義とは何であるかが輪郭明瞭に定義できていないのであれば、民主主義の善／悪も判定しようがありません。輪郭不明瞭（より正確には輪郭不定形）な対象について、少なくとも理論理性による確言的な価値判断など、できるわけがないからです。<br>　あるいは、もし仮に民主主義を輪郭明瞭に定義できたとしても、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念（という公式）を、民主主義に適用することを難しくする理由が、もう一つあります。それは、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念は、主に個人的行為の善／悪を規定する原理を洞察した（アトム的道徳）理論なわけですが、民主主義のような集団的社会体制の善／悪を、個人レベルでの行為の善／悪を規定する理論の単純総和として捉えることはできないからです。なぜならば、集団社会の総体的道徳メカニズムは、単純系ではなく複雑系だからです。<br>　以上、二つの理由によって、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念（ないし進化倫理学）という公式から、民主主義が善（or悪）であることを理論的に演繹することは、不可能となっているのです。<br>　では、民主主義は善であるとも悪であるとも言えないのかといえば、そんなことはないと私は思います。というのも、確かに理論理性によっては、民主主義は正しい（＝善である）と説明できませんが、感情理性的には、民主主義は正しいはずだと私たちの圧倒的大多数が【信じて】いるからです。<br>　ただし、私たちが正しいと信じているのは、【永遠に実現することのない、憧れの対象】すなわち理念ないしイデアとしての民主主義です。現実の民主主義は、不完全で欠点のあるものであらざるを得ません。<br>　でも、それで良いのではないでしょうか？　なぜならば、現実の民主主義は、決して実現されることのない理想を目指して、永遠に改革され続けるべきもの、すなわち常に進化し続けるべきものだからです。それは、スタティック（静的）ではなく、ダイナミック（動的）であることこそが、民主主義の正義だということです。私たちは民主主義者として、民主主義という永遠の憧れの対象（＝理念）を、誠実に追求し続けるべきなのです。</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12108244942.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Dec 2015 11:02:48 +0900</pubDate>
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<title>第3章　11節　自由を守るために、自由は制限されなければならない？</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　あるいは、民主主義社会の構成メンバーに対して、憲法が保障している「自由権」についても、それを無制限に認めると、次のような問題が発生してしまう可能性があります。<br>　自由権とは、いわゆる基本的人権の中で最も重要とされているもので、言論の自由、思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由、学問の自由、集会・結社の自由……など様々あるのですが、私がここで特に注目したいのは、思想・良心の自由です。というのも、もしも憲法が、人民の思想・良心の自由を無制限に認めているとしたら、次のようなトンデモナイ話になってしまうからです。<br>　たとえば、私が気まぐれに人を殺したとします。あるいは、最近流行り（？）の、「人を殺してみたかった」というだけの理由で、人を殺したとします。私は、逃げも隠れもせずに警察に捕まり、裁判でこう証言するのです。<br>　「私は、気まぐれに（or「人を殺してみたかったから」というだけの理由で）人を殺すことは、私の良心に照らして善だという思想を持っている。かつ、【思想には実行が伴わなければならない】（＝実行の伴わない思想は悪だ）という思想も持っている」<br>　いかがでしょう？　もしも、私が所属する国家の憲法が、国民の思想・良心の自由を無制限に認めているならば、国家が私を殺人罪で罰することは、憲法違反になってしまうのではないでしょうか？（殺人に限らず、あらゆる刑法犯罪者が、自分がやったことの【正当性】を、同じ論法で主張することが可能です。）<br>　ちなみに、日本国憲法では、その第19条に、「思想・良心の自由は、これを侵してはならない」とありますが、それは無制限に認められる自由なのか、それとも制限付きで認められる自由なのかについての記載はありません。それは恐らく、思想・良心の自由は「内面の自由」なので、どんなに非常識な思想を持とうとも、それが心の内なる表現に留まる限り、すなわち物理的実行（外的表現）が伴わない限り、他者の人権を侵害する可能性はないと考えられているからでしょう。