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<title>こころの整理のにっき</title>
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<description>日常の出来事を綴りながら、家族との確執について自分の中で整理するために書きます。</description>
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<title>中学時代について－家族と自分①－</title>
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<![CDATA[ 3年生になって、毎年恒例のクラス替えがありました。<br>わたしは仲の良い友だちが1人もいないクラスになりました。<br><br>全部で6クラスだったのに、2年のときにわたしと同じクラスだった女の子は1人しかいませんでした。<br>ほとんど知らない子、しかも2年生のときに同じクラスだった女の子は特別仲が良かったわけではなかったし、クラスメートには亜香里ちゃん(小学4、5年生の時に一緒にいた子)もいましたが、この頃にはほとんど会話をしなくなっていました。<br><br>わたしは、同じように仲の良い友だちがいないユミちゃんと一緒にいるようになりました。<br>ユミちゃんとは、共通の友人がいたので、過去にたまに一緒に行動することはありましたが、2人で話したことはありませんでした。<br>お互いそれほど自分から話題を出すほうではないので、ユミちゃんはどう思っていたかわかりませんが少なくともわたしは苦痛に感じました。<br><br>ユミちゃんが嫌いなわけでは決してないのです。<br>ただ、「ユミちゃんが退屈しているだろうなぁ」「仲いい子がいないから一緒にいるだけで、わたしのことが好きわけじゃないんだろうなぁ」と考えるたび、ユミちゃんに申し訳なくなってしまうのです。<br>言い換えれば、心理学の貿易機能で言うところの投影であり、自分こそがユミちゃんに対しそんな感情を抱いていたのかもしれませんが。<br><br>わたしの体調は、2年生の終わりには目に見えて悪くなっていたので、この頃になると朝から夕方まで学校に留まるということ自体で精一杯になってきました。<br>今でも覚えているのが、国語の授業で教科書を黙読しているときに、急に泣きそうになったことです。自分でも理由がわからず驚きましたが、その反面、もうすぐわたしはだめになるのだろうというボンヤリとした自覚があったようにも思います。<br><br><br>それでも、「休む」なんて選択肢が浮かぶ環境であるはずもなく、なんとか通い続ける日々が続きました。<br>家のことも、学校のことも、部活のことも、何を考えても希望がなく、極力なにも考えないようにしました。それでも夜は考えてしまうので、毎晩のように泣いていました。<br><br><br>それでも3年生のゴールデンウィーク明け、「あぁもう無理だ」と思いました。<br>母に「体調が悪い」とだけ伝え、ベッドから起き上がりませんでした。<br>今まで熱が出た時以外は、どんなに不調であろうと「無理だったら帰ってきなさい」と家から出され、休むことは許されませんでした。<br>母は不機嫌な様子でしたが、「明日からは行きなよ」と低い声で吐き捨てて仕事へ行きました。<br><br>わたしを苦しめるには充分な一言でした。<br>とりあえず今日はゆっくりと休むことができたとして、明日も休むことは許されないのだと。<br><br>もう無理だ、今日は休む、と決めたときには明日のことを考える余裕などなかったので、母の一言で「今日ですら気持ちを休めることは許されないのだ」と無理やり現実の前に引き戻された気分でした。<br><br>1日中自分を責めました。熱がないのに休んでしまった自分を責めました。もう母に幻滅されたと思いました。健太と同じように、子育てに失敗した子だと思われるのだと。<br><br>でも、学校を休んだ自分をどれだけ責めても、明日は学校に行こう、がんばろう、という気持ちにはどうしてもなれませんでした。<br><br>ずっと動悸と戦いながら、ほとんど眠ることができずに朝を迎えました。思考がうまく働かなく、母に何を言われても休んでしまおうと思いました。もう、これからずっと休めばいいと思いました。<br><br>不登校になったら将来の希望がなくなってしまう。今までずっとずっとずっとずっと我慢してやってきたことが全部無駄になってしまう。勉強もわからなくなってしまう。周りから「サボりだ」と冷たい目で見られてしまう。<br>だからずっと耐えてきたけど、もう全部諦めようと思いました。将来それでどうにもならなかったら生きることも諦めればいいと思いました。それがすぐになるのか、はたまた数年度になるのかはわかりませんが、どうしてこんなにつらい思いをしてまで頑張って生きなければならないのかわかりませんでした。<br><br>母は朝になると、わたしに体調を聞くこともなく、わざといつもの日常を装ってわたしに朝食を出し、まるで「休みたい」と言わせないようにするかのように、わたしのいる空間から消えていきました。無言の圧力によって、わたしが仕方なく学校へ行くことを祈るような気持ちで待っていたのだとは思いますが、わたしからしてみたら嫌がらせとしか思えませんでした。<br><br>支度をすることもできず、母が現れるのが怖くてその場から動くこともできず、リビングでポロポロと泣いていました。<br>わたしが支度を始めるか、家のドアを開けて出ていくかを、どこかで耳を澄まして注意を払っていたでしょうから、状況を理解しているに決まっているのに<br>階段を降りてきてわたしを見つけると、今気づきましたと言わんばかりに驚いて「え？まだいるの？」と嫌な顔をしました。<br>わたしはチラッと母の顔を見て、またうつむきました。<br>「何！？今日も休むの！？」<br>母は声を荒らげて、「もうやだ」と大きなため息をついて会社へ行きました。<br><br>完全に幻滅された、という悲しみの反面、ホッとしました。きっとわたしはこのまま学校へ行かなくなるだろうということが母に伝わったからです。正直、もっと最初からこうしていればよかったと思ったのも事実です。<br>それでも、このたった少しのやりとりが、母に見放されるのが、ずっと怖かったのだと思います。<br><br>それから母が、近い休日に病院へ連れて行ってくれました。<br>タウンページか何かで探したところ、近くの診療所で「心の相談」も受け付けていると書いてあったからです。<br>わたしはその病院で、看護師さんに「今日はどのような症状ですか？」と聞かれました。<br>わたしは一番悩んでいた、原因不明の吐き気のことを言いました。<br>しかし、「それはいつからですか？」と聞かれ、「2年ほど前からです」と答えると、看護師さんが動揺したのがわかりました。<br><br>きっと普通の風邪で来院したのだと当然のように思われていたのでしょう。待つように言われ、結局問診票は書かずに、母と一緒に診察室へ案内されました。<br>お医者さんに母の口からわたしのことが伝えられました。それはあまりにも表面上のことに限られており、あくまでも母自身はわたしの体調とは無関係だと言い訳をしているように聞こえました。<br>「心の相談を受け付けます」と記載していたにも関わらず、そのような対応マニュアルがあるようには思えませんでした。過去に例がなかったようでお医者さんも看護師さんも戸惑っているようでした。<br>ただ、お医者さんは母の話を聞いているうちに、次第に怪訝な表情になっていきました。<br>そして母の話が終わると一言<br>「なんで今まできゃりちゃんを放置していたんですか？」と、聞きました。<br><br>母は思いもよらぬ質問だったのか「えっと、他のことも忙しくてちょっと」と明らかに動揺を見せ、何度も言葉につまりました。わたしが何を言っても言い負かされてきたので、母のそのような姿を初めて見ました。<br><br>わたしがいくら、「つらい」「静かにして」「やめて」「間違っている」と言ったところで、母は聞く耳を持ってくれなかったことでしょう。<br>第3者から「あなた今まで何をしてたの？」と責められる母を見て、わたしはなんとも言えない気持ちになって泣きそうになりました。<br><br>結局、「そういう話は精神科の病院へ行ってください」と言われてしまい、健太が通っていた病院へ連れて行かれました。<br><br>わたしが待合室の椅子に座ると、母はわたしの隣へ座ることはせず、全く別のところに置いてある椅子に座って本を読み出しました。<br>あまり見ない光景だったからか、先生もわたしを呼ぶときに少し気になっていた様子でしたが、診察室へはわたしだけが呼ばれました。<br>何を話したのかは覚えていませんが、薬が大量に出ました。抗うつ剤、抗不安薬、睡眠導入剤…いろいろなものを出されましたが、インフルエンザのときにしか薬を飲んだことがなかったし、「睡眠薬」なんて何か危ない薬のイメージがあったので、わたしはこんなに重症だったのかと初めて知りました。<br><br>わたしと先生との話が終わると、わたしと入れ替わりに母が呼ばれました。<br>母と先生が何を話したのかは知りません。わたしは病名を聞かされなかった(今思い返してみれば明らかにうつ病ですが)ので、母にのみその時告知されたのかもしれません。<br><br>その日から薬との戦いが始まりました。<br>インフルエンザの薬のように、とりあえず用法用量を守って飲み続ければいいのだと思っていました。効くのか半信半疑でしたが、効かなかったとしてもそれはそれでいいやくらいに考えていました。<br>薬には「副作用」というものがあるのは知っていましたが、今までそのような害を受けたことがなかったので、考えもしなかったのです。<br><br>一番の悩みが「学校へ行こうとすると気持ち悪くなること」だったのに、薬を飲むとそのせいで吐き気がするのです。心臓がドキドキして、落ち着きがなくなり吐きそうになります。抗うつ剤、抗不安薬と言いながら、それを飲むと症状が悪化するのはどういうことなのだと、精神科医が信頼できなくなりました。<br><br>一度本当に我慢ができず、母に「吐きそう」とつぶやきました。<br>リビングで母と、弟2人とテレビを見ていた時のことです。<br><br>母はわたしを振り返って、冷たく「トイレ行けば？」と言いました。<br><br>わたしは黙ってトイレに行き、吐きました。少し泣いてしまいましたが、そのあとすぐにグッとこらえてリビングへ戻りました。<br>母はわたしをチラッと見て、またテレビに向き直りました。<br>家族はテレビを見て笑っていました。<br><br>健太はわたしが不登校になってから、なぜか夜にあまり暴れなくなりました。<br>わたしまで不登校にさせてしまったのは自分のせいでもあるのだと思ったのか、はたまたわたしを下げてあからさまに健太に優しく接しだした母に乗っかったのかはわかりません。<br><br>言い争いが減り、一見穏やかさを取り戻しつつあったので、雄太やご近所さんへの迷惑が減ることは嬉しかったですが、<br>なぜか必要以上にわたし以外の家族にニコニコしだした母、そして今まで衝突しあっていたくせに母に甘えだす健太を見て、わたしの存在はなんの意味があるのだろうと考えるようになりました。<br><br>薬は、飲んだほうが不安定になるので飲みたくありませんでした。<br>だから飲みませんでした。<br>でも飲まないと、母に嫌な顔をされました。お前は邪魔な存在なんだから、せめて薬を飲んで何事もなくしていてくれと言われているような気持ちになりました。<br>でも、薬を飲み続けているうちに、幻聴が聞こえるようになりました。<br>爆発音だったり人の笑い声だったり、聞こえるはずのない音・幻覚だという認識はありましたが、それでもとてつもない恐怖でした。<br><br>幻聴は、特に夜に聞こえました。眠れない。耳を塞いでも小さくさえならない。逃げても変わらない。こんな思いをしてまで飲んでいる睡眠薬はちっとも効かない。吐き気もおさまらない。<br><br>一度、本当に吐き気が強く、自分なりに「これは救急車を呼んだほうがいいくらいだ」と思うほど不調の日がありました。吐こうにも、何も口にしていないために何も出てこないのです。<br>たまたまその日は母が家にいたので、必死に母にメールしました。<br><br>しかし、母がきたのはそれから数十分経ってからでした。<br>疲れ果てた顔で、もううんざりだという表情を浮かべた母が入ってきて「なんなんだよ」と口にしたときは、あぁメールに気付かなかったわけではなかったのだと悟りました。<br><br>そして、もうわたしは母に見捨てられているのだから、何も頼ってはいけないのだと思いました。<br><br>薬は勝手にやめ、母ももう呆れたように何も言いませんでした。<br>ただ、次に病院へ言った時に、わたしと一緒に診察室へ入ってきて、突然先生に「少年院みたいな、そういう施設に入れたいと思っているんです」と言いました。<br>わたしは初耳でした。<br><br>先生も驚いた様子で、<br>「え？きゃりちゃんとは話し合ったんですか？」と聞き返しました。<br>母はわざとわたしの前で宣言することによって、自分の考えを間接的にわたしに伝えようとしたのです。わたしと正面から向き合う気はなかったのです。だからこそ、施設に送ろう、もう育てたくない、と思ったのだと思います。<br><br>「少年院じゃなくてもそういう、家族と離れて暮らすほうがこの子にとっていいと思うんです」<br>お前が捨てたいだけだろう、と心の中で思いましたが、わたしはうつむいて黙っていました。<br>「薬だって飲まないんです」と母は続けました。<br>先生が「どうして飲まないの？」と聞いてきたので、何度も言うのをためらいましたが、これ以上ためらうと逆にまた母を苛立たせてしまうと思ったので、正直に「幻聴が聞こえるようになってしまいました」と伝えました。