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<title>色々な思ったことについて</title>
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<description>色々なことについてとりあえず色々と書いてみる。</description>
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<title>過去を意味付けすることについて</title>
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<![CDATA[ <h3><strong>はじめに</strong></h3><p>長々とだらだらと書き連ねていこうと思う。「あの出来事にはこんな意味があった」という言葉をよく聞く。これはつまり過去に意味付けをするということであるが、これについて少し思うところを整理していきたい。過去の出来事に対して意味付けをすることは、「ある種の精神的な救い」があり、それと同時に「考え方における視野が狭くなるのではないか」という懸念があると考える。<br>例えば、特に精神的に辛い過去などについて、考えてみたい。以下に述べることは、良い悪いとかの議論ではなく、主観的ではあるけれどもその中でもなるべく客観的に見てみたいだけだ。<br>自分の辛かった過去に対して、現在から見て、「今があるのはこの辛い時期があったから」と考える人がいる。それは、ある種自分の過去を否定せず、肯定することで、自分を守っている。という感じがする。これは過去から現在まで連続で続いているイメージがある。また、現在から見て、「あの辛いことには、このような意味があった」と考える人もいる。これは過去を過去として捉えている。その上で、今から振り返って「なるほど、あの辛い過去はこんな意味だったのか」と理解する。これも同じように、過去を肯定した上で、受け止めている。これは、過去と現在が切り離されている感じ。<br>この二つに敢えて名前をつけてみよう。前者を「過去への<strong>ポジティブ</strong>かつ<strong>動的</strong>な意味付け」、後者を「過去への<strong>ポジティブ</strong>かつ<strong>静的</strong>な意味付け」としてみよう。<br>そうすると、自然に逆の「過去への<strong>ネガティブ</strong>かつ<strong>動的</strong>な意味付け」と「過去への<strong>ネガティブ</strong>かつ<strong>静的</strong>な意味付け」というものも考えられる。では、「過去への<strong>ネガティブ</strong>かつ<strong>動的</strong>な意味付け」とはどのようなものか。」そして「過去への<strong>ネガティブ</strong>かつ<strong>静的</strong>な意味付け」とはどういうものか。その辺りを考えてみる。そうするためには、定義付けが必要になってくるので、定義を考えていこう。まず、「過去への<strong>ポジティブ</strong>かつ<strong>動的</strong>な意味付け」の定義は、過去のある出来事(もしくはそれに関連する一連の出来事)を受け入れている状態にある時、その出来事を現在の状態の一要因とするもの、としてみよう。しかしながら、このように書いてみると、「ネガティブ」なものの意味は過去を受け入れられてない時にあるときである。これは、過去を受け入れられない人がその過去に意味付けはできないのではないかと考える。つまり、過去を受け入れるということはなんらかの意味付けをした結果なのではないだろうか。たしかに過去に意味付けをしないで過去を受け入れる人もいるのかもしれない。出来事を事実として捉える。だが、それも過去を事実として意味付けしているのであるから、意味付けしているということに変わりはない。</p><h3><strong>静的と動的な意味付けについて</strong></h3><div><p>話がだいぶそれたが、整理するとこうだ。過去の意味付けには<strong>動的な意味付け</strong>と<strong>静的な意味付け</strong>があるのではないか。動的な意味付けとは、過去のある出来事(もしくはそれに関する一連の出来事)が現在の状態の一要因だと意味付けることである。つまり、過去から現在へ動きのある意味付けである。次に静的な意味付けだが、過去のある出来事(もしくはそれに関する一連の出来事)を、その時点に立ち返り、その人が認識した意味付けを行うことである。これは現在と過去が分断されており、それぞれが独立した意味付けである。<br>ざっくりまとめてみたが、ここには大きな欠点がある。やはり物事は単純ではなく、これについて自分の考えが及んでいない人がいることも事実であり、この例では言い表せないことはたしかである。まさに二項対立にしてしまったが、なにかを考える時、たしかに整理しやすいのは二項対立なのだと思う。このことを踏まえて、非常に狭い範囲を対象にした考察であることを踏まえてほしい。<br>では、これら2種類の過去への意味付けは、どのような意味があるのか、以下に超主観的な意見を述べていく。</p><h3><strong>過去への動的な意味付けについて</strong></h3><div><p>過去の出来事を今の状態の原因とすることとも言い換えられるかもしれない。一番わかりやすい例としては、何か成功した時の下積み経験などだ。過去の辛いことが今に活きている。これは経験から来るもので、たしかにそうである可能性は高く、実証的とも言えないこともない。<br>しかし、同時に他の原因となる要素を排除してしまう可能性はある。これには十分注意しないといけないだろう。なぜか。過去への動的な意味付けを行うということは現在との強い相関関係が見られるということでもある。つまりその経験に基づき、これからのことにも適応させようとする可能性が高くなり、もしそうなった場合、過去の成功の原因要素を他の要素を排除した目立っているもののみにしてしまう。そこが落とし穴であるように感じる。</p><h3><strong>過去への静的な意味付けについて</strong></h3><div><p>あの過去はあのような意味があった、という意味付けである。過去の辛い思い出にこれを当てはめると、人を救う場合がある。特に自分の傷が癒えることもある。そして、傷が深ければ深いほどその意味付けに頼りたくなる。だからこそ、注意も必要だともおもう。たしかに何かに傷ついたとき、自分を助けてくれるのはそれよりも大きい何かである。例えば「運命」だとか、「宗教的な教え」だとか、「時間」などになるかもしれない。特に原初的で深い心の傷は癒えるのに時間がかかる。早く癒すことはとても大切であることは否定しないし、できるならそれがいい。しかし、安易に癒しを求めるのはやめるべきで、出来ることなら時間に解決してもらうのがいいのかもしれない。安易に自分の心の傷の癒しを求めるのは、時に自分を救うかもしれないが、時には自分を責めてしまうこともある。<br>ドラマ「僕らは奇跡でできている」の第8話で、印象深い台詞がある。<a href="https://dramaticmemory.com/bokukise-ojii/" rel="noreferrer noopener" target="_blank">『11年だからだよ。一輝とまた一緒に暮らす為に必要な時間が、11年だった。それだけのことだよ。』</a>というおじいちゃんの言葉だが、この言葉には時間というものの重要性があると考える。つまり、自分が自身の傷と向き合えるようになるまで逃げてもいいということだ。私もそう思う。時間が解決してくれるという簡単な言葉で表すのは適切ではないかもしれないが、簡単に言うとそういう形が望ましい気がする。一概には言えないが。ただ、弱っているところにつけこもうとする悪い奴もいると聞くが、それだけではなく、例えば仮に良い奴でも傷が癒えていない時だと、その考え方に依存して、視野が狭くなる可能性は大いに考えられる。そのような有事に平静を保つのは難しいが、そのような時こそ、出来るだけ視野を広く持ち考え方などは一つに絞らない方がいいと考える。自分がそれをできるかどうかは別として。</p><h3><strong>まとめ</strong></h3><div><p>過去を意味付けすることについて二種類に分けて考えてみた。一つ目が動的な意味付け、二つ目が静的な意味付けである。前者は現在の状況の原因として過去を意味付けをし、後者は過去の状況そのものにのみ意味付けをする。どちらも視野を狭めないよう出来るだけ視座を高くして、その意味を捉えていくことが重要だと思う。その意味を一つにするのではなく、さまざまな角度から捉え直すことが必要かと思われる。私が実際に出来るかどうかはわからない。<br>また、これが正しい考察ではないし、極めて個人的かつ主観的な考察であるし、さらに自分の思っていることの３割くらいしかうまく言葉にできていないため、いつか論文等を参照して理解を深めていきたい。</p></div></div></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658552811.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 20:26:38 +0900</pubDate>
