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<title>文学で現代の日本人について考える会　書評</title>
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<title>夢野久作『ドグラ・マグラ』（清水弘）</title>
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<![CDATA[ <p>ご無沙汰しております。先日、リーダーの山本くんに誰でも記事が書けるようパスワード等をお知らせしましたが、どなたも書き込まれないようなので再び失礼させていただきます。しばらく文学作品と疎遠であったため、また変テコな選択をしてしまいました。</p><br><p>先に申し上げますと、僕は『ドグラ・マグラ』を挫折しました。ですので、むしろ、読みきった方がいらっしゃればご教授いただきたい次第であります。</p><br><p>…丁寧語はなれないですね、普段の語調に直します。</p><br><p>角川文庫版では、とても不気味で奇抜な表紙になっており、要約部分に「これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる」とか書いてある。あー、ひょっとして、「胡蝶の夢」みたいな話かな、と最初は感じた。いま、私が見ている現実は、実は蝶が視ている夢にすぎないのではないか。こうした命題は真であろうと偽であろうと証明する手はないので、むうーって根を詰めてしまう人は考えるだけで精神を病みそうな話。</p><br><p>でも、本編は予想を超えて奇抜だった。</p><br><p>主人公はある部屋に寝ている。ブウ――…ンという音で目を覚ますと、そこは青暗いコンクリートの壁で覆われた二間四方の床だった。隣の壁から女の人の声がかすかに聞こえたので、呼びかけてみる。「アッ…その声はお兄さま。お兄さま、あたしです。お兄さまの未来の妻のあたし、…お兄さま、隣にいらっしゃるお兄さま、お兄さま？お兄さま、声を、もう一度声を聞かせてぇーっ！」</p><br><p>とてもシュールである。</p><br><p>で。ちょっとすると法医学の博士が部屋に入ってくる。いわく「君はある博士の精神科学の重要な被験者としてこの精神病棟にいるのであり、それは偉大な実験なのだ」と。その実験とは、人間の精神に暗示をかけて、まったく別人格を作り出すこと。精神遺伝の中にある暗示を入れておくと、その人間を発狂させることができる。</p><br><p>非常に胡散臭い。</p><br><p>まあ、仮に本当の話だとしたら、確かに大変な話だ。精神を発狂させて人を蛮行に走らせ、しかも事後、記憶を消去することも可能なのだとしたら、これほど害毒になるものはない。そしてどうやら主人公はもうすでに何らかの怪事件を起こしているようで、自分の名前も忘れている。そして、博士は主人公の名前を思い出させるため、彼と所縁のあった少女の元へと誘う。その少女は冒頭で「お兄さまっー！」と叫んでいた娘で、主人公とは一千年前の過去において義理の兄妹であったという。</p><br><p>繰り返す。非常に胡散臭い。</p><br><p>そうそう、『ドグラ・マグラ』とは何ぞや？という回答は上記のような何やかやがあった後、図書館で判明する。とある精神疾患の患者が書き溜めた奇妙な記録、それが「ドグラ・マグラ」。</p><br><p>言ってみれば作中作なのだが、この「ドグラ・マグラ」が開始されるあたりから、もう訳がわからない。</p><p>訳がわからないんだけれど、精神、ざっくばらんに言うと人間の心なんてゆうのは、そんなものだと思う。複雑で入り組んでいて、一貫性がなく出口もない。</p><br><p>「キューブ」という映画をご存知だろうか。立方体が無数に固まってできた巨大な＜キューブ＞で、立方体から別の立方体の部屋へ移動する際、一面以外には殺人の罠が仕掛けられている。つまり六面ある立方体のうち五面には罠があって、とある法則に則って部屋を移動していかなければすぐに死亡。そこに…六人だっけかな、ともかくそのくらいの人数で出口を探していくストーリー。本書を読んで、僕が連想したのはこの映画だった。関係があるかどうかは知らない。</p><br><p>本書では、「胎児の夢」というのもキーワードになっているので、きっと精神遺伝の方がメインなのだろう。夢が過去の経験をごちゃまぜにして整理する記憶の整頓機能なのだとしたら、母親の胎内から出ない胎児が夢を視るわけがない。もし、視るとしたら、それは前世の記憶だ。</p><br><p>チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマは転生思想に基づいてその地位につく。生前に使っていた先代のダライ・ラマの道具を、使ったことも見たこともない子どもが「これは僕のだ！」と主張し、後継者となるわけだ。後継者の選別は厳粛かつ厳格に行われる。これまた映画で恐縮だが、マーティン・スコセッシが「クンドゥン」でその雰囲気を映像化している。これ以外にも前世の記憶があると証言する人は世界各地で記録されている。</p><br><p>まー僕は輪廻転生とかオカルティックすぎて信じない性質だけれど、「ドグラ・マグラ」はそうした精神の謎の部分を正面からぐちゃぐちゃにして切り開こうとした小説で（たぶん）、そこから出てくる何かを信じるか信じないかは読者しだい、かな。</p><br><p>なによりかにより、昭和１０年にこんな内容の本を書けたのはすげぇ。</p>