涙が出ました。<br><br>母は、「そういうことは言わなきゃダメでしょう」と、先生がいる手前少し優しく、でもいらだちで引きつった顔で笑いました。<br>「そういうこと」というのが、わたしにはなにかわかりませんでした。吐きそうだということや、救急車を呼んでほしいということは言ってはいけないのに、幻聴は言わなくてはいけないのでしょうか。疑問に思いましたが、言い返しませんでした。言い返すと余計に関係が悪化するのは経験上よくわかっていたからです。<br><br><br>不登校になって2週間ほどすると、亮介くんからメールが届きました。<br>比較的仲がよかった2年生のときでさえ、もともと2ヶ月に1度くらいわたしから送っていた程度だったので、亮介くんのほうから送ってくれたのはそれが初めてでした。<br><br>「ハガレンの最新刊出たけど、買った？」という文とともに、漫画の写メが添付されていました。<br>ちょうど、鋼の錬金術師という漫画の最新刊が初回限定の付録付きが出た頃だったので、早めに買わないと初回限定版は売り切れてしまうことをわたしも知っていました。<br>「買ってないよ。いいなぁ」とわたしが返すと、「買っといてやろうか？」と言われました。<br>クラスも違うのに、きっとわたしが学校へ来ていないことを知って連絡をくれたのだろうと思います。<br>ストレートに不登校については何も触れてこないところが彼らしいなと思いました。<br>でもわたしは受け取るために学校へ行くこともできない状態だったので、「え、いいよ悪いよ。でもありがとね」と返しました。返信はありませんでした。<br><br>それが亮介くんと関わった最後でした。<br>大した理由も、大した会話も、大したエピソードもない子どもの恋でしたが、それでもあんなにドキドキして、つらかった日々に幸せを与えてくれた人は後にも先にも彼だけです。<br>今でこそ恋愛感情はありませんし、連絡がとれないこともないですが連絡しようとは思いません。しかし、彼にはとても感謝しています。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11934116578.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Oct 2014 01:57:26 +0900</pubDate>
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<title>中学生時代について－初恋と学校－</title>
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<![CDATA[ そんなわたしも、中学2年生になりました。<br><br>健太は相変わらず家で騒いでいたし、<br>両親は相変わらずそんな健太に手を焼いていたし<br>雄太は相変わらずおねしょをしていたし<br>わたしは相変わらず眠れない日々を過ごしていました。<br><br>そんな日々の中で、わたしは小さな初恋をしました。<br>相手は、隣の席になった男の子の亮介くんでした。<br><br>わたしはそれまで、男友達と呼べる友だちが1人もいませんでしたし、いつも女の子たちとだけつるんでいるような子どもでした。<br>「男好き」という理由で、同じく「男好き」の女子から仲間はずれにされる女子をたくさん見てきたので、面倒なことはしないほうがいいと思って生活してきたからです。<br><br>なので、わたしは男の子と関わったことがほとんどありませんでした。<br>たとえ話しかけられても、冷たい目でちらっと見て無視をするか、真顔で一言二言返す程度でしたので、いつの間にか男の子たちの間で「きゃりちゃんって怖いよね」と言われるようになったほどです。<br><br>亮介くんは、同じ小学校からあがってきた子でしたので、名前と顔くらいは知っていました。<br>しかし小学校6年間で1度も同じクラスになったことがありませんでしたので、関わったことは一度もありませんでした。<br><br>ただ、小学校時代を振り返ってみると、気の強いグループの女の子たちと校舎内でおいかけっこをしたり、その子たちと罵声(からかい)をあびせあったりしていたので、おそらく自分とは気の合わない人なんだろうなぁとぼんやり思いました。<br><br>ですが隣の席になった途端、こんなわたしにも普通に接してくれました。<br>そんなこと、と思われるかと思いますが、わたしのような暗くて冷たい女に屈託のない笑顔で話しかけてくれる異性など今までいなかったのです。<br><br>彼を好きになるのに時間はかかりませんでした。<br><br>他の友だちの影響で、わたしがBUMP OF CHICKENというバンドにハマったときも、<br>彼が「カルマって曲いいよな」と話題をふってくれたのにわたしはまだその曲を知らなかったので、すぐにCDを買って、バンプの曲をたくさん聴きました。<br>小学生の頃好きだった鋼の錬金術士も、彼が好きだというので中断していた漫画を最新刊まですぐに買いに行きました。<br>亮介くんと話すのが、しあわせでした。<br>彼と話すと、家族のことでぎゅうぎゅうに押しつぶされそうだった心がぽかぽかしました。<br><br>夜眠れないときも、その日亮介くんと話したことや、次の日も亮介くんの隣に座れるんだということを考えると気持ちが楽になりました。<br><br>亮介くんは放送委員だったので、わたしにバンプのCDを貸してくれと頼んできたことがあります。<br>その日の給食の時間に、わたしが貸したCDが学校中に流れたときの心のドキドキは今でも忘れられません。放送室でCDをセットして曲を流す彼の姿を想像するとなんとも言えない気持ちになったのです。<br><br>2年生になってからは仲の良い友だちと3人で安定したグループを作っていたので、人間関係にもある程度恵まれていました。<br><br>家で嫌なことがあっても、学校には居場所がある。<br>そんなギリギリのところでバランスをとる生活は秋まで続きました。<br><br>秋に、校外学習がありました。<br>群馬県に住んでいるわたしたちは、横浜に行くことになりました。<br>男女分かれて3人ずつのグループを作り、男女のグループを合体させ6人組を作るという編成でした。わたしはもともと3人グループだったので班分けはスムーズにいき、男子の3人組とくっつきました。<br>亮介くんだったらいいなぁという期待もありましたが、全く違うグループになってしまいました。<br>とはいえ、話してみたら楽しいグループだったので、特に不満もなく準備を進めていきました。<br><br>しかし、途中で些細な事で喧嘩になりました。<br>わたしと、もう1人の女の子が係の仕事をちゃんとしなかったからです。<br>といっても、仕事を本気でサボっていたのではなく、そのグループに「ちゃんとやらない女子を、リーダーの男子が叱ってみんなが笑う」というノリがあったので、そのノリでいるつもりでした。<br>しかしついに本当に仕事をしない、とリーダーが怒り出し、全く関係ない女の子を含めた女子3人全員を突然無視するようになりました。もともとその男の子がリーダー格だったらしく、あとの男の子2人からも無視されるようになりました。<br><br>謝っても仕事を渡しても無視。むしろ勝手に話を進めてしまっていて、なんの仕事をすればいいかも教えてくれない状態になりました。<br>確かに仕事をきちんとやらなかったわたしたちが悪いですが、それを楽しんでいた態度を急変させたり、反省しても根に持って許さないのはどうなんだろうと思いました。<br>もし、心の底では最初から嫌がっていたのだとしたら、まずは真剣に注意してくれてもよかったのではないかと。<br><br>リーダー以外の男の子2人は、リーダーがいない場所だと会話をしてくれました。<br>たとえば、わたしはそのうちの1人と席が近かったのですが、ペンを落としたので拾ってあげたら「ありがとう」と言ってくれました。<br>リーダーの前だと、それすらないのです、完全な無視なのです。きっとリーダーの独裁のような感じになってしまっていただけで、他の2人はそこまで怒っていなかったのでしょうが、リーダーの手前ブスッとしているしかなかったのでしょう。<br><br>解決しないまま、校外学習当日になりました。担任は気づいていたのに助言してはくれませんでした。<br>わたしたちは男子から何も聞かされていなかったので、大まかなプランしか知りませんでした。ひたすらはぐれないように、微妙な距離感を保ってついていくしかありませんでした。<br><br>途中、ペンを落としたのとは違うほうの男子が話しかけてきました。ここから少しだけ別行動で、終わったらここにまた集合しよう、という提案でした。<br>完全にリーダーがその男子を顎で使っている状況だったので、今思うと本当に性格の悪い人だなぁと思うのですが、そのときのわたしたちは「仲直りしてくれるんだ！」という嬉しさと安堵でいっぱいになってしまい、「わかった！」とニコニコしながら離れました。<br><br>ずっと、喉の奥になにかつっかかるような息苦しさを感じながら歩いていたので、ようやく普通に校外学習が楽しめると思いました。他の2人も一緒だったようで、急に話がはずみ、つかの間の楽しさを味わいました。<br><br>実際、約束通り集合時間に再び落ち合いましたが、男子側のほうに仲直りをするという意思はなかったらしく、またブスッとして無視を決め込んでいる3人を見て、愕然としたのを覚えています。<br>そんなに根に持ってたら男子陣だって楽しくないだろうに…と、今でこそうまく話をつけられる気がしますが、当時のわたしにはそんな説得をできる力はありませんでした。<br><br>そこから、男子3人はまるでわたしたちを引き離すかのように早歩きで行動するようになりました。何度か後ろをチラチラ振り返りましたが、かといって待ってくれる様子でもなかったので、これは意図的にはぐれようとしているのだと感じました。<br>ここで走って追いつくのも癪でしたし、そもそももう心が苦しくてそんな余力はなかったので、されるがままどんどん距離は開いていきました。<br><br>そしてついに、男子たちが見えなくなりました。<br><br>学校の先生からは、万が一はぐれたら必ず近くの公衆電話から連絡するようにと言われていましたが、そもそも意図的にはぐれさせられたのだし、次に行く場所は知っていたので、もう次のところへ女子3人だけで向かおうということになりました。<br>その途中で、公衆電話があればかければいいやと思いました。<br>これは今でも思うのですが、まったく間違っていない結論だと思うのです。きっと今同じ状況になったとしても、わたしは同じ手段を取るでしょうし、そもそもきちんと行動できるか怪しいとわかっているグループになんの介入もしなかった先生にもとても責任があると思うのです。<br><br>結局、かなり時間が経ったところで公衆電話を見つけ、先生が男子3人を連れて来てくれました。<br>わたしはもう男子3人の顔なんて見たくなかったし、なにより変な気を利かせて異様なほどハイテンションな先生にもとても苛立ちを覚えました。<br>「気にしない気にしない！せっかくの校外学習なんだから笑って！」という、なぜかわたしたちが悪いけど多目に見るよみたいな態度がムカつきましたし、さらにうつむいて静かに怒っているわたしに対してカメラを向けられ、笑顔で写真を撮ってきたのも理解できませんでした。<br><br>その校外学習は結局最悪のまま終わりました。<br><br>翌日開かれた全校集会で、当然前日の校外学習のことが話題にあがりました。<br>楽しかったね、という雰囲気の話なのがそもそも気に食わなかったのですが、全校集会はそれで終わりませんでした。<br><br>学年一怖い先生が前へ出てきて、「はぐれたグループが２つある」という話を始めたのです。わたしはドキッとしました。<br><br>「１つのグループは、はぐれたあとにすぐ電話をかけてきたからまだいい。問題はもう１つのグループだ。はぐれたのに電話をしてこなかった馬鹿がいた。男子ははぐれたあとにすぐ電話をしてきたのに、女子のほうはいつまで経っても電話をしてこなかった」<br><br>先生はそう言いました。はっきりと、学年全体の前でわたしを馬鹿だと言いました。<br>学年中が騒然としました。「マジで？」「信じられない」とざわつきました。<br>確かに先生の話だけ聞けば、とんでもないグループだと思うでしょう。しかしそれには背景があり、理由があるのです。それを知らない先生が、みんなの前で馬鹿だと決めつけるのはどうなのでしょう。<br><br>先生のセリフ、みんなのリアクション、そして事情を知っているのにフォローしてくれない担任。<br>胸に突き刺さりました。<br><br>教室に戻ったあと、なぜか男子ではなくわたしたちが担任に呼ばれました。<br>なぜ電話しなかったのかと聞かれたので、3人で一生懸命事情を説明しましたが、3人とも心底落ち込んでいましたし、なにより一番語彙力のあったわたしが目に涙をいっぱい溜め、今にも溢れ出しそうなのをこらえるのに精一杯だったため、うまく伝えることはできませんでした。<br>担任も、「仲良くしなきゃダメだよ」というだけで、深く介入する気はまったくないようでした。<br>もちろん男子が怒られることはありませんでした。男子ははぐれたあとすぐに電話したらしいですが、じゃあなぜわざとはぐれたんだよ、と疑問でなりません。今となっては確認のしようがありませんが。<br><br>席に戻ると、亮介くんが、「俺もあいつ嫌いだよ」と少し困ったような顔で笑いながら言いました。きっと彼なりの気遣いだったのでしょうと思います。<br><br>そのあとは最後までその3人の男子と関わることはありませんでした。校外学習が終わってはもう用はありませんし、わたし自身もう関わるのは本当に嫌でした。<br><br>その後はまたいつもの日常に戻るのですが、わたしの心はどこか故障したまま、直ることはありませんでした。