しかし、必ずしもそうとは言えないことが、上の確信犯罪者の例から明らかなのではないでしょうか？<br>　もっとも、この問題については、国連で採択された、世界人権宣言第29条の２と第30条に、「自己の権利及び自由を行使するに当たって、民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱらの目的とする法の制限に服すること」「この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊することを目的とする活動や行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない」とありますし、同じく国連で採択された、市民的及び政治的権利に関する国際規約第５条にも、「この規約のいかなる規定も、国、集団又は個人が、この規約において認められる権利及び自由を破壊し、若しくはこの規約に定める制限の範囲を超えて制限することを目的とする活動に従事し、又はそのようなことを目的とする行為を行う権利を有することを意味するものと解することはできない」とあります。どこの馬鹿が書いたんだと言いたくなる分かりにくい文章ですが、要は「他者の自由や権利を侵害する自由権は誰にもない」と言っているのです。<br>　ですから、世界人権宣言ないし市民的及び政治的権利に関する国際規約が、日本国憲法もそれに従わなくてはならない上位法だと考えるならば、上の確信犯殺人者を刑法（殺人罪）で処罰することは何ら問題ない、否むしろ正義であることになります。<br>　ただし、世界人権宣言第29条の２ならびに第30条にせよ、市民的及び政治的権利に関する国際規約第５条にせよ、そこで断定的に言われていることは、感情理性的には正しいと誰もが思うはずですが、理論理性的な根拠が全く示されていません。なぜ、「他者の自由や権利を侵害する自由権は誰にもない」のかについての理論理性的な説明なしに、それは感情理性的に正しいに決まっているから正しいんだ！ということで、問答無用とばかりに断定しているのが、世界人権宣言第29条の２ならびに第30条、そして市民的及び政治的権利に関する国際規約第５条なのです。<br>　しかし、この本をここまで読んでこられた皆さんには、すでにお分かりの通り、「他者の自由や権利を侵害する自由権は誰にもない」という思想が正しい（＝善である）ことは、真の利己主義という理念ならびに偽の利己主義という概念によって、理論理性的に充分、説明可能です。すなわち、他者の自由や権利を侵害する行為は、他者に不利益を与えると同時に自分自身にも不利益を与えるから、悪なのです。<br>　「悪を選択する自由権もあるのではないか？」と思われた人がいるかもしれませんが、自由に悪を選択したと思う時、その人は充分な理論理性能力を発揮して、何（どうすること）が自分にとって真の利益であるかを見極めることが【できていない】という意味で【不自由】なのですから、「悪を選択する自由」というのは概念矛盾です。ある言語表現が概念矛盾であるとは、それが意味するような事態はあり得ない（＝それが意味するような事態があると思うのは錯覚である）ということです。よって、自由とは必ず「善を選択する自由」ないし、少なくとも「自分が善だと信じていることを選択する自由」ということになります。<br>　あるいは、こう言うことも可能です。悪とは自分にとって真の不利益となることなのだから、それが悪だと本当に理解した上で悪を選択するなどという純粋な自己否定能力は、私たち【生命体】には無いのだと。なぜならば、精神現象としての純粋な自己否定とは、生命原理（＝生命エネルギー）そのものの自己否定であり、そのような暴挙は、生命体が生命体であり続ける限り、【やろうとしても絶対にできない】ことだからです。</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12107569220.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Dec 2015 10:30:56 +0900</pubDate>
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<title>第3章　10節　民主主義を守るために、民主主義は制限されなければならない？</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">　民主主義とは、いかなる政策が選択されるかではなく、【いかにして】政策が選択されるかの問題なのであり、それが徹底的に誠実な民主主義の手続きに則って決定されたものである以上、どれほど非常識な政策だと主観的に思われたとしても、民主主義者はその政策に従わなければならないとのことですが、するとそこに、次のようなパラドクスが発生する可能性が出てきます。