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<title>曖昧な言葉の危うさについて</title>
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<![CDATA[ <h3>自分を語る時</h3><div><p>自分を語る時、曖昧な言葉で表現してしまいがちだ。しかもそれっぽくて、綺麗な言葉で表せれば、私たちはそれが本当っぽいと誤解してしまうだろう。しかしながら、自分という存在を言葉で表現しきることはできないと思う。そのギャップこそが人間を人間たらしめるものなのかもしれない。<br>今まさに曖昧な言葉を使った。人間を人間たらしめるものって何だろう。言葉で完全に自分を表現できるということは、それは自分のことを完全に認識したと同じことになるが、そんなことは可能なのだろうか。私はできないと思う。だからこそ、言葉で自分を語る時、それは自分を理解しようとしていることと同じになるのではないだろうか。だからこそ自分を語る時に大切になる。曖昧な言葉を語ると、曖昧な自分しか見えてこない。しかし、もう少し言葉に注意して自分を語ると、もう少しだけ自分が鮮明に見えてくる。これが哲学だとも言えるのではないか。そんな人いるかわからんけど。</p><h3>他人について語る時</h3></div><div><p>自分ではない他人について語る時、曖昧な言葉は非常に危険である。先ほどの記事でも述べたが、言葉というものは認識と密接に結びついているのではないかと考えている。つまり、他人について曖昧な言葉で語るということは、自分の中で他人を決めつけてしまうのではないだろうか。「〇〇は、ダメだ」とか「〇〇は仕事ができる」とか。これはかなり多くの場合で起こっているし、そうでしか表現できないけれど、的確に表現しようとする努力や誠実さが大切なのではないか。と感じた。</p><h3>最後に</h3></div><div><p>人が自分、あるいは他人、もしくはそれ以外の存在する何かを説明する時、言葉を用いる。しかし、実態と言葉での表現は解離がある。どこまで行っても埋められないギャップがあり、絶対に全てを説明するということはできない。しかしながら、そのギャップをできるだけ埋めることが実態との差を埋めていく。その差を埋めていくためには、シンプルなものから複雑なものへ、一つの視点から複数の視点へ、それまでの視座からもう一つ上の視座へ移行することが必然となるのであろう。そのためにはや必要になるのだろうと感じる。やはり自分だけではなく、自分という実態に近づけようとする姿勢、つまり自分は何なのかという問いに向かっていく姿勢、が人として魅力的な人なのかもしれない。</p></div>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658552385.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 20:24:41 +0900</pubDate>
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<title>差別ってなんだ</title>
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<![CDATA[ <p>差別とは一体なんだろうか。なんとなくわかるけどわからない。区別とは何が違うのか。明確にしようとすることは少し危ないのかもしれない。様々な文脈で様々な使われ方をするこの言葉について、差別ってなんなのか、少し考えてみたい。</p><p>差別と区別。似たような言葉だが、少し違うだろう。様々な意味合いがあるが、差別は人に対して行われ、区別は人も含めものに対しても行われるというのが、それぞれのイメージである。確かに差別は人に対してしか行わないし、区別はそれ以外にも行われるだろう。（反例があればご教授ください。）</p><p>差別と区別の違いは他にもあるだろう。人種差別とかの意味で使われる差別は、人種によってその人がどういった人間かを判断することだろう。しかし、区別とは、客観的に人種で分けていることなのだろうか。おそらくそこに主観を極力入れないようにする努力はしているのだろうとは思う。</p><p>ではこのように言えるのだろうか。<br>差別とは・・・人に対して行われ、かつ外見で主観的に判断すること<br>区別とは・・・人やものに対して行われ、できるだけ客観的に分類すること<br>と言えるのだろうか。</p><p>では、次に男女差別についても見てみよう。これもかなり問題になっているものだが、最近は LGBTQなどと言ったセクシャルマイノリティについての差別も（同様に、と言っていいのかはわからないけど）あるのでそこについても踏まえて考えてみたい。それらについて考えてみるに、性的な差別は外見だけではなく、内面についても差別があるということだろうか。しかし、外見と内面が一致していないという点で差別があるということは、外見が判断基準になっていることなのであろう。</p><p>以上を踏まえると<br>差別とは・・・人に対して行われ、かつ外見からその人の人となりを主観的に決めつけること<br>区別とは・・・人やものに対して行われ、できるだけ客観的に分類すること</p><p>あたりだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>なんとなく定義を決めてみたが、それだけでは足りないような気がする。<br>差別とは・・・人に対して行われ、かつ外見からその人の人となりを主観的に決めつけること<br>としたが、不十分だと思われるということだ。</p><p><a href="https://news.yahoo.co.jp/articles/95f850142ab8f598a0dc9955b7717f11d60aabe5" rel="noreferrer noopener" target="_blank">水原希子は、ルッキズム（外見主義）というものを批判している</a>が、これも確かに差別に値するだろう。見た目で人のランクを決めるなということだが、それは上述した差別の定義のようなものにも合致する。ここで、私が思うのは、見た目で判断するのと、見た目を評価するのは違うのではないかと思っている。例えば、この人の顔は綺麗だ、だけでは差別にはならないということだと思う。それを誰かに押し付けるのが差別になるのだろう。少し抽象的な言い方になったが、なんといえばいいか難しい。しかし、綺麗な顔をランク付けすることは誰かに押し付けるということであると言えるだろう。</p><p>少し話は変わるが、差別の定義が少し気になる。人に対して行われ、かつ外見からその人の人となりを主観的に決めつけることと言ったが、おそらく外見だけではないのだろう。アイヌ民族に対する差別や部落差別など日本にも差別というものがある。これは、外見で差別することとは少し違う。立場や社会的地位というべきかわからないが、そのようなものだと思う。つまり、差別とは・・・人に対して行われ、かつ外見やその人の社会的地位などからその人の人となりを主観的に決めつけ、押し付けることと言えるのだろうか。</p><p>「生きろ。そなたは美しい」もののけ姫のアシタカのこの名言も差別になるのだろうか。押し付けてる感じがするけど、、、どうなんだろう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658551571.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 20:20:52 +0900</pubDate>
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<title>#BlackLivesMatterについて</title>