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<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 05:19:26 +0900</pubDate>
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<title>桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』（清水弘）</title>
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<![CDATA[ <p>この書評ブログで取り上げるにはいささか不適格かもしれませんが、その時は言ってください。桜庭さんはいわゆるライト・ノベル出身で、『私の男』で１３８回直木賞を獲った人です。この本を取り上げた理由を説明するには、僕の個人的な文学観から入るのが適当ですかね。</p><br><p>文学がテーマとして掲げるモノには、多かれ少なかれ、普遍性があります。生と死、真・善・美、神の存在、罪と罰、性、エトセトラ。「そこ」を描くにはきっととてつもない執念が必要で、だからこそ、名作は時代を超えて不動のモノとしてある地位を獲得するのでしょう。そして、その不動性があるからこそ、読み手ごとに多様な解釈が存在し、批判や非難、或いは賞賛を受けても残っていく。…というと良いことづくめっぽいですが、これが危ないのは、作品が「権威」を持ってしまうこと。</p><br><p>マクロな視点でいえば、権力者が自分の民族や国の優位性を担保するために、芸術作品を収集・利用することがあります。ミクロ、つまり個人間の問題でいうなら、「知らないこと」が恥であった時代（１９７０年以前くらい）は、マルクスやサルトルを読んでいないだけで、知識人（もしくは知識人ぶった人）たちの間で馬鹿にされたらしいです。今は、別に「知らないこと」が恥と捉えられない風潮がありますから、あんまり実感はできませんけれど、なんだかとても陰湿なことに文学や芸術や思想を利用してたようですね。Ｗ・村上の著作や、ユニクロの社長のエピソードや、小林よしのりの漫画を読むとみんな同じようにそんなことを言っています。</p><br><p>いわゆる、文学が持つ「ハードルの高さ」を使って、教養書を読まない人間を低位に押し付け、自己の優位性を担保する。文学はそこにあるだけなのに、歪んだ形で利用しようとする人がいるわけです。洗練され、時代を超えた文学は、実際に利用「されうる」。これが僕の抱く文学観のようなものです。</p><br><p>さて、ここら辺からようやく本題らしくなりますが、現今のサブカルチャーである漫画・アニメは、上記のようなモノへのカウンターとしての役割を担っています。入り口が広くて、出口が狭いってやつですね。ジブリなんかはそうです。金曜ロードショーで放送するほどポピュラーなのに、突き詰めていくと深い思想がある（らしい）。最近だと、「エヴァンゲリヲン」がそれに当たってる気配があります。文学などの芸術が有する普遍性を打破するために作ったはずなのに、多くの人の共感と時代感覚を得て、エヴァが「文学」と言われるまでになってしまった。監督さんはエヴァに思い入れがありすぎて、どうやっても作品を改変することができなかったそうですが、しかし「エヴァは変わらなければならない」という執念のもと、新たに新劇場版が公開されています。あくまで、その場で消費される物語本位を貫いているように感じました。「権威」として、エヴァが時を越えることは我慢できなかったのかもしれません。</p><br><p>はい。前置きが長くなりました。そこで、『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』です。要するに、狭義の「文学」は脱時代性と普遍性を有しているから、権威として利用される「場合がある」けれど、広義の「文学」であるサブカルチャーは、権威および権力のカウンターとして、その場その時で消費されるモノじゃないですかね、という一つの考え方です。</p><br><p>本作は、あえて分類分けをしてしまうなら、肌に合う合わないは別にして、誰でも簡単に読めると思うので、やはりサブカルチャーのようなところに配置されるのかなと。簡単にあらすじを追います。早く自立して、実践的な力を得たいと考えている女の子、山田なぎさの学校に、異様な転校生がやってきます。海野藻屑（うみのもくず）。びっくりするくらいの美少女で、「ぼくはですね、人魚なんです」と自己紹介して、常に足を引きずって背後からペットボトルを投げつけてくる。先の前置きで、サブカルは権威へのカウンターだと書きましたが、この小説も二人の女の子の、社会や暴力への抵抗の話なんです。</p><br><p>なぎさは、引きこもりの兄と家計を養うために、余計な妄想や空想を排除して、卒業後、自衛隊に入りたいと思っている。彼女が使うのは、「実弾」です。金とか、実際的な技術。一方、藻屑が使うのは、甘ったるい「砂糖菓子の弾丸」。嘘と虚構ですね。しかし、物語を追っていくうちに分かるんですが、なぎさの兄は嘘のように現実離れした引きこもり（作中では「貴族」と表現されている）です。そして、藻屑は常に圧倒的な、これ以上ない現実である「暴力」にさらされて、痣や怪我が絶えません。嘘なしに現実なんて生きられないし、現実を知っていないと嘘なんか吐けないわけです。二人は互いに、自分の裏側を、目の前に見せ付けられている感覚だったのかもしれませんし、だからこそ惹かれたのですかね。