<br>誰かにあからさまに無視されたことは初めてでしたし、目立たない生徒でしたので先生に怒られたのも初めてでした。耐性がなかった分、ダメージが大きかったのかもしれません。<br><br>わたしは少しのことで苛ついたり、落ち込んだりするようになりました。<br>もちろんそれを表には出しませんが、隠すことも労力を必要とするので、ストレスの上がり方が以前にも増して急になりました。<br><br>例えば、放課後になっても教室に帰ってこない友だち2人にイライラするようになりました。<br>2人で仲良くされることへの嫉妬もありましたが、<br>わたしが教室で1人で待っていることに対して、申し訳ないとか、急ごうとかいう気持ちはないのかとイライラしてしまうのです。大笑いしながら教室に入ってきて、謝りもしない友だちに、いらだちを隠しながら「遅いよｗｗ」と笑うのです。<br><br>また、部活もイライラするようになりました。わたしは運動は絶対にしたくなかったので、家庭科部という文化系の部活に入りました。月に1回程度の料理と、毎日の手芸が表向きの活動内容でしたが、実際は部室に集まっても漫画を読んだり絵を描いたりしているだけで、まともに活動している人はほとんどいませんでした。<br>わたしはそんな場所にいるのが居心地が悪かったし、かといって部活に出ないで帰ってしまうと、わたしの内申点だけ悪くなって、漫画を読んでいるだけの子に負けてしまうのも屈辱的でした。<br>顧問の先生が全く部室に来ないことにも苛立ちました。<br>普段は、漫画を読んでいる部長が書いている活動日誌に、みんなが活動していないこと、活動していないのは顧問がきちんと見に来ないからだということを殴り書きして、みんなから反感を買いました。<br>でも、間違ったことはしていないと思うのです。活動しない人が、チクられたところで文句を言える立場ではないし、そもそも活動しないなら帰ればいいのです。家でやることを部室に持ち込んで内申を保つというやり方が汚いと思うのです。<br><br>そう強気に振る舞いながらも、心は余計不安定になりました。<br>みんな直接文句を言ってはこないにしろ、たまに顔を出すようになった顧問がいる中漫画を読めないことに関してとても不満そうでした。いじめに発展することはありませんでしたが、少なくともわたしに接する態度も、幾分冷たくなったように感じました。<br><br>それでも誰かが、1人でもいいから、たとえばお母さんが、「あなたは正しいことをしてるよ」「間違ってないよ」と言ってくれればまだ違ったかもしれませんが、つらい学校、つらい部活が終わって帰る家は、もっとつらいものでした。<br>わたしの居場所は本当にないんじゃないかと思いました。<br><br>家が落ち着けない場所だったわたしにとって、逃げ場所だった学校も、その当時にはもう救いの場所ではなくなっていたのです。<br>でも、そうなったのも自分のせいなのではないかと思いました。誰もわたしを肯定してくれる人などいなかったからです。<br><br>それでも、恋だけはちゃんとしていました。<br>席も変わってしまったので、ほとんど話す機会はなくなってしまいましたが、それでも一ヶ月に1回話せた日には泣きたくなるほど幸せな気持ちになれるのです。<br>掃除の時間に、違う班の亮介くんとすれ違うだけで胸がバクバクするのです。<br><br>誰かを好きになる、という行為だけが、唯一わたしの心の中で正常に機能している気がしました。亮介くんのことが好きだということだけが、わたしの心を人間に戻してくれるような気がしました。<br><br>2年生の終盤になると、わたしの心は体を巻き込んで悲鳴をあげだしました。<br>朝、起きると吐き気がするのです。朝食が喉を通らず、でもお腹が鳴ることに悩んでいたので無理やりご飯を詰め込んで学校へ行きます。<br>学校へ行く途中で何度も吐きそうになります。でも熱もないのに帰ると母に怒られるので、頑張って教室へ行きます。教室へ行っても体調が悪くて帰る日もありました。<br><br>1番印象に残っているのが、朝学校へ着いて、やっぱり気分が悪いので保健室へ行きたいと友だちに言った時のことです。<br>校外学習で一緒だった2人の女の子は保健室までついてきてくれましたが、保健室へつくなり体重計に乗ったりしてキャッキャと騒ぎ出しました。<br>保健室の先生はいなかったので、呼びに行ってくれてもいいのに。他にも具合の悪い先輩が1人いるのだから、静かにしたほうがいいのに。そう思いましたが、吐き気がひどすぎて言葉になりませんでした。<br>我慢できなくて保健室の洗面所で嘔吐すると、ようやく事の重大さに気づいたのか慌てて先生を呼びに行ってくれましたが、心配されてないのかな…もしかしたら仮病だと思われていたのかな…といろいろな負の感情が襲い掛かってきました。<br>自分自身も具合が悪いのに、背中をさすってくれた名前も知らない先輩のほうがよっぽどあたたかく感じました。<br>3人グループの中で、わたしだけ孤立しているような気持ちが日に日に増していきました。無論、当時のわたしの精神状態からしてみても、少なからずわたしにも原因があったとは思いますが。<br><br><br>2年生最後の席替えで、わたしは再び亮介くんと隣の席になりました。<br>きっと、わたしの勘違いなのでしょうが、席替えのくじ引きをしているときに、亮介くんが友だちとこそこそしているのを見ました。もしかしたら意図的にわたしの隣になってくれたのかなぁ、なんて思いながら、わたしは一番窓側の席に移動しました。<br><br>日の当たる、心地のよい席でした。<br>わたしの机に日が当たるので、亮介くんがわたしの机に寒さでかじかむ手を置いて、「あったかいね」と笑いました。<br><br>わたしにはもう笑い返す元気はありませんでした。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11929788955.html</link>
<pubDate>Wed, 24 Sep 2014 21:45:15 +0900</pubDate>
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<title>中学生時代について－学校と家－</title>
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<![CDATA[ 中学は、わたしがいた小学校の半数の生徒と、隣の小学校からきたほぼすべての生徒で構成されていました。<br>1/3は同じ小学校からで、顔見知りでした。<br><br>中学は1学年6クラスで、わたしは6組でした。<br>特に中学生、特に女子は、クラスでグループを作りたがります。<br>わたしはなぜか、入学してすぐに7人程度の規模のリーダー的存在になってしまいました。<br><br>原因は定かではありませんが、鈴ちゃんと宏美ちゃんという子がわたしのことを1番に好いてくれたので、彼女たちがわたしに寄ってきてくれているうちに、彼女たちの取り巻きだった子たちも集まってきたのでしょうと思います。<br><br>ですから、みんながわたしを慕っていたり、仲良くなりたいと思っていたりした、というわけではなく、ただ、きゃりちゃんには好かれておいたほうがよさそうだという考えだったと思います。<br>その証拠に、どう考えても気が合わないだろうと思う女の子も含まれていたからです。<br><br>休み時間のたびに、わたしの机の周りに女の子たちが集まります。<br>わたしはその時間に違和感や苦痛を覚えました。<br><br>好きでもない人に媚を売って楽しいはずがありません。好きでもない人の机に集まりたいはずがありません。<br>わたしは全員に好かれている自信がなかったので、そのような考えが頭のなかをめぐり、居心地が悪かったのです。<br>わたしはみんなに平等に話題を提供できるほど話し上手ではありませんし、リーダーシップをとれるほどまとめ役でもありません。わたしのことをあまり好きではないだろうなと思われる子には、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいますし、わたしだって鈴ちゃんや宏美ちゃんのことが好きなのだから、わたしから彼女たちの机に行ったりして平等に関わりたいのにとも思ってしまいます。<br><br>しかし、いっぱいいっぱい気を遣ってしまったせいか、他のグループから仲間はずれにされた子までもが、わたしに近寄ってくるようになりました。<br>気が強くて、校則を破っておしゃれをするような女の子が、受け入れてくれる友だちを求めてわたしのところへ来るのです。わたしは今よりもっと気を遣って、その子に応えられるよう頑張りました。<br>その頃になると、先生もわたしに目をつけるようになりました。休み時間、ふとした瞬間に先生の視線を感じるのです。気になって目を向けると、必ず先生と目が合いました。わたしはそのたびに目を逸しましたが、先生は見ているのを隠す様子もなく、むしろ「見ているからな」と言っているようにさえ感じました。<br>何度も何度も視線を感じ、目が合い、逸しました。いつも監視されていて、絶対に友だちを傷つけてはいけない、うまくやらなきゃいけない、と言われているような気分でした。<br><br>でも、同時にわたしの気のせいだとも思っていました。先生がクラスにいるときにクラスメートの様子を見るのはおかしなことではありません。クラスメート全体へまんべんなく向けられる視線を、わたしだけが敏感に感じ取り、意識してしまっているだけなのだと思っていたのです。<br>なんだか自分だけ先生と何度も目が合ってしまって、先生に変な誤解をされるのではないかと恥ずかしくなったほどです。<br><br>しかし、1学期の終わりになると、先生が放課後にわざわざわたしの部室を訪れました。<br>突然なんだと思いましたが、わたしを名指しされると、いよいよ何事なのかわからなくなりました。怒られることをした覚えもないし、はたまた何か目立つこともした覚えがないので、本当に予想がつきませんでした。わたしは同じ部活の宏美ちゃんについてきてもらい、廊下に出ました。<br><br>先生はわたしに、「学級委員になってくれないか」と唐突にお願いをしてきました。<br>学級委員は翌週にホームルームで話し合うことだったので、このように事前に口裏合わせのようなことをしに来た先生にびっくりしました。<br>先生の言い分としては、<br>・2学期の学級委員に立候補してくれそうな人がいない<br>・きゃりの様子をずっと見てきたが、学級委員にふさわしいのはお前だと思った<br>ということでした。<br><br>そこで、やっぱり見られていたのは気のせいではなかったのだと気づきました。<br>先生は翌週の学級委員決めで、自ら立候補してくれとわたしに頼んだのです。<br><br>わたしは絶対に嫌でした。学級委員なんて務まる気質でないのはもちろん、授業中だってこの6年間1度も自分から手を上げたことのない人間なのです。<br>ましてや代わる代わる女の子を仲間外れにして、そのたびにその子がわたしのところへ来て、また仲直りすると感謝もなく戻っていくようなクラスの学級委員なんてしたくもありませんでした。<br><br>わたしがどうしても嫌だということを伝えると、先生は「じゃあ他にできそうな奴を教えてくれ」とわたしに頼りだしたのです。クラスの女子生徒を代わりに差し出すような行為はとても気分が悪いものでした。<br>わたしと宏美ちゃんは「えー…」と、引きつった顔を見合わせました。<br>「まぁ○○ちゃんとか、××ちゃんとかじゃないですかね」<br>とにかく自分が学級委員をやることは絶対に嫌だったので、宏美ちゃんと一緒に何人かの名前を挙げました。すると先生は「じゃあ学級委員決めのときに推薦してくれ」と言って帰っていったのです。<br>身代わりを自分から提示するなんて、そんなひどいことはできませんでした。○○ちゃんだって××ちゃんだって、やりたくないに決まっています。<br>宏美ちゃんは「いいよ推薦なんてしなくて」と言ってくれましたが、わたしは来週がくるのが憂鬱で仕方ありませんでした。<br><br>学級委員決めの当日は、当然学級委員に立候補する人は現れませんでした。<br>司会は進み、推薦に移りましたが結局わたしも宏美ちゃんも発言することはありませんでした。何度か先生から「なんで手を挙げないんだ？どうした？」というような視線が送られてきましたが、わたしはうつむいていました。<br>すると先生から「○○、やってみないか？」と切り出したのです。○○ちゃんは「え！？無理です無理です」と言いましたが、他のクラスメートもなかなか決まらないことにイライラしていたし、何より自分がなりたくないので「いいじゃん」「やりなよ」と口々に言いました。<br>結局、○○ちゃんは最後まで無理ですと言いはりましたが、おとなしく真面目な子だったので強く断ることができず、結局学級委員になってしまいました。<br>わたしは罪悪感でいっぱいでした。わたしのせいで、○○ちゃんが傷ついてしまったのだと思いました。わたしが絶対やりたくなかった学級委員を、同じく絶対やりたくなかったであろう○○ちゃんに押し付けてしまったのです。しかもわたしが裏で先生に○○ちゃんの名前を出していたことなど当人は知る由もないのです。<br>なぜこんなにわたしがいろいろなことを気にしなければいけないのだろう、と、とてもつらくなりました。<br><br><br>わたしが中学に上がると、弟(わかりにくいので健太とします)が一層不安定になりました。<br>わたしの両親は共働きで、朝から夜まで働いているので、家にいるのは寝る時間のみです。<br>健太は夜になると、母に喧嘩を売るようになりました。喧嘩といっても、なにか具体的なものではありません。「ムカつくんだよ」とか、「ふざけんなよ」とか、抽象的なものです。<br>母が具体的に聞こうとしても、感情的になるだけで、話が解決したことは1度もありませんでした。母が、「話がないなら寝る」と言って離れようとすると、「ちゃんと話し合えって言ってるだろうが」と大声でわめきちらし、母が話を聞こうとしても、再び「ムカつくんだよ」としか言わないのです。