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<![CDATA[ <p>差別とはいったいなんなのだろうか。現在、#BlackLivesMatter の運動がかなり活発になっている。これは黒人に対する差別意識に対してのプロテストだ。これに付随して、日本でも自分たちの差別意識を見直そうとする声も上がっている。例えばアイヌ差別だって、部落差別だってある。確かにわかる。そりゃやっぱり差別はなくした方がいい。</p><div><p>&nbsp;</p><p>大なり小なりあるが『差別』で辛い思いをしている人を見たことがあるし、自分もそうして人を傷つけてきたこともある。しかしながら、いまこのような意見を書いているが、自分が差別をしてないと言い切れるほど、確かな自信はない。だけど、なるべくそのような目で人を見ないようにしているつもりだし、差別は良くないとは思う。</p><p>&nbsp;</p><p>#BlackLivesMatterの違和感について</p><p>&nbsp;</p><p>ただ最近の #BlackLivesMatter 運動に対しては何かしらの違和感を感じる。それはなんだろうか。自分の考えは、このように運動すること自体が、差別を意識化させ、顕在化させ、さらなる差別を生むと思うのだ。つまりこの運動で黒人差別はなくならない。もし万が一黒人差別がなくなったとしても、今度は黒人差別をする人に対する差別がおきる。サカナクションの『<a href="https://www.youtube.com/watch?v=HZZk2Mq_yjA" rel="noopener noreferrer" target="_blank">エンドレス</a>』とまさに同じ構図だ。もし、根本的にこの差別を無くしたいのなら、忘れることが一番なのだ。語弊があるかもしれないが、敢えて言うと、こうやって運動している限りは、差別はあり続けるだろう。差別がなくなるのはどういう状況かというと、例えば、『鼻の大きさが違う』や『爪の長さが違う』と同じレベルの違いにまで持っていくことではないだろうか。だって自分たちは爪の長さが違うからって差別はしないでしょ？こいつは爪が長いから悪いやつだ！みたいなことに近いかな。そんなことしないでしょ？つまり、違いのレベルを日常にまで持っていくことだと考える。そうしない限り差別はあり続ける。『爪が長いから悪いわけじゃないだろ！人間みんな平等じゃないか！』ということっておかしいと思う。かなり極端な例だけど。爪が長いだけで人が殺されている事実は確かに無視できないのだ。</p><p>他にどのような手段があるのか</p><p>&nbsp;</p><p>言いたいことはわかるけど、「そんなんになるには、いつになるんだよ！」って問題は確かにある。速度が早く、大きなインパクトを与えられるプロテストは非常に有効な手段である。特に現在のようにSNSがこんなにも全世界を巻き込む形で普及している。だからこそ、ここまで世界中が関心を寄せているし、世界中のリーダーと言われている人たちにも伝わっているだろう。つまり私たちの周りの多くの人が行っているように、SNSで発信すること、そして理解を深めることなどがあげられる。これが一つ目だ。しかし、それでは、差別が続いてしまうのではないか？これは自分が懸念していることだ。他にもそう懸念している人はいるだろうが。アメリカの黒人に対する差別の歴史は、知っている人に言わせれば、表面上だけかもしれないが、それでも知っている。今までも黒人はプロテストを続けてきた。「I can't brathe」だって今回だけじゃない。だからこそ、他の手段があるのではないだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>二つ目の手段は暴動だ。しかしこれもあんまりしっくりこないのだ。これに関しては、自分の理解が足りていないからなのかもしれない。ただ、このように直接的に反対することは、本当に差別を根絶しようとしているのだろうか？わかるけど、それじゃあ、どうにもならない気がしてならない。</p><p>&nbsp;</p><p>他に手段がないのか？自分がざっくり思っていることを、書きたいと思う。有効かどうかはわからないし、的外れかもしれない。しかし書いて整理してみる価値はあるのだと思う。キーワードは、「手段をずらすこと」だ。黒人差別の話から少し逸れるが、多くの差別が、現代では改善されていると個人的には感じる。例えば、女性差別である。実際はまだまだ公平とは言えないかもしれない。しかし、世界的にみても確実に改善されてきているだろう。なぜなら、フェミニズム運動が起こったからである。第一次フェミニズム運動は、少し簡単に書き過ぎているが、女性の参政権を得ることが目的だった。第二次は、潜在的にあった女性への差別を変えることが目的だった。第三次は、ジェンダーやセックスに囚われないような生き方を求めることが目的になっている。細かい議論は少し置いておこう。確かに第二次フェミニズムの戦いは終わっていないという主張も理解できるし、第四次フェミニズムが始まったという見方もあることは事実ではあるが。ここで注目したいのは、フェミニズム運動は、参政権から始まったということだ。女性の参政権獲得により、女性への差別はそれまでと比べると大きく減ってきたと言える。そして、表面的には差別は減ってきたのかもしれないけれど、意識的には差別してるじゃないか。ということが問題になった。この問題はまだ解決していないといってもいい。しかし、大きな転換が起きたことを考えるに、目的と手段を同じベクトルに向けないということがもしかしたら大切なことなのかもしれない。つまり、男女平等のために参政権の獲得を目指すことと同じように、黒人と白人の平等を目指すために、プロテストするのではなく、何か違うベクトルのものを目指すことなのではないだろうか。フェミニズムにおける参政権は表面的なものであった。黒人と白人の平等のためには、もっと内面的なもので、違うベクトルを向いたものが必要だと思う。</p><p>&nbsp;</p><p><a data-rich-text-format-boundary="true" href="https://www.amazon.co.jp/%E9%80%83%E4%BA%A1%E8%80%85-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E6%96%87%E5%89%87/dp/4344035933">中村文則「逃亡者」</a>にこのような文があった。「君達はこのまま敗北し続けていくだろう。人権や多様性と言いながら敗北していくだろう。黒人達のために立ち上がった、キング牧師の言葉は知っているだろう？『最大の悲劇は、悪人達の圧制や残酷さではなく、善人たちの暴力である』……君たちは善人達の沈黙に負けるだろう。君達の言葉は、そのような善人達を苛々させるだけのものだから。率直に聞こう。君は自分を大衆と思っているか？君は自分を大衆であると嘘ではなく本気で認識し、さらに大衆を愛することができるか？」（p.450）この言葉には、なかなか考えさせられる。</p><p>差別をなくすには、忘れることだと言った。本当の意味でなくならないのではないかと。しかし、無意識に行ってしまっている差別もあれば、相手の立場にならないとわからないような差別もある。だから忘れるということだけで解決できないのだろうなあとも思う。</p><p>やはり「声を上げる」ことは必要で、改善したい状況になるまで続けるということが重要なのだろう。その状況になれば、その状況が忘れられるくらいに当たり前になることで、一歩ずついい方向と思われる状況へ進めていくのだろう。だからこそ最初の舵取りはとても重要になる。何に対して声を上げるべきか。これを間違えてしまえば、よくないのだろう。</p><p>しかし、間違えるとは何を持って間違えるというのだろうか。例えば、絶対的な正しさはあるのだろうか。それがわからないから人は法を作ったのだとすると、絶対的な正しさはいわゆる「神のみぞ知る」ということになる。そうなると、現在正しいとされているグローバル化や様々な文化を受け入れるということは、唯一正しい神がいるのであれば、その神を否定する人を増やすことであり、そのような世界が正しい方向に向かっているのかという疑問が出てくる。</p><p>だからこそ、冒頭の言葉は善人達の沈黙をそのような絶対的な正しさを持った人たちの苛立ちと説明したかったのかもしれない。いずれにしても難しい。</p></div>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658550768.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 20:17:10 +0900</pubDate>
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<title>140字の世界について</title>
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<![CDATA[ <p>Twitterは現在、140字の制限がある。</p><p>&nbsp;</p><p>最近、よくTwitterで様々なことが議論されている。特に目立つのが、政治的な話題だが（これは以前から激しい議論が交わされているが、）特に世論がTwitterのトレンドなどと同一化され始めてきているように感じがする。例えば、黒川検事長の定年延長に反対する「&lt;strong&gt;＃検察庁法改正案に抗議します&lt;/strong&gt;」がわかりやすい例だ。これに続いて、様々なハッシュタグ がトレンド入りしたり、そうでなかったり。Twitterのトレンドが世論になり始めているのは感じる。</p><p>しかし、実際はどうなんだろうか。個人的に感じるのは、今これほどまでITが発達したのであるから、Twitterのトレンドをいじるくらい意外に簡単なのではないだろうか。例えば、いくつかのアカウントを自動投稿機能で、同じような文面で、Twitterに投稿していくのは簡単なことで、それに誰かが反応すれば、そのツイートへのリアクションは増大する。もし、著名人にリツイートされるものなら、かなりの人に見られることになるし、「この人がリツイートしてるってことはきっと正しいだろう」となる可能性は非常に高い。そうやってトレンド入りしていくということはある程度真っ当な意見である証拠でもあるけれど。結局言いたいことは、「トレンドって意外に簡単に作れるんじゃないの？」ってこと。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、140字の世界では何がわかるのだろうか。