<br>　それは、民主主義社会の人民が、徹底的に誠実な民主主義の手続きを踏んだ上で、最終的には人民の多数決によって、【民主主義社会であることを止める】選択をした場合、その政策決定は有効なのか？という問題です。<br>　現実的には、そのような非常識（＝自己否定的）な政策を民主主義社会が選択する可能性はとても低いはずですが、絶対に無いとは言い切れません。というのも、アドルフ・ヒトラーの国家社会主義労働者（ナチ）党が、当時、世界で最も民主主義的とされたワイマール憲法下で、あくまでも民主主義的に政権を獲得し、合法的に民主主義体制を崩壊させ、ヨーロッパ全土に甚大な被害をもたらしたという歴史的事実があるからです。<br>　そのため、ナチスのトラウマのあるドイツをはじめとするヨーロッパのいくつかの国では、「戦う民主主義（fortified democracy）」といって、たとえそれが、どれだけ徹底的に誠実な民主主義的手続きに則った上で採択されたのであろうと、民主主義を否定する政策だけは認められない、という条項が憲法に記載されています。<br>　「戦う民主主義」の掲げる思想は、【感情理性的】には正しいと思います。しかし、【理論理性的】には明らかに間違っています。なぜならば、そこで言われていることは、【民主主義の自己否定】だからです。民主主義とは、【どのような】政策が選択されるか（目的、結果）ではなく、【どのように】政策が選択されるか（手段、過程）の問題なのですから、特定の政策実現の可能性が最初から閉ざされているというのは、民主主義の否定以外のなにものでもないからです。しかし、「戦う民主主義」の思想を民主主義の絶対原則としなければ、【民主主義的に民主主義を破壊する】ことが可能になってしまうというのも、これまた事実なのです。<br>　これは、「民主主義のパラドクス」とでも呼ぶべき問題なのですが、この問題の解決策としては、【理論理性より感情理性の判断を優先する】ということで、ひとまず問題ないと思います。すなわち、理論理性的には明らかに間違いである――なぜならば、それは民主主義の自己否定だから――、しかしながら感情理性的には正しい「戦う民主主義」という思想を、民主主義体制を守るという正義のために、民主主義の絶対原則として、敢えて選択するのです。それは、あくまでも民主主義という理念を守るために必要な、理論理性の限界を超えた感情理性による正義の選択（or制限）だと私は信じていますし、多くの民主主義者の皆さんも、私と同じ意見のはずです。<br>　以上の議論が私たちに教えてくれていること、それは、人間にとって何が善であり、何が悪であるかを、理論理性（理屈）のみによって説明し尽くそうとしても無理なのであり、そこには、理論理性（理屈）の限界を超えた、感情理性による直観的判断が必要な局面が必ずある、ということではないでしょうか？<br><br>　徹底的に誠実な民主主義的手続きに則った上で選択され得る、非民主主義的な非常識政策の具体例は、他にいくらでも考えられます。たとえば、「人民は総自決（自殺）すべきだ」というトンデモナイ政策が多数決によって可決してしまうということも、理論的には充分にあり得るわけですが、その場合、反対票を投じた（＝自殺したくない）人も含めて、人民は総自決しなければならないのでしょうか？<br>　もちろん、そんなことはありませんよね。なぜならば、戦う民主主義という思想を憲法の条文として採用している国家にあっては、そのような非常識（＝非人道的）な政策が採択されたとしても、憲法違反なので無効だからです。いや、そもそも、「人民は総自決すべきだ」などという非人道的な議案を国会に提出するだけで、すでに憲法違反ですから、即刻廃案になるはずです。<br>　もっとも、戦う民主主義の思想を憲法で採用している国家は圧倒的少数派なわけですが、それは恐らく、民主主義体制そのものを転覆させたり、人民にとって明らかに不利益でしかないトンデモ政策を、民主主義社会が選択するはずがない、という常識的楽観主義があるからでしょう。<br>　それと、民主主義体制であることだけは、いかな民主主義的手続きによっても覆されてはならないという思想には、ほとんどの民主主義者が賛成のはずですが、それでもやはり、そこには民主主義として自己矛盾があるのではないか、という疑念が残る人も多いのではないでしょうか？　すなわち、戦う民主主義の思想を徹底すると、かえって非民主主義的な社会になってしまうのではないかという疑念を、多くの人が直観的に抱いているのではないでしょうか？<br>　たとえば、戦う民主主義の思想を憲法で採用しているドイツでは、ヒトラーやナチスを賛美したり、ホロコーストはなかったという発言をするだけで、刑法による処罰の対象になりますが、それはやり過ぎではないかと思います。ヒトラーやナチスがやった（とされる）悪事と同じことを【実行しようと企てたら】処罰されるというなら分かりますが、過去に起きた【とされる】事態についての再検証、ならびに解釈変更の可能性までも法的に禁止するというのは、実証科学でなければならない歴史学の否定であり、「学問の自由」の否定だからです。学問の自由は、民主主義の条件の一つです。</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12107227424.html</link>