<br>そのうち、父が「うるさい」とキレて、両者に割って入ります。しかし父も感情を言葉や暴力として健太に投げつけるだけで、事態は悪化するばかりなのです。<br>父は健太を無理やりおさえつけ、「死ね」「お前は必要ない」「学校にも行かないくせに偉そうに何をしている」などの言葉をあびせ、殴ったり蹴ったりしました。健太も余計ヒートアップして歯向かいました。<br>健太は確かに家族に迷惑をかける存在でした。しかし、母も父も、間違ったことをしたり、言ったりしているようにわたしには聞こえました。<br>みんなおかしいのだと思いました。でも、わたしが口を挟んだところでどうもなりません。「みんなそれぞれ言ってることおかしいよ」と言ったら、火の粉がわたしに飛ぶだけです。<br><br>なんの生産性もない話し合いは夜中まで続きました。最後は健太が疲れたり、精神薬で眠くなったりして、なんの解決もせず終わるのです。すべては健太に振り回される生活でしたが、何度も言うように、それを止められない親にも確実に原因はあるように見えました。<br><br>なにより、わたしの心を傷ませたのが下の弟である雄太です。雄太は当時まだ幼く、健太と両親との喧嘩の理由を全ては理解していない風でした。<br>しかし怒鳴り合いのあった夜には、必ずおねしょをするのです。雄太は21時には母に寝かしつけられ寝てしまうので、喧嘩が始まる時間には大抵1人ぼっちで寝室にいます。両隣にいるはずの両親は、健太と怒鳴り合いをしているのです。<br>雄太が怒鳴り合いを聞いて、その度に起きていたのか、何を思っていたのかはわかりません。でも、おねしょをしていました。<br><br>たまに雄太の起きている時間帯に喧嘩になったときは、母がわたしの部屋に雄太を連れてきました。<br>「雄太、きゃりに遊んでもらいな」<br>母がわたしを頼ってくるのは、そんなときくらいでした。<br>わたしは中学生なので、毎日たくさんの宿題がありました。小説を書くのが好きだったので、書きたい小説もたくさんありました。でも、断るわけにはいきませんでした。なによりわたしも、雄太が一番心配だったからです。<br><br>幼い雄太と、わたしの部屋においてあるピアノで遊んだり、お絵かきをしたりして過ごしました。<br>隣の部屋の、父と母と健太の怒鳴り声を聞きながら、できるだけ明るく、大したことないよあんなの、大丈夫だよと笑って雄太に接しました。わたしと一緒に過ごした夜は、おねしょしないといいなぁと思いました。<br><br>母は、雄太の面倒を見てくれることに対してだけはわたしに感謝をしてくれました。「いつもごめんね」と言ってくれました。でも、わたしが「雄太のお世話」それ自体よりも、もっといろいろなことを考え、気を遣って、我慢してきたことはわかっていないようでした。<br><br>次第に、近所の人たちは、わたしが挨拶をしても無視したり、目を逸らすようになりました。<br>わたしと雄太は関係ないのに、と悔しい気持ちでいっぱいになりました。<br>でも、「夜中に怒鳴り合いをしているうるさい家の1人」であることに変わりはないし、なにより近所の人にとても申し訳なく思いました。<br>わたしはともかく、雄太や近所の人が眠れない夜を過ごすのだけはやめてほしいと思いました。<br><br>夏は夜中にもかかわらず、窓を開けて怒鳴り合いをしていました。わたしが、「お願いだからせめて窓を閉めて」と言っても、3人は聞いてくれませんでした。どうして近所の人に申し訳ないと思わないのか、一番申し訳ないと思っているのが、怒鳴り合いに参加していないわたしなのかわかりませんでした。<br><br>怒鳴り合いが終わったあとも、本人たちは怒鳴り合って発散できたものをわたしは発散していないことに苛立ちを感じました。<br>みんなが寝静まった明け方も、わたしは近所の人や雄太に、恥ずかしくて申し訳なくて、悔しくて、眠ることができなくなりました。<br><br><br>健太の行動はさらにエスカレートしていきました。<br>それまでは両親が家にいる時間だけだった問題行動が、朝仕事へ向かおうとする母にまで及んだのです。<br>母が仕事へ行こうとすると、夜のような勢いで阻み、それでも無理やり母が出て行くと、母のケータイに無言電話をかけ続けるのです。母が出ても無言で、母が切るとまたかけてくる…その繰り返しでした。母が電話に出ることをやめると、わたしたちが帰宅する頃には家の電話線がハサミで切られていました。<br><br>家の電話がなくて不便な思いをするのは健太だけなので、わたしは放っておけばいいと思いましたが、結局また固定電話を買いました。しかし案の定、それも同じ末路をたどるのです。<br>他にもトイレのドアやお風呂のドア、リモコンなど、ありとあらゆる物が壊れました。<br>わたしの生活の一部でもあったため、家のものを壊される感覚は、自分の一部を理不尽に壊されていくような感覚でした。<br><br>文句は言えませんでした。言ってどうなる問題でもなかったからです。<br>みんなが寝静まって静かになると、わたしは死んだほうがいいのではないかと考えるようになりました。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11917132392.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 22:08:48 +0900</pubDate>
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<title>小学生時代について③</title>
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<![CDATA[ ※テーマごとに書いていくので、時間が前後します。<br><br>４年生になってしばらくした頃、わたしと沙羅ちゃんの関係に変化が起きました。<br>わたしたちは常に一緒にいるような関係でしたが、沙羅ちゃんのひょうきんで親しみやすい性格に、周りの女の子たちが気付き始めたのです。<br>沙羅ちゃんはわたし以外の女の子にも話しかけられるようになり、一躍クラスの人気者になりました。もしかしたら「クラスの人気者」というのは大げさかもしれませんが、少なくともわたしの目にはそう映ったのです。<br><br>一方わたしは、相変わらず友だちの作り方はわからないし、小学校に入ってからできた友だちは花ちゃん、ちいちゃん、沙羅ちゃんだけなので、<br>沙羅ちゃんを囲む女の子たちの輪に入ることはできませんでした。<br>なにより、家柄や家庭環境は違えど、対等な関係、もっと言えば親友だと思っていたわたしにとって、「沙羅ちゃんの取り巻きの１人」になることは悔しかったのです。<br>沙羅ちゃんが他の女の子たちとおしゃべりしているときは、わたしは自分の席につき、じっとしていました。<br>沙羅ちゃんの楽しそうな声が聞こえてくるたび、<br>わたしといるより楽しそうだなぁ。なんで沙羅ちゃんのほうからわたしに声をかけてくれないんだろう。もう少し気にかけてくれてもいいのに。と、嫉妬と悲しみでいっぱいになりました。<br>それでもやっぱり、待てども沙羅ちゃんのほうから近づいてきてはくれないので、最終的には自分から話しかけにいくのです。笑顔で。悔しい気持ちは隠して、気にしてない風を装って。<br><br>沙羅ちゃんは、わたしから話しかければ普通に今までどおりの会話をしてくれました。でも沙羅ちゃんからしてみたら、もちろん友だちは多い方がいいし、話しかけてくれる子がたくさんいるのに、わざわざわたしに自分から話しかける必要などなかったのでしょう。<br><br>いくら気にしていない風を装っていても、確実にわたしたちが一緒にいる時間、おしゃべりする時間は減っていきました。沙羅ちゃんはその時間を他の友だちと過ごすことができても、わたしにとっては１人ぼっちの時間が増えるだけです。<br>人気者になってしまった沙羅ちゃん。<br>自分でも気が付かないうちに、沙羅ちゃんに対して当たりが強くなっていたのかもしれません。<br>ある日、わたしは沙羅ちゃんを怒らせてしまいました。<br>きっかけはとても些細なことでした。<br>わたしの記憶が確かであれば、パソコンの電源を切るときはスタートボタンを押すかどうかでもめたのです。<br>わたしが、左下にスタートボタンというものがあるのだと説明すると、沙羅ちゃんは「そんなものはない」と言いました。わたしは間違っているはずがなかったので、もう一度、今度は少し強めに「だからさぁ」と切り出しました。<br>すると沙羅ちゃんは、「もういい」と突然怒り、先に階段を降りていってしまったのです。<br>わたしには訳がわかりませんでしたが、教室へ戻った頃には「きゃりちゃんと沙羅ちゃんが絶交した」という噂が広まっており、すでに沙羅ちゃんは他のグループに入っていました。そのグループというのが、美久ちゃんとその友だちだったのですが、その２人が「わたしもきゃりちゃんのこと好きじゃない」と言っているとの情報を他の子から耳にして、あぁこれはもう戻れないんだなと思いました。<br>わたしはパソコンに関して間違ったことは言っていないし、沙羅ちゃんがそんなことで怒ったことにも納得していませんでした。<br>でもなにより、沙羅ちゃんの中で一方的に、わたしと絶交したことになっていたことが悲しかったのです。それほどわたしに鬱憤がたまっていたのか、はたまた他の子といるほうが楽しいと気づいてわたしが鬱陶しくなったのかはわかりませんが、「突き放された」のだということはわかりました。<br><br>そのときちょうど、どのグループにも属していない亜香里ちゃんがわたしと一緒にいてくれるようになったので、運がよかったといえばよかったのですが、亜香里ちゃんはどちらかというと気が強く、おしゃべりな子だったので、どこか無理をして合わせるようになりました。<br>この頃から、親友ってなんなのだろうと考えるようになりました。亜香里ちゃんとは常に一緒にいるようになったので「親友」だと思い込んでいましたが、どこかいつも、無理をして笑顔を作っている自分がいたのです。<br>そしてまた、本音で話すことができなかったのです。<br>亜香里ちゃんとは５年生でも同じクラスになりました。<br>ちょうどそのとき、他校から転入してきた女の子ともクラスが一緒になりました。その子は容姿で何度もいじめにあい、転校を繰り返してきた子でした。わたしのクラスでもすぐにいじめが始まりました。亜香里ちゃんは積極的にいじめる子ではありませんでしたが、いじめをよくないと思っているわけではなかったようで、女の子が近づいてくると「きゃーきもい」と言ったり、「菌が移る」と言ったりはする子でした。わたしはよくないと思いながらも、否定することができずに笑うのです。笑うたびに、わたしの心も傷ついていきました。<br><br>また、４年生になると、親から「何か習い事を１つ増やさないか」と提案されました。<br>わたしはピアノをやりたいと思いましたが、弟が公文に通いたいというのを聞き、弟に負けたくない一心で公文も通うことにしました。<br>公文は週に２回、金曜日にピアノを習って、土曜日にスイミングへ行くというハードな小学校生活が始まりました。でも公文もピアノも自分のペースで進めることができるので、さほど苦ではありませんでした。<br><br>しかし５年生になると、今度は弟に異変が起きました。<br>弟は１つ下の学年なので、小学４年生でした。突然学校に行かなくなり、家で荒れるようになったのです。<br>弟はもともと対人関係が苦手な子でした。<br>なにか問題を起こしてその場では強がる反面、実はそのことに深く傷ついたり恥ずかしがったりして、それを家でストレスとしてぶつけるのです。<br><br>例えば、算数の時間、先生に指名され、黒板の前に行ったのですが、わからなかったので黒板に「うんちの絵」を描いてみんなに笑われ、先生に怒られる。そのときはヘラヘラしているけど、先生に怒られたことが心に残っていて学校を休む。<br>宿題が終わらないという理由で明日学校に行けないと泣き喚く。やれば終わるのに、明日の準備すらもしようとしない。などなど…。<br><br>ですから学校では、ちょっとおちゃらけた問題児に見られますが、家ではプライドの高い気むずかしい子だったのです。<br>わたしは学校で、いろいろな友だちや先生に弟のことを聞かれるのがすごく嫌でした。深刻な顔をして、不登校の弟を心配してくる先生も嫌でしたし、あいつなんで学校来ないの！？(笑)と興味津々の友だちも嫌でした。<br>家での様子を話したところでわかってもらえるはずがないし、「あのおもしろい奴の姉」と意外だという風に見られるのが恥ずかしくて仕方ありませんでした。<br><br>弟は次第に「赤ちゃん返り」をするようになっていきました。赤ちゃん返りとは字のごとく、赤ちゃんのように甘えるようになることです。<br>母には赤ちゃん言葉で話すようになり、自分のことをちゃん付けで呼び、哺乳瓶に入ったミルクをほしがり、おむつをつけることを要求しました。<br>わたしはその光景を「気持ち悪い」と感じましたし、母もイライラしている様子でした。しかし、イライラしながらも要求を飲んであげる母に疑問も感じました。<br>赤ちゃん言葉にイライラするなら、普通の言葉で話さない限り無視すればいいし、ミルクもおむつもやってあげなくていいと思いましたが、母は嫌な顔をしながらやってあげるのです。無論、やってあげないと騒ぎがエスカレートするので仕方がなかったのですが。<br>やるならやるで、目一杯甘えさせてあげればいいのに、母のやり方はどこまでも中途半端でした。<br><br>弟が赤ちゃん返りをした原因は、幼い頃両親にあまり愛情を注いでもらえなかったことや、下の弟(当時３歳くらい)にばかり世話を焼く母にかまってほしかったからです。<br><br>その光景の意味が当時のわたしにはわからなかったので、わたしは何度も弟に「気持ち悪い」などの言葉を口にしてしまいました。今でもとても後悔しています。