</p><p>確かに返信機能などをつかってさらに増やすこともできるが、自分の主張だけならまだしも、第三者との議論になると、大体は140字にまとめないといけない。そんなのむりだろう。どうやったって自分の意見の主張もできないわ、相手に対しての反論も難しく、極論を言ってしまいがちだ。Twitterはまさに「呟く」ためのものであり、議論する場ではないということを再認識することができた。</p><p>最近、ふとTwitterのアカウントを消してみた。最近は哲学や本を読む人のアカウントを見ていたが、よくよく考えたら非常に無駄なことをしている気がした。勉強している気になっていた気もする。でも意外にそんな人たちとの交流は楽しかったし、有意義なものだったとも言える。まあでもアカウント消してみて思ったのは、非常に無駄な情報が多かった。その中から有益なものを選んでいく作業はしんどいことがわかったし、めんどくさかった。何か言いたいことがあっても140字じゃ語れない。ということはつまりなくてもいいなと思った。</p><p>まあ、何が言いたいかというと、140字の世界では、自分を語るには狭すぎるし、他人と議論するにも狭すぎる。つまり重要なことは、Twitterからは探さないこと。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、Twitterの１番の優秀なところは、災害時などの状況の把握は一番早い。どこで何がどうなっているのか。ハッシュダグを追っかけていけばすぐにわかる。ニュースなんかより全然はやい。例えば、今後東京で、大都市で、地震や大雨など災害が起きた時に、Twitterで見れば、心配な人の周りの状況や、心配な人の状況さえもわかったりする。だけどそうやっても不安を募らせることしかできないし、実際に自分が動ける範囲でないと、物理的に助けることは難しい。祈るしかないし、少しでも早く心配な人の安否確認をすることが一番だ。なぜならTwitterに投稿するくらいなら、心配してくれる人の連絡にも答えるだろうから。</p>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658549258.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 20:10:07 +0900</pubDate>
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<title>今の自分をどうすれば認知できるのか</title>
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<![CDATA[ <p>こういうの気になってるからなんとなく思っていることをまとめてみる。というか今の自分がかなりこれからについて焦っているからという理由もある。<br>自分を認知するとは、そもそもなんなのかというところだが、自分もあまりよくわかっていない。しかし、一つ上の視座から自分を見つめるという感じ。客観的と言えば客観的なのかもしれないが、主観的な要素も含めた客観視みたいな感じな気がする。</p><p>自己分析とか色々あるが、よくみるものは正直なところ表面的すぎてあまり価値を感じない。人間にはもっと根源的に自分を知りたいという欲求がある気がする。</p><p>例えば就職の際、どうやってやりたいことを見つけるのか。やりたい業種を選び、興味のある業界を選び、、、としてては、やはりずっと続けていくには難しい壁があるような気がする。要は自分探しというものに近いけど、それをするべきなんじゃないかなと思う。でも実際は、周りの目もあるから、早く決めないといけないという焦りなどから、あまり多くの時間を割くことができないのだろうか。しかし、自分は、自分なりに自分というものがなんなのかを必死に探してきたつもりではいる。まだ見つけてはいないがなんとなく、方法として自分が個人的行っているであろうやり方は三つかなと思うからそれを書き留めておく。もう少し調べたり知見のある人に聞いたらこんなんじゃないと言われるかもしれないが、あくまで主観であり、特に参考文献などもない（と思う）。</p><h3>パターン1 -問いを続ける-</h3><div><p>一つ目の自分というものがなんなのかを探すための方法は、自分に対して問いを続けることだと思う。自問自答というやつで、様々な場面に使えるが、一番有効的なのは、感情的になった時だろう。例えば何かに怒ったときや、悲しんだときだろう。ネガティブな気分になったときとも言えるかもしれない。しかし圧倒的で深い悲しみや苦しみのなかで、自分に問うことは、きついと思っている。そのような問いに答えは見つけにくい気もする。内容はほとんど理解できなかったが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後の命題「語りえぬことについては沈黙するべきである」という言葉通り、考えてもわからないことはあるし、言葉にできないものは存在すると思う。それらを言葉にしようとすることは不可能ではあるが、その行為自体に意味があると、フロイトか誰かの精神分析の話ではあった気もする。辛い記憶を語ることで、それが癒されると言ったようなものだ。しかしここでいう辛い記憶とは、抑圧された記憶であり、私たちが普段認知している「あのとき辛かったなあ」くらいで思い出せるものではないみたいなものらしい。少し話がそれたが、自分に問い続けることは非常に重要なことであると思われる。</p><h3>パターン2 -エクスポージャーを受ける（晒される）-</h3></div><div><p>エクスポージャーとは、自分が非常に尊敬している先生がよく言っていたことだ。この言葉には、晒されるという意味があるが、どういうことだろうか。自分の解釈では、これは様々な人の様々な批判や声を浴びるところに飛び込んでいくという意味なのだろう。少し話は変わるが、最近プライドというものは、自分を守るためのものなのではないかという仮説みたいなものがある。つまり誰かから批判を受けたとき、無意識的にそれに反対したくなる（もしくは他者のせいにする）ものをプライドの一つと呼ぶのではないかと思った。批判や否定をされたとき、「あいつはわかっていない」とか「この人とは価値観が違う」とか「時代が自分に追いついていない」とか無意識的に考えてしまったり。それ自体が悪いとかはわからないが、少なくとも若いというより経験が少ない自分にとってはいわゆる余計なプライドであることが多い気がする。よく自分の殻を破るという言い方があるが、プライドというのがその殻にあたるものなのではないかと思う。話を戻すと、批判や否定の声にさらされることで、否が応でも受け入れざるを得なくなる。そこで、自分の殻を壊し、自分が守りたかったもの、つまり自分という存在の本当に大切な部分を見つけることができるのではないだろうか。そしてそれを守るためのプライドを再構築することができれば、自分というものが一体なんなのか、少しはわかるようになるのかもしれない。<br>しかし、ここで重要なことは、批判や否定に対する態度である。プライドとは、自分を守るものであると述べた。これは人間にとって本当に重要なものだと思う。だから人格までを否定されてしまうと、命をつないでいくことすら、難しいことになりうるのではないか。だから受けるべき批判と受け流すべき批判は二種類に分けられ、自分の存在や人格を否定されるような批判は受け流さないといけない。自分の言ったことに対しての強い批判は受けるべきである。しかし、その批判される元々の自分の伝えたことは、自分の本気で考えたことでないと、意味がないと思う。この手法は強烈ではあるが、受動的になってしまうと命に関わるかもしれない問題でもあるので、難しい。</p><h3>パターン3 -とりあえず進んでみる-</h3></div><div><p>これは、自分のやりたいことや自分とは何かみたいな問いには答えは考えたって見つからない的な立場の人が考えるのだと思う。例えば「何か興味のあることに進んで、それを全力でやってみたら、また違う何かが見えてきて、それをやっていったらさらに違う何かをやってみる、、、」と続けていくことである。そうしたら、いづれ何か見えてくるんじゃないのかという期待でもある。構築主義とまでは言わないかもしれないが、それに近い気もする。</p><h3>終わりに</h3></div><div><p>以上、色々書いてみたが、自分の中でもまだ何も決まっていないし、焦りもある。だけど、自分の中で完結してはいけないものでもあると思うし、でも自分で決めなければいけないことでもある。まあ、焦るからこそ、色々と考えないといけないし、その必要に迫られるとも思う。この焦りを上手く使っていければいいと思う。</p></div>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658547177.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 19:59:52 +0900</pubDate>
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<title>優しさについて</title>