</p><br><p>物語のはじめに結論が書かれている方式なので、二人の戦いの結末は、決まっている。解説の方に端的に書かれていた言い方を使うなら、「悲劇」。</p><br><p>ものっそい唐突ですが、アダムとイヴが知恵の実を食べて、楽園を追放されることも、決まっていましたよね。ガブリエルだかラファエルだかが、アダムに説教しに来たやつです。神さまは人間が誤った選択をすることを知っていたけれど、天使やイエスが「やめさせるべきだ」と反対するにも関わらず、アダムとイヴにその選択をさせた。楽園追放という「悲劇」を「選択」しなければ、人間が人間たりえない、と、人に愛着を持つ神さまは考えたらしいです。ジョン・ミルトンの『失楽園』によれば。</p><br><p>で、藻屑の悲劇をなぎさが直視するか迷ったとき、なぎさの兄である友彦が、それまでの人間離れした「神の視点」から戻ってくるんです。何があっても動じず、まるで推理小説の「名探偵」のような位置にいた友彦が、外に出て嘔吐しながら、人間に戻っていく。選んだわけですね、現実の運命を。そのときに、なぎさも本当の「実弾」を手にしたのだなと思いました。暴力とか、不条理とか、悲劇を打ち抜く、実弾。もしも虚飾に満ちた兄が「行くな」と言えば藻屑の元に、なぎさは行かなかったでしょう。しかし、藻屑のことが本当に大事であったから、なぎさの甘えにもなっていた「貴族」の兄も人間の世界に戻ってきた。嘔吐を、非常な痛みを、伴って。</p><br><p>長くなりました。それでは。</p>
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<pubDate>Sun, 22 Nov 2009 02:55:58 +0900</pubDate>
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<title>フランツ・カフカ『城』（清水弘）</title>
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<![CDATA[ <p>なんだか、止まらなくなってしまいました。</p><br><p>『城』は、測量士Ｋが、城に雇われてきたはずなのに、城にずーっとたどり着けない話。城に問い合わせても、たとえば</p><br><p>Ｋ…「城に雇われてきたのですが？」</p><p>役人…「何だって？」</p><p>Ｋ…「だから、測量士として呼ばれたＫです」</p><p>役人…「知らんね」</p><br><p>といった感じのやり取りが続く。城への案内人は城に案内せず、城下に住む村人たちも規則に従うばかり。なぜＫが城にたどり着けないのかは、役所との議論で判明する。すなわち、役所というところは縦割りで部署ごと異なる様式を持っており、ある訴えが複数の部署をまたぐ場合、間違いが起こりやすい。しかも、これを訂正する手続きは複雑で手間がかかる。だから役人も真剣には取り合わない。</p><br><p>Ｋは、相当なリスクを背負って城下の村までたどり着いているので、引くわけにはいかない。そこで何とかして城へ入る方法を見つけようとする。…のだが、いつの間にか宿屋の女中と婚約し、無職のままではいられないから学校で下働きをし、役人を襲おうと計画を立てたら実行する前に頓挫し。なにもかも前進しない。</p><br><p>僕は政治学をやっているのでこの手の話はどうしても政治学の側面から見てしまう。いわゆる、「公」と「私」の関係では二つのアプローチがあって、一つは、公は個人の活動を邪魔しない、という消極的な側面があるのだ。言論弾圧とか、思想統制とかは、してはならない。もう一つ、公は個人の要求をできるだけ聞かなければならないという積極的側面。社会福祉などがそれ。少なくとも役所は個人の活動を邪魔してはならないし、個人から届出があったときは自ら動いて対処しなきゃならない。それが近代における「公（おおやけ）」だ。</p><br><p>じゃあ、城はどちらの機能を果たしていないかといえば、どちらも、やっていないのだ。やっていないというのは正確じゃないかな？つまり、城はＫと一切関係していない、ということ。</p><br><p>別に、Ｋが村に滞在して何やかんややることを阻害してはいない。同時に、金に困ったＫに救いを出すこともない。Ｋが臨時で学校の雑用に雇われたのは、教師によれば村長の「善意」である。この辺は現代にも通じるところがある。システムとして福祉が充実していても、それが活用されるかどうかは結局のところ人の意思によりけりだと思うのだ。生活保護という制度があっても、それを利用するまでには煩雑な手続きが必要で、住居がなかったら受け取れない、という事態も昨年から頻繁に起こっている。「年越し派遣村」という善意に頼らなければ、生き残れない人たちがいる。最近は、第二のセーフティネットなど対策がとられているけれど、まだ整備が行き届いているとは言いがたい。</p><br><p>個人は、ひどくもろい。小説中でＫが陥っている苦境は、城が何もしないことに起因している。「何もしない」それこそが役所の傲慢であり、そうした傲慢が個人を殺すのは実に簡単なことなのだ。</p><br><p>mixiに普段書くようなことをこっちに垂れ流してしまいました。申し訳ない。</p>
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<pubDate>Sun, 15 Nov 2009 02:04:43 +0900</pubDate>