<br>悪いのは弟ではなかったし、弟も両親の愛情に疑問を感じて苦しんでいたにちがいありません。<br><br>弟はそれから、学校に来たり来なかったりを繰り返しつつ、次第に悪化している風でした。<br><br>わたしは６年生になり、今までの友だちの誰とも違うクラスになりました。６年生にしてまともな交友関係を築けていなかったわたしは、新しいクラスに不安でいっぱいでしたが、すぐに仲良しの友だちができました。<br>紗良ちゃんと美友ちゃんです。<br>美友ちゃんは学級委員をやるようなみんなのまとめ役で、今までに話したことのないタイプでしたが、打ち解けてみると話が合ってとても楽しい子でした。<br>そして、一番仲良しなのが、紗良ちゃんです。沙羅ちゃんと名前が一緒で、最初はなんとなく嫌悪感があったのですが、仲良くなってみるととても気が合い、一緒にいて気が休まる子でした。<br>この２人に囲まれて、あぁ親友ってこれだよなぁと思いました。<br>毎日がパッと明るくなり、楽しくなったのです。<br>亜香里ちゃんは、クラスが離れても遊びに行くねと言ってくれていましたが、正直クラスの２人といるほうがずっと楽しかったし、実際亜香里ちゃんが遊びに来てくれてわたしが２人の輪から抜けると、誰から見てもわかるくらいわたしのテンションがおとなしくなるので亜香里ちゃんにも申し訳なくなりました。<br>亜香里ちゃんも「なんか楽しそうだね」と言い、教室へ来なくなりました。もしかしたら、沙羅ちゃんもこんな心境だったのかもしれません。<br><br>当時、わたしたちの間ではパソコンでやる「チャット」や「ホームページ」が流行っていました。<br>学校でおしゃべりするだけでは飽きたらず、家に帰っても、約束した時間にリヴリーアイランドやHaboo hotelというサイトへ行きみんなでおしゃべりするのです。<br>わたしは自作のホームページを持っていて、掲示板やお絵かき掲示板などで交流することもありました。<br>弟はその当時も学校へは行っておらず、メイプルストーリーというゲームにはまっていました。<br>パソコン、ゲームなどはトータルで１日１時間と決まっていましたが、弟は守っていませんでした。<br><br>パソコンはリビングに１台しかなく、わたしが使う時間だけは譲ってくれることがほとんどでしたが、たまに譲ってくれないこともありました。<br>みんなと待ち合わせしているのに。わたしは時間を守っているのに。と、怒りでいっぱいになるのですが、母に言っても「お前は毎日パソコンをしなきゃいけないのか。頭がおかしい」となぜかわたしが怒られてしまうのです。<br>毎日、といっても１時間だし、決まりは守っていたのに、なぜ怒られるのか、そしてなぜ弟が怒られないのか、やっぱりわかりませんでした。<br><br>そしてある日、母がついにキレて、パソコンを床に叩きつけました。育児に失敗したのは全てパソコンのせいだといわんばかりの怒りでした。<br>弟は狂ったように泣き、わたしは呆然としました。<br>母は「最近パソコンの調子が悪かったし、どうせ壊れているんだからこういう壊し方をしたっていいんだ」と言いました。床に傷がつきました。<br>わたしはよくわかりませんでした。なにか悪いことしたっけ、と、考えていました。<br><br>わたしはパソコンを使うことができなくなりました。<br><br>今までは単純なおしゃべりだけでなく、用事の確認なども掲示板で行っていましたが、それすらできなくなってしまったので、わたしはケータイでメールをするようになりました。<br>当時のいわゆるケータイ用インターネットである「iモード」はとても料金が高く、パケ放題にしないととても使えないものでしたし、フィルタリング(制限)がかかっていてわたしはドコモサイト以外見ることができなかったので、メールをするしかなかったのです。<br>メールといってもお金がかかります。特に相手がパソコンだと、ケータイ同士よりお金がかかるといわれていたので、少しでも短文で済ませようと頑張りました。<br><br>それでも母の納得のいく料金ではなかったようで、毎月鬼のように怒られました。<br>毎月いつぐらいになると請求書が送られてくるのか、次第にわかってきましたので、その日の付近になると毎月ビクビクしていました。<br>リビングに降りていくと、「ちょっときゃり」と、とても不機嫌な声で呼ばれるときは、毎月、あぁまただと思うのです。<br><br>しかしもうすでに努力していたし、これ以上の改善は考えつきませんでした。<br>母はわたしのケータイを奪い、履歴やメールなどを勝手に見たり、ケータイ会社へ行って「こんなに料金が高くなるのはどうしてもおかしい。絶対に使いすぎているのにこの子が認めない」などと言ったりました。ケータイ会社の人がいくら、「なんのプランにも入っていないのだからこのくらいの金額になる。この子が使いすぎているわけではない」と説明しても、わたしを信じてはくれませんでした。<br><br>しかし、６年生のときには嬉しいこともありました。<br>初経を迎えたのです。なんとなく自分はもうすぐくるのではないかという予感がしていた頃だったので、特別驚きはしませんでしたが、母に言うタイミングがよくわかりませんでした。<br>初経を迎えたらお祝いされるとか、赤飯がでるとかいう話を周りから聞いていたので、どんな反応をされるのか少し気恥ずかしかったのです。<br>ひとまずは母のナプキンを借りて、授業の見まねでつけ、その日の夕方にリビングで母と２人きりになったときに打ち明けました。<br>母は「ふーん」と言いました。それだけでした。笑顔を見せてくれることもありませんでしたし、もちろんお赤飯が夕飯に並ぶこともありませんでした。<br>そうだよね、わたしのお母さんはそうだよね。と諦めのような気持ちになる反面、少し悲しかったです。<br>しかし、月に１度ほどのペースで、スイミングへ行かなくてもよくなりました。<br>たとえ木曜日くらいに生理が終わっても、まだちょっと…と自分に言い訳をして、母に嘘をつくこともありました。<br>そうこうしているうちに、最終的には月の半分くらいを休むようになっていたと思います。<br>また、その頃になると体調もさらに悪化し、最後まで泳ぐことができず途中で気持ち悪すぎて休むことが増えてきたので、コーチが親に説明してくれることも度々ありました。<br>そして小学校最後のピアノの発表会の帰り道、いつもより少し機嫌のいい母に「スイミングやめたいんだ」と話したところ、なぜかすんなりと「あぁ、やめれば？最近あんまり行ってなかったし。嫌ならやめればいいよ」と言ってくれたのです。<br>嫌ならやめればいい、その言葉をどんなに望んでいたかわかりません。ピアノの発表会を終えた安心感より、はるかに大きい安心感と開放感に、涙が出そうになったのを覚えています。<br>そこから何週間かは、土曜日がくるのを無意識に恐れ、あぁもうスイミングはないんだ、と安堵する日々を繰り返しました。<br><br>どの時点で、母にそのような変化が起こっていたのかはわかりません。もしかしたらもっと前からわたしのつらさの大きさに気づいていて、「今度本人が辞めたいと言い出したら辞めさせてあげよう」と思っていたのかもしれません。<br>あっさりとしすぎた答えに拍子抜けしてしまいましたが、だったらもっと早く言えばよかったなどと考える余裕などありませんでした。ただひたすら、よかった、よかった、辞められた、もう行かなくていいんだ、と思いました。<br>ちなみに、これは苦痛ではなかったのですが、この時点で公文も弟だけとっくに辞めていて、当たり前のようにわたしは続けさせられていました。<br><br><br>６年生の最後の思い出として、中学受験があります。<br>わたしは田舎の小学校に通っていたので、ほとんどの子が公立中学に通うのが普通でした。<br>私立を受ける人が数名、その他に当時話題だった中等教育学校(中学と高校が合体したような６年制の学校)を受験する子どもは１０人ほどいましたが、学力ではなく人間性を測る特殊な学校でしたし、なんにせよ倍率が恐ろしく高かったので、受かって１人、というくらいです。<br><br>わたしは、どうせならそういう学校(私立や中等教育学校)に行きたいと思いました。<br>誰でも入れる公立の中学でおバカな子たちと学ぶくらいなら、もっと水準の高い教育を受けたほうが自分のためになると思ったからです。<br>しかも「受験」というものをするだけで入れるかもしれないなら、「受験」すればいいと思いました。<br>わたしの両親も、中等教育学校には賛成でした。といっても教育方針云々より、あの難関校にもし受かるなら行けばいいという考えだったのでしょう。<br>わたしは私立でも中等教育学校でもどちらでもよかったのですが、親の顔色を伺って、表向きは中等教育学校を第一志望としました。私立でもいいと言ってはくれていましたが、私立のほうは倍率が例年２倍ほどだったので、わたしの学力でも受かるレベルだと高をくくっていたのでしょう。あまり魅力を感じていなかったようです。<br>受験組、といっても、特に勉強はしませんでした。中等教育学校は学力試験ではないため、成績の良し悪しは関係ないし、私立のほうは勉強しなくても受かるとわたしも思っていたからです。<br><br>私立のほうが試験は先でした。母と会場へ向かうと、予想をはるかに超えた受験生が集まっていました。わたしの年だけ、倍率は４倍だったのです。<br>受験会場には沙羅ちゃんがいました。沙羅ちゃんはもともとこの私立に通う予定でした。お金持ちだから、私立に通わせるのが親の方針だったそうです。<br>沙羅ちゃんはわたしを見て、<br>「いつもの服と髪型で来たの？」と笑いました。<br>確かに、周りはお嬢様やお坊ちゃんばかりだからか、卒業式のようなかっこうで来ている子が大半でした。<br>そして沙羅ちゃんは「わたしはパパが学園長に話しつけてあるから絶対受かるんだ」と得意気に笑っていなくなりました。<br>学力で勝負できないなんて、汚いなぁと思いながらも、少しだけ羨ましくて、そして自分の姿が恥ずかしくなりました。<br><br>母と別れて教室へ向かうと、今日のために塾へ通っていた仲間たちのような集団が円陣を組んでいたり、「絶対みんなで受かろうぜ！」と燃えていたりするのをいくつも見ました。<br>寒いなぁと思う反面、ここでも自分の場違いさを思い知らされる気分でした。<br><br>しかし試験を受けてみると、特にわからない問題もなく、時間を持て余すほどでした。<br><br>試験が終わり、難しかったなどの声を聞くと、これは受かるかもしれないと自信が湧いてきました。<br>結果は合格。言うまでもなく沙羅ちゃんも合格。<br>噂はあっという間に学年中に広まり、「きゃりちゃんは確かに計算とか早いけど、正解率で言ったらわたしも同じくらいだ」と得意げになっている沙羅ちゃんに対して<br>「じゃあ正々堂々勝負してみる？勝てるわけないでしょ」とイライラしつつ、その気持は自分の中にとどめておきました。<br><br>しかし家に帰って母に、「本当に行きたいの？」と言われ、その表情からしてあまり乗り気ではないことを改めて悟りました。確かに私立はお金がかかります。出せる金額ではあるにしても、必要ないお金を出させるのは申し訳ありません。<br>「本当にやりたいことがあるなら行ってもいいけど」という母の言葉は、とても高圧的で、「何かに失敗したときは絶対に助けてあげないよ」と言っているように聞こえました。<br>わたしは本当は行きたかったですが、明確に自分の意志を語ることができませんでしたし、何を言っても言い返されるのが目に見えていたので「じゃあいいよ」と言って行かないことにしました。自分の気持ちをまた１つ閉じ込めたのです。<br><br>当然、締め切りまでに入学金を振り込みませんでした。<br>また、噂はあっという間に広まりました。<br>わたしは「入学金を振込み忘れた子」になりました。沙羅ちゃんを筆頭に、いろいろな子にひそひそと笑われました。<br>わたしはグッと堪えました。そうじゃない。忘れたわけじゃない。そんなに馬鹿じゃない。試験だって１番だったよ。<br><br>わたしは「入学金を振り込み忘れて公立に通うしかなくなった子」として、みんなと公立の中学に通うことになりました。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11916738192.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2014 03:19:32 +0900</pubDate>
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<title>小学生時代について②</title>