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<![CDATA[ <h3>はじめに</h3><div><p>優しいとはどういうことか。例えば、なんでもいいが「センスいい！」とかいう言葉って、結局はその人の好きなものと相手の好きなものが一致したときに感じるものであって、決して客観的なものではない。（確かに客観的なセンスがいいという言い分はある気もするが、それは”一般的に”センスがいいとされているものをその人がセンスがいいいと思っているからであって決して客観的ではない）それと同じように、優しいとは主観的なもので、人によって異なるものなのだろうか。それとも何か例えば傷ついた人を励ましてあげるなどと言ったある特定の行動やその行動の背景にある気持ちには何かしらの客観性があるのだろうか。今回は優しさの中でも<strong>「優しい人」</strong>について考えてみたい。</p><h3>はじめに②</h3></div><div><p>優しさには、変遷があると聞いたことがある。例えば、一人で泣いている人に対しての一般的に優しい人と言われる人がとる行動が変わってきているらしい。<br>昔（具体的にはわからないがなんとなく昭和ってイメージがあるけど）の優しい人と言われる人は、泣いている人がいたら、情熱的に？「元気出せ！何があった！？」みたいな感じで励ましに行くことが優しさとされたらしい。<br>しかし最近の優しさは少し違う。泣いている人がいたら、距離をとり、その人が泣き止むのを待ち、その人が話せるようになったら話を聞いてあげると言った感じが本当に優しい人だと思われる節がある。</p><p>これらの変遷から「優しさ」とは変わっていくものなのか。それとも何か変わらない普遍性がどこかにあるのか。そのようなところについて考えてみたい。</p><h3>優しさとは客観的なものか？<br>それとも主観的なものか？</h3></div><div><p>これは、どのようなシチュエーションについて検討しているか、明白にすべきだろう。その上でここにおける議論をしていこうと思う。シチュエーションとしては、AさんがBさん（受け手）の困っていることを助けてあげた、というシチュエーションだとしよう。</p><p>まず、優しさとは客観的にこれが優しさだと言えるものがあるのだろうか。つまり、AさんがBさんを助けたという行為自体は事実であり、それは優しさになるのだろうか。もしくは、非常に主観的なもので、例えば何かをしてもらったときにBさんがAさんに対して優しいと思ったということは、確かに主観的ではある。またもう一方で、助けたいという気持ちを持って、接したのであれば、それは「優しさ」だとも言えるようにも思える。</p><p>このシチュエーションにおいて、もう少し深く掘り下げてみる。もし「優しさ」というものが客観的に判断されるものであれば、もし仮にAさんがBさんを助けたとき、Aさんが下心を持っていたとしても（例えば、Aさんの社会的立場が上がるからなどの動機だった場合）、もしくは意図せずに偶然助けてしまったとしても、行為のみをみて判断するべきなのだろうか。おそらくそれは「優しさ」とは呼ばないのではないだろうか。</p><p>では、主観的に判断されるのであれば、何が優しさなのか。例えば、Aさんが特に何も思っていなくても、Bさんが優しいと思えば、Aさんは優しいことになるのだろうか。はたまた、Bさんはとてもありがた迷惑だったのに、Aさんが「助けたい」という気持ちがあれば、「優しい」ということになるのだろうか。どちらも難しい。</p><p>さらに登場人物を一人足して、優しさについて考えてみよう。ここでよく思い浮かべる例え話がある。どこかで聞いた話かもしれないし、どこかで脚色した話でもあると思うけど。<br><br>AさんとBさんが一緒にいて、Cさんは一人で放課後学校から帰ろうとしていた。雨が降っていた。AさんとBさんは傘をそれぞれ持っていて、Aさんは折り畳み傘と普通の傘の二つを持っていた。Cさんは傘を忘れて、雨が降る中急ぎ足で帰ろうとしていた。Bさんは、それに気付き、AさんにCさんにかわいそうだからと、傘を持っていくように伝えた。AさんはCさんに傘を渡した。Cさんは無事雨に濡れずに帰ることができた。<br><br>と言ったような話だ。この話の中で「優しい人」とは誰になるのだろう。これは上述した何を「優しさ」とするかという視点によって様々な見方がある。Aさんは確かにCさんに傘を届けたが、Aさんは特に善意があったわけではない。しかし、Cさんにとっては優しい人はAさんになるだろう。しかし、もしそうだったら、本当に優しい人はBさんなのではないだろうか。Bさんは最初に気づき、善意を持ってCさんを助けようとしたという点では、優しい人であるだろうが、Cさんにはそれはわからない。</p><p>さらに登場人物を一人足して、優しさについて考えてみよう。ここでよく思い浮かべる例え話がある。どこかで聞いた話かもしれないし、どこかで脚色した話でもあると思うけど。<br><br>AさんとBさんが一緒にいて、Cさんは一人で放課後学校から帰ろうとしていた。雨が降っていた。AさんとBさんは傘をそれぞれ持っていて、Aさんは折り畳み傘と普通の傘の二つを持っていた。Cさんは傘を忘れて、雨が降る中急ぎ足で帰ろうとしていた。Bさんは、それに気付き、AさんにCさんにかわいそうだからと、傘を持っていくように伝えた。AさんはCさんに傘を渡した。Cさんは無事雨に濡れずに帰ることができた。<br><br>と言ったような話だ。この話の中で「優しい人」とは誰になるのだろう。これは上述した何を「優しさ」とするかという視点によって様々な見方がある。Aさんは確かにCさんに傘を届けたが、Aさんは特に善意があったわけではない。しかし、Cさんにとっては優しい人はAさんになるだろう。しかし、もしそうだったら、本当に優しい人はBさんなのではないだろうか。Bさんは最初に気づき、善意を持ってCさんを助けようとしたという点では、優しい人であるだろうが、Cさんにはそれはわからない。</p><p>さらに登場人物を一人足して、優しさについて考えてみよう。ここでよく思い浮かべる例え話がある。どこかで聞いた話かもしれないし、どこかで脚色した話でもあると思うけど。<br><br>AさんとBさんが一緒にいて、Cさんは一人で放課後学校から帰ろうとしていた。雨が降っていた。AさんとBさんは傘をそれぞれ持っていて、Aさんは折り畳み傘と普通の傘の二つを持っていた。Cさんは傘を忘れて、雨が降る中急ぎ足で帰ろうとしていた。Bさんは、それに気付き、AさんにCさんにかわいそうだからと、傘を持っていくように伝えた。AさんはCさんに傘を渡した。Cさんは無事雨に濡れずに帰ることができた。<br><br>と言ったような話だ。この話の中で「優しい人」とは誰になるのだろう。これは上述した何を「優しさ」とするかという視点によって様々な見方がある。Aさんは確かにCさんに傘を届けたが、Aさんは特に善意があったわけではない。しかし、Cさんにとっては優しい人はAさんになるだろう。しかし、もしそうだったら、本当に優しい人はBさんなのではないだろうか。Bさんは最初に気づき、善意を持ってCさんを助けようとしたという点では、優しい人であるだろうが、Cさんにはそれはわからない。</p><p>まあ、そもそも一連の行為をCさんが喜ばないと意味がない、という究極の課題があるのは否めない。</p><h3>優しさとは一人称なのか、二人称なのか、三人称なのか</h3></div><div><p>以上の議論では、「優しさ」というものは、三種類に分類できるような気がする。</p><p>一人称の「優しさ」とは、自分が相手に対して、深い思いやりを持っていれば、それがどのような行為や結果でも「優しさ」となりうるということ<br>二人称の「優しさ」とは受け手が優しいと受け取ったらその人の行為は「優しさ」になりうるということ<br>三人称の「優しさ」は、それをみた誰かがあの人の行為は「優しさ」であると判断するということ</p><h3>優しさとは結果論なのか、動機論なのか</h3></div><div><p>以上の議論を踏まえて、優しさとは結果論か動機論なのかという問いも出てくる。しかし、その二元論ではなく、どちらも必要なのだろう。つまり、結果論として、かつ動機論として、優しさは定義できるのではないだろうか。</p><h3>普遍的なそして絶対的な「優しさ」は存在するものなのか</h3></div><div><p>優しさとは上記にあげた三つだけではないだろう。</p><p>例えば普遍的な優しさというものが存在するのだろうか。つまり神の視点における優しさはあるのだろうか。（神がいるかいないかの議論は一度置いておいて、ここでは、誰がみてもあれは優しさだと断言できるということである）まあ、かなり難しいが、確かに優しさはあるかもしれない。具体的な行為とかだと、ないかもしれないが、抽象的な構図的ではある気もする。<br>例えば、誰かが誰かの困っていることを助けたいとかなどに準ずる動機（哀れみ？同情？）で、相手からは何も奪わずに行い、その結果的にその相手が嬉しいなどと言ったポジティブな印象を持てば、それは優しさがあったと言えるだろうし、それは誰がみてもそうなのではないか。<br>しかし、具体的なもので定義しようとしてしまうと、たちどころに誰がみても「優しさ」だ、と断言できるものはなくなってしまいそうである。</p><p>次に、一人称と二人称の間にある優しさだ。BUMP OF CHICKENの「ひとりごと」には、優しさについての考察がよく歌われている。