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<title>武者小路実篤『真理先生』（清水弘）</title>
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<![CDATA[ <p>書いているうちに、波に乗ってきました。連続投稿、失礼します。</p><br><p>題名にもなっている、真理先生はこのような人です↓</p><br><p>「金の好きなものは彼には近づかない。精神的要求のない人は彼と交際しても何の得る処はない。しかし多くの人が彼の処を訪ねるのは、彼と逢って話をしているといつの間にか心が落ち着き、明るい気持ちになり、心の内のわだかまりがなくなるからだ」（新潮文庫、２０頁）</p><br><p>真理先生は、経済から離れた仙人みたいな暮らしをしてる。お金はなくとも、先生を慕う弟子たちが、身の回りの世話を焼く。そして、物語は、真理先生をはじめとした善人の、善人による、善人のためのものだ。悪い人は一人も出てこない。</p><br><p>メーンとなる筋は、馬鹿一というあだ名の、石ころしか書かない画家が、真理先生に勧められて女の子のモデルを描く、というもの。はじめ、真理先生の弟子の愛子という娘が通う。でも、愛子はだんだんと白雲という別の天才絵師に惹かれていく。そこで、愛子の代わりに、白雲のモデルの杉子が馬鹿一のもとに通うようになる。杉子は心の清い娘で、美しかった。で、あるとき、モデルになっていた杉子がこっくり眠ってしまうと、馬鹿一はふと彼女に触れたくなる。杉子は馬鹿一に襲われると誤解して、モデルになるのを拒否する。反省する馬鹿一がとても真剣で、杉子にしても曇りがなくて、さらには杉子に代役を任せて嫌な思いをさせてしまった愛子も杉子に真摯に同情して。とかく、彼ら彼女らには裏がない。</p><br><p>人は、人間関係にストレスを感じるときがある。それは他人が自分の思い通りにならないからだ。ストレスフルな状況になったとき、自らを省みないで、人のせいにして疑心を募らせたり悪意を向けていたりしたら、余計に苦しむことになる。真理先生はこう言っている。</p><br><p>「自然はどっちにころんだって人間を生かす道があることを心得ている。だから僕は心配しないのだ」（７５頁）</p><br><p>思い通りにならない部分は、自然にお任せすること。それは決して受身ではなくて、むしろ始まりなのだ。誠意を持って相手に接すれば、必ず事態は好転する。しかし、世の中には明確で鋭利な「悪意」が存在することも事実で、それに対する防御は「分からない」と先生は答えている。「相手を殺さなければ自分が殺される状況でも、なお殺人をしてはならないか」という問いがそれだ。そうした、完全な「悪」の気配を伏線として描きつつ、『真理先生』は人生肯定家の武者小路の真骨頂という感じで展開している。</p><br><p>心が荒んだときに、とても癒される作品だ。</p>
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<pubDate>Sun, 15 Nov 2009 01:09:59 +0900</pubDate>
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<title>大岡昇平『俘虜記』（清水弘）</title>
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<![CDATA[ <p>個人的なことで恐縮ですが、今日はレポートが一つ仕上がったあとでテンションが上がっています。ので、二つ目の投稿を。</p><br><p>戦争文学というと、ヘミングウェイの『武器よさらば』とか、ショーロホフの『人間の運命』とかが浮かぶ。アメリカ人、ロシア人は、戦争に「完敗」したことがないから、あるいはそうしたことを振り返りやすいのかもしれない。日本で、間接的に戦争を取り上げる作品はあっても、直でそれを語ったものはあまり聞かないような。まだまだ文学の深層に潜ってないせいだろうか。</p><br><p>上記のような思いを持っているので、日本文学の中で大岡昇平という人は浮いている気がする。『俘虜記』は、著者が実際に体験したレイテ島での収容所生活を描いたものだ。</p><br><p>大岡が俘虜になる前、ミンドロ島での戦闘は激しさを増していた。彼の所属する部隊は、食糧も尽き、熱帯特有の熱病にかかってほとんどが息絶えていた。部隊長は、米軍が島に上陸してくるのに対抗するため、最後の特攻を試みる。そのとき、大岡はひどい腹痛に襲われ、一人部隊を離れる。自決用に手榴弾を持っていたが、それは不発で、何はともあれ生き残った。</p><br><p>当時、アメリカ人は日本人のことを「トージョー」と呼んでいた。それは、大岡が最も憎む名だった。軍部のエリートは兵士を駒のように、無責任に使い捨てる。トージョーはその最たるものだ。アッツ島、サイパン島、オキナワで、数十万の人たちに玉砕を強要しておきながら、自身はピストル自殺を試みるも失敗し、東京裁判まで生き残っている。なんとも筋が通らない。大岡だけでなく、当時前線に送られた人の多くも、そのように考えていたのではないだろうか。</p><br><p>この『俘虜記』が優れているのは、戦争を経験した人が口を閉ざしてしまう（或いはそうせざるを得ない）点を、情念によらず冷徹に書いているところにある。たとえば、原子爆弾が落とされたときの、収容所に勤めるあるアメリカ人の感想で、こうある。