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<title>『なおえもん歴史紀行』</title>
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<title>『奥州の独眼竜』(1584～1589)</title>
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<![CDATA[ <br>政宗の登場 <br><br>二代続いた父と子の対立によって衰退していた伊達氏を再び奥州の覇者へと押し上げたのは伊達政宗の登場だった。父輝宗から19歳で家督を譲られた政宗は最上氏・佐竹氏・蘆名氏といった宿敵との戦いを繰り返して領土を広げわずか５年で奥州を制圧する。しかし政宗の登場した頃は戦国時代は終わりに近づいており、天下獲りは遠かった。<br><br><br>人取橋の戦い <br><br>政宗の最初の正念場となった事件は降伏した二本松城の畠山氏が条件の食い違いから隠居していた輝宗を拉致し、結果輝宗が死亡するというものであった。政宗は父の仇を討つために二本松城を攻めるが落とせず、その最中に佐竹・蘆名らの大軍に襲われてしまう。この時伊達軍８千に対して連合軍は３万で政宗は家臣の必死の働きや連合軍も佐竹氏の事情によって撤退するなどどうにか逃げのびた。<br><br><br>摺上原の戦い <br><br>政宗と宿敵蘆名・佐竹氏との最終決戦となった戦いであり政宗は蘆名氏の重臣を寝返らせた上で会津に攻め込み、完膚なきまでに叩きのめした。さらにその勢いで蘆名氏の本拠の黒川城に攻め寄せ、蘆名氏を滅ぼす。周辺の敵対勢力を次々と服従させていった政宗はこの勝利によって南奥州を支配下に置いたことで奥州の覇者となった。しかしこの時にはすでに関白となっていた豊臣秀吉が惣無事令を出していた為に政宗は新たな問題に相対することになる。<br><br><br>
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<pubDate>Wed, 17 Sep 2014 22:18:55 +0900</pubDate>
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<title>『関東平定』(1590年)</title>
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<![CDATA[ <br><br>空前絶後の大軍 <br><br>中国・九州と西国の大大名たちをみな臣従させるといよいよ豊臣秀吉の目は関東の北条氏に向いた。関白の権威で臣従を求める秀吉に対して当主北条氏直とその父氏政は断固拒否し、1590年小田原合戦の火蓋は切って落とされたのである。<br>  <br>この時に秀吉が動員した大軍は空前絶後の規模だった。陸上からは豊臣・徳川・前田・上杉・真田らの軍勢が進軍し、さらに長宗我部らは水軍を引き連れて海上から来襲したのである。<br><br><br>天下統一 <br><br>小田原城はかつて上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた天下の名城だったが約22万とされる大軍の前にはさすがに多勢に無勢だった。秀吉も無理には攻めようとせず茶会や宴会を開きながら北条氏の降伏を待ったという。そして３ヶ月後北条氏は降伏した。<br><br>さらに秀吉は奥州の諸大名に対して小田原攻めに参加したか否かで領地の没収・再配置・保障などを行い、この結果秀吉に逆らう大名は居なくなり、ついに百姓からの成り上がり者豊臣秀吉が天下統一を果たしたのである。 <br><br><br>伊達の帰参 <br><br>九州平定後、秀吉に刃向かう二大勢力は関東の北条氏と奥州の伊達氏であった。北条征伐に向かう際に秀吉は伊達政宗にも軍を率いて参加するよう命じた。これに対し政宗は悩んだ末に家臣のすすめもあって小田原に赴き秀吉への臣従の姿勢を見せた。<br>このとき、政宗は白装束を着て赴き、また茶の道への興味を示すなど自分の決意や不敵さを表してみせた。この態度を気に入った秀吉は政宗の臣従を受け入れたのである。<br><br><br><br>
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<pubDate>Mon, 15 Sep 2014 19:23:35 +0900</pubDate>
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<title>『バテレン追放令』(1587年)</title>