この歌はまるで哲学みたいだった。</p><blockquote><p>ねぇ　優しさってなんだと思う<br>僕少し解ってきたよ<br>きっとさ　君に渡そうとしたら<br>粉々になるよ</p><p>…</p><p>ねぇ　優しさってなんだと思う<br>さっきより解ってきたよ<br>きっとさ　君の知らないうちに<br>君から貰ったよ</p><p>…</p><p>望みは望まない事<br>僕が知らないうちに<br>君のためになれる事</p><p>…</p><p>ねぇ　優しさって知ってるんだ<br>渡せないのに貰えたんだ<br>きっとさ　人と人の<br>心の外の中だけに　在るんだ</p><p>…</p><p>ねぇ　優しさってなんだと思う<br>もう考えなくたっていいや<br>本当さ　僕ら知らないうちに<br>僕らで作ったよ<br>二人で出会ったよ</p><cite>BUMP OF CHICKEN 「ひとりごと」</cite></blockquote><p>これを見ると、今まで行ってきた議論に似ている。（そりゃこの歌を聞いてたからそうなるのも仕方ないけど）つまり、一人称でもない。二人称でもない。その間にあるもので、二人の関係性が優しさであるということなのかもしれない。それにしてもきれいに文を作るなあと感心させられる。</p><p>しかし、この歌を見て、気づいたことがある。</p><p>関係性の中にしか優しさは生まれないのだろうか。例えば、電車で見知らぬおばあちゃんに席を譲ったら、その人は優しいとはならないだろうか。だが、森山直太郎（正確には御徒町凧かな）はそれを本当の優しさではないと否定している。まさに私が知りたいのは本当の優しさである。</p><blockquote><p>本当の優しさとは<br>人に席を譲ってあげることではない<br>譲られた席には<br>自分で選んだ責任と勝ち取った喜びがないから</p><p>…</p><p>本当の優しさとは<br>無闇に励ましてあげることではない<br>光は暗闇を射すのだから<br>一人で生きる孤独を奪い取ってはならない</p><p>…</p><p>本当の優しさとは<br>優しさについて考えることではない<br>例えあなたがいなくても<br>世界はただ在るのだと認めてみせること</p><p>本当の優しさとは<br>自分で自分の幸せを掴み取ること<br>そのこと語らい<br>宇宙の広さを互いの内に感じ合うこと</p><cite>森山直太郎　「優しさ」</cite></blockquote><p>確かに言われてみれば、と納得してしまうこともある。特に一人で生きる孤独を奪い取ってはならないということは、抽象的すぎて難しいが言いたいことはわかるし、そう言われたらそうかもしれないと思ってしまう。実際にそうすることはとても難しいだろう。大切な人になればなるほど、それが難しくなる。そして自分が孤独というものの辛さを知っていると尚更である。ただしこれが正しい場合だ。歌になっているからって正しいわけではない。</p><p>両者に共通するのは、優しさについて考えることは、ナンセンスであるということだ。最後の歌詞は、一見一人称にも思えるが、やはり二人の間の関係性のなかに存在していることがわかる。</p><p>つまり、歌詞から見る優しさとは、誰かと誰かの間にあるものなのだろうし、それをお互いが認識するということなのだろうか。優しさとは、<a href="https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/intersubjectivity.html" rel="noreferrer noopener" target="_blank">間主観性</a>であるとも言えるのかもしれない。</p><p>では誰に対しても優しい人なんていないのだろうか。いや、わからないがそれは愛というものなのだろうか。それに近いのだろうか。よくわからないが、考えてみたい。</p><h3>終わりに</h3></div><div><p>優しさとは何かについて、色々と考えてみたが、なんとなくわからないままであったような気がする。しかし、自分はきっとどこかで、いわゆる「優しい人」でありたいとは思っている。それは「優しい人」であることで自分を守れるからなのかもしれないが、わからない。でも誰かに対しての優しい人でありたいし、誰に対しても優しい人でもありたいとは思う。実際は全くそうではないし、優しくありたいと思える人に対しても優しくできているかというと、胸を張れるほどではない。</p><p>以上の様々な思考が無駄なのかそうではないのかはわからないが、無駄でないことを祈りたい。</p></div>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658546642.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 19:57:11 +0900</pubDate>
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<title>1945年8月9日11時02分に長崎に落とされた原爆について</title>
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<![CDATA[ <h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="2f061b83-f6bd-4317-a00c-6a7c595238df" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-2f061b83-f6bd-4317-a00c-6a7c595238df" role="group" tabindex="0">はじめに</h3><div>日本に住んでいる。長崎に住んでいる。何かしらの発信するツールがある。8月9日が近い。これだけでも長崎の原爆について語るには十分すぎると思う。原爆の詳細な説明やそれによって何が起きたのか、また、それに対してどのような活動が現在されているか、などは非常に重要だが、この投稿では扱わない。ここでは非常に主観的でな個人的な意見を述べたい。これは「当たり前」で「浅い」内容でもあるかもしれないが、思いつくだけの様々な議論に対する自分の答えを書いてみたい。</div><div><h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="dba03335-e6ed-4ee5-9fa5-0b5490df9460" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-dba03335-e6ed-4ee5-9fa5-0b5490df9460" role="group" tabindex="0">原爆は戦争を終わらせるために必要だったのか</h3></div><div>そうは思わない。感情的なところは抜きにしても、例えば、誰かに何かをしたら「仕返し」がくるからだ。それくらいの想像力はどんなに頭が悪くてもあるはずだ。</div><div>アメリカの原爆は、決して戦争を終わらせるためのものではないし、戦争を終わらせたわけでもない。なぜなら、本当に戦争を終わらせたいのであれば、武力行使は一番非効率な方法である。つまり憎しみは憎しみを生むということだ。もし武力行使をしたら、そしてその兵器が原爆だったら（当時原爆に対する”非人道的”な影響はアメリカ側も認識していた）、仮に戦争が終わったとしてもその人たちの憎しみは残り続ける。その憎しみからまた新たな争いが生まれることは容易に考えることができることだったはずだ。本当に戦争を終わらせるためだったら、誰も殺さずに和解をするべきなのだ。だから、アメリカは戦争を終わらせるために原爆を落としたのではない。そして原爆は戦争を終わらせるために必要なものでもなかっただろう。アメリカが戦争を終わらせるために行ったことはGHQによる教育などなのではないだろうか。それが戦争を終わらせたかどうかはわからないが、少なくともいいイメージを植え付けさせ、反抗する気持ちをなくさせようとしたことは事実だろうし、それが戦争を終わらせるために行ったことだっただろう。本当の意味で戦争を終わらせたのは日本で、無条件降伏をし、サンフランシスコ平和条約を結んだからである。どちらもおかしいのに違いはないが、話が逸れてしまうので割愛。原爆が終戦に必要だったのかは、結果を見ると、そう見えなくもないが、実際は違うし、決して原爆がないと戦争が終わらなかったというわけではない。</div><div><h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="b179d077-06a0-4afd-b006-0ba8fa40a68b" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-b179d077-06a0-4afd-b006-0ba8fa40a68b" role="group" tabindex="0">原爆はなぜ、その他の兵器よりも特にダメなのか？</h3></div><div><p>いきなりだが、この問いはよくない。つまり、ダメなのは兵器は全てダメだろう。