</p><br><p>「あまりにも破壊的だ。我々はこれを使用したことについて、将来自責を感ぜずにはいられまい」（３３３頁）</p><br><p>今年の８月か、９月かな。毎日新聞で、エノラ・ゲイの搭乗員が、インタビューに答えていた。いわく、原爆を使用しなければ、米軍が日本に上陸し、さらに両軍の被害は広まっていた。被害を最小限に留めるためには、仕方がなかったのであり、（直前に、オバマがアメリカの核使用に関して道義的責任があると言及したことを）戦後の教育を受けた者は勘違いしていて憤りを感じる、と。その搭乗員の真意がどうあれ、僕は、大岡の書いた文章が、現在まで続く「現実」なのだと言っているように感じた。搭乗員は、声を震わせて「仕方がなかった」と言わざるをえなかったのだ。直接、原爆の投下にかかわった人たちは、ヒロシマでの死者１４万人、のちの被爆者を含めればさらに大きな数を、背負い込んでる。１４万人の命だ。一人の人間には重過ぎる。当時の機長が生前、被爆者と会って被爆した手足を見たとき、言葉がなかったそうだ。彼らに、自責を背負い込ませた戦争とは、いったい何だったのか。その問いに答える一案を、『俘虜記』は提起している。</p><br><p>こう書くと重そうだけれど、読みやすく軽い部分もある。たとえば、捕虜が捕まったあとも軍隊の風習をひきずっているエピソード。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を徹底された軍隊教育下で、俘虜になることはそれこそ生き恥だった。だから生き残った人たちはなんとなく居心地の悪さ、恥ずかしさを互いに感じていた。でも、いつしか慣れて、実際の生活を続けていくうち、自然に軍隊的な調子に戻っていく。大岡はそれを、軍隊というかりそめの権威をかぶった小市民的エゴイズムと表現している。敗北し、屈服した俘虜の中においても、まだ序列をつけて威張ろうとする節操のない根性。自分が関わっていたらすごくイライラしそうなのに、彼は感情をあまり交えず簡潔かつ簡素にそうした小市民を描いている。</p><br><p>嗚呼。あんまり書評っぽくないなぁ。でもま、おススメです。</p>
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<pubDate>Sat, 14 Nov 2009 23:58:41 +0900</pubDate>
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<title>上田秋成『雨月物語』（清水弘）</title>
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<![CDATA[ <p>上田秋成（１７３４年～１８０９年）は江戸後期の作家だ。本作、『雨月物語』は日常の闇にひそむ怪異を描いた短編集であり、溝口健二監督によって映画化もされた。映画は、モノクロがいい味を出してて、音響とあいまって背筋に来る雰囲気があった。興味があれば是非、そちらも観ていただきたい。</p><br><p>僕が手元に持っている河出文庫版（円地文子訳）では、「白峰」から始まる。誰よりも天下を想い、人欲を排して尽くしてきた崇徳院が、死後、亡霊となって、西行との問答をする。なぜ崇徳院が亡霊になったかというと、神聖な帝の地位を政治に利用され流刑にされた生前の怨みが消えなかったからだ。崇徳院は自らの心情を、次のように歌っている。</p><br><p>浜千鳥　あとは都に　通へども　身は松山に　音をのみぞなく</p><br><p>都を離されても、崇徳院は都の平安を願っていた。そして、寿命が尽きて身体がなくなった今、かの地を踏めない事実にむせび泣いている。西行は、どうか平家への怨みを解いて安らかに、と願うのだけれど、もはや崇徳院の力は止められないところまで来ていた。とまあそんな筋立て。</p><br><p>葬送の慣習は、死者に花を手向けたネアンデルタール人まで遡るらしい。身体機能が停止しても、なお残るモノがあると直感的に感じていたわけだ。医学や科学や合理性では、割り切れない「何か」が、生と死の間には存在している。その「何か」に対して名称をつけるのは野暮な気がするけれど、あえて言うならば、感情かな。</p><br><p>たとえば、座敷童子という怪異は、ある家が栄枯盛衰する無常感、或いは「裕福さ」に対する持たざる者のルサンチマンから生まれるという説がある。人の想いというのは、現実に怪異という形で現出してくるほど、強いものだ。崇徳院の場合は「怨み」。といってもそう一つの言葉でくくれるほど単純な感情でもないんだろうが、ね。</p><br><p>でも、ここで見解の相違が出てくるんだけれど、僕は合理主義者だから、死者はこうした感情は抱かない・抱けないと信じている。あくまで、死者の心情を想像するのは今を生きている我々だと思う。その想像が、いうなれば死者に対する想いの強さが、死者を亡霊という形で蘇らせるのだ。現在の日本では、ほとんどの人が病院で死ぬ。病院は、家や会社や学校などの日常とは断絶した場所にある。そうした経過が、怪異を日常から締め出し、「何か」が欠けた感覚を覚える原因になっているのかもしれない。ギリシアの警句を引用するまでもなく、死を知らずに「生きる」ことはできないのだから。</p><br><p>同じ本に載っている「青頭巾」では、ある高僧が悟りを開いていた。そんな中、ある小姓に恋心を抱く。小姓が先に死んでしまうと、高僧は腐肉を喰らう鬼になってしまう。別の僧が鬼になった僧を訪ねて、再び仏性を取り戻させるんだけれど、なんとも切ない話だった。