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<![CDATA[ <br><br>突如禁教令を出した真意は？<br><br><br>秀吉は当初、信長にならいキリスト教の布教を認めていた。しかし、キリスト教の教義が自らがつくりあげようとしていた国家体制と矛盾したものであると気づき、国家統一に悪影響を及ぼすと考え、統制・禁圧の方針に変更していった。<br>九州征伐のさい、秀吉は肥前の大村純忠(日本最初のキリシタン大名)が長崎をイエズス会に寄進していることなどを目の当たりにし、また見渡すとキリシタン大名があちらこちらに出現している状況に憂いを抱いた。そこで九州平定の帰途間際に｢11ヶ条の覚書」を出し、｢個人のキリスト教信仰は自由」と認めるとしながら、大名や上級武士に限りキリスト教入信は秀吉による許可制とした。<br><br>さらにその翌日にはキリスト教宣教師らに5ヶ条の法令が発せられた。これが｢バテレン追放令」と呼ばれるもので事実上のキリスト教禁教令であった。これによれば｢日本は神国であってキリスト教は日本の伝統的宗教を破壊する邪教であり、宣教師は20日以内に国外追放を命じる」というものであった。<br>秀吉がこうした強硬体勢をとった理由には入信の強制や社寺の破壊と仏僧への迫害、ポルトガル人による日本人奴隷の輸出などがあげられる。そして秀吉は諸大名を集め、｢キリスト教は一向宗に似て非常に危険である」と語ったとルイス・フロイスの｢日本史」に記されている。こうした懸念がバテレンを追放した最大の理由であろう。<br>しかし、ポルトガル船の来航と商人の行き来は許容され、南蛮貿易については従来通り許可された。キリスト教を禁じながら貿易はＯＫという矛盾があり、結果的にこの禁教政策は不徹底なものとなった。 <br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/blackjack610/entry-11922436425.html</link>
<pubDate>Tue, 09 Sep 2014 18:58:18 +0900</pubDate>
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<title>『宇都宮鎮房』(うつのみやしげふさ)</title>
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<![CDATA[ 【生き残り作戦】<br><br>宇都宮家は豊前に古くから土着していた国人で周囲を強大な勢力に囲まれていたために戦国大名化することができず、各勢力の興亡に翻弄される立場にあった。当初は大内氏につき、大内氏が衰退すると勢力拡大してきた大友氏につき、島津氏の進軍が始まると島津氏についていた。<br>そして九州征伐が始まると本領安堵を条件に秀吉側に従った。<br><br><br>【秀吉の魔の手】<br><br>その後、宇都宮一族の本家ともいえる城井(きい)一族が秀吉に対して叛旗を翻す。この反乱は鎮房が四国へ転封になったことを不満として起こしたと思われるがはっきりとしていない。<br>城井を新たに領地とした黒田長政は大軍を派遣して城井城を攻撃したが、かえって大敗して壊滅的打撃を被った。戦いでは勝てないと悟った黒田側は和議に方向転換した。<br><br><br>【宇都宮家の悲劇】<br><br>しかし、この和議は謀略であった。秀吉の国替えに反抗することは許されるはずもなく、こうして悲劇の幕が上がる。<br>まず長政の居城に招かれた鎮房は謀殺されてしまい、鎮房の父や子もそれぞれの邸宅で襲われ謀殺、一族の主だった者は殺害され宇都宮家は滅亡する。戦国の世をうまく立ち回った宇都宮家にしてはあまりにもあっけない幕切れであった。 <br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/blackjack610/entry-11920104987.html</link>
<pubDate>Fri, 05 Sep 2014 21:28:54 +0900</pubDate>
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<title>『九州征伐』(1585～1587年)</title>
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<![CDATA[ 九州の情勢 <br><br>豊臣秀吉の全国統一が完成に近づいていた頃、九州はまさに島津氏によって制圧されようとしていた。九州三強を担っていた龍造寺・大友の両氏がそれぞれ島津氏に敗れ、その勢力を大きく減らしていた。特に大友氏の衰退が著しく大友宗麟は秀吉に助けを求めた。秀吉は島津に停戦するように求めたが島津氏はこれを無視した。激怒した秀吉は毛利氏と長宗我部氏を援軍に向かわせた。<br><br><br>秀吉軍の遠征 <br><br>しかし、大友氏の内紛や秀吉軍内部の意見の対立などで九州をほぼ制覇しかけていた島津義久ら４兄弟の前に苦戦し、<a href="http://m.ameba.jp/m/blogArticle.do?unm=blackjack610&amp;articleId=11820787592&amp;frm_src=article_articleList">【戸次川の戦い】</a>において島津氏の｢釣り野伏せ」の戦法の前に大敗し、長宗我部の嫡男信親を始めとする多くの将を失った。<br>この情勢に秀吉ら自ら出陣し、肥後方面から秀吉が、日向方面からは弟の秀長が率いて二方向から攻め寄せ総勢20万の大軍で島津氏を圧倒した。さすがの島津氏もこの物量の前には対抗できず、またたくまに秀吉軍は九州を南下していった。<br>秀吉が直々に出兵してから２ヶ月、ここに至っては島津義久は秀吉の軍門に降った。島津氏は旧来の領地である薩摩・大隅の２ヶ国が安堵された。<br><br><br>※釣り野伏せ<br>島津軍が得意としていた戦法でまず囮部隊が敵の前に出たのちに退却し、伏兵が待ち構えているところまで敵をおびき寄せる。しかるのちに伏兵と囮部隊が一斉に攻撃するという戦法である。<br>特に島津氏はこの伏兵に鉄砲を持たせていたことから効果が抜群だった。鉄砲の伝来地である種子島を領地の中にあることから鉄砲の使い方に詳しく、数も多く持っていた。 <br><br><br><br>