その中でなぜ原爆が、もう少し範囲を広げると、"nuclear weapon"の影響がよくフォーカスされるのか。</p><p>正確なことはわからないが、体験として感じるのは、それが地球を壊しかねない威力を持っているからではないだろうか。確かに非人道性はある。後遺症が起きたり、一見被害がない人にも見えない被害があったり、遺伝子に影響する可能性だってあるから。しかし、だからと言って「じゃあ銃で人を殺すのはまだ、、、」というと、そうではない。それだって十分非人道的だからだ。非人道かどうかの基準では、測ってはいけない。</p><p>では、原爆のことを主張することはよくないのではないか？ということが言われるかもしれない。しかしそれについても否定できるはずだ。広島・長崎は原爆によって、戦争によって壊滅的な被害を受けた。それは事実だし、日本や世界中にそのニュースは伝えられ、その破壊力とその持続力に多くの個人が恐怖を覚えた。そんなものあってはいけないと思うのは当たり前だ。そして、それが行使されるのは、国と国の戦争であって、個人がそれぞれnuclear weaponを持っているわけではない。そして、原爆というものについて語られる際、必ず戦争という状況にも言及しないといけない。だから上の文はある意味ではあっているのかもしれない。原爆のことだけについて語る（批判する）ことでは不十分だ。それには原爆に限らず戦争についても語らなければならない。</p><h3>平和とはなんなのか</h3></div><div><p>戦争という言葉によくついてくるのが、「平和」だ。長崎にいると「平和」という言葉をよく聞く。じゃあ、平和とは一体なんなのか。シンプルで強力な答えは「争いがない状態」のことを指すのだろう。しかしそんな状態はあり得るのだろうか。誰かと誰かが喧嘩をする。これはある意味で（例えば小学生などの発達に必要なという意味で、もしくは、それぞれの正義を主張しあうことでの議論が発展するという意味で）必要なことなのかもしれないし、必ずしも否定されるものでもないと言える。やはり国家間の争いがない状態を「平和」というのが、今の自分の中では、ふに落ちている。（しかし、それではお金が動かないという政治的なものもあるみたいだが、そのようなくだらない話はおいておこう）</p></div>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658544707.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 19:48:15 +0900</pubDate>
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<title>プライドを捨てることもしくは自分の殻を破ること、そして、自分を変えるということについて</title>
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<![CDATA[ <h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="1eb4801f-3b2b-4e05-839f-c9e6f7c5bb95" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-1eb4801f-3b2b-4e05-839f-c9e6f7c5bb95" role="group" tabindex="0">はじめに</h3><p>以前、今の自分をどうすれば認知できるのかという記事を書いた。これは、自分なりに色々と模索していたことでかんがえたことを備忘録的にまとめてみたものだ。ここで、エクスポージャーを受ける（晒される）こともその方法の一つとしてありそうだと書いた。この記事では、これについてもう少し掘り下げてみたい。そして今の自分と重ねて、これから何をするべきなのかという純粋で素朴で単純な疑問に一つの示唆を与えるための、記事にしてみたい。</p><p>まず、プライドと自分の殻についてざっくりと思ったことを書いてみる。</p><h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="a376ef9e-cef9-4fae-b4d1-e07f2eb3fc9a" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-a376ef9e-cef9-4fae-b4d1-e07f2eb3fc9a" role="group" tabindex="0">プライドとは何か</h3><div>まずは、プライドとは何か？についてだ。プライドは自分を守るための大事なものだと思う。しかし、余計なプライドというものもある。よく聞かれるし、自分もかなりある。では、余計なプライド、つまり捨てるべきプライドはなんなのか。そもそも、捨ててはいけないプライドとはなんなのだろうか。プライドとは、自分を守るものである。適当に図を書いてみた。</div><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210223/19/bsccrst/e0/92/p/o1024102414900943879.png"><img alt="" height="420" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210223/19/bsccrst/e0/92/p/o1024102414900943879.png" width="420"></a></div><div>ここで、プライドが二つある。便宜的にプライド①とプライド②と名付ける。本当はもっとあったりするのだろうが。そしてそれらが守っている「自分」がいる。この自分とは根本的な自分であり、これがないと自分が自分ではなくなるような、重大な意識でもある。自己肯定感などが流行りの言葉だが、自己肯定感がなくても生きていける。自己肯定感をなくした先になくなってしまうものがこれである。これがないと自分が自分ですらなくなるというような、無意識の内にあるような自分である。精神分析的に何か名前がついていそうだが、ちょっとわからないので、「自分」とする。</div><div>説明はこれくらいにしておき、本題に入ろう。「自分」を守るために、プライドが存在するといった。では、なぜそもそも余計なプライドができるのだろうか。それは、私たちが生きている社会と非常に深く関係しているだろう。きっとそれは生まれた時から人間が何かを認識する経緯にとても関連しているだろうと思う。私たちは生まれた時は言葉も何も知らずに生まれてくる。しかし、そこに親の声が聞こえ、母親であろう人ママ、パパとしきりに喋らせようとしている。ママ、パパと話してみると、目の前にいるよくわからない生き物が嬉しがる。なるほどママ、パパと喋ってみればいいのかという具合に、いろいろなものを認識していく。あらゆるものをママと呼び、パパと呼ぶ。それはママじゃないよ、パパじゃないよと、教えられどんどんと言葉を習得していく。そして、社会規律を教えられ、他にもいろいろなことを教えられる。その途中には、必ず原初的な傷を受ける。その時にどうにか自分を守ろうとすることがプライド①の始まりである。そして、自分の社会性が成長していくにつれ様々な傷が重なっていく。そうすると、さらに社会的なものを守ろうとするためにさらなる自分の社会性を守るためのプライドが構築されていく。そうやって、若い内にいろいろなプライドが重なり合っていくのではないだろうか。それがプライドなのではないだろうか。</div><div><h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="f9bbce77-bb26-4535-8208-94449848eec4" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-f9bbce77-bb26-4535-8208-94449848eec4" role="group" tabindex="0">自分の殻とは何か</h3></div><div>よく、自分を変えるためには自分の殻を壊すことが大切だと言われる。では、自分の殻とはそもそもなんなのか。個人的には大きな意味では、上述したプライドと同じだと思う。しかし、細かくは違う気がする。つまり、自分を守るためのものではあるが、何かに踏み出すことを止めるプライドのことをからと呼ぶのではないだろうか。</div><div><h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="25b73ddf-8f9c-41cb-9f35-e474ab3429c0" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-25b73ddf-8f9c-41cb-9f35-e474ab3429c0" role="group" tabindex="0">自分を変えることは正しいのか？</h3></div><div>よく、自分を変えたいという話を聞く。その時に思うのは、そもそも変えるべきなのかという問いである。おそらくは自分で自分を責めたりしてしまいがちだろう。この問いは、何が正しいのかという問いにもつながってくる。例えば、内向的な人（自分もそうだが）は、周りから言われて、自信が無いように見えたりする。