泣きそうになった。高僧は、本当にほんとうに、小姓が大好きだったから、自分のすべてを見失ってしまったのだ。近年の物語でも、大切な恋人が死んでしまう筋立ては多い。だけども、それが悲しいのは当たり前で、どの作品が、とは言わないまでも、なんだか死別が商品化されているようであんまり僕は好きになれない。大事なのは、むしろ後日談だ。「青頭巾」で、高僧は、１年のあいだある句を唱え続けていた。その句の意味が分かったとき、再び仏性を得られると言われて。別の僧が再び訪ねたとき、すでに高僧は死去していたんだけれど、小声で、その句をつぶやいていた。「渇！」といわれて、ようやく身体も果てる。その句の訳は載ってないから推測するしかない。でも、たぶん、先に逝った子は心安らかである。どうしてお前が、悲しむことがあろう、とかそんな感じだろうか。そう、悲しむよりも祈るべきなのだ。高僧が死後までも唱え続けていたのは、あらゆるものに対する安寧の祈りだと思う。</p><br><p>天国も地獄も僕は信じちゃいないけれど、亡くなった人が、せめて安らかに、と祈ることはある。大切な人が死んだ、悲しかった。それでは、エゴの延長である。あくまでも自分が大切なだけで、反吐が出るような悲劇のヒロイズムだ。と、過激なことを書いてみたけれど、悲哀とか憐憫は、人間が持つ自然な感情でもある。だから、涙を流し鼻水を垂らしながらでも、亡くなった人のために手を合わせてみれば良い。ことに、最近の恋人が死ぬお話はむせび泣いてばかりだから、そーゆうことも大切じゃね？というお話です。</p><br><p>えー。推敲とかせずにそのまま載せます。読み苦しいところはご容赦を。</p>
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<pubDate>Sat, 14 Nov 2009 21:53:08 +0900</pubDate>
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<title>『和解』志賀直哉 （山本）</title>
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<![CDATA[ <font face="Courier New" size="2">今までは志賀直哉について、「たしかに技法はうまいけど、なんかダサイんだよな」となめていたのだが、『和解』はかっこよかった。<br>志賀の文学のテーマである「父と子の対立」が最も直接的な形で描かれた私小説。<br>そもそもどうして志賀は父と対立したのか。色々あったらしいが、志賀が19歳の時に足尾鉱毒事件が起こって、志賀が取材を試みようとしたところ、古河と懇意だった父が猛反対をしたということや、志賀が女中と恋愛関係になって結婚しようとしたところ猛反対されたこと、志賀が女中とは別の女と結婚しようとしたらこれまた猛反対されたことなどがあったらしい。要は志賀の父は古い考えを持った頑固者だったのだ。そういうことがあって、志賀と父は事実上絶縁状態になった。<br>だが、そのような状態になってからも志賀は、父以外の家族たちとは交際を続けていた。親しい祖母との関係も続けていた。だがその関係の上にもやはり父との対立状態がもやもやと暗雲のように覆っていて、ぎくしゃくした微妙な関係になってしまう。祖母や家族のものたちは、どうにか志賀と父が和解してはくれないかと望んでいる。<br>そこで志賀は、過去の自分の行動が間違ったものではないとは思いながらも、今となっては、父と対立していても無意味だと思い、父に和解を申し出る。父も志賀と同じ気持ちを持っていたようで、晴れて和解し、円満な感じで小説は終わる。あらすじだけ読んでもつまらないかもしれないが、実際読んでみると面白いので読んでほしい。<br>ただし！<br>ただし、この和解にはもろい部分がある。というのは、志賀も父も過去の自分の行動を間違っていたとは思っていないので、過去のお互いの行動について許しているわけではない。だが、過去の対立で生じた不快な関係を、そのまま現在でも維持していては意味がないと思ったから和解したのである。つまり過去の対立は忘れて、再出発しようじゃないかということだ。だから二人のそれぞれの考え方は変化したわけではない。ってことは、また同じような対立が生じさせる事件が起こった時には、またお互いに否定しあってしまうんじゃないか、と思えるので心配になってくる。が少なくとも、そんな事件が起きるまでは二人は円満だ。だが、やはり、もろい。<br>こういう関係をどういうふうに評価するか。</font><br>
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<link>https://ameblo.jp/bungakuthink/entry-10386824486.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Nov 2009 19:07:03 +0900</pubDate>
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<title>『ペスト』カミュ （山本）</title>