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<pubDate>Thu, 04 Sep 2014 21:52:08 +0900</pubDate>
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<title>『四国統一』(1585年)</title>
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<![CDATA[ <br><br><br>鳥なき島 <br><br>戦国時代の四国は他の地方よりも波乱の少ない場所であった。島という地理的条件から外敵の干渉が少なく内部にも有力な戦国大名があまり見られなかったため、織田信長は四国を｢鳥なき島」と呼んだ。<br><br>そんな四国で頭角を現したのが長宗我部氏である。長宗我部氏は一度は弱体化したのだが国親が土佐の有力者の一条氏の助力を得て再興に成功、その子元親の代になると一条氏をも倒し、さらに勢力を拡大し、1585年にほぼ四国の統一に成功する。 <br><br>四国征伐 <br><br>だが、待望の統一から数週間後に秀吉の四国征伐軍が来襲する。元親は以前から秀吉に敵対する側についており関係は悪かった。中央を安定させた秀吉は次の目標を四国に定めた。兵力を三方に分け、阿波から秀吉の弟の秀長と甥の秀次、黒田官兵衛ら５万、讃岐からは宇喜多秀家の２万３千、そして伊予からは小早川隆景・吉川元春ら毛利氏の３万が一気に四国に押し寄せた。<br>元親も多勢に無勢ながらもよく戦って秀吉軍を多いに食い止めた。しかし、黒田官兵衛などの諸将の活躍や圧倒的な兵力の差にはかなわず、元親は追いつめられてついに降伏することになった。<br>結局、長宗我部氏の手に残ったのは土佐一国だけとなった。 <br><br><br>
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<pubDate>Tue, 02 Sep 2014 22:30:05 +0900</pubDate>
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<title>『天正伊賀の乱』</title>
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<![CDATA[ <br>１５８１年に起きた天正伊賀の乱は一大殺戮戦として名高い。<br>１５７８年、伊勢の北畠信雄（織田信長の息子）は伊賀侵攻の拠点として神戸の地に城を築いたが<br>伊賀の地侍が城を襲撃する出来事が起きた。<br>頭にきた信雄は十分な根回しや準備もせず功を焦る余り伊賀勢に戦いを仕掛けた。<br>しかし、結果は散々たるもので、山岳戦で迎え撃った伊賀勢に大打撃を受け、大半の兵を亡くしてしまう。このことを知らなかった信長は激怒した。<br>これを「第一次天正伊賀の乱」という。<br><br>そして２年後の１５８１年信長は伊賀を徹底的に壊滅させるため、信雄を大将に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら６万の大軍で一気に攻めさせた。迎え撃つ伊賀勢は９千と兵力差は如何ともしがたく、神社仏閣・砦は焼き払われた。<br><br>伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けたが、生き残ったものたちは必死の抵抗を試みた結果、信長は攻撃から和議に方針を転換した。これが伊賀平定戦とも言われる「第２次天正伊賀の乱」である。
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<pubDate>Sun, 06 Jul 2014 18:34:05 +0900</pubDate>
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<title>『毛利元就の登場』（1516年）</title>
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<![CDATA[ <br><br>のちの中国地方の覇者となる毛利氏も、元就が当主になった頃は安芸の一国人で、ごく小規模な勢力だった。そもそも元就は次男で、ひとつの城の城主にすぎない身分であった。しかし、家督を相続した兄・興元が病死してしまったのでその遺児・幸松丸の後見人となり、旧安芸国守護武田氏などと戦ってその名声を高める。　<br>その後、幸松丸まで病死してしまい、異母弟・元綱と家督争いをすることになるがこれに勝利し、いよいよ元就が毛利氏の当主となったのである。<br><br><br>尼子氏と大内氏のあいだで<br><br>この頃の中国地方は山口の大内氏と出雲の尼子氏が二大勢力となり、多くの小勢力がどちらかについて代理戦争を繰り広げていた。毛利氏は尼子側だったが、家督争いの際に尼子氏の介入を察知した元就は当主就任後すぐに大内側にくら替えする。<br>これに怒った尼子氏は大軍で毛利の居城・吉田郡山城を攻撃するが元就は大内の援軍の助けも借りてこの戦いに勝利する。その後、元就は有力豪族の吉川氏と小早川氏に息子たちを養子に出してこれを取り込み、安芸一国を支配する戦国大名に成り上がっていく。<br><br><br>