それを変えた方がいいと言われることがある。しかし、それは本当に正しいのだろうか。本当に変えるべきなのだろうか。上述したように様々なプライドは、原初的な傷を守るために作られたものと、社会的な文脈から与えられた傷を守るために作られた二つのプライドがあるのではないか、という仮説をたてた。そして、周りの人から言われること、例えば、声が小さいとか、自分をあまり出さないとか、、、果たしてそれは変えるべきことなのだろうか。<br data-rich-text-line-break="true">例えば、とてもはっきり話す人と、全然何も話さない人と、自信がなさそうに話す人。ここでは、誰が何を変えるべきなのか。ここの価値基準も私たちは社会の基準にしたがっている。つまり資本主義社会の土台の上にある。例えば、はっきり話す人はなぜいいかというと、詰まるところ、お金を稼げるからなのではないか。そういう社会において失敗しづらい。そのような価値基準から外れた残りの二人はまるで自分が社会不適合者だと思い込んでしまうのではないか。ある意味ではそれは正しいのだろう。確かに資本主義の枠組みから見たら不適合なのだろう。しかし、その目線だけで見てはいけないとも思う。複合的な観点とはよくいうが、まさに社会的、人間的な観点からみるべきなのだと思う。</div><div>そしてその上で、自分を変えることは必要なのだろうか。しかし、きっと自分を変えていくことは可能ではあるだろう。正しいかはわからないが、自分が自分を変えたいと思う時、それは一度自分をよく見てみるべきだ。それこそ、なんで変えたいと思うのかという点において、しっかりと考えるべきだろう。しっくりとした理由があるなら変える努力をするべきだし、ないなら無理に自分を変えていくことは難しいと思う。</div><div><h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="fd08230e-de6b-497a-a3a4-a4f254fe9001" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-fd08230e-de6b-497a-a3a4-a4f254fe9001" role="group" tabindex="0">何を変えるべきなのか</h3></div><div>自分は無意識的に、自分を変えたいと思ってきたのかもしれない。環境を変えれば、自分は変われると思っていた。中学を卒業した後は、同じ中学校の生徒が誰も行かないような高校に進学した。高校を卒業したあとは、中学や高校の人たちが誰も行かないような地域の大学へ進学した。大学卒業後は全く分野が違う大学院に進学した。様々な環境を変えてきた。いずれの時も「何か変わるかもしれない」という期待を実は少し感じていたのは微かに覚えている。しかし、結局何か変われたわけではなかった。なぜかというと、結局自分の認識を変えないとどんなに環境を変えて付き合う人を変えても自分を守ろうとする姿勢は変わらないし、自分を攻撃する人から避ける姿勢も何も変えられないからだ。</div><div>私が何を変えたいのか、何に本当に嫌気が差しているのかというのは、なんとなく、答えが出ている。私にとってはきっと「人によって態度を変えること」だろう。言い換えると強い意志がないとも言える。私はいろいろな人に誠実でありたいと思っている。しかしながら、人によって態度を変えるとは、誠実ではないとも思っている。その間にあるものは、自分を守りたいというプライドであり、自分の社会的な関係性を壊したくないなどの自分の殻が自分に思ったことを言わせないし、それはそれで紛れもなく自分である。<br data-rich-text-line-break="true">ここで問題になるのは、その自分を変えるべきかどうかである。今の自分の方が人間関係等は比較的かつ表面的にはうまく行きやすいとは思うし、より多くの人と交友関係が持てる。さらに、第一印象はあまり悪くはないだろう。しかし、それこそビジネスのシーンなどになると、強い意志がないため、はっきりとしたことが言えない。その結果、自信がないと取られてしまう。これは結果的に信頼関係も壊しかねないものにもなりうるのではないだろうか。</div><div>かなり個人的な話になったが、結局自分で考えるしかないのだと思う。</div><div><h3 aria-label="ブロック: 見出し" aria-multiline="true" data-block="158d7c04-acad-432e-8e64-f6e34a9b6529" data-title="見出し" data-type="core/heading" id="block-158d7c04-acad-432e-8e64-f6e34a9b6529" role="group" tabindex="0">どうやって自分を変えるのか</h3></div><div>これには、方法はいくつもあるのだろう。できるのであれば、一番いい方法はきっと、自分の考え方を変えていくことだ。以前、できなかったことはなぜなのか。それについて、なぜその認識が間違いだったのだろうか。と自問自答し、しっくりくる認識を選び抜き、少しでも認識を変えることだ。認識が変われば、必然的に行動が変わるだろう。これは一番単純だが場合によっては非常に難しい。というのも、その変化を受け入れたくない自分も必ず存在するからだ。なぜなら、それまでそうしなかったというのは、守ろうとしていた自分がいたからである。できることなら認識を変えるのがいいだろう。しかし、なかなか難しいと思う。</div><div>他にも心理カウンセラーに診てもらうというのも一つの手だ。彼ら彼女らは、深層心理やトラウマ体験などについての扱いが非常に長けているはずだ。（まともな人なら）特にトラウマなどは、よく知らない人が踏み込んでいい領域ではないと思っている。傾聴などの技術などが必要になるので、そんな簡単にふみ込めるものではないし、その苦しみを聞いている人は全部を受け止められないといけない。誰かのためになりたいからと言って、気軽に踏み込んではいけないもので、場合によってはその人のトラウマや傷をさらに深く抉ってしまう可能性もある。しかし、カウンセラーなら、大丈夫なのではないかと思う。</div><div>三つ目は、エクスポージャー（晒されること）である。先ほど述べたプライドや自分の殻などを破るための方法であると思う。具体的には様々な批判や様々な言葉にさらされるということでもある。プライドが崩れていく。というか崩れるくらいの批判などにさらされることが重要なのではないだろうか。それを経験することで、一度余計なプライドを不特定多数の人に壊してもらうことができる。それをした時に、本当に守らないといけない自分を守るための大事なプライドができるのではないだろうか。それを経験し続けることで、より強固なものになっていくのではないだろうか。破壊と再構築である。しかし、この批判はきっとSNSの炎上とは違うだろう。よくわからない人に言われる1000の批判より、自分の大切な人に言われる1つの批判の方が重みがあるのは明白だと思う。</div><div>これらがなんとなく自分を変えるということのためには必要なものなのではないだろうか。</div>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658544016.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 19:44:37 +0900</pubDate>
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<title>電話をしながらせせりを焼いて気づいたこと</title>
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<![CDATA[ <p>友達とスピーカーにして、電話をしながら、せせりを焼いていた。料理酒を入れた方が個人的には好きなので、料理酒を入れた。その時、火が燃え上がった（まあ、当たり前ではあるのだけど）。火つくかなぁとか漠然と考えながら、友達の話を聞いていた。思ったより火がついて、思ったより驚いてしまった。その時、持っていた料理酒を急に動かしてしまったので、そこそこ量が残っていた料理酒が飛び散って、目に入った。燃えるように熱く、目が見えなくなるかと思ったが、幸い見えて、水で洗ったし、涙も出たし、多分大丈夫だろう。</p><p>私は悶絶し、目を押さえ、呻き声をあげた。しかし、それは電話相手にとってはちょうど良い相槌だったそうで、話し続けていた。</p><p>ここから得られた教訓というのは、電話の向こうでは相手が何しているかはわからないということ。相手の相槌が実は呻き声だったりすること。本当の気持ちは、見えないしわからないんだということ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/bsccrst/entry-12658542695.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Feb 2021 19:37:51 +0900</pubDate>
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