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<![CDATA[ <font face="Courier New" size="2">間違いなく大傑作だということはわかった。だけど、カミュの思想の最深部までは辿り付くことはできなかった、全部は理解できなかったというのが正直な感想。で、何がわからなかったのかを書く。<br>あらすじ。アルジェリアのオランという都市に突如としてペストが人々の間に蔓延する。感染するとほとんどの人は48時間以内に死に至る。治療の術はない。ペストはその圧倒的な力で人々を絶望の淵に追い込んでいく。で、「ペスト！何でこんなことすんだよ？」って人々が叫んでも、当たり前だけどペストさんは答えない。もし答えるとしても「え？理由なんてないよ」と言うだけだろう。そこで不条理の問題が姿を表す。カミュはこのペストという不条理なものを、人々がどのように受け止めるのか、どのように受け止めるべきなのか、ということを問題にしている。<br>では、小説内で人々はどう受け止めたか？大きく分けると二つに分かれる。<br>①ペストと和解する。ペストを肯定する・・・どういうことかというと、キリスト教の立場からペストを神の試練だとみなし、この絶望的な状態の中でも、我々は利益を見出さなければならないという立場である。この立場にたつとペストは不条理ではなくなる。ペストは条理に適った存在に転化される。<br>②ペストを否定する。ペストと闘い続ける・・・主人公の医者はこの立場である。彼は、神の試練だか何だか知らないが、罪のない人々の命を奪うペストを絶対に肯定などできない。立派だが不毛な立場である。ペストは治療の術がない。医者は治療をするのではなく、診断するだけだ。人々は何百人何千人と死んでいく。つまりこの立場に立つということは、「際限なく続く敗北」を覚悟しなくてはならない。闘っても人々は救えない。<br> では何故闘うのか？ 闘うことで何を得ることができるのか？→<br>「ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶だった」。ペストを知ったこと、ペストと闘うために連帯したことから生じた友情、愛情を知り思い出すことが、かちえたものなのだと主人公は言う。<br>ここがわからない。格好いい言葉で、なんとなくわかるんだけど、なんというか、どうもしっくり頭に入ってこない、気がする。で、僕はそれを理解するためにカミュの哲学エッセイ『反抗的人間』に挑戦したのだが、30ページほどであえなく挫折した。<br>まあ、でも、わからないこともあるがこの小説が面白いことは否定できない。ペストと闘う人達には素直に感動する。あと、言葉のひとつひとつにカミュの深い知性が詰め込まれていて、カミュは天才だということが改めてわかる一冊。</font><br>
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<link>https://ameblo.jp/bungakuthink/entry-10386823509.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Nov 2009 19:05:48 +0900</pubDate>
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<title>『時代閉塞の現状,食うべき詩 他10編 』石川啄木（山本）</title>
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<![CDATA[ <font face="Courier New" size="2">本にはたんに知識的好奇心を満たしてくれる喜びとは別に、読んでいることそれ自体に猛烈な喜びをもたらす本がある。この本もそのような満足感を与えてくれる貴重な一冊。<br>最近、『蟹工船』の次は啄木だという話があるらしい。たしかに啄木の時代、啄木の問題意識は現代に通ずるところがある。理想の時代の終焉、という意味では確かに似ている。<br>啄木がこのエッセイを書いた頃の時代は、日本が日露戦争に勝利し、「一等国」になったと国民が歓喜していた時代である。だが、啄木はそれがぬか喜びであり、日本が本当の一等国になどなっていないと言い放つ。<br>確かに日本は戦争に勝った。だが、日本の現状はどうだ？<br>権益を牛耳る資本家やら政治家がのさばっている。大学を卒業しても働き先がなく、親の脛をかじりながらちんたら暮らしてる奴が溢れかえっている。新しい時代を考えようとしても、議論の場を作る前に弾圧される。憲法では自由が認められていても、実際には自由などないじゃないか。そんな国が一等国なんて言えんのか？<br>え？<br>こういう感じだ。そして啄木は無政府主義に関心を持っていく。<br>「A LETTER FROM PRISON」というエッセイもこの本に収録されている。大逆罪で捕らえられた秋水が牢獄の中で弁護士のために書いた手記に、啄木が注釈を加えている。このエッセイは啄木のエッセイというよりは、秋水による無政府主義解説という面が強い。でも面白かったので書き残しておく。<br>秋水によれば、社会の制度や組織体制はだんだん腐敗し、時代に合わなくなる。当時の情勢でいえば、明治維新で政府が掲げた「富国強兵」「殖産興業」という理念は、結果的に成金みたいな奴らを生むにいたった。そいつらに一般人たちは搾取をされている。個人競争、私有財産制が朽廃した今、新たなシステムを構築する必要性がある。その新たなシステムが相互扶助の理念を掲げた共産制である。権力を全ての国民に還元するべきなのだ。<br>さらに秋水は政府や国民が「無政府主義」を「暗殺主義」と誤解していることを正そうとする。