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<![CDATA[ 2年生の冬、新たに弟が生まれました。<br>母のお腹が次第に大きくなっていることには気づいていましたが、あとどのくらいで生まれるかなどの話は全く聞かされていませんでした。<br>ある日突然、学童に父が迎えにきたのです。<br>「なんでお父さんなの？」と聞くと、父は「生まれたから病院へ行くよ」と言いました。<br>わたしと弟も知らなかったことなので、当然先生たちに弟が生まれそうだということは話していませんでした。<br>話を聞いた先生も「あ…そうなんですか、おめでとうございます」とその場でとっさに考えたような祝福をしながら、突然の出産に驚いているようでした。<br><br>母は、1年間の育児休暇をとるから学童は1年間行かなくてもいいと言いました。<br>わたしはおかしいなと思いました。<br>わたしは0歳で保育園へ入れられたのに、なぜ弟は1年間母にみてもらえるのでしょう。<br><br>その疑問を母に尋ねることはできず、まぁ学童に行かなくていいなら嬉しいと思い、その日からわたしと弟は学校が終わったら直接家に帰るようになりました。<br><br><br>3年生になると、花ちゃんとも、ちいちゃんとも違うクラスになりました。<br>美久ちゃんとは同じクラスでしたが、2年生の後半から別の女の子と仲良くするようになり、3年生になってからもその子と一緒にいたようです。<br><br>わたしは後ろの席に座っていた沙羅ちゃんとすぐに仲良くなりました。沙羅ちゃんはひょうきん者で一緒にいてとても楽しかったです。<br>沙羅ちゃんのおうちは幼稚園を経営していたのでお金持ちでした。親もおばあちゃんも沙羅ちゃんに甘かったので、わたしには沙羅ちゃんがとてもうらやましく思えました。<br>わたしがお小遣いをもらい始めたのは4年生のときで、1ヶ月400円でしたが、沙羅ちゃんは毎週1000円もらっていたようです。<br>わたしの家ではゲームは1日1時間という決まりがありましたが、沙羅ちゃんはルールがなく、親も怒らなかったので、わたしは休みの日になると、沙羅ちゃんの家に行ってずっとゲームをしていました。<br>2人でほしいと話していたおもちゃも、沙羅ちゃんだけ買ってもらえることが多かったです。<br><br>そんな中、わたしたちは犬がどうしても飼いたくなりました。<br>「ペットショップは犬を大切にしないから、ブリーダーになる」という根拠のない理由でブリーダーを目指し、犬図鑑を見て犬の種類を200匹くらい覚えたり、図書館で借りてきたDVDで犬の病気を学んだりと、幼いながらにできることを頑張ったのです。<br><br>親はそんなわたしを白い目で見ていました。<br>わたしの家の近くは、犬を飼っている人が非常に多く、犬を連れて散歩している姿をよく見受けます。家族5人で車に乗っているときにも、犬を歩かせる人の姿が目に入ります。わたしは窓からその様子を見て、「かわいいなぁ…」とつぶやきました。<br>すると母は、「今まで犬になんか見向きもしなかったくせに」と、それはそれは厭味ったらしい声で言い、鼻で笑うのです。事実なのでわたしは言い返せず、ふてくされるのです。<br>でも、わたしは本当に犬が可愛いと思っていました。たくさん勉強して、どんな犬を飼いたいかもわたしの中では決まっていたのです。<br><br>沙羅ちゃんが犬を飼ったのは、それからすぐのことでした。<br>「犬飼ったんだ～！」と嬉しそうに報告してきたとき、やっぱり沙羅ちゃんのような幸せはわたしには訪れないのだと思いました。親が違うからです。<br><br>沙羅ちゃんが飼ったのは、当時大人気だったチワワでした。<br>チワワはものすごく高いし、室内犬なので、どうしても飼うことのできない犬でした。<br>わたしは、もっと大きな犬のほうが可愛いし、チワワなんてすぐ死んじゃいそうでやだ、と自分に言い聞かせました。本当はわたしだってチワワが好きだったのです。<br><br>その後も必死で親を説得し、成績がよかったら飼ってもよいことになりました。<br>わたしはもともと成績は悪くなく、親の提示してきた条件も今までどおり頑張ればとれる程度のものでした。実際、次の通知表で犬を飼うことが決まりました。<br><br>しかしそこからの親の条件はひどく厳しいものでした。<br>「犬が好きなんでしょ？じゃあ雑種だっていいじゃん」<br>「ビーグルのことかわいいって言ってたじゃん。ビーグルでいいでしょ」<br>「○万だって～。たか～い」<br>「あんたちゃんと散歩させるんだろうね。朝と夜2回だよ。朝は6時頃じゃなきゃダメなんだよ(そんなに早くなくていいはずなのに)」<br>「毎日うんちの取り替えあんた1人がやるんだからね」<br>と、ここぞとばかりにプレッシャーをかけてきました。<br>わたしだって自分で選んだ犬がいました。母が飼いやすい犬でないとダメだと言うので、飼いやすい犬の中から決めたのです。値段も考えて、高い犬は諦めました。<br>そうした遠慮をしていることもわかってもらえず、どんどん注文をつけてくるのです。<br>一見、犬を飼うことの難しさ、命を育てることの大変さを教えているように見えるかもしれません。しかし母の言い方はとても嫌味ったらしく、精神を傷つける言い方なのです。<br><br>それでもわたしは早く犬を飼いたくて、母の嫌がらせを我慢しました。<br>そしてようやく3年生の冬、コーギーを飼うことができました。<br>沙羅ちゃんのチワワがミルクという名前だったので、わたしはコーギーにココアという名前をつけました。<br>2匹合わせてミルクココアにするという小学生らしい夢が叶ったのです。<br>わたしたちはよく犬を連れて遊びに行きました。<br>でも、コーギーはチワワと違って力があります。一緒に歩いていても、わたしだけが引っ張られてしまって「ココア！」と怒ります。<br>コーギーはチワワと違って重いです。沙羅ちゃんは何かあるとすぐミルクを抱きかかえましたが、コーギーは重いし力もあるのでわたしの手におとなしく収めることはできませんでした。<br>コーギーはチワワよりも大きなうんちをします。そのたびにたくさんのティッシュを使いますし、フンの入れ物もすぐにいっぱいになってしまいます。わたしはお願いだからうんちしないで、と心の中で何度も呟きながら、一緒にお散歩をしました。<br>もちろん、チワワが良かったなどと口にするのは、ココアに悪いなと思いましたから、口に出すことはしませんでした。うんちも朝早く起きて毎日掃除したし、お散歩も毎日連れて行きました。<br>でも本当は、室内で飼える小さな犬に憧れていたのです。<br><br>沙羅ちゃんは、自分で飼うと言い張ったくせに、あまりミルクの世話をしていなかったようです。一度、沙羅ちゃんの家で遊んでいる時に、沙羅ちゃんがおばあちゃんに「ミルクのうんち片付けときなさい！」と言われました。<br>沙羅ちゃんはわたしに「逃げろー！」と言い、わたしたちはうんちを片付けずに逃げたのです。<br>戻ってくると、うんちは綺麗に片付いていました。おばあちゃんが片付けたのです。「全くあんたは…」と言いながらも、本気で怒っている風ではありませんでした。わたしはびっくりしました。わたしの家だったら、逃げることなんて許されませんし、もし逃げたらうんちの処分がされていないのはもちろんです。<br>ゲームも一緒でした。沙羅ちゃんの家は小学校の目の前だったので、わたしはいつも学校に行く前に沙羅ちゃんの家に寄って、ぎりぎりまでゲームをして過ごしました。わたしの家だったら考えられないことです。<br>沙羅ちゃんのお母さんが一度「いい加減にしなさーい！」と怒りましたが、沙羅ちゃんは「きゃー怒った～こわーい」と笑うだけでした。お母さんもそれ以上何も言わず、あぁこういう家なんだと知りました。本気で怒ったり、嫌味を言われたりすることがないのだと。わたしにはとてもうらやましく感じたのです。<br><br>そして、この頃になると、ちいちゃんがスイミングをやめると言い出しました。<br>わたしはずっとちいちゃんと一緒に泳いでいたので、ちいちゃんが辞めると友だちがいなくなってしまいます。<br>級が上がるごとに練習もきつくなっていたので、わたしもちいちゃんも、なんとなくスイミングが苦痛に感じているのはお互いわかっていました。でもわたしは、母に辞めたいというのが怖かったし、ちいちゃんと一緒だから頑張れました。でもちいちゃんのお母さんは、ちいちゃんの行きたくないという気持ちを尊重してくれたのでしょう。優しいお母さんだと思いました。羨ましいと思いました。<br><br>わたしはもともと、母に「ちいちゃんでも誘ってスイミングでも始めたら？」と言われたのがきっかけでスイミングを始めました。わたしにとって「ちいちゃんと一緒」というのは重要な要素であり、1人でも続けるなんて絶対に嫌でした。<br>わたしはちいちゃんと一緒だからスイミングを始めたのです。本当はスイミングなんてやりたくありませんでした。<br>でも、母はスイミングは絶対にやらせるのが教育方針だったようです。実は0歳か1歳のときにも、同じスイミングスクールに通わせていましたが、わたしがあまりにも泣くので辞めたそうです。それでも母は、子どもにスイミングを習わせることを諦められなかったのでしょう。<br>わたしがビクビクしながらも、辞めたいことを言うと、母はスイミングはやめさせないときっぱりと言い、それ以上の話を受け付けませんでした。諦めて、大嫌いなスイミングに通い続けました。<br><br>スイミングはわたしの弟も通っていましたが、今度は弟が辞めたいと言い出しました。すると母は、すんなり弟を辞めさせました。どうしてわたしは辞めさせてくれなかったのに、弟は簡単に辞めることを許したのか不思議でした。わたしはもう一度辞めたいと言いましたが、無視されました。<br><br>ずっと、ちいちゃんと弟と一緒にいたので、今更他の子たちの間に溶けこむことはできませんでした。それに、わたしのいた級はほとんどが年下の子たちで、気が合うようにも思えませんでした。<br>わたしは、スイミングがある土曜日が大嫌いになりました。毎週土曜日が近づいてくるのが憂鬱なのです。周りの子が、やっと学校が終わったと喜んでいる金曜日は、わたしの心は真っ暗でした。<br>スイミングの前は必ずお腹を壊し、スイミングへ向かう道では緊張のあまりあくびがたくさん出て、スイミング中は気持ち悪くて何度も吐き気をこらえながら、なかなか上がらないタイムに無気力を感じ、通い続けました。終わったあと、心がやっと休める感じがするのです。そして日曜日にはもう、次の土曜日が来るのが憂鬱だったのです。<br>どうしてわたしだけ辞めさせてもらえなかったのかはわかりません。弟は確かにメンタルが弱く、習い事は続かないかもしれません。ぐずり出すと手におえません。でも辞めたい辞めたいと泣き喚き、暴れまわれば辞めさせてもらえるのだとしたら、わたしだってそうしたかった。<br>そんなことできるはずもなく、当たり前のように、土曜日になると車に乗せられ、スイミングスクールへ連れて行かれました。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11907219619.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Aug 2014 13:20:32 +0900</pubDate>
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<title>小学生時代について①</title>
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<![CDATA[ わたしは小学生になりました。<br>小学校に上る前に引っ越しをしたので、同じ小学校に通う友だちは1人もいませんでした。<br><br>人見知りだったわたしは、友だちの作り方がわかりませんでした。<br>クラスには、友だちが1人もいない子はほとんどいませんでした。みんな誰かしら知り合いがいるようで、初対面ではないであろうと思われる友だちと楽しそうにおしゃべりをしていました。<br>もちろんみんな、新生活に緊張はしていたでしょうが、わたしほど緊張していて、不安だった子どもはいないのではないかと思います。<br><br>わたしは自分から話しかけることができず、そのまま学校は終わりました。<br><br>わたしは小学校でも、学童に入ることになりました。もちろん、帰りは1番遅かったです。<br>初めて学童に行く日は、小学1年生ということで、先生たちが学童に行く子とそうでない子を分け、整列させました。<br>帰りの用意を済ませ、校庭で整列したので、みんな1年生の象徴である黄色い帽子をかぶっていました。<br><br>そこでわたしは、小さな女の子の後ろに並びました。<br>わたしは、その女の子の帽子が前後ろ逆になっていることにすぐに気が付きました。<br>この列は学童に行く子たちの列だったので、わたしもその女の子もあと数分で学童へ行き、帽子をとるでしょう。わざわざここで、帽子が反対だと指摘する必要もないかもしれません。<br>しかし、友だちのいないわたしはチャンスだと思いました。友だちの作り方なんてわかりませんでしたし、知らない子に話しかけたこともありません。それでも自分から歩み寄ろうと勇気を出してみたのです。<br>その女の子の肩を叩き、振り返ったその子に、「帽子反対だよ？」と声をかけました。意識しすぎたあまり、とても優しい声が出て自分でも驚きました。いつもわがままを言いたい放題言っているので、そんなに気を配ってお話をしたことがなかったからです。<br><br>その子は「あっ、ほんとだー」と恥ずかしそうに帽子を正し、ありがとうと笑ってくれました。その笑顔はわたしをとても安心させました。わたしを拒まなかったのだと、嬉しくなったのです。わたしたちはすぐに仲良くなりました。その子－花ちゃんは、少しドジでおっちょこちょいで、わたしの話を「そっかぁ」と素直に受け入れてしまう弟にどこか似ていました。<br>わたしと花ちゃんはクラスも一緒だったので、その日から、クラスでも学童でも一緒に過ごすようになりました。<br><br>しかし、しばらくすると、わたしと花ちゃんに、2人の女の子が近づいてきました。ちいちゃんと美久ちゃんです。<br>彼女たちも学童に通っており、クラスも一緒だったので、4人で仲良しになろうと思ったのでしょう。<br>ちいちゃんは家がとても近く、すぐに仲良くなりました。学校も一緒に行くようになりました。<br>しかし、美久ちゃんはどうしても好きになれなかったのです。<br><br>美久ちゃんは意地悪な子でした。わたしも意地悪な子どもでしたので、人のことを悪く言う資格はないかもしれませんが、それでも美久ちゃんは大嫌いでした。<br>美久ちゃんは、一見男の子かと思うほど髪が短く、背が高い女の子でした。背の高い子が偉い、と決めつけ、ちいちゃんはもちろん、特に背の低いわたしと花ちゃんはいつも手下でした。<br>花ちゃんはもともとついていくタイプというか、あまり主張せず「えへへ」と笑っているタイプでしたのでそれほど苦ではなかったのかもしれませんが、わたしはたまりませんでした。<br>そもそも、背の高い人が偉い、という理屈にどうしても納得できなかったのです。