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<pubDate>Thu, 24 Apr 2014 21:09:53 +0900</pubDate>
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<title>『将軍をめぐる騒乱』（1549年～1565年）</title>
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<![CDATA[ <br><br><br>下剋上に次ぐ下剋上 <br><br>明応の政変の後に幕府の実権を掌握していた細川氏は、13代将軍足利義輝の頃に家臣・三好長慶の下剋上で倒された。義輝は地に堕ちていた幕府の権威をどうにか復興させようと考えていたために長慶と戦うが結局敗れる。このとき、将軍殺しの汚名をかぶることを恐れた長慶は義輝を殺さず、あくまで自分の傀儡として利用する。 <br>ところが今度はその三好氏が家臣の台頭を許す。一族の相次ぐ死に心を痛めた長慶が活力を失うと代わって重臣松永久秀が大きな権力を握るようになったのである。<br><br><br>足利義輝の死 <br><br>傷心のうちに長慶がその生涯を閉じると、久秀はいよいよ大きな力を振るう。一方、長慶の死は義輝にとっての好機でもあった。以前から有力諸大名と交流し、全国各地の抗争の調停を行うなど積極的に活動していたが、いよいよ幕府権力を復活させるべく本格的に活動し始めたのである。<br>もちろん、この動きは久秀にとって見過ごせないものだった。そこで｢三好三人衆」と呼ばれる三好氏の有力者たちとともに謀反を起こすと、二条御所にいた義輝を攻めて敗死させる。かつての主人がやらなかった将軍殺しをやってしまったわけだ。<br><br><br><br><br>
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<pubDate>Wed, 23 Apr 2014 08:34:40 +0900</pubDate>
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<title>『明応の政変』（1493年）</title>
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<![CDATA[ <br><br>将軍廃位 <br><br>応仁の乱がはっきりとした勝者を出さずに終結したあと、将軍の地位にいたのは足利義尚だった。しかし義尚は近江国の六角氏を討伐している最中に病死し、続いて足利義視の子の義材（よしき）が将軍となる。 <br><br>ところが1943年（明応2年）に将軍権威の確立を目指す義材が畠山氏の家督争いに介入するために河内国に出陣したときに事件が起こる。この隙をついて、義材の方針に反感を持っていた細川政元がクーデターを起こして京都を占領し、義材を廃して足利義澄を将軍に立ててしまった。これが明応の政変である。 <br><br><br>その後室町幕府 <br><br>この政変で幕政の実権をつかんだ政元は将軍を傀儡化して半将軍と呼ばれるほどに室町幕府を支配した。しかし、家督相続の際に、一度後継者に決まっていた養子を廃し、新しい養子を連れてきて内乱の火種を残した。さらに細川家は政元の孫・晴元の時代に配下だった三好長慶の下剋上によって勢力を大きく失い、以後没落していく。そして、幕府の実権は将軍の手を離れたまま次の者へと渡されていくのである。<br><br><br>戦国時代の始まり <br><br>もともと、戦国時代の始まりは応仁の乱であったとするのが定説だった。しかし、実際には応仁の乱の後もまだ室町幕府の影響力は残っており、室町時代はまだ続いていたと考えられる。<br><br>それが完全に崩壊した象徴的な事件がこの明応の政変である。以後将軍は実質的な権力を失い、一方で細川家も内部分裂を起こして幕府の権威は完全に地に落ちた。各地の守護・豪族は独自の勢力を確立し、互いに争うようになる。こうして室町時代は終わり、戦国時代が始まったのである。<br><br><br>おまけ<br><br>戦国時代の始まり～戦国時代がいつ始まったのかについては諸説がある。<br><br>☆1467年・応仁の乱の開始<br>～一般的に信じられてきた説。応仁の乱によって世情は混乱したが、しかし実際には幕府の影響力はまだ残っていたと考えられている<br><br>☆1487年・北条早雲の登場～早雲は｢下剋上の時代」である戦国時代を代表する人間であるという考え方<br><br>☆1493年・明応の政変～近年、主流となってきた説。この事件の結果として幕府の権力が崩壊し、また実権を握った細川氏も分裂し、後に力を失って、日本を統一できる者がいなくなってしまったのである。
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<link>https://ameblo.jp/blackjack610/entry-11829348932.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Apr 2014 08:39:14 +0900</pubDate>
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