たしかに無政府主義者の中には少数だが暗殺を企てようと考える者たちはいる。だが、それは言論を禁じられていて、たまりにたまった鬱憤が直接行動に結びついてしまうのだ。ただ無政府主義者だからという理由で逮捕されては言論もくそもあったものではない。腐敗したシステムの次に変わるシステムを考えることを禁じてしまえば、日本は永遠に革命が起こらず腐敗状態のままである。<br>秋水が死刑を執行されたと聞いて啄木は激怒しただろう。それは「次の時代」を考えることは弾圧するぞという政府の宣告であり、啄木の理想も間接的に否定されたのだ。<br>もちろん啄木のこの二つのエッセイは検閲されて、啄木の生前に発表されることはなかった。<br><br>それにしても啄木の文章は本当に面白い。ふだん僕は虚飾的な文章なんてクソクラエと思うことのほうが多いのだが、啄木の文章を読むとそんな価値観が一掃されるような心持になる。人を惹き付けずにはおかない文章だ。アジテーションの文章を書いているものには最適の文章読本かもしれない。</font><br>
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<link>https://ameblo.jp/bungakuthink/entry-10386822757.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Nov 2009 19:03:41 +0900</pubDate>
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<title>『石川啄木〔新装世界の伝記〕』須知徳平、付：サークルメンバーのみなさんへ（山本）</title>
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<![CDATA[ <font face="Courier New" size="2"> サークル員のみなさんへ<br>見ての通りブログ書評が少ないです。僕もこの二週間ほど何も書いていませんでした。というのも、どうせ書くならいいものを書こうと思っていたら、いいものを書ける能力に自分は欠けているのではないかという疑問が生まれて、なかなか何を書こうか迷っていたからです。ですが、みなさん、そう堅くならずに（出版物じゃないんだから）素直に自分が気に入った本の感想を提示してみてください。その後に集会で直接顔を合わせ色々と議論することでその作品の理解を深めていきましょう。たとえ、その感想が、間違った解釈であったとしても（正直に書けば間違った解釈なんてないと思いますが）、その間違いは、メンバー同士で議論するきっかけになると思います。恐れずに、書きましょう。<br><br>では石川啄木について<br><br>啄木は26歳で亡くなっている。夭折の詩人だ。夭折で有名となると、自然、早熟だったということなる。この伝記を読めばどうして啄木が早熟な人物になりえたかがわかる。もちろん、それは天才だったから、という理由があげられる。だが、いくら先天的に天才であっても、書籍もなく、良い人間にもめぐり合わなければ、本当の天才にはなりえない。<br>啄木は親友に恵まれていた。彼は、金田一京助をはじめ様々な天才と親友になり、議論を交わし、自分を成長させていった。そういう出会いがなければ啄木が偉大になることはなかっただろう。だけど、もし啄木自身に魅力がなければ、彼ら天才と友になることもなかったはずだ。<br>しかし、この啄木という人物は、魅力どころか欠点だらけなのである。そこらじゅうの知り合いに借金をして回る、やっと職に就いたと思ったら上司と喧嘩をして我慢をせずに数ヶ月で辞めてしまう、浮気をする、債務者でありながら売春宿に入り浸る。要は自己中心的なのだ。なのに啄木に魅かれて好意を持ってくれている人物がいて、返してくれるはずはないとわかっていても、金を貸してくれるのである。彼らがいなければ両親と妻と子供を養わなければならなかった啄木は文学など書いていられなかったかもしれない。そういう意味では啄木は人を惹きつける能力と文学的素質の両方を兼ね備えていたからこそ歴史に名を残すほどの人物になれたのだといえる。<br>そして伝記を読んでいると、彼の異常なほどの反抗精神にも驚かされる。村で評判の悪い校長がいれば排斥運動をする、教師になって気に入らない校長がいれば生徒を誘ってストライキをするなどなど。間違っていると思えば、それを正すために猛然と突き進む彼の情熱的な性格が人々を惹きつける最大の要因だったのかもしれない。<br>晩年の啄木は貧苦と病に悩み続ける。だが、彼はその絶望的な状態で、詩や小説を書き、さらには政治にも興味を持ち閉塞状態の日本を憂い、新しい時代を作る必要性を青年たちに説いた。<br>啄木は立ち止って人生を振り返る暇もなく、ただひたすら走り続けて死んでいった。どうもこういう人物に僕たちはどうしようもなく魅了されてしまうようである。</font><br>
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<link>https://ameblo.jp/bungakuthink/entry-10386821328.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Nov 2009 19:00:11 +0900</pubDate>
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