<br><br>美久ちゃんのいないところで、美久ちゃんの悪口を言い合うようになりました。<br>わたしは、「学校なんだから頭の良いほうが偉い」と言いました。それも今となってはおかしいことなのですが、背が小さいというだけで美久ちゃんにいろんなことを命令されるのがたえられなかったのです。<br>しかし、美久ちゃんの前では、わたしも花ちゃんもちいちゃんも、文句を言うことはできませんでした。子どもなりに、美久ちゃんに歯向かったら仲間はずれにされてしまうことをわかっていたのでしょう。<br><br>ある日、学童で美久ちゃんの提案により「学校ごっこ」をすることになりました。<br>誰か1人先生役を決めると言い出し、わたしが選ばれてしまいました。<br>しかも、久美ちゃんが言うにはその授業は英語。<br>「英語の先生なんだから英語でしゃべってよね」と無茶ぶりされました。<br>わたしは最初、「えー、無理だよぉ」と笑っていましたが、次第に美久ちゃんがいらだちはじめ、「まだ？はやくしゃべってよ」と焦らせてくるので、ついにわたしは泣いてしまいました。<br><br>すると、美久ちゃんはさすがに悪いと思ったのか、はたまたまずいと思ったのか、わたしに謝ってくれました。花ちゃんやちいちゃんも謝ってくれました。<br>それから美久ちゃんはわたしとちいちゃんを立たせ、背を比べ、「きゃりちゃんのほうが高いじゃん。今度からきゃりちゃんが2番ね」と言いました。<br>確かにそのときわたしは背が伸び、ちいちゃんと同じくらいの身長になっていましたが、本当にちいちゃんより高かったのかは定かではありません。<br><br>しかし、あれだけ身長で順位をつけるのはよくないと思っていたのに、2番になれたことにほっとしたのです。2番はいわばスネオ的なポジションで、反発しない限りは悪いようにはされない立場でしたので。そのことによりちいちゃんが前よりも悪い立場に置かれることになってしまおうとも、わたしは自分のことで精一杯でした。なんとか美久ちゃんに嫌われないようにと努めました。<br>今思えば、美久ちゃんなど放って3人で仲良くすればよかったのでしょうけれど、当時のわたしにはそれが自分を守る精一杯の手段でした。<br><br>2年生になると、花ちゃんは転校生の唯ちゃんと仲良くするようになりました。<br>唯ちゃんもみんなに嫌われるほど意地悪な女の子だったので、いいように扱える花ちゃんは都合がよかったのかもしれません。唯ちゃんは花ちゃんと一番仲が良かったわたしに敵対心を抱いているようでしたので、わたしはなんとか嫌われないようにと、唯ちゃんに気を遣うようになりました。<br>例えば、給食を運ぶために並んでいた時、花ちゃんと愛ちゃんに挟まれてしまった時は、「2人で並びたいでしょ？前行っていいよ」とニコニコしながら言いました。些細なことかもしれませんが、7歳のわたしには精一杯の気遣いだったのです。<br><br>そのうち、美久ちゃんとちいちゃんも2人で遊ぶようになりました。理由はわかりません。きっと美久ちゃんの気まぐれで、「きゃりちゃんは嫌いだから2人で遊ぼう」とでも言ったのでしょう。わたしは1人ぼっちになりました。<br>ずっと美久ちゃんに支配されていたため、他に友だちはいませんでした。<br>たまに、わたしとちいちゃんと、近所のクラスメートの男女数人で遊ぶことはありましたが、学校の中ではそれぞれ別のコミュニティがありましたから、そこに自分から1人で入っていく勇気はなかったのです。<br>わたしは1人、教室で過ごしました。他にも絵を描いたり、本を読んだりする子がいればよかったのですが、全員外に遊びに行っていました。<br>教室にはわたしだけ。しかも休み時間のあと掃除があるからと、机などは全部後ろに下げられてしまっているため、わたしは自分が座れるだけのスペースを確保し、たくさんの机に挟まれるようにして教室で過ごしました。みじめでした。友だちが1人もいないのだと思われるのが嫌で嫌で、せめて誰も教室に来ないでほしいと思いました。こんな姿誰にも見られたくなかったのです。<br>休み時間が近づくのが怖くて、休み時間になると早く終われ早く終われといつも思っていました。絵を描くのは好きでしたが、毎日毎日得意な女の子の絵だけを描くのは苦痛でした。<br><br>一週間ほどで耐えられなくなり、わたしは母に相談しました。<br>母は連絡帳に書いてくれたので、翌日授業中に先生に呼ばれ、みんなのいる前で小声でお話しました。<br>「きゃりちゃんは誰と遊びたいの？」と言われた時、わたしはやっぱり美久ちゃんといるしかないのだと痛感しました。美久ちゃん仲間に入れてくれてありがとうと思いながら生活するしかないのだと。<br>先生はその場で、美久ちゃんとちいちゃんを呼びました。先生は事情を説明して、2人に「別にきゃりちゃんのことが嫌なわけじゃないでしょ？誘ってあげなよ」と言いました。2人は真顔で頷きました。きっと内心では嫌だったのでしょう。<br>話が終わり、泣きながら席に戻るわたしを、周りの席の子はどうしたのかと心配してくれました。いじめられていたわけではないですし、2年生の子がただのクラスメートの孤独さに気づき自ら手を差し伸べようとすることは当然難しかっただけの話です。クラスの子はもちろん悪気はなかったのです。<br><br>その日の休み時間、美久ちゃんとちいちゃんは縄跳びを持ってわたしの席までやってきてくれました。でもそのときの表情はどこか暗く、乗り気ではないのは明らかでした。それでも仲間に入れてもらえたことが嬉しくて、わたしも縄跳びを持って縄跳び場へ向かいました。<br>誰かと過ごす休み時間はこんなにも早く過ぎ、こんなにも心が楽なのだと気づきました。美久ちゃんの意地悪なんていくらでも我慢しようと思えました。<br><br>ちいちゃんはやはり美久ちゃんに流されていただけで、わたしのことが嫌いなわけではなかったようです。すぐにまた仲良くなり、一緒にスイミングスクールに通うことにしました。<br><br>その頃、わたしは自分の体の異変に気づきました。<br>四六時中吐き気がするのです。学校でも、気を抜いたら吐いてしまいそうでした。<br>何度もオエッとえづき、でも学校でやったら引かれてしまうかもしれないから、それすら我慢しようと努めました。何日も続くので、病気なのではないかと不安になりました。<br>母に相談すると、「熱ないんでしょ」と素っ気なく言われ、終わり。<br>確かに熱はないし、見た目にはなんの異常もないので、もしかしたら仮病だと思われたのかもしれません。わたしはとても悲しくなりましたが、我慢して学校へ行くしかありませんでした。<br>母は、もしかしたらわたしのことを大切に思っていないのかもしれない。そう感じ始めたのは、この頃からでした。<br><br>それに追い打ちをかける出来事が立て続けに起こるのですが、一旦ここで区切りたいと思います。
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<pubDate>Fri, 08 Aug 2014 21:27:21 +0900</pubDate>
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<title>幼少期について②</title>
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<![CDATA[ みなさま、素敵なコメント、いいね、メッセージをありがとうございます。<br>講読してくださる方や、アメンバー（？）になってくださった方もいるようで、うれしいです。<br><br>実家に帰って2日目の今日は、夕方に本屋へ出かけてみました。<br>本屋と言っても書籍コーナーは全体の半分だけで、あとは文房具や化粧品、プラモデルなどが置かれています。<br>小学生の頃は、その本屋でかわいいメモ帳や筆箱、えんぴつを買うのが女の子たちの常識でした。<br><br>大通りに出るまではほとんど人に出くわすことがなく、広い道をゆっくりと歩きました。都会にいると、どんなに遅い時間でも誰かしらが歩いているので、人口の違いを実感しました。<br><br><br>さて、今日も、思いつくままに書いていきたいと思います。<br><br>わたしは保育園の頃、とても人見知りで、でもわがままで意地悪な子どもでした。<br>友だちのお母さんや、母の知り合いに話しかけられても、母の後ろに隠れてニコニコうつむいているだけでしたが、<br>仲のいい友だちや保育園の先生には、なんでも言いたいことを言ってやりたいことをやらせてもらわないと機嫌を損ねる子どもでした。<br><br>保育園の頃、流行っていたのがセーラームーンごっこです。<br>といっても、わたしが個人的にはまっていたセーラームーンを他の女の子に押し付けていただけかもしれません。<br>わたしはセーラームーンの中でもちびうさというキャラクターが好きだったので、絶対にちびうさの役を譲りませんでした。他の女の子はわたしのわがままな性格を知っていたので、文句を言わず他のキャラクターをやってくれました。<br><br>でも、限界がきた女の子たちが、先生に告げ口をしたのです。先生はすぐにわたしを怒りました。<br>「きゃりちゃん、いつも自分勝手なんだって？遊ぶときはみんなで仲良く決めなきゃダメなんだよ」<br><br>今思うとそのとおりでした。でもそのときのわたしは、先生に告げ口をした女の子たちに腹を立てました。わたしには文句も言わなかったくせに。嫌なら一緒に遊ばなきゃいいのに。と。<br><br>だから結局、わたしのちびうさ役が変わることはありませんでした。意地悪でわがままな性格が変わることもありませんでした。<br><br>そんなわたしでも、先生たちはかまってくださいました。<br>きっと、誰よりも早く入園し、誰よりもお迎えが遅く、誰よりも意地悪でわがままで泣き虫なわたしは、目にとまりやすかったのだと思います。目立つし、覚えやすいし、そしてなにより、手のかかる放っておけない子どもでしたから。<br><br>わたしはひどく、愛着に問題があったように思います。<br>前の記事でもお話ししたとおり、わたしは母に対し、恨みと愛情という相反する感情が混在しています。それは先生に対しても同じでした。<br>わたしは先生にべったりで、甘えん坊な性格でした。<br>家では1人で行けるトイレも、保育園では先生と一緒でないと行けませんでした。<br>お昼寝タイムが終わり、布団を片付けている先生に「先生、トイレ」と言い、忙しいから1人で行きなさいと突き放されたことがあります。<br>わたしは泣きわめきましたが、なぜかそのときは先生も頑なに一緒に行こうとしませんでした。きっと、そろそろ自立させたほうがよいと先生たちの間で話し合っていたのかもしれません。<br>結局、わたしはさんざん喚いた挙句、1人でトイレに行きましたが間に合わなくて漏らしてしまいました。先生に裏切られたような気持ちでいっぱいになり、怒らずに笑ってくれた先生に対してもとても怒りを感じました。<br><br>年長のとき、わたしは引っ越しをしました。<br>同じ市内ではありましたが、園からはだいぶ遠くなりました。<br>しかし、園が親の仕事場の通り道だったことから、転園はしませんでした。<br>小さなアパートに住んでいた小さなわたしには、新しい一軒家がとても大きく思えて、家の中を走り回りながらはしゃいだのを今でも覚えています。<br>2階に上がると、わたしと弟の子ども部屋がありました。2人一緒の部屋でしたが、2部屋分以上の広さがありましたので、わたしたちにとっては十分でした。<br>ベッドを買ってもらい、2つのベッドを並べて子ども2人で一緒に寝ました。<br>夜は、どっちが電気を消しに行くかでよくもめました。<br><br>あの頃は、ケンカもしますが仲はよかったのです。<br>わたしは意地汚く、ずる賢い子どもでしたが、弟は素直で要領が悪く、とろい子どもでした。<br>わたしの都合のいい言い分を真に受け、「そっかぁ」と納得してしまう子でした。たまに「それはおかしい」と思うこともあったようですが、それをうまく説明することができず、結局わたしに論破されてしまうのです。<br>わたしの弟として生まれてきた彼は、ずいぶんと理不尽なことを与えられ、苦労してきたでしょうと思います。<br><br><br>そんなわたしも、無事に卒園することができました。<br>卒業式では「お花屋さんとケーキ屋さんになりたい」と発表しました。<br>女の子たちの間ではお花屋さんかケーキ屋さんになるのが夢だという子が大半でしたので、わたしも例外なく彼女たちと同じように夢を見ていたのです。しかし、普通は夢を1つにしぼるのに、2つとも譲れなかったところが当時のわたしらしいなと思います。<br><br>卒業式での並び方は入園順でした。わたしは3番目でした。<br>わたしと同じ日に入園した子どもは3人でしたが、誕生日順でわたしは3番目だったようです。わたしはそのとき初めて、自分が預けられていたのは他の子たちよりもずっと早かったのだと知りました。<br><br>卒園式のときの母は優しかったです。わたしの卒園に涙を流してくれました。<br>わたしが卒園証書を母のもとへ持っていくと、母はありがとうと微笑んでくれました。<br><br>こうしてわたしは保育園を卒園し、小学校へとあがるのです。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11906843841.html</link>
<pubDate>Fri, 08 Aug 2014 18:48:42 +0900</pubDate>
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<title>幼少期について①</title>