<pubDate>Thu, 17 Dec 2015 10:55:22 +0900</pubDate>
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<title>第3章　9節　民主主義の条件</title>
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<![CDATA[ <span style="font-size: 14px;">　真理探究にとって重要なのは結論ではなく、その結論が導き出されるまでの思索過程が徹底的に誠実だったかどうかだ、とのことですが、同じことは民主主義についても言えます。民主主義もまた、【どのような】政策が選択されるかではなく、【どのように】政策が選択されるかという、【手続き】の問題だからです。その手続きが徹底的に誠実であることが、民主主義の最重要条件なのです。<br>　具体例を一つ挙げますと、福島原発事故以来、日本の原子力政策はどうあるべきかの議論が熱く闘わされていますが、結論として日本の原発政策をどうするか――原発推進か、現状維持か、漸次的縮小か、即時撤廃か――は、民主主義とは【何の関係もありません】。国がいかなる原発政策を選択するかではなく、国民を主権者とするその選択が、徹底的に誠実な民主主義的手続きを経たものであることが、民主主義の最重要条件だからです。ですから、徹底的に誠実な民主主義精神を遂行した結果、選択された政策が、仮にどれほど非常識なもの（＝間違っている）と主観的に思われても、民主主義者はその選択を受け入れなければならないのです。<br>　ただし、民主主義社会では、「言論・思想・表現の自由」が保障されているのですから、もしも国家（＝国民）が間違った（＝悪の）方向に進んでいると思ったなら、自由な言論活動によって、国家（＝国民）の過ちを正すべく、一人一人が努力すれば良いのです。特に、今はインターネットがあるのですから、誰もが自由な情報発信者になれます。<br>　かつて、インターネットのなかった時代は、大衆が知り得る情報の唯一のゲートキーパーとしての特権（＝第四の権力）を、マスコミがほしいままにしていました。しかし、今やインターネットの普及によって、マスコミのかつての権勢は衰退の一途を辿るばかりです。それもそのはず、インターネット民主主義によって大衆は知ってしまったからです。従来型マスコミが、自分たちの偏ったイデオロギーを正当化するために、ないし特定集団からの圧力に屈して、あるいは利害関係などから、編集操作された報道ばかりしていた（している）ことを。いや、それどころか、ありもしない全くの嘘までも捏造報道していた（している）ことを。<br>　ですから、もしも国家ないし社会ないし世論の趨勢が間違った方向に進んでいると思うなら、インターネットを使って自分の意見を発信し、世の中を変えるべく努力すべきなのです。それをせずに、世の中が自分の思い通りにならないことの不満を、身近な人にだけブツクサ文句垂れているのは、民主主義者としての権利を放棄しているのみならず、【義務の不履行】なのです。民主主義者としての義務を履行していない人は、民主主義者ではありません。民主主義とは、私たち一人一人にとって、その恩恵に浴することのできる権利であると同時に、自らそこに参画すべき義務だからです。<br>　おそらく、これまで多くの皆さんは、「権利」と「義務」は相反する概念だと思っていたはずです。たとえば、「あの人は権利ばかり主張して、義務を疎かにしている」といった発言は、日常的によく聞かれますよね。しかし、それは「権利」ないし「義務」という言葉を間違って使っているのです。というのも、それらは「偽の権利」ないし「偽の義務」だからです。「真の権利」ならびに「真の義務」については、「真の権利は必ず真の義務であり、真の義務は必ず真の権利」なのです。ここで、“真の”ないし“偽の”というのは、もちろん「真の利己主義という理念に適った」ないし、「偽の利己主義という概念に囚われた」という意味です。ですから、「権利ばかり主張して義務を疎かにしている」【ように見える】人がいるとしたら、それは彼が、己の真の権利ないし真の義務が何であるかを見誤っているか、あるいは彼を非難する人たちが、彼にとっての真の権利ないし真の義務が何であるかを見誤っているか、もしくはその両方であるかの、いずれかです。</span>
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<link>https://ameblo.jp/binnboutetsugakusha50/entry-12106856962.html</link>
<pubDate>Wed, 16 Dec 2015 10:42:39 +0900</pubDate>
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