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<![CDATA[ わたしは1993年に、群馬県で第一子として生まれました。<br>翌年弟が生まれ、両親と弟、そしてわたしの4人で小さなアパートで暮らしていました。<br><br>両親は国家公務員として働いており、わたしはまだ1歳にもならない頃から保育園へと預けられました。<br>記憶にはありませんし確認もしていませんが、弟も翌年に同じように1歳の誕生日を待たず、生後○ヶ月という形で預けられたのだろうと思います。<br><br>今となっては、育児休暇をとりもう少し子育てに専念したほうがよかったのではないかと思いますが、もしかしたら職業柄・時代・年齢などの理由ですぐに仕事復帰しなければならない状況だったのかもしれません。<br><br>保育園時代は、さほど苦ではなかったように感じます。というのも、当時はまだ当然のように、親はわたしを愛してくれているのだと信じて疑いませんでした。<br><br>今思えば、当時からおかしい兆候はあったのですが、それは後半で話すとして、父も母もまだわたしを見てくれていたのです。<br><br>父も母も、わたしと弟に毎晩読み聞かせをしてくれました。<br>家には子供向けの本が1000冊ほど並んでおり、毎晩なにを読んでもらおうか本棚に探しに行くのが大好きでした。<br><br>休みの日には4人でよく遊びに行きました。遊びに行くといっても、わたしには弟がいたので遊び相手は弟でした。2人でアスレチックや広場を走り回って、両親が見守ってくれていた記憶があります。「なんでパパとママははしゃがないの？」という子どもらしい疑問を持ちながら。それはとても幸せで、素敵な時間でした。<br><br><br>しかし同時に、悲しい記憶も思い起こされます。<br><br>わたしの母は、とても気分屋の人で、その日その時その状況によって、反応が違う人でした。<br>わたしは質問するのが好きでした。<br>質問すると笑顔で答えてくれるときがあります。でも、質問すると聞こえているのに無視することもあります。<br>わたしはお手紙を書くのが好きでした。<br>お手紙を渡すと喜んでくれるときがあります。でも、「ふーん」といった感じで相手にされないときもあります。<br>もちろん、母も人間なのでそのときの気分で態度が変わってしまうのはある程度は仕方のないことだと思います。<br>しかし、ある時はなにも言われなかったことがある時は怒られたり、ある時は褒めてくれたことがある時は相手にされなかったりを頻繁に繰り返されると、子どもは混乱し、歪んでしまうのです。<br><br><br>保育園には「居残り保育」なるものがあり、通常の預かり時間を超えてしまった場合、18時までなら延長料金を支払えば預かってもらえるというものでした。<br>わたしと弟は、居残り保育は当然、居残り保育の中でもお迎えは1番遅かったです。<br><br>毎日毎日、居残り保育のメンバーは変わりました。<br>みんなお迎えが早いときもあれば、ちょっと遅れるから居残り保育だというときもある風でした。<br><br>毎日居残り保育にまで残るのは、わたしと弟、そして親御さんがお医者さんをしている男の子だけでした。<br>わたしはおうちが好きで、朝は行きたくないと泣き、夕方はとにかく早く迎えに来てほしいと思っている子どもだったので、1人1人お迎えがきて子どもが減っていくのはとても寂しかったです。<br><br>寂しかった、という言葉だけでは片付かない日もありました。<br>18時になっても母が迎えにこないのです。<br>わたしは、迎えにきてくれなかったらどうしよう、どうしたんだろうと、いつも以上の寂しさを感じるとともに、幼心に親へ憤りを覚えました。<br>「なんで来ないの？保育士さんたちにメイワクだよ」と、わたしと弟がいるせいで自分の家に帰ることのできない保育士さんたちのことを思ったのです。もちろん保育士さんは不満など口にしませんでした。あたたかい笑顔で、「ちゃんとくるから大丈夫だよ」と励ましてさえくれました。<br><br>母が息を切らして迎えに来たのは18時45分頃のことだったと思います。あんなに腹を立てていたはずなのに、母のその姿を見て、「あぁ愛されているのだ」と感じました。怒りが吹き飛び、ちゃんと迎えにきてくれたことに喜びを感じました。<br><br>わたしはとてもおしゃべりな子どもだったので、母に質問攻めをするのが好きでした。<br>母と父が難しい仕事の話をしているときも、割って入り「○○ってなに！？どういうこと！？」「ねーえー！ねぇってば！」と、答えてもらえるまで叫び続けるのです。<br>それがあまりにもうるさいので、母が「今パパと話しているから静かにしてね」と言うと、その途端わたしは不機嫌になります。「なんで？何度も質問してるのに答えてくれないのが悪いんじゃん」とふてくされるのです。もう母なんて嫌いだ、一生話してやるもんかと心の底から思うのです。<br><br>でも、母と父の会話が終わると、いてもたってもいられなくなって結局自分からまた口を開いてしまいます。そして、母が反応してくれると、その途端嬉しくなって、やはり怒りなど吹き飛んでしまうのです。<br><br>少しずつ、でも確実に、わたしは少しのことで母を憎いと思ったり、世界で1番好きだと思ったりの極端な変化を繰り返すようになっていきました。<br><br><br>また、これは母の性格的な問題であり、わたしを愛しているか否かとは別問題なのかもしれませんが、わたしの母は娘に「可愛らしくいてほしい」という願い、配慮がなかったように思います。<br>例えば、女の子ならかわいいお洋服を着て、かわいい髪型をして、かわいいお弁当を持つのが理想です。実際に、毎朝お母さんに髪を結ってもらう子や、タコさんウィンナーやキャラ弁を持ってくる子(お弁当は遠足のときなど特別な日だけなので特に)がほとんどでした。<br>でもわたしは、たまにわたしから頼むとめんどくさそうにシンプルなツインテールにしてくれるだけでした。ほとんどはそれすらしてくれず、髪を伸ばしたいと言ってもおかっぱに切られるほどでした。お弁当も、大人から見ても質素なもので、塩すらついていないきゅうりを切っただけのものやパサパサになったパスタが入っていたりしました。お弁当を見せ合ったり交換したりする女の子特有の時間は、ちょっぴりつらかったのを思い出します。<br><br><br>わたしは保育園からの帰りの車の中で、弟と一緒に、母に質問しました。<br>「100万円でわたしのことほしいって言った人がいたらどうする？」<br>「1億円だったら？」<br>覚えたての単位で母に尋ねました。<br><br>「きゃりと○○は、たとえ1億円払うって言われても誰にも渡さないよ。大切な子どもだから」<br><br>わたしは衝撃を受けました。<br>わたしはまだ馬鹿な子どもだったので、1億円なんて大金を手にできるならなんでもやって当然だと思ったからです。<br>1億円もらっても売らないという答えに、わたしと弟は信じられないといった口ぶりで、興奮しながら「なんで！？なんで！？」と騒ぎました。<br><br>今思い返してみても、こんなに愛のある言葉を母からもらったのは、あとにも先にもこれっきりです。<br>嬉しいという気持ちはなく、ママ変なの、という気持ちしかなかった当時のわたしは、あまりにも贅沢で無垢な子どもでした。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11906504017.html</link>
<pubDate>Fri, 08 Aug 2014 00:13:20 +0900</pubDate>
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<title>ブログを書くにいたった経緯について</title>
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<![CDATA[ はじめまして。きゃりと申します。<br><br>このブログをはじめたきっかけは、半年ぶりの帰省です。<br>わたしは昨夜、久しぶりに実家に帰りました。<br>普段は都内で一人暮らしをしており、学生生活を楽しんでいます。<br><br>しかし、今年度になってから卒業論文のことについて、ゼミの先生と話し合いを重ねてきました。<br><br>「この職業に就こうとしている人で、あなたのような過去を持っている人はとてもめずらしいことです。ぜひその経験を自分自身でまとめて、卒業論文として発表してみたらいかがでしょう。」<br><br>先生はわたしにそうおっしゃいました。<br>わたしは教師を目指しております。先生の言うわたしの「過去」とは、学校へ行かなかった、いわゆる不登校経験のことを指しています。<br><br>不登校の子どもをいかにして学校復帰させるかという研究論文はたくさんありますが、不登校だった本人が自ら教育者としての側面で書いた論文はなかったからでしょう。<br><br>もちろん、先生は「あなたがもう過去の出来事だと割り切れていて、立ち直れていたらの話ですけれど」とおっしゃいましたが、それは「当然立ち直っていることでしょうけれど」という意味合いを含んでいました。<br>「もちろん立ち直っていますよ」それ以外の言葉は想定していないようでしたし、わたしもそう答えました。<br><br>確かに、わたしは今、毎日学校へ通っています。<br>高校3年生のときは皆勤賞をとりましたし、大学へ進んでからも休んだ授業は片手で数えられるくらいです。そういった意味では、わたしはもう不登校を克服し、過去のこととして受け止め、またその出来事を体験化・言語化して他者へ語ることも可能でしょうと思います。<br>自分が不登校だったという事実を周囲に意図的に隠すこともありませんし、聞かれたことには答えることもできます。<br><br>しかし、平気そうに話すわたしを見て、さらに詳しく聞こうとする人がいます。<br><br>「どうして不登校になったの？」と。<br><br>わたしは困惑し、動揺します。<br>聞かれたくないわけではありません。ただ、その質問をした人の言葉と、わたしが答えるべき言葉の重さがあまりにも違うのです。<br><br><br>「いじめられたからだよ」と答えれば簡潔でしょう。相手の求めていた程度の返しです。もしかしたら、どうしていじめられていたのか、どんないじめだったのかをより詳しく聞いてくるかもしれません。それならその質問１つ１つに答えていけばいいのです。<br><br>病気だったから、勉強ができなかったから、どれも同様です。<br><br>しかし、わたしは違います。<br>わたしはいじめられてはいませんでした。体力はあまりありませんでしたが、病弱でもありませんでした。成績も、下がり傾向ではありましたが勉強は苦手ではありませんでした。<br><br>どうしてわたしが不登校になったのか。<br>それにはいくつもの理由が複雑にからみ合っていて、とても一言でまとめられるようなものではないのです。そして、それは今でもわたしの中で整理の付かないことなのです。<br>強いて言えば、わたしの心の闇に最も影響を及ぼしているのは家族関係でした。<br><br>ですが、なぜ不登校になったのかを問う人に、「家族といろいろあってね」というのもおかしなことだと考えています。質問した人も戸惑ってしまうでしょうし、仮に詳しく聞く体勢に入られても、どの程度の重さで語ってよいのか、どの程度のボリュームで語ってよいのか、わたし自身わからないのです。そして、核心に触れようとすると、自分でもおどろくほど容易く、言葉がつまり、涙があふれてしまうのです。<br><br>だからいつも、「いや、うつ病になっちゃってさぁ」と言ってその場をやり過ごします。質問してきた人も、「そうなんだぁ」と言ってそれ以上聞いてこないことがほとんどなので、そこでやはり詳しく話さなくてよかったと安堵し、同時に、やっぱり誰にも理解されないのだ、聞いてもらえないのだと悲しくもなるのです。<br><br>つまり、わたしはまだ立ち直っていないのです。だって自分が受けてきた心の傷を、いかにしてわたしという人格が育ってきたのかを、誰にも話す力がないのだから。<br>わたしは今でも、また不登校になるのではないかという恐怖と戦っています。不眠症は6年以上経った今でも治りません。それでも過去、そして今と向き合えないまま、今を生きています。<br>生きにくいと感じます。なんとか過去のけじめをつけなければと思います。そのために、わたしがするべきことは、「こころの整理」なのだと思いました。<br><br>わたしが生まれてから今まで、どんな育てられ方をして育ってきたのか。お母さんはどんな人で、お父さんはどんな人で、兄弟はどんな人なのか。<br>思い出したくないことも、もう記憶から消してしまったつらい思い出もあります。それもこうして書くことによって、受け止め、整理していくことができるのではないかと考えています。<br><br>わたしが自分のこころを整理できたとき、わたしはようやく本当のわたしとして自分自身を認め、生きていくことができると思っています。長年積み重なってきたこころの真っ黒なものを吐き出していくのは容易ではないでしょう。それでもわたしはわたし自身のために書き記していこうと思います。今ならもう、それができると思うからです。先生が与えてくれた、逃せないチャンスだと思うからです。<br><br>もちろん、誰かがわたしの話を聞いてくれたらとても嬉しいことです。でもこのブログはわたし自身のために語りかけるものでありますので、とても乱れて稚拙なものです。読んで楽しくないのはもちろんですが、参考にもならない記事です。ですがどうか、もしも見てくださる方がいるのなら、あたたかく見守ってほしいと思います。
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<link>https://ameblo.jp/callymoccori/entry-11906479978.html</link>
<pubDate>Thu, 07 Aug 2014 21:49:59 +0900</pubDate>
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